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リーダーのためのアラン哲学
 
第10章 リーダーの人格と教養

 リーダーの機能は一般の会社にあっては経済的成功を作り出し、これを維持することにあります。だから世のため、人のために役立つことが必要なのです。しかし集団がある程度の経済的な機能を果たせるようになると、単に「生きること」ではなく、「よりよく生きること」が求められるようになります。人間の集団は昆虫や動物の集団ではありません。すべての人々が「よりよく生きること」を目指しています。リーダーの人格と教養が問題になります。組織の風土、文化はリーダーの人格と教養によって規定されます。金銭以外に尊敬するものはなく、人間そのものについての理解も尊敬もないリーダーが率いる集団は貧しい集団です。アランはリーダーに人間らしい人間、思想的に奥行きのある人間を期待しました。これは誰もが期待していることでもあります。

 

91.転がるものを追いかけて走るやり方は犬にまかせておこうではないか。(文学論「会話は 人間をまったく薫陶しない」)
 私たちはみな新しい物好きです。新技術、新製品、ニュートレンド、これらに無関心でいられません。会社のトップやリーダーたちも概して新しい物好きです。彼らのカバンの中には、いつも新刊書や雑誌の最新号、そして最新の電子手帳や携帯電話などが入っています。
  私の見るところ、このように新しいことに関心を持ち、たえずこれを追いかけているような人の方が経営活動に熱心であり、勉強家です。少なくともトレンドに鈍感な人よりもはるかに優秀なマネージャーです。このような人々が新しい時代を形成していることは間違いありません。
  では新しいものに敏感なこれらのリーダーたちが、本当に人間的に魅力的でしょうか。これについては大いに疑問があります。

 アランは、どちらかというと現場で汗を流して働く技術者や労働者に親しみを感じていました。彼のいうプロレタリアを愛していたのです。しかしアランはこれらの人々についてはっきりいいました。「不幸なことに、これら実際家たちには見識とか教養といったものがほとんどない」。私は現代のマネージャーたちについて同じことがいえるように思えてなりません。
  なるほど、新しいトレンドに敏感であることも見識と教養の成果であり、新しい技術や製品の名前をよく知っていることも教養の一種かもしれません。しかし私にいわせれば、それは中学生たちが、あこがれのアイドル歌手やその最新のアルバムについて熟知しているのと同程度の教養です。この手の教養はたいしたものじゃありません。

 教養とは批判精神のことであり、自分の頭で考える力を持つことです。一見新規に見えるものを観察し、用心深く構え、広告やマスコミによって押されるままには行動しないということです。また教養とは古典の教養ということです。「流行と不易」という言葉がありますが、「確固としたもの」「不易」なものの価値を知り、これを考慮に入れて行動しているということです。
  私たち人間は同じようなことを繰り返し行なっています。歴史的な教養は、歴史が自分たちの周囲でどのように繰り返されているかを教えてくれます。そしてこのことが「自分だけは特別」「現代人がいちばん偉い」という思い上がりを規制してくれるのです。 
  犬は転がるものを見ると、どうしてもこれを追っていきたくなるという習性を持っています。私たちにも動物として同じ習性があるのです。しかし犬と私たちの違いは批判精神にあります。最新のスーツに身を包み、最新の情報を頭に入れ、ハイテク新製品で武装した現代のリーダーよ。犬にならないようにご用心。

 
 

92.私が金銭に対して大いに異を唱えるのは、金持ちが馬鹿者であるからだ。これに頼ってものを見てはいけない。(経済随筆「第88章」)
  アランは「経済がすべての基礎である」といいました。この本もまさにこの認識、固定費の確保が何よりも優先するという考えからスタートしました。またアランは「金持ちになりたいものはなれる」といいました。しかしここではアランは突然「金持ちは馬鹿者である」といい出しました。これはどういうことでしょうか。それは金銭の収集にだけかまけ、自分の精神生活をなおざりにしている人々への警告です。
  優秀なビジネスマンとしての金持ちは尊敬されます。それは彼に経済力があるからであり、経済的な判断力がすぐれており、資源を動員する力を持っているからです。しかしそれは彼の一面のチャームポイントにすぎず、教養的な、あるいは思想的な、あるいは人格的な魅力を示すものではありません。金持ちだからという理由でその人に学問を教わる人がいるでしょうか。

 ところで、「金持ちにはビンボウ人がバカに見える」といわれます。巨万の富を手に入れ、ハイグレードな生活を享受している人にとっては、わずかの金銭を求めてあくせくしている一般人がさぞかし愚かに見えてしかたがないことでしょう。また苦境を抜け出す才覚がない人々を見て「何をやっているんだ」という気持ちが働くことでしょう。
  しかし自分に関する経済的な条件だけで満足できる人がいるのだとすれば、この人には何か欠けています。たとえばすべての判断が「いますぐ金になるか」どうかで決まるとすれば、環境や教育や福祉など、長期的で公共的な認識はどうしてもおろそかになります。
  ちなみに環境保護一つを取ってみても、一つの定見を持つには自然科学に対する基礎的な教養が必要ですし、歴史認識、未来社会に対する認識と倫理観が必要です。そこで、このような見識を持たず、ただ「自分の商売にとって有利になるかどうか」だけを考えるような人をアランは遠慮せずに「馬鹿者」といったのです。

 ビジネスは真剣勝負です。すべてを犠牲にし、持っている時間をすべて使って働いてもそれでも成功できるとは限りません。ですから、金銭のゲームであるビジネスに深入りをすると、そのことだけで終わってしまう危険性が大きくなります。つまり、ビジネスマンは文化的な素養や人間としての心の豊かさを忘れた「馬鹿者」になりやすいのです。
  経済的な基盤はあくまでも人間の下半身の備えです。下半身の基礎の上に、教養ある人格としての上半身を作らなければなりません。とりわけ人の上に立つリーダーは、下半身だけでなく総合的な意味で人間の完成を目指さなければなりません。自己実現は総合的なものなのです。

 
 

93.儲けることを考えることも確かに必要なことである。しかしここにとどまる限り、獣にすぎぬ。そうして彼らは、それを承知している。(経済随筆「第59章」)
  アランは「すべからく商業学校ではバルザックを読ませるがいい」と書きました。経営や、経済について学ぶのもいいが、質の高い文学に接し、人間としての素養を磨きなさい、といったのです。アランがわざわざ「バルザック」を示していることには大きな意味があります。バルザックは一九世紀フランスを代表する偉大な作家です。彼は市民革命後のフランスの市民の実生活を生き生きと描きました。
  彼の作品の中に経済人や経営者を取り扱った作品が多いことに注目する必要があります。たとえば「ゴプセック」「ウージェニー・グランデ」「セザール・ビロトー」などは、主人公が経営者で、彼らの成功や失敗が描かれています。
  たとえば「田舎医者」のような作品では、まずしい農村地帯が一定の計画のもとに次第に地場産業を振興してゆく様子が描かれていますし、「ゴディサール」の中では、地方を回るセールマンや、保険会社の機構などが紹介されています。このほかにも多くの作品の中で銀行家や金貸し、などが縦横に活躍します。

 経済、経営に関する、しっかりした小説が書けたということは、バルザックが、損益やバランス・シートについて並々ならぬ知識を持ち、実際の経済人の活動にも、鋭い観察の目を向けていたことを示しています。彼の小説には財産の増減など、細かな数字が出てきますが、ちゃんと数字の論理関係があっています。ありきたりの小説ではこうはいきません。
  「ウージェニー・グランデ」の中のグランデじいさんは、典型的な守銭奴です。彼は妻にけちけちお小遣いを与えますが、しばらくするとこれを取り上げてしまうほど徹底したけちです。彼はたくみな才覚で財産を増やし、巨額の現金資産を貯えました。最後に彼は、この大きな金庫の前に立ちはだかるようにして死にました。

 バルザックはグランデじいさんの徹底した禁欲ぶり、蓄積された手つかずの巨万の富を通して、人間の本質を問いかけています。私の考えではグランデじいさんは典型的、かつ理想的なビジネスマンの姿をあらわしています。彼は少なくともハンパじゃありません。
  グランデには何かが欠けています。それは何なのでしょうか。優秀なビジネスマンはグランデじいさんに似ています。だから「商科・経済系の大学でバルザックを読ませる」ということに、私は賛成です。少なくともバルザックはいいビジネスマンの条件を教えてくれると同時に、ただ儲けを考えているだけの経営者がどのように野蛮であるかを示しています。

 
 

94.負うている借金をたとえ支払うにしても、払い惜しみをすることは醜い。(知恵について「無謬の良心」)
  ビジネスは金銭収集のゲームです。だからむかしから「入るをはかりて、出ずるを制す」という単純な原理が尊重されています。これは売上を大きく拡大し、一方では費用を節約する、という意味です。利益は売上と費用との差額ですから、この格言は利益拡大の原理を説明しています。
  ところがこの格言の意味を間違えて解釈する人がいます。つまり、「入金を急ぎ、支払いを遅らせる」というように解釈するのです。これは資金繰りという面からは正解ですが、損益的にはさほどの意味がありません。

 ところで、資金繰りはバカにならないもので、ひとたび手形を不渡りにしてしまえば、ビジネスマンとしての信用は決定的に失墜します。そこで、「私は絶対に支払手形を切らない」という人も出てきます。このような人々は、どうしても支払いできないときには支払期限を一方的に遅らせる、という手段を留保しています。
  アランがここでいっている「払い惜しみ」というのは、約束の期日に支払わなかったり、支払いを渋るような姿勢を見せる債務者の態度を意味しています。「払い惜しみ」の原因は実際に資金繰りが苦しいためかもしれません。あるいは単に現金が出ていくことに生理的な不安を感じるのかもしれません。もしかしたら購入した商品やサービスに不満があるのかもしれません。

 商品内容に問題があって支払いを留保するようなケースは別として、約束の期日に理由もなく「払い惜しみをする」という人がいますが、これはいかにも卑劣で、胸くそ悪いですね。
  結局支払うにしても、さもイヤイヤ支払うというのは、自分のものではないはずの金銭に執着していることを意味します。この人は感情的に、負債を資産であるかのように思い込んでいるのです。泥棒は盗んだものを自分のものと見なし、主張します。つまり負債と資産を故意に取り違え、その上に自分の権利を確保しようとします。
  払い惜しみをする人は、「泥棒」の目で金銭を見ています。支払わずに済ますということは、相手の金を盗むということにほかなりませんから。自分の金と他人の金を判別できないという、この分岐点にいる人は、ビジネスマンと泥棒の分岐点に立っているのです。
  かりに資金繰りが悪いために支払いができない場合、この人または会社は、ビジネスという面ではすでに敗北者の一人です。あるいは敗北に近づいています。すると「貧すれば貪す」です。心ならずも泥棒に近づきます。ビジネスはリーダーの人柄をあらわします。ビジネスが総合的な人間の営みであり、人間の徳を含めた金銭のゲームであることを忘れてはなりません。

 
 

95.もしも私が詐欺をするにはあまりにも小心かつ臆病なら、これは徳ではない。(知恵について「四つの徳」)
  泥棒や詐欺、あるいは背任横領など、これらの犯罪はいずれも社会の敵であり、ビジネスの敵です。通常のビジネスマンはこのような手段は最初から考えもしないでしょう。ところがここでアランが妙なことをいっています。詐欺をしないというのは当然のことだが、その本人があまりにも小心で、臆病であるために「詐欺ができない」というなら、これは美徳とはいえない、といっているのです。

 私たちは日ごろ何かと犯罪のチャンスに直面しています。たとえばお店に入って誰も見ていないようなときには、商品をひとつぐらい黙って持ってきても分からないじゃないか、などと思うことがあります。けれどこのときに万引きをしないのは「うしろめたいことをするのはいやだ」と思うからでしょうか。それとも「持って帰りたいけれど、見つかって捕まったらたいへん」と思うからでしょうか。
  もしも「捕まったらたいへん」と思っているなら、その人はある意味では犯罪の第一段階に達しています。なぜなら、違法な手段でも入手したいと考えたわけですから。彼を制御しているのは、捕まることに対する恐怖心であって、道徳心ではありません。だから、彼が盗みを思いとどまったとしても、それは美徳ではないというわけです。

 ビジネスマンはかならずしも法律的に模範通りに行動できるとは限りません。たとえば顧客に対する接待饗応とリベート、賄賂の距離はさほど遠くありません。あるいは何もかも契約通りにいかない場合もあります。ある種の節税と脱税との差も紙一重といったところです。それに総会屋対策を、どう解釈したらいいものでしょうか。
  アランがいっているのは、「捕まるのがいやだから」「罰が恐いから」「トラブルに巻き込まれたらたいへん」という理由だけで行動するのは間違いだということです。この精神は「内容はともかく、法律的な体裁を整えればいい」「とがめられなければそれが正解」と同じです。
  またこの考えは、「ともかく納品してしまえばいい」「金さえもらえばこっちのもの」「とにかく時間まで働いたふりをしていればいい」などという考え方につながっていきます。いずれも不誠実であり、ビジネスの基本精神に反します。
  ビジネスマンにとっては結果として犯罪を犯さないことが重要なのではありません。限界的な状況の中でどのように自己の信念を貫くかが重要なのです。法律的に犯罪を犯さないことが重要なのではなく、あなたの道義的な基準を重んじることが重要なのです。

 
 

96.ぼくが出物で額入りの版画を買ったとする。ぼくはその中に隠されていた紙幣を買ったのではない。(精神と情熱に関する81章「正義」)
  「井戸の茶碗」という落語があります。この落語の中に登場する千代田卜斎は零落した武士出で、今は娘と一緒にうらさびれた長屋住まいをしています。ある日彼は金に困って、屑屋に一体の仏像を売りました。屑屋はこれを細川家に奉公する若侍の高木左太夫に売りました。
  左太夫が仏像を磨くと台座の紙が破れて中から50両の小判が出てきました。驚いた左太夫は屑屋をつかまえて、「俺は仏像を買ったが、小判を買った覚えはない。この小判をさっそく持ち主に返してくれ」といいます。屑屋が50両を持って卜斎を訪れますと、卜斎の方では、「その小判は当然仏像を買った人のものである」といって固辞します。
  本当は双方にとって50両の金は貴重なものであり、とくに千代田卜斎のほうが金を必要としているのですが、彼らは自分の名誉を重んじ「刀にかけても受け取れぬ」といいはります。ここが落語として面白いところです。これはアランが紹介している「版画の中に隠されていた紙幣」とよく似た話ではありませんか。

 私たちは金銭を必要としています。悲しいことに、生きるため、固定費をまかなうためなら、どんなことでもしなければなりません。だから偶然手に入ったものであっても、金銭を手放すことはできない、これが本当のところではないでしょうか。
  ビジネスマンはその立場によって正当に、あるいはほとんど正当に、あるいは見方によっては正当に金銭を入手するチャンスがあります。現場監督に届けられる下請け工事業者からの「届けもの」は、監督にとっては必要経費として正当なものであり、総会屋が受け取る利益も、要するに正当な取引の結果であり、予定落札価格に関する情報も一つの商品といえなくはありません。どこに「正当」の線を引くか、限界的なところでは「解釈の相違」になります。だからこそアランは、こうして財をなした人々に向って「金持ちになったことで満足しているがいい。正しくなることはあきらめたまえ」といいました。

 アランは「だれも子どもに高く売り付けようとはしまい」といいました。けれど世の中には子どもだから高く売り付ける人がいることは事実です。たとえば、まだその必要もないのにカーオーナーの無知につけこんで、部品の交換をさせてしまったりする修理工場があります。
  では私たちが「井戸の茶碗」の話にすがすがしい感じを味わったり、感動したりするのはなぜでしょうか。それは「フェアであること」に対する私たちの価値観がまだ生きている証拠です。ビジネス・リーダーがこの「良識」としての価値観をなくしてしまってはおしまいです。

 
 

97.アインシュタインのような人に、自分の物理学を少しばかり曲げるなら大金を差し上げよう、といってもまったく問題になるまいことを銘ずべきだ。(経済随筆「59章」)
  経済活動はたえず社会に働きかけています。大きなビジネスは世の中を動かします。小さな会社の社長でも、社長となれば、複数の人々の運命を握っています。経済力が大きいビジネス・リーダーは、人々に対する強い影響力を持っています。
  経済力を通して多くの人や金を動かすということは、ビジネスマンたちの生きがいとなり、誇りともなります。しかし用心しないと、この生きがいが「慢心」となり、「金があれば、何でもできる」という錯覚に結びつく可能性があります。

 たとえば会社は技術開発、商品開発を進めるために、優秀な技術者や研究者を雇うことができます。これからは会社が「博士」を何人所有しているか、などということを自慢しあうようになるかもしれません。これらの人材を集合するためには、資本が必要であり、金の力が必要です。資本は企業の知的集約を可能にします。
  けれども集合した科学者たちに「ボーナスを倍額出すから自然法則を変えてくれ」と頼んでも、これはできない相談です。なぜなら物理学者が対象としているのは、人間ではないからです。自然の法則は人間の力の及ぶところではありません。それに物理学者は物理学を監督しているわけではなく、彼は自然の観察者にすぎません。サッカーの見物人に試合の結果を変えてくれなどと頼む人はいないでしょう。
  もっとも学者たちで構成される委員会などというのは曲者です。これは人間の集団です。たとえば新薬の臨床試験の結果に対する判断や解釈をめぐって、人間的な力学が働く可能性があります。このような場所ではたしかに経済力がモノをいうかもしれません。しかし、科学的事実はやがてこうした人間的な力学を粉砕してしまいます。

 結局、あなたがどんなにお金を持っていても、あなたが影響を与えることができるのは、そのお金によって動かすことのできる人間だけです。その人々でさえ、あなたを心の底から尊敬しているかどうか、その点は保証はできません。
  お金で買うことができるものは、案外限られているのです。学問についていえば経済が保証するのは可能性を提供し、機会を提供することだけです。
  ところがビジネスマンは経済力を持つに従って、このことを忘れる傾向があります。教養のないビジネスマンほどこの傾向がはなはだしい、といっておきましょう。金の力で何ができるのか、金の力で何ができないのか、リーダーにはこの点を知っていてもらいたいと思います。

 
 

98.世界中の富が手に入るなら狂人になったってかまわないなどとは誰も思うまい。だからまず第一に君自身を平和にのっとって支配したまえ。(文学論「『イリアス』はたいした作だ」)
  大きな利益を上げたい、これはビジネスマンが共通して持っている強い願望です。この目的を達成するために、ビジネスマンは多少自分の体や欲望や私生活を犠牲にします。何をどの程度犠牲にするか、その程度判断は各人にまかせられています。
  残業や出張などが度重なれば多少の健康が犠牲になります。少々体にむりをしても頑張るほうが健康にいいという人もいます。しかしやりすぎれば病気になることもあります。中には「少々病気になってもかまうもんか」という勇ましいビジネスマンもいるかもしれません。しかし病気にもいろいろあります。「少々頭がおかしくなっても頑張るぞ」という人がいるとしたら、この人をどのように考えたらいいでしょうか。少々の頭の狂いならかまわないでしょうか。

 こう考えてみると、どんなに大きな経済的な成功や富の蓄積も、自分の正常な判断力や精神の健康と引き換えにできないことが分かりますね。狂った頭ではたとえ巨万の富が得られたとしても、これを楽しむことができないかもしれないからです。
  この世のありとあらゆる知識を身につけたファウスト博士は、若さが取り戻せるなら魂を売ってもいいと考えました。そして悪魔との契約書にサインをしました。ファウスト博士は、若者として人生を楽しみ直すことにまさる価値はないと思ったのです。ビジネスマンの目標も、ときには「それを得るためになら、何をしてもかまわない」と思えるほど光り輝いて見えるものです。そしてときには、実際に悪魔に魂を売り渡してしまうビジネスマンも登場するわけです。

 プラトンは強大な権力を持ち、どんな無法なことでも自由にできる専制君主を想定しました。この王様は自分の武力や経済力を用いて、自分のどんな気まぐれな欲望も、いつでも満たせるのです。しかし彼が自分がしたいことだけをしていれば、不摂生から体をこわすでしょう。
  ローマ皇帝クラウディウスのように、古代の権力者の何人かは、美食のために太りすぎて両側から人に支えられなければ歩けなかったといわれます。現代人も美食できるという点では古代の権力者なみです。けれどいくら美食できる人でも、現代人なら節制を知っているでしょう。
  どんなに経済力がある人でも、気まぐれとわがままだけで人心を掌握することはできません。何でも自由にできる人がいるとして、その人が本当にしたいことを無制限にすべて実行するのだとしたら、この人はすでに狂人です。つまり、力を目指すリーダーはまず自分の心の安定、心の平和を目指さなければならず、他人を支配する前に、自分自身をしっかり支配しなければなりません。

 
 

99.人間であるという公職に公然とつく人は、多くの約束をしているのだ。(宗教論「カトリックの理念」)
  キリストは「心の貧しい人たちは幸いである。悲しむ人は幸いである。迫害されている人たちは幸いである」といい、彼らには天国が約束されているといいました。どうして心の貧しい人、悲しい人たちが幸いなのでしょうか。
  この聖書の謎を解くために、私は次のようにいいまわしを変えてみます。「人の部下になり、使われ、つらい下働きをしている人は幸いである」「無法な上司のもとで、無理難題をいわれ、何かにつけ無能呼ばわりされている人は幸いである」「肩書もなく、名もなく、給料も安い人は幸いである」。なぜならば、このような人々は経営上の責任が少ないからです。組織上の弱者に対しては多くは期待されず、義務も責任も少ないのは当然のことです。

 これに対してビジネス・リーダーは、人を使い、部下を評価し、おまけに高い給料をとります。その代わり、彼は業績に対して責任を持たなければなりませんし、その責任を他に転嫁することはできません。部下の不始末はリーダーの不始末です。
  小さな町の商店が特定の顧客にえこひいきをしても誰も何もいいません。けれど大証券会社が特定の大口得意先に損失補填をしたなどというと、社会の風当たりは強くなります。無名の人の恋愛事件など、当人同士の問題に限定されています。ところが著名人となると、放っておいてもらえません。
  大きな会社が総会屋に金を払ったり、談合をしたり、脱税をしたり、契約違反をしたりなど、要するに不正が生じたりすると、社会的な糾弾がきびしくなります。これを「リーダーズ・ペナルティ」といいます。

 アランがここでいっている「人間であるという公職に公然とつく人」とは、社会で指導的な立場にある人のことです。そしてこの中にはビジネス・リーダーも加えて考えなければなりません。リーダーは部下を持っている限りにおいて指導者であるからです。指導者としてのあなたの地位が高ければ高いほど、影響力があればあるほど、あなたのリーダーズ・ペナルティは大きくなります。これがわずらわしいというなら、あなたはリーダーを辞退しなければなりません。
  あなたは「私は立派な指導者として行動するという約束などしていない」というかもしれません。しかし約束をしたつもりはなくても、リーダーは他人の幸福について、あるいは公共の福祉、あるいは社員の福祉を考えなければなりません。またあなたにはリーダーとしての人格の高潔さが求められ、普通の人以上に身をつつしむことが要求されるのです。

 
 

100.何にもまして哲学を愛さないものは一個の人間でない。(知恵について「説得の術」)
  長年同じ商品を取り扱っている人は、その商品の本質について、何らかの定見を持っているものです。すぐれた腕前を持つ伝統職人や名人級の仕事観には説得力があります。彼らの仕事への精進が思想を作り、思想が彼らの仕事の質を支えてきたのです。
  これに対して、借り物の言葉を唱えているだけの人には説得力がありません。私たちの行動を規定しているのは結局私たちの「考え方」なのですから、私たちは自分の考え方をうまく監督し、構築し、その考えにのっとって行動しなければなりません。
  いずれにしてもリーダーという職種は、業績保証、組織の維持発展、部下の指導という面で、「すぐれた腕前を持つ職人」「プロフェショナル」であることが要求されます。おのずからリーダーにはすぐれた仕事観、人生観が求められます。リーダーの持つ職業観、人生観が雑駁で、これを支える教養も雑駁であれば、リーダーとして魅力も価値もありません。 

 私たちは思想の自由、信仰の自由を保障されています。しかし複数の人の上に立ち、その人々を指導し、所定の目的に向かってリードしてゆくリーダーという職種は、きわめて総合的なものです。だからリーダーは「総合的な一個の人間」としての自己完成が求められるのです。
  だからこそアリストテレスは、「美服をまとった自分の肉体に見とれるよりも、英知に満ちた魂を所有する方がはるかに美しく、また王者にふさわしい」といったのです。アリストテレスはまた「王者は万事ロゴスを用い、ロゴスの助けをかりて仕事をなすべきである」といいました。つまり、リーダーはしっかりした理論に従って関係者を説得すべきだということです。
  リーダーと名がつけば、どんな人でもそれなりの説得力を発揮します。一人よがりの、妙な理屈をこねていても、あるいは少々おかしな言い回しをしていても、回りの人は黙って聞いています。そこでリーダーは自分の思想が関係者に受け入れられたと思ったりします。ロゴスの力で説得したのか、金の力、あるいは人事権が相手を説得したのかは区別しなければなりません。

 人類史において、単なる付加価値生産と資本蓄積だけを追求するビジネスの時代は終わりました。これからはビジネスマンであろうとなかろうと、よりよく生きること、より美しく、より豊かに生きるということが問題になります。より高く普遍性のある思想が求められるのです。
  よりよいビジネス・スタイル――これを昔の日本の人々は「商人道」といいましたが――の構築がカギとなります。しかしアランは、「自分を治めることができないものが、どうして国を治めることができるだろうか」といっています。ビジネス・リーダーとして、一個の人間としての哲学の再点検が必要とされるゆえんです。

 
   
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