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ストア賢者に学ぶ
 
第5章 ピュロンとエピクロス

舌禍の人アナクサルコス
  哲学者ピュロンはペロポネソス半島の西北側にあるエリスという町に生まれました。ここは古代オリンピックの開催地オリンピアのあるところです。エリスはオリンピック主宰都市として、古くから特別の権益を持った国家でした。ピュロンはもとは絵描だったそうですが、何か感じるところがあったらしく哲学の道に進みました。
  いいつたえによると、オリンピアには彼の描いた松明競争の絵がかけられていたそうです。彼はまずアナクサルコスの弟子になり、師匠と行動をともにしましたが、師匠がアレキサンダー大王の遠征に随行しましたので、一緒についていきました。
  ところで、師匠のアナクサルコスという人がなかなか過激な思想家でした。彼は傍若無人にいいたいことをいい、人に怨まれました。アナクサルコスはキプロスの僭主であるニコクレオンという人物を嫌っていました。アレキサンダー大王がある宴席でアナクサルコスに向かって「このご馳走をどう思うかね」と聞きました。その席にはニコクレオンも同席していました。
  アナクサルコスはよせばいいのに「王様、何もかも大変豪勢ですが、いま一つ、さる太守の頭がこの食卓に並べて置かれるべきでしたね」といいました。いうまでもなく「さる太守」とは、ニコクレオンのことです。アレキサンダー大王は、征服した相手国の王を許し、戦後も引き続き統治させるという寛大な処置を取っていました。

 プルタルコスの「英雄伝」によると地中海沿岸を占領しようとしたアレキサンダー大王に、キプロスとテュロスを除く地方の王がその領地を引き渡したとあります。「英雄伝」にはアレキサンダーが苦労してテュロスを戦い闘いことが記されています。おそらくニコクレオンもアレキサンダーと戦って負け、その後王に統治を許可されたリーダーの一人だったのでしょう。
  アナクサルコスが「さる太守の首」といったのは、「こんなたちの悪い領主に統治を続けさせる必要はありませんよ」という意味でした。その席にはアレキサンダー大王がいましたから、ニコクレオンは黙っていました。けれどこの彼はこの発言にいたく傷つき、深くアナクサルコスを怨むことになりました。
  皮肉なことに、しばらくするとアナクサルコスは、難破してキプロス島に上陸しなければならなくなりました。ニコクレオンは好機到来とばかり彼をとらえ、石臼の中に投げ込みました。そして部下に「こやつを鉄の杵でつき砕け」と命じました。このときアナクサルコスは平然としていい返しました。「アナクサルコスの袋をつき砕くがいい。だが、アナクサルコスはつき砕かれはしないさ」。
  これを聞いてますます興奮したニコクレオンは、「へらず口を叩くあいつの舌を切り取ってしまえ」といいますと、アナクサルコスは自分で自分の舌を噛み切って、それをニコクレオンに向かって吐きかけたということです。歯にきぬを着せず、思ったことをずばずばいう、自分の身の安全などいささかも気にしないというストア的哲学者の、ある種の側面を伝えていますね。
  それに恨みからとはいえ、アナクサルコスをこのように残酷に処刑したニコクレオンという人は、たしかにアナクサルコスが前もって見抜き、アレキサンダー大王に進言したように、生かしておく値打ちのないリーダーだったかもしれませんね。

 

ピュロン、インドの裸行者にショックを受ける
  前置きが長くなりましたが、ピュロンはこのようなはげしい師について勉強した若者でした。アランは彼の書物の中で幾度もピュロンに触れています。
  「語られるところによれば、ピロンは手ひどい傷をおったが、、病院の床ではなかなかの勇気をみせたという。ご承知のとおり帰国したときには、、彼はこの世のなにものをも信ぜず、もはや車や噛み犬ににも用心せぬほどになっていた。そして、この知識から、こんにちなお彼の名をいただく否定的な一体系を作り上げた」。
  「彼の名をいただく一体系」とは、「ピュロニズム」、あるいは「懐疑派」のことです。ピュロンは結局、「何ひとつ美しいものもなければ、醜いものもない。正しいものもなければ、不正なものもない」「あらゆる事柄について、真実にそうであるものは何もない」という徹底した不信と懐疑を信条とするようになりました。

 アランはピュロンがインドの裸行者を見て影響を受けたと考えました。アレキサンダーの軍隊一行がインドに攻め入ったとき、何人かのヨガ行者たちがギリシャ兵士たちを驚かせました。まず彼らは軍隊を少しも恐れず、平然としていました。ハエが何匹か増えたぐらいにしか反応しなかったというのです。
  「つたえられるところでは、この超然たる人たちのひとりは、軍隊の目の前で生身のままのわが身を焼いたという。あきらめでもって身を武装しつつ、しかも、これが苦でなかったわけではない一兵士(ピロン)が、こうしたはだか行者たちから学ぶところあったことは明らかである。ピロンは、意見を持たぬことこそ彼らの秘訣であることを発見した」。
  私たちが苦しんだり、悩んだりするのは、「・・の方がいい」とか「・・であるべきだ」という考えを持っているからです。つまり価値観を持っているということが不幸や苦痛のたねになります。現実の世界では思い通りになるということはめったにありませんからね。

 ピュロンは、「異国の軍隊を恐れないインドの行者たちは、守るべき価値観など持っていないのだ。生命や財産が大切だ、という考えすら持っていないのだ」と気づきました。そして人はいっさいの価値観を捨てれば魂の救済を得られる、という結論に達したのです。
  彼はこの考え方を自分の生活に適用することにしました。彼にとっては「あれよりもこれがいい」ということはありません。既成の価値観に縛られないのではなく、価値観そのものを持たないのです。だから道を歩いていても、彼にとって「危険なもの」「身をよけたほうがいいもの」などありません。彼はすべてのものに無関心、あるいは無関心であろうとします。彼はいつも自分自身と対話をし続けました。
  彼の先生アナクサルコスと道を歩いているとき、どういうわけか先生が沼に落ちてしまいました。先生は「おーい、助けてくれ!」と叫びましたが、ピュロンはすたすた通り過ぎてしまいました。あとになって「いくらなんでもひどいじゃないか」といってピュロンをとがめた人がいましたが、アナクサルコスは「いや、ああでなくてはいかん」といって、ピュロンの徹底した無頓着ぶりをほめたといいます。
  ピュロンが幾人かの人と航海をしているとき、嵐がやってきて船は今にも転覆しそうになりました。乗客はうろたえましたが、ピュロンは平静でした。彼は船の中で無心に餌を食べ続けている子豚を指さしながら乗客にいいました。「ごらんなさい、私たちもあの子豚の平静さを見習うべきです」。要するにピュロンの生活態度は、日ごろどんなことにも心を動かされないという絶対的な平静さを保つことになります。

 
 

真理など存在しない
  ピュロンは、何かを明確に規定しなければならないような一つの命題が存在するとき、必ずそれと対立するような、別な命題が存在すると考えました。
  たとえば彼が上げたのは次のような例です。神の問題について、神の摂理を信じている人もいれば、信じていない人もいます。死者を葬るに当たってエジプト人はミイラを作りますが、ローマ人は火葬にします。パイオニア人は死者を湖に投げ込みます。だから、これが真実というようなものはありません。
  たとえば太陽は、昇り始めるときと中空にあるときでは別のサイズに見えます。同じ物体でも森の中にあるときと、木一つない土地にあるときとでは、異なったものに見えます。また肖像画はどう置かれているかによって、あるいはハトの首は、その傾け方によって異なったものに見えます。だから何々の形はこうだ、などといえないことになります。
  ぶどう酒は適度に摂取されるなら体力を増進しますが、多く飲みすぎると、体力を減耗させます。また同じぶどう酒の味も普段と熱のあるときとでは違った味に感じられます。ものの色や暑さ、寒さなどの感覚に関してもこれが一定=真実などということはありません。

 したがって、「ぶどう酒は健康にいい」とか「ぶどう酒は健康に悪い」とはいえません。「何々は何々である」というような定義はすべきではなく、真実についての判断はいったん留保しておくのが賢明ということになります。彼はどちらかが「真である」と規定することをやめ、「判断を留保する」「判断を停止する」という観念上の操作を行なうことを主張したのです。
  この「判断停止(エポケー)」という哲学上の概念は、近年の現象学理論の中で復活し、重要な位置を占めるようになりました。現象学では、純粋な意識の領域を取り出すために、主観や思い込みを含む自然的な態度をいったんカッコに入れます。この操作を「エポケー」といいます。
  ピュロンの思想は「懐疑派」と名づけられ、幾人かの継承者を残しました。しかし私はこのピュロンの中に、ストア的な要素がかなり誇張された形で表現されていると考えます。

 もちろん彼の場合、「1.神を敬い、正義を愛する良き市民(兵士)として生きる」という命題に関してはあまり意味がありません。なぜなら、そもそも「神がいるかいないか」「神は果たして敬うべきものか」「正義は存在するのか」「よき市民とは何か」など、彼にかかるとすべてエポケーの対象としなければならないからです。
  「2.友情を大切にし、友人に役立つ」という点に関しても、彼の生き方からするとあまり該当しそうに思えません。しかし彼には熱心な信奉者がいましたし、彼のあまりに不用心な、無頓着な生活を見るに見かねて助けて、世話をしてくれる弟子たちがいたようですから、人間的にまったく孤立していたようではありませんね。
  「3.できるだけ質素に生活し、ありあわせのもので満足する」という点に関しては、彼は十分その条件を満たしていたものと思われます。彼にとっては「おいしいもの」「いいもの」などというものはないのですから、何でもいいわけです。
  「4.逆境に耐えられる身体を作る」に関しては、彼はこうしたライフスタイルを貫きながら九〇歳まで生きたといわれていますから、十分といえるでしょう。アランも紹介しているように彼は戦争で負傷したことがありますが、手術を受けている間、顔をしかめることもしなかったといいます。
  そして「5.理にかなっていれば、他人の評価を気にしない」という点では、ピュロンこそはもっとも徹底した人でした。ちなみに皮肉屋のディオゲネスの場合、世人がしているのと反証を示すことによって「通念」や「思い込み」の過ちを指摘しました。だからディオゲネスには「何が真実か」「あるべき姿は何か」についての価値観がありました。しかしピュロンの場合、ディオゲネスのような、反証としてあげるべき価値観はない、という前提で臨みます。他人の評価を気にしないどころか、そもそも、他人の評価の根拠となる価値観を認めていないのですから徹底しています。
  「6.情念にふりまわされぬよう自制心を養う」という点ではピュロンはおそらくチャンピオン級の哲学者でしょう。しかし「徳を目指す」という点ではどうでしょうか。ピュロンはそもそも「徳」という概念を認めていたのでしょうか。もし認めていたとしたら彼の理論はここで矛盾をきたすことになります。

 結論的にいえば、彼は「通念的な徳」に関して、他の価値観同様エポケーを行なったものと見られます。しかし彼が生涯を通して実践しようとした「心の平生さを保つ」は、明らかに彼のめざした徳の一部であるように思われます。彼が「判断停止」をしてまで価値観を留保しようとした努力も、真実探求の情熱の別な表現であるように思われます。
  理屈をいえばきりがありませんが、絶対的な「懐疑」や「価値の保留」、あるいは「規定しないこと」は成立しないと私は考えます。一つの態度を持とうとすれば、それ自身が価値観になってしまうからです。
  しかし私たちはピュロンを教科書的に懐疑主義者の列に置くのではなく、あくまでも自己を支配しようとした、あのストア賢者の一人として評価すべきではないかと思います。何かというとすぐに音を上げ、つまらないことに執着し、動揺し、恐れる私たちは、ピュロンの思想と生きざまに教えられるところが多いのではないでしょうか。

 
 

原子論から「快楽」を説くエピクロス
  ストア学派の祖、ゼノンが活躍していた同じ頃、もう一人の注目すべき思想家が、独自の思想の領域と生活の領域を作り上げていました。その人の名はエピクロス。エピクロスという名は、むしろ「快楽主義」というタイトルに結びつけられていますので、ストアの賢者の系列で論じるのは「とんでもない」という人がいるかもしれません。しかし私はあえてエピクロスのストア的な賢者としてのプロフィルを検証してみたいと思います。

 アランは「エピキュリズムはしばしば不当にも最も低いエゴイズムと同一視されるが、それは迷信、錯覚、要するにすべての情念の狂乱を癒すことを目的とする意志的な唯物論である」といいました。エピクロスの名にちなむ「エピキュリアン」という言葉は、今日では「快楽主義者」という意味を持っています。これは自分の欲望に歯止めをかけないで快楽を追究する人々を想像させますから、ストア的なものの反対ということになります。
  しかしアランはそのような解釈は「不当だ」といっています。そして「エピキュリズムは・・情念の狂乱を癒すことを目的とする意志的な唯物論である」といっています。これは一体どういうことでしょうか。
  エピクロスが生まれたのは紀元前341年、サモス島です。サモス島は小アジアミレトスの対岸にある小さな島で、この地域からはたくさんの有名なタレントが排出しました。ちなみにタレスはミレトスの人でしたし、イソップもサモス島で活躍しました。この地域はギリシャの植民地として発達し、早くから文化的な先進地域として知られていました。この地方では最初の科学思想が生まれて発達したことが知られています。
  しかしこの地方もエピクロスの時代になると、すでにペロポネソス戦争をはじめとする戦争や地域抗争の後遺症がはなはだしく、かつての文化的な繁栄は見る影もなくなっていました。エピクロスの父はこの島に駐屯兵として送り込まれてきた無産兵士の一人でした。父はこの島で貧乏教師として生計を立て、母は怪しげなお払いをする祈祷師であったといわれています。エピクロスは母と一緒に祈祷を唱えながら他人の門口に立ちました。

 エピクロスは父について学問を学び、次いで他の先生にもつきました。先生があるとき、ヘシオドスの、有名な「神統記」の一節、「世界の最初、カオス(混沌)があった」という文章を紹介しました。エピクロスはすかさず「では、カオスの前には何があったのですか」と質問して先生を困らせました。
  彼はこのとき、「原因なしに結果はあり得ない」という基本的な命題を用いて宇宙の開闢原因を質問したわけで、この質問に対する答えは、2300年たった今日でも得られていません。このときにエピクロスに質問された先生も答えに窮して、「それを考えるのは哲学者の仕事だ」といいました。エピクロスは「それなら哲学者のところへ行こう」と考えました。こうしてエピクロスは哲学の道に入りました。

 彼は単身アテネに出ましたが、当時アレキサンダー大王が亡くなった直後で、世上は大きく混乱していました。この混乱期を横目で見ながら、エピクロスは各地を移動し、いろいろな先生について哲学を学びました。そうした先生の一人にデモクリトスの原子論の流れを汲むナウシパネスがいます。ナウシパネスのもとでエピクロスは、原子論に立脚した唯物論的な思想を学んだといわれています。
  ナウシパネスは物質の最少単位は「原子である」と考え、原子は固有の重さを持ち、そのために原子は自己運動をするものであると考えました。彼は原子が落下の途中でまったく定まらないとき、偶然にわずかに方向が偏るのだと主張しました。彼は原子の運動は目に見えるどんな事物の運動よりも速いと考えました。このイメージは、今日の原子における陽子や電子の動きを先取りするもので、現代物理学に通じるものがあります。

 
 

思慮と節制こそ「快楽」への道
  エピクロスはアテネの郊外の一角に小さな土地を買い、ここを道場として哲学の教室を開きました。小さな庭付きの「庭園学園」です。彼はここに弟子たちを集め、共同生活をしながら、生活それ自身が勉強であり、修行といえるライフスタイルを確立しました。この「庭園学園」の費用は、弟子たちの資金拠出によってまかなわれました。
  この「庭園学園」は今日でいえば、新興宗教の教祖を中心とする共同生活に似たものがあります。そこで、エピクロスは通常の弟子だけでなく、勉強の仲間として女性や奴隷身分のものもわけへだてなく加えました。 
  なにしろエピクロスは「人間は快楽を追究すべきだ」と主張していましたから、彼の学園は外部の人々からはいろいろあらぬうわさを立てられることになりました。「あの隔離された空間の中で、無軌道で不道徳な快楽追究が行われているのではないか」などと誤解されたこともあったようです。

 彼が快楽主義者と評されることになった大きな原因は、彼が「快とは祝福ある生のはじめであり、終わりである」「われわれは快を、第一の生まれながらの善と認める」「快を出発点としわれわれは、すべての選択と忌避を始め、この感情を基準としてすべての善を判断することによって、快へと立ちかえるべきだ」などとはっきり主張したからです。
  これを聞くといかにもエピクロスが現世の快楽を肯定し、食欲や性欲などの欲求を自由に肯定しているように聞こえるかもしれません。ここから快楽肯定主義者、快楽追究主義者という意味で、彼の名を取った「エピキュリアン」という言葉が生まれもしたのです。
  しかし彼が本当に主張したのは、節制に裏づけられた、賢明で、穏和な幸福感であり、「自己充足こそ人生の目的である」というコンセプトでした。誰しも分かるように、食欲の快楽を野放図に満足させようとすれば、偏食による栄養失調、肥満、コレステロールによる障害、などさまざまの副作用が生じます。いつも快適で幸福であるためには、バランスの取れた食事をすることが必要になります。

 エピクロスはこの点、「快は第一の生まれながらの善であるがゆえに、まさにこのゆえに、われわれは、どんな快でもかまわずに選ぶのではなく、かえってしばしばその快からもっと多くのいやなことがわれわれに結果するときには、多くの快は、見送って顧みないのである」とはっきりいっています。
  また彼は次のようにいいました。「ぜいたくをもっとも必要としない人こそがもっとも快くぜいたくを楽しむ」「パンと水も、欠乏している人がそれを口にすれば、最上の快をその人に与える」「それゆえ、ぜいたくでない簡素な食事に慣れることは、健康を十全なものとするゆえんである」。これはかつてソクラテスがいった言葉そのものではありませんか。
  彼は見かけ上の、刹那的な、感覚的な快楽ではなく、長続きする「真の快楽」のことをいっていたのです。「それゆえ、快が目的である、とわれわれが言うとき、われわれの意味する快は、――一部の人が、われわれの主張に無知であったり、賛同しなかったり、あるいは、誤解したりして考えているのとはちがって、――道楽者の快でもなければ、性的な享楽のうちに存する快でもなく、じっさいに、肉体において苦しみのないことと霊魂において乱されないこととに他ならない」。これでお分かりのように、エピクロスの快楽とは、精神と肉体の安定と平生にほかなりません。

 アランは先ほど「エピキュリズムはしばしば不当にも最も低いエゴイズムと同一視されるが」といいましたが、これでこのコメントの意味が分かりましたね。通俗的な意味での「エピキュリズム」という言葉それ自身が誤解にもとづいているのです。
  では、どうしたら精神と肉体の平生さを得られるのでしょうか。エピクロスは「思慮こそが大切だ」といいました。彼はこの「思慮」の大切さは単に多くの知識を持つことにまさるといいました。「ところで、これらすべての始源であり、しかも最大の善であるのは、思慮である。このゆえに思慮は知恵の愛求よりもなお尊いのである」。
  彼は知識を求めて学問をするのもいいけれども、それ以上に「何が大切か」を自分なりにしっかり考えることが重要だと説きました。そして自分の心身の平和と幸福に寄与しない思考なら、ものを考えたことにならないといったのです。

 彼はこの世は物質で成立っており、私たちが「精神」と呼ぶものさえ物質によって成り立っていると説明しました。そして物質はすべて原子に還元されるのです。こうした原子論を踏まえて彼は「死後の裁きなど存在しない」、「だから迷信にとらわれるな」と忠告しました。
  それに「よく考えてみたまえ」、とエピロスはいいます。「われわれが存するかぎり、死は現に存在せず、死が現に存在するときには、もはやわれわれは存しない」。この認識は通常の現代人のものの考え方にとても近いものがありますね。当時の彼がどの程度進歩的な思想家であったかがお分かりでしょう。
  さて、アランはエピキュリズムに関連して「・・それは迷信、錯覚、要するにすべての情念の狂乱を癒すことを目的とする意志的な唯物論である」といいましたが、このコメントの意味も明らかになりましたね。すなわち、エピクロスは原子論という科学的な仮説の上に立って、迷信を否定し、迷信や錯覚から生じるような情念にまどわされてはいけない、といったのです。アランはこれを「意志的な唯物論」と表現しましたが、じつに適切です。 

 さて、エピクロスは友情を重んじ、弟子たちを愛しました。彼が友人たちに出した心の込もった手紙は有名です。彼は「わたしはただ水とひとかけらのパンだけで満足する」と書き、「チーズを小壷に入れて送ってくれたまえ、したいと思えば、豪遊することもできようから」と書きました。彼は長年尿道結石を病んでいましたが、この病気が彼の心の平生を妨げることはありませんでした。
  彼の遺言となった手紙は次のようなものです。「生涯のこの祝福された日に、そして同時にその終わりとなる日に、私は君にこの手紙を書く。尿道や腹の病はやはり重くて、激しさの度は減じないが、それにもかかわらず、君とかわしたこれまでの対話の思いでで、霊魂の喜びに満ちている。君は、子供のころから、わたしと哲学とに献身してきたが、どうかその君にふさわしく、メトロドロスの子供たちの面倒をみてくれるように」。

 
 

ソクラテスとの類似と相違
  ではここでソクラテスの基準に従って、エピクロスのライフスタイルのあり方を検討してみましょう。私たちが抽出したソクラテスの暮らし方の特徴の第一番目は「1.神を敬い、正義を愛する良き市民(兵士)として生きる」でした。
  エピクロスは唯物論者ではありましたが、無神論者ではありませんでした。彼は徳の基準としての神の存在を認め、彼なりに敬神的にふるまっていました。しかし彼が「良き市民」であったかどうかになると、ちょっと首をかしげます。彼らの「庭園学園」は、いうなれば俗世から切り離された別社会でした。彼は「隠れて生きよ」とまでいっています。
  エピクロスの時代、すでにアテネの主権はなく、民主主義は放棄され、力にものをいわせて領土を取り合う弱肉強食の世界が繰広げられていました。この時代にあって、「良き市民」であるということは昔日の夢でしかありませんでした。
  エピクロス自身の生い立ちや性格も反映していたかもしれませんが、それ以上に彼の生きざまには時代の流れが影響を与えていました。徳を求め、幸福を求めるならおそらく「隠れて生きよ」が一つの正解だったのです。

 ソクラテスの特徴「2.友情を大切にし、友人に役立つ」については、エピクロスはその通りを実践したのではないかと思います。彼は奴隷や女性を差別せず、対等に扱いました。残された彼の手紙からは「弱者に対するいたわり」が感じられます。
  「3.できるだけ質素に生活し、ありあわせのもので満足する」については、彼は理想的な実践者でした。彼は快楽の相対主義者であったという点でソクラテスのみごとな後継者です。ソクラテスは「我慢してから食べた方がおいしい」といいましたが、エピクロスはこの「おいしさ」すなわち「快楽」の本質を追究しました。
  「4.逆境に耐えられる身体を作る」という点についてはどうでしょうか。彼は晩年病気持ちでしたから、逆境に耐えられる身体だったとはいえません。彼の強壮ぶりを証明するような事蹟も伝わっていません。おそらく彼は体を鍛えるというよりは、身体のバランスを取りながら総合的な健康を心がけていたのではないでしょうか。
  「5.理にかなっていれば、他人の評価を気にしない」については、エピクロスがとかく生前から誤解や中傷にさらされていたことを考えると、彼は立派にふるまったのではないかと思います。おそらくこの時代、原子論を掲げ、唯物的な思想を行動の基盤に据えることには、かなりの勇気が必要だったと思われますが、エピクロスは一方の旗頭として自分の信念を貫きました。
  「6.情念にふりまわされぬよう自制心を養い、徳を目指す」。彼の哲学はすべてこれを目指しました。彼の中では自制心と思慮を持つことは、幸福、あるいは快楽とほぼイコールでした。彼はこの項目で、明らかに歴史に残る思想の勝利者の一人であったのです。 

 
   
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