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アランとはどんな人
 
第2章 ラニョーに出会う

ラニョー先生との出会い
  「さて私は、ミシュレ高等中学でジュール・ラニョーの講義を聞いた。私はひとりの思想家を知ったのである。私は彼をすばらしいと思い、私は彼を模倣しようと心に決めた」。この文章はアランの人生を明確に、しかも的確に要約しています。
  高等中学に進学するまでの間、エミールの人生に決定的な影響を与えた人物が二人いました。その一人は父親のエチエンヌであり、もう一人は例の独身貴族でした。そしてここに第三の人物ミシュレ高等中学の哲学教授、ジュール・ラニョー先生が現われました。
  「私は彼をすばらしいと思い、私は彼を模倣しようと心に決めた」という言葉には二つの意味があります。それは第一にラニョーを哲学者として尊敬し、自分も哲学の道に進もうと決心したという意味であり、第二に自分もラニョーと同じように高等中学の先生になろうと決心した、という意味です。彼はこの二つのことがらを自分に約束し、その通り実行しました。

 エミールは父親から現実の観察法と本質を見る目を学びました。ついで彼は独身貴族から文芸に対する尊敬と教養のあり方、礼儀を学びました。そして高等中学でラニョーから「哲学」を学んだのです。
  エミールは自分が好きなことにしか興味を示さない半面、自分が得心したときにはすばらしく素直になり、熱心になり、心の底からその人に感嘆し、徹底的にそれを受け入れました。何にも興味を示さず、誰をも尊敬せず、かりに決定的な人物に出会っても、その人から何も学べない近頃の若者を見ると、私はとても残念に思います。「知性」とは、ものごとを否定したり批判する能力ではなく、「尊敬すべきもの、関心を持つべきものを発見する力」ではないでしょうか。

 アランがしびれたジュール・ラニョー先生はどのような人だったのでしょうか。残念ながらこの名前は、哲学史には登場しません。著書も残されていません。彼は無名の思想家であり、一高等中学校の教師だったのです。のちにラニョーが43歳で亡くなったとき、アランは「ジュール・ラニョー遺稿」を編集しました。また、アランは57歳のときに「ジュール・ラニョーの思い出」という本を書いています。
  ラニョーは1851年生まれです。エミールとは17歳違いです。18歳のエミールは、35歳の教師に憧れ、「かっこいい」と思い、「よし、この人を真似しよう」と決心しました。ではラニョーのどのような点が若いエミールをひきつけたのでしょうか。

 アランはこう語っています。「私は彼から、対象にそのまま即しながらもやはり思想そのものである一種の分析を学んだ。・・たとえばある空間を問うて、私はそれが思考にほかならぬことを理解した。なぜなら距離は存在せず、それはただ事物と私との、また事物と事物との関係にすぎないからである」。
  私たちはあるものを見ているとき、そのものが私に関係なしに、げんに世の中にあるように思います。私とそのものの間にも、ある客観的な距離が、私の認識とは関係なしに存在するように思います。こうして私たちは、「あそこには本がある。あそこに人がいる。ビルが建っている」というように考えます。エミールもラニョーに出会うまではそう考えていました。

 ところがこの若い哲学者は、エミールにもっと厳密に考えることを要求しました。この世界は君が認識するからこそ世界として現われるのではないのか。ここにある一冊の本、これが本であることを君が知るのは、本というものの概念を君がすでに持っているからであり、目の前の物体に即して君がその概念を適用し、心の中にその概念を構築し直すからではないのか。
  エミールはびっくりしました。自分が本だと思い込んでいたもの、それは自分が「本」と定義しているものであり、自分の中に「本」という定義がなければ、それは単なる紙の束に過ぎません。「私が拒否しようと思っても拒否できなかったこの観念は、驚きと困惑の状態に繰り返し私を置きいれることで、私を決定的に変えてしまった」とアランは書いています。

 

現象学を先取りしていたラニョー
  ラニョーが示したような考え方の古典的なスタイルは「唯心論」として知られています。たとえば、私が認識しなければすべてのものは存在しない、というのが唯心論の主張ポイントです。しかしもちろん、ラニョーがアランに教えたのは、単純な唯心論ではありませんでした。ラニョーがアランに教えたものの見方は「現象学」です。「現象学」を体系的に提起した偉大な思想家はフッサールです。フッサールは「厳密な学としての現象学」の中で次のように書きました。
  「自然科学はどれでもその出発点では無批判である。これらの科学が探求したいと思っている自然は、これらの科学にとってはそこに単純に存在しているのだ」と批判しました。要するにこれまでの科学は、目の前に「本がある」という事実に対しては何ら疑問を持ちません。そこに自分とは無関係に対象物がある、ということを前提にして研究を始めるのです。

 フッサールはこのような自然科学の素朴な態度に強い疑問を投げかけました。そして「意識の本質探求は、意識の意義そのものや意識の対象性そのものの本質探求を、その内に含んでいるのである」といいました。 
  フッサールは「ものを考えようとする人は、げんにものを見ている私自身の問題、私に見えているものの問題、これらの関係を総合的に、厳密に捉えなければならない」と主張したのです。この思想は現代哲学に決定的な影響を与えました。サルトルやカミユやメルロ・ポンティ、ボーヴォワールたちが夢中になって現象学を勉強したことはよく知られています。
  フッサールがこの「厳密な学としての現象学」という本を書いたのは1910年のことです。アランがラニョーに出会ったのは、1886年のことです。18歳のエミールは、フッサールの「現象学」が知られ、世間で騒がれるようになるに先立って、ジュール・ラニョーを通して現象学的なものの見方に触れ、これをすでに体得していたのです。

 ものを見ようとする人と、見えるものとの関係については、やがてフッサールが批判した科学者たち自身の中からも盛んに問題提起が行なわれるようになりました。ハイゼンベルクは「古典物理学では、科学というものが、世界を、少なくとも世界の部分を、われわれに無関係に記述することができるという信念から出発していた」と書き、古典物理学的な世界のリアリティ認識の誤りを指摘しました。
  量子力学の世界では、観察しようとする対象は観察そのものによって変化してしまうということが指摘されています。量子力学でなくてもこの理屈は分かります。解剖している医師が観察しているのは「屍体」であって、生きた人間ではありません。そして生きた人間を観察しているつもりの医師も、「医師に観察されている人間」を観察しているのであって、本当の意味で自然に生きている人間ではないかもしれません。

 そこでボーアは「われわれは劇場で観客であるばかりでなく、いつも共演者である」といったのです。このコメントもいかにも現象学的な表現ですね。ちなみにボーアの原子構造に関する論文が発表されたのは、1913年、アインシュタインの一般相対性理論が発表されたのは1915年のことです。
  こうして見ると無名のラニョーが「フランスのフッサール」と呼んでいいくらい、すばらしく進歩的な思想家であったことが推察されますね。若いエミールがラニョーの考え方にショックを受けたのもいわば当然のことでした。彼はラニョーによって新しいものの見方、考え方における厳密性を学びました。

 
 

朝ごとに認識し直す世界
  やがてエミールは、ラニョーから学んだ認識方法を自分の生き方、心のあり方に適用し、これを自由自在に展開するようになります。「わが思索のあと」の中でアランは次のように書いています。「私は毎朝そういう状態の中でわが師に出会う。そうだ。どんな人でも朝ごとに世界を構成し直しているのだ。目ざめがそうであり、意識がそうである」。
  ラニョーに導かれたアランにとっては、朝起きて出会う世界は誰かが勝手に作り上げた既製の世界、自分にとって無縁に存在する世界ではありません。それは、自分が毎朝作り直し、認識し直す世界です。世界と自分との関係が朝ごとに試されているのだ、とアランは考えます。

 教室でのラニョーの講義はどのようなものだったのでしょうか。また、ラニョーは一八歳から二一歳の、もっとも多感な青年たちをどのように教導したのでしょうか。
  アランの「人間論」の中に次のような一節が出てきます。「ある日、ラニョーの話を聞きながら、ほとんど呆然としてしまったことを思い出す。その日彼はその天才に身をゆだねつつ、そのはてついに、うち勝ちえぬ証明とはもはや思想ではなく、モノにほかならないということを発見した」。この文章を読むと、ラニョーが生徒たちを前にどんどん自分なりの思索を展開し、生徒にはおかまいなしに話し、話しつつ発見する、そんな先生であったことが想像されます。
  ラニョーは使い古したノートを持ってきて、これを機械的に読み上げたり、勝手に板書して立ち去っていくような先生ではありませんでした。講義の場そのものがラニョーにとっては思索の続きを行なう場であり、先生は自分に語っていたかのようです。生徒が自分についてくるかどうかは問題にもしていなかったのでしょう。

 生徒たちは勉強しようと思ったら、ラニョーがすすめる本を読み、自分なりによく勉強してから質問をしなければなりません。アランは「そのころ私は、ほとんど何もわからぬまま、『エティカ』を写しはじめた」と書いています。
  おそらく先生にスピノザを読んでごらん、といわれたのでしょう。そして彼は「エティカ」を写しながら、先生が思ったよりもスピノザ的であることを発見します。彼は疑問をたずさえて教室で質問をします。するとラニョーの答えが聞けたのではないでしょうか。アランは、優秀な後輩の一人がラニョーに神の存在に関する質問をし、先生から答えを引き出し、それをもとに論文を書いたと記しています。

 ラニョーの教室は、黙って座っていれば分かりやすい説明が聞けるというようなものではありません。けれども勉強したい、自分自身で考えたいと願う知識欲の盛んな青年にとっては、どれほど魅力的だったか分かりません。なにしろ、哲学者自身の思考過程を目の前で観察することができたのですからね。
  「思考は計量者である」「絶対的真理なぞは存在しない。それはわれわれがその日その日手に入れるパンのようなものだ」「考えるという仕事は、鍛冶屋の仕事と同じように学ばれる」。アランは右のようなラニョーの言葉の断片を私たちに伝えています。
  ラニョー先生は、ある日天井のほうを向いたまま「絶対的真理なぞは存在しない。それはわれわれがその日その日手に入れるパンのようなものだ」といいました。先生の声のふるえは、エミールの心の琴線に触れました。先生がいった言葉の意味は、私たちにとってそれに頼りさえすればいいような絶対的な真理はないということであり、観念はたとえ一本の直線でさえ、自分が自分の心の中に強く想定しなければ存在しないもの、さらには各自が心に誓わなければならないものだということです。

 思考する人間は、外にある何かをではなく、自分自身の理性を頼りにしなければなりません。ラニョー先生は自己に対する健全な信頼、絶えざる勉強、精進こそが理性の力を保証するものだといいたかったのでしょう。
  このような考え方は、もとよりラニョー先生が日頃考えていたものだったでしょうが、「その日その日手に入れるパンのようなものだ」という表現は、その教室でふと発明されたものかもしれません。それを伝える先生の息吹が若いエミールを感動させ、この言葉を忘れ難いものにしました。やがてアランは1921年プロポの中で、この「朝ごとのパン」という考え方を「名声」という概念に援用してこういいました。
  「名声は恐るべき試練なのである。精神は、はじめのうちしかこれを喜ばない。ついではこのものは精神の重荷となる。そして、精神がこのことを感じないとすれば、それは堕落のしるしである。それは朝ごとに繰り返し始めなければならぬ強行軍なのだ」。

 スポーツの世界でも、経営の世界でも、芸術の世界でも、立派な実績によって名声を得た人がいるとします。もちろん本人はうれしいでしょうし、得意にもなるでしょう。けれどその名声があるために、彼は人々からよけいに期待されることになります。その名声にふさわしい仕事をしようと思えば、もっともっと精進しなければならないでしょう。
  大昔の実績を、さも得意げに繰り返し話すような人は鼻持ちなりません。名声は名声を維持する努力を必要とします。だから実績のある人にとっては、名声や周囲の期待がかえって重荷になってしまうはずです。そこでアランは「それは朝ごとに繰り返し始めなければならぬ強行軍なのだ」といったのです。

 人間の知識も技術も、いったん身についたら離れなくなるものではありません。覚えたことでもすぐに忘れ、悟ったつもりでもまた過ちを犯します。習得した技術も、練習していなければたちまち下手になります。トレーニングで鍛えた体も、半年放っておけば、ふにゃふにゃになります。体力のレベルを維持しようとするだけでも継続的な努力が必要なのです。思考しようとする精神も、まったくこれと同じ状態にあるとラニョー先生は教えました。生きていくために毎日食べなければならないように、精神にも自主的な、しかもたゆまぬ思考のトレーニングが必要なのです。
  重砲兵として出征したアランは、戦争体験をふまえて、精神が自分に課すべき継続的な努力を「それは朝ごとに繰り返し始めなければならぬ強行軍なのだ」といい直しました。思想の天才ラニョー先生と弟子アランの関係がどのようなものであるか、ご想像いただけるでしょう。

 
 

スピノザから学ぶ
  「きびしい先生であるラニョーの薫陶のもとに、私は偉大な著者たちについて若干の観念を形成し始めた」とアランは書いています。そしてとくに名を上げているのは、スピノザとプラトンです。アランは35歳のときに、処女作「スピノザ」を書きました。このときアランの筆名はまだ「アラン」ではなく、エミール・シャルチェでした。
  またアランには「プラトンに関する11章」という著書があります。これらはいずれもアランの代表的な業績の一つですが、もとになる思想は20歳前後のエミールの中で育まれました。
  「スピノザ」の中で、アランはスピノザの生涯をざっと説明した後、自分があたかもスピノザ自身になったという想定で、スピノザの哲学を解説しました。この作業によってアランは取っつきにくいスピノザの言葉を分かりやすくし、スピノザが本当にいいたかったことは何か、また私たちにとってスピノザのどこが大切なのかを浮き彫りにしました。

 この本で、スピノザになりきったアランは次のようにいいます。「自分の悲惨を眺めないほうがよい。自分の隷属を眺めないほうがよい。もう一つの側から展望するほうが良い。真理のほうへ、よろこびのほうへ―――。まず、われわれに可能なもっとも真なるもののうちに生きるがよい。われわれのうちに朽ちざるよろこびを創出するがよい。それによってわれわれは、情念から開放されるであろう。『至福は徳の報酬ではない。徳性そのものである』」。
  アランがここで意訳しようとしていたスピノザの原文は、「エティカ」の「定理41」の「備考」の、次のような後半部分と思われます。
  「こうしたことは、人が良い食料によっても身体を永遠に保ちうるとは信じないがゆえに、むしろ毒や致命的な食物を飽食しようと欲したり、精神を永遠ないし不死でないと見るがゆえに、むしろ正気を失い、理性なしに生活しようと欲したりする(これらのことはほとんど検討に価しないほど不条理なことである)のにも劣らない不条理なことであると私には思われる」。

 また「定理42」の「備考」にある次の文章、「なぜなら、もし幸福がすぐ手近にあってたいした苦労もなしに見つかるとしたら、それがほとんどすべての人から閑却されているということがどうしてありえよう。たしかに、すべて高貴なものはまれであるとともに困難である」も、アランの意訳のカギになっていると思われます。
  アランが第6章の結びに使ったのは、「定理42」の冒頭にある「至福は徳の報酬ではなく、徳それ自身である」という言葉です。
  アランはスピノザの難しさをやさしくし、問題を自分たちの問題に引きつけ、より実践的なものにしています。ここでスピノザになりきっているアランは、早くも私たちに親しい「幸福論」の著者としてのアランでもあります。

 
 

アトランティス大陸の暗喩
  あるときアランは学校で、ギリシャ語の先生からプラトンの「ティマイオス」を直訳してもらいました。「私に及ぼされた効果は魔法のようであった。私はこのように軽妙で、にこやかな微笑をたたえた自由のことを考えたことはなかった」とアランは書き、また、「おそらくこのこと(プラトンを知ったということ)こそ、いつも私を苦しめた職業上の仕事にさいして、私自身のなかに、たえず新鮮で眠りからさめているある部分をのこしてくれたものに相違ない」。
  つまり、アランにとってはプラトンとの出会いによって自分が救われ、誰をも軽蔑することなく闊達に、自分自身らしく生きることができたと語っているのですね。
  「ティマイオス」という作品は、プラトンの著作の中でも広く読まれている作品の一つで、アトランティス大陸の仮説から、宇宙論、そして人間の三部位論など、そのテーマは幅広く、また深いものです。湯川秀樹博士がこの「ティマイオス」に触発された、と書いているものを読んだことがあります。「ティマイオス」は文系の人々だけでなく、何かで科学者たちにも霊感を与え続けている名著です。

 アランもこの本から多くのものを汲み取りました。その中で一つだけアランが、例のアトランティス大陸の神話に関して独自の意見を述べている部分をご紹介しましょう。「・・暗礁や泥州となって海底に沈めるアトランティスの島――そうしたいっさいが意味していることも、まさしく以上の(神がいっさいを委ねて引き篭った)ということにほかならない」。
  謎の大陸アトランティスの神話は、プラトンがギリシャの賢者ソロンの伝聞として語っている話で、紀元前6世紀といわれるソロンの時代をさかのぼること9000年前に、アフリカとイベリア半島を結ぶジブラルタル海峡のはるか沖合いに、アフリカよりも大きい大陸があり、立派な文明国が存在したというものです。その大陸がある日地震のために沈んだという伝説です。
  アトランティス大陸がどこを指すのかについての議論は今日でも行なわれ、位置はだいぶ変わりますが、地震で変形した地中海の島サントリーニがどうやらそうではないか、という説が有力だそうです。いずれにしてもアトランティス大陸の伝説は、歴史時代以前の人々の、古い記憶の名残りに違いありません。

 アランはアトランティス大陸の神話を一つのアレゴリーと見ました。すなわち、アトランティスの島が沈んだということは、神々がその役割を人間たちの手に委ねて人間たちの前から姿を消したということ、その暗喩であると解釈したのです。
  たしかに人類初期を描いたと思われる伝説には、神々が親しく登場し、人々に好意を見せたり支援を行なったり、ときには人々を罰したりします。旧約聖書でも神はアダムとイブを作り、エデンの園に住まわせます。人類の初期の時代、木々の実がなり、魚や獣が豊富で、人々は生活に困りませんでした。その代わり彼らは自然の気まぐれにしたがわなければなりませんでした。だから神々の好意と罰は彼らの目の前に現前していたのです。
  ところが人間たちが社会を作り、作物を作り、牧畜を行ない、交易を行なうようになると、人間の生活は、かならずしも自然の恩寵によって決定されるものだけではなくなります。人間は自分の判断と行動に自信を持つようになります。いきおい神々は次第に軽んじられ、形式的な祭祀の対象にしかならなくなります。

 神々も自分たちの出番が少なくなったことを感じるようになります。こうしてある日人間と神々との絆は切れてしまいました。その象徴が古代ギリシャにおけるアトランティス島の沈没であるとアランは考えます。というのも、古代ギリシャこそ合理的な精神、人間尊重の精神が最初に花開いたところだったからです。
  アテネのアクロポリスはたしかにアテネ神を祭った神殿でした。けれど神殿のメトープやフリーズが物語っているのは、まさに人間讃歌です。ルネッサンスは、中世末期の人々が古代ギリシャ人たちが到達したあの人間讃美、人間の理性に対する信頼、人間尊重の精神を再発見するところから始まりました。
  ルネッサンスはプラトンとアリストテレスの書物がイスラム世界から逆輸入され、ヨーロッパの人々に再発見され、読まれたというところから始まっています。だからアランは神々が姿を隠したのは古代ギリシャ期であった、と考えたのですね。

 そこでもう一度「・・暗礁や泥州となって海底に沈めるアトランティスの島――そうしたいっさいが意味していることも、まさしく以上の(神がいっさいを委ねて引き篭った)ということにほかならない」というアランの記述を読み直してください。するとアランが「ティマイオス」に出てくるアトランティス神話を、「もはや神々に依存しない人間精神の誕生」に結びつけて考えていることがお分かりでしょう。
  そしてこのことは、神々が引き篭ってしまった以上、何をするにも人間は自分の理性にしたがって、行動しなければならないことを意味します。子供が親の庇護を離れて、自分の責任で行動し始めるように、人類もまた神々の庇護を離れて、よきにつけ悪しきにつけ、自己責任で主体的に行動するようになる、これを意味するわけですね。

 この主体性についての力強い認識は、若いエミールがラニョー先生によって啓発された「思考は朝ごとのパンである」とも符合しています。エミールがラニョー先生について何を勉強したのか、スピノザやプラトンについてノートを作るとはどういうことだったのか、そのプロセスを通じて彼が何を考えたのかをうかがい知ることができます。
  アランはこの頃の自分について、「こうして私は、この郊外の中学でスピノザやプラトンの偉大な戯れに興じ、まさにそのことによって書くことを練習しつつ、さらに純粋な修辞学のすべての訓練に服していた」と書いています。

 
 

薬剤師からの教訓
  エミールはこのころ寮生活をしていたようです。彼は休日になるとパリにある二人の薬剤師の家に立ち寄りました。この二人の薬剤師は兄弟で、しかもエミールの身元保証人になってくれていました。
  アランはこの二人の薬剤師について「わが薬剤師たちは、私同様、子供時代にモルターニュで育った田舎者で」と説明しています。おそらくモルターニュにいたころ、父親のエチエンヌと友達だったのでしょう。エチエンヌはパリにいる古い友達に、「今度うちのエミールがパリに行って勉強することになったので、保証人になってくれ」と頼んだのに違いありません。
  薬剤師の片方の家はジャヌ・ダルク通りにあり、もう一方の家はリシャール・ノワール通りにありました。そこでエミールは片方の家に立ち寄ってはもう一方の家にも立ち寄りました。そのとき彼は、「エミールや、これを兄さんのところへ持っていっておくれ」といって手渡された薬ビンをぶら下げていったりしました。

 「だがしかし、私はある薬剤師のことを思いだす」という一節がアランの「人間論」の中に登場します。「・・この人は、ありとあらゆる背信行為にたけた前科者を使って勘定書きを出して現金をうけとる使いをさせていた。それで、だまされることは一度もなかったのである」という文章です。
  アランも長い生涯の間には複数の薬剤師と出会ったことでしょうから、この人間論に登場する薬剤師が、学生時代、保証人になってくれた薬剤師かどうかは分かりません。私はおそらく同じ薬剤師、あるいは二人の薬剤師のうちの一人ではないかと推測します。
  かりに例の二人の薬剤師のうちの一人が前科者を雇用していた、としてみましょう。普通の企業主にとっては、前科者と分かっている人物を採用するには抵抗があります。かりに採用したとしても、集金係を担当させる、というのはどんなものでしょうか。ところがこの薬剤師は、相当な犯罪歴を持つ人物に集金を担当させていて、一度もだまされたことありませんでした。若いエミールにとってこれは大きな知見でした。

 エミールはこのとき「人間は期待された役割を生きるものである」という発見をします。「こいつは前科者だ、きっと人をだますだろう。ひょっとすると人殺しをするかもしれない」などと思っていると、その人物は「犯罪者」という役割を実行せざるを得なくなります。ところが全面的に信用されていると、だますことができなくなってしまいます。
  「だれしも自らたのむところがある」とアランはいいます。つまり誰にでもプライドがあるというのです。全面的に信用され、盗むチャンスさえ与えられるほど信頼されている状態では、自分自身のプライドにかけて信頼に応えるしかなくなってしまう、ということです。
  「泥棒を信じることはできないことではない。そうはいっても、じっさいにやってみるとなるとむずかしい。まず、なんの恐れもいだかず、信用してかからねばならない。そしてこちらが信頼していることを、相手に信じさせねばならない」。

 こうして見ると、エミールが頼っていった薬剤師たちはなかなかの人物だったことが分かりますね。彼らは前科者をそれと承知で引き取り、全面的に信頼し、集金係をさせていました。彼らは人を信じることについて、さりげない勇気を持っていたのです。
  この薬剤師はおそらく、ごく目立たないパリの小市民でした。自分がそんなに立派なことをしているなどという意識もなかったでしょう。もし彼らにインタビューしてみれば、「ああ、あの男ね。犯罪をしたことは知っているよ。でも、それは昔のことだろ。とてもいいやつだよ。集金をまかせているんだ。私のほうは薬の調合で忙しくて、集金まで手がまわらないんでね」と答えたでしょう。
  アランは「気性と性格」の中で次のように結論しました。「このゆえに、叱責や、嘲笑や、また要するに判断に対しては、つつましくあらねばなるまい。説得してかかろうとすれば、人は意地悪になり、頑固になり、さらには愚かにさえなりうることは、あまりにもあきらかである。どうしても信用してかかるのでなければならない」。
  やがて彼はこの原則を、自分の言動に適用することを決意するようになります。学生時代のエミールが単に学問の上からだけでなく、実際的な「人間の理解」という面からも貴重な体験を積んでいたことが分かります。

 ところで、エミールの余暇生活はどうなっていたのでしょうか。「私は、彼らが少しもたしなまなかった芝居と音楽に心を奪われた」。エミールはアランソン時代に音楽を始めました。やさしい吹奏楽器を覚え、ついでブラスバンドの副指揮者になり、やっつけで行進曲を編曲したりしました。けれどエミールはまだクラシック音楽を知りませんでした。
  エミールはパリに出てきて初めて本当の音楽に接しました。「20歳になってはじめてモーツアルトやベートーヴェンを知ったことは、たしかに小さなことではなかった。私はその恍惚たる誘いによって、一も二もなく音楽会に入りびたった」。
  彼は音楽会に出かけ、演劇にも親しみました。パリにはフランス座という劇場がありましたが彼は学生という特権もあって、改札係や案内嬢ともすっかり顔なじみになり、金のないときでもいつでも席が取れるようになりました。彼は楽屋にも入り込み、スタッフやキャストとも親しくなり、演劇の舞台裏を観察しました。

 アランは、「仲間内の慰みに、即興で韻文の一幕を書いたおぼえがある」と書いています。エミールは演劇にもちょっと入れ込んで、遊び半分に脚本を書いてみました。そこでエミールは、脚本を書くことが自分にとって何の苦労もいらないことだ、という発見をします。そして、彼は「だから、演劇は自分の仕事ではない」と判断します。ずいぶんへそ曲がりですね。彼は、自分にとっては難しい音楽のほうにより熱中しました。
  ラニョーの教室、好きな本の耽読、気のおけない友達、コンサートと劇場通い・・。エミールはいかにも学生らしい、幸福な青春を過ごしたようです。

 
   
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