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アランとはどんな人
 
第9章 歌のような生活

受けるべき尊敬を受けながら
  アランの在職中に学校の試験制度が変わり、市民のための講座の仕組みも変わりました。聴講生の数も、質も変化しました。アランの一般向けの教室は参加人数が少なくなりました。「この講座はほとんど人を集めなかった。幾人かの化粧をした婦人たち、それに私の知っている幾人かの男女学生くらいであった。この寥々たる風景は私を予言者にした」とアランは書いています。
  彼はこの淋しい教室でも最善を尽くし、そこで多くのことを学びました。メインのアンリ四世校の、火曜の教室は生徒が溢れるばかりです。しかしここでは「私は決してなにごとも学ばなかった」といっています。

 どんなことでもそうですが、人が大勢集まると気分が高揚し、哲学教授といえども舞台人のように、「ノリ」が出てくるに違いありません。アランも多数の生徒がいる教室ではおそらく多少は「ノッ」て、授業をしたでしょう。しかし大勢の人々を引きつけなければならないという気づかいは、教えながら学ぶということとあい入れません。アランは小人数の授業のほうをよしとしました。
  いつしかアランは六五歳になり、教壇を去るときがやってきました。「年齢のせいで幾分健康もおとろえたし、支障をきたすようになったので、私は演説家稼業をおしまいにせざるを得なかった。それ以降、私は書くことで満足し、これでよいと思っている」。
  おそらく教壇を去るアランを惜しんだ教え子や卒業生から、惜別のメッセージが寄せられたでしょう。けれどアランはこうしたことをひとことも書いていません。「私は教育に愛情をまじえるのは禁物であることを知っているし、しばしば口にしてきた。それはただ、親の領分を侵さぬということである。このような雰囲気は男女生徒を問わず、みなにとって有益であった」。

 アランは学校と家庭を明確に区分ていしました。「学校は少しも家庭ではない。ここでは、感情は問題にされない」「もし教師が父親のような愛情をそそいだとしたら、これはこっけいなことだろう」「学校には既得の地位もみとめられなければ、資本に似たいかなるものもみとめられない」
  「教師と生徒のあいだにうまれる感情はたしかにきわめて質の高いものである。この感情をほかの感情と区別することはきわめて重要なことだ。ここには一方に敬服、すなわち崇高へのあこがれがあり、他方にはきわめて高度の、全的に精神に根ざす友愛、教えるという行為において知る者と知らぬ者を平等にする友愛というものがある。この気だかさ、およそ世にもっとも高いこの気だかさを体験したものこそ、さいわいである」。

 

ソルボンヌの招聘状を突き返す
  アランがアンリ四世校を辞めると、まもなくソルボンヌ大学から講師としての委任状が送られてきました。哲学教授としての彼の引退を惜しんだ誰かが、今度は大学で自由に教えるようにとはからったのでしょう。けれどアランはこの委任状にはまったく興味を示しませんでした。彼はこの文書をすぐに送り返しました。
  どうして彼は大学で教えることを拒否したのでしょうか。「それにつけても思うことは、私は中等教育の最上級の地位にまったくにあっていたということ、また高等教育は、私でもおそらく立派にやれたかもしれないが、私のけっして試みなかった仕事だということである」。

 中等教育に対する彼のこだわりの原因を、まず、中等教育の師ジュール・ラニョーに求めることができます。彼は「ラニョーを模倣しよう」と決心しました。そしてラニョーが高等中学校の先生であった以上、わき見をせずにこの路線を進むことは、彼にとって当然のことでした。
  人生を決定づけるような思想の受け入れ時期は、10歳代の後半から20歳代の前半の、精神のもっとも柔軟な時期がいいのです。フランスの大学は明らかにエリートのための高等教育機関です。アランは自分が「人作り」に役立つことを願っていました。「人作り」に役立たなければ哲学は意味がないのです。
  「私は彼ら(生徒たち)にくれぐれも警告していた。『若い時代を、賢くなるために利用しなさい』」。だから彼は、少なくとも思想教育に関するかぎり、教育の価値は高等教育よりも中等教育のほうが上だと考えていました。高等教育ではあまりにも専門的、技術的なこと、あるいは研究の些末に入り込んでしまう危険があります。

 ある大学の先生が、大学の卒業論文の課題について、「できるだけ『の』の字がたくさん入るようなテーマを見つけなさい」と生徒を指導しているのを聞いたことがあります。ということは「**の**の**の**における**の研究」というテーマがいいということでしょう。
  大学の専門課程では、楊枝で重箱の隅をつつくようなテーマでなければ具体性を持たず、研究テーマとしては価値がなくなります。これは高等教育の宿命なのです。彼はこのような教育の場で、全体的な人間形成のための仕事は難しいと知っていました。

 アランがソルボンヌを拒否したもう一つの理由は、権威に対する持ち前の反抗心です。ソルボンヌに身を置くことは、アカデミーの一角に入るということであり、教育における最高権威の仲間入りをするということです。アランはこの名誉と権威を徹底して嫌いました。
  権威ある立場は、自由にものを考える活動の妨げになるとアランは考えました。名誉や権威はこれを守らなければという気持ちと裏腹の関係にあります。権威は、人間社会におけるシンボル体系の一部、ストア主義的観点からすれば「虚名」に過ぎません。虚名をうやうやしく戴き、これに執着したり、仲間うちの結束を固めたりする・・、そんなことはものごとの本質を考えようとする姿勢に矛盾する、彼はそう考えました。虚名の序列のむなしさと愚かしさについて、彼は軍隊時代にいやというほど体験しました。

 「世のエリートなるものをよく見ても、私には、別に大したものとも思えない。参謀本部がどんなふうに戦争を指揮し、外務当局がどんなふうに交渉をはこぶか、これを見るだけでいい。・・わが優等生たちの高い教養も、彼らが人間であり、追従し、感嘆し、うぬぼれ、流行にしたがって考え、現実を忘れることをまぬがれさせない」。
  アランは一教師として、つねにソルボンヌとフランス・アカデミーを意識しながら仕事をしていました。この二つはフランスで知的仕事をする人々の為政者集団であり、参謀本部であり、権威の象徴です。アランはこれらの権威に対して、たった一人の野党、かつ自由人でありたいと考えていたのです。だからソルボンヌの委任状を受け取ることは、彼が批判していた権威に屈することを意味したに違いありません。

 
 

著述家アランの完成
  こうして彼は思索と著作の生活に入りました。すでにパリ郊外のヴェジネというところに小さな庭付きの住宅を買ってありました。またブルターニュ地方のプールデュというところにもバカンス用の家を持っていました。
  アランが退職した1933年、プロポ八四編を集めた「文学論集」がアルトマン書店から発行されました。この本はそれ以前に発表されたプロポをベースにしていますから、かならずしも退職当時のアランの心境をリアルタイムに伝えるものではありません。しかしアランが退職後、今まで以上に文学や音楽、美術の世界に深く入り、これを楽んだことを伝えています。
  アランは教職を去ってからも教育や政治に深い関心を寄せました。宗教問題にもしっかり取組みました。けれど何といっても、退職後の晩年のアランを特色づけるのは、諸芸術との深く、親しい関係です。アランは戦時中に「諸芸術の体系」を書き上げていましたが、自由時間をたくさん持てるようになった今、彼は諸芸術の一つ一つに触れ、芸術を通して人間の本質を考えるという作業を行なっていきました。

 「文学論集」の中に、次のような一節があります。「叫びは一匹の逃げる動物であるが、歌は天がける。歌は安心させ、堅固にする。歌は保証の使者である」「美しい詩句を耳にすれば、人間という生理的存在は、そちらのほうに頭を向けて、そのあいだは儲けのことは忘れている」。
  退職後にアランが書いた代表的な作品を、いくつかピックアップしてみます。1934年「神々」「政治論集」、35年「バルザックとともに」「スタンダール」、36年「ヴァレリーの詩『若きパルク』注釈」、37年「大戦の思い出」「彫刻家との対話」「経済論集」、38年「宗教論集」、39年「ミネルヴァ――知恵について」「暴力の痙攣」、42年「精神の不寝番」「眠りの商人」、43年「神話序説」、45年「心の冒険」「ディケンズを読みつつ」・・。
  これをごらんになるとアランが晩年まで思索と著述の手を少しもゆるめなかったこと、また、芸術への愛好を、さらに発展させたことがお分かりでしょう。

 アランは30歳代のはじめに思想家としての自己を完成していました。だから、30歳代のアランの主張と、60歳代の主張との間にほとんど矛盾や差違がありません。彼は30歳以後の人生を、どこまでも自己を磨くことに用いてきたのです。
  晩年の作品群は、人生の余暇をゆうゆうと、しかも規則正しく楽しむアランの横顔を伝えています。アランは「美しい生活とは音楽のようなものであろう」といっています。また「わが胸像」の中で、「私の暮らしは一種の歌である」ともいいました。まさにアランは人生の終盤を「歌のような生活」によって貫きました。
  とはいっても現実の世の中は、「歌のような生活」とはまるでかけ離れたものでした。1933年、ドイツではヒットラーが政権を掌握し、翌34年には首相兼総統となりました。パリのコンコルド広場でファシストたちが大騒ぎしたり、反ファシスト大会が開かれたりしていたのもこの頃です。

 
 

彫刻のモデルになる
  1934年、アランは彫刻家アンリ・ナヴァルのモデルになりました。アランという人はよほど彫刻家の興味を引いたらしく、ナヴァルのほかにも、マンシェル、それにわが国の高田博厚という3人の彫刻家のモデルになっています。高田氏のアランの胸像を写真集で見たことがありますが、アランの肩幅の広さと人間的な重厚さを伝えるすばらしい作品です。
  アンリ・ナヴァルは1885年にパリに生まれた人ですから、アランよりも17歳年下です。この人はもともとはメダル製作をやっていた人で、ガラス材を得意としたようです。そこでこのとき作られたアランの肖像も粘度で型取りされ、最終的には黒ガラスで完成されました。手堅い職人的な腕前を持っていたとされています。

 ナヴァルの作品、「アランの胸像」を写真で見ると、やや上向き加減で、大きな眉が垂れ下がっています。目尻もやや下がっており、この表情は能面の「翁」を思わせます。口はすぼめぎみに閉じており、上唇に細い髭らしい盛り上がりが見えます。頭から顎にかけて顔の中央に、ガラス型を取ったときのバリがついていて、このバリの線が鼻筋をも貫いています。私にはこのバリがどうしても気になりますが、ナヴァルは、これを彫刻的効果の一部と計算したようです。
  私はナヴァルの作品にくらべて高田氏のアラン像のほうがはるかに好きです。しかし、ナヴァルの像もアランの特質を捉えています。高田氏の像ががっしりとした、それでいて枯淡の境地に入りつつあるアランを伝えているのに対して、ナヴァルのそれは、生気と若々しさと、やさしいいたわりの感情を伝えています。

 マンシェルが造った彫刻については、アラン自身が「わが胸像」という文章を書いています。「自分との類似を否定できない一基の胸像を目のまえにして、なにをいったらよかろうか。首のこのもたげ方は、たしかに私の特徴だし、物怖じしないところ、好奇心の強いところも、よくあらわれている。・・あごは強情なまでの意志のあり方を示している。鼻は、こういってよければインテリくさい張りがあり、目は注意力と真剣さを告げている。・・」。
  この文章は、アランが自分自身をどのように考えていたかをも示しています。文章は自分自身ではなく、彫像を描写しているのですが、このように、自信を持って自分の彫像を解析できるということは、うらやましいですね。

 アランは、1937年にナヴァルのモデルになったとき、彫刻家と交わした会話をもとに著作「彫刻家との対話」を出版しました。アランはこの対話集の中で、彫刻家に「粘土の危険性は、両手の親指がいくらでもめりこむことにあるわけだね」といいました。
  アランは「人間論」のなかで、「粘土の中に自分の思想を書き記そうとする彫刻家は、自分がなにを造っているか、したがって自分がなにを欲しているかを知るには、さらに不都合な立場にある。というのは、ごくわずかな手のうごきも形をかえてしまうから」といっています。アランがこの文章を書いたのは1921年のことです。
  またアランは「固き岩に刻む者こそさいわいなるかな」ともいっています。アランは失敗できない状況のもとで、慎重に、しかも後戻りせずに、確信を持ってする仕事をよしとしました。だから粘土を使う彫刻家よりも、石彫家の仕事を高く評価していたことは間違いありません。

 しかしナヴァルは粘土を使って仕事をしていました。そこでアランは彫刻について長年考えていたことを「粘土の危険性は、両手の親指がいくらでもめりこむことにあるわけだね」という表現で、彫刻家に投げかけてみたわけです。
  ナヴァルはこれに答えました。「ですから、大理石に彫るときには、粘土仕事よりはるかに慎重になります・・。形は、この堅固な素材のなかにあらかじめ存在していて、おのが身を守っているのです」といいます。アランはこのとき、彫刻家があたかも石に彫るように粘土に取組んでいることを発見します。
  「私はもうすでにはっきりと気づいていたのだが、粘土で仕事をしながらも、彼は素材が大理石ならば彼に差しだされたに違いないあのどっしりとした形を、まず粘土で盛り上げておき、その後で、もぎ取ったり、へらで平らに削ったりする方法をとっていた」。

 アランは彫刻家が顔の部分を仕上げるときに、像の頭の後ろのほうから撫でてきて、それから顔面部分を仕上げるという動作をすることに注意しました。「額といい、顔面といっても、それはうしろから前へと閉じられてゆく大きな局面の最後の皺にすぎない」。
  顔の凹凸、そしてとくに口、目、鼻、などの部分は、大きな袋のとじ口のところにできる皺のようなものです。人間を「この革袋」と呼んだアランは、まさに彫刻家にとって人間が一つの袋であり、その袋のとじ口を作るように顔面を作り上げていくさまを見ました。こうして彼は彫刻家のモデルになりながら、一段と「人間」に対する理解を深めました。

 
 

経済本質の「見破り師」
  アランは彫刻家との対話の中で、「見破ること、それが私の危険な本職なのだから」といっています。アランは一人の教師でした。しかし仕事はまだ続いていました。アランは自分の本職をたわむれに「見破り師」と呼んだのですが、あらゆる機会が彼に仕事の場を提供していたことが分かりますね。
  1929年、ニューヨーク、ウオール街に発生した株暴落は世界的な恐慌と経済混乱を引き起こしました。この経済混乱の余波として、第一次大戦の賠償金を払えなくなったドイツではファシストを中心に再軍備が進められ、ヒットラーの権限が拡大していました。
  アメリカはルーズヴェルトが失業者救済と産業振興を中心とするニューディール政策を進めました。ソ連では「粛正」を含むスターリン体制が着々と築かれていました。こうした中で、フランスではファシストに対する抗議や、人民戦線の活躍などが目立ちましたが、世界の世論を変える力はなく、結果的にはナチスの台頭を許す結果となりました。

 この経済危機のさなか1935年、アランは「経済論集」というプロポ集を発行しています。このプロポ集は、他のプロポを集めた著書と異なり、書いた年代順に作品を並べています。
  アランは専門の経済学者ではありません。しかしこの著書では、私たちビジネスマンにとって盲点を突かれるような経済的な本質が随所に指摘、展開されています。まさに「見破り師」としてのアランの本領がいかんなく発揮された好著です。アランは経済の根幹が、私たちの生物としての生命維持に直結していることを指摘します。「一息吐いてはまた一息吐かねばならず、食べてはまた食べねばならぬ。これこそがまず、我々の前途なのだ」。
  彼は、流通経済の原理が物々交換にあることを指摘します。麦刈りを手伝ってもらったら麦で支払うのが自然だとアランはいいます。「この男に対しては麦で支払う。これが自然の秩序というものだ。もし私が金や紙幣で支払い、またこれが受け取ってもらえるとしたら、それはこうした徴をもって麦とか、他のものを買うことができるとの信頼があればこそだ」。

 信用経済を支えているのは、約束であり、その約束が成り立つ安定的な社会状態だということです。ひとたびこの前提が崩れれば貨幣は正常に機能しなくなり、私たちは物々交換の時代に戻らねばなりません。
  では、せっかくの約束の信義、あるいは社会の安定が崩れるのはどうしてでしょうか。それは富を限度なく得たいとする人々の情念、他人に認められ、尊敬されたいとする人間の野心、同胞の中に敵を認め、その敵を許すことができないとする人々の怒りの情念のためだ、と彼は考えます。「過ちは私たちの内にある。ただ、私たちの内だけにある」。 
  経済の安定に平和が必要であることはいうまでもありませんが、その平和は私たち個々人の心の持ち方、情念のコントロールいかんにかかっています。とりわけ、大企業家、政治家など、社会を動かしている人々の情念と判断力が問題となります。このような人たちにこそ、正常な判断力と「良識」が求められます。

 しかしアランはいいました。「良識はいたるところにある。ただし、てっぺんにはない。奴隷イソップは賢者であり、その主人は愚者である。さいわいにも、これには例外がなくはないし、矯正法がなくはない。まず、なにが原因ですべての政府が凡庸なのかを理解する必要がある。なぜなら理解を欠くと絶望するからだ。そうなると大規模な、破滅に至る愚行が生じる。戦争がその最も感嘆すべき例だ」。
  アランは「金持になりたいものはだれでもなれる」といい、金銭に対しても、金持に対しても偏見を持ちませんでした。彼はまた、富の平等配分という考え方を否定してこうもいいました。「私は衆を恃んで、金持に楯突くようなことはしない。配分はすべての人間のあいだで行うべしという考えは、私にとっては意味がない」。
  しかし彼は必要を超え、限度を超えて富の獲得に走ろうとする非常識に対しては冷淡でした。「ただ、漁がいいというだけで、網を少々大きくしようという考えが出る。なぜなら他に金の使いみちがあろうか」。要するに、ここでアランが批判しているのは、投資のための投資、金あまりのために不可避的に発生するバブル型の投資です。

 では、このようにして得られた富はなにに使われるのでしょうか。「私が注意を払いたいのは富の真の特権についてだ。いったい何が見つかるのか。富の特権とは、然るべき徴を所有することにより、自分の同類を召使いに変える力を持つという点にある」。金のある事業主になれば、多くの人々を意のままに動かすことができます。これは「同類を召使いに変える」ことです。
  金を貰ったわけでもないのに、金持にぺこぺこしたり、追従をいったりする人物は少なくありません。彼らは利益の期待に結びつく「然るべき徴」に反応しているのです。そこで金持は金の威力を使っていろいろやってみたくなります。「自分を金持と思い込む弊害は、理屈が通っていさえすれば何でももくろむことにある」。

 ヒットラーを支援した経済人としてフリッツ・ティッセンが有名です。彼は合同鉄鋼の会長でしたが、早くからナチの運動を支援し、莫大な献金を行ないました。はじめのうちティッセンは金の力でヒットラーを操っていました。しかしヒットラーはティッセンの手に負えない怪物に成長してしまいました。このような実例をふまえてアランはいいました。「私が金銭に対して大いに異を唱えるのは、金持が馬鹿者であるからだ。これに頼ってものを見てはいけない、さもないと精神を失うだろう」。
  もっとも経済人は、かならずしもバルザックのグランデじいさんや、ティッセン的な人物ばかりではありません。ビジネスの第一線で活躍し、実際に企業活動を推進しているのは、優秀なビジネスマンたちです。今日の私たちの社会では、ビジネスマンとして優秀であることは「よい」ということです。
  しかしアランは「だれもみな有能にして仕事熱心には違いあるまいが、これがなによりもいけない」といいました。良識の裏づけのない利益追求、普遍的思想をもたない利益追求は、かりに合法的であったとしても決して善ではない、これがアランの結論でした。

 アランがこの「経済論集」をまとめていた頃、ヒットラーは着々とその基盤を築き、第二次世界大戦の準備を整えていました。そして日本も遅ればせながら富国強兵につとめ、植民地レースに加わろうとけんめいの努力を続けていたのです。
  アランは「経済論集」の中で、人間の生活における経済基盤の重要性を改めて認めました。その上で、際限もなく利益や富を求めようとし、人々を支配しようとする人間の情念と欲求をいましめました。また教養と見識に欠けた経済人を批判しました。たしかに経済の発展は文明、文化の基礎です。しかし経済と良識は手を携えて進まなければなりません。このアドバイスは、今日なお金銭の病にかかっている私たちにとって貴重な薬です。

 
 

へそ曲がりの「読書の幸福」
  1935年、アランは愛してやまなかった「バルザック」と「スタンダール」という二人の作家についての評論集をあいついで出版しました。「バルザック」の中から、アランと「本」の関係を示す「読書の幸福」という興味深い一節をご紹介しましょう。
  彼は自分の父親が無類の読書好きであったこと、それも手当たり次第に本を読んでいたことを思い出し、「私もこの機能をいくらか受け継いだものらしい」といっています。
  アランは、自分のことを「なにかを学ぼうとすると、かえって何も学べなくなる性分だ」といいます。
  この気持ち分かりますね。「さあ勉強だ」とか「これを勉強しなくちゃ」とか「これをいついつまでに覚えなさい」などといわれると、気が重くなり、やる気が失せてしまいます。「人は義務の前では怠け者である」というアランの名言はここから生まれています。

 アランの勉強法は、たとえ数学でも哲学でも、まるで小説でも読むように「われ関せず」という気持ちで読書するというやり方にあります。小説を読むようにということは、「読みたいときに読む」「誰にも強制されない」ということです。これを私たちの言葉でいえば「わがままに」ということになります。
  「こうした不精な勉強法は、莫大な時間を食ううえに、しかも本をしょっちゅう手許に置いておかねばならぬのである。手許にという意味は、2メートルでも離れた先にある本は、ついひもといたり再読するのを、忘れてしまうからである」。読みたい本をすべて自分の周囲の二メートル以内に置かなければならない、というのですから相当なわがままですね。「私にとってのホメロスとの昵懇のいかんは、ただにホメロスを手許におくことにかかっているのである」。
  読書の楽しみは読書好きの人にしか分かりません。「私もよくやるが、続きのページを、小口から隙見したり、飢えた人が肉パイでも眺めるような格好で、残っているページの厚みを眺めたりしている読書子などに、いくたりか出会ったことがある」。アランもこうしてバルザックやスタンダールを読みました。
  彼は同じ本を何度も読みました。それも半端な回数ではありません。30回、50回と読み、好きな部分は「暗唱できるほど」になります。バルザック、スタンダールはアランの手によって幾度もひもとかれ、読み直された本でした。「『田舎医者』が後に死ぬことは、私はよく知っている。知っていればこそ、その死が霹靂のような衝撃を私に与えるのである」。こうして愛する書物を手許に置き、わがままに何度でも読む、この生活もアランにとって「歌のような生活」の一部でした。

 しかしファシズムの脅威が日ごとに顕著になっていました。静かで穏和な「歌のような生活」を望んでいたアランも、何かと忙しくなりました。反戦運動や、反ファシズム運動などに参加しなければならないことが多くなったからです。
  アランは彼の流儀で戦争問題を考えました。たとえば第一次戦争終結時のヴェルサイユ条約ではドイツに天文学的な賠償金が課せられましたが、アランは、復讐としての、あまりにも過酷な賠償金には反対でしたし、ナチの威嚇的な行動に対しても、いきなり強硬策を取ることには反対でした。アランはフランスの兵士はもっぱら防衛をむねとし、国境を一歩でも越えたら兵士は上官に服従する義務はない、と主張しました。
  1938年ナチ軍はいきなりオーストリアに入り、これを併合してしまいました。翌年にはチェコ、ポーランドへの侵攻を開始しました。アランはこの1939年、反戦プロポ集「マルス」の続編を出版し、自分の立場を明らかにしました。しかしヒットラーの進撃はすさまじく、反戦論どころではありません。1940年6月、ナチス軍はついにパリを占拠しました。あれほど平和を愛したアランは、生涯2度にわたってドイツ軍がパリに入るのを見たのです。

 
 

音楽のような生活
  1941年、動乱のさ中、アランを支え、私設秘書として内助の功をつとめてきたマリー・モール・ランブランが亡くなりました。アランはすでに73歳。パリにはナチス将校たちがわがもの顔に歩きまわっていました。
  占領下のパリの様子は、映画「パリは燃えているか」の中にいきいきと再現されていますね。あの映画の中に、一人の市民が早朝、ブタの群を追いながら市街地を通過する場面があります。パリ市民は日常的にナチスに折れ合いながら、一方では頑固にライフスタイルを維持し、一方では地下運動をしながら生活しています。アランはあのときパリに住んでいた頑固な老人の一人でした。

 44年6月、ついに連合軍はノルマンディ海岸に上陸しました。アランの故郷はノルマンディの平野の一角にあります。あの地方は連合軍がドイツ軍を追って通過していった場所です。そして2ヵ月後、連合軍はパリに入りました。
  アランは戦争で体を過酷に扱ったためでしょうか、60歳代のなかばから全身リューマチにおかされ、不自由な生活を送っていました。この頃「舌のもつれを隠すのが一苦労だ」などと書いています。またアランの左の耳は聞こえなくなっていました。「オーブリ博士によれば、内耳の迷路がこわれているために、さっぱり聞こえないのだ」。さすがに頑丈なアランの身体もかなりガタが来ていたようですね。

 第二次大戦が終結する年の1945年の2月、アランはかつて青年時代に詩を捧げたことのある女性ガブリエル・ランドルミーと再会しました。二人は意気投合し、なんとその年の一二月に結婚しました。アランは77歳でした。
  おそらくアランのリューマチがひどいので、同情したランドルミーがアランの世話を買って出たのでしょう。アランはこれまで結婚しないという主義を維持してきたのですが、晩年におよんで自分の主義よりもランドルミーの身分を確定し、彼女を入籍することを選びました。
  1943年、つまり結婚2年前、アランは彫刻家マンシェルの作った自作の胸像を受け取り、「わが胸像」という短いエッセイを書きました。この中に当時のアランの生活ぶりを想像させる文章があります。

 「音楽のほうは、詩よりもまだもっと知られていない。痛風が私の即興を妨害しにやってきたから。しかも私の即興は、私にとってさえ、しばしば思いがけない出来ばえを示すのであった。夜ごと、私の夢想は、ことごとくメロディとなってあらわれ、私には非常にうまいと思われる和音をかならず伴なっている。私の暮らしは一種の歌である。だが、これについてはもうほとんど証人が残っていない。二人のすぐれた女性が死んでしまったから」。
  ここで「二人のすぐれた女性」とあるのは誰のことでしょうか。一人が一九四一年に亡くなったランブラン夫人であることは分かっています。もう一人はおそらく、「音楽家訪問」の、ランブラン夫人への献辞の中にあらわれる「ペッシーにいる古くからの女友達」のことではないかと思われます。この二人はアランの音楽面での素顔をよく知っていたようですね。

 アランが「歌のような生活」というとき、それはかならずしも比喩的な表現ではありません。彼は本当に生活の中で音楽をたしなんでいました。アランの弟子がアランの家を訪問すると、アラン先生は「一本指で」ベートーヴェンを弾いていました。
  アランは若い頃から音楽に親しみ、アマチュアバンドの編曲や指揮をしたことがあります。音楽は彼にとって大切な教養の一部でした。ベートーヴェンのヴァイオリンソナタ10曲を評論した著作「音楽家訪問」は、アランの音楽に対する造詣と理解が並々ならぬものであったことを示しています。
  モルターニュにある「アラン記念館」には何枚かのSPレコードが残っています。多くはベートーベンの作品で、彼はこれを始終聴いていました。そしてこれらのレコードの遺品は、アランが「わが胸像」の中で書いている次のようなコメントに結びつきます。

 「しかし音楽とはいつでもフーガではないだろうか。証拠はない。それは私もみとめる。このことを理解しようとするなら、ベートーヴェンの交響曲、四重奏曲のくさぐさを熱心に聴くより仕方がない。ああいう作品は私には思想だと思える。実際ベートーヴェンは、あれらの作品を一度も耳で聞いたことがなかった。無理のなさ、暢達の瞬間が、彼には欠けている。貴い未完成」
  私はアランがベートヴェンの晩年の作品を聴いて、「無理のなさ、暢達の瞬間が、彼には欠けている。貴い未完成」と表現していることに驚きます。ベートーヴェンの最後期の作品に対してすばらしく的確な表現だと思います。
  一人の音楽家としてアランはアマチュアに過ぎませんでしたし、ピアノの腕前もたいしたものではなかったようです。しかし晩年の彼はいっそう音楽に近づいていました。音楽を中心とする芸術との交流を通じて、アランは独自の、「歌のような」暮らしを楽しんでいたのです。アランの著作活動は一九四六年、彼が七八歳のときまで続いています。

 彼は獣医の息子として生まれ、へそ曲がりに学生生活を送り、ラニョー先生を知って尊敬し、その真似をするという決心を貫きました。彼は誰とも与せず、自分で考え、行動しました。穏和でしたが、誰にも思考の自由を譲り渡すことはありませんでした。
  1951年5月、病床にあったアランのもとに「国民文学大賞」受賞の知らせが届きました。この知らせをもたらしたのは愛弟子の一人、アンドレ・モーロワでした。アランは社会的な栄誉や権威を毛嫌いした人でしたが、死の床にあって、どうでもよくなっていたのと、モーロワが配慮してくれたその気持ちを汲んで、この賞を受理しました。
  それからまもなく、アランはランドルミー夫人と少数の友人が見守る中、しずかに亡くなりました。6月2日のことでした。

 アランのお墓はパリのペール・ラシェーズ墓地の一角にあります。ペール・ラシェーズ墓地はパリ市内にある最大の霊園ですが、たくさんの有名人、バルザックやショパンなどの芸術家が埋葬されていることでも有名です。墓地全体が公園のようになっていますので、毎日ここを散策する人が絶えません。
  墓地の正面には昔の貴族や金持の立派な墓が並んでいます。ドラクロワのみごとな墓がひときわ目をひきます。正面から入って10分ほど歩くと、墓地の裏手に出ます。このあたりには区画の狭い、庶民の墓が並んでいます。アランの墓はその94区画目にあります。
  質素なコンクリート製の、柩型の墓で、アランと一緒に3人の女性が眠っています。奥さんのランドルミー、その母親と思われるアンヌ・アンドルミー、そしてアランの姉のルイーズです。ルイーズの没年は45年となっていますから、ランブラン夫人亡き後、アランの面倒を見続けてきた姉は、後事をすべてランドルミーに託して亡くなったのでしょう。

 さて、アランに「国民文学大賞」を届けたアンドレ・モーロワは、彼の著書「アラン」の中で次のようにいっています。
  「今世紀の作家のなかから誰が後世に残るか。多くについて、あえて答える勇気はない。だが私は、彼(アラン)だけは確かと信ずる。そして後世の人々に対して、わが身にその余の栄誉は求めない。ただ、彼の栄誉を予言したという、そのことのほかには」。

 
   
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