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ストア賢者に学ぶ
 
第1章 緊急課題としてのストイシズム

クレタ島で
  私は1997年、親しい仲間の何人かと、地中海のクレタ島を訪れました。そのときにギリシャの作家カザンザキスの墓碑を見る機会がありました。そのときガイドが墓碑銘を読んで訳してくれました。「私は何も恐れない。私は何も望まない。私は自由だ」。私はそのとき強いショックを受けました。古代の賢者が私の眼前に現れ、私を叱りつけたように思ったからです。
  カザンザキスは1883年にクレタ島に生まれ、1957年に亡くなった世界的作家です。彼はアテネで法律を学び、その後作家としてデビューしました。彼はパリでベルグソンについて哲学を学び、小説や戯曲を発表し、なお数多くの翻訳を手がけました。1912年バルカン戦争が勃発すると、彼は一志願兵となりました。
  1919年、彼は不世出の政治家といわれたヴェニゼロス内閣を助けて、ギリシャ人の祖国復帰運動を指揮し、15万人ものギリシャ難民の引き揚げを成功させたといわれています。また第二次世界大戦後、ソフリス政権下で無任所大臣となったこともあります。彼は放浪癖のある作家でした。世界中を旅し、日本にも立ち寄ったことがあります。彼は晩年には南フランスに居を構え、七四歳で波乱に富んだ生涯を終えました。
  彼の作品中もっともよく読まれているのは「その男ゾルバ」という小説です。彼は若いとき炭坑開発に取り組み、そのときにアレクシス・ゾルバスという人物に出会いました。彼はその人物をモデルに小説を書きました。この作品は後に映画にもなりました。カザンザキスの「私は何も恐れない。私は何も望まない。私は自由だ」というものの考え方は、「その男ゾルバ」の中にも示されています。
  カザンザキスの作品としてはこの他に「オディッシア」「禁欲」「キリスト最後の試み」「キリストは再び十字架につけられる」などが有名です。カザンザキスは古代ギリシャの精神を内部に宿した現代の哲人でした。だから彼の墓碑銘がストア賢者の風貌を伴ってたち現われ、私に衝撃を与えたというわけでした。

 私は、田舎の貧しい高校教師の家に生まれ育ちました。私は不幸なことにお金持ちの子弟が通う学校に通学していましたので、子供の頃、「わが家は貧乏だ」ということを意識しないで暮らした日は一日もありませんでした。
  私の父は学校の教師でしたが、大酒飲みで金使いが荒く、おまけに子供が四人もいたので家計はいつも火の車でした。母は暮らしを助けるためにいろいろと内職をしましたが、生活苦を解消するには至りませんでした。少年時代の貧乏コンプレックスは、今でも私の精神生活の基礎を作っています。
  大学を卒業すると、私は何とか金に困らない生活をしようと考えました。私は父への面当てのために酒を飲むことを自らに禁じました。私はまずサラリーマンになり、夜はキャバレーやナイトクラブでピアノを弾いてアルバイトをしました。

 30歳過ぎてから私は仲間と小さな会社を作りました。しかし協調性のない私は仲間と別れ、父が死んだ三六歳のときに現在の仕事である、スタッフ業請負の仕事を始めました。はじめはコンサルタントを名乗るのも気がひけるので、「社外スタッフ」などといっていました。
  私の願いはただ一つ、少年時代に体験したような貧乏暮らしをしないということだけでした。この人生のコンセプトが間違っていたことはいうまでもありません。私は「貧乏をしない」というコンセプトを立てるべきではなく、もっと積極的に「金持ちになる」というテーマを掲げるべきだったのです。いやはや失敗しました。
  私は自分で金持ちになることを選ぶのではなく、――私にはその才能がなかったのです――金持ちをさらに金持ちにする技術を学び、これを用いて仕事をするようになりました。自分では何億もの金を稼ぐことはできませんでしたが、私は他人のために、何億もの金を稼ぐ方法を助言できたと思っています。私が受け取ったのは、そうした提案や助言に対する謝礼でした。したがって私は貧乏からは脱出できましましたが、金持ちになることはできませんでした。

 

「失うことを恐れる」生活
  けれど私がクレタ島でカザンザキスの碑文にショックを受けたのは、私自身があまりに多くの物的なものに取り巻かれ、あまりに多くの「失うものを持っている」自分に気づかされたからです。私は果たしてカザンザキスのように、「私は恐れない。私は何も望まない。私は自由だ」といえるだろうかと考え、そうはいえない自分に気づきました。
  私は何とか金銭を求めて人生を過ごしました。それも大胆不敵に「大金持ちになろう」としたのではなく、他人の儲けの中からチマチマとしたものをいただき、それを老後のために少しずつ貯えただけです。
  私は住まいや、車や、書物や、着るものや、食べるもの、そしてわずかのたくわえに執着しています。もちろん私は食通ではありませんし、車マニアでもありませんし、着道楽でもありません。私の物質欲は平均的な日本人の範囲を超えません。しかし私はこれらの物的な環境がなければ、一日も暮らせないでしょう。

 私はあえて犯罪を犯す人間ではありません。私はまず、監獄につながれるようなことはないでしょう。私は監獄では暮らせません。このことが、私が監獄に行くような真似はすまいという決心につながっています。私は絶対的倫理のもとに犯罪を拒否しているのではなく、悲惨な生活をするのがいやなのです。その気持ちが逸脱的な行動をとらないという決心に結びついているのです。要するに勇気がないのです。
  多くの日本人が、将来の生活に不安を持っています。日本人がこれほどこぞって自国の経済に関心を持ち、憂慮した時代はありません。バブル経済の破綻、莫大な不良債権、金融機関の破綻信用経済の破綻、これらのキーワードが暗くのしかかり、私たちは今にも日本が沈没し、自分が溺れ死んでしまうのではないかという恐怖感にとりつかれています。
  こうした恐怖感から消費経済がますます停滞し、この停滞が企業の投資活動を抑制し、その結果、需給関係が崩れるというデフレーション構造が指摘されています。果たせるかな企業の業績が悪化し、雇用調整が進み、失業率は高くなるという事実が次々と明らかになっています。マスコミや経済評論家たちが危機感をことさら煽りたてるような発言を繰り返しています。

 そこで私はすっかりおびえ切り、どうしたら自分の財産やわが身を守れるだろうかと戦々恐々たる状態に陥っています。これはまさに失うものを持っている者が陥っている恐怖にほかなりません。こうしたとき、カザンザキスの「私は何も恐れない。私は何も望まない。私は自由だ」という言葉が、改めて私の心に響きます。
  カザンザキスの「私は何も恐れない。私は何も望まない」ですが、これは「私は飲み水も要らない。住む場所も要らない。食べ物も要らない」という意味ではないでしょう。彼は一個の人間として生活意欲まで放棄しようとしているのではありません。
  私たちは一個の生物として生まれているのですから、生物体としての自己を維持するために、餌を捜したり、巣を求めたりすることは当然のことです。しかし私たちはどの程度の餌で満足すべきなのか、どの程度の巣で満足すべきかをよく知らないのです。必要以上を求めてそのために苦しんだり悩んだりしている可能性がないかどうかが問題です。
  私たちには「見栄」があり、そのために苦しむという不思議な性質があります。猿の群れがボスを選出し、ボスが群れを支配することが知られています。しかしボス猿が自分の見栄やプライドのためにポジションを求めているのではありません。他の生物は餌と巣が満たされれば、一応は満足します。ところが人間はこれでは満足しません。それが「望む、望まない」の問題になります。

 私たちが人間として一日のうちに摂取しなければならないカロリーや栄養の限度は、一応決まっています。それが不足すれば健康に問題が生じますが、過剰すぎても問題が生じます。過剰であることが分かっているのに、あえて「もっと食べたい」とか「もっと飲みたい」という欲望を持ち、これを要求するのが人間の特徴です。それを「望む」と考えることがおそらく間違っているのです。
  私たちが最低必要カロリーを摂取できなくなることを恐れる気持ちからではなく、高級レストランで食べることができなくなったり、銀座で女性たちを侍らせてお酒を飲むことができなくなるから、というのであれば、何かが間違っているということになります。
  私たちは何を望み、何を恐れているのか、この点を自分自身に明らかにする必要があります。その上で、恐れるべきものは恐れ、恐れなくてもいいものについては平然としていることが大切であるに違いありません。おそらくカザンザキスはこれをよく知った上で、「私は恐れない」といったのです。
  私も彼に見習って世の中と自分をみきわめ、「私は恐れない。私は自由だ」といえるようになりたいと思います。そうすれば私たちは、同じ環境の中に暮らしていても、あるいはもっと不安定な社会に暮らしていても、もっと幸福な毎日を送ることができるに違いありません。とりあえず私にとってこれが緊急の課題です。

 
 

「ストア」のいわれ
  カザンザキスの先祖、すなわち古代ギリシャ人は、すばらしい哲学者たちを生み出しました。その中の幾人かがストアの賢者です。いわゆる「ストア派」の祖はゼノンです。ゼノンという名の有名な哲学者は二人います。一人はエレア学派のゼノンです。この人はソクラテス以前、すなわち紀元前五世紀に活躍した人で、「飛んでいる矢は止まっている」とか「アキレウスは亀を追い越せない」などの、有名な「ゼノンのバラドックス」によって知られている人です。
  ストア学派のゼノンは地中海の東にあるキプロス島で生まれた人で、「キプロスのゼノン」と呼ばれています。紀元前三三五年から二六三年の人といわれています。この人が創立した学園が町の中の彩色柱廊(ストア・ボイキレ)にあったところから、彼が主宰するグループは「ストア学派」「ストア派」と呼ばれるようになりました。
  私たちが日ごろ使う「ストア」という言葉の意味は、「お店」という意味です。この言葉は「貯蔵」という意味から出ていますが、それは古代ギリシャの繁華街に作られた区画の単位が「ストア」と呼ばれていたことに起因します。それは在庫品の置き場を意味し、同時に店舗をも意味しました。

 キプロスのゼノンは、アテネの町の中心にある広場(アゴラ)にある、壁画のある回廊部分で講義をしました。おそらく、今日のアーケードのようなところではないかと思われます。今日ほとんど「禁欲」と解されている「ストア」という言葉が、消費流通経済の現場である「ストア」と同じ語源を持っているなんて面白いですね。
  ゼノンにはたくさんの逸話がありますが、いずれも節制を徳とし、質素で寡黙で克己的に生きたという点では一致しています。寡黙の美徳に関して、ゼノンは「われわれが耳を二つ持っているのに、口は一つしか持たないのは、より多くのことを聞いて、話す方はより少なくするためなのだ」といったと伝えられています。「ギリシャ哲学者列伝」の著者ディオゲネス・ラエルティスは彼について次のように伝えています。
  「彼は大変に忍耐づよく、またきわめて質素な人であったから、火を使わない食物をとり、薄い上着をまとっていた。そこで彼については、次のように語られることになったのである。肌を刺す冬の寒さも、果てしなく降り続く大雨も、燃える太陽の輝きも、怖ろしい病気も、この人をへこたらせはしない・・」。
  ディオゲネス・ラエルティスはゼノンが並はずれた自制心を持っていたことを紹介し、次のように書いています。「事実ほんとうに、彼はこの種の徳や威厳の点で、さらにまた、ゼウスに誓っていいが、幸福の点でも、すべての人を凌駕していたのである」。
  ゼノンは七二歳まで生きたとされていますが、粗衣粗食のライフスタイルを貫いて七二歳というのは立派です。

 いわゆるストア派は大きく「前期ストア派」と「後期ストア派」に分けられます。前期ストア派を代表する哲学者としては創始者ゼノンのほかにクレアンテスと、クリシュッポスなどの名が知られています。これに対して後期ストア派と称されるのは、ローマ時代に入ってからの哲学者で、セネカ、エピクテトス、マルクス・アウレリウスなどが著名です。
  いわゆる「ストア派」と名づけられた哲学者たちを単純に追って行くと、キプロスのゼノンから始まる前期と後期の哲学者たちだけということになりますが、私のような通俗的な知識しか持たないビジネスマンからすると、これらの人々だけを「ストア賢者」と呼ぶのは、ちょっと物足りない気がします。
  たとえばプラトンの先生であったソクラテスは、私たちから見ると、いかにもストア賢者であるように思えます。それにまたキュニコス派として名高いシノペのディオゲネスも、きわめて過激なストア型の哲学者であるように見えます。私はこの本では哲学史的な意味でのストア派の哲学者と、ストア的なイメージを持つ哲学者を区別せずに、全員を「ストア賢者」と呼ぶことにします。
  私の解釈では、いわゆる世俗的な成功や富や快楽の追究を軽蔑し、独自の価値基準に従って生きた哲人がストア賢者です。よく見ると、古代の哲学者にはみなストア的な要素があって、それが彼らのプロフィルを魅力的なものにしています。そこで私は、私の基準に従ってストア派の哲学者を中心に、ストア的賢者のプロフィルを調べて、彼らの考え方や生き方から、参考になる部分を汲み取りたいと思います。

 
 

最初のストア型賢者タレス
  ディオゲネス・ラエルティス「ギリシャ哲学者列伝」によれば、西洋哲学の祖といわれるタレスがストア的な賢者の一つの出発点をなしているように思われます。彼はギリシャの植民地ミレトスで活躍しました。タレスがとくに反社会的に、生きたという証拠はありません。彼は生前から賢者として名高く、当時の知識人たちに存在感を持っていました。
  あるとき星を観察しようとしていたタレスが、溝に落ちた逸話がよく知られています。溝に転落した彼が助けを求めていると、彼の伴をしていた老婆がいいました。「タレス様、あなたは足元のことさえお分かりにならないのに、天上のことがお分かりになると思っているのですか」。この話はイソップ寓話集の中にも収められています。この逸話から次のことを推察できます。
1.タレスは身辺を世話する女性を持っていた。その程度の経済的なゆとりはあった。
2.タレスは知的な関心を優先させ、自分自身のことがらには注意を払わなかった。
3.タレスは自分が溝に落ちて、老婆に笑われたことを、笑い話として友人に話した。タレスが
  恥じて黙っていたなら、逸話としては伝わらなかったろう。
  タレスは「何が困難なことか」と聞かれて、「自分自身を知ることだ」と答え、「何が容易なことか」と聞かれて、「他人に忠告することだ」と答えたといわれます。この二つのタレスの回答を上記の溝に落ちた話と合わせて考えると、「自分自身を知ることがいかに難しいか、他人にアドバイスすることがいかに容易か」の実例として、自分の溝転落事件を、友人たちに面白おかしく語ったという可能性があります。

 タレスはまた「外見の美しさを自慢するのではなく、日々の営みにおいて美しくなるようにせよ」「幸福な人とは身体が健康で、精神は機知に富み、性質が素直であること」と語ったといわれます。いずれも今日では当たり前のことであり、後に見るようなストア哲学に特有の過激な価値観を表明しているわけではありません。しかし、これらの言葉の断片は、いずれも真の幸福が世俗的な価値観とはかならずしも一致しない、ということを明確に告げています。
  フランスの哲学者アランは、「タレスは、太陽が時として太陽が底を照らす井戸を探すための冒険の旅に、直ちに出発した」と書いています。タレスは、あるときこう考えました。「夏、冬で太陽はその位置を変える。ということは、夏至の正午に太陽がちょうど地球を直角に照らす場所があるということだ。また同時に冬至の正午に地球を直角に照らす位置があるはずだ。よし、その場所を確認しに出かけよう」。
  夏至、冬至に太陽光線が地上に直角に当たる地点、これをそれぞれ「至点」といいます。伝説によれば、彼は至点の仮説を思いついたとき、躊躇することなく旅支度をととのえ、その方角に向かって歩きはじめました。アランのコメントは、この伝説について語っているものです。
  ディオゲネス・ラエルティスはタレスの事蹟について次のように書いています。「また彼がはじめて至点から至点までの太陽の軌道を発見したし、更にある人たちによれば、彼が最初に太陽の大きさは太陽の軌道円の七百二十分の一であり、それはちょうど月の大きさが月の軌道円の七百二十分の一であるのと同じだと言明したということである」。

 ヘロドトスはタレスが日食を予測し、この予測は的中したと伝えています。タレスが天文学に関して、少なくとも中世時代の人々より正しい概念と知識を持っていたことは明らかです。
  彼は倫理的には穏和を尊び、これを人にすすめもしましたが、自分自身の生活に関してはごく質素でした。タレスにとっては太陽や月や星々がどのように運行しているかということが問題であって、自分が地上でどのように暮らすか、経済的に潤うかどうかということはどうでもいいことでした。だから彼の墓碑銘には次のように書かれていたのです。
  「見よ、このみすぼらしき墓を。その名声は天にまで届きたるに/こは知恵深きタレスの奥津城なり」。私はタレスの中に、自然科学者的な指向を持ったストア賢者の原形を見ます。

 
 

ソロンの考える「幸福」
  タレスの時代から程遠からぬ紀元前六世紀初頭、アテネにすぐれた立法学者ソロンが活動していました。当時のアテネにはドラコン法という法律が施行されていましたが、この法律は金持ちや貴族を中心に政治を行なうもので、貧乏人には参政権はなく、すべて金持ちの奴隷となって働かなければならない、というものでした。
  しかし貴族階級と民衆との抗争が次第に激化し、誰かが調停しなければならなくなりました。そのとき選ばれて国事を担当したのがソロンです。彼の社会的な地位は、名門に生まれた「中金持ち」といったところでした。ソロンも何人かの人に金を貸しており、そのカタとして奴隷身分の市民を所有していました。
  しかし彼はすべての債権者が債権をすべて放棄する法律を施行し、自らもこれに従いました。この政策は「負債おろし」といわれています。歴史上何回かこの「負債おろし」が実行されたことがありますが、私は今日のわが国の経済的閉塞状況を解決する一番の方法は、この「負債おろし」ではないかと思います。
  債権者がどうしても債務者から金を取りたてたいのは、自分も債務者であるからです。ところがその債務者の履行能力がなくなっている、というところから経済の閉塞が生じ、金融不安が生じます。お互いに同時に債権を放棄し合えば、最終的には債務より債権を多く持っている人が損をしますが、さしたる大きな混乱は生じないでしょう。何しろ金持にはゆとりがあるからです。こうした社会は安定と活気を取り戻すはずです。

 アリストテレスはソロンについて次のようにいっています。「そして彼は全くいつでも抗争の責任を富者に帰しているのである。それゆえ彼は詩の初めでも『貪欲と傲慢』を恐れると歌い、あたかもこれによって敵対が起こったかのようにいっている」。すなわち、ソロンは金持ちと貧乏人が争いを起こすときは、見かけ上の理由はどうあろうと金持ちの方が悪い、といっているわけですね。
  アリストテレスが「アテナイ人の国制」の中で紹介しているソロンの詩の断片は次のようなものです。「多くの財宝に満ち飽きたる汝ら、胸のうちなる激しき情を鎮めて、大いなる心を適度に保てよ」。
  ソロンがアテネ市民のために作った法律は民主的なもので、私たちが「民主主義」のお手本にしている古代民主主義の原形に相当するものです。ところで、ソロンはアテネの法律を制定し終わると、一〇年間の旅に出ました。というのも、彼が法律の制定や改定に力があることを知っている利害関係者がうるさく彼につきまとって、自分の都合のいいように法律を変えさせようと圧力をかけたからです。

 ソロンは自分が地元にいさえしなければ、アテネの法律が原則通りに施行されるだろうと考え旅に出たのです。彼は旅の途上で小アジアの国リディアに立ち寄りました。そこで国王クロイソスをたずねました。彼がそこで交わした問答が有名です。
  クロイソス王は当時権勢の絶頂期で、莫大な財宝のストックを誇り、豪奢な宮廷生活を楽しんでいました。クロイソス王は当時としてはかなりのインテリでしたので、多くの知識人が彼の宮廷に立ち寄りました。彼はそこで訪問者に自分の経済力を自慢し、財宝のコレクションを見せて客を驚かせるのが楽しみでした。
  ヘロドトスの「歴史」から、ソロンとクロイソス王の対話の様子を見てみましょう。クロイソスはソロンを迎え、まず彼の度肝を抜こうとして、おびただしい財宝のコレクションを見せました。その上でこういいました。「そなたは、この世界で一番幸せなものに会われたか?」。もちろんこの質問の意味は、この世で自分ほど経済的に恵まれているものはいない、だからソロンに「クロイソス王よ、世界で一番幸福な方はあなたです」といってもらうためのものでした。
  ところが案に相違してソロンはこういいました。「王よ。アテナイのテロスがさような人物であろうと存じます」。クロイソスは驚いて、テロスがどのような人物であるかを問いただしました。するとソロンは、ざっと次のように説明しました。

 「テロスは繁栄した国土に生まれ、子宝、孫宝に生まれ、そのうちの誰も欠けることがなかった。生活もまずまず裕福であった。彼はアテナイが隣国と戦争になったときに出征し、あっぱれ敵を敗走せしめたのちに往生した。アテナイは彼を国葬の対象としてその栄誉を称えた」。
  これを聞いたクロイソス王は自分は、少なくとも二番目ぐらいになれるだろうと考えて、二番目にもっとも幸福な人物は誰かと聞きました。するとソロンは「それはクレオビスとビトンの兄弟でしょう」と答えました。ソロンがなぜこの兄弟を幸福であるとしたかは次の通りです。
  「この二人はアルゴスの生まれの若者で生活に不自由せず、体力に恵まれていたので、体育競技で優勝したこともある。町でヘラ女神の祭りがあったとき、母親を牛車で連れて行くはずだったが、牛が畑にいて間に合わない。二人の青年は母を車に乗せ、自分たちが牛代わりになって四五スタディオンを走破して到着した。男たちは若者の体力をたたえ、女たちは母親に何といういい息子かと祝福した。母はヘラ女神に、二人の息子に対して人間として得られる最善のものを与えてくださいと祈願した。この仕事をなし終えた兄弟は神殿で眠ったが、再び起き上がることはなかった。大往生を遂げたのである。アルゴス人は二人の立像を作ってに奉納した」。
  今日でもデルフィの神殿の遺跡をたずねると、博物館の中に、大型で素朴な、それでいて力強い一対の青年像を見ることができます。これがソロンがクロイソス王に説明したクレオビスとビトンの立像です。

 ソロンの話を聞いたクロイソス王は苛々してきました。「アテナイの客人よ。そなたが私をそのような庶民のものどもにも及ばぬとしたところを見ると、そなたは私のこの幸福は何の価値もないと思われるのか」。ここでとうとう本音が出てしまったわけです。
  ソロンはざっと次のようにいいました。「人間の一生を七〇年として、二六二五〇日ある。このうちのどの一日も同じということはない。あなたが莫大な富をお持ちであることは分かっているが、最後の日が来るまで人間の幸不幸は分からない。金があっても不運な人よりも、金がなくても幸運な人の方が幸福かもしれない。人間死ぬまでは幸運な人間と呼ぶことはできるが幸福な人間と呼ぶことは差し控えなければならない」。
  この答えはクロイソス王の気に入りませんでした。自分を礼賛してもらおうと期待していた王は、もはやソロンには興味を失い、早々と立ち去らせました。

 
 

二人の王を導いたソロン
  この話には後日談があります。その後クロイソス王はペルシャのキュロス王と交戦し、したたかに敗れました。リディアの都市は破壊され、彼の王宮も敵の軍隊に占領されました。繁栄の絶頂にあったリディアの国は、このとき滅んでペルシャの一領土となりました。
  クロイソス王は戦犯として捕らえられ、王宮の庭で火あぶりに処せられることになりました。今しも火がつけられようとする薪の上で、敗戦の王はソロンのいったことを思い出し、「ああ、ソロンよ、ソロンよ、ソロンよ!」と三たび絶叫しました。火あぶりを見物していたキュロス王は、クロイソスが何を叫んでいるのかを知りたくなり、通訳にたずねさせました。
  クロイソスは「その人こそは、この世のあらゆる王なる人々と会って話をしてくれたならば、千金を出しても惜しくはないと私が思っている人物じゃ」と答えました。キュロスはクロイソスの話を聞いて、自分も同じ人間でありながら、かつて自分におとらず富み栄えた人間を、生きながら火あぶりにしようとしていることに思い当たりました。彼は急いでクロイソスを開放し、大きな教訓を得て、すでに賢者的な悟りに達しているクロイソスを、自分の顧問として遇することに決めました。

 プルタルコスはその「英雄伝」の中で、「ソロンはただ一回の対話で二人の王のうちの一人を救い、一人を教えたことで名声を上げた」と記しています。
  その後ソロンはアテナイに帰りましたが、アテネではペイシストラトスという野心的な政治家が策動して僭主政治を行なおうとしていました。ペイシストラトスは自分で自分の体を傷つけて広場に現れ、政敵に待ち伏せされたといって警護を要求しました。彼はしばらくするとこの警護隊を増強して私設軍隊を作り上げ、アテネの政権を軍事的に掌握しました。
  ソロンはこうした状況下にあって、ただ一人ペイシストラトスに抵抗し、民衆を説得して「市民よ、自由を手放してはならぬ」と訴えました。しかし民衆はペイシストラトスを恐れて誰もソロンのいうことを聞きませんでした。それどころか人々は「そんなことをいっているとペイシストラトスに殺されるから、早くお逃げなさい」などという始末でした。

 ソロンは逃げませんでした。専制政治に対する抵抗のデモンストレーションとして、自宅前の路地に武具一式を並べて気骨を示したといわれています。ペイシストラトスは自分にあくまで反対するソロンに危害を加えませんでした。ソロンに敬意を払い、彼との交際を求めました。ペイシストラトスは自分の都合のいいように政治をすすめはしましたが、結局ソロンが作った法律の大部分を継承し、維持しました。
  すでに老境に入ったソロンは、「日々多くを学びつつ老いの齢を重ねる」と歌い、自分の生活ペースを守りながら、学問や芸術をたしなんで余生を送ったといわれています。
  ソロンは今日流にいえば、一応の資産家であり、政治学者であり、発言力のある無政党の政治家であり、業績の上では歴史に残る立法家です。いわゆる俗世間に背を向けて活動したヒッピー的なストア哲学者とは違っています。しかし彼の共和思想と、クロイソスとの問答に示されているような金銭思想、そして僭主ペイシストラトスとのやり取りなどには、明らかにストア的な価値観が示されています。
  ソロンが大切にしたのは個人の「自由」でした。太った奴隷になるよりも、やせた自由人でいること、これはストア哲学の大きな柱です。そして彼の自由の中に、「発言の自由、行動の自由」が大文字で刻まれていることは明白です。

 彼はクロイソスの富にも勢力にも驚きませんでしたし、おもねることもしませんでした。今日でも個人のお宅や社長室に豪華な家具や飾りものを置き、「どうだ」といわんばかりに「お宝」自慢をしている光景を見ることあります。これらはクロイソスの富と同じようなものです。私たちはこのようなところに通されると、礼儀からして、「すてきですね」とか、「すばらしいですね」などと、いわなければならないような気になります。
  このとき、私たちはそれらの財宝に圧倒されるのと同時に、これほどの勢力を持っている人の好意を得たいものと考えるあまり、自分の精神の自由を失っている可能性があります。しかしソロンは一個の思想家として、クロイソスの寵を求める必要を少しも感じませんでした。
  彼はクロイソス王に、おごり高ぶってはならないということを率直に、しかも穏和に話したのです。経済力を自慢したり、おごり高ぶることは、ストア的見地からするともっとも見苦しく、鼻持ちならないことです。
  彼がクロイソス王に紹介した二つの幸福のケースは、いずれも家庭仲のいい健康的な市民、しかも金持ちに過ぎない市民です。この二つのケースはいずれも「名誉ある死」という点で共通です。クロイソスに対する話と合わせて考えると、ソロンの思想の中には「幸福であるためには、金持ちであることより、死に場所、死に方を心得ているほうが大切だ」というコンセプトがあるように思えます。

 もう一つソロンの思想の中に、ストア的哲学との関係で注目すべきことがあります。それは「運」あるいは「幸運」という考え方です。
  つまり死ぬまでは人の運命は分からないものだということと同時に、世間的な成功はかならずしも自分の力だけでコントロールできるものではなく、自律的な偶然が働いている、ということです。その偶然に対してはどうしようもないのだから、成功におごり高ぶってはならないし、失敗に意気消沈しすぎる必要もない、ということでしょう。
  ここにはストア哲学の大切な要素があります。つまりストア賢者たちは、自分が自分の支配者でなければならないという点で強い自信を持ち、また自己の監督責任を明確にしています。しかし自分の力を超えた偶然が自分を支配し得る、ということも知っています。したがって何が起こっても驚かない、という賢者特有の精神構造が形成されるのです。
  ソロンはこのストア的な思想を早くも先取りし、権威におもねず、自己を見失うことなく、精神の自由を尊重して生涯を送り、幾人もの国家的なリーダーに影響を与えました。異論もあるでしょうが、私はソロンをストア賢人の一人に数えたいと思います。

 
   
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