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ストア賢者に学ぶ
 
第7章 私たちに身近なマルクス・アウレリウス

人物を見込まれて皇帝に
  アランの「幸福論」の中に次のような一節があります。「マルクス・アウレリウスは、毎朝次のように言っていた。『きょうも虚栄心の強いものだの、嘘つきだの、不正なやからだの、退屈なおしゃべり屋だのにであうだろう。彼らがこうなのは無知のためなのだ』と」。
  ここで紹介されているマルクス・アウレリウスは一二一年生まれ、紀元161年から179年まで在位したローマ皇帝です。いわゆる五賢帝時代の最後の皇帝です。
  皇帝にして哲学者、これはきわめて珍しいケースです。プラトンはその「国家論」の中で国家のリーダーは立派な哲学者でなければならないと書きましたが、プラトンが指摘した意味において、哲学者にして皇帝だった史上唯一のケースといっていいでしょう。
  この人は若いときから父親や教師の薫陶を受け、とくに前章でご紹介したエピクテトスの影響を受けてストア哲学者となりました。年齢的にいうとマルクス・アウレリウスはエピクテトスの七〇歳後輩ということになります。後輩とはいっても片方は奴隷、片方は世界に君臨する帝国の王ですから、その身分は考えられるかぎり極端に離れています。

 マルクス・アウレリウスはエピクテトスを尊敬し、エピクテトスの「語録」と出会うことができたことを心から喜んでいました。彼はエピクテトスから多くのものを吸収し、自分の考えにも生活態度に取り入れました。そして今日ではエピクテトスとマルクス・アウレリウスはともに後期ストア哲学者の代表者として並び称されるようになりました。
  かたや奴隷のエピクテトス、しかもドミティウス帝の「哲学者追放」の布告によってローマを追われた人物、かたやどんな布告でも出すことのできた権力あるマルクス・アウレリウス。こうしてみると、この二人はどちらも、今日の私たちとはまるで縁がないように見えます。あえて二人のどちらが自分の境遇に近いかといえば、私など「皇帝」であるよりは「奴隷」であるエピクテトスに近いのではないか、と思います。

 ところがマルクス・アウレリウスという人物を観察していくと、意外にも彼が現代の私たちにごく近い人物であることに気づきます。そして彼の考えや悩みに共感できることに驚きます。「ローマ皇帝」といえばひどく特殊な人物のように思えますが、人間はみな同じなのだということをしみじみ感じます。
  先代のローマ皇帝は賢帝として知られたアントニヌス・ピウスですが、マルクス・アウレリウスは先帝の実の息子ではありませんでした。彼は元老院の祖父を持つ貴族の息子でした。マルクスは八歳のときに父を亡くし、祖父のもとで教育されました。彼は少年時代からすぐれた才能をあらわして周囲の人々を驚かせました。

 当時ローマ皇帝の座にあったハドリアヌスがこの子供にいたく興味を持ちました。ハドリアヌス帝は後継者としてアントニヌス・ピウスを指名しましたが、同時にマルクス・アウレリウスとルキウス・ウエールスの二人をピウスの養子にすることを命じました。
  ハドリアヌス帝は自分の直接の後継者だけでなく、次世代の後継者までを人物本位に選定したわけです。アントニヌス・ピウスは先代の遺志によって二人の養子を持ちましたが、ルキウスの方が凡庸だったのに対して、マルクス・アウレリウスの実力と人柄が期待通りに開花していくのを見て喜びました。
  アントニヌス帝はその後独自の判断で、マルクス・アウレリウスだけを後継者として指名し、カエサル(皇帝)の称号を与えました。そして自分の娘を嫁として与え、親子による共同統治を施行しました。
  紀元161年アントニヌスが亡くなると、元老院はマルクス・アウレリウスだけを皇帝として承認しましたが、マルクスは義兄弟のルキウスを自分と対等の地位に引き上げることを主張し、とうとう元老院にこれを認めさせてしまいました。ここに義兄弟二人の皇帝による共同統治が始まったわけです。
  アントニヌス・ピウスがすでに見抜いていた通り、ルキウスは仕事嫌いで遊び好きという性質で、皇帝としての責任感が不足していました。彼は皇帝としての地位を利用はしましたが、めんどうな実務はマルクスにまかせっきりにしました。けれどもマルクスは少しも不平を言わず、ルキウスが何をしでかそうとも、生涯変わらぬ敬意と友情と示しました。

 

災難続きの生涯
  平和を愛し、静かに勉強することが好きだったマルクス・アウレリウスには、まったく反対の運命が待ち受けていました。北方でゲルマン民族が暴れ出し、パルティア人の反乱も起こりました。あまりも拡大しすぎたローマの辺境で、異民族の反乱が次々と生じました。そのタイミングがマルクスの在位の時期と重なったのです。
  国内にも地震や疫病や洪水などの厄災が続きました。トラブル対策には皇帝の意思決定や出馬が必要です。災害の対策には費用がかかります。打ち続く出費のためにローマの国庫は底をついたとき、マルクス帝は自分の私財を競売にかけて費用を捻出しました。彼は自ら辺境の地に出かけ、異民族との戦争を指揮しました。
  彼は家族との関係でも恵まれませんでした。彼は后ファウスティナを心から愛していましたが后の方がこのまじめすぎる皇帝を愛していたかどうか怪しいものでした。「ローマ帝国衰亡史」を書いたギボンは次のように記しています。
  「先帝ピウスの娘で、マルクスの妻たるファウスティナは、その美貌によって、またその醜聞によって古来はなはだ有名である。この哲学者の生真面目な一本調子は、彼女の放逸な軽浮を拘束したり、最下等の人間によく見出される特徴たる放縦な多情を抑止したりすることには不向きであった。・・ファウスティナの放縦について無知または無関心に見えたのは全国中でただ一人マルクスのみだった」。もっとも最近の研究によると、ファウスティナはギボンがいうほどひどくはなかったそうです。しかし人を疑うことを知らなかった皇帝が妻にいいように操縦されていた可能性は十分にあります。

 マルクスが戦陣の中で、あるいは宮廷の書斎で書き綴った「自省禄」の中で、彼は妻について次のように記しています。「(私にとって幸いだったのは)私の妻のようなあれほど従順な、あれほど優しい、あれほど飾り気のない女を妻に持ったこと」。つまりマルクスは誰が何といおうとも妻を信じていたのです。
  彼女は一七六年に病没しました。するとマルクス帝は妻の死を心底から悼み、元老院に亡くなった妻を「女神」として祭る決議をするように要求しました。元老院は「やれやれ」と思ったでしょうが、マルクス帝の人柄に押されてこの決議を行ないました。
  マルクスは後継者にも恵まれませんでした。ファウスティーナとの間に生まれた三人の息子のうち二人は夭折し、残るコモンドウスが世継ぎの皇帝となりました。コモンドウスは父の前ではいい子ぶっていましたが、性質はよくありませんでした。ギボンは次のように書いています。
  「その子の大業な悪徳は、父親の美徳の清廉潔白に一抹の陰影を投げかけた。・・生まれながらの性質は邪悪ではなく、むしろ暗庸であった。彼の生一本な性質と臆病とは、彼をして近臣らの奴隷とならしめ、その者どもが次第に彼の精神を荼毒した。彼の残虐行為は最初は他の教唆に従ってやったものであるが、漸次習い性となり、遂には彼の心霊の支配情欲となった」。

 マルクスは紀元180年、遠征先の戦陣で病を得、58歳で亡くなりました。コモンドウスはすでに四年前に父親から帝位を継承していました。彼は父親亡き後、やりたい放題の乱脈ぶりを示しました。結局ネロやカリグラにも匹敵する暴君になり、最後には暗殺されました。
  マルクスは文字どおり内憂外患を抱えていました。何よりも気の毒だったのは、怠惰で凡庸なパートナーと、彼の善良さを利用する妻と子供という環境の中を、孤独に生きなければならなかったことです。

 
 

自分への忠告を綴った「自省録」
  マルクス・アウレリウスはストア哲学者としてどのような考えを持っていたのでしょうか。それは彼が折々につづった「自省禄」の中にはっきり示されています。この書物は、彼が誰かに読ませるつもりで書いたものではありません。日記といった方がいいでしょう。この中で彼はしばしば「君は・・」といういい方をしていますが、「君」というのは、ほとんどマルクス自身のことで、明らかにこの本は自分自身との対話の記録です。
  この本の冒頭で彼は自分が誰から何を学んだか、どんな点で恵まれているか、感謝すべき対象は誰かを次々と列挙しています。これを読むとマルクスが基本的にどのような価値観を持っていたのかが分かります。

 「家庭教師からは、緑党にも青党にもくみせず、短楯組にも長楯組にも味方しなかったこと。また労苦に耐え、寡欲であること。自分のことをやって、余計なおせっかいをせぬこと。中傷に耳をかさぬこと(を学んだ)」「アポローニウスからは、独立心を持つことと絶対に僥倖をたのまぬこと。たとえ一瞬間でも理性以外の何物にもたよらぬこと」。
  この中には「一方に片寄るのではなく、つねに公平中立の立場をとること」「中傷に耳を貸さない」という、一般の人々にはもちろん、リーダーにはとくに必要となる価値観が見られます。けれども「労苦に耐える」「寡欲」「独立心を持つこと」「僥倖を当てにしない」「理性的に判断し行動する」などの価値観は、どちらかといえば、下から這い上がって立身しようとする人々にとくに必要となるような価値観です。

 そしてさらによく見ると、これらはみな、ストアの賢者たちが説いてきた価値観に他ならないことが分かります。マルクス・アウレリウスを育てた人々は、ストア哲学に強い影響を受けた人々であり、マルクスはストア的なものの考え方に若い頃から共鳴していたわけです。
  彼は次のように書きました。「至る時にかたく決心せよ。ローマ人として男性として、自分が現在手に引き受けていることを、几帳面な飾り気のない威厳をもって、愛情を持って、独立と正義をもって果たそうと」。これでお分かりの通り、マルクスはまず皇帝の養子となり、それから皇帝の座についているので、「生まれながらの皇帝」という意識がありません。

 皇帝は彼にとっては「皇帝職」であり、それは担当すべき役職の名に過ぎません。だからそれをしっかり担当し、国家をより安全に、弱者に対する福祉を行なうこと、そのために公正に裁きをつけたり、必要な書類に目を通して決済すること、必要によっては軍隊を指揮すること、これが彼の「任務」です。だから彼にとっては「権力を楽しむ」という考えはありません。むしろ名誉と責任ある立場にいるだけ、自分の感情を制御しなければならないと考えます。
  「せいぜい自分に恥をかかせたらいいだろう。恥をかかせたらいいだろう。私の魂よ。自分を大事にする時などもうないのだ。めいめいの一生は短い。君の人生はもうほとんど終わりに近づいているのに、君は自己に対して尊敬をはらわず、君の幸福を他人の魂の中におくようなことをしているのだ」。

 この日マルクスに何があったのでしょうか。おそらく、部下に侮辱的なことをいわれたか、あるいは政治に対する世論の批判を受けたのではないでしょうか。それをマルクスはけんめいに我慢したに違いありません。おそらく他の暴君的な皇帝なら、たちどころに無礼者を処罰するような場面だったかもしれません。しかしマルクスは自制しました。そして皇帝の身でありながら面目を保てなくなるような瞬間に、「これが私の役割なのだ」と自分にいい聞かせたのです。
  彼は「もし皇帝などになっていなかったら、良書をたくさん読みふけっていることができたろうに」と考えます。「ああ、思えば、残り時間も少なくなったな」。そして「それなのに、私は自分が人に悪く評価されたということで、こんなにも苛立ったりしている。要するに私は自分の魂を他人まかせにしているのだ」。

 
 

「指導原理」に忠実に生きる
  また彼はエピクテトスに倣ってこうも書いています。「この私という存在はそれが何であろうと、結局ただ肉体と少しばかりの息と内なる指導原理よりなる或るものに過ぎない。書物はあきらめよ。これにふけるな。君にはゆるされないことなのだ。そしてすでに死につつある人間として肉をさげすめ。それは凝血と、小さな骨と、神経や静脈や動脈を織りなしたものに過ぎないのだ。また息というものもどんなものであるか見るがよい。それは風だ」。
  この中に記されている「書物はあきらめよ」という一句は、何よりも書物を愛していたマルクスの悲痛な叫びです。彼は自分を他の人間と同じように、単なる血と肉の小さな塊に過ぎないと考えます。しかもそれは急速に消滅しつつあります。であればこそ、彼は無私無欲の立場に立って、与えられた職務を忠実に全うしなければならないと考えます。

 上記の言葉の中に出てくる、「指導原理」は、マルクスが「人間が人間であることのゆえん」と考えた、価値の根幹をなす概念です。彼はこの指導原理について幾度も説明しています。たとえば指導原理に従っていきる人間とは「自分自身の理性と、ダイモーンと、その徳に帰依することを選び取ったもの」であり、「自ら自己を戒め潔めた人間」です。
  「もし君が目前の仕事を正しい理性にしたがって熱心に、力強く、親切に行ない、決して手間仕事のようにはやらず、自分のダイモーンを今すぐにでもお返ししなくてはならないかのように潔く保つならば・・」。
  ここで「ダイモーン」という言葉が二度ばかり出てきました。これはソクラテスが盛んに用いた名前ですね。ソクラテスのダイモーンは「心霊」と訳されることが多いのですが、いずれにしてもダイモーンはソクラテスに呼びかける何らかのインスピレーションであり、指導原理です。

 これに対してギリシャのストア哲学者たちは「ゼウス」の概念を用いました。エピクテトスも「ゼウス」を用いています。すでに見たように、エピクテトスの「ゼウス」は天地と人間の創造主、自然と宇宙のコントローラー、あるいは自然そのものという幅広い意味があります。強いていえば宇宙の第一原理といったところでしょうか。
  ストアの哲学者たちは少しも宗教的ではありません。なにしろ彼らはどこまでも「理性的」に「合理的」に生きることを目指しているからです。しかし善悪の判断、道徳的基準、生命の時間を超えた尺度という点では、何の迷いもなく「ゼウス」、あるいは「ダイモーン」の概念を用いました。

 しかしストア哲学者たちが想定した「ゼウス」「ダイモーン」は、キリスト教における絶対神のような、強いキャラクター、あるいは神格ではありません。マルクス・アウレリウスの場合もダイモーンは明らかに「指導原理」であり、ときにはごらんのように「自己の魂」という程度の意味で用いられています。
  「神々とともに生きること。神々と共に生きるものとは神々にたいしてつねに自分の分に満足している魂を示し、ダイモーンの意のままになんでもおこなう者である。ダイモーンとはゼウス自身の一部であって、ゼウスが各人に主人として指導者として与えたものである。これは各人の叡智と理性に他ならない」。

 マルクス・アウレリウスによれば、私たち一人一人が「ダイモーン」から「ダイモーン」の要素を預かってこの世に生まれ出てきているので、各人はこれを管理する義務と責任があります。ダイモーンを清潔に、正しく用いて、返却を迫られたときには、できるだけ清らかな状態でお返しすることが、私たちに課せられた任務であると彼は考えたのです。
  ところでソクラテスは「ダイモーンが自分にこう語りかけている」とか「これこれを禁じている」などといういい方をしましたが、各人にはダイモーンがついているといういい方もしています。ちなみにプラトンの「カルミデス」の中に次のような用例があります。
  「いいように行(や)る人というものは、かならずいいダイモーン(神霊)がついている人なのだからね」。ここでいう「いいダイモーンがついている」というのは、いい守護神に守られていてその人は幸福である、という意味です。
  これは、「預かったダイモーンをお返しする」といったマルクスの概念とはいささか異なりますが、いずれにしてもマルクスがダイモーンの概念をソクラテスから援用していることは間違いないでしょう。

 
 

人格者皇帝はだまされていたのか
  ところで、史家ギボンは皇帝としてのマルクスについて次のように評論しました。「マルクスの温厚は、ストア哲学の厳格な紀律をもっても根絶できなかったが、これは彼の性格の上に極めて温雅な部分を形造ると同時に、唯一の欠点をも提供した。彼の優秀な理解力は彼の心情の猜疑心なき善良さのためにしばしば裏切られた」「彼の兄弟や妻子に対する過大の寛容は、これらの人々のさまざまの悪徳の実例と結果とを世間に披瀝することにより、単なる私的道徳の埒を越えて、公徳の障害となった」。
  マルクスは自分が身辺の人々にだまされ、操られていることを本当に知らなかったのでしょうか。私は彼は知っていたと思います。また彼は煩雑な仕事を次から次にこなし、いつまでも自分の心の安らぎが得られないことについてストレスを感じていなかったのでしょうか。私は彼が強くこれを感じていたと思います。
  ちなみに「自省録」の第四章二八節は次のような単語だけで綴られています。「腹黒い性質、女々しい性質、頑固な性質、獰猛、動物的、子供じみている、まぬけ、ペテン、恥知らず、欲張り、暴君」。

 これは彼が身の回りにいる人を見て、そう思ったことを口には出さずに、ここに衝動的に書きつけたものと思われます。誰が腹黒いのか、誰が恥知らずなのか、それはわかりません。しかしこれは彼のストレスの、せめてもの発散プロセスです。子供が知っている悪口をすべて並べ立ててみるように、彼は自分の周囲の人々を名指しをせずに評論したのです。この日、彼の感情がどんなに鬱積していたのか、推量できます。
  彼はまた「他人の腹黒さに目を注ぐのは善き人にふさわしいことではない。目標に向かってまっしぐらに走り、わき見するな」と書きました。これからお分かりのように、彼は自分の周囲の人々の権謀術策を知っていて、これを見ないように、意識しないようにしていました。
  「生きることが可能な所においては、よく生きることができる。・・ゆえに宮廷でも善く生きることができるのである」「もっともよい復讐の方法は、自分まで同じような行為をしないことだ」「君が宮廷生活の不平をこぼすのをこれ以上誰も聞かされれることのないように。また君自身も君のこぼすのを聞かされることのないようにせよ」。これらの言葉は、彼が周囲に必ずしも鈍感であった、ということではありません。

 ということは、彼はだまされていると知りつつ、自分が彼らに対して意地悪になったり、過激になることを恐れたということです。マルクスは彼らを赦し、赦せないものをも赦し、善良であろうと努力しました。しかしときにはさすがにうんざりし、思わず嘔吐するように、悪口の単語を紙の上に吐き出しました。それの例が二八節です。
  彼の仕事上のストレスについてはどうでしょうか。彼は次のように書きました。「明けがたに起きにくいときには、次の思いを念頭に用意しておくがよい。『人間のつとめを果たすために私は起きるのだ。』自分がそのために生まれ、そのためにこの世にきた役目をしに行くのを、まだぶつぶついっているのか。それとも自分という人間は夜具の中にもぐりこんで身を暖めているために創られたのか。『だってこのほうが心地よいもの。』では君は心地よい思いをするために生まれたのか」。

 これは毎晩夜遅くまで調べものをして、そのために睡眠不足で朝起きるのが苦痛なマルクスが自分自身を叱咤激励している言葉です。これを書かなければならないほど、彼は毎朝定刻に起きることがつらかったのです。しかし彼は自分に鞭打つことこそ、哲学上の理念、すなわち人間としての義務を正しく実践することであると考えました。
  「何かするときいやいやながらするな。利己的な気持ちからするな。無思慮にするな。心にさからってするな。君の考えを美辞麗句で飾りたてるな。・・君のうちなる神をして、男らしい人間、年配の人間、市民であり、ローマ人であり、統治者である人間の主たらしめよ」。

 
 

ストレスと戦うビジネス・リーダーに似る
  このような言葉も、彼の内面のストレスを理解してみれば、むしろ痛々しく感じられます。普通の人ならば、これほど自分にとって苦痛なことなら、「もう、やーめた」といって自分の仕事や環境を放棄することができます。ところがマルクスの立場は皇帝ですから、簡単にやめることができません。
  それに彼は自分に代われる人材がいないことも知っています。自分がいなくなれば、ローマ帝国は滅びかねない、という危機感があります。彼は自分の息子が一五歳になったときに、早くも皇帝としての参与権を与えました。息子に自分の代理をしてもらいたいという気持ちのあらわれだったのでしょう。
  「自分は善良で公平、無私無欲でありたい」「人々のためにも、公務は手抜きせずに、しっかりやらねばならぬ」「これが自分の任務だ」・・このような義務感からくるストレスが、彼にストア的な諦念をベースとする厭世観を与えたことはやむを得ませんでした。

 「・・そしてまもなく君は何物でもなくなり、どこにもいなくなる。ちょうどハードリアヌスもアウグストスもいないくなってしまったように」「なんとすべてのものはすみやかに消え失せてしまうことだろう。その体自体は宇宙の中に、それに関する記憶は永遠の中に、すべて感覚的なもの、特に快楽をもって我々を魅惑するもの、苦痛をもって我々を怖れしむるもの、虚栄心の喝采を受けるものなどは、どんなものなのであろう」「自然のわざを恐れる者があるならば、それは子供じみている。しかも死は単に自然のわざであるのみならず、自然にとって有益なことでもあるのだ」「肉体に関するすべては流れであり、霊魂に関するすべては夢であり煙である。人生は戦いであり、旅のやどりであり、死後の名声は忘却に過ぎない」。

 ここに見られるのは、「生のはかなさ」に対する諦念であり、「死後の名誉」に対する不信です。また死後の霊魂、生活に関する否定です。彼は物質の原理に関してはデモクリトス、エピクテトス、ルクレティウスなどの流れを汲む原子論者でした。彼は生物の死を元素への解体と考えていました。
  「死は誕生と同様に自然の神秘である。同じ元素の結合、その元素への分解であって、恥ずべきものでは全然ない。なぜならそれは知的動物にふさわぬことではなく、また彼の構成素質の理法にもふさわぬことではないからである」。
  もっとも自分の死後の名誉に徹底して悲観的だった彼も、妻のファウフスティナが亡くなったときには、彼女を女神として崇めるように国民に要求しているのですから、矛盾しているといえことはありません。要するに自分自身を律する考え方と、一般常識の両方を彼はうまく使い分けていた、というべきでしょう。

 以上のように見てくると、マルクス・アウレリウスという哲学者は、皇帝という立場の点からも、「自省録」から漂ってくる悲観的な調べという点でも、これまでのストア哲学者たちとは異色であるように見えます。しかし私は、この皇帝が、どういうわけか日本の現代におけるビジネス・リーダーの一つの典型にきわめて近似しているように見えて仕方がないのです。
  もっとも現代のわが国のビジネスマンといっても、いろいろあります。教養もなく、何も考えずにただ売上とゴルフしか考えていないという幸福な人物もいるかと思えば、会社の利益のためなら、あるいは自分の快楽追究のためなら手段を選ばないという、どうにも食えない人物もかなりいることはいます。
  しかし大方の良識ある企業の指導者、あるいは行政の指導者格の人はおおむねまじめで、正義感もあり、何よりも仕事に忠実です。彼らは夜遅くまで残業をしたり、部下や顧客とつきあいをし、また翌朝気力をふりしぼって会社に出かけます。
 
  彼らには、「明けがたに起きにくいときには、次の思いを念頭に用意しておくがよい。『人間のつとめを果たすために私は起きるのだ。』自分がそのために生まれ、そのためにこの世にきた役目をしに行くのを、まだぶつぶついっているのか」と自分にいいきかせたマルクスの心境が理解できるはずです。
  もちろん「ああ、今日は休みたいな」とは思っても、「クビになっては大変」と考える人もいるかもしれません。しかし多くの上級ビジネスマンは、自分の首のことよりも先に、その日のうちにしなければならないこと、それをしないと発生するであろう障害、関係者にかける迷惑の方が気になります。こうして彼は強い義務感によって寝床を抜け出し、満員電車に自分の体を詰め込むのです。

 また現代のまじめなビジネスマンたちは、「他人の欠点をあれこれいっても仕方がない」「うまくやれる連中はうまくやればいいさ」と考え、「目標に向かってまっしぐらに走り、わき見することはない」と考えています。いい加減に仕事をしたり、権力者にゴマをすったり、不正に近いことをしている連中が彼らの視野に入っています。
  しかし彼らはそれに組しようとは思いませんし、その問題をあげつらって大騒ぎをしようとも思いません。つまり、彼らは周囲の人々の権謀術策を知っていても、これを見ないように、意識しないようにしているのです。つまり、現代のまじめなビジネスマンたちは、この点でも小マルクス・アウレリウスです。

 日本の多くのビジネスマンは仏教徒です。しかし誰も自分が死後の世界で極楽で蓮の台(うてな)に座るだろうなどとは考えていません。地獄の針の山を、鬼どもに追い立てられるだろうとも思っていません。現代人はおおむねデモクリトス派です。すなわち生物を構成している要素は元素に帰り、自然に分解していくと考えているのです。
  彼らは、「良識ある市民として、男性として、家庭人として」円満であろうと考えています。しかし仕事の義務というストレスが彼を解放することはありません。そこで彼らは「定年になったら生きがいがなくなるかもしれない」と知りつつも、定年の日を憧れるというわけです。このように見てみると、現代人がマルクス・アウレリウスに似ているのか、マルクスの方が現代人に近いのかは分かりませんが、マルクスの近似性に改めて驚きます。

 
 

公人として生きたストア賢者
  マルクス・アウレリウスの生活態度をソクラテスの基準と比較してみましょう。「1.神を敬い、正義を愛する良き市民(兵士)として生きる」、これはどうでしょうか。私たちはソクラテス以来初めて、この基準に合致するストア哲学者を発見しましたね。
  これまでのストア哲学者たちはほとんど反体制的、あるいは非体制的でした。ところがマルクスはなにしろ皇帝ですから、体制側の極にあります。しかし彼の場合、皇帝という立場以前に、「よきローマ人として、良識ある男性としてありたい」という決意が明確です。事実彼は生涯の多くの時間を「兵士として」生きました。この点ではソクラテスよりも上です。

 「2.友情を大切にし、友人に役立つ」、この点はどうでしょうか。皇帝としての彼は孤独でした。彼が生涯にわたって心を打ち明けられるいい友人を持っていたかどうか疑問です。彼の書簡集などが残されていて、マルクスの側から見て尊敬すべき師や友人を持っていたことが分かります。しかし彼らが「皇帝」をどう思っていたかは分かりません。表面的には彼を敬愛しているように見せていても、心の中では「度し難い理想主義者」と考えていたかもしれません。しかし結論的にいえば、マルクスは「2.友情を大切にし、友人に役立つ」を心がけ、実践していたことは間違いありません。
  「3.できるだけ質素に生活し、ありあわせのもので満足する」。宮廷生活は否応なしに豪奢であらねばなりません。しかし彼は質素であることを心がけ、この点で周囲のものたちを困惑させたのではないかと思います。彼が国庫救済のために私財を提供したことでも分かるように、彼は個人的な富に執着しませんでした。ディオゲネス的な質素とはわけが違うでしょうが、皇帝という立場としては可能なかぎり質素であったと推察されます。

 「4.逆境に耐えられる身体を作る」。マルクスが若い頃に優等生的に体を鍛えたことは推察できますが、成人してからに関しては推察する根拠がありませんので、何ともいえません。しかし、安逸な生活を排除して自分に鞭打って政務に励み、生涯のかなりの時間を辺境の戦場で過ごしたマルクスが、身体的に軟弱であったとは思えません。この点についてもまず「合格」と考えていいでしょう。
  さて、「5.理にかなっていれば、他人の評価を気にしない」という点については、問題があります。ストア哲学者にとって「理にかなっていること」は、もっとも重要な点です。彼らにとってすべての行動は「理にかなっていること」が原点になっているからです。
  これまで見てきたストア賢者たちは自分たちが「理にかなっている」と判断すれば、他人の思惑など歯牙にもかけないという、強靭さと大胆さを示していました。彼らのこの特質が今でも私たちを感動させるのです。
  しかしながらマルクスは、立場上どうしても「他人の評価を気にしない」というわけにはいきませんでした。なるほど元老院の思惑に関わりなくルキウスに皇帝権を与えたり、妻を女神にするように要求したりなど、彼なりに横車を押したことはありました。また、妻の行動についても「知らぬは亭主ばかりなり」という態度を貫き、人を陥れようとする部下の讒言にも耳を貸しませんでした。要するに彼は「寛容」という点では立派でした。

 しかし彼は皇帝就任後は、皇帝としてふるまわねばならず、私人としての時間はないに等しかったのです。他人の評価を気にしないというわけにはいきません。私人としての時間がなかったからこそ、わすかに自分のために許されたプライベートな時間で「自省録」を書いたのです。
  ここで私たちは、ストア賢者であるための一つの重要な条件を発見します。それは一般的にいって、ストア的なライフスタイルを貫くためには、可能なかぎり「私人」でなければならないということです。私人としての自分が人に笑われようと、非難されようと、彼らはどうでもいいと考えるのです。
  しかしマルクスの場合、「私人」的な時間が少なく、「公人」としての時間の中でストア的な徳を追究しようとしたこと、ここに彼の悲劇性と独自の価値があります。彼の生涯は、「もし自分が私人であったら」という不可能を夢見ながら、与えられた状況の中を哲学的に整合させようとして精一杯生きたということでしょう。
  「6.情念にふりまわされぬよう自制心を養い、徳を目指す」。これについてはマルクスは申し分ない人物であり、ストア賢者の系列に堂々と名札を提出する権利があると思われます。彼は「自省録」の中で何度も「自分の名もまたたく間に忘れられてしまうのだ」と書きました。けれどこの点に関して彼の予想は外れました。ストア哲学の歴史は、彼を最後のビッグネームとして終わるのです。

 
   
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