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ストア賢者に学ぶ
 
第3章 過激なまでに「自由」と「徳」をめざす

ソクラテスからのスタート 
  ソクラテスが牢獄に入れられてから死刑になるまでの間は約三〇日だったといわれています。本当はもっと早く死刑になるはずでしたが、アテネの伝統的な祭礼の時期とぶつかったために死刑執行の日程が延びてしまったのです。 
  この死刑執行までの期間、牢獄に毎日日参し、ソクラテスの最期をみとった弟子の一人にアンティステネスという人がいました。アンティステネスは紀元前四四五年頃に生まれ前三六五年頃まで生きたと考えられています。
  彼はアテネ近郊の港湾都市ペライエウス(ピレウス)に住んでいましたが、ソクラテスの教えを受けるために、アテネまで片道七キロ以上の道を毎日往復しました。おそらく彼は、ソクラテスの泰然たる死を目の当たりにして、強い感銘を受けたに違いありません。
  彼はソクラテスから「困苦に耐えること」「情念に心を乱されないこと」を学びました。彼は「労苦はよいものだ」といい、「私は快楽に耽るくらいなら、気が狂っている方がましだ」ともいいました。また贅沢を排除し、生活資源を絶対必要な最少限度にまで切りつめることを自分に課しました。そして贅沢を礼賛している人に「君の敵の息子たちがどうか、贅沢な暮らしをしてくれますように」といいました。これでお分かりのように、彼はソクラテスから単なる「節制」以上の、さらにきびしい修道僧的な側面を取り出し、自分の信条としたわけです。

 彼は幸福になるためには「徳」だけで十分で、「ソクラテス的な強さ」以外には何もいらないと考えました。だから彼は最少限度の生活をするために、必要な虚飾をいっさい自分から捨てようと考えました。彼は着古した上着を二重折りにして使いました。持ち物は杖と頭陀袋だけでした。頭陀袋の中には、最少限度の生活用具と食料を入れました。
  アンティステネスは、彼に続くディオゲネスやその他の一連の哲学者のグループ、「キュニコス派」の開祖といわれています。彼がキュニコスと呼ばれたのは、アテネ城門から少し離れたところにあるキュノサルゲス(白い犬)の体育場で人々に語りかけていたからだとも、まるで犬(キュニオン)のように、なりふりかまわぬ生活をしていたからだともいわれます。
  キュニコス派はわが国では「犬儒派」と訳されています。アンティステネスの開発したスタイル、すなわち着古した貫頭衣、頭陀袋、長い杖という三点セットは、キュニコス派のトレードマークになりました。彼らは、あきらかにストア哲学の最初の典型でした。ご承知のようにこのキュニコスの名は、英語のシニック、つまり「皮肉」の語源になっています。
  おそらく彼らは人目もはばからず、このスタイルで街をうろつき、どこででも横になり、食物を分けてもらい、人々に向かって哲学を語ったのでしょう。一般の良識ある市民からは、彼らはまるで乞食のように見えたのではないでしょうか。しかし彼らのスタイルは、繁栄の絶頂期が終わった後のアテネの世相を象徴し、反映していました。

 

価値の逆転にかける
  アンティステネスの弟子にディオゲネスがいます。フランスの思想家アランは、自分の父親エチエンヌを読者に紹介するに当たって、「私の父は一種ディオゲネスばりの男で・・」と表現しました。また彼は随所にディオゲネスの名を出してアラン自身の思想を語っています。
  ちなみにアランの「幸福論」には「ディオゲネス」という独立した章があり、その中で「逆説家のディオゲネスは、苦しみこそいいものであるといっていた」と書いています。また「人間論」の中でアランは一人の人間嫌いの男に次のようにいわせています。「本当の人間は、アレクサンドルになれないとすれば、もっぱらディオゲネスになろうとする、これで見分けがつく」。
  ディオゲネスという名の複数の古代哲学者がいますが、ここでご紹介するのは「シノペのディオゲネス」のことです。プラトンは彼をさして「狂えるソクラテス」と評しました。

 彼は紀元前400年〜325年の人といわれていますから、プラトンやアリストテレスと同時代を生きたことになります。アンティステネスはソクラテスの弟子で、ディオゲネスはアンティステネスの弟子ですから、ディオゲネスはソクラテスの孫弟子に当たります。ソクラテスとの年齢関係を求めると、アンティステネスはソクラテスより25歳若く、ディオゲネスはアンティステネスよりも55歳若いことになります。
  ディオゲネスは、両替商の息子としてシノペに生まれたといわれています。ところが、父親か彼自身か、あるいは二人が共謀して貨幣を粗悪なものに改鋳したために、国を追われました。この貨幣改鋳という不名誉なエピソードは、ディオゲネスにぬぐいがたくつきまとっています。
  これに関しては次のような解釈的なエピソードがあります。ある時ディオゲネスがデルフィの神託を受けたところ、「貨幣を改鋳するがいい」というお告げを受けたので、そのとおりやりました。するとたちまち告発されました。しかし彼はのちに自分の解釈が間違っていたことに気づきました。神託がいった「貨幣を改鋳する」というのは、「世の中に流通しているものの考え方や価値観をくつがえせ」という意味だと気づいた、というのです。

 そこで彼は通念的で、小市民的な価値観に対する生きた反論として、すなわち哲学者として生き抜く決意をした、というのです。ある人が、彼が国元を追放になったことについて非難すると彼は「だが、そのことがあったればこそ、哀れな人よ、ぼくは哲学をすることになったのだ」と答えました。また別の人が「シノペの人たちが君に追放を宣言したのだね」というと、「しかしぼくの方は、彼らに故国に留まることを宣言してやったのさ」とやり返しました。
  これらの会話の中には、自分の選んだ道に対するディオゲネスのゆるぎない自信と、「価値の逆転」にかける彼の哲学的な信条が示されています。
  ディオゲネスは若いときにアテネにやってきて、アンティステネスに入門をさせて欲しいと頼みました。しかしアンティステネスは「わしは弟子を取らん」と、受付けません。ディオゲネスはしつこく頼み、その場を動こうとしません。アンティステネスが思わず杖を振り上げると、ディオゲネスは自分の頭を差し出していいました。「どうぞ、打ってください。あなたが何かはっきりしたことをおっしゃってくださるまでは、私を追い出すのに足りるほどの堅い木を、あなたは見出せないでしょうから」。
  こうして彼は師について勉強を始めました。彼は師匠に負けないほどの切りつめた生活を実践しました。彼はねずみが寝床も求めず、走りまわっているのを見て、「寝床など必要ない」と考えます。神殿などの公共施設の軒先を指して「アテネの人は私のためにすみかを作ってくれている」といいました。これは今日のホームレスが、駅のコンコースや地下鉄の構内、そして公園などを「すみか」と見なしているのと同じです。 

 
 

ホームレスの元祖
  もっとも彼も定住に対する欲求はあったようです。彼は公共施設で使われていない大甕を横にしてこれを住居として使うことにしました。よくものの本に「樽の中のディオゲネス」とありますが、木樽のことではありません。陶器製の大甕のことです。今日でもギリシャを訪問すると、遺跡などでこの種の大甕を見ることができます。
  彼は毒舌家として知られていましたが、アテネの人々に人気がありました。ちなみにある若者が彼の住まいである大甕をこなごなに割ってしまいました。おそらくディオゲネスに何か皮肉をいわれて、腹を立てたのでしょう。アテネの人々は、この若者を鞭打ちの刑に処して、ディオゲネスには別の大甕をプレゼントしたといいます。
  彼の奇行、変人ぶりを伝えるエピソードを見ましょう。彼はあるとき大声で「おおい!人間どもよ」と叫んだので、人々が集まってくると彼は杖で人々を追い払いながらいいました。「ぼくが呼んだのは人間だ。がらくたなんぞではない」といいました。また彼は白昼にランプをともして、あちこちを探すそぶりをしていました。「何をしているのです?」と聞かれると彼は答えました。「ぼくは人間を探しているのだ」。これなど、現実の人間が理想の人間といかに程遠いかを示そうとするディオゲネス一流の、やや芝居がかった皮肉の例です。

 ディオゲネスはプラトンと同じ時代を生きていました。そこで同業者として彼はプラトンとしばしば対立したり、論議することになりました。プラトンは同業者とはいっても、今日でいえば大学の学長に匹敵するエリート市民です。ですから私はプラトンをストア賢者の系列からははずしてあります。ちなみにプラトンは晩年、弟子のすすめと紹介に従ってシシリー島のシラクサに渡り、ディオニシウス二世に仕えることにしました。つまり彼は就職活動をしようとしたわけです。
  プラトンがディオニシウス二世とうまが合わず、命からがらシシリーから脱出してきた話は有名です。既存の社会的な価値を否定するディオゲネスの目から見ると、プラトンのこうした行為は、立身出世を望んでの、愚かな行為ということになります。

 あるときディオゲネスはプラトンとパーティで同席していました。見ているとプラトンは多くのごちそうに手をつけずオリーブの実だけを食べています。そこでディオゲネスがいいました。「賢者であるあなたがシケリア(シシリー)へ渡航されたのは、まさにこういう料理が目当てであったのに、いまこうしてたくさんの料理が目の前に並んでいるときには、あなたがこれを味わおうとされないのはどうしたわけかね」。
  するとプラトンは答えました。「いや、神々にかけて、ディオゲネスよ、あの地でも、ぼくはたいていの場合は、オリーブやそういうものを食べて過ごしていたんだよ」。するとディオゲネスはさらに追い討ちをかけていいました。「それなら、なぜシュラクサイくんだりまで出かけて行く必要があったのかね。それとも、あの頃には、アッチカ(アテネ市が含まれる地方)にはオリーブができなかったというわけかね」。
  今日でもギリシャに行けば、どの地方を訪ねてもオリーブの木が茂り、たわわに実っているのを目にすることができます。おそらく紀元前も事情は同じだったに違いありません。ホームレス同然のストアの賢者たちが、どうやって食料を調達していたのかと考えるとき、私はあの潤沢なオリーブの実を思い出します。

 もちろんオリーブの実だけで一年中暮らせるわけではないでしょうが、自生している木や公共施設内にある木の実によって、彼らはぎりぎりの飢えをしのげたのではないでしょうか。だからオリーブの実は不可欠の食料であるとともに、彼らにとって価値の低い食料です。
  ある道楽ものが居酒屋でオリーブの実を食べているのを見て、ディオゲネスはいいました。「君がもし、そんな風に質素な朝食をとっていたなら、夕食はそんな風に質素なものとならなかったろうにね」。これで見ても、オリーブの実はどこにでもある、質素な食物の代表です。
  結局人間は最少限度のエネルギーで暮らすことができ、それ以上の飽食は害となります。ディオゲネスは、健康を願って神々に犠牲をささげる人が、その犠牲式のために健康を害するほどのごちそうを食べるのを見て、批判していました。
  ところで、さきほどのディオゲネスのプラトンに対する「いやみ」は、いやしくも賢者なら、人間が最少限度の食物たるオリーブだけでも生きていけることを知っているはずなのに、成功や栄誉を求めて就職活動をするなど愚かではないか、ということにあります。彼はこのようにしてプラトンの心の中にある虚栄心をえぐり、批判したわけです。

 
 

何者からも自由でありたい
  ディオゲネスはアンティステネスを通してソクラテスを知り、ソクラテスを尊敬しています。自分と同じようにソクラテスを師と仰ぎ、尊敬しているプラトンを同業者として十分に認めているのです。しかし路上生活をしているディオゲネスにしてみれば、社会的にも経済的にも成功しているプラトンが癪のたねです。
  プラトンの目から見れば、ディオゲネスはその徹底した合理性で清貧の極に達している同業者です。一見奇行だらけ、おまけにひどく口は悪いが、本質は突いていると評価しています。プラトンの方にはゆとりがありますから、ディオゲネスに何か頼まれれば支援はします。
  あるときディオゲネスはプラトンにぶどう酒と乾し無花果を無心したことがあります。プラトンは余分に与えれば少しは相手が喜ぶだろうと考え、酒甕を丸ごとプレゼントしてやりました。するとディオゲネスは、「君は、二たす二はいくらかと聞かれた場合に、二十と答えるだろうかそれと同じで、君は所望されたものに応じて与えることもしなければ、訊ねられたことに応じて答えることもしないのだ」といいました。

 せっかく親切に、余分に贈り物をしたのに、ディオゲネスはずいぶん憎たらしいではありませんか。しかしディオゲネスにしてみれば、余分に与えられて、それでプラトンに感謝しなければならないとしたら自分は奴隷になってしまう、と考えます。彼は「私は誰にも隷属するものではないぞ」、という気概を示したかったのでしょう。
  それにまた「訊ねられたことに応じて答えることもしない」という、ディオゲネスによるプラトン批判は、なかなかいいところをついています。というのもプラトンの「対話編」には、プラトン自身の所見や回答はどこにも書いていないからです。プラトンの本は対話を通して物事を理解するようにしか書かれていません。そこでアランは「プラトンの神は隠されている」といっています。プラトンの話は、おそらく当時でもやや間接的で、暗示的で、分かりにくいものだったに違いありません。

 ディオゲネスは自分に親切してくれた相手に対してさえも、自分が自由であることをことさらにデモンストレーションしてみせ、さらには、相手の書法や話法の問題点にまで、チクリと針を刺すのを忘れませんでした。今日、保身のために毎日汲々としている私たちの常識からは想像もできない脱線ぶり、闊達ぶりです。
  プラトンのところへ、ディオニシウス王のところから何人かの使者がやって来たことがあります。今日ではどこの家に誰が来ようと別にどうということもありませんが、シラクサ王の使者がたずねてくるということは、街のうわさになったのでしょう。たずねてきている使者の中には、かつて学園で学んだことのあるプラトンの弟子も混じっていました。
  プラトンは家のホストとして使者や友人たちをもてなしていました。今日でいえば、自分を推薦してくれる取引先の取締役連を、自宅で接待している、といったところでしょうか。
  いきなりディオゲネスがプラトンの家に上がり込んできました。接待用のきれいな絨毯が床の上に敷かれているを見ると、ディオゲネスは汚い足で、これを踏みつけて回りました。「おいおい何をするんだ」というと、ディオゲネスは「こうして、プラトンの虚飾を踏みつけてやっているのだ」といったものです。プラトンは「君だって『見栄をはらない』という見栄をはっているんじゃないかね」と応じました。

 
 

ご馳走よりも自由
  あるときディオゲネスは誰かを怒らせ、頭から水を浴びせられました。水びたしのまま町の真ん中に立っていると、人々が集まってきて気の毒がりました。たまたまプラトンが通りがかりました。「もし諸君がほんとうに彼を気の毒だと思うなら、ここから立ち去りたまえ」。つまり、プラトンはディオゲネスが彼一流の「形にはこだわらない」「ものに動じない」という演技をしていると考え、「見栄をはらないという見栄」であると評したのです。

 たしかにディオゲネスの奇行には、かなり演出的な部分があります。プラトンは自分も痛いところを衝かれていますから、ディオゲネスのこの点を鋭く指摘しているわけです。しかし、多少の演技ということを割り引いても、ディオゲネスの生きざまにはなお徹底した何かがあります。
  あるとき彼は、小さな男の子が両手で水をすくって飲んでいるのを見ていいました。「簡素な暮らしぶりでは、私はこの子に負けたよ」。そして彼は頭陀袋の中に入れておいたコップを取り出して、これを投げ捨てました。また同じように、小さな子がパンの窪みに豆のスープを入れて飲んでいるのを見て、お椀まで放り出しました。
  ソクラテスの暮らしは徹底した省資源的なものでした。しかしソクラテスの場合、最少限度の生活資源は確保されていました。しかしディオゲネスの生活となると、食べ物にありつけるかどうかはそのときの状況によりました。ある人が「人々は乞食には施しをするのに、どうして哲学者にはしないのでしょうかねえ」といったとき、ディオゲネスは「それは彼らが、いつかは足が不自由になったり、目が見えなくなったりするかも知れぬとは予想しても、哲学者になるだろうとは決して思わないからだよ」と答えました。

 この問答から、彼らは放浪型の哲学者ではあったにせよ、施しを求める乞食とは一線を画していたということが分かります。人々もまたこの二者を、形の上では似ているにしても、区別していたことが分かります。つまり放浪型の哲学者は喜捨は受けはしましたが、乞食のように哀れみを乞うことはしなかったのです。
  彼は金に困ると友人に、「金を貸してくれ」といわずに「金を返してくれ」といいました。彼は彼なりに尊厳を保つ必要がありました。わが国には「武士は食わねど高楊枝」という諺がありますが、わが国の武士の方は「飢えに屈したそぶりを見せない」という色彩が強いのに対して、ストア哲学者の方は、「飢えのために精神の自由と尊厳を売り渡さない」というところに大きな特徴があります。
  ある人が「カリステネスはアレキサンダー大王に取りたてられて、毎日贅沢なごちそうを食べている。何と仕合わせなのだろう」と話していました。これを聞いてディオゲネスは「いや、あれは不仕合わせな男だよ。昼食も夕食も、彼はアレクサンドロスが適当と思うときしかとれないのだから」といいました。これなど一見負け惜しみに聞こえます。

 しかし私も経験がありますが、接待で呼ばれて食事が出てこないようなとき、食事に関心がないようなふりをして我慢しているのはなかなかつらいものです。そのとき私の頭の中は、食べ物のことでいっぱいなのです。食べさせてもらおうとするから、相手のスケジュールに従わなければなりません。
  自分がホストなら、自分のスケジュールでことを運べます。食客となったとき、私たちは「食べさせてもらおう」という助平根性のために、つかの間の奴隷となっているわけです。ディオゲネスは、自分が毎日を飢えて暮らしながらも、こうした食客としての、ままならぬ心理を読みぬいていました。 

 
 

欲望とのきびしい戦い
  ディオゲネスは犬に与えるように骨を投げつけられて怒り、犬がするように、その相手に小便をひっかけたこともあります。私はディオゲネスのこの意気軒昂ぶりが好きです。しかしいくらオリーブの実を食べればいいとはいっても、生産手段を持たず、路上生活に近い生活をしていた彼らにとっては、飢えはかなりきびしい試練でした。
  彼は路上で、人が見ているのもおかまいなしに女性とセックスをしたといいつたえられていますが、相手もあることですから、どの程度本当かはいささか判断保留を要します。おそらくこれは、ラエルティス・ディオゲネスが書いている彼の伝記の中に「また彼は、デメテルのこと(飲食のこと)も、アプロディテのこと(性交のこと)も、何でも人前で公然と行なうのを常としていた」と書かれていることからの拡大解釈ではないでしょうか。
  「アプロディテのこと」に関して、相手なしにやっていたことならかなり信じられます。彼が人が見ているのもかまわず広場で手淫に耽りながら、「ああ、お腹もまたこんなぐあいに、こすりさえしたら、ひもじさもなくなるというのならいいのになあ」といったといいます。この逸話にはリアリティがあります。

 この話には二つの点が示されています。その一つは彼がいつも食欲と性欲に悩まされていたということ、そしてもう一つは、彼にとっては人目をはばかるようなことは何もなかったということです。彼にとっては体裁を繕ったり、対面をはばかったりする人が滑稽でした。彼はもっぱら人々の虚飾の仮面をはぐことに注力したわけです。
  彼は次のような論法を組み立てました。「もし食事をとることが何らおかしなことでないとすれば、広場でとってもおかしくない。しかるに、食事をとることはおかしなことではない。それゆえ、広場でとってもおかしくはない」。

 彼の「偽金づくり」、すなわち「価値観の転倒」という特質がもっともよく表現されているのは、他人に対する皮肉であり、鋭い警句のエピソードです。
  彼は金持ちが召使いに靴を履かせてもらっているのを見て、「君は鼻もぬぐってもらうのでなければ、まだ決して幸福な人ではないのだね。しかしそれは、君の両手が利かなくなったときのことだろうに」といいました。
  私たちの子供の頃には町を人力車が走っていました。あれは人が一人歩く代わりに、別の人が二人分を移動するわけですから、エネルギーの偏在化をみごとに象徴しています。今日ではタクシーがこの代わりをしています。サービス業は本来は平準化すべき人的エネルギーを、偏在化させることによって成立する産業です。しかしエネルギーは平準化されている状態がもっとも少なく、経済的なのです。

 ちなみに「散歩の代行業」というものはありません。この場合、個々人が自分のエネルギーを処理しなければならないのです。金持ちであることの危険は、何でも代行してもらえることであり、代行させてはならないことまで代行させる、ということにあるのでしょう。ディオゲネスの皮肉はむしろ健康上のアドバイスともいうべきもので、鋭さのかげに薬があります。
  ディオゲネスは、あるとき神殿を管理する役人たちが、宝物を盗み出した泥棒を捕まえて連行する様子を見ていいました。「大泥棒たちが、こそ泥を引き立てて行く」。
  合理主義者の彼にすれば、神様の名において、御利益の保証もなく奉納物やお賽銭を受け取っている神官や管理人は「大泥棒」です。これにくらべれば、宝物殿の中の杯を一つ二つ盗み出すなど、「こそ泥」に過ぎません。彼の発言は形式的な祭祀関係者に対する痛烈な批判です。

 
 

下手な音楽家も海賊よりまし
  ある大柄な歌手が人々の前で演奏しました。当時はキタラという弦楽器が一般的で、歌手はこれを弾きながら歌いました。しかし男があまりにへたくそなので聴衆はブーイングしました。ところが一緒に聞いていたディオゲネスは、「いやあ、彼は立派だ」とほめます。「この男のどこがいいんだ?」という聴衆に対してディオゲネスは答えました。「これだけ大きな体格をしていて、海賊にもならないでキタラに合わせて歌っているからさ」。 
  当時の無産階級にとって追いはぎや海賊になることは一つの人生選択のコースでした。地中海の島や沿岸の都市を訪れると、海岸線に沿って城壁の跡を見ることができます。これらは地域住民の海賊に対する防衛対策の名残りです。当時の人々にとって、戦争や略奪は付加価値生産の手段の一つだったのです。

 たとえばディオニソス神が航海の途中で海賊に捕まる話があります。また竪琴弾きの名人アリオンが海賊に捕まる話など、古いギリシャ神話では海賊は重要なキャラクターの一角を占めています。それによく考えてみると、金の羊毛を取りに行ったアルゴ船の冒険物語や、トロイ戦争の物語も、美化されてはいますが、大規模な海賊行為にほかなりません。
  貧乏で他に何の取り柄もないが、立派な体格と、強い腕力に自信があるという若者は、一度は盗賊や海賊の群れに身を投じて一旗あげることを考えたに違いありません。まして当時のように世の中が乱れているときには、かならずそのような現実的な誘惑があったはずだとディオゲネスは考えます。
  イソップ物語の中にも下手くそなキタラ弾きの話が出てきます。この男は家の中で歌っているとき、声が壁に反響してエコーがかかりました。そこで彼は「自分は相当にうまいな」「もしかしたら私は音楽の天才かもしれない」と思い込みます。そこで彼は舞台に立って歌いました。するとあまりにまずかったので、聴衆に石を投げつけられて追い払われました。
  ディオゲネスの逸話に出てくるこの男もおそらく屋内で練習し、自分なりに自信をつけて舞台に立ちましたが、どうも才能がなかったようですね。しかしディオゲネスは彼を評価してやりました。彼の音楽をではなく、彼が平和な職業を選んだということをです。
 
  彼の皮肉屋ぶりをもう少し観察しましょう。ある遊女の子供が人だかりに向かって石を投げつけていました。そこで子供にいいました。「気をつけるんだよ。おまえのお父さんにあてないようにね」。これなど、いささか残酷かもしれませんね。
  ある少年が「自分を恋してくれる人からもらったんだ」、といって一振りの短刀を見せびらかしていました。彼は手にとってこういいました。「刀身は立派だが、柄はまずいね」。おそらく少年にはこの皮肉の意味は分からなかったでしょう。しかしここでディオゲネスが意味しているのは、「少年愛に入れ揚げているような男は、性器は立派かもしれないが、人間として立派ではない」ということです。
  ディオゲネスは少年愛が常識となっていた当時にあって、これに鋭い道徳的な批判的を行なっていました。彼は傍若無人なやり方で「恋人」たちの逢い引きの邪魔をしたり、忠告を行なったりしました。

 こう見てくるとディオゲネスの奇人ぶり、強烈な皮肉、反常識性だけが目立つように思われます。しかしディオゲネスが深い古典の教養と、確たる、真摯な思想を持ち、これで自分を律し、人々を説得しようとしていたことは間違いありません。ちなみに彼は「質素の極限」ともいえるライフスタイルをとりましたが、これはいうなれば「修行生活」でした。
  彼は「精神の鍛練」「肉体の鍛練」を重んじ、その両面をバランスよくおしすすめることを説きました。どんな職業においても訓練は初歩的なものから始まって常人は真似できないような高度な技術に至ります。それと同じことが人生の生きざまについてもいえるのであって、惰弱な生活に流されず、自然の理に適った労苦の中で精神と肉体を鍛え、真の徳と幸福を実現すべきであると彼は考え、自ら実践したのです。
  自然本来の姿に帰り、何者にも束縛されない精神の自由を確保すること、これこそが彼が既成の「通貨」に対して提起した反論、すなわち、彼独自の価値観でした。彼はこのような思想を展開することによって、一般に流布している「通貨」と、彼の「偽金」のどちらが純正であるかを改めて世に問うたのです。

 
 

アレキサンダー大王との対決
  私の手もとにある歴史年表によると、ディオゲネスの没年は、アレキサンダー大王の没年と同じ紀元前三二三年となっています。ディオゲネス八二歳、アレキサンダー大王は三三歳でした。
ディオゲネスとアレキサンダー大王の面会は、有名な伝説となっています。
  アレキサンダー大王がひなたぼっこをしているディオゲネスの前に立ち、「何なりと望みのものを申してみよ」といったところ、彼は「どうか私を日蔭におかないでいただきたい」と返答しました。彼にしてみれば、世界を制覇した大王に乞わねばならないようなものは何一つないということです。自己の精神を統御し、幸福であるという点では、大王にも負けはしないという自負が伝わってきますね。
  また、アレキサンダー大王が「余は、大王のアレクサンドロスだ」と名乗ったところ、彼は「そして俺は、犬のディオゲネスだ」と応じた、というのがあります。アレキサンダー大王が「おまえは、余が恐ろしくないのか」といったところ、ディオゲネスがいいました。「いったい、あなたは何者なのですか。善い者なのですか、それとも、悪い者なのですか」。アレキサンダー大王がが「むろん、善い者だ」と答えると、彼は「それでは、誰が善い者を恐れるでしょうか」と応じました。これらの逸話のどれが本当で、どれが作り物かは判りませんが、私はどれもが、私たちを啓発する上で本当であるという観点をとることにします。

 プルタルコスの「アレキサンダー伝」を読むと、アレキサンダー大王もアリストテレスに師事した知性派であったことが分かりますが、同時にかなりの変人であったことが分かります。彼は「もし自分がアレクサンドロスでなかったとしたら、ディオゲネスであることを望んだであろうに」と語ったといわれています。
  冒頭にご紹介したアランの「人間論」の中のコメント、「本当の人間は、アレクサンドルになれないとすれば、もっぱらディオゲネスになろうとする、これで見分けがつく」という文章は、上記の逸話を下敷きにしたものです。
  大王は大王なりにディオゲネスの徹底した「犬」ぶりにどこかで共感するところがあったに違いありません。大王は世界を征服し、いうなれば「世界国家」を作り上げようとしていました。ディオゲネスは「どこの国の人か」とたずねられると、「世界市民(コスモポリテース)だ」と答えるのをつねとしていました。この点でも二人には一般の人々のスケールを超越した共通項を持っていたといえるかもしれません。
  一方が「全世界の所有者」、一方が「何も持たないもの」、この対極的な両者の精神構造の間につながるものがあった、というのは、逸話としても、思考素材としても興味深いではありませんか。

 ところで、前章で掲げたソクラテスのライフスタイル上の特徴と、ディオゲネスのそれを比較してみましょう。
  ソクラテスは「1.神を敬い、正義を愛する良き市民(兵士)として生きる」をあげていました。ディオゲネスは彼なりに「神を敬い、正義を愛し」はしましたが、つねに逆説的、反社会的やり方によってでした。
  「2.友情を大切にし、友人に役立つ」。これに関してディオゲネスのやり方はあまりに手荒すぎて、友人は感謝するどころではなかったようです。しかしディオゲネスには熱心な弟子や追随者がいました。この点では彼がまったく友情を大切にしていなかったとはいえないでしょう。肝資なところでの人間関係は、さすがに「徳」の名において大切にしていたものと思われます。
  彼は「3.できるだけ質素に生活し、ありあわせのもので満足する」「4.逆境に耐えられる身体を作る」「5.理にかなっていれば、他人の評価を気にしない」「6.情念にふりまわされぬよう自制心を養い、徳を目指す」という点では、ソクラテスよりもはるかに徹底し、過激でした。こうして彼は常識的な価値観にゆさぶりをかけたのです。
  この意味では彼はソクラテスの忠実な孫弟子であり、忠実すぎる後継者でした。プラトンが彼を評して「狂えるソクラテス」と呼んだのもじつに的を射た表現だったのです。

 
   
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