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アランとはどんな人
 
第6章 戦場で

46歳の兵士誕生
  ついに第一次大戦が始まりました。1914年6月のサラエボ事件を契機として、8月、ドイツはまずロシアに宣戦し、ついでフランスに宣戦しました。これを受けてイギリスがドイツに宣戦し、フランスは対ドイツ、対オーストリアに宣戦しました。フランス政府は主要機関をボルドーに移転しました。ポワンカレが退陣し、ブリアン内閣が成立しました。
  アランはこのとき、迷わずに志願して一兵士になりました。46歳でした。戦争が勃発したとき、さすがのアランもいささか動揺しました。アランは「私は血を見る思いがして、恐怖と勇気をいちどきに経験した。そして最初の数日というものは、私が自分自身の支配力を失った日々であった」と書いています。
  当時のフランスでは兵役法が改正され、旧兵役法と新兵役法が混在していました。そして所定の年齢以上の人は、どちらの兵役法にしたがうかを選ぶことができました。高齢の人は兵役義務を免れることができたのです。また、アランの仕事である「学校の教授」という役職は、兵役の義務からまったく免れていました。しかし彼は迷わず軍隊に志願しました。

 「・・戦争になったら隊列に復することをみずからに誓っていた。躊躇すべきではなかった。すべては、まだ体力がのこっているかどうかにかかっていた。こうして私は、四六歳で軍医大佐の検診を受け、重砲兵になった。重砲隊(95ミリ砲)はそのまま軽砲隊に変じて、私はウーヴルからシャンパーニュへ、ウーヴルからヴェルダンへと引き回されつつ、日ごとの危局を眼前に見ながら、あのつらい生活を送ったのである」。
  アランは反戦主義者であり、徹底した平和主義者です。しかも彼は年齢的にも、社会的立場の面からも軍務につく必要はありませんでした。その彼がなぜわざわざ志願したのでしょうか。
  彼が志願したとき、当局は年齢と知名度や業績を考慮に入れて、アランをもっと楽な、上級の管理職的な軍務につけようとしました。ところがアランはこの申し出を拒否しました。彼は第一線の兵士を志願しました。彼はおそらくもっとも激務となるはずの重砲兵として戦場に出かけました。どうしてでしょうか?

 

ソクラテスをまねる
  この答えはアランの人となりを知る上でもっとも重要なポイントになります。アランは「わが思索のあと」で、「あらゆる種類の理論家は、年齢に応じてなんらかの命令を実行し、はるばる冒険に出てゆくことを、生涯に何度か繰り返すなら、得るところが多いであろう」と書いています。これは書斎人は書斎にばかりこもっていないほうがいいということです。
  彼は26歳のとき、世界一周旅行のための奨学金を申請したことがあります。けれど受理されませんでした。というのも、この給付を受けると、せっかく得た学校の先生という職業をいったん放棄しなければならないからです。「大変賢明であった大学当局は、この旅行はただ、地位を得られない人々のためのものにすぎないことを私にさとしたのであった」。
  アランが大学当局の説明で納得したわけではないでしょうが、あまりものごとに執着しないアランの性格が、世界一周旅行にもさほど執着しない方向をとったようです。もっともアランが26歳で世界旅行に出かけていたら、どんなふうに彼の人生が変わったでしょうね。

 アランは自分の出征について次のように書いています。「私はべつだん退屈していたわけではない。けれども、大冒険が到来して、折りよく私をゆさぶったのである」。まるで彼が冒険心から出征したかのようですね。これはアランらしい恥じらいの表現です。彼は本当の理由を隠しているのです。彼が戦場に出かけた本当の理由は、彼が尊敬するソクラテスとデカルトという大先輩のひそみにならったためです。
  ソクラテスはアテネの一市民として、当時勃発していたペロポネソス戦争の現場におもむきました。彼は槍を持ち、裸足で出かけたといわれています。この戦争は長期にわたったため、ソクラテスは何度か従軍しましたが、アテネ軍が負け戦をしたときの、退却時のソクラテスの様子がプラトンによって描き出されています。
  「さて、まず第一に、自若としている点でこの人(ソクラテス)がどれほどラケスに勝っていたかということを。・・アテナイでと同様あそこでも、・・兵士の間を進んでいったのだ。もしこの人に誰か手を出そうものなら、この人から手ひどい抵抗を受けるだろうということは、誰の目にも、それも非常に遠くからでさえ、一目瞭然という姿だった」「もしも他の人たちも彼のようにふるまっていたとすれば、・・私は請け合いますが、・・われわれの国家はびくともせず、あのときあのような負けかたをしなくてもよかったでしょう」。
  ソクラテスが好戦的な戦士でなかったことはいうまでもありません。ただ彼は文字通り死ぬまで、よき市民として行動しようと努力していました。勇敢な、よき兵士であることは、ソクラテスにとってよき人間、よき市民であることと同じでした。

 一方デカルトの従軍に関して、アランの次のような記述があります。「彼はみずから志願して従軍した。当時戦争はなまやさしいものではなかった。今日でも、決してなまやさしいものではない。察するに、この驚くべき思想家は、スタンダールのいったように、おのが想像力を敵と見て、みずから不幸に近づくことを救いと考えていたのである」。「彼(デカルト)はつねづね、わが身を衰弱させる微熱に悩まされていた。そこでこの不実な病を養うには、ちょっとした不安があるだけで十分である」。
  デカルトにとって従軍することは、じっと恐怖を待っているよりもいいことでした。彼の「情念論」を読めば分かるように、恐怖とは待機していることの恐怖であり、自分にとって最悪の状態をただ想像することにほかなりません。このことをふまえてデカルトはあの名言、「不決断こそ最悪」を吐いたのです。

 アランは情念の理解に関してデカルトのすばらしい弟子でした。アランは恐怖について次のように書いています。「ほとんどの苦しみは想像的なものである」「苦痛に対する恐れというものがあるわけで、このものが人に苦痛を待ちもうけさせ、苦痛を予見させ、測定させ、さらにはほとんどこれを味わわせる」。
  このように見てくると、アランの兵役志願の真の理由を知ることができます。その第一は尊敬する先輩の思想を正しく理解するために、彼らの追体験をしてみる、ということです。人間が生死の境に置かれたとき、何を考え、どのように行動するのかを、思想家として実感してみたいと彼は考えたのです。
  第二に、彼は一人のよきフランス人として任務を果たすということです。このさい、彼が平和主義者であるかどうかは関係ありません。共和制度が選んだ政府が戦争を決定した上は、従容としてこれを受け入れるほかはない、これがアランの結論であったと思います。だから、彼はいつ戦争が始まってもおかしくないヨーロッパの空気を呼吸しながら、「戦争が勃発したら従軍しよう」と決めていたのですね。

 
 

戦場で人間は美しかった
  アランが従軍した第三の理由は、座して待つ、ということができなかったからだと思います。アランにとっては一個の男子として従軍できるポテンシャルを持ちながら、じっと後方で戦局の変化を待ち、単に一喜一憂する観客となることは卑怯なことであり、不安や危惧と同居することと同じでした。
  それにまた、「恐怖はじっとしていればつのるが、さしせまった行動がこれを解決する」という自分の考えが本当に当たっているかどうか、自身で体験したいという気持ちもあったに違いありません。これは従軍の第一の理由にもつながります。

 第四の理由は、彼の著書「マルス――裁かれた戦争」、そして「大戦の思い出」の中にはっきり示されています。彼は平和主義者として反戦論を唱えるためには、自分がその現場に行って、戦争とは何かを見、知っておく必要があると考えたのです。彼は戦争の現場を知りもしないで、「平和、平和」と叫ぶ軽薄な群衆の一人にはなりたくなかったのです。
  「戦場で見ると人間は美しかった」とアランは書いています。アランが戦場で見たもの、それは第一線の若い兵士たちでした。彼らから見るとアランは彼らの父親ほどの年齢でした。「彼らと会った当初は私は自分の年齢を考えさせられたものだ」。
  若い兵士がアランにたずねました。「いったい、あんたはいくつです?」。アランは正直に答えました。兵士たちは驚き、誰も信じようとはしませんでした。「隊の人々の目にはまったく、(アランが四六歳であるということが)恥ずかしいことであったこともつけ加えよう。だから彼らは決してそれを信じなかった」。

 しかしアランは年配者に見られ、それなりに敬意を払われました。「私は、彼らも私に親しくしてくれるだろうと思い込んでいたが、彼らは決してそうしなかったので、私は彼らのような二〇歳の若さにかえろうとする試みをやめた。年齢というものはいたるところで尊敬されるものでまったく、権利すら、年齢の名誉を傷つけるわけにはいかないのだ」。
  アランは隊の若者とはじめからうまくいっていたわけではありません。あるときなど、夜遅くまでいんちき博打に夢中になっている同僚に注意をして、ひどく怨まれたことがありました。けれど彼は妥協しませんでした。ここでもアランは人間たちの教師でした。こうして彼は年齢と人格がおのずから作り出す、無冠の、指導的な地位を堅持したのです。
  そのアランの目から見て、最下層の若い兵士たちは美しく見えました。彼らはアランが学校で教えていた若者たちとは別種の人間たちでした。彼らは無教養で、無造作でした。あるとき、同僚の勇敢で優秀な一人の兵士がアランにこうたずねたものです。「この俺たちの仲間のイタリーは、イギリスのそばの国ですかい?」。

 その代わり彼らはまったく偏見を持っていませんでした。「彼らはなにものをも信ぜず、自分らの仕事を遂行した。しかも危険のなかでは、なおずっと綿密に遂行した。・・最も恐るべき事態が生じたときこそ、恐れている暇はない」「私には、人間とよばれるもの、人間たちとよばれるものどものことがわかる」。
  アランがここで見たものは危機的な状況の中で、冷静に任務を実行する兵士たちでした。なるほど戦争は恐しいものです。しかし戦場ではこわがっている暇がありません。恐怖をゆっくり、たっぷり堪能できるのは、戦争をしていない人々です。現場では誰もがきびきびと、確実に仕事をしなければなりません。アランは無名の若者たちの仕事ぶりを見ました。そして「ああ、これが人間なんだ」と、実感したのです。

 
 

無線アースの改良提案
  私たちは今平和な社会の中にいて、徴兵されたり、志願するという物騒な体験をしなくてすみます。自衛隊への入隊希望者はいるかもしれませんが、はじめから死ぬことを覚悟して自衛隊に入隊する若者はいないでしょう。当時の兵隊たちにとっては出征して死ぬことは、当然予想されるプログラムでした。だからアランが志願して従軍したとき、彼は単に危険な体験ができるだけではなく、その代償として戦場で死ぬことを覚悟していました。
  「はじめ数ヵ月は、隠れるでもなく、慎重さもなく、骨を埋めることになるだろうとひそかに思っていたことは事実だ」。しかし実際に戦場に来てみると、彼は偶然に、無差別に、不可避的に死がやってくるのではなく、ある程度の危険は予知でき、うまくやれば危険や死をやり過ごすことができることを発見しました。

 「その後、砲兵としての工夫から、出撃前には、眼、耳を澄ますことで、そんなことから免れられるとだんだんわかってきた。略言すれば、戦争ではすべての兵器のように、勇気が用いられるのである。だから、任務遂行のための自由を残しておいて、必要に応じて勇気を出す」。
  のべつに緊張し、ふんばり、勇気を出し続けるのではなく、要所要所で決断し、思い切ってその場を乗り切る、そのさいに持っている勇気を揮うということです。彼は勇気の出し方にも技術があり、コツがあることを知ります。

 アランが配属された部隊は、ドイツ軍と向き合って戦っていました。前線の突端には観測所があり、そこに配備された観測兵から無線で情報が送られてきます。一方後方からは戦闘に関する指示が来ます。情報手段としては無線がすべてになります。各地の無線局ではアースとして、銃剣を地面に突き刺して使っていました。
  ところがこのアースは性能が悪く近くの局との間で混信が生じました。理工科学校出身の専門家がやってきて、混信を防ぐための対策として接地線を互いに引きはなすように指示しました。けれどそのためには時間と大量の電線が要ります。現場にはそんなゆとりはありません。「どうしたらいいかな」とアランの上官がいいました。
  「私はいっとき考えて彼にいった。『全部のアースを一本の優秀なアースにまとめなくてはいけません。そうすれば地中からの混信はなくなるでしょう。』彼はあきれた。しかし私を信頼した。そして翌日は、もうなんの混信も起こさず万事進行した。・・私が名づけたこの単一式アースは急速にいたるところで採用された」。

 アランは物理学の知識を持っていたので、現場で重宝がられ、頼りにされました。「物理学の素養を持っていたために先生にさえなった」。
  ところが部隊は移動します。人員は入れ替わり、アランは別の担当官と仕事をすることになります。およそ一年後のこと、別な場所でアランは理工科学校出の上官に無線施設の修理を命じられました。「彼は私にこう言った。『もちろん単一式アースだ。理由はわからないが成功している。』私はうっかり泥塗れの伍長のくせに、理由はちゃんとわかっていますと答えてしまった。それで私はひどい悪態をつかれて、思い切り侮辱的にどやしつけられた。戦争では口答えするものではない。しかしこの激情的哲学たるや、なんとすばらしいではないか」。
  発明者としての名誉や報奨などは少しも顧慮されず、自分が発見した原理を「知っている」、といっただけでどやされたのですからアランもたまりませんでした。ここにアランが戦場で直面したもう一つの課題、人間的課題がありました。

 
 

T大尉との交際
  アランが従軍を決意し、死を覚悟しながらも戦地に来てみると、そこは思いのほか現場としての、目前に迫った物理的な課題や避けるべき危険があり、行動を規制しました。彼にとってはこうした規制、外的秩序はむしろ救いでした。ところがアランは人間的秩序、それも上官との人間関係という、もう一つの規制に直面しました。
  アランの同僚は兵士としては申し分ありませんが、いずれも無教養な若者たちです。これに対して管理職に相当する下士官は大学出身者で、こちらのほうは教養があります。だから上官と部下とでは最初から話が合いません。一方アランは当時のヨーロッパ最高の教養人ですから、知性や教養という点では上官をさえはるかにしのぎます。それが位階の上では教養のない人々のグループに属しているのですから、ことはややこしくなります。

 「私を知ってくれた将校たちから私が受けた待遇はよかったし、よすぎるぐらいであった。いちばん近づきになった将校は、頭はよいが恐ろしい気むずかしやであり、私はこの人とのあいだでプラトンとディオニシウスの喜劇をこっそりと演じていた」。
  上記の「私を知ってくれた将校」というのは、アランを「あのプロポの」「あの哲学教授の」アランだと知った将校という意味です。もちろん彼らのアランの知り方の程度はまちまちだったでしょう。有名人の名前を知るように知っていた人もいるでしょうし、著作を読んでいた人もいたでしょう。彼を知識人と認めたインテリ将校は、アランに最小限度の敬意を示したわけで、これが「待遇はよかった」という結果に結びついたものと思われます。

 「いちばん近づきになった将校」はT大尉でした。「彼は精神の豊かな芸術家で、絵画、デッサン、会話を愛していた。彼の大きな楽しみは、夜、コニャックを飲みタバコをふかすときに私を招じることであった。だが彼は胃病で節食していた。われわれは、そのときまるで学生たちのむさくるしい家にいるようであった」。
  この芸術家タイプの将校は、話し相手がなくて退屈しています。普通の兵士では相手になりません。そこでアランを呼び出して話し相手をさせます。アランは現場では一兵卒に過ぎませんから、将校との間には身分の差があります。アランは命令には絶対服従しなければなりません。インテリ将校としてはこれは贅沢な楽しみです。

 彼らは何を話し合ったのでしょうか。「彼は美学のことならあらゆる部門を知っていた。だがそれが十分だったわけではないので、かならず、私は動揺させられた。たとえば、われわれは私に送られてきた、ダ・ヴィンチや、ミケランジェロやラファエルの絵葉書を持っていた。彼はそれに私よりもずっと熱中し、こんな方法でいろいろの事柄に私の注意を向けさした」。
  アランのところに送られる慰問袋の中に、複写名画の絵葉書が入っていました。彼はT大尉の美術趣味を知ってこれらを持参しました。大尉がこれに飛びついていろいろな意見を述べ、アランの感想や意見を聞きたがりました。大尉の知識は豊富でしたが、完全ではありませんでした。アランは誤りを訂正したり、知識を与えたりしました。
  「『芸術の体系』の主題を思いついたのは、これらのひそやかな会話が温床であった」とアランは語っています。「芸術の体系」はアランの主著の一つであり、数ある芸術論中の古典的一冊となっています。この名著が生まれたのは、砲弾の飛び交うキャンプの中、それも気むずかしい大尉が専制君主のようにアランを呼びつけて意見を述べさせた、そのときでした。

 
 

ディオニシウスごっこ
  「いちばん近づきになった将校は、頭はよいが恐ろしい気むずかしやであり、私はこの人とのあいだでプラトンとディオニシウスの喜劇をこっそりと演じていた」。この一句を理解するにはプラトンとディオニシウスの故事を知る必要があります。
  ディオニシウスとは、紀元前4世紀のシラクサの僭主ディオニシウス二世のことです。彼の父ディオニシウス一世は、カルタゴ軍の侵略を阻止して手柄を上げ、シラクサの王となりました。そして息子の二世が跡を継ぎました。
  プラトンの弟子にディオンというシラクサ出身の貴族がいました。ディオンはディオニシウス二世にプラトンのことを話し、王はプラトンを政治コンサルタントとして招聘することになりました。プラトンは理想の政治体制について研究していましたので、王に対する政治顧問として招聘されたのです。

 ところがプラトンが来てみると、ディオニシウス二世は、わずかばかりの知識を鼻にかけた高慢な人物でした。プラトンは指導するどころではありません。たちまち二人の関係は気まずくなり、プラトンは命からがらシラクサから脱出するという一幕になりました。
  アランは次のように書いています。「暴君は、いかに喜劇役者であっても、シラクサのディオニシウスがやったように、いつになってもプラトンをまねくだろう。まさにうぬぼれそのもののため、彼らはここではめくらになってしまう。そして、自分が雄弁であり、魅力があり、深淵であり、賢明であり、そしてすべてであると信じるがゆえに、彼らはほかならぬプラトンと一勝負やりたいと思うのだ」。
  例のT大尉は、アランによってディオニシウスに見立てられていたのです。このわがままな大尉は、アランを呼びつけて自分の知性と教養を示そうとしました。アランは可能なかぎり紳士的に対応しました。それはおそらくはプラトンがディオニシウス二世に対してやったようにです。

 アランは1929年、プロポの一節に次のように書きました。「・・自分の上にいただくのが僭主ディオニシウスではなく、ただの一隊長であるような場合には、しばしば暴君のほうが奴隷のうちに思想をかぎつけて、これにいいより、ついにはこれに友情を、それゆえ平等をさしだすのが見られる。というのも、倦怠は暴君たちの暴君なのだから。ところで、奴隷のほうはこの美しい契約をためし、いわばその生地を吟味するためにこれを引っぱってみることを禁じ得ない。かくして彼は相手の機嫌をそこない、相手に反対する機会をさがす。と、もう契約書は二つに引き破られてしまう。私の観察したところでは、倦怠の力に負けて、引き返してきてヨリを戻そうとするのは、いつも暴君のほうである」。
  「わが思索のあと」では次のようになっています。「私は彼のことでは不平を言う筋合いはなかったけれども、この頑固な嫉妬深い権力をとてもみとめるわけにはいかなかった。そんなことから冷たい不和が生じたが、彼は屈託してまた戻ってきた」。これはまったく同じことがらを記述していますね。

 ある日アランはT大尉にいいました。「あなたが不確かなことのみを信じられるということを私は忘れておりました」。これはかなりきつい冗談です。アランは態度は慇懃に、しかしかなりずけずけと発言しました。アランを文化人と認めない野蛮な上官には何をいっても分かりませんが、いって分かる相手には、アランはそれなりのレトリックで対応しました。当然これを聞いてT大尉は怒りました。
  「こいつ、わしが目をかけ、特別扱いをしてやっているので、いい気になって調子に乗っているな」と思ったでしょう。「この頑固な嫉妬深い権力をとてもみとめるわけにはいかなかった」というコメントが、たとえばどんな事件を指しているか、想像してみましょう。
T大尉「君はきのう**で誰かと親密そうに話をしていたじゃないか」
アラン「あれは自分の教え子の一人であります」
T大尉「ここで君と親しく思想や文化を語り合えるのは私だけかと思っていたよ」
アラン「フランスの戦線では、兵卒は対話の相手にまで制限があるのですか」
T大尉「いい気になってもらっちゃ困るね。私は君がここでもの書きをしていることを知って大 目に見ている。私には君の執筆を制限することもできるのだよ」
アラン「あなたは上官です。どうぞご自由に」

 こうなれば冷たい戦争が生じます。しかしアランは「冷たい不和が生じたが、彼は屈託してまた戻ってきた」といっていますね。アランと縁を切ってしまえば、T大尉には話し相手がいなくなり、ひどく退屈になります。「倦怠は暴君たちの暴君なのだから」とアランがいっている通りです。こうしてアランは呼び出され、再び話し相手をさせられます。
  私たちも友人たちの間で、仲良くなってみたり、ケンカをしてみたりします。その時々の気分や利害などがからんで、人間関係はいつも一様というわけにはいきません。けれど私たちの日常の人間関係は原則として対等です。これに対して、軍隊の将校と一兵卒の間には越え難い身分の壁があります。「たとえば将棋の勝負などでまったく懇意にしていたほかの将校たちにも、私はやはり、兵士をまるで虫けら同然に見るあの権力の濫用をいつもみとめた。そして彼らとの関係は、いろいろやってみたにもかかわらず結局みなだめになった」。

 チェスは知能的なゲームです。アランは学生時代にチェスの腕前を磨きました。将校は無聊の相手をさせるためにアランを呼びます。勝つにしても負けるにしても、勝負ごとには何かと人間性が顔を出します。アランはチェスの相手をしながら、将校たちが一兵卒を虫けら同然に考えていることを実感しました。
  「戦争という状態は暴力的手段と、人間らしさの忘却を要求する」。アランは戦場で上官が権力をかさにきて兵卒を軽蔑し、かりに一兵卒のなかに自分を超える部分があったとしても対等関係を認めないという、機械的で非人間的な、救いがたい側面をいくども見ました。

 
 

リールを手に戦場を走る
  戦場にはさまざまな時間があります。もっとも危険に満ちた砲撃と戦闘の時間、その中休みのような時間、斥候に出たり、調査、観測したりするテンションの高い時間、そして移動する時間など。アランはそのすべてを体験しました。
  砲兵は重い砲車を押して進みます。田舎道は舗装されていませんから、砲車はぬかるみにめり込みます。アランたちは馬車を引いて、めくら滅法に敗走していました。
  「さて夜、馬の腹までぬかるひどいぬかるみの森を貫いていったとき、われわれの車は跳ね上がるので、ついに二つに裂け折れてしまった。この同じ夜、馬車の動揺で、われわれ二三名はぬかるみのなかにはねとばされてしまったのだ。あまりなぬかるみなので、一行このなかを歩いたというよりは泳いだというほうが適切だろう。私はこんなことで、非常に貴重な『飾紐』を小さい包みに入れたごと失ってしまった。だが長くはそんなことを考えてはいなかった」。

 「この旅は長く続いた。いささかも到着を急がなかった。いったいどこを目指しているのか。士官たちさえそれを知らないのだ」。
  あるとき、アランはほかの兵士たちとはげしい戦闘のさなかを駆けました。このとき、アランと同僚は敵と味方の中間地帯に出ていて、味方の砲弾に当たりそうになりました。
  「それから警戒をうながす大きな叫び声が起こった。なんの叫びかわからなかった。砲弾が炸裂した! 七五ミリ砲隊から一斉射撃が始まった。これには私も胆を冷やした。砲弾は私の前方すぐ近くでさかんに炸裂した。わが軍の散兵が、敵の塹壕めがけて急射をあびせる命を受けたに違いない」。
  「私はただちにこの危険な地帯を、例の通り電線をのばしながら引き上げていった。ときどき機関銃に追いかけられて、交通壕をたどって帰った。だしぬけに砲弾幕射撃と炸裂遠が雷のように響き、これに対してわが砲隊からも大砲をもって応戦した。ために大地は震え、地殻はガタ馬車のようにわれわれを揺らした。ゴンチェと私は交通壕の曲路で居すくんでしまった」。

 ここに現われるゴンチェはアランが戦場でもっとも親しくした戦友の一人で、勇敢な観測兵です。アランの表現によるとこの兵士は「神秘的な好戦屋」であり、「写真術では芸術家」です。彼はこの戦闘中、一兵卒から軍曹に昇進しました。
  「『どこへ行ったって助かりっこないさ? ここより安全なとこがあるかい』。作業が終わるとわれわれの勇気も汲み尽くされていたし、兎のようにかけ走り、砲弾がうなるたびに地べたに突っ伏した。私はいつもうまく走らなかった」。
  髭もじゃのアランが、180センチの巨体をゆすって走っています。彼は左手に電線をたらしたリールをぶら下げ、もう一方の手に剣付き銃をつかんでいます。敏捷なゴンチェがアランの後になり、先になり、周囲を見ながら走っています。ぱちぱちとはぜるような銃声が背景にあります。砲弾が飛ぶ気味の悪い音が鳴り出すと、彼らは何か叫び、あわてて地面のくぼみを見つけて突っ伏します。

 アランたちが戦っていたのはドイツ軍側から見ての、いわゆる「西部戦線」です。平原や壕を隔てた向こう側には、「西部戦線異常なし」の作者レマルクもいたことになります。あの小説の舞台がどのへんなのかは分かりませんが、両軍は同じような状況下で一進一退を繰り返していたことになります。
  レマルクは体験にもとづいて現場の様子を記述しました。「僕らは口のない人間、下顎のない人間、顔のない人間を見た。出血で死なないように、2時間のあいだ腕の動脈を歯で噛み締めていた兵隊を見た。日は昇り、夜は来て、砲弾は唸り、人は死んだ。けれども僕らの横たわっている、ごくわずかばかりのこの荒廃した地面は、敵の優勢に対して無事に助かった。ただ2、300メエトルが敵の手に奪われた。けれどもその1メエトルごとに、1人ずつ人が死んでいた」。

 
 

上官に飛びかかる
  その日アランたちは電話の中継基地にいて、飛行機から受けた命令を砲台に電話で連絡するという仕事をしていました。そばにはJ中尉がいました。彼はスマートで魅力的なお坊ちゃんタイプで、電話担当の、アランの上官でした。
  このときなぜか興奮したJ中尉が電話機のそばで大声でわめきました。中尉の声は受話器を持った担当者の声を圧倒し、相手側に伝わりました。これを命令と勘違いした砲台では、予定よりも早く射撃を始めました。けれど彼らは、飛行機が所定の位置から連絡するまでは決して発泡してはならなかったのです。作戦はみごとに失敗です。

 そばで見かねていたアランはJ中尉を一喝しました。「うるさい! あなた、黙りなさい!」中尉が驚いて気色ばみました。作戦もそっちのけで、「部下のくせいに、おまえのその態度は何だ。すぐに謝罪しろ」。頭に来たアランはものもいわずに飛びかかりました。一発なぐったかもしれません。周囲は誰も手出ししませんでした。
  J中尉はよろめきながら、「貴様、上官を何と心得る!」。アランはさすがにすぐに冷静さを取り戻しました。「ちょっとまずかったな」。中尉は金切り声で「謝れ!」とわめいています。アランはしぶしぶ「申し訳ないことをしました。しかし貴官の大声を命令と聞き違えた砲台が間違って発射したのであります」といいました。
  戦場に来ていても、とっさの場合、アランは学校の先生に戻っていました。「私はこの作業をずっとつづけていたが、力強くも中尉を叱りつけたのだった。彼はそれをとても悪くとり、謝罪を要求した。私はしぶしぶ謝罪し、それで彼は満足した。しかし謝罪のほんのすこし前に、私は彼に飛びかかることを本気で考え、それを実行に移した」。
 
  このときの一部始終を同僚の兵士Cが見ていました。そして後になってからアランにいったものです。「とっさに考えたんだがね、あんたに有利な証人が一人もいなかったら大変だとね」。もし証人がいなかったら、アランは中尉に上官への反抗の罪で告訴され、軍法会議にかけられていたかもしれません。あるいは逆上した中尉に射殺されていたかもしれません。戦友Cのコメントは、「自分が有利な証人になるよ」という意味ですから、アランにとっては幸運でした。同僚が理屈の上でも、感情の面でも中尉よりアランを支持していたことが分かります。
  このCという男はブルターニュ出身の若者ですが、アランはかつて、彼が仮病扱いされて書類送りされるはずのところを、適切な助言で救ったことがあります。上官はアランを信じてCに関する軍医の報告書を破り捨てました。アランは自分側に立つことを表明してくれたこのCを「大戦の思い出」の中で、「貴い友人」と書いています。
  このCという戦友は、正直のところ友人として頼りになる人物ではありませんでした。仮病の件は別としても、その場ではぼんやり成行きを見ているだけで、積極的にアランの肩を持ってくれたわけではありません。おそらくどこにでもいる、やくざで口下手な、無教養な若者の一人だったに違いありません。その彼にすら、アランの立場は理解できました。そこでアランは彼を、「貴い友人」と呼んだのです。

 
   
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