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アランとはどんな人
 
第5章 大戦前夜

パリに戻る
  1903年、アランはパリのコンドルセ公立高等中学校に転勤しました。ルーアンの人々は町の教育、政治に誠実につくしてくれたアランが去ることをたいそう残念がりました。「ルーアン新聞」はわざわざアランの別離を惜しむ記事を掲げたほどです。若いアランが地域社会にとけこんで、全身をぶつけて仕事をしていたことがしのばれます。
  アランはモンマルトルの学校に近い、プロヴァンス通り90番に部屋を借りました。隣りは娼家でした。私はこの場所をたずねたことがあります。アランが住んでいた建物の一階は、今ではヘアーサロンになっています。どちら側が娼家だったのか分かりませんが、現在は両方とも立派な商店に変貌しています。

 民衆大学はパリでも開かれていました。アランはここでもボランティアの講師をつとめ、かつてのガールフレンド、ランブラン女史と再会しました。彼は愛を告白し、二人の同棲生活が始まりました。
  アランがこの頃民衆大学の講座で担当した科目には、「科学」が入っていました。「私はもっぱら物理学をやることにして、本当の話、必要な実験をふんだんに、しかも厳密にやってのけながら、電流のことを教えた」。
  民衆大学の生徒はどんな人々だったのでしょうか。多少とも興味本位で来ている人々であることはしかたがありませんでした。講座が面白ければ人々は集まり、反応しますが、内容がちょっとでも難しくなると、彼らは勉強についてくることができなくなります。
  講師たちは講座に人々をひきつけるために、いろいろ工夫をしなければなりませんでした。火花が散る、派手な電流実験をアランがやって見せたのもそうした努力の一つでした。けれど、うまく聴衆をひきつけることができたかどうかは怪しいものでした。なにしろ、アランは「労働者たちといえば、ひとりしか残らなかった」といっていますから。

 本職の高等中学の授業はどうだったでしょうか。アランは生徒が3人しかいない教室から仕事をスタートしましたが、教師としての評価が高まるにつれて「出世」しました。そして彼はついにパリの名門校までやってきました。「私は今をときめく高等中学にいた。私は気に入ってもらうようなことはなにもしなかったし、この名門の子供たちのかわいらしい軽薄さには、がまんがならなかった」。
  民衆大学の生徒は大人です。彼らは自由意志で参加しています。だから授業が面白くなければ来なくなります。しかし学校では生徒たちは束縛されています。だからアランは学校の「授業を面白くする」必要はないし、むしろそれはいけないことだ、と考えました。
  子供たちは大人のような先入観や分別を働かせません。基本的な原理や、ちょっとした刺激にも反応することができます。純粋な観念の習得は、知的に柔軟な子供だからこそできることです。「教師は気に入ろうとつとめるや否や、もはや手品師にすぎないのだ」。

 

黒板に論文をまるごと書く
  アランの教え子は、もはや素朴な田舎の子供ではありませんでした。軽薄で生意気な、「すこぶる要求の多い、しかも十分才能に恵まれた」連中でした。たとえば彼らは課題論文に失敗しても、黙って引っ込んでいません。口をとんがらせ、なかばふてくされて、「先生、じゃ、どういうふうに書いたらいいんですか」などといいます。ところがアランは「こういう質問は、答えてもらえたためしがない」といいます。
  アラン先生はある日、この手のうるさい質問に終止符を打つ形で次のようにいいました。「論文を最初の言葉から終止符まで、当然そうなくてはならぬようなふうに、すっかり黒板に書いてみよう。そうすれば、パスカルと同じくらい立派に書けるだろう」。教室で、一つの論文を黒板にはじめから終わりまで書いてみる、これは大仕事ですし、冒険です。

 課題論文の長さにもよりますが、規定の一時限内ではできそうにもありません。それにテーマをどうするか、そのテーマをどのように展開させるか、先生が勝手に誘導するわけにいきません。クラスの発言や意見をどのようにとりまとめ、課題を解決しながら板書していくか。このような授業を進めるためには、先生によほどの実力がなければなりません。
  「この勉強は実行され、数週間でよい成果をおさめた。およそこれほどやさしくて、これほど有益な事柄を、私はいまだかつて知らない。私自身のためにもそのとおりであった」。
  数週間で、と書いていますから、かなり時間がかかったようですね。一つの論文を一〇分割し、その一つを一時限で消化する、というやり方をしたのであれば、一週間に一度の授業として三カ月かかったことになります。まずテーマの選定、書き出しの文章。その文章の書き方についての複数の可能性、用語の選定、「てにをは」の使い方。おそらく生徒が一人ずつ黒板の前に立ち、一文ずつ、あるいは一節ずつ板書していったのでしょう。

 生徒たちは意見を出し、選択を行ないます。アランはある用語やあるいいまわしを「よし」とし、他を「だめ」とします。アランはなぜだめかを説明します。文脈が検討され、キーワードが検討され、キーワードの位置が検討されます。仕事は遅々として進みませんが、生徒たちは、コンテクストの中でどのような言葉が現われなければならないか、それ以外の言葉がなぜ不適切なのかを知り、文章、文体の秘密を体感します。アランという希代の文体家の、手ずからの授業を受けた生徒たちは、本当にしあわせでした。
  今日日本の学校で、三カ月かけて、クラスをあげて一つの作文を書くなどということが許されるのかどうか分かりませんが、私は学校でこのような授業を行なうべきだと思います。現代の若者の作文能力には目をおおうものがあります。もっともこの授業を行なうには、アラン級の先生が現場に何人も必要になりますが。

 アランはコンドルセ校で特別講演を行ない、評判を呼びました。アランのラジカリズムは当時のインテリ層を苛立たせたらしく、モーリス・バレスなどにかなり批判されたそうです。
  アランは1904年にジュネーブで行なわれた国際哲学学会にも出席しました。この学会でベルグソンが、精神生理学に関する覚え書きを発表して物議をかもしたと伝えられています。このときアランはベルグソンを擁護したために大多数の出席者と対立し、孤立しました。けれどアランとベルグソンは廊下で15分ばかり、心理学について立ち話をする機会がありました。二人の思想の巨人は、廊下でどんな話をしたのでしょうね。
  ヨーロッパは次第にキナ臭くなってきていました。ドイツでは1900年に第二次艦隊の建設法案が成立し、イギリスでは1901年にはチェンバレンが、議会で反独演説を行ないました。フランスはこの年トルコと国交を断絶しました。翌1902年には急進党のコンブ内閣が成立しました。イタリアはこの年、スイスと国交断絶しています。一九〇四年、フランスはローマ教皇庁と外交を断絶しています。
  ナショナリズムの進展、植民地政策の推進、宗教指導力の低下、各国の産業的な利害の衝突、コミュニズムの台頭などを背景に、さまざまなものの考え方や価値観が乱立し、思想的にも誰が正解を持っているのか分からない、こんな政治的、社会的状況が現出していました。ドレフュス事件に象徴されるように、人々は何かと疑心暗鬼になり、ヨーロッパ各国はこぞって軍事力を強化していたのです。

 
 

薄っぺらな知識の勉強を排除
  1906年、アランはまたも転勤になりました。今度は母校のミシュレ高等中学校です。彼は生徒たちとスピノザの「エティカ」を隅から隅まで、しかもラテン語の原典で読み、さらにはカントの「純粋理性批判」を、ただしこれはフランス語で読みました。彼の徹底ぶりが分かりますね。「こういう勉強の仕方は、小人数の教室でしかやれないが、驚くべき結果をもたらすものだ。これはあたかも危険にみちた航海をするようなものだが、それが私の仕事であった」。
  アランの教室での勉強方法、指導方法をうかがわせるもっと分かりやすい例が、「教育論」の中に示されています。
  「星座表に太陽の経路、日の出、日の入り、天空における太陽の高さなどを書き加えなさい。そしてまた月の満ち欠けもだ。しかも無味乾燥な数字を並べてではなく、作図によってである。そうすれば、太陽を反対側、つまり地球のもう一方の側に想定することなしには、満月というものは考えられないことが分かる。この遊星は寒さの訪れを、このもうひとつのほうは若葉のもえ出しを予告するはずだといいながら、遊星の軌道を跡づけよう」。

 アランが嫌ったのは、「ぼく知っているよ。地球は太陽の回りを回っているんだ」というたぐいの子供たちでした。つまり要約した情報を、結論だけ知っているような子供です。しかしアランがここで提案しているような暦を自分で作ってみれば、要約した情報として知っていることを自分の体験として、実証的に理解できるでしょう。
  子供たちが結果としての情報だけを知っていればいいのか、自分で苦労しながら星座表を作って地球の本質を知ったほうがいいのか、またどちらのやり方が厚みのある人間を作ることになるのか、これについてアランは少しも迷うことはありませんでした。
  「兵舎では銃のなんたるかをただはっきりした口調で説明するだけではなく、各自が教官と同じ言葉を口にしながら銃を分解してはまた組み立てるようにうながされる。そこで20回以上反復してやらなかったりいわなかったものは、銃のなんたるかを知らないことになろう。彼はただ、それを知っている人の話をきいたという記憶をもつにとどまるのである」。

 私たちは今日情報化時代に生きています。テレビの画像を通して、あるいはインターネットを通して、私たちは何でも知ることができます。アクション映画を何度も見ていれば、武器の形や性能や、その操作方法についても知ることができます。お望みなら悪漢を倒すタイミングやヒーローたちのしぐさまでも真似ることができるようになるでしょう。
  しかしこのようにして得られた知識、情報にいったいどれほどの値打ちがあるのでしょうか。「月は地球の引力で回っている。テレビで見たんだ」という知識、これを知識といえるのでしょうか。「名手の息子が真似ごとに、演奏し、喝采にうけこたえし、おじぎをし、貴族たちに話しかけたりするふりをしたとする。・・ところが、ヴァイオリンやピアノを前にしては、まねごとをしてみせるわけにはいかない」とアランはいいます。

 既成の知識を受け売りするだけの教育、短絡した結論だけを押しつける教育、そんなものは教育ではありません。自分の目で観察し、測定し、ものの重量感や感触をたしかめ、推理し、検証するような、本物の知識に向けて指導する、これがアランの方針でした。
  彼は自分の授業でこの方針を実行しました。テキストを要約したり、さわりの部分を飛び飛びにあさるのではなく、カリキュラムなどにはおかまいなしに、スピノザを一冊まるごと読み砕いてしまう、そういう授業をしたのです。薄っぺらな知識がますます幅をきかす今日、私たちはアランの教育方針をもう一度見直す必要があります。「本物の種子をまきたまえ、砂粒ではなしに」。

 アランの方針の一つに「(教師は)不用意な上にも不用意でなければならない」というのがあります。これは不思議な方針です。勉強熱心な先生は、きちんと準備をして教壇に立ちます。ところがアランによると、先生は準備をしてはいけないかのように見えます。
  アランがいいたいのは、「生きた授業をしなければならない」ということです。生徒がその瞬間に抱いた関心、知的好奇心、知りたいという願望、これを的確に見抜いて、臨機応変に教えなければならないのです。先生は準備をし過ぎ、これにとらわれてしまうと、どうしても予定通りに授業を進めたくなります。すると、生徒の気持ちからかけ離れた演説をやってしまうことになります。アランは先生が機械的になることをいましめました。
  「教員に学識のあることが必要なのは、自分の知っていることを教えるためではなく、途中でいつも思いがけないときになにかの細目を解明してやるためである」。教科書とアンチョコがないとできない先生、余分な知識を持たない先生は、先生とはいえません。

 私たちが今でも覚えているのは、先生がくつろいでしてくれた「余談」のほうです。歴史や科学の背景について、豊かな知識を持つ先生から「余談」を聞くのはとても楽しく、有益なものです。アランが「不用意な上にも不用意に」といったのは、いつでも生徒たちの関心の程度に合わせて、内容をアレンジできる融通性を指しているのです。
  生徒たちが一つの知識がどのようにほかの知識に結びついているのか、またそのことがいかに重要であるかを知るためには、先生に幅広い教養が必要です。アラン先生の授業はおそらく、一回一回が「一期一会」の、すばらしいものであったろうと想像されます。だから、卒業生について「アランの授業を受けてきた人々は、すぐそれと分かる」といわれたのです。

 
 

出版とアラン
  彼がミシュレ校に移った1906年は、本格的に「プロポ」が書き始められた年です。ここでアランの原稿と新聞社、あるいは出版社の関係について見てみましょう。アランの書籍は今日では第一級の古典に属します。アランの作品はガリマール書店の、もっとも権威ある図書シリーズ「プレイヤード叢書」4巻に収録されています。
  アランは自分の原稿が活字になることについて、「非常に親切な妖精」の手引きがなかったら実現しなかったろうといっています。というのも、アランは出版社に対して一つの頑固なスタンスを取り続けていたからです。たとえばプロポを書き出した当時のルーアン新聞との関係は次のようなものでした。
  「私はまたしても貧乏新聞の援助にかかったのであるから、もちろん報酬をうけなかった。しかし少なくとも、私はあらゆる自由を保持して然るべきだった。このことには異議もあったが、私はあくまでも譲歩しなかった」。要するに、アランは新聞社や出版社が勝手に校閲することを好まず、原稿の長さなどについてもいっさい出版社側の要求を受けつけなかったのです。

 「ルヴュ・ド・メタフィジック」という雑誌は、一度アランの原稿を短すぎるといってクレームしてきました。そこでアランは「彼らの是非など考えても見ず、彼らのためには、二度といっさい書かない」、という対抗措置を取りました。
  また「ルーヴル新聞」がアランに原稿を求めてきました。報酬はよかったのですが、新聞に掲載された文章を見ると、明らかに新聞社が行なった削除部分が認められました。アランは「それで私は問答無用とばかりさっさと御免をこうむったのである」。
  アランにとっては「出版社が私の原稿を採用するまえに吟味するなどということは、私にはとうていみとめられなかったのである」「校閲めいたことは種類のいかんを問わず、賛辞すらでさえも御免であった」というのですから、徹底しています。

 「読者はこの短気な自由を認識しなければならない。なぜならこれは私の目から見ると、方法の一カ条であり、文体を生む一手段だからである」とアランはいいます。また彼は「これは性格上の一特徴というよりもむしろ、ひとつの書き方なのだ。競馬馬と同じことで、私には自由な天地が必要なのである」。
  アランは自分の文章に自信を持っていましたし、書き方について自分なりに修練をしていました。また「書き直しをしない」というルールを自分に課していました。このようにして作り上げた入魂の原稿を、出版社や新聞社の都合で勝手に削られたり、直されたりしては困る、というのがアランの気持ちでした。

 アランにとっては文章を書く自由は自分のものです。だからルールを決めるのは自分であって、他人ではありません。自分の原稿を気に入らなければ相手は採用しなければいいのですし、束縛を受けるくらいならこちらが出版社に原稿を送らなければいいのです。
  「紙の空白は自由な天地である。しかし自分自身をよく調練することが必要であるから、私は自分の語録(プロポ)の定量として便箋二枚で満足した」。アランが自分でプロポの長さに関するルールを決め、これを守りました。
  「私は一四行詩を書く詩人のように、終わるべきところを見さだめて、これにしたがった。発展を引きのばす必要はきわめてまれであった。しばしば発展を圧縮せねばならず、しかも時間が足りないから、後で削ることは望めなかった。こうした物質的諸条件が大いに重要であると私は思う」。
  アランが編集者の介入を嫌って、原稿を新聞社の編集者宛てではなく、「植字職人」宛てに発送していたというのは事実です。

 批評家との関係はどうでしょうか。今日、文筆を志す人なら、批評家を無視することはできないでしょう。けれどアランの批評家に対する態度は次のようなものでした。「私は批評家には一編の自作も捧げたことはない。それはなにも、軽蔑しているからではない。むしろ批評家には私に作品の公刊を思いとどまらせる力があることを、私はみとめているからである」といっています。そして「この力は私には不当なものと思われるので、私は批評家の意見であろうとだれの意見であろうと、決して知りたいと思わないのだ」。
  もし今日のようなテレビ時代に生きていたら、アランはテレビに対してどんな態度をとったでしょうか。アランは新聞媒体とは近しい関係を結びました。彼は文体家であり、活字に親しんでいました。「私の喜びは書くこと、原稿が活字に姿を変えるさまを見ることである」。けれど、彼はテレビには関心を持たなかったと思います。

 アランは他人による束縛を嫌いました。ちなみに「テレビに出演する」という仕事にはやたらと束縛が多いものです。テレビでは原稿の長さの制約どころか、発言時間の制約、用語の制約、位置の制約、表情の制約・・などきりがありません。各瞬間ごとにディレクターがあれこれ出演者に指図をします。これを楽しみながら、器用にこなしているのがタレントです。アランがこの手の制約を受け入れたとは思えませんし、マスメディアの影響力が大きければ大きいほど彼はこれに距離を置こうとしたに違いありません。

 
 

質問を許されない教室
  1908年、アランは満四〇歳になりました。この年、ルーアンのルーセル社から、「アランのプロポ101編」が出版されました。出版部数はわずか150部でした。
  1909年、アランはパリ市内にあるアンリ四世校に転任しました。これはさらに名門高等中学校です。前任者のレオン・ブランシュヴィクがソルボンヌ大学の教授となって出ていった後に推挙されたもので、アランの教育者としての評価がますます高まったことを示しています。
  もう一度アランの教室をのぞいてみましょう。「私には二組の聴講生があって、両方とも非常に程度が高かった。アンリ四世校の男子とコレージュ・セヴィニェの女子とである」。生徒たちは、授業中にアラン先生に質問することを許されませんでした。生徒同士の討議やディベートなども御法度です。これを不服として教室を出ていってしまった学生もいます。
  「おしゃべりな男女たちはたちまちあきらめざるを得なかった。ときとして彼らは、永久に立ち去ってしまうこともあった。そんなのは、ただ名前を消すまでのことだった」。
  質問を一切許さない教室、というのは過激ですね。アランによれば、生徒たちが「質問したり意見を述べる」という授業は「すべて怠惰の手段」です。先生が準備した講義を聞くことができなくなるからです。老獪な講師は、受講者たちに質問させたり、討議させたりします。これは一見受講者参加型の勉強に見えます。しかしこんなとき、講師は準備不足のために空白となる時間を過ごすための、有効な方法を見出しているのです。

 アランのテーマはプラトンでした。プラトンについては教えなければならないことがたくさんあります。今、私の手元にある岩波書店のプラトン全集は、索引を別として一五巻あります。これを全部生徒たちに教えるなんてことはできません。代表作の一つである「国家編」だけを取り上げても、すごい分量と内容です。かりにこの内容を高等中学校の生徒にかみ砕いて説明するとして、どのくらいの時間が必要になるか、見当もつきません。
  プラトンは西洋哲学の起点です。プラトンに影響を受けた人々の話に触れるとしたら、講義の時間などいくらあっても足りなくなります。アランは学校を卒業してポンティヴィに赴任したとき、アリストテレスとプラトンを携えていました。彼は「僧院」にこもるようにしてこの二つのテキストを読みぬき、注釈ノートを作りました。

 そのアランがプラトンを講義するにさいして、つまらぬ質問や意見などで時間を取られたくないのは当然のことです。もし生徒に勉強するつもりがあるなら、知りたいことを自分で調べればいいのです。どうしても質問したければ、アラン先生を課外に訪ねることもできます。
  アランはいっています。「これくらいのレベルのクラスでは、決して生徒の尻を叩くものではない。彼らは、できしだい自分で自分を救うのである」。これをごらんになれば、アランが生徒を取り扱うにさいして、きちんと相手の力量を測定し、期待を持って接していたことがお分かりでしょう。アランは力のある学生がイージーに流れることを許さなかっただけです。

 
 

恐れずに考え、自分に喜びを与える
  ヨーロッパではますます緊張が高まっていました。とくにバルカン半島の雲行きが怪しくなっていました。1912年、第一次バルカン戦争が勃発しました。翌13年には第二次バルカン戦争が起き、アルバニアが独立しました。そしてついに1914年にはサラエボで発砲事件が起き、第一次大戦が始まるのです。
  この間アランはアンリ四世校とセヴィニエ女学院で教え、夏には休暇先の田舎で静かに過ごしていました。そしてその間ヘーゲル、カント、コントの読解を続けていました。
  夏の休暇先で海岸を散歩していたときのこと、彼は船の形が魚の形に似ていることに気づきました。「鈍い形をした燕の頭は私を驚かせていた。私は新聞で針束を飲んだ子供が皮膚のあちこちから針を出した話を読んだが、針はいつでも太いほうの頭を先にしながら皮膚を突き上げてきたということだった」。

 常識的に考えると、進行方向に向かって尖っているほうが先に進むように思えます。いわゆる流線形というやつです。ところが、アランは魚の頭が進行方向に向かって大きくなっており、尻尾のほうが細くなっていることに気づきました。また、針の頭のほうが先に皮膚から出てきたというのも常識に反するように思えました。ずんぐりしたほうは尖っている方にくらべて抵抗が大きく、そちらが先頭になりくいように思えるからです。
  アランはこの問題について考えました。「私はかくも習慣に反する諸帰結に慣れるため、いろいろな例について反省してみた。私は、ある太った頑丈な男が、群衆のなかを通って家族を連れてゆくさまを思い浮かべた」。立派な体格のお父さんが、お祭り広場のような混雑したところを、人をかきわけながら歩いていきます。子供たちがこれにぴったりくっついて進みます。これはいかにもありそうなことです。
  これに対して一番小さな子供が先頭になり、お父さんが後について進む、これはどうも想像しにくいと思いませんか。これでは家族は先に進めないでしょう。アランはこうした例をいろいろ考えたあげく、次のように帰結しました。「すなわち通過の跡を埋めつつ流体が逆流してくると、引きとめるかわりに少し押すことになるはずであり、したがって、後尾の先細りになった形はいくぶんでも速度を回復していたわけなのである」。

 アランは大砲の弾も先細りのロケット型ではなく、後細りのほうが速く、遠くまで飛ぶのではないかと考えました。ある日アランは予備砲兵だった理工科学校の卒業生にこの意見を述べたことがあります。するとこの工学のプロは次のようにいいました。「あなたがた独学者はすばらしい。砲兵はありうるすべての形を試みなかったとお考えなのですね」。
  これは「素人はよけいなことをいいなさるな。そんなことは先刻研究済みですよ」ということですね。しばらく後になって、後尾を細くしたデサルウ弾という大砲の弾が開発されました。これは90年式火砲の射程を約1000メートル一気に伸ばしました。アランの考え方が正しいことが立証されたのですが、アランは「私がここに書くことを信じてもらえようともらえまいと、大したことではない」といっています。

 アランはこのようにして、たとえ常識に反すること、あるいは専門家が保証することや反対することであっても、先入観を排して、事実を観察し、つねに自分の考え方の筋道をたどって考えることの大切さを知りました。また彼はたとえ専門家でも、「人はいい気になると馬鹿になる」ということを知りました。
  アランは少なくとも「考え」という点では誰とも同調しなくてもいいと考えました。「私は力をこめて抵抗し、すこしも仲間をもたなかったが、これがいちばんよいことであった」。
  昏迷するヨーロッパの中で40歳代のなかばを迎えたアランは、次のような心境に達していました。「恐れぬこと、仕事にかかること、自らに喜びを与えること(ほかにだれがそれを与えてくれるだろう)、ともかく書き、語ることだ。なぜならばすべてを賭けなければならないからである」「私には自分の苦悩を語るなどということは、どうしてもできないだろう。苦悩などは存在しない」「私は大変いけないことに、不幸な人々を信用しない。私には芝居の音が聞こえてきて悲劇の仮面が見えてしまう」。
  アランは権威に頼らず、人頼みをせず、自分の仕事を精いっぱいやり、自分の頭で考え、自分の足で立つことを通して、みずからのうちにバランスの取れた、幸福な精神を作り上げる自信を深めていたのです。

 
   
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