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リーダーのためのアラン哲学
 
第9章 危機に臨んで

物事はすべて順風満帆というわけにはいきません。事業にはかならず困難な局面、危機的な局面を迎えるときがあります。そうならないように日頃から対策を講じ、備えをしておくことはリーダーのつとめですが、どうしても避けられないアクシデントが発生することもあります。そのようなとき、リーダーは冷静沈着に、最適の指揮をとらねばなりません。危機的な状況のときこそ、リーダーとしての真価が問われます。アランは、危機的な状況を迎えたとき、誰でもが生理的にパニックに陥ると考えました。人の体質や気質にもよるでしょうが、びっくりしたときの人間の生理状態は誰でも同じようなものです。アランは混乱した状態の中で、リーダーが自己の精神をどのように回復すべきか助言してくれています。

 

81.正しくこらえねばいけない困難な瞬間が生じるとき、そのときひとりでにすらすら進む職業を探し求めるなら、彼はすべてを見放す。だが、そんな職業は存在するものではない。(知恵について「行為の原理」)
  仕事の種類を大きく3つに分けることができます。第1種の仕事はルーチンワーク。第2種はプロジェクト・タイプの仕事、第3種は突発的課題に対する仕事です。
  第1種のルーチンワークは仕事の方法が決まっていますので、教えてもらえば原則として誰にでもできますし、長くやっていれば習熟することができます。ルーチンワークは毎日の仕事の大部分を占めており、付加価値を生産するもっとも重要な、基礎的な仕事です。だからルーチンワークは個人能力の格差が大きな仕事の差にならないように作られています。

 第2種のプロジェクト・タイプの仕事は所定の期間、所定の目的にもとづく計画行動です。これは新しいシステムの導入とか、新製品の開発など反復性のない特別の任務をさしています。このタイプの仕事を実行するためには、そのつどやり方を考えなければなりません。習い覚えたルーチンワークを実行するのにくらべると仕事はずっと難しくなり、個人差が顕著になります。
  これに対して第3種の仕事は、予想していなかった事態に対する対応です。これは災害や事故など、まだ誰も対処したことがなく、当事者にも準備も心構えもできていない仕事であることがしばしばです。この仕事は程度によりますが、もっとも難しいものです。
  もちろんルーチンワークの仕事の中にも、プロジェクト・タイプの要素が含まれますし、突発的な条件が含まれることは少なくありません。そこで組織の中の上位職や経験者が、未経験な人を指導するわけです。しかし上位職になればなるほど、プロジェクト・タイプの仕事、あるいは非ルーチン的な仕事の分担割合が増えます。

 リーダーのねうちは、第三種の仕事への対応能力によって決定づけられます。たとえば大幅な事業計画の実績との狂い、現場における予想外の事故、顧客からのクレーム、あるいは係争の発生、これらはいずれも突発的な課題としてリーダーの前にあらわれます。場合によっては会社の予想外の業績不振が課題となることもあります。
  「リスクマネジメント」とは、これらの突発的な課題の発生を、マネジメントの仕事の一部として予想し、これにうまく対応することです。リーダーの仕事には、第一種と第二種の仕事の管理だけでなく、この第三種目の仕事がもっとも主要な部分として含まれています。リーダーを引き受けるとは、この第三種目の仕事を引き受けることを意味しています。リスク対処に対する報酬は、はじめからリーダーの給料の中に含まれていると考えるべきでしょう。

 
 

82.嫌悪されない職業など、まだ職業の数ではない。(知恵について「行為の原理」)
  リーダーは弱音を吐いてはなりません。けれども現実には弱音を吐いているリーダーはいくらでもいます。考えてみれば、人が上位職を希望するのは、人に指図されずに自由にやりたいからです。ところが完全に自由裁量できる仕事などありません。
  脱サラをする人は、「もう、人に使われているのはこりごりだ」と思います。ところが独立して仕事を始めてみると、得意先がいままでの上司に相当するものであり、いままでの上司以上にきびしい存在であることが分かります。要するにビジネスを続けようと思うなら、得意先の無理難題を聞かなければなりません。

 中間管理職も立派なビジネス・リーダーです。ところが中間管理職には職務上のメリットは何一つありません。部下からはいろいろ苦情をいわれ、トップからは責任を追及されます。「君は部門のリーダーではないか」などと叱られたりすると、「とてもやっていられない」と悩む管理職は少なくないでしょう。中高年の病気は、ほとんどこのリーダーとしての責任や義務のストレスから生じているといわれています。
  だから「こんな仕事いやになった」というとき、いよいよリーダーとしての本当の仕事が始まったのだということができます。つまり、仕事が面白くて仕方がないうちは、まだよく分かっていない可能性があります。「どうやら自分には才能があるらしい」などと思っているうちは、本当の問題にぶつかっていないのです。

 そこでアランは「嫌悪されない職業など、まだ職業の数ではない」といいました。仕事は最初は難しいものです。しかし初期段階を過ぎると面白くなります。次に真の問題がやってきます。このとき人は壁に当たります。その壁との戦いが本当の仕事です。
  リーダーシップに関する仕事は、その地位が高くなればなるほど、人間社会の不合理な側面に接触する機会が増えます。総会屋に資金を提供して責任を追及されたトップにしても、その立場にならなければ本当の問題を実感できなかったに違いありません。だから地位が高くなると「こんなことは知らない方がよかった」と思うことだってあるのです。接触する人間や状況が多様になる以上、不愉快な課題に直面するのもいわば当然のことなのです。
  仕事の面白さと苦痛は一対のもので、切り離すことができません。「中間管理職」はリーダー職の本質を体現しています。つまり、中間に立っていないリーダーなど一人もいないのです。要するにリーダーは義務と責任だけが大きく、メリットのない仕事です。あなたはこの道を進むことを決めたのですから、いまさらブツブツいってはなりません。

 
 

83.ハンドルをつかみ曲がり角にさしかかっている人に「道路なりに回ったり穴のためにひっくり返るのはやむをえない。君のせいじゃないよ」ということは、気のぬけた話である。無意味な、危険でもある話だ。(知恵について「自由の学派」)
  失敗にもいろいろあります。ゲームでの失敗はどうということもありませんし、むしろそれが面白いからこそゲームが成り立つのだ、といっていいでしょう。スポーツ選手の失敗も、許される失敗の内に入ります。たとえそれが一国の威信をかけた試合のような場合でも、一方が勝てば一方が負けますが、負けたからといってどうということもありません。
  健全なスポーツであればあるほど、失敗は速やかに忘れられます。たとえ当人はそのときひどく傷ついたとしても、それが生死にかかわる、などということはありません。失敗はしたがベストを尽くしたという記憶は、勝利の思い出と同じほど価値があります。

 学校での成績もどうということのないもので、先生に叱られたり、期末試験に失敗しても、命に別状はありません。学生生活は、原則として生活に直結しているわけではないからです。修行中の学生は失敗を通して学んでいるのです。
  ところがビジネスでの失敗はゲームやスポーツの失敗、あるいは学校のテストにおける失敗とはわけが違います。アランがここで説明しているように、それは車を運転しているときの失敗に似ています。不注意や判断ミスによる多少の損失は埋め合わせがつくかもしれませんが、不渡りや倒産や致命的な法律違反などの失敗は取り返しがつきません。
  このような失敗には慰めがありませんし、いいわけも通用しません。それに大きな損失については、償いの方法もないのです。それはビジネスが私たちの生命原理に直結する経済のテーマだからであり、ビジネスで「うまくやる」とは「生きること」にほかならないからです。

 何かで怖い思いをしたとき、私たちは「ああ、寿命が縮まった」といいます。けれども資源の枯渇に結びつくリスクは、もっと決定的に平均余命を短縮させます。だから、どこかで倒産が発生しているとき、関係者の平均余命があきらかに短縮されているのです。ビジネスで債権者に迷惑をかけるということは、債権者の余命を何年分か奪ったということと同じです。
  かりに産院で看護婦が不注意のために赤ちゃんを取り落として死なせたとしたら、その責任の償いようがないほど重いものでしょう。ビジネスにおけるリーダーの立場は、複数の赤ちゃんを抱いている看護婦にも似ています。ここでは何パーセントの確率で赤ん坊が床に落ちるとか、何パーセントなら仕方がないとか、最近何パーセント改善されている、などという考え方はまったく通用しません。要するにいっさいの失敗が許されないのです。

 
 

84.すでに破壊はなされてしまっており、過誤はなされてしまっており、借金はなされてしまっている。(人間論「女性の思想」)
  現状についてぶつぶついっても始まりません。事態はすでに発生しています。生まれて気がついてみたら家が貧乏だった。しかしどうなるものでありません。気づいてみたら自分にはあまり才能がなかった。しかしどうなるものでもありません。
  現在の配偶者と結婚していることも、会社に負債があることも、顧客からのトラブルが発生していることもすべて事実であり、これをなにもかも御破算にしてやり直すということはできません。現状からの出発、これ以外にありません。
  そこでアランは「行動には男らしい知恵が必要である。すなわち、何とか事実を受け入れ、自分の目をふさがず、非難をかえさず、とりかえしのつかぬことについてとやかく思案したりせぬ知恵である」といったのです。

 ここで私たちの取る態度には2種類あります。ひとつは「与えられた事実としてこれに従う」というやり方と、「与えられた事実を自分の課題として取り組み直す」というやり方です。
  どちらも事実を事実として受け入れる点では同じですが、一方は「運命として甘受する、あるいは諦める」というのに対して、もう一方は「ひとつおれが解決してやろう」といって前向きに立ち向かう態度です。
  これに関してアランは「対象は与えられたものではない。それは、措定され、推測され、考えられたものである」ともいっています。私たちがある問題を真剣に考えようとするとき、その問題は私自身によって取り上げられ、私の手の中にあります。その課題の主役は私であり、解決のカギをほかならぬ私が握っているかもしれないのです。

 これに対して消極的な人は「こんな事態を招いたのは私ではない」「私には責任がない」「なんでこんなことまでやらなければならないんだ」「誰かがやってくれるだろう」という具合に考えてしまいます。しかし「私の責任でない」といったところで、事態が解決されるわけではありませんし、不利な状態から脱出できるわけではありません。
  リーダーはこのような消極的なタイプの人間であってはなりません。リーダーとは普通の人よりも「これは私の課題」と考える、その領域が大きい人のことなのです。あなたはリーダーを引き受けたときに、もろもろのトラブル、取り返しのつかない状況を同時に引き受けたからです。要するにあなたがリーダー職を引き受けたとき、「すでに破壊はなされていたのであり、過誤はなされていたのであり、借金もなされていた」のです。

 
 

85.自分で倒れそうだと思えば倒れるものだ。もし私がなにもできないと思えば、私はなにもできない。(幸福論「楽観主義」)
  酔っ払いの状態にもいくつかの段階があります。本当に泥酔して、わけが分からなくなる状態もあるにはありますが、たいていの酔っ払いは自分の状態を自覚しており、実際の感覚の麻痺や気分の高揚に加えて、自分でも酔いの演技をしているものです。
  この意味で「しらふ」とは、なぜか酔った演技をしにくい状態のことだといっていいでしょう。これでお分かりのように、人間はなかなかの役者なのです。
  ところで、私たちが得意とする演技の一つは「敗北者」の演技です。「どうせ俺はだめなのさ」「しょせん私にはむいていなかった」「運が悪かった」「状況が悪すぎた」「おかげで――させられてしまった、いまさらどうにもならない」などは、敗北演技をするときに私たちが愛用するせりふです。

 こういうせりふの原形を探すのは少しも難しくありません。「しょせん畳の上では死ねねえ体」「はてさて哀れなさだめじゃなあ」「思えばはかない身の上じゃなあ」とくれば、これはみな歌舞伎の中で、役者たちが多用するせりふです。私たちはこれらの名文句を無意識のうちに覚えていて、少々状況が不利になってきたときにさっそく役者の真似をして「敗北者のせりふ」を使ってみるわけです。
  もちろんまだ完全に負けているわけではないのに「負けた」「もうどうしようもない」というのは、一種の自己弁護にすぎません。それは敗者として周囲のいたわりを期待する演技であり、自分に対する慰めでもあります。しかし、人間は敗北を演技するとき、実際に事実よりもずっと早くに敗北を選択しているのです。

 「もう、どっちみち約束の時間には間に合わない」「今月の売上計画はもう達成できない」というとき、私たちはこの敗北宣言によって時間の約束や売上の約束を反故にすることを選択し、決意しているのです。敗北宣言は敗北の選択と同じなのです。
  だからアランは「自分で倒れそうだと思えば倒れるものだ」といったのです。ではリーダーにとって、敗北を演じる悲劇役者は果たして似つかわしいものでしょうか。もちろん似つかわしくありません。それどころかこのような人は有害でさえあります。悲劇の主人公を演じたいなら、あなたはリーダー職をやめて、役者として劇団に身を投じるべきです。
  結果は最後までやってみなければ分かりません。リーダーは演技するなら、敗北者をではなく、勇敢で工夫にとんだ英雄的人物を模倣すべきです。

 
 

86、要するに自分のことを考えてはならない。(幸福論「他人の不幸」)
  たいていのリーダーは人前で話すことが上手です。けれど世の中には人前で話すことがどうしても不得意だという人もいます。人前での話が不得意な人、あるいは不慣れな人に共通して見られるのは、「自意識の過剰」です。
  このような人にとっては、自分がどう見られているか、自分がどう評価されているかがひどく気になります。彼は話しながらも、話している自分を観客の立場から批判しつつ見ることになります。これでは話がスムーズにいかないのも無理はありません。
  「あの人に聞かれていると話しにくい」などということがありますが、自意識が過剰な人は、たえず「自分」というもっとも話しにくい聞き手を目の前に置いてしまっているわけですね。

 しかし人前で話す人には話すべきことがあります。話すという仕事に固有の目的があります。だから本当に話したい人は、自分がどう見られているかなど少しも考えません。彼は自分のいっていることが相手に分かっているかどうかを考えます。つまり自分のことではなく、聞き手の関心と理解の程度に注意を払います。
  このことはセールス活動を行なうときでも、相手にサービスをするときでも同じです。少なくとも相手がいる仕事については、自分がどう見られているかなどを考えるのではなく、相手に対して役立っているか、相手が満足しているかどうかを配慮することの方が重要です。そして相手を配慮したときの方が物事がうまくいきます。
  仕事全体に取り組む態度についても同様のことがいえます。「上司にどう見られているだろうか」ということばかり考えながら仕事をしている人よりも「どうしたら会社全体としてうまくいくだろうか」「顧客に喜ばれるか」と考える人の方がはるかに有能で説得力があります。

 ときおりリーダー格の人の「公私混同」や「背任行為」が問題になります。これらの行為に共通しているのは、会社の業績や仕事の本来の目的よりも「自分個人が得をするかどうか」の方に強い関心がいっているということです。これは業務における自己利益に関する意識の過剰です。
  もちろん仕事は結局自分のためにするのですから、自己利益、つまり自分の給料や自分の財産を考えない人はいません。しかしそちらをいつでも優先的に考えようとすると、共同でする仕事のルールがおろそかになる可能性があります。まず共同の利益があり、ついで自己利益、これが組織的なビジネスにおける鉄則です。 
  そこでアランは、仕事のつとめを立派に果たすためには、「要するに自分のことを考えてはならない」といいました。仕事とはまずもって他人のために何かをすることだからです。

 
 

87.聖書の中に、樹木たちが樹木たちの王を探しにでかけた話がある。‥すぐ気がつくことだが、この話はまったくもって信じがたいものである。またそれゆえにこそ、人はこれを好みもするわけだ。(神々「暗喩について」)
  人は困りごとがあると、課題をやすやすと解決してくれる人物に頼りたくなります。そこで、有名な上場会社が総会屋に解決を依頼する、などということが起こります。また依頼する相手が政治家であったりすることもあります。
  旧約聖書の中に次のような話が出てきます。樹木たちが集まって、仲間を統率するためには王様が必要だということで相談がまとまりました。誰を王様にするかという話になり、樹木たちはオリーブの木がいいということになりました。
  そこでオリーブの木に「私たちの王になってください」と依頼しました。オリーブの木はこういいました。「私には油を作るという大切な仕事がある。この仕事をほったらかして誰が手を振りに出かけたりするものかね」。「手を振る」というのは、指導者たちが演説したり、指揮するときに手を振る、というしぐさのことを指しているのでしょう。

 オリーブの木に断られた樹木たちは、いちじくのところへいって頼みました。しかしいちじくも断りました。次にぶどうの木に依頼しました。しかしぶどうの木も「お断りだ」というあいさつです。いちじくもぶどうも、古代の人々にとって有用で大切な木です。
  樹木たちは最後にいばらの木のところへいって「王様になってください」と頼みました。いばらの木は「それほどいうなら引き受けようじゃないか」といいました。樹木たちは、自分たちにリーダーができたといって大喜びしましたが、いばらの木はとんでもない暴君で、仲間に絶対服従を要求し、森林の中にはびこり、仲間の樹木を苦しめました。
  この逸話の教訓は何でしょうか。それは課題を自分たちの手で解決しようとせず、安直に誰かに解決してもらおうとしてはいけないということです。依頼する相手を間違えると、助っ人があなたの主権を侵害する可能性があるということです。

 「頼る」と「相談して解決情報を得る」を間違えてはいけません。頼るということは、リーダーがやるはずのマネジメントをまかせることです。これはリーダーとしての機能と地位を明け渡すことなのです。だからまともな相手なら相手の弱みにつけ込むようなことをしません。またそれぞれに仕事や役割があるからです。
  むしろ立ち入った助力、超法規的な助力をしようとする人を用心しなければなりません。リーダーとしては、たとえ苦しくても自力で問題を解決するという精神が重要でしょう。

 
 

88.何もかもまずいとき、戦うものは己を知り自己を集中するのだ。またこのときこそ彼は自分自身が必要なのだ。(知恵について「勇気」)
 誰でも物事がうまくいっているときは体調がいいものです。これに対して状況が悪く、ものごとが裏目に出ているときには健康が悪くなります。ストレスが健康を損ねてしまうのでしょう。
政治家や有名人などにスキャンダルが発生し、司直の手が伸びると、これらの人物は決まって病気静養などといって入院します。面会謝絶のための口実かもしれませんが、実際ストレスのために体調がおかしくなっているに違いありません。
  ビジネスマンの健康にとってもっとも好ましいのは順調に売上、利益が上がり、多忙でいい話が次々と入っているようなときです。このようなときリーダーが病気になることはまれです。

 これに反して業績がどんどん悪化して、クレームに次ぐクレームが発生しているようなとき、どうしても計画を達成できそうもないとき、マネージャーは文字どおり胃が痛む思いをします。そしてこれは本物の病気の前触れです。
  ビジネスが順調なときは、問題があっても大事には結びつきません。ところが調子が狂ってくると仲間割れが生じたり、裏切りが出てきたりします。会社の資金繰りが苦しいとき、銀行は急に慎重になりはじめます。
  会社の業績が思わしくない、どうも不振を打開できない、このままでは会社は行き詰まってしまう・・。こんなとき、経営者は外部に援助、支援を求めたくなります。銀行や、出資者や、仕入先や、友人や知り合いなど。もちろんこれはおそらく事態打開のための必要条件でしょう。

 けれどアランはそのようなときこそ、「自分を頼りにしなさい」といいました。外部の人々が頼りにならないからではなく、先ず自分を頼りにしなければならないからです。他人があなたを助けるのではなく、あなたが助けるのです。外部の人はあなたに少しばかり手を貸すだけです。
  医者が病人を治すのではありません。「健康」を約束できる医者など世の中に一人もいません。健康を作るのは本人です。医者はアシスタントにすぎません。アランは嵐で難破した古代の賢者を紹介しています。この賢者は船を失い、荷物を失い、すっ裸で陸に上がって叫びました。「ばんざい、まだ私が残っている」。
  自分が自分に対する最大の支援者であるということ、リーダーにとってこれほど大切な考え方はありません。なぜならリーダーはその判断力、その生命力が他人よりもすぐれているからこそリーダーなのですから。最初から誰かを当てにしなければ生きてゆけないようなリーダーは、リーダーではありません。

 
 

89.ここにいたって、何を置いても自分の財産を立派に管理しよう、それで困ることになろうとも、またどっちつかずに放任しておく方が利益であろうとも、というあの農民の知恵が、何を意味するか分かるはずだ。(精神と情念に関する81章「再び正義」)
  ユダヤ人に語り伝えられている寓話として「ミルク壷に落ちたカエル」の話を読んだことがあります。2匹のカエルがミルク壷の中に落ちて這い上がれなくなりました。一方のカエルは「もうだめだ」といってあきらめて死んでしまいました。
  一方のカエルは助かろうとして必死に手足をばたつかせていました。ミルクはカエルの手足のばたつきのために次第に固まってクリームになり、しまいにはバターになりました。そこでこのカエルは壷から這い上がることができたというのです。
  これはどんな事態になってもけっして諦めてはいけないということを意味していますが、それ以上に、ともかく「行動する」ということの必要性を暗示しています。カエルにはミルクが攪拌されると、その性質を変えるということまでは分かりませんでした。恐怖のあまりやみくもにあがいていたら、環境が多少変化してきたというわけです。

 リーダーの仕事の本質は、集団の維持に必要な固定費をまかなうことです。しかしどうしても固定費をまかなうための粗利を調達できないことも生じます。粗利調達の見込みがあれば借入を増やすのも結構でしょう。借入が可能なうちは見込みがあるともいえます。けれども先行きが絶望そうにみえるとき、どうしたらいいのでしょうか。下手に活動しない方が費用がかからなくていいということさえ生じます。
  このような状況に対するアランの忠告は、「ミルク壷のカエル」の寓話に近いものがあります。アランが指摘している「農民の知恵」とは「勤勉」ということです。これは継続的な、前向きの行動を意味しています。いずれにしても粗利が固定費に満たないならば、固定費の圧縮は手段のいかんを問わず必要になります。打てる手をすべて打つことが必要になるでしょう。

 しかしながら、「働こうという意欲」と「勤勉」とが失われているときには、どんな組織も存続することはできなくなります。そしてアランにいわせれば「意欲がある」ということはその行動を継続しているかどうかだけで知ることができるのです。
  一生物として私たちの営みを見た場合、私たちの行動はミルク壷の中のカエルのあがきとどこも変わりません。そのあがき方がスマートであるか、多少とも余力があるか、その結果どのくらい長生きできるか、が違っているだけで、要するに「あがいている」という状態に変わりはありません。限界的状況では、「生きよう」とするものだけが生き残る可能性を持つのです。

 
 

90.だが私には、諸君がせかせかしていて何かに束縛されているのが分かる。だから、大理石に碑銘を刻みつけるように、大文字で書いてみなさい。(教育論「55」)
  危機感にも程度があります。集団に対する危機の徴候ははじめは小さなもので、一部の、予知能力を持った感度の鋭い人にしか分からないものです。トロイの王女カッサンドラはギリシャ軍が残していった木馬が危険なものだと人々に警告しました。けれど彼女の警告は無視され、木馬は城内に運び入れられました。その結果トロイは滅ぼされてしまうのです。
  どの集団にも一人や二人のカッサンドラがいるもので、彼らが危険を察知し、警鐘を鳴らしますが、たいてい大多数の人々に無視されてしまいます。リーダー自身がカッサンドラ的な予知能力を持っている場合もあります。その場合リーダーのスピーチは「これから大変なことになる」「きびしい時代になる」という部下への警告となりますが、これも毎日、毎回ということになると効き目が薄れます。これを「オオカミ効果」といいます。部下にしてみれば、「また社長のお得意が始まった」という調子で、問題を真剣に考えなくなります。

 リーダーとして来るべき危機を察知できることは大切なことです。しかしそれをどのように防ぐかが課題であり、どう乗り越えるかが課題です。カッサンドラには「危険が来る!」と叫ぶことしかできませんでしたが、リーダーには叫ぶこと以外にできることがたくさんあります。部下に共通の危機感を持たせるというのは、対策の一つにすぎません。
  自分があわてふためき、大声で叫び、落ち着きなく右往左往する様子を見せる、これが一番いい解決方法ならそうすべきでしょう。けれど無視していいことは無視し、沈黙すべきときは沈黙し、語るべきときに語り、先を読んで、必要と思われる手を打ち、所定の港に、所定の期日に船をつける、これがリーダーに求められている仕事ではないでしょうか。
  そのためにはまずもって自分自身の情念をコントロールし、いかなるときにも平常心を失わないようにしなければなりません。

 アランは「私は動揺する人々を危惧する。私は、政治においても大理石のような人々を望みたい」といっています。またここでは「大理石に碑銘を刻みつけるように」といっていますね。リーダーにとっての危機はつねに外的なものです。しかしこの外的な危機を内的な危機、つまり自身の動揺に置き直してはいけません。
  「大文字で書いてみなさい」とアランはいいます。リーダーの言葉は小文字ではありません。大文字です。コチョコチョ書いて何度も消しゴムで直すようなものではありません。「ゆうゆうと確信を持って」、危機のときほどリーダーにはこの精神が求められるのです。

 
   
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