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アランとはどんな人
 
第4章 ルーアン、そしてパリへ

毎日書くことの大切さを知る
  1900年、19世紀が終わろうとする年になりました。アランは今や32歳です。この年、アランはノルマンディ地方にあるルーアンに移り、コルネイユ高等中学校の教授となりました。
  アランはこの間「書く」ということの大切さを知りました。「私はこのときに、書くことの幸福を知った。そしてこの勉強は、『語録』を書いたときまでつづけられた。私はやがてスタンダールのなかに、当人も知るのがおそすぎたと告白している次のような一種の格言を見つけたが、そのときの嬉しさといったらなかった。『天才であろうがなかろうが、毎日書くこと』」。

 ここに出てくるスタンダールの言葉は、自伝的エッセイ「アンリ・ブリュラールの生涯」の第19章に出てくる一節です。スタンダールは次のように書いています。「もし私が、1978年頃にものを書きたいという私の企てを話したら、だれか良識のある人間が私に言ってくれたことだろう。――『毎日二時間ずつものを書きたまえ。霊感があろうとなかろうと』。この言葉は霊感を待つために愚かしくも消費された私の生涯の10年を利用させたであろう」。
  スタンダールは若い頃、自分の頭の中にすばらしい着想が湧くのを待って、それから仕事をしたといっています。ところがあるとき、霊感が湧こうと湧くまいと、「毎日二時間ずつ書く」という習慣を維持することの大切さに気づきました。
  「アイデアやテーマがなくては書こうと思っても書けないではないか」という人がいるかもしれません。またそういう意見は一見もっともらしく聞こえます。けれど、スタンダールは「書き出せば着想が湧いてくる」ということに気づきました。まずペンを持ってデスクの前に座り、原稿用紙に何かを書き出すことが重要であり、自然に湧いてくるアイデアを待ってぼんやりしていてはいけないというのです。

 アランはミニ新聞とはいえ、新聞の論説を書いていましたから、ネタがなくても書かなければなりません。記事がない、アイデアが湧かない、などといってぼんやりしているわけにはいきません。アイデアよりも先に書くという行為が必要だったのです。これは、「まず行動を起こせ」「継続せよ」というアランの生涯変わらない信条となりました。
  アランは「毎日書く」という習慣を身につけ、やがて新聞の原稿を書く必要がなくなってからも、毎日ノートに一定量の原稿を書くことを自分に義務づけました。この時代に書かれた3冊のノートは「ロリアン帳」と呼ばれています。
  アランが発見し、スタンダールの中にその正しさを確認したこの「毎日書く」という習慣は、やがてルーアンに移り、さらにパリに出てからの、アランの有名な「語録(プロポ)」として花開きました。プロポとは、一編が便箋二枚ほどの短いコラムのような原稿記事で、短いエッセイといったほうが分かりやすいかもしれません。

 アランはやがて「ルーアン新聞」に頼まれて「日曜日のプロポ」という原稿を書くようになりました。このプロポは評判になりました。気をよくした新聞社ではアランに毎日書いてくれるように頼みました。アランは引き受け、プロポの数はついに5000編以上にのぼりました。第一次大戦をはさんで20年近く続けられたことになります。
  プロポはアランの著作、著書の一角として完成されるとともに、アランの思想と作品の基底部分を形成しました。アランの著作として有名な「幸福論」「人間論」「情念論」「宗教論」などは、いずれもこれらのプロポから抜粋、編集して作られた本です。
  ちなみに「幸福論」も「人間論」も100編にちょっと足りないプロポを収録しています。かりに一冊100編とすると、書籍になったのは、アランが生涯に書いたプロポの10%にもなりません。プロポ全部を本にしたとすれば、「幸福論」に匹敵するボリュームの本が50冊もできたことになります。
  もちろんアランが書いたのはプロポだけではありません。書き下ろしの書物や論文が山のようにありますから、プロポだけでアランを判断してはいけません。けれど、アランがスタンダールから学び、確信したことを、自分自身に対してどのように適用し、これをどのように守ったか、プロポの実績からだけでもおしはかることができます。

 

馬が秣を引き出すように
  少しずつでもいいから何かを継続すること、これがアランが自らに教え、他人にも助言したことです。これに関連してアランは次のようにいっています。
  「意思は一貫した行動によってのみ証明される。それゆえ、何よりもまず意欲しなければならず、いわば無償で意欲しなければならない」。アランは「やるつもりだ」とか「やったことがある」という話をさっぱり評価しませんでした。「げんにやっている」というべきだ、というのがアランの主張でした。そのために必要なのは、実行に移す、続ける、その意欲と勇気なのです。 また学校で生徒たちを教えながらアランは「生徒の勉強は性格の訓練であって、知性の訓練ではない」ともいいました。大多数の生徒たちにとって勉強は正直のところわずらわしく、いやなものです。数学の公式を一つ覚えたからといって、人生がどうなるというわけでもありません。だからこそ、それに打ち勝つことが生徒たちの修行なのだとアランは考えました。

 同じ考えをたどって彼はこうもいいました。「電話や振替の番号であれ、住所であれ、姓名であれ、パリ地図であれ、仏領アフリカの地理であれ、知っておくべきことを反復練習するのに毎朝五分かければ、いかに悪い記憶も間違いなくおぼえることができるようになるだろう。ただそれができると信じるのでなければならない」。
  アランは例のスタンダールの文章を発見して喜んだという記述の後で、「このような、語ること、書くことのすべての練習をつうじて、私は馬が秣を引き出すように思想を引き出したものである」と書いています。
  「馬が秣を引き出すように」というのは、いかにも獣医エチエンヌの息子らしい表現ですね。馬が乾燥した草を食べるとき、絡み合った繊維が、馬の咀嚼にしたがって中から引き出されてきます。馬の口に入っていくのは定量の秣ですが、馬が草を噛み、飲み込む力によって、次のえさが口元につながってやってきます。この動きは連続的なものです。
  試みに一つの文章を書いてみると、次に書くべきことが思い浮かび、またそれを書くことによって次の考えと文章が引き出されてきます。最初に書くべきことの全体を決定するのではなく、自分の書く文章自身が、自分の考えを連続的に引き出す、アランはこのようなことをいいたかったのです。

 書くことは考えることです。だから、考えついてから書くというのは嘘で、書きながら考え、書くことによって考えるというのが本当です。スタンダールが「霊感があろうとなかろうと」といっているのは、あらかじめ事前に着想があろうとなかろうと、という意味だけではなく、霊感とは書くことによってもたらされるのだ、ということです。
  アランは「人のインスピレーションは非意志的だ。それは待たねばならないというかもしれない。しかしそこにこそ、ある投げやりな意見があるのだ」といいました。つまり、彼は「毎日書く」という習慣の中から、霊感は待っているべきものではなく、自分のほうから日課として取りにいくべきものであるという、大切な人生の秘密をつかんだのです。
  ロリアンからルーアンに至る時期、アランはモンテスキューを読み、ルソーを読み、デカルトやコントにも親しみました。また科学研究雑誌「ルヴュ・ド・メタフィジック」に定期的に寄稿していました。彼は数学や科学の業績にも深い関心を持ちました。ロリアン時代には、地質学の調査にも加わったことがあります。

 アランは「ルヴュ・ド・メタフィジック」誌にクリトンという筆名で、哲学論文を発表しました。このときの原稿は「第一哲学に関する手紙」という単行本になりました。わが国では「考えるために」というタイトルで翻訳出版されています。
  ところで、「アラン」に先立って用いられた「クリトン」という筆名ですが、これはプラトンの対話編の一つ、「クリトン」という書物に出てくる実在した人物の名です。この人はソクラテスの子供のときからの親しい友人で、年齢的にもソクラテスとほぼ同じくらいの人でした。クリトンはソクラテスのよき理解者であり、信奉者でもありました。
  プラトンの著作「クリトン」の中で、クリトンはソクラテスの入獄から死刑になるまでの間、毎日のように牢獄を訪問し、ソクラテスのことを心配し、あれこれと世話をやきます。彼はソクラテスに脱獄をすすめますが、ソクラテスが拒否したため実現しませんでした。
  アランがあえてクリトンの名を使ったのは、音が短くて響きがよいからでもあったでしょうがこれは彼がプラトンに傾倒していることを示すメッセージでもありました。クリトンはソクラテスの讃美者、崇拝者です。アランはこの筆名を用いることによって、より謙虚な、一ソクラテスファンとしての自分のスタンスをも明らかにしたかったのです。

 クリトンの名で発表された論文「第一哲学に関する手紙」は、先輩格に当たる一思想家が、若い一人の学生に送った手紙という形式で書かれています。なおこの学生は実在した人物で、若くして戦死したことが分かっています。
  いささか読みにくい、アランの処女作ともいえるこの本を読んでみると、アランの生涯を貫く思想の基礎部分がすっかり完成していることが分かります。人間は年齢と共に成長し、若気の未熟を修正していくものです。ときに人は、若いときとはまったく違う考えを持つようになったりします。これに対して、アランの場合は20歳代の後半から30歳代前半にかけて、世界の見方ものの考え方のもっとも重要な部分をしっかり作り上げていました。

 アランの書籍としてもっとも有名な「幸福論」を例にとって考えると、「幸福論」の中に収録されているもっとも古いプロポは1906年のものです。これに対して最後のプロポは1926年のもので、その間20年の隔たりがあります。20年前の作品と最近の作品を一緒に編集して矛盾のない思想を組み立てられるところがアランのすごいところです。
  私がかりに20年前の自分の原稿を読み直したとしたら、「え、これ私が書いたもの? 恥かしい。私も当時はずいぶん幼稚だったんだな」などというに違いありません。アランの場合は、若い時期に高度な、認識論的な「悟り」の段階に達し、生涯をかけてこれを磨きました。

 
 

「無意識」を認めない
  アランがこの時期に達した結論で、時流にさからった、しかも生涯変わることのなかった思想を一つご紹介しましょう。私はこれをアランの「アンチフロイト主義」と名づけます。フロイトは1856年生まれのオーストリアの医師です。アランよりも12歳年上ですから、ラニョー先生とほぼ同年代です。
  フロイトの業績については今さら説明の必要はないでしょう。彼はヒステリー患者の観察を通じて、「無意識」の概念を発見しました。そして神経症の患者のうちに、精神的な抑圧体験、それも性的な抑圧体験が隠されていることを発見しました。フロイトの学説は世界に大きなセンセーションを引き起こし、やがて広く認められました。こうして彼は「精神分析学」の祖となりました。フロイトの流れを汲むユングやビンスワンガー、フロムなどの精神分析学者も有名です。

 フロイトは精神医学に強い影響を与えただけでなく、一般の人々のものの考え方にも少なからぬ影響を与えました。たとえば私たちは、「いや、無意識のうちにやってしまったんだ」などといいますし、「深層心理が問題だ」などといったりします。
  たとえば異常な犯罪人が現われたような場合、マスコミなどが盛んにその人物の生い立ちに探りを入れ、犯罪の遠因を説明しようとします。人間の思考や行動の背景に、その人を規定しているもう一つの精神構造がある、それは幼児期の体験、とくに性的な抑圧体験によって規定されている、このような考え方は今日では常識となりました。アメリカでは精神分析が大はやりです。かかりつけの精神分析医にカウンセリングしてもらっていることが、まるでアメリカ人のステイタスであるかのようです。
  アランはフロイトが樹立し、今日ゆるぎない権威を持っている学問の基礎に、鋭い疑問を投げかけました。彼は、この問題をいろいろなところで取り扱っていますが、「第一哲学に関する手紙」の中で、次のようにいいました。「まず、私は、なにによってある思惟の働きが無意識だったと認められるか尋ねたい。というのは、われわれはこの問題について回想によってしか判断を下しえないからだ」「無意識という観念は、対象がまったくそれだけで作用すると信じ込ませるのに役立つものだ」。

 たとえば誰かが泥酔して人をなぐったとします。ところが翌朝目が覚めると、この人は夕べのことを何も覚えていません。他人に指摘されてびっくりし、「酒の上のことなので勘弁してください。無意識だったので・・」といってあやまります。
  無意識でなぐられた方はたまりませんが、「酒の上ならしかたがない」というように対応します。まあこれが常識的な線でしょう。この場合、無意識の行動には責任を取る必要はないという考え方が働いています。いってみれば無意識の暴行という状態を作り出したのは酒であり、本人が悪いわけじゃないというわけです。
  ある人が常識では考えられないような犯罪を犯したとします。さっそく精神鑑定が行なわれて「心神耗弱」ということになると、この人を通常のやり方で裁くことはできなくなります。

 犯罪者の過去を調べてみると、本人に責任のない幼児体験が発見されたり、抑圧された性的な体験が発見されたりします。こうした過去が本人の現在を形成している以上、現在の犯罪だけに着目してこの人を判断したり、裁くのは間違いだということになる・・これがフロイトのもたらした思想的な問題点の一つです。
  つまりフロイトの理論をベースにすると、本人に責任のない人格や、本人に責任のない行動を認めなければならなくなります。外部の対象が本人の意思にかかわらず作用し、本人の意識や行動を決定するからです。こうなると「無意識」は大変便利なものになります。アランはこの点を突いて「無意識という観念は、対象がまったくそれだけで作用すると信じ込ませるのに役立つものだ」といったのです。
  アランは、まったくの狂人は別として、どんな場合でもその人がそのときとった行動の責任は自分にあると考えました。このことは人はいかなる場合にも自分の行動の自由、選択の自由を確保しているということであり、それだけに自分の行動には責任があるということです。この力強い思想は、「自分の思想を確保するのは、朝ごとのパンを確保すること」という、あの考え方を起点にしています。

 考えてみれば、幼児にさかのぼって抑圧体験を持っていない人など、世の中にはいないでしょう。それに医師が催眠術を用いて過去を調べるといっても、それは本人によって物語られた過去であり、医師の記述を通して語られる過去です。アランが「われわれはこの問題について回想によってしか判断を下しえない」といっているのはこのことです。
  私たちが誰かの幼児体験を問題にするとき、私たちは小説を読むように再構成され、再編集された過去を見ていることになります。夢の話もこれと同じで、私たちはいくぶん創作しながらでなければ、自分が見た夢を語ることができません。過去についての説明はいずれにしても疑わしいものなのです。このように精神分析の手法には、自然科学としての厳密さが欠けています。他人が見た夢の話は、事実としては再認識できないものだからです。アランはさらに人間として大切なことがらに目を向けました。すなわちフロイトの学説は結局人間の自由と責任の観念をあいまいにする、それでいいのだろうかということです。

 フロイトについては幼児性欲説がきわめて説得的です。フロイトは純粋無垢と考えられていた幼児に性欲の発露があるのを発見して驚きました。彼はここに、さまざまの精神的抑圧の原因を発見しました。「エディプス・コンプレックス」というフロイト用語に代表されるように、この発見は彼の精神分析の体系の中で重要な位置を占めています。
  しかしアランはこれについても手きびしい批判を行ないました。「思想と年齢」の中でアランは次のようにいっています。「フロイト流に、最初の最も純粋な愛のうちに性欲の何かがあると考えたがる人々は、本末を転倒しているように思われる。なぜならば、どのような愛においても身体の全般が関係していることは、言うまでもないことだからである。このことは繰り返し言わねばならず、決して忘れてはならない」。
  赤ちゃんは母親の子宮から膣を通って生まれてきます。そして生まれるとただちに、母親のもう一つの生殖機関である乳房をつかみます。これがどうしてびっくりするようなことなのでしょうか、赤ちゃんや幼児が五体満足で、彼らがすべての器官を発動させようとしているとき、そこに性欲の徴候を認めて驚くとは、一体どういうことでしょうか。
  アランはこのようにフロイトが「発見した」と信じたものを一笑に付しました。アランがフロイトに出会ったら次のようにいったのではないでしょうか。「フロイトさん、あなたは見たくないと思っていたもの、道徳的にあり得ないと信じていたものを見てしまったような気がしたのですね。けれど、生殖の原理は生物全体を支配している。太古の昔から同じですよ」。

 今日、フロイトの名は全世界を圧倒し、その弟子や孫弟子たちも一世を風靡しています。これにくらべてアランの名はマイナーです。けれど私個人としては、「無意識」などという観念を借りて自己の責任と自由を手放したりしてはならない、とするアランの教えにしたがいたいと思います。
  また生物学的な知見から考えても、幼児性欲を発見して驚いたフロイトには、まだヴィクトリア朝的な性的タブー観が強かったのではないかと思います。この点についても私は「親子の絆がすべての愛の原点だ」と考え、「子供の愛がすべての愛に似ているのは、何としても、低い点においてではない」としたアランの思想にしたがうことにします。

 
 

文明の進歩と情念の進歩
  アランはこの頃到達した自分の考え方をふりかえって、こういいました。「・・読者はとても承認しそうにないが、私はあるひとつの考えに強い確信をもっているのだ。すなわちそれは、人間の構造が全政治を支配するという考えであり、この構造はこれまで少しも変化せず、これからも永久に変化しないであろうというものである。この考えは、私の友人の全部、あるいはほとんど全部をがっかりさせる。彼らは進歩を信じている」。
  上記の考え方は「政治」に関して述べられていますが、ここで「政治」という言葉をより広く解釈したほうがいいでしょう。すなわち社会における人間同志のあり方です。この点アランが30歳代のはじめに到達した考えは、「人間の構造が政治を支配する」というものでした。すなわち「人間の構造が人と人のあり方を決定づける」ということでした。

 このことは、人間の身体構造そのものが変わらないということ、これにもとづく人間と人間の関係のあり方も変わらない、ということを意味しています。たとえば、人間が社会を形成する動物であるということ、ある種の人間がリーダーシップをとるということ、リーダーが群を統率しようとするとき、実力だけではなく、何らかのシンボルを操作するということ、人間同志の関係が身体構造にもとづく情念によって規定されているということ、これらを意味しています。
  人間の身体構造について考えてみます。人類が地上に誕生したのは、100万年前とも200万年前ともいわれています。遺伝子情報にもとづく研究によると、いくつかの原人が死に絶え、15万年ほど前、そのうちのある種の原人が今日の私たちの祖先になりました。この種類はどんどん進化を続け、環境の変化を生きのび、今日の人類を形成しました。
  このような進化論、あるいは環境適応論を前提に考えると、「人類の構造は変わらない」とするアランの考えはいかにも誤りであるように思えます。しかしアランは100万年前の人類、あるいは15万年前の人類と現在の人類をいきなり比較しようとしたのではありません。アランが比較しようとしているのは歴史時代が始まる前後からの、つまり私たちにとって考察の対象となる人間との比較です。

 かりにこれを5000年前としてみましょうか。アランは5000年前の人類と現在の人類は基本的な身体構造、その身体構造にもとづくふるまい、考え方、感じ方は何も変わらないと考えました。そして身体構造が変わらない以上、情念の構造も変わらないと考えました。
  私たちは過去5000年の間にすばらしい速度で文明を発達させました。今日、科学はナノやピコの微細な単位でものを見、150億年もかなたの宇宙を観察します。中空には何百もの人工衛星が飛び、インターネットが世界を瞬時につなぐ時代です。これからも文明はさらに加速度的に進歩するでしょう。これを見ていると、人類はいかにも進歩していく、と実感できます。
  アランはいいました。「彼らは進歩を信じている。彼らが力をつくすのは進歩を思えばこそである」。けれど彼は文明の進歩と人間の情念の進歩が、まったく別物であることを知っていました。私たちはおそらく、5000年前の人々と同じように恋人の目つきに一喜一憂し、うぬぼれたり、憎んだり、徒党を組んだり、別れたりしているはずです。おそらくこれから5000年後も、同じようなことをやっているに違いありません。

 私たちの生物学的、生理学的な条件が変化していくにはもっと長い年月を必要とします。「人間」という言葉は、この身体構造を指していっているのであり、身体構造が決定的に変化してしまったら、それは「人間」と呼べない生物になります。
  毎日食べ、排泄するという身体構造を持った人間、愛したり憎んだりする身体構造を持った人間、この人間とその集団をどのようにとらえ、どのように理解するか、そしてその中の一人として、どのように自己を整えるか、アランはこれを自分の命題としました。「私は他人が踊り(ダンセ)の教師になるように、考えること(パンセ)の教師になっていた」。アランはこのようにして思想家としての自己を作り、文字通りパンセの教師としての活動に入りました。

 
 

良き伴侶ランブランに出会う
  一八九四年、アランがまだロリアンにいた年ですが、恩師ラニョーが亡くなりました。「私の著述家としての使命は、この最後の町(ルーアン)で始まったが、そこまでいくまえに、私がラニョーを失ったのはロリアンにいたあいだであることを思い起こさなければならない。私はどこまでも彼の弟子、忠実な弟子だった」。
  アランはすぐにラニョーの作品や語録を編集し、注釈する作業に取りかかりました。アランは自分の先生のすばらしさを少しでも多くの人々に知らせることを自分の使命だと感じました。この原稿は、1898年「ジュール・ラニョーの遺稿」という形でまとまりました。
  恩師ラニョーが亡くなった同じ一八九四年、アランはもう一人、かけがえのない人を失いました。それは父エチエンヌです。アランは自分の父の死については何一つ書いていません。しかし同じ年に、自分に深い思想的な影響を与えた二人の親しい人をなくしたことは、アランにとって大きな意味を持っていました。
  もちろん父親は、この頃のアランにとっては、もはや巨人のような存在ではなかったかもしれません。けれどアランは思想的にエチエンヌの息子であることをやめませんでした。父親と恩師を失ったことによって、アランは文字通り思想家として自立の一歩を踏み出したのです。

 ルーアンにいってまもなく、おそらく1900年に、アランはマリー・モール・ランブランという女性に出会いました。出会いは民衆大学の活動を通じてでした。彼女は師範学校初等中等学級の理科の先生でした。
  このときアラン32歳。アランの個人史をたどってきた私たちは、ここではじめてアランのガールフレンドに出会ったわけですが、これまでアランは一青年として女性とはどのようなつきあい方をしてきたのでしょうか。これについてアランも何もいっていませんし、資料もありませんので、勝手に想像するしかありません。
  私の考えでは、アランは多少風変わりではあるが、真面目な学生でした。就職してからも彼自身「僧房の生活」といっているように、かなり謹厳な生活態度を維持し、日頃女の子の尻を追って遊ぶことはありませんでした。けれどもアランは友人たちから孤立していたわけではなく、談論風発、ボヘミアン的なつきあいも辞さなかったようですから、ときおりは勢いにまかせて、悪所にも足を踏み入れたものと思われます。

 アランの文章の中に「生殖機能を避けるためには、単に極悪人だけではなく、すべての人々が何か有害な試みに頼らなくてはならぬ」「性的魅力以上に激しく、苛立たしく、兇暴で、忘れっぽいものはない」という記述があります。これは、アランが健全な男子として性的欲望や衝動に悩まされた、どうしようもない経験を持っていたことを示しています。
  多くの真面目な独身の男性と同じように、彼も勉強や仕事によってこれらの欲望や衝動をコントロールしようと試みました。そして成功することもあれば、ときには失敗し、ハメをはずすこともあった、というのが実状でしょう。
  マリー・モール・ランブランに出会う以前、アランは一時期ガブリエル・ランドルミーという女性と交際していました。アランは彼女に詩編を書いて捧げたということです。しかしなぜか二人の関係は進展しませんでした。ランドルミーが再びアランの前に現われるのは、晩年になってからです。写真で見ると、ランブランのほうはとても知的で、洗練された感じのする女性で、これに対してランドルミーのほうはかわいらしい感じの女性です。
  いずれにしてもアランはルーアンでランブランと出会い、3年後にパリで再会します。この二人の親しい関係は四〇年間、ランブランが死ぬまで続きました。この二人がどうして結婚しなかったのか、その辺の事情は分かりませんが、いずれにしてもランブランは若いアランの価値を鋭く見ぬき、彼のよき理解者、アシスタントとなりました。

 
 

やり直しをしない
  ルーアンでもアランの政治活動は続きました。しかし「わが思索のあと」でアランは次のようにいっています。「政治に関しては、私は結局そのためほとんどの時間をとられるにいたったのだが、あまり語らないことにしよう」。
  アランは仲間たちと議員候補を擁立して選挙戦をやりました。けれども、健闘むなしく破れました。彼は選挙作戦を指揮する三役の一人でした。彼は熱弁をふるいました。けれど「それは同志の士気を鼓舞することになっても、一人も味方を獲得することにはならなかった」とアランは書いています。
  「何度交渉を重ねたことだろう。なんという忍耐だったろう。いくたび社会主義者たちは、われわれに侮辱を浴びせたことか。いくたび彼らが味方であることを疑わなければならなかったことか。私は、丁重に相手の言い分をききながら少しも自分の結論を変えずにおくことを学んだ」 アランはルーアンでも急進派の新聞発行を試みました。けれどこの新聞はあっという間に潰れました。「(新聞の)名は忘れてしまったが、なかなかおもしろいものだった。仕事は上首尾であり、それはもう敵がわれわれの新聞を束にして買い占めたほどである」。アランが筆をとって候補者を盛りたて論陣を張った結果、政敵がアランの論説に脅威を感じたのでしょうね。

 アランは政治活動を通して人間のどろどろした側面を見、体験しました。すなわち、裏切り、調子の良さ、屈辱的な交渉、忍耐。アランにとってとくにつらかったのは、仲間の裏切りと変節であったようです。彼はこう書いています。「私は一貫して節を変えなかったことを非常に幸福ともし、誇りともしている」。
  「私はしばしば、忠実こそ精神の光であるといった。私はそのことを知っているからだ。出来事を経て自分の思想を変えるや否や、知性は一人の娘にすぎない」。このひとことは、アランの人間性をみごとに表現し、アランの思想と生き方を代弁しています。アランがなぜ三〇歳代前半に到達した考え方を生涯変えずに維持し、発展させたのか、なぜ彼がラジカルな思想の持ち主なのに保守的と呼ばれたのかが分かります。

 ちなみにアランは書き出した原稿を書き直す、ということをしませんでした。小説家が小説を書き出してから、「テーマがまずかったな」などといって書き直すのは間違いだ、とアランはいいます。書き出したテーマや内容を追求し、発展させて、それを完成させなさいというのです。「忠実さによって、主題を美しいものにするのでなければならない」。
  この「忠実」とは、今風のいい方をすれば「こだわり」です。しかしアランの場合は単なるこだわりではなく、それを発展させ、磨くということです。今日の私たちはこのいい意味での「こだわり」が少なすぎるのではないでしょうか。
  たとえば会社で会議を開いてある事項を決定します。ところがこの決定をまっさきに忘れてしまうのが、会社のトップであったりします。社員も実行しません。能力不足に加えて健忘症にかかっているらしいのです。「どうして決定事項が守られないのか」と尋ねると、かえってけげんな顔をされてしまったりします。

 個人生活についても私たちはひどく忘れっぽいようです。何かを決心しても、それを持続することができません。トレンドに弱く、流行が始まるとこれを熱心に追いかけます。そして次の流行が始まると、またこれを追いかけるのです。こうして浮ついた、深みのない日本文化が作られます。マスコミがこのトレンド作りにおおいに貢献しています。
  忘れっぽさ、浮気性、主体性のなさ。アランはこのような生き方には無縁でした。アランは人間関係についても「忠実」であることを要求しました。「人もしこれを誓うかぎり、偉大な美しいものとなり得ぬような愛は、おそらくひとつもない。そして、いかに美しい愛も、それが走るのを眺めているかぎりでは、先は知れたものである」。
  これは恋愛に関して、最初に愛することを決めた相手をどこまでも誠実に愛しなさい、という意味です。「この相手はまずかったかな」とか、「こっちのほうがよさそうだ」などといってはいけない、ということです。

 先にも述べたように、アランは愛の原形を母子の関係に求めました。母親にとっては生まれてきた子供は選択の余地がないものです。どの母親も、「この子はかわいくないから愛さない」などといいませんし、「ほかの子と取り替えよう」などといいません。子供が生まれると、母親や自分の子供がどんな顔をしていようとも愛する決心をし、生涯これを変えません。
  「この出現、誕生、誕生の後の誕生、母はひたすらこれを待ち受けるのであり、それも、このものが自分の子を気に入るかどうか知ろうとしてではなく、できるだけ早く、また、あらゆる勇気を揮ってこれを気に入るようにするためなのである」。彼はこの「忠実」という考え方を自分の思想にも適用し、文章の書き方にも、職業にも、友人との関係にも、女性たちとの交際についても適用し、迷うことなく実践しました。

 
   
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