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アランとはどんな人
 
第1章 少年エミール

田園の息子
  アランは本名をエミール・オーギュスト・シャルチェといいます。彼は1868年、フランスノルマンディ地方、オルヌ県のモルターニュというところに生まれました。この地方は今でも広々とした田園地方です。アランの生まれたモルターニュ・オ・ペルシュは、過疎の村落といったらいいでしょうか。アランの父はこの町の獣医でした。
  エミールが生まれた年は、日本では明治維新の年に当たります。フランスはナポレオン三世による王政の時代でした。アメリカではこの年、リンカーンが暗殺されています。プロシャでは宰相ビスマルクが活躍していましたが、まだ「ドイツ」という名の国はありませんでした。世紀末を目前にして、世界が近代から現代に移行するための胎動を続けていた時期、これがアランが生まれた時代のヨーロッパでした。

 フランスは1789年、「革命」という選択肢を選びましたが、この選択が良かったのか、悪かったのか、その確認をめぐって100年間にわたる試行錯誤を繰り返していました。フランス人は長らく王党派、革命派、ボナパルティストに分かれて争い、政治体制は何度も劇的に変化しました。エミールはこうした政治的試行錯誤期の後半に生まれてきました。
  フランスの産業革命は、都市部ではほぼ終了していました。しかしエミールが住んでいた田舎では、伝統的な農業が主体でした。アランは生涯自分を「田舎の人間」と考えましたし、彼は大量生産工業や、広告ビジネスに対して、つねに一定の、控えめな、懐疑的な距離を置いていました。それは彼が生まれ育った環境と無縁ではありません。

 たとえば彼は「人間論」の中で、「してみれば、立法者たるものは、この永遠の構造、本質的にはつねに農民的なこの構造をいつも注視しつつ、自然に即して立法すべきだろう」と書きました。これは明らかに農本主義の思想です。
  エミールの父親はエチエンヌ、母の名はジュリエットといいます。母方の祖父はカフェを経営していたといいますが、何しろ田舎のことですから、カフェとはいってもどんな店だったのか分かりません。アランはときおり自分の父親について述べましたが、母に関して何も述べていないので母親がどのような人だったのか分かりません。ただ、アランが書いた名著の一つ「思想と年齢」という本には、「謹んで、母上に」という献辞がついています。またアランにはルイーズという四歳上の姉がいました。晩年彼はこの姉と同居していたようです。彼に乳兄弟がいたことが分かっています。「私の乳兄弟は無口で利発な、そして私の知るかぎりでは情愛の深い少年であった。彼と一緒にいると私は少しも退屈しなかった」、という文章が「教育論」にありますので、エミールは幼少年期を同じ年頃の男の子と過ごしたようです。

 さらに少年時代のエミールの家族関係を想像させる文章が、「幸福論」の一節に出てきます。「私の祖父は70近くなって、固形の食物を嫌うようになった。そして、少なくとも5年間は牛乳で生きていた。人はこれを偏執狂だといった。たしかにそのとおりだ。ある日私は家族そろって昼飯のときに、祖父が突然若鶏の足を食べるのを見た。そして祖父は、だれもと同じような食事をしながら、あと6、7年は生きた」。
  エミールが子供の頃、家では祖父を含め、父、母、姉、乳兄弟などそろって食卓を囲んでいたようです。彼の父親も風変わりだったようですが、おじいさんも結構変わった人物であったことが想像されます。

 「牛乳しか飲まない」という、自分で決めたルールを守り通している頑固じいさんが、ある日いきなり鶏の足を持ってむしゃむしゃやり出し、みながあっけにとられる・・この光景はほほえましいものです。自分自身を意のままに規制できるが、けっして精神の自由は失わない、おじいさんはこれを実践したのです。この気質は思想家アランの中にも受け継がれました。
  私は一度モルターニュ・オ・ペルシュにアランの生家をたずねたことがあります。質素な一軒家で、現在は土地の人が所有し、使っています。彼はこの家で生まれ、この家の中でおじいさんたちと田舎風の食卓を囲んで育ちました。

 

勉強嫌いの秀才
  6歳になるとエミールはモルターニュ・コレージュに通うようになりました。エミールはたいへん怠け者だったといわれています。彼はごく普通の少年、勉強嫌いで、空想家で、冒険好きのガキ大将だったようですね。「私の注意は、大人の仲間に入って、刈り入れの手伝いをしたり、調馬を手伝ったり、勢子になったり、猟袋を運んだり、また鮒やザリガニを取るような休暇中の楽しみでいっぱいであった」。
  エミールは他の子供にくらべて柄が大きかったので、体を使って何かすることが好きで、田園生活を楽しんでいました。「幸福論」の中には、彼が子供の頃に小刀を使って木彫りの人形を作り、それぞれに王様や、兵士や老婆などの物語の主人公たちの役割を与えて、夢中で遊んでいたことが描かれています。エミールは騎士の冒険物語に夢中になり、自分が主人公になった空想をしました。
  しかし彼はのちに書きました。「少年期のことはいわぬことにしよう。それはただ、愚かしさにすぎなかったからである」。アランは「私はいまだに、自分がつねに泰然自若とした不敗の主人公であるような冒険談を、何時間でも熱心に自分に語り聞かせる能力がある」と書き、「こうした点で私は少しも進歩していない」といいました。男の子は冒険小説が好きで、自分を冒険の主人公にする空想の世界から縁が切れることはないのでしょうね。
  エミールは野原を駆け回るのが好きな冒険を夢見る少年であり、予習や復習など学校の勉強を真面目にやらない生徒でした。「この(幾何学の)教科書を私は一度も読まなかったものだ」。しかしどういうわけか、エミールは学校ではいつも一番でした。

 学校では基礎教育の一環として宗教教育が行なわれていました。エミールも当然カトリックの教育を受けました。彼は少なくとも12歳になるまでは忠実な信徒でした。「12歳になるまで私はお祈りをし、公教要理を学び、罪を告解して、まったく真剣に聖体を拝受してきた。それはたしかなことだと思う。私は悪魔や地獄が恐かったからである」。エミールは宗教に関して模範的なので、校長先生にほめられたこともあります。
  「ところが、2、3年のちになると、私にはもう、このまじめな宗教心のひとかけらも残ってはいなかったし、どうしてまたこの変化が生じたのかをいうことができない」。また「幸福論」にも「私は、いつ、どんな理由で、カトリシズムから離れたのか忘れてしまったので・・」とあります。
  少年期の終わり頃、エミールはすっかり宗教心を失ってしまいました。「たぶん筋骨がたくましくなるにつれ、恐怖はもう支配することをやめたのだろう」「宗教は恐怖にすぎぬとは、あえて言うまい。けれどもやはり、宗教心が恐怖心といっしょに私から去ってしまったことはたしかである」。

 欧米人にとって「宗教から離れる」ということは難しいことです。それは個人的に精神上の勇気を必要とするだけでなく、地域社会の中で「変わり者」と見なされることを意味しています。アランは自分が地域社会でどのように見られたのか何もいっていませんが、彼は少年期の終わり頃、すでにそれと意識することなく一個の自由人としての自分を作り始めていました。
  「わが思索のあと」の中で、六八歳のアランは自分の幼な友達のガスランのことを思い出しています。エミールはガスランと一緒に遊び、一緒に教会に行きました。二人で組になり、町に誰か臨終の人があるとその人のために何回もロザリオの祈りを唱える役割をつとめました。「ガスランはあれからどうしたろう」とアランは思います。「ガスランはあれから地元に住みついて、今でも相変わらず農業をやっているに違いない。きっと信心深い町民、王党派の町民になっているはずだ」。

 「・・ガスランが今でもまじめに教会に行き、一見信心深いように見えるからといって、彼が神を信じているとか、悪魔を信じているとか考えるのは馬鹿げている。彼は一般の習慣にしたがっているだけだ・・」「旧套を全部取り除いてしまえば、人々は私よりも宗教的なわけではないと私は確信する。彼らが演じている喜劇は政治的なものである」。
  子供のとき熱心に祈って校長先生にほめられたエミールの友人は、今でも地元で日曜日には教会に通う良き町民となっているでしょう。だからといって彼が強い信仰を持っているというわけではありません。彼はそうしないと、町の中で仲間はずれになってしまうことを知っているだけです。しかしアランは早くも宗教を離れ、一個の無宗教者となりました。

 エミールは彼独自の考え方や行動様式を身につけ始めていました。たとえば「宿題をやりなさいと先生はいうけれど、別にしなくたっていいんだ。そのことが分かっていればいいんだ」「地獄は恐いところだと牧師さんはいっている。けれど、本当のところ誰も信じちゃいないのさ」この少年はなかなか物知りです。それに日頃反抗的に行動するわけではありません。けれど自分が納得したことについては行動し、納得しないことについては受けつけません。
  エミールはふだんは鈍重に見えます。友達が彼をつついたり、からかったりしても、たいていは無視しています。しかし友達の悪ふざけが度を超すと、エミールの大きなこぶしがお見舞いされ、それでけりがつきます。

 
 

父親エチエンヌの影響
  エミールの人間形成にとって、父親エチエンヌが果たした役割には大きなものがあります。「私の父は一種ディオゲネスばりの男で、私を彼の二輪馬車に乗せて連れて歩いたものだった。私はすぐに手綱が取れるようになったし、だんだん力がつくにつれて、彼の獣医の仕事を助けもした」。
  ディオゲネスは古代ギリシャのストア派の哲学者で「シノペのディオゲネス」と呼ばれる人のことですが、この人は権威におもねることなく、世間的な快楽や成功を拒否する生き方を貫いたといわれています。アランはこの「ディオゲネスばり」という言葉を説明するように、「父は口数は少なかったが、ときに警句を飛ばして、なかなかうがったものがあった」といっています。「私に天文学の趣味を与えてくれたのもやはり父であったかと思う。彼は何でも読んだ人で、およそ宗教的なところはなかったのに、聖人伝まで読んでいた」。エミールの父親が読書家で田舎には珍しい、高い知性の持ち主であったことが分かります。このことを「ディオゲネスばり」というヒントと合わせて読むと、彼の父が相当の知識と実践的な技術を持ちながら、世間的な成功や金銭に頓着せず、なかなかの皮肉屋であったことが分かります。

 エミールが早くから読書の習慣を身につけたこと、目の前の事実を観察し、通念にこだわらず事実に即して考えることを学んだこと、自分なりに自由に考える方法を知ったこと、これらはいずれも父親エチエンヌの影響です。
  エミールの少年時代を今日の都会の子供と比較してみましょう。現代の子供は、他の子供たちと一緒にされ、行動は集団的に規制されます。アウトドア体験は少なくなります。教育パパや教育ママが子供を管理し、指図します。こうした息苦しい環境の中で、子供たちにできるせめてもの反抗は「登校拒否」「ときおり切れる」ことぐらいです。
  父親はよくエミールを馬車に乗せてくれましたが、エミールの勉強や学校のことなど、まったく眼中にありませんでした。エミールがのちに教授資格試験に合格したとき、父親はお祝いの代わりにこういいました。「おまえは相変わらずまぬけで終わるだろうさ」。
  フランス人は個性を重んじる国民であることは知られていますが、それにしてもエチエンヌの個性は際立っていたに違いありません。しかしフランスの田舎の広大な自然が彼の強烈な個性を穏和に包んで、地域住民との交際を可能にしていたのでしょう。

 私はアランの本名が「エミール」であることに、偶然以上のものを感じます。父親がジャン・ジャック・ルソーの「エミール」を読んでいたことは確実だからです。もちろん「エミール」という名はありふれたものです。けれどこの名はルソーが「理想的な教育の対象」として想定した生徒の名です。この名は管理化された貴族の子弟たちの教育方法に対する反論の象徴です。「自然に帰れ」で知られるルソーの教育哲学を代弁する名、それが「エミール」です。
  エチエンヌは、アランが生まれたとき次のように考えたのではないでしょうか。「やれやれ、馬鹿でかい息子が生まれたぞ。何と名づけたものか。どうせ名前なんて何だっていいんだし、これから名づけ親を頼むなど、わずらわしいことだ。そうだ。ルソーにあやかって『エミール』としてやろう。牛馬の中に生まれてきた自然児にふさわしい名じゃないか」。
  つまりこのときエチエンヌはルソー風に子供を育てること、すなわちよりリベラルに、既成の価値観を押しつけるのではなく、自分の頭でものを考え、のびのびと判断できるような子供を育てることを考えたに違いありません。事実エチエンヌは仕事の多忙さもあったでしょうが、父としてエミールにつまらぬ干渉しない、という方針を貫きました。
  幼いエミールに冬の夜空を見上げさせ、鞭でシリウスを指して「地球に一番近い星だ」と教えたのも、「おまえは相変わらずまぬけで終わるだろうさ」という、突き放したいい方をしたのもエチエンヌ流の教育だったのです。

 
 

進路を誤る
  13歳になると、エミールはアランソンにある国立高等中学校に入りました。アランソンの町はモルターニュ・オ・ペルシュの近くにあるやや大きな町で、今でもモルターニュ・オ・ペルシュに行くためにはここで乗り換えをします。
  彼はアランソンの高等中学校で、いい幾何学の先生に出会いました。この先生は自分が書いた図形を前にして、ゆっくりひとりごとをいう癖がありました。このとき、エミールは経験を超えてものを証明する言葉の力に目覚めました。「私はあいまいさなしに、しかもできるかぎり最少の語で、述べる技術に興味を抱いた。ついに私は最少の文字で述べられたものを好むほどになった」。エミールはこの言葉づかいの技術を自分なりに練習しました。
  学期末の試験に幾何学の問題がありました。彼はこの問題で10点満点を取って一番になりました。この10点はまだ誰も取ったことのないもので、学校中の話題になりました。そしてエミールが次のテストでも10点を取れるかどうか、友達の間でも彼自身にとっても一種の賭けになりました。「私は自分の賭けに勝ちたいと思って、五年間も勝ち続けた。これは私に仕事というものの観念を与えてくれた」。

 彼はいい生徒、あるいは優秀な生徒になるためではなく、自分の方法を証明するために幾何のテストに力を入れました。「これは私に仕事というものの観念を与えてくれた」というアランの言葉には、「期待されると裏切れないものだ」という気持ちと、「自分自身に対する誓いによって自分が縛りつけられてしまうものだ」、という両方の意味が含まれています。
  友達が「きっとエミールは次のテストでも満点を取るぞ」といったり、先生が「次もぜひ満点を取りたまえ」といったりすると、エミールは抜きさしならぬ責任を感じます。「大人の仕事って、きっとこうした責任と義務の連続なのだろうな」と少年は考えます。
  エミールが五年間も幾何のテストで満点を取り続けたことは、彼の次の学校選択に影響を与えました。学校の先生を含めて、誰もがエミールは将来理工系に進むだろうと決め込んでしまっていたのです。何よりも彼自身がだまされていました。彼はなりゆきで理工科学校を受験することになりました。

 ところがアランは書いています。「私はこの(受験という)目的のために一冊の書物も開かなかったし、ちょうど補充として知っておく必要のあった普通の曲線についても、まるで無知だったことを知って欲しい。これはもう私の賭けの範囲ではなかった。要するに、恥ずかしいことに私は試験に落ちたのであり・・」。
  いつのまにかエミールには、田舎には珍しい「優秀な生徒」というレッテルが貼られていました。みんながエミールに期待しました。だから彼が試験に落ちたときには、みんなが「不当だ」といってエミールをかばってくれるほどでした。
  しかしエミールは知っていました。彼はあくまでも「賭け」に勝つために幾何のテストに集中したのであって、自分に興味のない勉強をするつもりはなかったのです。だから「落第」はちょっとばかり憂鬱でしたが、本人はまわりほど気にしていませんでした。
  この頃アランが興味を持って読んでいたのは、ホメロスであり、プラトンであり、デカルトであり、バルザックであり、スタンダールです。彼はすでに生涯の研究対象となるような哲学や文学との最初の出会いを果たしていたのです。

 
 

独身貴族との出会い
  エミールが18歳になったとき、ヴァンヴ高等中学(のちのミシュレ高等中学)への給費生としての請願が出されて受理され、エミールは田舎を離れてパリで勉強することになりました。彼は21歳までこのミシュレ高等学校で過ごします。しかし転校が決まったとき、エミールはまだ自分の進路が決まっていませんでした。
  エミールは七月に試験に失敗したので、気の進まないままに10月に再試験を受けるための数学の勉強を始めていました。そのとき彼にアドバイスをしてくれた人がいました。
  「ちょうどそのとき、父の旧友に、前から私のすることを見ていた人がいて、出しぬけにこんなことを言ってくれた。『理工科学校の受験はやめたまえ。ずっと楽な勉強で君は高等師範学校の文科に入れるよ。』これは私の気に入った。ヴァンヴ高等中学の人たちにも別に異存はなかった。そういうわけで私は、それまで考えたこともなかった進路に投げ込まれたのである」。

 エミールを思想家アランたらしめるような、運命的なアドバイスをしてくれた人は誰だったのでしょうか。「わが思索のあと」に示されている範囲で、この人のプロフィルを追ってみることにします。アランは「ある人のことをもう少しつづけて話そう」といって次のような人物を紹介しています。
1.その人はル・ペルシュに住んでおり、独身でたいへん裕福に暮らしていた。
2.正統な王党派だった。世が世なら彼は宮廷人になっただろう。
3.顔立ちは美しかったが、彼の内面を見透かすことはできなかった。
4.エミールに興味を持ち、とてもかわいがってくれた。
5.沢山の本をよく読んでいた。エミールにバルザックやゴンクールを読ませたのは彼である。
6.エミールは彼にならって大作家を是認する作法を覚えた。
7.ルール川の水源の人跡まれな地方に、よくエミールを連れて狩りに行った。
8.エミールは彼の高雅なしぐさ、作法を見習った。

 アランはこの人を「父の知人」として紹介しています。田舎で隠遁的な生活をしているインテリ貴族は、父エチエンヌとどんなつながりがあったのでしょうか。彼らをつなぐキーワードはおそらく「馬」に違いありません。この独身貴族は彼の持ち馬を世話をしてもらうためにエチエンヌと知り合い、そこで才気煥発なエミールを発見して、自分の子供か弟分のように彼をかわいがったのでしょう。
  学校の先生や友人のほかに、二人の人物がエミールの青少年期を見守っていました。父エチエンヌとこの独身貴族です。父は馬小屋の中からディオゲネスばりの、手荒で突き放したやりかたで、半貴族のほうはもっとエレガントで実際的な方法で、彼らはともにエミールの底知れぬ知的可能性を感じ、その発展を楽しみにしていたのです。

 この独身貴族についてアランは「彼はブーランジェ事件の謀議者の一人だった」と書いています。ブーランジェ事件とは、1880年代後半のフランスの政界を騒がせた一連の動きのことで当時人気のあったブーランジェ元将軍をかついでクーデタが計画されたことを指します。
  事件は結局不発に終わるのですが、ブーランジェ元将軍は、いろいろな政治勢力に利用され、王党派が彼と手を結びました。アランの記述は、この独身貴族がブーランジェ元将軍に接近した王党派関係者の一人だったということを物語っています。彼は政治的な野心の挫折感を、この片田舎で一人で癒していたのかもしれません。

 アランの「幸福論」に「楡の木」というエッセイがあります。このエッセイによると200年もする楡の大木に無数に毛虫が発生し、楡の若葉を食い荒らし始めます。この楡の木のオーナーは大金持です。
  翻訳によるとアランはこの人物に向かって「君には金があるじゃないか、職人を雇って毛虫を退治させたらいい」と助言するのですが、このオーナーは「この地方には、刈り込み職人が二人しかいないんだ」と悲観的にいい、「僕には自分のすることが分かっている。毛虫が侵害するのを見るのがいやさに、ここをしばらく離れるつもりだ」などといいます。
  「幸福論」では「植木好きの友人」となっていますが、私はもしかしたらこの友人は例の「独身貴族」ではなかったかと想像してみます。エミールが休暇で、田舎に帰ってきて会っているという想定です。「君には金があるじゃないか」というと、二人はいかにも対等関係のようですが「あなたにはお金があるじゃありませんか」かもしれません。

 楡の木の持ち主は、私たちにとって何となく気がかりな存在です。王政復古を狙ったクーデタに失敗し、隠遁的な生活をしている一人のインテリがふと示した、消極的で悲観的な態度だったのかもしれません。
  エミールは自分に知的な刺激を与えてくれたこの独身貴族を決して忘れはしませんでした。この人はしばらくすると亡くなるのですが、アランは次のように書いて彼を悼んでいます。「惜しいことに私は、この肩幅の広い影法師を途上で喪うことになる。神々が正義にいますかぎり、彼は木陰に銃を背負い、犬を連れて、極楽の園を歩き回っているに違いない」。

 
   
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