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ストア賢者に学ぶ
 
第8章 ストイシズムの再発見

モンテーニュの中によみがえるストア
  純粋なストア哲学の伝統はマルクス・アウレリウスをもってひとまず終わりました。しかしストア主義的な考え方は、さまざまな形で人々の記憶に残りました。やがて西欧はキリスト教全盛の時代を迎えますが、すでに私たちが見たように、キリスト教の根底にはどこかストア的な色彩があります。
  よく見ると多くの宗教にはストア的な要素があります。ちなみに、際限のない贅沢や肉欲を奨励するような宗教はまれです。また情念にかられて無軌道に行動することをすすめるような宗教もほとんどありません。平和で節制のある生活を説くという点では、ストア的な考え方と宗教は原則的に一致しているといっていいでしょう。

 ちなみにアシジの聖フランシスコに代表されるような、中世のキリスト教の聖者たちや修道僧たちの生活はきわめてストア的でした。ただ、古代のストア主義者たちと異なっているのは、ストア主義者たちが自分たちの知性を頼み、「理にかなっている」ことを第一義としたのに対してキリスト教の聖者たちは、「神を信じ、神を愛する」ことを第一義としたことです。
  これは哲学と宗教の、ある意味では越え難い一線です。ストア主義者の自律的、自戒的な、お望みなら禁欲的な生活態度は、自分以外のどんな戒律にも規則されていないのです。それは理屈の上の合理性を追求した結果です。
  西欧中世における精神世界の特徴は、キリスト教がすべてを仕切ったという点でしょう。したがって古典的な、ストア的な合理性が自己主張する余地はほとんどありませんでした。西欧哲学がキリスト教的な「神」の概念を離れて、自分の知性だけを頼みとしてものを考えるようになるためには、私たちはモンテーニュやデカルトの登場を待たなければなりません。

 ストア哲学の正しい評価という点で、ルネッサンス以降もっとも近代性に目覚めた思想家を一人あげるとしたら、それはモンテーニュです。モンテーニュは、1533年にフランスのボルドーに裕福な貴族の息子として生まれました。モンテーニュの父は、息子を立派な古典学者にしようとして理想的な教育を行ないました。モンテーニュは早くからラテン語、ギリシャ語を学び、古典作品に親しみました。
  やがて彼は法律を学んで裁判所に勤務しましたが、仕事にはあまり興味を持ちませんでした。38歳のときに父親が死ぬと、彼は引退して郷里に帰り、その後郷里で読書三昧の生活に入りました。38歳で引退ですから、うらやましいですね。自分の家といっても、モンテーニュの場合「城」ですが、彼はここにこもって有名な「エセー」を綴りました。
  彼は腎臓結石の持病を持っていたので、ヨーロッパの各地を湯治しながら旅行し、見聞を広めました。1581年、彼はボルドーの市長に選ばれました。地元の人々の支持と国王の意志もあって、彼はこの職を引き受け、騒動に巻き込まれないように地元の治安を守ることに貢献したといわれています。モンテーニュは公職をしりぞいた後も「エセー」の執筆と読書の生活を悠々と続け、1592年に亡くなりました。

 

ストアの賢者に自分の思想を語らせる
  モンテーニュの生涯を見ると、少なくとも彼自身は古典的な意味でのストア哲学者ではありません。それにマルクス・アウレリウスほどではないにしても、彼は貴族の家に生まれ、恵まれた教育を受けました。さらに彼は相続人としての立場と財力を享受しています。また古典的なストア哲学者なら明らかに避けたであろう公職をも引き受けています。
  しかしながら、モンテーニュのエセーを読むかぎり彼はストア的な人物であり、ストア哲学の精神を正しく理解していたことが分かります。先にも述べたように、彼はラテン語、ギリシャ語を自由に読みこなすことができましたので、プラトン、アリストテレス、キケロ、セネカ、プルタルコスなどの古典的な名著をすみからすみまで読みこなしていました。ストアの賢人たちが書いた本、彼らについて書かれた主要な本をほとんどそらんじるほど知っていたのです。

 このようにルネッサンス以後、ヨーロッパの知識人でギリシャ、ラテンの古典を研究し、これに通じている人をヒューマニスト(古典研究者、人文主義者)といいます。モンテーニュは、当時のヨーロッパを代表する有数のヒューマニストでした。
  モンテーニュの有名な「エセー」は、あるテーマを中心に自分の所感を自由に書き綴ったエッセイ集ですが、彼の書き方にはルールのようなものがあります。彼は一つのテーマについて書くとき、自分の考えや体験だけを述べて終わることはほとんどありません。
  彼はそのテーマに関連する古典的なエピソードをいくつか紹介し、ついで彼の時代、あるいは近年に生じた事件のエピソードを説明します。そして最後に自分の意見を総合的に述べるという方法をとっています。そして随所に古典作品の引用を行なっています。
  したがってモンテーニュのエセーを読む人には、ある程度の古典作品に対する知識が、少なくとも作家の名前や主要作品についての予備知識が必要です。そうでないと例として示されているエピソードの意味が何なのか、それはいつの時代のことなのか分かりませんから、結局モンテーニュの意図を理解できなくなってしまいます。

 モンテーニュは「エセー」の中で、たくさんの古典作家とその作品について触れていますが、作品の中に登場する哲学者の名前を多い順に拾ってみます。岩波文庫の「エセー」の索引を参考にして見ると、圧倒的に登場回数が多いのはプラトンの名前で、121回にも達します。次いでソクラテスが70回です。
  もっともソクラテスはプラトンによって紹介されていることが多いのですから、この二人の名前は、あるい意味では対になっています。これに次いで多いのは、アリストテレス45回、キケロ35回、エピクロス31回、クセノフォン25回、クリシュッポス21回、アンティステネス一6回となっています。ただし不思議なことに、私から見てモンテーニュにとってもっとも近いと思われる思想家エピクテトスはたった一回しか登場しません。
  いずれにしても、モンテーニュは私たちがこれまでに見てきたようなストア賢者について、繰り返し語っていることは間違いありません。また彼は何度も「ストア派」とか「ストア哲学者」という総称を用いこれに触れています。

 モンテーニュは上記の思想家の思想を、自分自身の価値観の代弁者として用いていることが多いのです。たとえば彼は「『武運によると策略によるとを問わず、勝利は常に輝かしいものだ』と彼らは言う。けれど哲学者クリシュッポスならこれに賛成はしなかったろう。私もまたそうだ」、と書き、ストア哲学者の思想と自分の思想が同じであることを表明しています。
  また、「エピクロスは、彼のいう賢者は未来の予想や心配をしないといっている」などと書いています。これは自分の意見の代弁です。「ソクラテスはしっかりと地に足をつけ、おだやかな普通の調子で、もっとも有益な事柄を論じている。死や最大の難事に際しても、普通の人間の歩み方で振る舞っている」。つまりこれがモンテーニュの価値観の表明です。

 
 

何者にも執着せず、闊達に生きる
  もちろんモンテーニュは、「不偏不党」「何にもこだわらない」「不確かなことを自信ありげに確言しない」、ということを信条としていましたから、ストア哲学者の思想や事蹟をそのまま無批判に受け入れているわけではありません。それどころか、必要とあれば彼らを容赦なく批判もしてもいます。
  たとえば彼は「なぜなら、ストア派が何と言おうと、私が困っている自分に助力を与えたからといって、私が自分に対して抱いている友情が少しでも増加するわけではないし、私が私につくしたことに少しでも感謝するわけではない」というようにいって、受け入れられない思想はきちんとこれを拒否しています。

 彼は、自分が考えるソクラテス像は、伝聞を通し、おそらくは理想化されているかもしれないが、と断った上で、おおむねソクラテスやストア的なものの考え方を受け入れ、その考え方を価値判断の基準にしています。
  「われわれは能力以上の義務を負うことはできない。そのわけは、ことの結果と実践とはわれわれの力では如何ともしがたいことであるし、われわれの力でなし得ることは、本当に意志以外に何もないからである。人間の義務についての掟はすべて、必然的にこの意志にもとづいて立てられる」。これはエピクテトスの思想そのものといっていいでしょう。
  モンテーニュは「運命はわれわれに幸福も不幸も与えない。ただその素材と種子を提供するだけだ。それを、それよりも強いわれわれの心が好きなように変えたり、用いたりする。われわれの心がそれを幸福にも不幸にもする第一の原因であり、支配者なのである」といっています。まさにこれこそ、ストア主義者たちがさまざまな言葉を使っていいたかったことの要諦ではないでしょうか。

 私はモンテーニュがいかにストア哲学を自家薬篭中のものとしていたかの証拠を、次のような断片に見ます。
  「ストア派の人たちも、彼らのいう賢者に、不意に現われた幻影や幻想に平気でいろとは要求していない。むしろ人間の本性上、免れえないものとして、天の大音響や建物の崩壊に、びっくりして青ざめたり、ぶるぶる震えることを許している。その他の情念についても同じである。ただし、その場合、賢者の判断が健全に保たれ、理性の状態がいかなる変化もこうむらず、驚愕や苦痛にいささかの同意も示さないことが必要なのである。賢者でないものは、最初の段階では賢者と同じであるが、次の第二の段階ではまったく違ってくる。なぜなら彼にあっては情念の印象が表面にとどまらないで、理性の座にまで浸透して、これを毒し害するからである。彼は情念の印象によって判断し、それに屈服する。ストア派の賢者の状態が次の言葉に十分に現われているのをよくごらんなさい。/『頬に涙は流れても、心は不動である』」。

 モンテーニュは領主でしたから、自分の領地の農園の中で働く小作人たちをよく観察する機会がありました。そしてときには、自分と彼らを対比して自省することもありました。
  「一体何のためにわれわれはこんなに気苦労な学問で身を固めようとするのか。地上に散らばって、頭を垂れて仕事に精を出し、アリストテレスもカトーも知らず、模範も教訓も知らずにいるあわれな民衆を見よう。だが、自然は、彼らの間から毎日、われわれが学校であんなに一生懸命に学んでいるものよりははるかに純粋で、はるかに力強い剛毅と忍耐の実例を見せている」。
  これはモンテーニュがストア的な見地からの批判を、自分の持っている学問や知識そのものに向けて、真のストア的生活の実践者は民衆たちではなかったか、と反省している例と考えていいでしょう。ここまで徹底して考えをすすめているところが、この時代にあってはきわめて稀な、モンテーニュの進歩性、近代性のあかしです。

 
 

デカルト、精神の自立性を確認
  モンテーニュが亡くなってから四年後の1596年、デカルトが生まれました。デカルトは文字どおり思想と科学の両面において、大胆に近代性と合理性の幕を開きました。彼は法律家の息子として生まれ、スコラ哲学を、次いで法律を勉強しました。しかし彼は、学校で習った学問の中で数学を除く他の学問すべてに失望しました。
  彼は「広い世界で自分自身を教育しよう」と考えて旅に出、まずオランダの志願将校になりました。次いで三〇年戦争を戦っているドイツ軍に入りました。彼はここで有名な「炉の部屋」の体験をもとに「精神指導の原理」という本を書きます。
  その後彼はヨーロッパ各地を旅しましたが、最後にはオランダに居を構えました。その間「屈折工学」「解析幾何学」など、次々と科学的な研究成果を発表しました。有名な「方法序説」が書かれたのは彼が四一歳のとき、「省察」が書かれたのは45歳のときです。

 ファルツ公女エリザベトとの文通が開始されたのはデカルト四七歳のとき、そして彼は彼女の疑問に答える形で「情念論」を書きました。53歳のとき、デカルトはスウェーデン女王クリスティーナの再三の招待を断りきれずストックホルムに赴き、翌年ここで客死しました。
  デカルトは有名な「われ思う、ゆえにわれあり」によって、思考者としての自立性と自由とを高らかに宣言しました。彼はこれによって古代の哲学者が立っていた位置、すなわち自分の理性を頼みとし、その判断に従うという原則的な位置を再確定したのです。
  「われ思う、ゆえにわれあり」とは、いかなる他者の介在も必要とせずに、そして神の存在をも必要とせずに、自己認識が可能だということであり、自分がいっさいの認識と思考の主体者として、あるいは責任者として考え、判断できることを意味しています。これはストアの賢人たちが間接的に主張し、前提としてきたことでした。

 モンテーニュの生活もそうでしたが、デカルトの生活や行動も古代のストア哲学者のそれとはまったく違っていました。ちなみに、彼は科学者でした。彼はものを考えようとするとき、あくまでも数学的に、厳密に、実証的にとらえることを第一義としました。「われ思う、ゆえにわれあり」も、彼にしてみれば、数学的に到達する当然の結論だったのです。
  しかしこの時代、世の中はキリスト教万能の時代でした。キリスト教の狭義に逆らうような発言をすることは困難であり、危険でさえありました。折りしもイタリアではガリレオが断罪され、このニュースはデカルトにももたらされました。このときデカルトは地動説を支持する「宇宙論」を書き上げていましたが、ガリレオのことを聞いて本の発行を断念しました。

 古代の闘争的なストア哲学者なら、そのときのデカルトにいったかもしれません。「何をびくびくしているんだ。自分の所信を勇気を持って発表すればいいではないか。そのために首を切られるというなら、それでもいいではないか」。しかしデカルトはこれが蛮勇に過ぎないことを知っていました。
  たとえば、「省察」の序文は次のように始まっています。「いとも賢明にして著名な方々、聖なるパリ神学部の学部長ならびに博士諸氏に」。これに続く文章は明らかに、デカルトがキリスト教の価値観の枠組みに抵抗するつもりはないことを弁じた「エクスキューズ」です。彼がキリスト教関係者を無用に刺激したくない、という配慮は、彼の書物のいたるところに見られます。
  たとえばスウェーデン女王とのおつきあいなど、デカルトの社交性のあらわれです。ちなみにデカルトはスウェーデン女王を喜ばせるために、女王をたたえる詩を書いたりしています。しかしながらモンテーニュと同じように、デカルトはその内面においてきわめてストア的でした。彼は自分の活動方法を説明して「方法序説」の中でこう書いています。

 「私の・・格律は、運命により、よりはむしろ自分にうち勝とう、世界の秩序を、よりはむしろ自分の欲望を変えよう、と努めることであった。一般的にいえば、私どもの権力の埒内にそっくり有るものは、私どもの思想だけである。従って私どもの外なるものについては最善を尽くしたのち、なお私どもの成功を妨げるものがあれば、私どもとの関係上、そのものはすべて絶対的に私どもの手の及ばぬものであると信ずるように自分を仕つけること」。これはそのままエピクテトスの思想に通じるものといっていいでしょう。

 
 

情念を解脱するためのマニュアル「情念論」
  デカルトがもっともストア的であり、かつデカルト的であったことを証明する書物、それは何といっても最晩年に書き上げられた「情念論」です。彼は、私たち一人一人にとって最終的に課題となるのは感情のコントロールであると考えました。これまで私たちが見てきたストア的な哲学者も、すべて「情念のふりまわされぬよう自制心を養い、徳を目指す」ということを自分に課する重要な戒律としてきました。
  よく考えてみると、「できるだけ質素に生活し、ありあわせのもので満足する」のも、情念の働きに関係しています。なぜなら、私たちは誰しも欲望という情念を持ち、人によく見られたいという見栄の感情を持っているからです。「逆境に耐えられる」ということも、情念に関係しています。逆境にあってくじけたり、落ち込んだりするようでは仕方がないからです。
  それに「理にかなっていれば、他人の評価を気にしない」というのも、大いに情念に関係がありますね。だからデカルトは、私たちが情念にどのように対応することができるかによって、私たちの「徳」や「幸福」が決定づけられるのだと考えました。これまで私たちはストア的な賢者の条件をいくつかに分けて考えてきましたが、デカルトはこれを「情念」というキーワード一本にまとめ、「これが決め手だ」と考えるに至ったのです。

 「情念論」をデカルトはこう書き出しました。「現存する古人の学問がいかに不備であるかは古人が情念に関して記したところにもっともよく現われている」。
  デカルトにいわせると、これまでの学者たちは、情念があまりにも各人の身近にあったので、情念が何であるかについて、しっかり観察せずに論議を進めてきたといいます。情念を考えるには、もっと情念そのものに近寄って、これを観察しなければ駄目だというのです。確かにそういわれてみれば、これまでこの点について指摘した人物はいませんでした。
  デカルトはすでに人体解剖をやっていました。彼はこの時代としてもっとも先端的な医学的、生理的な知識を持ち、いわば身体構造に関する情報を開発し続けていました。彼は人間の身体構造、神経の働きに関する研究成果をもとに「情念とは何か」を、科学者として語ろうとしていたのです。
  彼は情念の働きの基本は身体構造にあると考えました。身体構造を抜きにして情念を考えても意味はないと考えたのです。その上で、彼は「心」の働きが「脳」に関係していることを指摘しました。デカルトによれば、生物を生命体として活動させるのは、生きた脳によって作られる「動物精気」です。

 このような予備的な考察を行なった上で彼は心には「能動的な側面」と「受動的な側面」があると考えました。能動的な側面は各人の意志であり、受動的な側面が情念です。情念は外部からの刺激が知覚されることによって生じますし、想像によっても生じます。デカルトは、この情念の作用について次のように考えました。
  「人間におけるあらゆる情念の主要な作用は、情念がいまや身体をして取らしめようとする態度を、さらに心が意志するよう、心を刺激し、仕向けるにあるということを注意せねばならぬ。したがって恐怖感は逃げるように心を刺激し、勇猛心は戦おうと欲するように心を刺激する。他の情念についても同じである」。
  デカルトの意見を私なりに要約すると、「情念は生理的な働きであって、私たちが生理的に混乱したり、想像的なものからでも刺激を受けると否応なしにその反応として生じる」ということになります。したがって、「刺激に応じて恐怖や、怒りなどの感情的な反応が生じることは何人にも避けられない」ということになります。
  では、私たちに生体としての感情的な反応が避けられない以上、情念をコントロールできないのでしょうか。これに対してデカルトは「指導よろしきを得て情念に対し絶対権を持ち得ぬほど薄弱な心は存在しない」といい切りました。彼は情念の働きが意志に作用し、意志が情念の働きにも影響を与えることに着目しました。

 
 

幸福を実現できる工夫こそ「知恵」
  ひっきょう私たちが幸福かどうかを決定づけるのは「感情」「情念」の状態によります。感情の原始的な働きそのものは変えられないけれど、感情の動きを野放しにせず、これを訓練することによって常に幸福であるように自分の心を統御することはできるのだ、というのがデカルトの結論でした。
  私はあるとき、レタスを食べていて、葉っぱの間から中から生きたミミズが出てきて驚いたことがあります。私はしばらくレタスを食べられなくなり、敬遠していました。これはレタスの問題ではなく、刺激と想像力の問題、すなわち情念の問題です。
  デカルトも「たとえば、おいしく食べている食物のなかで、はからずも汚物に行き当たった場合、行き当たったその驚きが脳の状態を大きく変化させ、それ以後は、今まで好んで食べていたにもかかわらず、その食物を見ては嫌悪の情を禁じ得なくなるようなものだ」といっています。
  このような情念から自分を救済するには、デカルトは物事に対して正しい知識を持つことと、そして自分自身を訓練することが必要だといっているのです。

 たとえば、「生きたミミズが入っていたということは、野菜が無害で、新鮮であることの証明である」「ミミズに毒があるわけではない」というのは、正しい知識です。レタスをこまかく刻んだ状態から食べるのに慣れていって、次第にサイズを大きくして食べられるようにする、というのはある種の訓練です。
  デカルトは自分にとって有害な情念は、これを正しい知識と訓練によって排除するように私たちにすすめているのです。「情念論」の結びで、デカルトは次のように述べて私たちを励ましています。

 
 

よい情念の動き
  「もっとも、心には心だけの快楽があり得る。しかし身体と共通の快楽こそは、全く情念の左右するところであり、したがって情念に最も強く動かされる人は、無上の喜びをこの世において味わうことができる。なるほど、情念を活用することを知らず、また運命にめぐまれない場合、その人は人生に無情の苦しみを見出すこともあり得る。しかし知恵が特に有用であるのは、それが情念を完全に支配し、情念を巧みに処理することを教える点にある。その結果、情念のひきおこす禍もきわめて耐えやすいものとなるばかりか、すべての禍からかえって喜びを引き出すこともできるのである」。
  デカルトの学説は今日では「人間機械論」とか「心身二元論」などといわれ、批判され、忘れられようといます。しかし彼は心の宿るところが身体であることを明確に規定し、心は情念に影響を受けるが同時にこれを支配することもできることを、解剖学的な知見にもとづいて明らかにしました。私には通常語られているように、デカルトが人間を単なる「自動機械」であると主張したり、「心と体は別物」と主張したとは思えません。

 そしてデカルトが情念を支配する心の働き、すなわち幸福を実現できる人間的な工夫を「知恵」と呼んだことに注目したいと思います。ここにおいてストア主義者たちが「情念にふりまわされぬよう自制心を養い、徳を目指す」としてきたことが、デカルトによって科学的に解明されていることが分かります。すなわち、それは「情念の何たるかを知り、情念をコントロールする知恵を学び、自分自身を正しくトレーニングする」ということに他ならなかったのです。
  彼は言葉の上では、あたかも古代のストア的な賢者たちを批判しているように見えますが、実際に彼が行なったことは、ストア賢者たちの足取りを彼自身の科学的研究によって裏づけ、さらに適切に表現し、再構築することだったのです。

 
   
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