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アランとはどんな人
 
第8章 ふたたび教壇で

砲声が聞こえる教室
  アメリカははじめのうち第一次世界大戦に参戦しないと思われていました。アメリカの大統領ウィルソンは、ヨーロッパの各国政府に向かってさかんに「勝利なき平和」を訴えていました。しかし事態はいっこうに打開しませんでした。1917年3月、ロシア革命が起こり、300年続いたロマノフ王朝が崩壊しました。アメリカは4月、連合国軍側に立って参戦することを決定しました。
  この年の1月、アランはデルニの気象観測隊に転勤になりました。彼はここでロシア革命のニュースを聞きました。この職場でアランが出会ったのは、なんと「気象予報」を出せないでいる臆病な予報官たちでした。予報が当たらなかった場合の風当たりが強かったからです。

 アランがパリに戻ってきたのは1917年の10月です。終戦は1918年10月ですから、アランは終戦の1年前に除隊し、帰還したことになります。おそらくアメリカの参戦によって戦争の見通しがついたこと、アランが四九歳の負傷兵で、第一線ではもう使えないこと、一兵卒として使い捨てるにはあまりに惜しいアランの人材価値が認められたこと、そして支援者たちの口添えなどがあったのでしょう。
  パリはまだドイツ軍の攻撃範囲にあり、ときおり大砲の音が響いていました。市民たちは戦争に対する恐れと心配のためにやつれていました。アランには戦局がおよそ読めていました。死線を幾度もくぐってきた彼にしてみれば、パリは平和そのものでした。
  「・・このような内外の動揺の中で、私は1917年10月になってふたたび教鞭をとった。私は小さな核を作って集まってくる生徒たちを見いだし、ふたたび自分の書物を見つけた。私は街路の上空にベルタ砲がとどろくのをきいた。そして私は眼鏡をかけた。私はこのとき、極度に疲労しているのを感じたが、無理もないことだった」。

 アランは、帰るとすぐ母校のアンリ四世高等中学で教え始め、同時にセヴィニエ女学院でも教え始めました。アンリ四世校では、彼は生徒たちにプラトンを読ませました。「たくさんの観念が、私から枯葉のように落ちていった。私は少しもそれらを拾い集める気にはならなかった。私はそれからは、もっぱら偉大な著作家たちのなかを進んだ」。
  「西部戦線異常なし」のカントレック先生は、生徒たちをたきつけて志願させ、戦争に行かせます。アランは戦争肯定論者としても、あるいは反戦論者としても生徒たちを説得することができました。「こうして私は若い世代を、いつでも立ち上がらせることのできる立場にあった」。もちろん彼はそんなことはしませんでした。
  彼は自分の思想を大切にし、自己を統御する自由を守りました。つまり彼は、生徒たちに偉大な書物に向かうことだけを教えたのです。ほかの先生たちはアランの行動を理解できませんでした。動揺の中で、その動揺について発言せずにいることは、奇異なことだったからです。

 「だから私は、多くの仲間たちのなかで、一個の兵士であり、法に束縛されぬ人間であった。権力者たちは、この絶えざる一揆を知らずにおく術を心得ていた。もし彼らがそれに直面しようとしたならば、彼らは敗北したであろう」。私はここに、あたりを睥睨しながら、油断なく退却するソクラテスの姿を見ます。
  彼は、教室で自分を見上げる若い男女に向かって、何よりも自分に話すように、おだやかに話すことを心がけました。「まず復讐心をしずめなくてはならなかった」。彼はコントを読みました。「当時最も力づよくて私を激情から最もよく救うことのできた著者は、たしかにコントであった」。彼は教室でホメロスの「イリアス」を1年間かけて読み、次の年には「オデッセイア」を読みました。

 

モンテーニュの無防備主義
  アランは生徒たちにモンテーニュの「随想」を、奇妙なやり方で読ませました。「私は男の生徒たちに、モンテーニュの奇禍であるとか、鉢の話であるとか、戸口の敷居に立って人々に平和を宣言しているモンテーニュだとかを、私の言葉通りにいうと、即座に指させるように練習させた」。
  アランはモンテーニュを非常に高く評価しました。モンテーニュを読むと、随所にアランの思想の原形にぶつかります。モンテーニュは要約して人に伝えることができるような著作ではありません。だから、モンテーニュの読者となるためには、これを通読しただけではだめで、何度も慎重に読み、どこに何が書かれているかを知ってしまわなければなりません。彼はこれを生徒たちに実践させました。 
  ちなみに日本語に翻訳されているモンテーニュの「エセー」は岩波文庫版で全六巻あります。これを完全に消化しどこに何が書かれているかを指させるようになるのは容易ではありません。アランは生徒たちにそれをさせたのですから、アランの授業がどのようなものであったか、見当がつきますね。

 アランはモンテーニュの話になると決まって「このエピソードがどこに現われるか、諸君は自分で捜しなさい」と読者に課題を投げかけます。「わが思索のあと」の中でもモンテーニュを引用してこういいます。「もし諸君がこのページや、私の語った物語や、またモンテーニュの奇禍を捜すならば、諸君は捜すのにしばらくかかるだろうが、これこそ最上のことなのである」。
  アランが「わが思索のあと」の中で引用したのは次の部分です。モンテーニュが住んでいた地方が内乱の戦火に見舞われたとき、住民は堅く戸口を閉ざし、兵士の暴力や略奪から身を守ろうとしていました。しかしモンテーニュだけは戸口を開け放し、無防備の状態を維持しました。それでモンテーニュの家だけは内乱の災禍を免れたのです。
  「正義が死滅しているときには、勇気をもって行われたことはつねに、気高く行われたことである。私は彼らに対し、家の征服を卑怯な裏切り行為にしてしまう。私の家は、叩く人にはだれにも閉ざされていない。・・」。

 一方の武装は他方の武装の理由になり、一方の防備が他方の攻撃の理由になります。住民が示す恐怖や警戒すらも、攻撃心を煽ります。しかし無防備の、しかも開かれている扉を打ち破って入ってきて略奪や殺戮をしようとするのは、少なくとも兵士ではありません。
  モンテーニュは書いています。「こんなにもたくさんの家々が武装された中にあって、私の身分の者で、自分の家の守りをすっかり天に任せたのは、私の知るかぎりフランスでは私だけだ。私は一本の銀の匙も、いちまいの証書ももちださなかった。私は恐れようとも、生半可に助かろうとも思わない」。
  私たちにはモンテーニュの真似はできません。おそらくアランの真似もできません。非常事態になれば、あわてふためいて逃げ出したり、なけなしの財産を守ろうとして、あさましくふるまうに違いありません。しかし非常時にこそモンテーニュが達していたこの精神が必要だと考えたアランの考えを、私たちは今理解できます。戦争を実体験してきたアランが、モンテーニュの思想を確信を持ってわがものとし、自分の生徒たちにもテキストを通してそれを考えさせようとしたこと、私たちはこれを理解できます。

 
 

セヴィニエ女学院で
  アランはアンリ四世校とセヴィニエ学院の二つの教室で教えていました。セヴィニエ学院では少なくとも二つのクラスを持っていました。
  その一つは学院の女子学生、もう一つは一般の聴講生を対象とするクラスです。一般の聴講生を対象とするクラスの聴講生は、「男子学生、女子学生、未知の弟子たち、それに物見高い一般の人々」でした。アランはすでに多くの書物の著者でした。1920年には「プロポ」の選集二巻が、それに1921年には「マルス―裁かれた戦争」が、ガリマール書店から出版されていました。
  「プロポ」「マルス」を皮切りに、アランの著作はほとんど毎年のようにガリマール書店などから発行されるようになりました。セヴィニエ学院で行なわれていたアランの教室は、一般の人々や学生にとって「作家アラン」に接することのできる絶好の機会でした。幾人かの有名な作家や、それにかつての教え子までもがアランの講座に参加しました。

 「はじめ数年は大したこともなかったが、だんだんと数がふえ、こうして徐々に多人数の規律と、質の高い静粛が成り立った。私は彼らを大人として扱ったし、この青年たちは大人以上に立派なものであった。・・私は私自身に対するように、彼らと対話を交わした。また彼らのほうでは、用心してなかなか答えなかった。私は少しも容赦しなかったが、彼らも容赦をもとめなかった。・・しかしつまるところ、彼らは大人にふさわしく放任されていた」。
  上記からこの講座は市民大学的な性格を継承していること、アランの評価が高まるにつれて聴講生が増えていったことが分かります。受講者はかなり質の高い人々のようです。アランは「みなさんは、このことをどう思いますか」といいます。けれど聴衆は慇懃な沈黙を守ってアランの顔を見ているだけです。するとアランは指を一本立てていいます。「そう、その通り」とか「私もその点についてみなさんと同意見です」など。おそらく誰でも自由に聴講できたこの講座、当時の人々が羨ましいですね。

 これに対して「私はセヴィニエ学院の女生徒たちには、もっとあまくしていた」とアランは書いています。それは「彼女たちは素養がなかったし、それは見ただけで明らかだった。のみならず、彼女たちは何も知らなかった」からです。セヴィニエという、著名な貴婦人の思い出を持つこの学校は、おそらくアンリ四世校と並んでパリの名門女子校の一つです。
  しかしあらゆる女子校がそうであるように、この学校も、何よりもおしゃれやおしゃべりが好きな年頃の女生徒たちであふれていました。私は手許にこの時代の女生徒に囲まれているアランの写真を持っています。この写真には2列に並んだ16人の女生徒とアランが写っています。写真は大きな建物の前で撮ったもので、柱らしいもの、窓らしいものから見て、どうやら校舎の一隅のようです。
  写真前列には左側に三人の女生徒、アランを中央にして右側に四人の女生徒がいます。この前列の人々はいずれも木製の椅子に腰かけています。後ろの列には九人が並んで立っていますが、右端の女性は顔が半分画面の外になっています。

 アランはせっかく美しい女生徒たちに囲まれているのに、心ここにあらずといったように猫背になり、顔をやや左のほうに向けて何かを見ています。彼はコートを着ており、左腕に竹製のステッキの握り部分をかけ、その手を自分の右手で抱えるような形をしています。アランの右膝には大きな帽子が乗っています。
  アランのコートの内側は見えませんが、どうやらスタンドカラーのワイシャツを着ているようです。革靴はピカピカ光っています。どうやらこの日は卒業式か何かのセレモニーがあったようで、アランはフォーマルな装いをしています。

 前列の女生徒たち七人のうちの四人は気取って足を組んでおり、あとの二人は足を軽く組んで残る一人が足を揃えています。みな気取ったポーズ、それにおすまししています。彼女たちの顔立ちはみな個性的ですが、かわいらしく上品で、いかにも良家の子女という感じです。服装はコートあり、ワンピースあり、カーディガンあり、ベストありと、さまざまですが、アランの服装にくらべるとみな軽やかで、のびのびしています。やや中央よりに分けた、つつましやかな髪型が主流のようです。
  女生徒の視線は全員カメラを向いており、写真を意識していることが分かります。これに対してアラン一人がそっぽを向いています。それが何ともいえずおかしみを誘います。写真の上には女生徒の名前が太いペンで記入されています。この写真から、アランと女生徒たちの一定の距離感、相互に対する無関心が浮かび上がります。アランは彼女たちにはほとんど注意を払っておらず、彼女たちも先生を無視してひたすら美しく写ろうとしています。

 
 

女性のほうが才知にとむ
  アランは女生徒たちに重要なことだけを、集中的に教えました。例によって質問は許されません。アランは教室の帝王となり、助言ではなく命令を与えました。「この娘たちはなにも知らなかった。彼女たちははじめてプラトンやデカルトやコントに接した。彼女たちはこの人々について概論から、あるいやな先入観を持っているようなことがなかった。彼女たちはひとりひとり、デカルトをまえにしたパラティナ公女あるいはスエーデン女王であった」。
  アランの弟子となった彼女たちは驚くべき進歩を示しました。「たしかに、観念をあまりに駆け足で一周することには危険がある。しかしこのアマゾーヌたちは、こうしていっそう身軽くなり、また力をつけた。彼女たちは短剣と小楯で、そのものしずかな審判者たちの列のなかに恐慌をきたさせた」。

 「ものしずかな審判者たち」とは誰のことでしょうか。おそらく、同校のほかの教科の先生たち、それに校長先生などでしょう。彼女たちはアラン先生から、精神の自由を貫いた偉人たちの業績を学び、精神的自立に関する何ものかを会得したに違いありません。彼女たちの新しい教養やものの考え方が、ほかの勉強や試験の回答にも影響したのでしょう。
  アランはこうした女生徒への教育を通して、女性がすぐれたポテンシャルを持っていることをあらためて実感しました。「私が、女性は生まれつき男性よりも才知にとむという観念を得たのは、そのときのことである。私はこの言葉を最も真剣な意味に解する。・・そして女性こそ、人間的形式の守護者なのである」。
  「人間論」の中に次のような記述があります。「大工は屋根のうえではたらき、妻はそのしたではたらくのが自然である」「女性はなにを売るにも一様に適しているわけではない」「女のプラトンというものはない」。これを読んで、アランは女性を差別視していたという人がいます。しかし誤解をしないでください。

 私は女性の人間的価値を尊重した思想家として、同時代を生きた二人、ジョン・スチュアート・ミルと、オーギュスト・コントを思い浮かべます。アランは、ミルについてほとんど語っていませんが、コントからは深い影響を受けています。「彼(コント)こそ思想家のなかでただひとり、女性について当然のことを語った人であることをまずみとめなければならぬ。私はさらに、彼こそ女性について語り、母性的魅力をえがいた唯一の人である、というだろう」。
  私はアランがコントとともに女性を尊重し、一切の偏見や習慣にとらわれることなく、女性の人間としての当然の価値と権利を認めていたと考えます。ただアランは一人のすぐれた生理学者として男性と女性の「区別」をしていました。「区別」と「差別」を混同する人がいますが、困ったことです。男女が同等の権利を有する、ということと、男性と女性を同じように取り扱っていいということは別問題です。

 アランは「野蛮な事実に対していなという、あの不屈の精神は、女性的とよぶべきだろう。この美しいことばの、完全かつ強力な意味において女性的なのである。私はといえば、子供を産む性を弱い性とよぼうなどと、かつて考えたこともない」といっています。また「生物的機能から考えて、女性のうちに、人類の不屈の力をみとめたい」ともいっています。
  先史時代はいざ知らず、歴史時代に入ってからの女性の立場はたしかに弱いものであり、抑圧されたものでした。女性の権利の獲得という点では、歴史はやっとその緒についたばかり、といえるかもしれません。これからますます男女の均等化、対等化が進むでしょう。
  しかしながら男女が「差別されるべきでない」という意見を、「区別されるべきでない」と取り違えてしまうと、浴場やトイレまで一緒にしなくてはならなくなります。アランは男女の対等を認めた上で、女性には女性としての美しい特性が、男性には男性特有の機能と特性があると考えました。それどころか彼は、女性は子孫を産むという仕事を直接担当することによって、人類の「生き続けよう」という意思を体現している、とさえ考えました。

 近年「男性も家事や育児を二分の一は負担すべきだ」というたぐいの議論が聞かれます。もちろん夫婦間の問題は当事者のことですから、他人が立ち入るべきではありません。当事者が満足すればそれでいいのです。
  しかし「家事や育児は大変な労働である。これを女性だけに押しつけるのは不公平だ」という論点で「男性も負担する義務があり、女性はこれを依頼する権利がある」などというとしたら奇妙なことです。このときに「家事や育児が本来は避けるべき苦行」となり、家庭内の業務は権利関係によって規定される、ということになるからです。

 アランは「権利の観念は、交換からうまれたものにほかならず、夫婦の社会には本質的に無縁のものである」といいました。アランの考えでは女性は家事や育児の担当に適しています。適しているほうの担当比重が増えるのは自然なことです。そこで彼はこれを「大工は屋根のうえではたらき、妻はそのしたではたらくのが自然である」といったのです。
  「そして女性こそ、人間的形式の守護者なのである」とアランがいうとき、アランがはじめ何も知らなかった「無知な小娘たち」が、やがて自立した、美しく教養ある大人として人類社会の一角を担ってくれることに、無限の期待を寄せていたことが分かります。彼にとってはセヴィニエ学院の女生徒たちはいずれもデカルトに対するエリザベート公女であり、クリスチーネ女王であり、コントを助け、支えたクロチルドであったのです。
  このように考えてみると、女生徒に囲まれて写真に写っているアランが、現実の目の前にいる女生徒に少しも注意を払っていないことを理解できるような気がします。彼は、はるかかなたの理想の女性、クロチルドを見ていたのです。

 
 

他校からアランの教室にもぐり込む
  作家として名高いアンドレ・モーロワは、アランがルーアン時代に教えた教え子の一人です。ルーアン時代といえばアランが30歳代のときですが、このときのアランの教え方についてモーロワは次のように語っています。「講義はおおむね項目を追っていたが、抽象に先だっていつも例文の分析があり、抽象は物語によって色づけられていた。ラビの召使い女だの、植民地軍の軍曹だの、ラブラドル半島のあひるだの、モンテーニュのスープ皿だのといった話は、生涯忘れがたく私に役立っている」。
  モーロワはまた「『わが思索のあと』を読んで私は、こうした日々の即興と軽妙な洒落が、先生を病気で死ぬのではないかと思うほど疲れさせていたことを知った。当時の私たちは、そんなことに気づきもしなかった。先生はふざけているようにみえたのだ」といっています。

 教壇でのアランは、工夫をしながら生徒に分かりやすい例を引いて説明していました。見かけ上は即興のように見せながら、こまやかな神経を使って講義を進めていたわけです。この事実は自分の講義に関して「不用意なうえにも不用意でなければならぬ」を自戒していたアランの言葉と、一見矛盾するようにも思えます。しかしアランはひとたび教師としての職業を選んだからには、よき教師でありたいと考えました。彼は教師としての仕事を大切にしていました。アランは十分な知識と緻密な講義内容を準備し、その上での一期一会の、応用性のある、独自の授業を展開していたのです。
  戦前からアランの授業は独自のものでしたが、戦争から戻ったアランの授業にはさらにゆとりと幅が出てきました。アランはこの頃、ヘーゲルを読み込み、古典的な作品とあわせてヘーゲルに関する講義を行なっていました。「こうして私は、1920年から1930年頃まで、3回にわたってヘーゲルに関する講義を行った」。

 「ヘーゲルに関する3度目の講義は、非常にはっきりと記憶にのこっているが、広い机と中央に大きな通路のある図学の大教室で行われた。正規の生徒が75人いたうえに、相当数の高等師範学校生がいて、なかには一般の愛好家も若干数まぎれ込んでいた。そのひとりであった若い銀行員のごときは、この神託をききにくるために土曜の半休を利用していた。私はこうしたことを、後になってはじめて知った。私はこの種の聴衆には目もくれなかったが、それでも彼らのすぐそばにいた。音響効果が悪くて声が通らなかったので、私は中央の通路を行きつ戻りつしていたのである」。
  アランのこの大教室での講義が毎土曜日の午後に行なわれました。正規の学生たちは、この教科で単位が取れるので出席していたのでしょうが、外部からの聴講生はアランの講じるヘーゲルを聴くためだけに参加していました。

 手許に、アンリ四世校の教室で講義しているアランの写真が二枚あります。一枚のほうは、小さな紙片を持ち、眼鏡をかけてうつむき加減にその紙を見ているアランが写っています。正面には黒板があり、チョークで書かれた文章の断片が見えます。写真には後ろ向きになった学生たちの前二列目ぐらいまでが見えます。最前列の学生は隣りの学生と何か話しています。
  もう一枚の写真は同じアンリ四世校の、ほぼ同じような教室です。写真の左上にかかっている額の絵が違うので、違う教室かもしれません。アランは右側の大きなデスクの上に横向きに腰掛けています。一人の生徒が黒板に文章を書きつけています。自分の席にいる学生の一人は黒板のほうを見ていますが、もう一人は手許のノートを見ています。
  アランは60歳前後に見えます。服装は両方とも同じような感じで、黒っぽい上着、チョッキネクタイ、ワイシャツです。一枚目の写真ではアランは縁の丸い眼鏡をかけています。彼はおそらくこのスタイルで、ヘーゲルの特別講義を行なったのでしょう。アラン先生はどっしりした穏和な風格を備えており、生徒たちの動きなどまるで気にしていません。

 アランの授業を聴くために他校からぬけ出してくる学生が増えました。「電話戦術もよく行われた。『もしもし、校長先生ですか。学生が三人ぬけ出しているのですが、どうもアランの講義を聴きに行ったらしいのです。そのあたりをしらべて、ご返事願えないでしょうか』、高等師範学校からである。校長は生徒監に伝えるが、生徒監はまじめにとりあわないのがつねであった。こんな状態で少なくとも一年はすぎた。しかし補導当局の要求は、まじめに受け入れられたものに相違ない。この流行(そう当局は呼んでいたが)はすぎ去った」。
  なかなか愉快ですね。日本の学生が他校の、高名な先生の話を「もぐり」で聴きに行くためにどんな工夫をしているのか、「もぐり」を排除するのに学校当局がどんな工夫をしているのか知りませんが、人気のある先生のところに学生が集まるのに不思議はありませんよね。
  当局はこうした現象を「流行」と呼んだようです。たしかに「流行」的な部分もあったに違いありません。しかしアランの講義に、若い学生たちをひきつける魅力があったことも事実でしょう。「読者はおそらく、私がこんなことにほとんど興味をもたなかったものと信じてくださるだろう。いずれにせよ、私は欲すると否とにかかわらず、知らぬが仏を決め込んでいたわけだ」。 この学生たちのあいだの「アラン・ブーム」は、ソルボンヌをはじめとして他校で哲学を教えている先生たちにとっては、あまり愉快ではありませんでした。彼らが学生たちを引きとめるために、何らかの対策を取ったことは明らかです。しかし結局アランが六五歳で教壇を降りるまで学生たちのアラン人気は続きました。

 
 

教壇の一兵卒として
  アランはこのとき、自分に与えられた教壇という名の城を守り、ただ一人自分の戦いを展開していました。アランの敵方に回ったのは、当時の「思想の最有力の先生方」であり、その代表格がソルボンヌ大学です。権威や名誉を嫌い、最後まで一兵卒としての地位を守り抜いたアランは教室でも「自由」という名の砲台を守る一兵士でした。
  アランが終戦後再び教壇に立ち、そして教壇を去るまでの期間は16年間あります。この時期アランは以前にもまして精力的にものを書きました。著名なところでは、「幸福論」「感情・情念・表徴」「思想と年齢」「家族の感情」「人間論」「音楽家訪問」「ポール・ヴァレリーの詩編」「海辺での対話」「イデー、プラトン、ヘーゲル」「教育論」「文学論」などがあります。上記のうち「幸福論」「感情・情念・表徴」「人間論」「教育論」などは、もともとプロポとして発表されたものを再編集して出版したものです。アランのプロポはおびただしい数にのぼり、テーマに即していくらでも再編集して本を作れる状態になっていたのです。

 戦後の教壇にあった頃のアランの心境を伝える名言を、上記の代表的な作品の中からひろってご紹介してみましょう。
  1923年、幸福論の中でアランは「悲観主義は気分に属し、楽観主義は意思に属する」といいました。アランは「不幸だったり、不満だったりするのは、むずかしくない」といいます。気分をなりゆきまかせにしておけば、何を見てもつまらなくなり、憂鬱になります。気分の原初的な状態は憂鬱です。だから見物人のように待っている人は決して幸福になれません。これが「悲観主義は気分に属し」という言葉の意味です。
  「幸福になろうと欲し、それに身を入れることが必要である」。待っていれば誰かが与えてくれるような幸福はありません。誰もが自分から幸福を取りに行かねばならず、行動しなければならないのです。熱中して何かに打ち込むことの中に幸福があります。

 ものごとを悪くとるのは簡単です。しかしそれはあまりにもイージーです。「いやな雨だ」といわずに「よいおしめりだ」というためには、自分自身の気分を統御しなければなりません。この自己統御こそ、アランが自分自身にも他人にも要求したことです。これが「楽観主義は意思に属する」という言葉の真の意味です。
  アランはまた「市民の月桂冠」を提唱しました。それは自ら幸福であり、他人にも幸福な気分を伝播できる人物がいたら、その人に「市民の月桂冠」を贈るべきだというアイデアです。戦争という修羅場をくぐってきたアランは、平和を樹立するためには各人が各人の内部で平和を、すなわち幸福を樹立しなければならず、そのためには幸福の自己責任を貫かなければならないと主張したのです。

 1927年、彼は「思想と年齢」を出版しています。彼は「私は読者が、上機嫌で興奮を伴なわない小編からなっている『思想と年齢』によって、くつろいでくださったものと思っている」と語っています。そしてさらに「こんどは私は人間と和解していた」とも書きました。
  「私は、不幸と幸福がどのようにして詩に変わるかということ、また神話と芸術と宗教がどんなふうにわれわれの毎日の衣服となっているかということが、わかり始めていた。このような上機嫌がこの書物の色調であり、私はこの書物に、少なくとも外見上やさしすぎるということ以外非難の余地を見出さない。これは私にとって『帰還』の味わいをもっている」。

 ここで文中に現われる「上機嫌」「興奮を伴なわない」「人間と和解していた」「帰還」というキーワードに注意してください。「帰還」とは戦争からの帰還です。「上機嫌」「興奮を伴なわない」とは、戦争のことはもういい、もう忘れようじゃないかということです。「人間と和解していた」とは、すべての関係者を許せる気持ちになっているということです。
  ちなみに幸福論の中で、アランは次のように書いています。「人が平穏無事であることにがまんならない、あの悪意をもった妖精どものことは、もう十分承知している」。これは戦争に対する警告と、一部の好戦論者たちに対する牽制です。この意味で、「幸福論」は、まだ、アランの反戦的な闘士としての、戦闘的な部分を残している本なのです。
  しかし「思想と年齢」の中では、これらの人々をも含めてアランは「人間と和解して」いました。もちろん戦争を先導する人々を許容したわけではありません。しかし彼には人間の本性のすべてが分かり始めていました。「私は、不幸と幸福がどのようにして詩に変わるかということ、また神話と芸術と宗教がどんなふうにわれわれの毎日の衣服となっているかということが、わかり始めていた」。

 
 

「いかに批判するか」ではなく「いかに学ぶか」
  「思想と年齢」の序文で彼は次のように書きました。「海のプロメテウスはその真の姿をとり戻していたが、これはまた偽りの形なのであり、そして、私は彼の二重の答えをはっきり聞いたのであった」。
  ここに登場するプロメテウスは、ギリシャ神話に登場する知恵と情報の神です。アランはこの神に「真実とは何か」と問いかけ、プロメテウスがアランに向かって「真実は存在するすべてのものである」「真実は存在しない」という一見矛盾した二つの答えを出しました。
  これは世界を正しく認識するためには、現実に対する肯定と否定の両面が必要だということであり、肯定すべきことと否定すべきことを取り違えてはならないということ、取り違えないことが「知恵」を意味するのだということです。これは、このときに達したアランの一つの悟りでした。著書「思想と年齢」を通して、アランの中の戦争が終わり、思想家としての円熟の境地がおとずれていたのです。

 「イデー――プラトン、ヘーゲル」という書物の中から、アランが講壇でヘーゲルについてどんなことをいっていたのか、垣間見ることにしましょう。
  「イデー」はアルトマン書店から、アランの定年一年前に出版されています。この本は過去に書かれた論文の合本で、この中に「プラトンに関する十一章」「デカルト論」「アリストテレスに関する覚え書き」「ヘーゲル」「オーギュスト・コント」など、古今の哲学者の業績を論じた作品が収められています。
  「幸福論」や「人間論」がプロポという形を通して一般の人々に対して向けられたメッセージだとすれば、この本は教壇から学生たちに向けたメッセージといっていいでしょう。
  アランは「ヘーゲル」という論文の冒頭で、「私はプラトンの哲学で栄養をとったあとで、この別の哲学(ヘーゲル)を薬にして、よい気分になった。プラトンは、自分自身とのあいだに問題をもつ人に適している。・・アリストテレスやヘーゲルは、またライプニッツも、むしろ自然主義者である」。アランはプラトンから出発し、「自分自身の統御」「自分自身の徳」の問題をじっくり研究しました。

 また彼自身、ソクラテスとプラトンにならって、主知主義的な、ある意味ではストア派的な生き方を自分に課してきました。けれどもアランはその中に閉じこもりはしませんでした。彼はアリストテレス、ヘーゲル、そしてコントを通して、外の世界と自分の関係、社会人としての人間の展望を開きました。
  アランにとってヘーゲルは、「世界をあるがままに見る」という点で、大きな助けになる作家です。アランにとってのヘーゲル認識は次の表現の中に、端的に見出すことができます。「上部が下部に支えられ、現実の文明によってそこから救われているというのが、ヘーゲルの『精神哲学』のすべてである」。

 「下部のものが上部を支え、上部ものが下部を照らす」。つまり人間生活の基礎は下半身である足腰にあるけれども、知恵と頭脳がその方向をコントロールしなければならないというのが、アランの思想です。しかしアランはヘーゲルの中から、「下部のもの」は自分一人ではない、それは社会機構の全体とつながっており、歴史や現実の文明のシステムと不可分だ、という原理を汲み取りました。
  私たちは一個の人間として自己完結を目指さなければなりませんが、つねに社会、世界と結びついた形で自己完結を目指さなければなりません。そこでアランは「私たちはデカルト的精神と正反対なアリストテレス的発展というものに、親しんでおかなくてはならない」といいました。ここでアリストテレス的発展といっているのはヘーゲル哲学のことです。

 またアランは「悟性による社会学説は・・社会をただ欲求と必要だけによって説明するから、精神をまったくものに結びつけることができず、精神を失うことによって法を失う。ここでは、人間のあらゆる能力によって動かされ労働によって魂を具現する弁証法の豊かな結実がたたえられる」といい、現実に密着した思想であるヘーゲル哲学の業績を高く評価しました。
  私は学生時代に「哲学」の講座を聴いたことがあります。先生は古い哲学者の学説から説き起こして、それらの学説がどのようにして次代の哲学者によって否定され、乗り越えられていったかを解説してくれました。その講義を聴いていると、哲学の歴史は、そのとき、そのときに、真理と思える学説を述べる人々の集団でできています。だから結局誰も正解を出せないのです。私はあの講義を聴いて「哲学とはなんと空しい試みだろう」と感じたことを覚えています。
  アランの哲学講座はこれとは違っていました。彼は教壇の上で、過去の偉大な思想家同志を互いに戦わせるのではなく、すぐれた思想家から学ぶべき真理を取り出し、自分の精神の栄養にすることを教えました。アランはプラトンを讃美し、アリストテレスを讃美し、デカルトをたたえヘーゲルの魅力、コントの魅力を伝えました。偉大な先人たちの業績を理解し、総合し、わがものとすることがアランの仕事であり、生徒たちに課した仕事でもあったのです。

 
   
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