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ストア賢者に学ぶ
 
第2章 ソクラテスのストイシズム

クセノフォンのソクラテス像
  ソクラテスは紀元前四七〇年にアテネに生まれ、前399年、71歳で亡くなりました。ソクラテスは自らは著作をしませんでしたが、事蹟や思想を伝える複数の文献があったようです。しかし、今日ではほとんど失われてしまいました。
  私たちがソクラテスに接することができる最大の資料は、プラトンの「対話編」です。ついでソクラテスの素顔を伝えるもう一つの貴重な文献があります。それは「家政学」の著者として有名なクセノフォンの「ソクラテスの思い出」という本です。
  ソクラテスの思想を知る上ではプラトンの「対話編」の方がずっと高級ですが、ソクラテスの日常の姿や生きざまを知る上ではクセノフォンの書物が参考になります。クセノフォンはソクラテスの弟子であり、友人でした。彼は本人を目の当たりに見て、観察し、感じたままを率直に書いています。彼が描くソクラテス像は生き生きとしていて、とても親しみが持てます。

 クセノフォンはアテネでソクラテスの忠実な弟子となって修行し、その後職業軍人となりました。彼はペルシャ軍の傭兵となって小アジアに渡りました。そのときに彼は成行き上、約一万人の兵卒を指揮する指揮官にされてしまいました。クセノフォンの軍隊は戦争の目的も知らずに引きまわされ、ふと気づくと四面敵の中に孤立していることに気づきます。彼はギリシャの兵士を無事に故郷に帰還させることを自分の任務と考え、まるで映画に見られるような、長く苦しい退却劇を敢行します。 
  このときの退却の一部始終を記録したのが彼の著書、「アナバシス」です。やがて帰還した彼はスパルタびいきを理由にアテネから追放されてしまいました。スパルタのリーダー、アゲシラオスは彼に同情し、オリュンピアに近いところに荘園を贈りました。彼はここで余生を過ごし、著作を中心に平和で高雅な生活を送ったといわれています。

 クセノフォンの著書には、プラトンのような学者的な切れ味はありませんが、「家政学」の著者としての、いうなれば常識をわきまえた経済人としてのセンスが光っています。私は彼の伝えるソクラテス像には、プラトンの伝えるソクラテスとは違った価値があると思います。すなわち彼が伝えるソクラテスは、合理的な、徹底した省資源型の生活をした市民であり、シビアな経済感覚を持った生活人です。 
  クセノフォンはソクラテスについて、「第一に、情欲および食欲を制することにもっとも厳格であった人である。また寒さや暑さや、あらゆる難儀に平然と耐えた人であり、その上、中庸の道によく訓練され、ほんの僅かを得てしかもきわめて容易に満足することのできた人である」といっています。
  また「じっさい彼の生活は質素をきわめ、世の中にソクラテスの入り用を満たすだけ取れぬほど働くことの少ない人間があるかどうか、私は知らぬのである」ともいっています。私はこのひとことにソクラテスのストアの始祖としてのプロフィルを見ます。

 

官能の欲望とどう向き合うか
  まずクセノフォンの本の中から、ソクラテスが性欲や官能の欲望についてどのように述べたかを見てみましょう。
  ある日、ソクラテスはクリトブロースという男が、美貌の少年に接吻したところを見て次のようにいいました。「可哀相なことだ。美少年を接吻したらどんな目にあうと思う。自由の人間がたちまち奴隷となり、多くの資産をそんな快楽に蕩尽し、高尚有益なことに用いる多大の時間を失い、気狂いさえ問題としないような事柄に熱中しなくてはならなくなるではないか」。
  「美少年への接吻」という問題を知るためには、当時の男性たちの習慣や価値観を知る必要があります。要するに当時の少年愛は、道義的にほめられたことではなかったにせよ、今日一般に考えられるほどアブノーマルなことではなく、「ごくありふれたこと」でした。美貌の少年はこの手段を通して有力者に取りたてられ出世の道をつかみもしたわけです。
  プラトンの対話編「パイドロス」に登場するパイドロスは、トマスマンの「ヴェニスに死す」の中で何度も引用されている美少年です。「パイドロス」の中で、ソクラテスはこの少年の美貌を愛し、彼と郊外を散策する喜びをさまざまに表現し、言葉の上でも「美しいわが子よ」などと呼びかけています。
  だからソクラテスも他の男性と同じように、少年の美に無関心であったのではなく、それはちょうど今日の中年の男性が、若くきれいな女性たちに虚心でも無関心でないように、美しい少年に対して虚心でいられなかったと考えるべきでしょう。

 今日でも妻子ある中年男性が若い未婚の女性を口説くことは、道義的にはともかく、法律的に禁じられていることではありません。恋愛はあくまでも当人同志の問題であって、第三者が関知すべきことではないとされています。
  クセノフォンの美少年に関するソクラテスのコメントは、プラトンのもう一つの対話編「饗宴」の記述を思い出させます。「饗宴」の中で、アルキビアデスがソクラテスに「恥」をかかされた話をします。宴会が更けて、アルキビアデスはソクラテスと二人きりで、一緒に寝ることになりました。ご存知のようにアルキビアデスは、ペロポネソス戦争のときに問題児的な立役者となった人物です。
  クセノフォンは後の彼を「アルキビアデスはまた人民政治の時代における荒淫、傲慢、圧政の権化であった」と紹介しています。しかしプラトンの中では、彼はまだ野心にとんだ美貌の青年で、彼にいい寄る中年のパトロン候補者は大勢いたという設定になっています。
  彼はこのときソクラテスに向かってこういいます。「ぼくのみるところ、あなたは、ぼくを恋する資格のあるゆいいつの人です。・・ところでぼくはといえば、・・そのことであなたの意を迎えないのはたいへん愚かしいことだ、と考えているのです」。
  ごらんのように、これは傲慢な、一種の受け身の口説きといったもので、「僕を口説いてくれれば、僕の方ではあなたを受け入れますよ」という意味です。こうしてアルキビアデスとソクラテスはほとんど抱き合ったような状態で夜を過ごしました。このときの状況をアルキビアデスは次のように表現します。
  「この人はぼくに対しあのどうにもならぬほどの優位に立って、ぼくの青春の美をさげすみ嘲笑し、人もなげな振舞いに出た。しかもこの青春の美については、それを相当なものとぼくは思っていたのだよ。・・かずかずの男神に誓い、女神たちに誓って言うが、ぼくはソクラテスといっしょに一夜を寝て明かしたが、父や兄といっしょに寝た場合と同様、別に何の変わったこともなく翌朝起きたのだ」。
  つまりアルキビアデスは、自分の方から十分な誘いをかけたにもかかわらず、ソクラテスに振られてしまったわけで、これを「恥」としているわけですが、この事件を通して、彼はソクラテスの並々ならぬ自制心に対する敬意を示してもいるわけです。

 
 

節制すれば楽しみは大きい
  ではソクラテスは異性や美少年に対して関心を持たない男性だったのでしょうか。そうでないことは、パイドロスを読めばよく分かりますし、その他の記録によって明らかです。彼は妻帯者でしたし、子供もいました。しかしソクラテスはこの点で快楽に関する相対主義者でした。
  ソクラテスは七一歳のときに捕らえられ、投獄されました。彼は長時間牢獄の中で「枷」をはめられ、その肉体的な苦痛に耐えていました。そしていよいよ毒杯を仰ぐことになったとき、枷が取り外されると、「手足を自由に動かせるということは何と気持ちがいいことだろう」といいました。つまり彼にあっては、苦痛は快楽を最高度に味わうための準備期間であり、仕込みの時間です。
  ソクラテスは「粗食に慣れておけば、おいしいものを食べたときに一層おいしく感じられるだろう」と説明しました。彼はセックスに関してもこの論理を適用し、日ごろ節制し、性生活を控えめにしておけば、性愛の楽しみもより強く感じられるといったのです。

 ところでセックスの楽しみといえば、プラトンの「国家編」の中に、ケパロスという賢者がソクラテスに語る次のような話があります。
  「『どうですかソポクレス』とその男は言った。『愛欲の楽しみの方は? あなたはまだ女と交わることができますか?』/ソポクレスは答えた。/『よしたまえ、君。私はそれから逃れ去ったことを、無上の歓びとしているのだ。たとえてみれば、狂暴で猛々しい一人の暴君の手からやっと逃れおおせたようなもの』・・まったくのところ、老年になると、その種の情念から開放されて、平和と自由がたっぷり与えられることになるからね」。しかし私は上記の話を読むと、いつも、ここに登場する「ソポクレス」がソクラテス自身であるような錯覚を覚えます。
  この考え方は、ある意味でソクラテスの意見を代弁していますが、それ以上にソクラテスがこの「凶暴で猛々しい暴君」を自由にコントロールしていたことを示しています。改めて、まったき自分の支配者であったソクラテスのすごさに思い当たります。
  ストア的賢人としてのソクラテスの中には、やがて後に出現する二人の哲学者、エピクロスとエピクテトスの両者が予感されています。ちなみにエピクロスは自己の平和と徳に結びついた形での「真の快楽」追究を説きました。これに対してエピクテトスは、欲望という束縛を撃退する力こそ、精神自立の道だと考えました。
  もちろんエピクロスの「快楽」も、自己統御による節制をベースにしているのです。ソクラテスはエピクロス的な、自己に対する真の快楽、真の実利性の尊重という二つの側面と、エピクテトス的なきびしさを自分の中で自由に使い分けることができました。

 
 

ソクラテスのファッション
  しかし私はここでもう一つ、ソクラテスの中に、「他人がどう見るか」「社会とどのように結びつくか」ということについての、みごとな、総合的な回答を見出します。これもまたソクラテスの中にあるもう一つのストア賢者的側面です。
  ソクラテスは夏でも冬でも薄い洋服(キトン)一枚で押し通しました。靴を履かず、いつも裸足でした。ソクラテスの対話編の中には何度も「靴屋」のたとえ話が出てきます。当時の市民階級の人々はサンダルのような靴を履いていたようです。
  ツキジデスの戦史の中には、テーバイ軍に城攻めにされたプラタイアの兵士たちが、夜間に、決死の覚悟で城壁をよじのぼって脱出する場面が出てきます。このとき兵士たちは音を立てないための用心と、「泥濘に踏み込んでも滑らぬための用心に、左足だけに靴を履いていた」となっています。
  つまりこの時代の人々はみな靴を履いていたのであって、ソクラテスがいつも同じキトンを着用し、裸足で街を歩きまわっているということは、ソクラテスが属していた市民階級においてはかなり変わった、みすぼらしい格好でした。要するにソクラテスの風貌は、一部の人々にとっては見苦しいものでした。私はソクラテスを処刑した連中が、ソクラテスに抱いていた反感や不快感の中に、彼のファッションに対する抜き難い違和感があったのではないかと考えます。

 プラトンの「対話編」には、ソクラテスのファッション批判はほとんど登場しません。しかしクセノフォンの本の中には、彼のファッションを批判する人物が登場します。それはソフィストのアンティフォンです。アンティフォンはソクラテスに向かって次のようにいいます。
  「ソクラテス、私は愛知者と言うものは元来幸福でならなくてはならんと思っている。ところで君を見ると、まさに愛知のために逆の結果を得ているようだ。何はともあれ君は奴隷ですら主人にこんな扱いをされたら逃げ出すような暮らしをしている。食べる食物と飲む飲み物はこの上なくお粗末であり、衣服は単に粗末なばかりではなく、夏も冬も同じ物を着とおし、履き物なし下着なしで過ごしている・・」。
  これに対してソクラテスは次のように反論します。まず食べ物の件に関しては、「私が君の食べるものより健康上劣り、そして栄養の劣るものを食べているからと言うのか。それとも、私の食料品は君のより品数が少なく、君のは値も高価で、容易に手に入らんからと言うのか。それとも君の調達する物は、私のより味がよいからか。君はものがまことに旨く食える者は、珍味佳肴の必要がなく、まことに旨く飲める者は、よその珍しい酒を欲しがる必要が少しもないのを知っていないのか」といいます。

 続いて衣服に関しては、「着物というものは、これを更えるのは、君も知るとおり、暑い寒いのために更えるのであり、履き物は足を傷めて歩行を妨げることがないように履くのである。しかるに、君はいつか私が寒くて他人以上に家の中に閉じこもり、暑さのゆえに誰かと日陰をあらそい、あるいは足が痛くて勝手なところへ歩けずにいたことを、見たことがあるか」。 
  そしてさらに次のように続けます。「生まれつき極めて身体の虚弱な者も鍛練すれば、鍛練を怠る頑丈な者よりも、その鍛練する運動に強くなり、はるかに容易にこれを耐えられることを君は知らぬか」「高価な食料がなくては暮らせない者と、ありあわせのもので間に合う者とどちらが戦場の艱難を楽に耐えるであろうか。容易に手にはいらぬ物を欲しがる者と、手当たり次第の物で十分暮らして行ける者と、包囲に陥ったとき、どちらが早く降伏するであろうか。アンティフォン、君は幸福とは贅沢と豪華のことだと思っているようだ」。

 
 

質実剛健はアテネの美風
  ソクラテスが生きていた時代、アテネとスパルタの間には、全ギリシャを巻き込んでのペロポネソス戦争が行なわれました。アテネ在住の市民は幾度も出征しましたし、ソクラテス自身も何度か戦場に赴きました。
  ソクラテスの生活思想は、なにも戦争目的のためではないことは明らかです。しかし質素を旨としていれば非常時に耐えられるという考え方は、「幸福=贅沢」のような図式を持っているアンティフォンのような人物にはきわめて説得力のある反論だったでしょう。
  「質実剛健」の必要性を訴えたのは、なにもソクラテスが最初ではありません。ソクラテスとほぼ同時代の先輩で政治家のぺリクレスが当時の価値観をみごとに代弁しています。ツキジデスによれば、彼はペロポネソス戦争の初期に、次のようにアテネ市民へ語りかけました。
  「われらは質朴なる美を愛し、柔弱に堕することなき知を愛する。われらは富を行動の礎とするが、いたずらに富を誇らない。また身の貧しさを認めることを恥とはしないが、貧困を克服する努力を怠るのを深く恥じる」「またわれらは、徳の心得においても、一般とは異なる考えを持つ。われらのいう徳とは人から受けるものではなく、人に施すものであり、それによって友を得る」「まとめて言えば、われらのポリス全体はギリシャが追うべき理想の顕現であり、われら一人一人の市民は、人生の広い諸活動に通暁し、自由人の品位を持し、己の知性の円熟を期することができると思う」。

 ペリクレス全盛の時代、ソクラテスはまだ30代でした。当時ペリクレスは「万物の尺度は人間である」と唱えたプロタゴラスや、「知性」の重要性を説いた哲学者アナクサゴラスと親しく交わり、その思想的な影響を受けていました。若いソクラテスはペリクレスの演説を聞き、深く感ずるところがあったに違いありません。
  しかしながらペロポネソス戦争勃発後、3年たらずのうちにペリクレスは亡くなりました。哲学者アナクサゴラスもアテネを追われました。やがてアテネには恐ろしい疫病が蔓延し、市民がばたばたと死にました。信仰ある者もない者も、愚者も賢者も同じように疫病に倒れました。スパルタとの戦争は30年以上慢性的に続き、ギリシャ全土が荒廃し、疲弊しました。この間アテネの民主政治は、いつしか衆愚政治に変質していました。
  こうした時代を一市民として体験し、考えながら生きたソクラテスは、自分流に自分の身を律することを旨とし、これを守りました。彼の質実剛健の生活思想は、ペリクレス的市民思想をソクラテス風に発展させたものであり、ペリクレスの純粋な理想の上に、過酷な世相が影を落とした、一段ときびしいものであったのです。
  「国家編」の中で、若いソクラテスに説諭するケパロスは次のようにいいます。「端正で自足することを知る人間でありさえすれば、老年もまたそれほど苦にするものではない。が、もしその逆であれば、そういう人間にとっては、ソクラテス、老年であろうが青春であろうが、いずれにしても、つらいものとなるのだ」

 
 

ソクラテスの経営感覚
  ここでソクラテスの金銭に対する考え方を見てみましょう。哲学者たちの金銭に対する淡白さはすでにタレスに見られ、さらに奢侈に対する批判はソロンにおいて鮮明となっていました。そして経済的繁栄を目指し、これを実現したペリクレスにあっても、「質実」は大きなスローガンでした。もっとも質実剛健ということにかけては、アテネ人よりも最良期のスパルタ人の方が上だったに違いありません。いずれにしてもソクラテスはこうした伝統的な経済思想を、健康、忍耐力に結びつけて発展させて、実行しました。
  ソクラテスが経済活動をどのように考えていたのかについては、クセノフォンの中に鮮明なエピソードが示されています。あるときアリスタルコスという人物が浮かぬ顔をしていると、ソクラテスはその理由をたずねました。
  するとアリスタルコスは内乱が生じたために、親戚中の女性たちが自分の家に避難してきて食客となっているので、経済的に苦しくなり、やっていけないとこぼします。するとソクラテスはみんなで糸を紡いだり、洋服を作ったりなど、有益な仕事をして稼げばいいではないか、と助言します。するとアリスタルコスは、奴隷の身分でもない者を働かせるわけにはいかないと反論します。ソクラテスはいいます。
  「それでは、自由の身分で、そして身内の者だというわけで、君は彼らが食べて寝る以外のことをしてはならないと考えるのか。・・食って寝るだけの生活をしている者を、生活上役に立つ仕事を知ってこれに励む者よりも、一層高等な生活、一層仕合わせな身の上と、君は見るのか。・・怠けているのと、有益な仕事に励むのと、人間はどちらが一層分別があるであろうか。仕事をするのと、怠けていて物資の議論をしているのと、どちらが一層まともな人間であろうか」。
  これを聞いてアリスタルコスは勇気づけられ、借入を起こして設備投資をしました。そして身内の女性たちに仕事を与えて家内工業を始めます。仕事は順調にはかどり、女性たちも楽しげになり、家の中には平和と希望が生まれてきました。

 しばらくしてソクラテスにであったアリスタルコスは、「おかげで仕事が順調に行って家内に活気が戻ってきた。ところが女たちは、私が家中でただ一人働かずに食べているといって非難するのだよ」といいます。するとソクラテスは、「主人は羊に対する牧羊犬のような仕事をしている。君のおかげで彼らは誰からも害を受けず、安心して楽しく働いて生活しているのだといって聞かせてやりたまえ」といいます。
  上記のエピソードからいろいろなことが分かります。まず、ソクラテスが有益な仕事をするのに、自由な市民も奴隷も関係ない、という立場を取っているということです。そして他に方法がなければ、身分のいかんに関わりなく、有益な仕事に精を出して生活の資を得るのが当然だし、勤勉よりは怠惰の方がずっと恥ずかしいことだと述べています。
  この当時、一般の市民階級の女性たちは糸を紡いだり、服を縫ったりするような手仕事の技術を学んでおり、この点では奴隷も市民も仕事の内容に変わりはなかったことが分かります。市民階級の人間が実質的に働くかどうかは、そのときの状況と主人の判断によって決められたということです。おそらく、市民女性たちが自分で作業をする必要がないときには、奴隷たちの仕事を監督したり、指導できる立場にあったと見ていいでしょう。
  また上記の逸話においてソクラテスは、監督の任に当たることができる者は、一見仕事をしていないように見えても、それなりに立派に仕事をしているという考えを披露しています。すなわち彼は「マネジメントの付加価値」を認識していたのです。市民が自由な時間を享受できるようになるためには、このマネジメント能力を発揮する必要があるとソクラテスは考えました。

 「君、私たちは自由な市民なのだから、そんなにあわてることはない」。ソクラテスは性急な結論を出そうとする対話の相手にこういうのが口癖でした。つまり、市民階級の男性が教養に使う時間を確保するために、総合的に「家政」、すなわちマネジメントを行なう必要があったのです。このさいのソクラテスの基準は、単なる収入の多さではなく、収支のバランスです。
  彼はエウテデューモスと対話したときに貧乏人と金持ちを定義しました。ソクラテスは若く優秀な学生であったエウテデューモスに、「いかなる人々を貧乏と呼び、いかなる人々を金持ちと呼ぶか」とたずねます。すると若者は「必要なものにも金が足りなくて払えない人々を貧乏人、足りる以上にある人々を金持ちというのだと思います」と答えます。
  するとソクラテスは次のようにいいます。「では、こういうことに気づいているかね。ある人々はごく僅かしかないのに、それで充分足りるのみか、その中から貯蓄までするのに、ある人々はすこぶるたくさんあるにもかかわらず、なお不足しているのを」。するとエウテデューモスは「本当にそうだ。・・じっさいに民王と言われる身で、なお手元不如意から、まるで貧民のように犯罪を犯すものがたくさんあるのを、私は知っているのでした」と答えます。

 そこでソクラテスは「ごくわずかな収入の者も家計を立派にやって行くならば、長者のうちに算えようか」といいます。ここで語られているのはFM比率の問題です。どのくらい金持ちであるかを考えようとするとき、一般的には売上高や、収入高を問題にします。しかしソクラテスはFM比率を問題にしています。
  FM比率とは、実質収入であるところの「M=マージン」と、支出であるところの「F=固定費」の関係です。売上や収入のいかんに関わらずMの方がFよりも大きければ、収益性は確保されています。そして「F÷M」が低ければ低いほど収益性は高いことになります。ソクラテスは貧乏と金持ちを収入の規模によってではなく、FM比率で定義しようとしたのです。
  以上のことからソクラテス自身の家政を考えると、おそらく彼自身も複数の奴隷を所有し、彼らに基礎的な仕事をしてもらい、その上で自由時間を享受していたと見ることができます。ただ彼の場合、徹底した省資源型の生活をしていましたから、ソクラテス家の奴隷にかかる負担は軽かったでしょう。おそらくソクラテス自身が「低収入の長者」だったに違いありません。

 
 

誰にも負債を負わない人生
  もう一つソクラテスの経済感覚、それもバランス(貸借)感覚を知る手がかりがあります。彼は牢獄で死刑のしきたりに従って毒杯をあおり、横たわります。すでに彼の顔の上には白い布がかけられています。
  と突然、ソクラテスは顔の上の布を取ってこういいました。「クリトン、アスクレピオス(医神)に鶏を一羽おそなえしなければならなかった。その責を果たしてくれ。きっと忘れないように」。この言葉は、ソクラテスの経済センスの一端を証明しています。彼はアスクレピオスの神に奉納物として鶏をささげる予定でした。彼はこれを神に対して残した自分の義務、大袈裟にいえば「負債」と考えていたのです。
  彼は毒を飲み、静かに横たわりました。毒は次第に体内に回り、下半身が冷たくなりました。しかし意識はまだ残っていました。彼はこれまでの自分の生活を思い返して、誰かに返済できなかった負債がなかったか、もう一度点検を行ないました。するとアスクレピオスのお祭りのための、奉納物を忘れていたことに気づきました。そこで親友のクリトンにこの件を依頼して死んだのです。

 ソクラテスの経済感覚は以上のように、きわめてノーマルなものであり、しかもFM比率の件でお分かりのように、経営の本質を突いていました。彼は怠惰を排除し、働いて生活の資を得ることの価値を認めました。彼にはまた「労働」の中に、一般の人には理解しにくいマネジメントの技術を加えていました。
  彼自身は徹底した省資源型の生活を指向しました。彼は節制を強いられたものとするのではなく、自発的な生活技術としました。その上で、無節制な放縦とくらべた場合の節制のメリットを説きました。それは自身の健康への配慮であり、鍛練であり、非常時に対する対応力であり、忍耐力です。
  私たちの肉体は、時折私たちの意志に逆らう傾向があります。たとえば紙の上に、エンピツで直線を引こうとする場合でさえ、肉体はいうことをききません。線はどうしてもふるえたり、曲がったりするのです。アランは「経験の示すところによると、人は一遍でやろうと思うことができるようになるものではない。デッサンはその驚くべき一例である」といいました。
  ソクラテスはこのことをよく知っていました。だから彼は自分の肉体を、自分の意思に従わせることができるように日ごろ鍛練していました。節制は彼にとっては目的であり、手段であり、応用であり、自分の自分に対する勝利のあかしでもあったのです。負債を負わないということは「自由」であるということです。ソクラテスは自由であることを何よりも尊しとしました。

 彼が作り上げたライフスタイルは、後のストア賢者たちに大きな影響を与えるわけですが、そのポイントを次の六点に要約できます。
1.神を敬い、正義を愛する良き市民(兵士)として生きる。
2.友情を大切にし、友人に役立つ。
3.できるだけ質素に生活し、ありあわせのもので満足する。
4.逆境に耐えられる身体を作る。
5.理にかなっていれば、他人の評価を気にしない。
6.情念にふりまわされぬよう自制心を養い、徳を目指す。 
  これらのライフスタイルが、のちのストア賢者によってどのように継承されていったかを見ていくことにしましょう。

 
   
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