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ストア賢者に学ぶ
 
第4章 ストア派の賢者たち

夫唱夫随の「犬」
  犬のディオゲネスが七〇歳の高齢となり、アテネの街をふらふら歩いていた頃、キプロス島でストア派の始祖ゼノンが生まれています。ディオゲネスが亡くなったとき、ゼノンはわずか一二歳でしたから、この二人は生前あい見えることはありませんでした。しかしこの二人を結ぶしっかりした線があります。それは「ソクラテス」の名であり、「キュニコス」の伝統です。そしてディオゲネスとゼノンとを結ぶ架け橋の人物として存在するのが、賢者クラテスです。
  クラテスはディオゲネスに共鳴し、その弟子となりました。彼は、「愛欲の情を抑えるものは飢えか、さもなければ時。しかしもし、これらのものも役に立たないのであれば、首吊りの索(なわ)」という詩句を残しています。
  師匠ディオゲネスも「理性か、首吊り用の縄か」といっていますから、同じようないいまわしが伝えられていることになります。ここでクラテスは「愛欲の情」、すなわちセックスの欲望を排除すべきものと考えているように見えます。ソクラテスは「節制」を説き、「欲望を締まりのない状態に置くよりは、控えめである方がセックスの喜びも大きい」といっていましたが、キュニコスの賢者たちは次第に「禁欲」の方向に傾斜していきました。

 ところで、クラテスは実際には妻帯していましたし、彼の奥さんもキュニコス派の哲学者の一人だったのですから驚きです。この二人は夫婦そろって限りなくホームレスに近い生活をしていたのです。
  クラテスの妻は、弟子仲間メトロクレスという人の妹ヒッパルキアといいました。彼女はクラテスにぞっこん惚れ、他にいい求婚者たちがたくさんいたのに、目もくれませんでした。相当変わった女性だったようですね。彼女は、「クラテスと結婚させてくれないなら自殺する」などといって両親を脅したものです。
  両親は、息子がディオゲネスにかぶれて「犬」のような生活を始めたので心痛でたまりませんでした。ところが、娘までが同じように汚らしい哲学者に惚れてしまったので、すっかり困りました。そこで両親は当のクラテスに相談し、娘によくいい聞かせて、結婚をあきらめさせてほしいと頼みました。
  クラテスは彼女にいろいろといって聞かせましたが、彼女はいうことを聞きません。そこでクラテスはいきなり立ち上がると素っ裸になりました。そしていいました。「ほら、これがあなたの花婿だ。そして財産はここにあるだけだ。さあ、これらのことをよく見て、心を決めなさい。それにまた、あなたが私と同じ仕事にたずさわらないかぎり、私の配偶者にはなれないだろうから」。

 目の前で男性がいきなり裸になったら、若い女性はたいていショックを受けるでしょうが、彼女は少しも驚きませんでした。彼女は即座にクラテスの妻になることを決心し、そのあとは同じようなぼろ服をまとい、頭陀袋を下げて夫と一緒に歩きまわりました。人前でも公然と夫と交わったといわれています。
  女性に惚れ込まれたクラテスはどのような人だったのでしょうか。彼はテーバイの町の名家の息子でした。あるとき芝居をみていて、人間の極限的な生活について悟るところがありました。彼は自分の持っていた土地や家屋を売り払って現金に換えると、これを市民に分配しました。彼はなまじ資産を持っていると、哲学を勉強したり実践することはできないと考え、自分自身に対して不退転の決意を示したわけです。
  彼がヒッパルキアに惚れられたところを見ると、さぞかしいい男だったかのように思われますが、顔つきは醜く、体の格好もあまりよくなかったようです。しかし彼は「精神の鍛練」同様、「身体の鍛練」にも強い執念を持ち、独自の工夫や体操を欠かしませんでした。この点ではクラテスは明らかにソクラテス、ディオゲネスの伝統を引き継いでいます。
  彼が体操をしていると、町の人々が彼を滑稽だといって笑いました。しかし彼は両手を大きく振り上げながら、自分にいって聞かせました。「さあ、元気を出すんだ、クラテスよ。体のためになるんだから。・・今におまえを笑っているあの連中が、病気のためにしなびきった体になって、おまえをうらやむ時が来るだろう」。
  これを見るとクラテスは町の人に笑われたことを多少は気にしていたようですね。同じキニュコス派の哲学者でも、一般人との違いを、ことさら際立たせようとしたディオゲネスよりもクラテスの方が穏和な感じがします。

 

経済センスを持っていたゼノン
  ゼノンはこのクラテスに弟子入りしました。ゼノンはフェニキアからの貨物を積んで航海していましたが、アテネの近くの港町ピレウスの近くで難破しました。彼はアテネの町までやってきて本屋の前に腰を下ろしました。彼はここで、私がこの本の第二章で取り上げた、クセノフォンの「ソクラテスの思い出」の立ち読みを始めました。そしてとても感激しました。
  ゼノンは店の主人に向かって、「ここに書かれているような人はどこにいるのですか」とたずねました。もちろんゼノンがいった「ここに書かれているような人」とは、ソクラテスのことを意味しています。すると店の主人は折りよく通りかかったクラテスを指差して、「あの人についていきなさい」といいました。そのときからゼノンはクラテスの弟子になったのです。

 上記の逸話からいろいろなことが分かります。まずこの時代にクセノポンの著書が書店で売られていたということ、したがって、これ以外の哲学書も店頭に並べられていたに違いないこと、店頭では少なくとも立ち読みぐらいはさせてくれたらしいことが分かります。
  またディオゲネス亡き後、クラテスを初めとするキュニコス派の哲学者が、一群の「学派」を形成していたらしいこと、クラテスが町の人々にソクラテスばりの賢者として認められていたらしいことも分かります。彼らは一般の人々には汚い浮浪者と見られ、軽蔑の対象となってはいましたが、もう一方では教養があり、思想を生活の上で実践している「生活哲学者」として認められていたということも分かります。
  こうしてゼノンはキニュコス派の門に入り、二〇年間もクラテスに師事したわけですが、彼は汚いワンパターンの格好で「犬」的な生活をすることには批判的でした。彼はもとは商人で、途中から哲学に転向した人ですから、基本的な経済センスを持っていたのです。
 
  彼は油入れの壷に穴のあいたふたを作って、中にお金を入れて持ち歩いていました。それは師のクラテスがお金が必要なときにすぐに用立てられるようにするためでした。彼はギリシャに来たときにたくさんの金を持っていて、これを貸し付けて運用していたともいわれています。
  また彼はある問答法を習うために、先生に要求された倍額の金額を支払ったという逸話や、「時間ほどわれわれに不足しているものはない」と語った逸話なども残されています。これらを総合すると、私はゼノンという人が金銭感覚にすぐれていたと判断します。彼が大金を持っていたかどうかは別として、お金を上手にやりくりしていたと考えていいのではないかと思います。
  ゼノンが晩年にマケドニアの王アンティゴノスに高く評価され、厚遇されたという記録が残っています。アレキサンダーが亡くなった後、地元マケドニアの主導権をアンティゴノス一世が掌握し、その後、孫に当たるアンティゴノス二世がマケドニアとギリシャを支配しました。

 ゼノンと交際があったのはこのアンティゴノス二世で、「王権とは名誉ある苦役である」という名言を残した人ですが、この表現の中に、ストア哲学者との交流の名残りを見る人もいます。彼はゼノンを気に入って、しばしば彼を尋ねたり、プレゼントをしたりしました。ゼノンの有力なスポンサーの一人だったと見ていいでしょう。
  あるとき、ゼノンに「あなたはアンティゴノス王に頼みたいことがある場合には、そのことを直接話すなり手紙に書くなりすれば、あの方はなにごとも聞き届けてくれるでしょうね」といった人がいました。ゼノンはこの言葉が気に入りませんでした。ゼノンはこの人とは二度と交際しようとしませんでした。
  事実アンティゴノス王は、ゼノンを宮殿に呼んで王室づきの教授として活動してもらいたいと考え、招聘しました。しかしゼノンは高齢を理由にこれを断り、代わりに自分の弟子の一人を派遣しました。ゼノンが死んだとき、アンティゴノス王は「何というすばらしい観客を余は失ったことか」と嘆きました。そして「あの人は余から数々の大きな贈り物を受け取ったけれども、決して高慢になることもなかったし、また卑屈な姿も見せなかった」といいました。

 このことからも、ゼノンが決して経済的に困りはしなかったことが分かります。しかし彼の実生活は質素で規則正しいものでした。彼は火を使わない食事を取り、薄い上着で一年中を通しました。彼の忍耐強さには定評がありました。また必要以外のことを口にせず、人との交際も控えめでした。たとえばアンティゴノス王が取り巻きを連れて彼のところへ遊びに来ても、いつのまにか彼だけ席から消えてしまう、という具合でした。
  ゼノンが生きていた当時、アテネでは親マケドニアと親エジプト派が抗争を繰り返していました。そこでエジプトから来た使節が、ゼノンをはじめとする哲学者たちを味方に引き入れようとして宴会を開いたこともあります。政治的な指導者から見れば、彼らは知識階級を代表するオピニオンリーダーとして価値を持っていたのでしょう。
  エジプト使節が主宰したパーティの席上でゼノンは何もしゃべりませんでした。どうして黙っているのかと聞かれて、ゼノンは「沈黙を守るすべを心得ているものが一人いることを王(エジプト王プトレマイオス)に伝えてもらいたい」と答えたといわれます。彼は「舌でつまずくよりも足でつまずく方がましだ」と語ったともいわれています。

 彼に捧げられた詩があります。「肌を刺す冬の寒さも、果てしなく降り続く大雨も、燃える太陽の輝きも、恐ろしい病気も、この人をへこたらせはしない。また大衆のお祭り騒ぎも、彼の心を捕らえはしない・・」。
  この詩を読むと、宮沢賢治の「雨ニモマケズ/風ニモマケズ/雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ/丈夫ナカラダヲモチ/慾ハナク/決シテ瞋ラズ/イツモシズカニワラッテイル・・」を思い出しますね。そして宮沢賢治が表現し、自分自身に課そうとしていたライフスタイルも、ストア賢者風のものに他ならないことに思い当たるではありませんか。 

 
 

社会環境によって思想も変質
  ではここでソクラテスの特長とゼノンの特徴を比較してみたいと思います。まず「1.神を敬い、正義を愛する良き市民(兵士)として生きる」という思想についてはどうでしょうか。かれはおそらく「神を敬い」という点については問題なかったでしょうが、「正義を愛するよき市民=兵士」に関しては難しいところでした。何しろ当時のアテネ人は被占領国の市民に過ぎなかったからです。彼らの発言や意見が社会的に影響を与えた可能性はありますが、彼らは社会からドロップアウトし、社会とは無縁に生きようとしていました。
  ストア哲学者であることは、修行僧のように、人々とは別な次元に自分の身を置くことを意味していたのです。しかし後で見るように彼はアテネ市民からは敬愛されていましたから、「よき市民」という点では合格かもしれません。

 ソクラテスの若い時代、ペリクレスが率いるアテネは全盛期にありました。だからソクラテスでなくても「1.神を敬い、正義を愛する良き市民(兵士)として生きる」ということには、胸を熱く沸き立たせるような説得力に満ちていました。
  しかしディオゲネスの時代になると、ギリシャ全土がアレキサンダー大王によって乗っ取られました。そしてゼノンの時代はアレキサンダー亡き後です。群雄割拠した各地のリーダーが、互いに覇を争って戦っていた時代です。アテネにはすでに政治的な主体性はなかったのです。
  「2.友情を大切にし、友人に役立つ」については、ゼノンの方がディオゲネスよりは穏和に見えます。彼は弟子を叱るときも、こっそり呼んで、人前では叱らないようにしていた、それもなるべく相手を傷つけないように配慮しながらいっていた、といわれます。
  「5.理にかなっていれば、他人の評価を気にしない」という点に関して、ディオゲネスが反逆的、挑戦的であったのに対して、ゼノンの方がはるかに調和的であったように見えます。ディオゲネスはアレキサンダー大王を傍若無人ぶりで驚かせましたが、ゼノンはアンティゴノス王からの挨拶や贈り物を受け、しかるべく応対し、手紙をもらうと、これに丁寧に書簡を送ったり、弟子を派遣したりするなど、きちんと相手のメンツを立てていました。
  ただし、彼は自分の方から権力者にすりよったり、ものを頼んだりすることはありませんでした。また相手から贈り物をされて恐れ入ることもありませんでした。ディオゲネスはプラトンから余分に贈り物をされて、文句をつけ、「絶対に感謝なんかしないぞ!」といって力みましたがゼノンの場合は、物をもらおうともらうまいと相手に対する態度を変えないというスタイルを貫きました。

 この謹厳実直なゼノンが、人並みに人を好きになったことがあります。相手はクレモニデスという美しい少年です。ゼノンはクレアンテスという別な哲学者とクレモニデスと三人で座っていましたが、突然すっくと立ちあがり、座を去りかけました。クレアンテスが「一体どうしたんだ?」と聞くとゼノンは答えました。
  「私が立派な医者たちから聞いているとこによると、炎症に対する一番の良薬は、そっとしておくことだそうだ」。
  彼はクレモニデスのそばにいると、恋心がつのり、ついあらぬことをいったり、したりしてしまいそうになる、つまり「心が炎症を起こす」と考えたのですね。好きな人のそばに少しでも長くいたいというのは、誰しも共通の心理ですが、ゼノンは自分自身にこれを戒めました。この意味でゼノンの人との交際のあり方は、「君子の交わりは水のごとく淡し」の精神に近かったといえるでしょう。

 
 

「市民の月桂冠」を授与される
  「3.できるだけ質素に生活し、ありあわせのもので満足する」という点については、ゼノンはソクラテスの忠実な弟子であるように見えます。ディオゲネスは最初から「絶対的な貧乏」を立脚点にし、自分も金を持たず、彼は弟子たちにも持っている資産を捨てさせました。クラテスはなまじ資産を持っていると修行の妨げになると考え、資産を人にやってしまいました。
  ゼノンはおそらく多少の財産を持っていたに違いありません。またアンティゴノスからの贈り物があったとき、これをあえて拒まなかったものと考えられます。この点では経済を考え、収入を確保しながらも、その消費を極限までつつましやかにし、FM比率を「経済的な豊かさ」の基準としたソクラテスに近いものがあったものと思われます。
  このような人を世間では「けち」といいます。おそらくソクラテスもゼノンも自分に関する費用の支出という面ではけちに徹していたのです。これは手もとにものがあっても節制する省資源的な生活態度ですから、「ないものは使いようがない」というディオゲネス的な暮らしにくらべて一層困難であるといえます。酒やたばこを目の前に置きながら、平然として禁酒禁煙を実行するようなものです。

 アランは「人間論」の中で「いかに偉大な賢者でも、日に三度は食卓につく。そして、他から食物を持ってきてもらわなければ、彼とてすぐさまドブネズミのように、なにもかもわすれて食物をさがしまわらねばなるまい。かかるがゆえに賢者はたくわえあることをのぞみ、欠乏をおそれる」といいました。おそらくゼノンは、アランがここで指摘しているような意味で、欠乏の恐ろしさを知り、その上で理念としての節制を実行できた賢者だったのでしょう。
  「4.逆境に耐えられる身体を作る」「6.情念にふりまわされぬよう自制心を養い、徳を目指す」については、ゼノンは先輩に勝るとも劣らぬ努力をし続け、立派であったと思われます。アテネ市は彼の業績を称えて表彰しましたが、その決議文にはこう書かれています。
  「ムナセアスの子でキティオンの人なるゼノンは、この国で多年にわたって哲学の研究にたずさわり、他のすべての点においてすぐれた人物でありつづけたが、特に、彼のもとに教えを乞うべくやって来た若者たちを徳と節制とに誘い、彼らを最善なるものに向かうように促した。また彼個人の生活は、彼が語りかけていた言説と一致しており、万人に模範となるものを提示していたのである」「それゆえ民会は、神の御加護をえて、次のごとく決議したのである。すなわちムナセアスの子、キティオンの人ゼノンに賛辞を呈すること。そして彼の徳と節制のゆえに、法律の定めるところに従って、彼に黄金の冠を授けること。また彼のために、ケラメイコスの地に国費でもって墓を作ること・・」。

 アランは「幸福論」の中で次のようにいっています。「私は・・幸福になろうと決意した人々に対する褒美として、市民の月桂冠といったものを提唱したい(白井健三郎訳)」。別の翻訳では、「だからわれわれは・・いわば人生を浄化してくれた人たちには感謝の念とオリンピックのメダルとをささげねばならない(神谷幹夫訳)」となっています。
  アランのこの提案は、おそらくゼノンの例を下敷きにしているのでしょう。そう思って読むととても分かりやすくなります。ゼノンはまさにアランがいうような、「市民の月桂冠」を受けた賢者だったわけです。

 
 

筋骨たくましい賢者クレアンテス
  ストア主義の伝統はゼノンが亡くなった後も、その弟子たちによって守られました。何人かいた弟子の中で、ゼノン亡き後ストア派を継いだのはクレアンテスという人です。この人はもとはプロのボクサーでした。彼はほとんど無一文でアテネにやってきて、ゼノンの門下生となり、熱心に哲学を学びました。
  クレアンテスは体格がよく、この体格を生かして労苦を惜しまずに仕事をしました。彼は日中ゼノンのもとで勉強し、夜になると庭園で水汲みのアルバイトをしました。あるとき、彼は裁判所に呼び出されました。「君はそれほどのいい体をしているのに、どうやって暮らしを立てているのかね」と聞かれたのです。

 おそらく誰かが裁判所に、「あの男は、あんなに立派な体格をして日中は哲学などをやっている。夜になると追い剥ぎでもしているのではないか」というタレコミをしたに違いありません。そこで裁判所はクレアンテスを呼び出して尋問したわけです。このように、彼は人目につくほどの立派な体格をしていました。
  クレアンテスは嫌疑を晴らすために、自分が水汲みをしている庭園の管理人と、粉屋の女主人を証人として裁判所に連れてきました。証人たちに「この人はたしかに水汲みの仕事をしています」といってもらい、やっと無罪放免になりました。
  裁判所は真相が分かり、クレアンテスがまじめな学生で、苦学しているのを知って今度は感心してしまいました。「なかなか感心な若者だ。報奨金を与えよう」ということになりました。体格がいいといって、証拠もなしにいきなりしょっ引いてきてきたかと思うと、今度は報奨金を出すというのですから、裁判所もずいぶん振幅がはげしかったようです。しかし師匠のゼノンがクレアンテスに「そのようなものを受け取ってはならぬ」といいましたので、彼は師のいいつけを守りました。

 彼の肉体についてはまだ逸話があります。クレアンテスが何人かの若者と見世物を見にいったとき、風が吹いて彼のまとっていた貫頭衣が大きくめくれあがりました。ちょうど、マリリンモンローのスカートがめくれあがる、あれと同じ現象が起こったのです。
  すると下着も何もつけていない彼の裸が丸見えになりました。彼の立派な体格を見た人々は思わずその場で拍手喝采しました。彼の筋骨隆々たる肉体、それにおそらくは立派な持ち物が、肉体美を愛するアテネの人々を喜ばせたのでしょう。
  彼の師ゼノンとの交際を望んだマケドニアのアンティゴノス王は、弟子に当たるクレアンテスの講義も聴く機会がありました。アンティゴノス王は彼に質問していいました。「どうしてあなたのような哲学者が水汲みをしているのだね」。クレアンテスはいいました。「私はただ水汲みをしているだけでしょうか。どうです? 土も掘っているのではありませんか。どうでしょう?そして庭に水をまくのも、その他すべてのことも、これひとえに哲学のためにしていることではないでしょうか」。

 
 

持っている人々が欠乏している
  彼にとって人生のすべての時間が哲学の機会であり、とくに肉体的な労苦を伴う仕事は心身を鍛えるすばらしい機会でした。おまけにそれは賃金という結構なものをもたらすのです。彼はアルバイトした金を師匠のゼノンに差し出し、師匠を助けました。
  クレアンテスは金銭という点でしっかりと地に足をつけていた人でした。彼は自分が稼いだ小銭を弟子仲間に見せながらいいました。「クレアンテスは、もし望むなら、もう一人のクレアンテスを養うことだってできるだろう。それなのに、自分を養うのに足りる資産を持っている人たちが、まだその上に、他人からまでも生活の資を手に入れようとしているのだ。ちゃんと哲学の勉強をできる身分でありながらだよ」。
  このアフォリズムは、現代の私たちの社会にもそのまま適用できます。すなわち、私たち一人一人はつつましくやっているなら、何とかやっていくことができます。生活に不足して「ああ、お金が欲しい」と嘆いている人もいるかもしれませんが、実際にお金を欲しがっているのは、すでにお金を持っている人たちである可能性があります。

 必要な生活をする以上に、つまり贅沢をするためにお金が必要であり、必要以上に稼ぐためにお金が必要であり、そのために欠乏を感じ、他人から盗んだり、賄賂を受けとったり、搾取するということがありはしないでしょうか。
  クレアンテスは、自分の体力という資源を生かしてわずかの収入を得ながら、「余分に持っている人こそが欠乏している」ということを発見しました。彼の考えでは彼らに欠乏しているものは「金銭」であり、ついで「精神」です。何しろ彼らはありあまる時間ゆとりを持ちながら、哲学の勉強をしようとしないのですから。
  クレアンテスは体格は立派でしたが、学問的な才能に乏しく、物事の理解という面では、にぶいところがあったといわれます。おそらくは他の秀才たちに立ちまじれば、知識や、記憶力や、複雑な論理の追跡といった面で彼が仲間よりも劣っていたことはあったかもしれません。
  しかし残されている逸話から見るかぎりは、クレアンテスは立派なストア哲学者であることが分かります。たとえば、彼は仲間から「ロバ」と呼ばれて馬鹿にされました。けれど彼は「自分だけが師匠の荷物を運ぶことができる」といい返しました。
  つまり彼はロバのように体力がある、だからこそ師匠の役に立つことができるといったわけです。ここには師の恩を知らぬ、小才ばしった弟子仲間に対する痛烈な批判が込められています。これは決して愚かな答えではありません。

 またあるとき、クレアンテスはある若者にあれこれ説明して、「君は分かっているかね」と質問しました。若者は「分かっています」と答えました。するとクレアンテスはため息を吐いていいました。「それならなぜ、このぼくは、君が分かっているのだということが分からないのだろうか」。
  これも相手に対するきびしい批判であり、機知に富んだ応酬です。彼は自分が他人から「もの分かりが悪い」といわれていることを承知の上で、これを逆手にとって、相手の理解力が本当は不十分なのだ、といっているのです。クレアンテスの渋い知性が光っているではありませんか。
  彼は自分にきびしい人で、自分で自分を叱りつけることもたびたびでした。弟子のアリストンがクレアンテスの叱り声を耳にして、「どなたを叱っているのですか」と聞くと、クレアンテスは笑いながら、「髪が白くなっているのに、分別を欠いている老人をだよ」と答えたものです。
  ストア派の創始者ゼノンは複数の弟子の中から、秀才型の人間をではなく、どちらかというと鈍重に見える努力型の男、力持ちで自分にきびしいクレアンテスを選び、自分の後継者に指名しました。ゼノンの選球眼は確かでした。クレアンテスはその人柄で弟子たちを引きつけ、次代の後継者へとストア派の学問を結びつけることができたからです。

 
 

老婆に聞かせるだけで満足したクリシュッポス
  ストア派三代目の祖となったのは、クリシュッポスという人です。彼はクレアンテスに師事しましたが、あまりに才気にあふれ、しばしばクレアンテスと衝突しました。彼はクレアンテスに向かって、「先生からは諸学説が何であるかを教えてもらえば結構です。証明は自分で見つけますから」などと生意気なことをいいました。もっともその彼も、クレアンテスに楯突いたことを後悔はしていたのです。
  ある問答家が師匠のクレアンテスのところへやってきて議論を挑みました。さかんに詭弁を弄して先生を困らせていたとき、クリシュッポスはその男の肩をつついていいました。「この老いた人の心を重要な問題からそらすのは止めて欲しい。そういった屁理屈は、われわれ若いものに提出したほうがいいね」。
  日ごろ師匠には楯突く若い秀才も、師匠の真の価値を知っており、また議論を議論として展開するなら自分の方が得意だ、ということを承知していたようですね

 クリシュッポスはもとは財産家の息子でした。しかし政変のために父親から譲りうけた財産を没収されてしまいました。そこで彼は哲学の道に入ったといわれています。ですから、この人も結局は貧乏でした。彼はどちらかというと学級肌の人で、彼の著作の数は七五〇巻以上にも達したといわれています。
  彼はこれを、住み込みの召使いの老婆に読んで聞かせるだけ満足していたといいます。召使いの老婆といえば、穴に落ち込んだタレスを批判した老婆のことが思い出されます。クリシュッポスもかつてのタレスと同じように、毎日知的好奇心にかきたてられながら、なりふりかまわず仕事に打ち込んでいたのでしょう。
  伝記作家のディオゲネス・ラエルテスはクリシュッポスのプロフィルについて詳しいことを伝えてくれていませんが、今日ではすっかり失われてしまった彼の著作が、その後二〜三〇〇年は残っていたらしく、後にご紹介するエピクテトスが、彼の名前を盛んに出して引用しています。いずれにしてもクリシュッポスは、ストア哲学を受け継ぎ、彼流に発展させて業績を残した賢者の一人でした。
  おそらくクレアンテスもクリシュッポスも、ソクラテス以来の伝統である「3.できるだけ質素に生活し、ありあわせのもので満足する」「4.逆境に耐えられる身体を作る」「5.理にかなっていれば、他人の評価を気にしない」「6.情念にふりまわされぬよう自制心を養い、徳を目指す」という点では、立派な生きざまを貫いたわけです。

 
   
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