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アランとはどんな人
 
第3章 ドレフュス事件おこる

へそ曲がりの学生
  エミールは21歳になりました。高等中学時代も終わり、そろそろ大学=高等師範学校(エコール・ノルマル)の受験が近づいていました。必要な科目を勉強しなければならず、失敗すれば何度でも受験しなければなりません。
  エミールはこのときも彼特有のへそ曲がりぶりを発揮しました。「本来なら、私は自分に欠けていた部分、すなわち歴史およびラテン韻文法をすこしばかり大いそぎでやっておくべきだったろう。私はこれらの勉強はお預けにしておいて、結局いちどもやらなかった。そのかわり私はフランス語論文の作り方を文学と哲学の両方にわたって速やかにおぼえた。私はヴォルテールをすみからすみまで読みふけった・・」。

 彼はパリのエコール・ノルマル・シューペリエールを受験しました。口頭試問のとき、エミールは無分別にも出題とはまったく関係のない回答をして試験官たちを驚かせました。
  「・・たとえばブリュンティエルをまえにして、ユゴーの有名な一節(天よりの火)、『エジプトよ。ましろなる麦の穂波の・・ひろがれる・・』というところを注解したのち、これを大声で、ずいぶんへたくそに読み上げて、あっけにとられる教授を尻目に、さっさと全体の批評を始めたものだ。あとで知ったところでは、聴講者たちも憤慨していたそうである。ブリュンティエルは私を救おうとしたが、私はまるでどこ吹く風であった」。
  先生たちはエミールのこのふるまいにどう対処したらいいか、頭を抱えました。教授会の席上で「落第させるべきだ。とんでもないやつだ」という意見がある一方、「いや、あいつはなかなか個性的で見どころがある」との意見が交わされたものと思われます。結果的にはエミールを支持する教授連が勝ちました。さすがに個性を尊重するフランスです。エミールはなんとか大学入試に合格しました。

 エミールのへそ曲がりぶりは、学生としての彼の勉学のやり方をも規定していました。彼はいつも自分が考えた方法で本を読み、自分が納得するまで勉強しました。通説や、しきたりには一切とらわれませんでした。またテーヌやルナンといった当時もてはやされていた批評家や権威者に少しも敬意を払わず、むしろ先鋭的な批判を楽しんでいました。
  ときとしてエミールの論文はあまりにラジカルなので話題になりました。「私がねらいをつけたのは、魂の抜けた批評であり、ねらいは正しかったのである。私はひろく恐怖をおこさせたからであるが、それも露悪と韜晦をない混ぜてであった」。
  学校では、エミールの態度を容認していました。「ブリュンティエルでさえも、あれほど無礼だった私に対していつもまったく申し分のない態度だった。私はよく彼の鼻先でプラトンを読んでいたものだ」。教室に、教材とはまったく関係のないプラトンの本を持ち込んで、先生が気づいているのもかまわず、平然と読んでいるエミールの姿が見えますね。

 「結論をいうと、目つきもしぐさも猪のようだった校長ペロを含むこれらすべての老獪な人々は、こういう不羈奔放について十分正しく判断していた。しかし彼らは、よく知っていた断崖のふちを私が暴走するにまかせたのである」。
  学生エミールは手におえない異端児でした。しかしエミールは自分に関心のある勉強をどんどんやっていましたから、先生たちも勝手にさせておくほかはありませんでした。それにしても学校のほうにも、規則を守らないという欠点だけで生徒を見るのではなく、個性や長所を認めて容認する度量があったことが分かります。へそ曲がりのエミールにとって、恵まれた教育環境だったといえるでしょう。

 

へそ曲がり教育論
  エミールは卒業のときもへそ曲がりを発揮しました。「最後の首尾がどうなるかは、いちども問題にしたことがなかった」。誰でも卒業、就職ともなれば神経質になります。今日の日本の学生たちにとっても就職は大問題ですね。彼の時代でも就職は学生たちの関心のマトだったに違いありません。
  ところがエミールは就職にはまったく無頓着でした。「いよいよ修業期になった。職業が私を待っていたが、私は職業のことなど何一つ気にかけていなかった。私はまず荷物をひっくり返したが、中味は主としてプラトンとアリストテレスだった」。
  彼の大学はいわゆる師範学校ですから、卒業生は学校の先生になるのが一般的でした。エミールにも教職員としての紹介がありました。彼は就職係の先生に「ポンティヴィに教師の口があるよ、行ってみるかね」といわれました。エミールはろくに行き先もたしかめないで、「はい、行きます」と答えました。そしていきなり引越しの荷造りを始めたのです。

 「はい、行きます」というのは素直といえば素直ですが不真面目といえば不真面目です。「へそ曲がり」はアランの生き方と思想を決定づけています。「思うにこれは、私に生まれつきのもので、私の呼吸そのものというべき精神の一つの動きなのである。私が一つの観念をもつかぎり私はそれを否定しなければならぬ」。
  アランは「自分にはこんなことは容易だ」と分かったら、「これは自分の役柄ではない」と否定することにします。「誰もがこうしている」と分かったら、同調しないことを誓います。「権威がある」「人気がある」とされているものについても、自分で確認しないかぎり尊敬を払わないことに決めます。彼はこの方針を生涯貫きました。

 教育方針についても、アランには独特の考えがあります。たとえば今日、先生や親は子供の進学や進路を指導するときに、当人に向かって「自分が好きなこと、得意なことを伸ばしなさい」といい、「君がしたいことは何?」などと聞きます。
  ところがアランの教育方針はこれとはまったく逆です。「ある職業への適性の徴候にしたがって教育の方向を決めてはならぬ、ということだ。なぜなら、まず好みというものにだまされることがあるからである。それにまた、自分が知りたくもないことを学ぶのは、つねにいいことだからである。それゆえ、まずもって好みの逆をいき、そして、ながく逆をいき続けるとよい」。

 もしも理科や数学しか好きでない学生がいるとします。その子は歴史や法律や文学を勉強しなければならないとアランはいいます。詩人としての才能があるなら、その子は数学や手工を勉強する必要があります。このアランの考え方は、「持っている才能を伸ばしなさい」「好きな道を行きなさい」という私たちの教育方針とは逆です。
  アランは「人間は総合的に自己完成を目指さなければならない」と考えます。自分が好きなことだけを勉強し、ニガ手な勉強をおろそかにしていると、料簡の狭い専門バカになってしまいます。本当に好きなことは、放っておいても勉強するし上達もします。やがて詩人は本物の詩人になり、科学者は科学者になるでしょう。

 アインシュタインがヴァイオリンを弾き、ハイゼンベルクがピアノを弾いたことが知られています。彼らは断じて物理バカではなく、幅広い人文的知識を持ったヒューマニストでした。彼らは自分自身を総合的に完成させるための手だてをおろそかにせず、総合的な基盤の上に専門家としての業績を花咲かせたのです。
  「好きなことだけを勉強していてはいけない」という忠告は、エミールが試験に必要な勉強をしなかったという話と矛盾するように思えるかもしれません。けれどエミールは、ちょうどデカルトがしたように、自分の修行時代を「自分自身を教育するための期間」と位置づけ、自分自身のための独自のカリキュラムをこなしていたのです。
  彼としては自分が自分のために組んだカリキュラムと、学校のカリキュラムを両立させながら毎日を送っていました。事実アランの読書の範囲は幅広いもので、人文的な領域を中心にしながらも、自然科学分野の書籍も数多く読みこなしています。

 
 

生徒3人の教室
  エミールは哲学教授の資格を取り、なりゆきに身をまかせて、彼はブルターニュ地方にある小さな町、ポンティヴィにやってきました。アランの教師としての第一歩です。
  この学校は小さな高等中学校で、哲学の勉強をする学生もわずかでした。エミールは二つのクラスを合併で教えたのですが、それでも生徒はたった3人でした。生徒の1人は頭でうなづいて見せるのですが、何も分かっていません。
  エミールは古代の哲学の講義から始めました。生徒が3人しかいない教室で、24歳の彼が何を話したのか、生徒たちがどのように反応したのかは分かりません。彼はこの時代、徹底的にアリストテレスを読み、自分なりの注釈のノートを作っていました。
  エミールは絵の趣味を覚えました。幸い友達ができ、この友達と画具を持っては野外をかけめぐりました。「私たちは絵具や画布を、やたらと使いまくった。私は詩を作るすべと同様に、絵にも向いていないことが分かった。自分の部屋に戻ってくると、私は一ページまた一ページと書きたしてゆき、その部屋からまた、ありったけの声と雄弁をふりしぼって三人の生徒を教えるために出かけてゆく」。

 彼はこの新任教師の時代を「僧房生活」と呼んでいます。一人暮らしの小さなアパートか下宿先、夜遅くまでの読書、独習、友人とのスケッチ・ハイキング、そして学校での一人相撲的な授業、・・こんな暮らしを6ヵ月も続けているうちにエミールはとうとう病気になりました。「私は今にも死ぬかと思った。病床にあること1ヵ月月、それに3ヵ月の休養をとった。私は生きることに無知だったのである」。
  学生時代、エミールは寄宿舎にいました。授業は毎日ありますから、いくら放縦な生活を送るとしても、それなりに生活のリズムがあります。それに友達づき合いもしなければなりませんから、読書をやめて街に出ていったり、トランプをしたりなど・・。
  ところがポンティヴィに来てみると、3人の生徒を教える授業がおそらく一週間に一回でしょう。ありあまる時間を一人で過ごさなければなりません。はじめのうちエミールは好きなだけ勉強ができると思って喜びました。そしてきびしい日課を作って毎日夜遅くまで勉強しました。その結果手抜きを知らない孤独な勉強生活は、エミールの心身を疲弊させてしまいました。

 「(これまでは)僧房のなかで勉強したことはいちどもなかったから、そういうことについてはいささかの心得もなかったわけだ」「生きることに無知だったのである」。
  夏目漱石はロンドンに留学した修行時代、猛烈に勉強しました。ついに彼は健康を害し、深刻なノイローゼに陥ったといわれています。おそらく夏目漱石も「生きる」ということについて無知な、手抜きを知らない真面目な学究の徒だったのです。
  私たち怠け者は、はじめから適当にやることを知っています。この点、いささか知りすぎているくらいです。それに理解力が乏しく進歩が遅いので、あまり集中力を発揮できません。しかし集中力を発揮できないということが、「息抜き」の口実にもなるわけで、このために心身の健康を保っていられるのです。何が幸いになるか分かりません。
  夏目漱石やアランのように頭のいい人は、勉強そのものが面白く、自分の知性に触発されながら、寝食を忘れて勉強しすぎてしまうのです。一人暮らしをしていると、このようなライフスタイルに歯止めがかかりませんから危険です。

 
 

ロリアンで「アラン」誕生
  ポンティヴィでの生活は一年で終わりました。エミールの赴任先は同じブルターニュ地方にある海岸都市ロリアンに変わりました。「・・私はロリアンにやってきたが、相変わらずの僧房生活であった。後はチェスと慰みの絵画、それに生徒数が多くなったのと秩序を維持する必要から多少仕事が増えていた」。
  エミールは学校の先生らしくなってきました。病気も一応は治りました。彼は次第に多くの義務や交際や仕事を持つようになって、少しは生活のバランスをとれるようになりました。
  相変わらずプラトンやアリストテレスの注釈を作るたいへんな作業を続けていましたが、多少は息抜きも覚えるようになりました。「こうして隠れ家から出た私は、大変陽気で活気に満ちた町に足をふみ入れた。そこで私は2人の友人と再会した。こうして6年にわたる一種の夜の歓楽が私を憂鬱から癒してくれた」。

 エミールはここで師範学校時代の友人に出会いました。そして毎晩のように彼らと会い、町の知識人などと会食しながら議論をし、あるいはチェスを楽しみました。町での交友関係からエミールはいくつかの活動の方向性を見出しました。その一つは彼が「ロリアン新聞」に寄稿するようになったこと、もう一つは「ドレフュス事件」への対応です。またエミールはこの頃から「市民大学」のための活動もするようになりました。
  エミールは「ロリアン新聞」に寄稿するさいに「アラン」というペンネームを用いました。またこの時代、彼は哲学論文などには「クリトン」というペンネームを使っていました。けれどやがてクリトンという名はあまり使わなくなり、「アラン」に統一されました。
  ここで「アラン」という名が登場しましたから、私たちも「エミール」の名に別れを告げて、「アラン」の名を用いることにしましょう。

 ロリアンの小さなサロンでは政治のことがしばしば話題になりました。そんなある日のこと、アランは「ドレフュス事件」について自分の態度を決定するチャンスがありました。彼はそのときの様子を次のように書いています。
  「ある日のこと、軍隊で各国語の通訳をしていた朋輩のドルヴィルが、新聞をさしながら私にこういったことをおぼえている。『ドレフュスはあくまでも無実を叫んだよ』(それは官位剥奪の翌日のことだった。)『ぼくは軍人連中のことはよく知っているが』と彼はつけ加えた。『何か大きな間違いをやらかしたのではないかと思う。連中はそれをあらだてたくないのだよ。』滑稽なまでに軍服を愛していたこの男の言葉で、すぐに私の見方は決まった」。
  ドレフュス事件は世紀末のフランスの社会を揺り動かした大事件の一つでした。皆さんもよくご存知のこととは思いますが、事件をかいつまんでみましょう。

 
 

ドレフュス擁護に立ち上がる
  1894年10月、ユダヤ系のフランス軍人ドレフュス大尉がスパイ容疑で逮捕されました。彼は12月に裁判にかけられ、終身流刑の宣告を受けました。そして翌年1月5日には官位を剥奪され、4月には仏領ギアナにある「悪魔島」に送られました。ここは例の映画「パピヨン」で有名な島です。
  結論からいうとドレフュス大尉はまったく無実でした。それどころか彼は愛国心にあふれた、真面目で成績優秀な軍人だったのです。今日ではドレフュス事件に関する真相解明が進み、彼の上司が真犯人であったこと、軍隊が事件の真相を隠そうとしてさまざまに画策したこと、公式の裁判でも不正な判決が行なわれたことなどが判明しています。
  ドレフュス大尉の復権が確定したのは、1906年のことでした。事件発生から12年もの歳月が流れたのです。ドレフュス大尉は「悪魔島」で、実質5年間にわたって悲惨な流刑生活をしなければなりませんでした。彼はこの体験を「わが人生の5年間」という本に書きました。

 アランは「それは官位剥奪の翌日のことだった」と書いていますから、アランが友人のドルヴィルから話を聞いたのは1895年1月6日ということになります。事件が発生してから2ヵ月目、かなり早い段階です。このときアランは26歳でした。彼はこのときにいち早くドレフュス擁護者としての自分のスタンスを明確にしました。そしてアランは、さまざまな発言手段を活用してドレフュス擁護の論陣を展開します。
  フランスの世論は大きく「反ドレフュス派」と「ドレフュス派」に分かれました。そして猛烈な議論が行なわれるようになります。エミール・ゾラはドレフュス擁護派の大立て者です。彼は新聞の一面を使って「われ弾劾す」という一文を発表しました。彼はドレフュス事件がでっち上げであることを論証し、時の軍の責任者や政治家を名指しで弾劾しました。ゾラはこの件で有罪判決を受け、一時イギリスに亡命しなければならなくなりました。
  田舎町ロリアンで、アランが入手していた事件に関する情報がどの程度のものだったのか、それは分かりません。軍隊通のドルヴィルのような友人がいたとしても、事件初期の段階でそれほどくわしい情報が手元にあったとは思えません。ではアランはこのときどのような根拠にもとづいてドレフュス擁護の立場を取ることを決心したのでしょうか。

1.当時新聞では筆跡鑑定の結果が公表されていました。それによると、ドレフュス大尉が書いたとされるメモについては、筆跡鑑定の結果が分かれたというのです。ある鑑定人はドレフュスが書いたものとし、別の鑑定人は違うとしました。にもかかわらず、早々と軍法会議が行なわれ、有罪が確定しました。審理が不十分なまま裁判が行なわれたという印象が濃厚でした。
2.ドレフュス大尉があくまで無実を主張しました。当局は大尉の発言からは、有罪を暗示するどのようなコメントも引き出せませんでした。かりにメモに証拠価値があったとしても、それは状況証拠に過ぎませんでした。
3.ドレフュス大尉がユダヤ人でありしかもアルザス地方の出身者だったため、反ユダヤ感情、反ドイツ感情がドレフュス事件におおいに色づけをしていました。人々は「反逆者を殺せ、ユダヤ人を殺せ!」と叫んで、ドレフュス大尉の有罪主張と処罰要求キャンペーンで気勢を上げました。
4.反ドレフュス派がメジャーでした。軍、政界がドレフュスを有罪とし有力新聞もこれに同調し、大多数の国民が彼の有罪を信じていました。

 国民の大部分がドレフュスの有罪を信じる空気があったという点では、最近のわが国の松本サリン事件のときのK氏の事例に似ています。わが国でもマスコミがK氏をほとんど犯人扱いにし国民の大半がこれを信じるという状況にありました。このように、大多数の人々が一定の方向を向いているときに、アランのへそ曲がり精神が黙っているはずがありません。
  彼は大多数の人がドレフュスを攻撃し、その筋がドレフュスを犯人であるとしている、この事実に抵抗しようとしたに違いありません。このとき、アランだけでなく、多くのフランスの知識人がこの事件に関心を持ち、ドレフュス擁護の立場を取りました。これらの人々はいきなり「ドレフュス大尉は無罪だ」と主張したのではなく、審理をもう一度慎重にやり直すべきだと主張しました。だから彼らは「再審派」とも呼ばれています。

 
 

市民大学で語り、新聞を発行
  アランはラジカルに書き、叫びました。「ロリアン新聞」が大きな活動の舞台になりました。アランは「市民大学」の運動にも参加していました。これは一種の大衆啓蒙運動で、知識人が民衆の中に入っていって、講習会や勉強会を通して人々を教化しようというキャンペーンでした。アランはここでも自分の主張を述べました。
  「けれども、明らかに将帥たちがまるで誤謬を名誉とし、これを機会に、彼らがわれわれの支配者であることを思い出させようとしているのを見たとき、私は果然身を投じて、ドレフュス派の友人たちを結集した」。
  「われわれは町や郊外で語った。それは少しも教えるためではなかった。われわれは民衆に、彼ら自信の考えていることを話したのだ。われわれはあらゆる専制の仮面をはいだ。まじめなブルジョワジーの一部や、さらに陸海軍の若干の仕官すらも、われわれの味方であった」。

 このような記述から、アランたちが事件をめぐってどのように行動したか、どのように気分的に高揚していたかを知ることができますね。また、アランは仲間内ではかなりの重鎮であったことが推察されます。思想家アランは、ドレフュス事件によってデビューしたわけです。
  アランと仲間たちは、自分たちの手で新聞を発行することにしました。「雄弁の次は出版だった。急進派の一新聞が創刊されたが、たちまち金と記者に窮するありさまだった。けれどもこの新聞は、私が町を去るまでつぶれなかった。私はそれを援助したというだけでは足りない。私は間もなくその主筆の役をするようになった。編集長はカフェの常連だった。彼は自分自身の怠惰を嘆いて、変わらぬ感謝を私に誓ったものである」。

 仲間内で「われわれ自身の新聞を発行しよう」という話がでます。「そうだ、われわれには主張の場が必要だ」「そうだ!」「やろう!」。こういう建設的なアイデアはまとまるのが早いものです。たちまち編集長が決定します。ところが、こうした仲間内の話にはえてして経済的、実務的な裏づけがありません。
  期日まで原稿を書くと約束した仲間が、「仕事が忙しくて」「思わぬアクシデントで」「取材に応じてもらえなかった」などと、いいわけたらたら・・。かんじんの原稿が集まらないなどというのはざらで、資金の話になると誰もが沈黙します。結局最初の志と勢いはどこへやら、しばらくすると浮わついた仲間はみな現場から姿を消します。「同人誌は一号で潰れる」といわれるのはこのためです。
  このように仲間内の盛り上がりで決定した計画はたいてい宙に浮いてしまうものですが、中に本当に真剣なメンバーいると、プロジェクトが立ち上がり、その縁の下の力持ち的なメンバーが活動しているうちは続きます。

 会社でよく行なわれる品質管理の小集団活動もこれに似ていて、実質的なデータ取りや分析、まとめ作業などをしているメンバーはごくわずかです。ほかの連中は仲間として名前を連ねてはいますが、じつは何もしていません。この連中も成果発表などという晴れがましい席になると、のこのこ出てきて、自分もいかにもチームメンバーとして努力したかのような顔をします。中には自分はチーム活動に実際に協力したという錯覚に陥るメンバーもいるくらいです。
  新聞の発行のように、外目にはカッコいいけれど、実質的で継続的な努力が必要な活動になると、メンバーの表現能力と資質が容赦なく露呈されます。アランの仲間も、編集長もあまり頼りにならなかったようです。そしてアランがロリアンを立ち去ると、この急進的な新聞は潰れてしまいました。
  アランは主筆として論説を書き、その他の埋めぐさの記事まで、自分で書きました。学校の先生をしながらこれを続けたのですから相当なエネルギーです。「実状はといえば、私はそこで夜をふかして、しばしば暁におよぶほどであった」。

 
 

私は民衆を愛していない
  アランの記事のいくつかは好評でしたが、アランが力を入れて書き、好評を期待したものと、実際の評価にはズレがありました。アラン自身もたくさんの文章を書きながら、自分の文体についていくつか発見をしました。たとえば大急ぎで、即興的に書いた無署名の記事のほうに自分として満足できる文体が見つかりました。
  アランは思想家としてだけでなく、すばらしい「文体家」として知られています。彼の文体は日本語に翻訳されてもなお、独特のスタイルと輝きを持っています。翻訳者が違っても、アランの文章の特長が現われるから不思議です。若いアランは、フランスの一地方の、ラジカルな時事評論家としてスタートを切り、新聞作りの縁の下の力持ちとして活動しながら文体と思想を磨いていったのです。
  アランはマルクスを読み、プルードンを読み、急進的な闘士としての発言を続けていました。市民大学の活動にも熱心でした。そんなある日のこと、若いアランが講壇で弁じていると、熱心に聴講していた若い労働者風の男が質問しました。

 「あなたはプロレタリアート側に入ってくれるんですか」。アランは答えました。「私? 私はどちら側にも入らない」。「じゃ、あなたは民衆を愛していないのですね?」。アランは再び答えました。「そう、民衆を愛していない」。
  私はこの話がとても好きです。当時のアランの立場は反体制的であり、急進的であり、明らかに左翼的でした。だからプロレタリアの仲間は、アランを自分たちの同志だと思い込んでいたのです。そこでアランの言葉の響きに中間的なものを感じた聴衆の一人があらためて「あなたは私たちの側の人間でしょう」と確認をしたわけですね。
  すると驚いたことに、アランは「どちら側でもない」という返事。そこでこの若者は「じゃ、あなたは民衆を愛していないのですね」とたたみかけたわけです。アランの考えでは、自分がドレフュス擁護の立場を取ったのは、体制側の茶番劇を我慢できなかったからです。マスコミに押されるままに、大勢が考えたり行動したりすることを拒否することが大切だと思ったからです。自分がここでこうして民衆に語りかけているのも、多くの人々に自分の頭で、主体的にものを考えてもらいたいからです。

 だから、アランにとっては民衆を愛しているかどうかなど問題になりません。それどころか、「民衆」という名のもとに、別の集団を作ってその集団とともに考えたり行動したりすることなど、アランには考えられません。
  議論は「正しいか」「正しくないか」を論争するものであって、「愛しているか」「愛していないか」を論議するものではありません。愛していれば間違っていてもいい、そちらの味方をする、などというのはまったくナンセンスではありませんか。
  ちなみに、ドレフュス事件の中心となったドレフュスという人は、風貌が冷たい感じの人で、あまり大衆好きのする人ではありませんでした。誠実でしたが、おべんちゃらのいえない人で、再審請求のために働いてくれた多くの支持者に対しても、感謝のお愛想をいうこともしなかったようです。このために、ドレフュス派の人々も次第に運動の足が遠のいたといいます。

 アランにとっては、彼がドレフュスを個人的に好きかどうかなどということは問題ではありません。ドレフュスが誰で、どんな顔をしていようと、正しい裁判を受ける権利がある、と考えているだけのことです。
  「では、民衆を愛していないのですね」といわれたとき、アランは「もちろん、愛している。けれど愛することと、議論は別物だ」といえばよかったのでしょう。人間が好きでなければ学校の先生や新聞作りや、市民大学のボランティアなどできるわけがありませんからね。けれどもアランは答えました。「そう、民衆を愛してない」。
  この返答の中には、こんな子供じみたことをいう連中にはうんざりだ、というニュアンスが入っていますが、それ以上に、最初から「愛」という言葉でお互いに議論をゴマ化すのは止めようではないか、もっと冷徹に大人の議論をつくした上で、各人の感情を大切にしようではないか、というアランの気持ちが込められています。

 「考える」ということは、自分一人で責任を持ってしなければならないことであり、決して徒党を組んですることではない、アランはこれをいいたいのです。そこでアランはこの件について書きました。「さて、プロレタリアートに与するかどうかとお尋ねだ。これはどういう意味なのか。幼年期から足を洗おうではないか」。
  最近「愛がすべてだ」といったたぐいの議論が聞かれます。それは「では、民衆を愛していないのですね」と叫んだ若者の声に似ています。アランは、群集として考えることを拒否し、議論の場に「愛」が登場することを拒否しました。

 ちなみにドレフュス事件はユダヤ人問題でした。ドレフュス一族の一人は、のちにナチの大量虐殺の被害者となりました。ユダヤ人問題といえば、ナチの専売特許の感がありますが、この当時フランス人が同国民であるユダヤ人に対して迫害を加えたのです。そして今でも反ユダヤ感情は消えていないといわれます。
  集団として考えることを拒んだアランにとって、ユダヤ人だから排斥するとか、保護するとかを論じることがナンセンスでした。たとえユダヤ人であろうと、フランス人であろうと、ドイツ人であろうと、いいものはいい、悪いものは悪い、徳と正義と平和は、まず個々人の中で確立されなければならない、これがアランのスタンスでした。
  アランはこの事件を通して、いろいろなことを学びました。同志と新聞を作り、共同で仕事をするとはどういうことかを知りました。文章を書きながら人々の反応を見たり、自分として納得がいく文体について考えました。仲間と議論し、同志と考えることの難しさ、大衆の味方となることの難しさをも体得したのです。

 
   
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