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ストア賢者に学ぶ
 
第9章 ストイシズムを批判した人々

パスカル、エピクテトスに噛みつく
  デカルトが生まれてから27年後に、もう一人の科学者にして天才数学者、パスカルが誕生しています。彼は惜しいことに40歳前に亡くなってしまいました。
  デカルトは彼が学んだ学問のうち数学だけを評価し、何かにつけて数学的な発想をすることを心がけていました。ちなみに「代数幾何学」はデカルトのみごとな業績です。たとえばA×B=を、AB=Cというような記号や、数字や記号の右肩に2や3の小さな数字をつけて二乗や三乗を表現できるように工夫したのもデカルトです。
  これに対してパスカルは、微積分学の研究、円錐曲線の研究、確率の研究、数三角論の研究などに目覚しい業績を残しました。史上最初の機械式計算機を作ったのもパスカルです。パスカルが活躍していた頃、すでにデカルトの論文はいくつか発表されていました。パスカルはデカルトを知っていましたし、実際にデカルトと面談したこともあります。この二人の天才は一体どんなことを話し合ったのでしょうね。

 二人は当然相手を意識しました。結果として同時代のこの二人は、思想的にはまったく反対の道を歩むことになりました。その顕著な相違がストイシズムに対する二人の基本的な態度や考え方にあらわれています。
  パスカルはフランスのクレルモンというところに生まれました。彼の父親もデカルトと同じように地方の法律行政官でした。デカルトの父エチエンヌは数学や科学に教養の高かった人で、自力で息子パスカルを教えました。パスカルは小さいときから数学の天才をあらわし、父親とともにパリの科学アカデミーに出入りし、一六歳のときには早くも「円錐曲線試論」を発表して人々を驚かせました。このときに発表された原理は「パスカルの定理」として知られています。
  その後彼は科学者として、あるいは数学者としての業績を次々と残しますが、1654年一一月、突然霊感を得て宗教に目覚め、ポールロワイヤル運動に参加しました。ポールロワイヤル運動とは、当時正統とされていたイエズス会のたるんだ風紀を批判した宗教勢力で、この主張は主導者であったジャンセニウスの名を取ってジャンセニスムとも呼ばれています。

 彼は信仰を告白し、ジャンセニストの本拠となっていた修道院、ポールロワイアル・デ・シャンに隠遁しました。もっともパスカルは彼は修道士として生活をしたのではなく、この修道院に一室を与えられ、ここで聖典を研究したり、ときにはパリにでかけるというように、聖俗両面の生活をしたようです。
  パスカルといえば、「人間は考える葦である」や、「クレオパトラの鼻が低かったら、世界は変わっていたろう」などの名言で知られる著作「パンセ」によって有名ですが、この本は彼の宗教家としての信念を折々に綴ったものを死後に編集したもので、マルクス・アウレリウスの「自省録」と同じような性格を持っています。

 

ド・サシ神父と面談する
  パスカルがポールロワイアルに行くことを決意したとき、修道院側でパスカルを受け入れた最高責任者はド・サシという神父でした。この人は聖アウグスチヌスの研究者として深い研鑽を積んだ人でした。彼はパスカルの仲間入りを歓迎し、パスカルにインタビューしました。そしてパスカルに向って、「あなたがいま一番関心を持っておられることを自由にお話ください」、ともちかけました。
  このインタビュー記録が今日残っています。そのタイトルは「エピクテトスとモンテーニュに関するパスカルとサシとの対話」というものです。このときパスカルは、自分にとって一番関心のあることとして、すでに私たちに親しいエピクテトスとモンテーニュの名をあげ、この二人の思想家について述べることを希望し、サシ神父はこれを聞きました。

 ですから私たちは、パスカルが代表的なストア賢者と、ストア的な考え方を是認していたモンテーニュに対してどのような考えを持っていたのかを、明確に知ることができます。またパスカルがどんな話題を選んでもいいのに、わざわざストアの思想をテーマにあげたということから、パスカルがストア的思想にことのほか強い関心があったこと、またその理由なども知ることができます。
  このインタビュー記録は同席した第三者によって書かれました。記録者はサシ神父の親友フォンテーヌという人であろうと推定されています。
  記録の書き出しは「そのころパスカル氏もまたポールロワイヤル・デ・シャンに身をよせた。この人がどういう人であったかは改めて言うまい。この人は全フランスのみならず、全ヨーロッパの称賛を受けていたのである」となっています。
  パスカルは対話の中でエピクテトスについてどのように述べたのでしょうか。彼は「エピクテトスは世の哲学者のうちの人間の義務というものをよく知っていた一人である。彼の何よりもまず望むのは、神を自分の主なる対象と見ること、神が正義を持って万物をおさめたもうことを信ずること、神に心から従うこと、・・かようにしてこの気構えをしていかなる嘆きいかなる不平をもおしとどめしめ、いかに苦しい出来事にも安らかに耐えるよう心をととのえしめること、これである」。

 「(エピクテトスはいった)与えられた役をうまく演ずるのは君のことであり、役をえらぶのは他人のことである。毎日眼前に死をおくがよい。またじつに耐え難く思われるあらゆる苦痛をおくがよい。いやしいことを一切考えるな。また欲望を過度に抱くな」。
  これはエピクテトスの思想の概略としてはほぼ正しいと私には思われます。「神を自分の主なる対象と見ること、神が正義を持って万物をおさめたもうことを信ずること、神に心から従うこと」というくだりは、いかにもキリスト教的な枠組みで説明しているように受け取れますが、パスカルはエピクテトスのいう神が「ゼウス」であることを承知しているのですから、彼がエピクテトスをの思想上の特質を、私たちと同じように考えていることは間違いありません。

 
 

「エピクテトスもモンテーニュも傲慢だ」
  それではパスカルはエピクテトスをどのように批判しているのでしょうか。「これが人間の義務をよく心得ていたこの傑人の光である。私はあえていうが、もしこの人が、自分の持つ無能力もまたよく心得ていたのであったならば、礼拝せられるに値したことだろう。というわけは神でないかぎり人々は一をも他をも説き教えるはできないのである」。
  ご承知のようにエピクテトスは「権外」「権内」という区分をしましたが、パスカルはエピクテトスが、これだけは自分の「権内」にあるとしたことがらについて、「彼は慢心し、これに溺れた」というのです。エピクテトスが「権内にある」とした究極のものは、自分の精神であり、判断力です。パスカルはこれを「悪魔的な倨傲の原理である」と断罪します。

 おそらくパスカルにいわせると、エピクテトスの「人間に固有の自立的なものがある。それは神の属性の一部だ」という考え方が気に入らないようです。ということは、パスカルは人間には神を超えて、あるいは神に関係なしに、人間に精神の自立性があると考えるのは間違いだ、と思っていることになります。
  パスカルは「たとえば魂は神の本体の一部であるとか、苦悩や死は不幸でないとか、ひどく迫害されるあまり神がわれわれをよびたまうのだと考えるほどにいたったときには自殺してもよいとか、なおそのほかそういう誤謬に導いて行く」といってエピクテトスを攻撃します。

 次にパスカルはモンテーニュの話に移ります。「この者はキリスト教国に生まれ、カトリック教の信仰を告白しており、その点何も格別のことはない。・・モンテーニュは実に一切のものが疑われるべきであるとするのであり、そのゆえにこの疑いみずからが立場を失うにいたる。・・なぜならばもし疑うといえば疑うということを少なくとも確言したこととなり、おのづと矛盾するからである」。これはいかにも分析家パスカルらしい洞察です。
  パスカルは「彼は全くピロンの徒である」といいます。これは私たちがすでに第五章で出会った懐疑派の祖ピュロンのことを指し、モンテーニュはその追随者であるということを意味しています。そしてパスカルは次のようにモンテーニュを非難します。
  「それゆえに彼は人間のあらゆる行為や歴史上の問題を、ああしてみたりこうしてみたり自由に最初の一瞥に従い頭の働きを理性の規則にしばられないで、いい加減に判断する。理性など偽りの尺度しか持っていない。つまり彼は自分を例にとって同一精神に数々の矛盾のあることを示して有頂天になっている」。

 「かようにしてモンテーニュは神と真理とが不可分のものであること、それゆえ神が存在すれば、存在しなければ、また確実であれば、確実でなければ、真理もまた必然的に存在し、存在せず、また確実であり、確実でないことをさとらしめるのである」という具合です。
  強い信仰を持っていたパスカルにとって、モンテーニュの多面的な精神が、いい加減で、懐疑主義的で、不定見きわまる不真面目なものと見えたことが分かります。それにしてもこのときのパスカルのモンテーニュに対する非難には、かなり感情的な不快感が露呈されていたようです。
  パスカルに面談したサシ氏の反応と、記録者としての印象が次のように記されています。「『おお真理の神よ! かかる推理の妙を知れる人々はそれゆえをもっていっそうあなたに快いであろうか』。サーシ氏は、みずからの拵えた刺で身のいたるところをつき刺し、かき裂くこの哲学者を嘆いたのである」。

 ポールロワイヤルの聖職者たちには、モンテーニュのことを話しているうちに激昂を抑えられなくなってきたパスカルを、痛ましそうに、同情しながら見ていたのですね。
  ところで、パスカルのモンテーニュに対する反論は少々行き過ぎているように思えます。すでに見たように、モンテーニュは自分の意見のあり所を明確にしています。すなわち彼はソクラテスに始まるストア的な賢者の道をよしとしているのであり、ここを思想的な基盤としています。彼はキリスト教徒として育てられはしましたが、当時の現代人としての複雑なアイロニーの精神を持ち、いうなれば古代の賢者の列につながるヒューマニストだったのです。
  これに対してパスカルは「パンセ」の中でも次のようにいっています。「われわれが徳の中に身を持しているのは、われわれの力によってではない。むしろ、相反する二つの風のあいだに立っているときのように、対立する二つの悪徳の均衡によってである。それらの悪徳の一方を取り除いてみよ。われわれは他方の悪徳に陥るであろう。・・ストア派の人々のとなえることはかくも困難であり、かくも空虚である」。

 
 

ペシミズムは健康のせい?
  パスカルのこの独特のペシミズムは、ストア的な、自己の意思の力を信じる考え方とどうしても相容れないものがあります。またペシミズムを別としても、パスカルは哲学者である以前にすでにキリスト者であったのであり、信仰者としてのパースペクティブが固定されていました。
  それにしても私が驚くのは、パスカルがテーマを選定するに当たって、なぜよりによってエピクテトスとモンテーニュを選んだかということです。もし嫌いな作家なら話題にしなければいいではありませんか。ところが「パンセ」を読むと、彼がモンテーニュに惹かれ、エセーを何度も繰り返し読んでいることがありありと分かります。
  またストア派の哲学者をこき下ろしながらも、彼らについて幾度もコメントしています。つまりパスカルは、どこかで精神の自立を主張するストア的な思想に、魅力と嫌悪の両方を感じないではいられなかったのです。おそらく彼の信仰を固める上で、ストア的な考え方が一つの誘惑であり、同時に「試練の石」だったに違いありません。

 もうひとつ私がパスカルに疑問を感じるのは、実証的であることを何よりも大切にしている科学者の彼が、どうして精神活動の領域において突如として神秘主義者になってしまうのかということです。たとえば、パスカルはアリストテレスを絶対化してきたスコラ哲学の、「自然は真空を嫌う」という命題に反論するために幾度も実験を重ねました。
  彼は水銀柱を作り、これを平地と高い山の上の両方で測定し、水銀を押し上げているのは空気の圧力であること、水銀の上にできる空間が真空であることを確認しました。その上で、彼は「実験こそ自然学において従うべきまことの師である」といい切ったのです。これほどの実証的精神が、宗教の問題になると突然非実証的になってしまうのですから不思議です。
  これに関してパスカルは次のようにいっています。「歴史、地理、法律、言語、そしてとくに神学・・については、たんに著者たちが記したことを知ろうとしているにすぎないのであるから彼らの書物にたよることが必要になる。なぜなら、それらのことがらについて人が知りうることはすべてその書物の中に含まれているからである。・・それになにも付け加えることができないのは明らかである」。

 また次のようにいいます。「それらについてわれわれについて教えることができるのは権威だけである。ところで、この権威が主に力をふるうのは、神学においてである。なぜならそこでは権威と真理とは、離せない関係にあり、われわれは権威を通すことによってのみ真理を知るからである」。
  今日では、歴史も地理も法律もすべて科学の対象です。パスカルが「それにはなにも付け加えるものがない」とした領域の仕事に関して、毎日のように新しい事実がつけ加えられ、日々学問が進歩しています。おそらくパスカルは「自然科学の領域」と「精神の領域」を明確に区分し、精神の領域に関して自然科学的な態度を適用することは間違いだと思い込んでいたのですね。
  それにしても「神学的な真理を与えてくれるのは、権威だけだ」というパスカルの意見は、彼の科学的な明晰さとはあまりにも対極的な素朴さを示しているではありませんか。デカルトは同時代に同じような境遇を生きた人ですが、デカルトにはこの素朴さは見られません。

 ところでパスカルがある夜、神を見たという話が有名です。彼はこれを契機としてキリスト教への回心を固め、ポール・ロワイヤルに入りました。彼はそのときの体験と感激を大急ぎでメモに書きつけ、絶対に忘れないようにとそのメモを自分の衣服に縫い付けました。これが有名なパスカルの「メモリアル」です。
  アランはこれに関して次のように、いささか意地悪にコメントしました。「病身で苦しんでいたパスカルは、たくさんの星を見ておびえたものだった。そして、彼が星を眺めながら荘厳な戦慄を感じたのは、たぶん、窓際で冷えこみ、それと気づかなかったことが原因だったにちがいない。他の健康な詩人だったら、女友達にでも話しかけるように話しかけるだろう。そしてパスカルも詩人もどちらも、星空についてきわめてすばらしいことを、問題外のすばらしいことを語るだろう」。

 デカルトとパスカルの大きな違いは、彼らのストア的な思想に対する受容態度にあらわれています。私はアランがパスカルの病気がちな体質に触れているのは賢明であると思います。デカルトも病気がちの人でしたが、彼は身体を鍛練して、健康になりました。パスカルはかわいそうに体質が虚弱で、短い生涯を通してずっと病人でした。

 おそらくデカルトの健康は、強い自己信頼、自分の意志を支配することの自信につながっていたのです。これに対してパスカルの身体的な不安定は、彼に強い自信を持つことを許しませんでした。彼は肉体的な条件からして終始悲観的で、魂の救済における他力本願を考えざるを得なかったのです。
  こうしてみると私には、古代のストア賢人が「心身を鍛える」ということを重要なライフスタイルの一環として掲げていたことを納得できるような気がします。それは少なくとも肉体を健全に維持することによって、環境の苛酷さに対して身体の自由、それゆえ精神の自由を確保するための重要な戦略だったのです。

 
 

哲学は大学へ
  ストア哲学はヨーロッパ近代の幕開けとともに、すっかり過去のものとなりました。ストア的な合理主義は科学的な合理主義に、精神的な倫理観は宗教改革とその試練をへたキリスト教が代弁をするようになりました。産業革命が発展し、社会資本が蓄積され、人々の暮らしは文明開化されました。
  わざわざぼろをまとって犬のように生活した古代の哲学者たちのことは、遠い昔語りになりました。哲学は人々の生活を離れ、もっぱら大学の講壇で取り扱われるようになりました。そして「哲学すること」と、「自分の思想に従って生きること」とはいつのまにか別物と見なされるようになりました。

 近代、現代のすぐれた思想家たちがストイシズムをどのように考えたか、これをたどって行くことは私の手に余ることです。けれど、カントやヘーゲルなどの偉大な思想家がストイシズムについてどのような考えを持っていたかを少しばかりチェックしてみたいと思います。
  カント(一七二四〜一八〇四)はどちらかといえばストア的な哲学者でした。彼は生涯独身を守り、非常に規則的な、謹厳な生活を送ったことで知られています。彼の「純粋理性批判」は、哲学を志す人々のバイブルです。あれを読むとカントはいかにも理屈っぽく、気むずかしげに思えますが、カントの人間に関する倫理的な態度は人間性に根ざしており、穏和で、大多数の人々の考え方に一致します。ほとんど平凡といってもいいほどです。
  彼は「人間論」の序文で次のように書きました。「文化におけるあらゆる進歩は、これによって人間が自分を磨くものであるが、それにはこの獲得せられた知識や練達を世のために役立てるという目標がある。しかし人間がそれらの知識や練達を役立てうる世間のうちで、もっとも重要な対象はとえいば人間である。というのは人間こそは人間自身の最終目的だからである」。カントは「人間は手段ではない、目的である」ということをいくども述べています。

 このような思想的な基盤をもとにした彼のストア的な思想に対する判断は、「自己を統御し、節制をめざすという点においてはストア的な考え方はすぐれている。しかし過激であったり一人よがりであることはよくない」ということに帰着するように思われます。彼の倫理的なものの考え方は、どちらかといえばエピクロス的な方向に傾いているようにも思われます。
  たとえば彼は「健康というものは、たんに消極的な無事息災であるにすぎず、それ自体としては感ずることができない。それはさらに、快適な人生の享受を叶えながら、しかも道徳的でのみあるところのものが加わらならなければならない。これが有徳なるエピクロスの、いつでも快活な心という意味である」といいます。

 しかしカントは「社交的な歓楽生活を持たないキュニコス学派の潔癖主義と隠遁者の禁欲とは徳のゆがんだ形態であって、人を徳にいざなうものではなく、優雅の女神よりも見捨てられており、人間性への要求をなすことができないものである」と述べ、ストア賢者の一角を占める犬儒派の極端な潔癖性を批判しています。 
  またカントは次のような例もあげています。「『私は、私が貧困に苦しんだり、病気に悩んだり、捕らわれの身であったりする場合に援助の手を差し伸べてくれるような友人を欲しいとは思わない。私が友人を求めるのは、その友人に助力するためであり、すなわち一人の人間を救わんがためである』と、ストア学徒は彼らの賢者にいわせているが、これこそストア学徒が自ら考え出した賢者の崇高な考え方であった。そして、それにもかかわらずこの同じ賢者は、彼の友人が救われない場合には、『それが私にとって何のかかわりがあろう』と自分自身に向かっていう、すなわち、彼は感応を拒むのである」。

 ここでも彼はストア主義者の、思想的な硬直性を批判しています。これで見ると、カントの考え方は現代人である私たちの常識にきわめて近いものがあるように思えますね。すなわち基本的な道徳は尊重するが、友人や社会から孤立せず、友情を大切に、困った人には同情し、あまり多くを求めずに人生を楽しむ、こんなところでしょうか。こうした穏和な考え方からすると、行き過ぎた潔癖は「徳」に逆行すると判断されるわけですね。

 
 

ヘーゲル、ソクラテスを「生ける芸術品」と評価
  ヘーゲル(1770〜1831)のストア的な思想に対する態度は、カントのそれに、さらに歴史的な洞察を加えたものとなっています。ヘーゲルは古代の哲学者としてとりわけソクラテスを賞揚しました。彼はソクラテスが古代の他の哲学者と異なっているのは、思索する意識そのものを課題にしているからだと指摘しています。ヘーゲルは、ソクラテスに至ってはじめて真の哲学の歴史が始まった、と考えたわけです。
  ヘーゲルはソクラテスの生活態度に触れて次のようにいいました。「しかもソクラテスの徳性は、彼が自分の意志によってみずからの習慣たらしめたところの本当の意味での徳性と見なされねばならない」。ヘーゲルによれば、現代人にとっては徳性は私たちの義務と見なされる傾向があるが、古代人にとっては個人が普遍的人間の形式と考えられていたと指摘し、ソクラテスが自分自身の彫像を刻むように、どこまでも自分自身を彫琢したといっています。
 
  「このような個人(ソクラテス)は作られたものであるのではなくて、それ自身みずからあのような姿へ仕上げたのである。そのような個人は彼らがそうでありたいと願った通りのものになり、その願った姿に忠実であった」。
  ヘーゲルは、「あの時代の偉大な人々もまたそのような芸術作品であった」ともいい、ソクラテスはいわば「生ける芸術作品」であったと表現しています。古代ギリシャのすばらしい彫刻作品群は、今日でも私たちに人間の理想の美を教えてくれますが、あれらの作品を念頭に置きながらヘーゲルの説明を読むと、「なるほど、そうだったのか」とうなづけます。
  しかしながらヘーゲルは、その後に現われる禁欲的なストア派の哲学者たちに対してはカント以上に冷淡でした。ちなみに彼はキュニコスの始祖であるアンティステネスの思想について論評し、「ここにすでに又してもわれわれは、後ほどストア派やエピクロス派によって一層たっぷりと紡ぎ出されて長ったらしいものにされた賢人にかんする退屈なお説教が始まるのである」と書いています。
  ご承知のようにアンティステネスはソクラテスの弟子でした。ヘーゲルはソクラテスを「生ける芸術作品」とまで賞揚しましたがソクラテスの流れを汲むキュニコス派、ストア派、それにエピクロス派などを一まとめにし、彼らが理想とした「賢者像」に対しては痛烈な批判を浴びせました。

 
 

ストア賢者たちを痛罵
  ちなみにソクラテスがいう節制は、「飲み食いの楽しみを最少限度にするところに成立つような節制ではない」とヘーゲルはいいます。彼はソクラテスが斗酒なお辞せず、いくら飲んでも酔わなかったという例を挙げて、「これでみても明らかのように、道徳的お説教のかたちでソクラテスのことを考えてはまったくのお門ちがいである」といっています。
  彼はアンティステネスとディオゲネスを、「非常に教養があった」といって一応は評価していますが、彼らの禁欲節制を目指し、虚栄を排する生き方が、しばしば露悪的であったり、これ見よがしであったりして、不自然なものであったことを指摘しています。

 またディオゲネス以後のキュニコス派についてヘーゲルは次のようにいいました。「・・しかし概して彼らは他人に恥知らずな言動を示すことに満足を見出すような猥雑な乞食以上の何ものでもなかった。哲学の点では彼らはこれ以上、顧慮するに値しないのであって、この哲学にとくから与えられていた犬という名に申し分なくふさわしいものであった。けだし犬はそのような恥知らずな動物だからである」。どうもこれは愛犬家を怒らせるような発言ですね。
  ヘーゲルのストア的な哲学者たちに対する考え方は、次のようなコメント群の中に要約されています。「ストア主義は『自己意識の自由』の一つの形態として生まれた」「ストア主義が世界精神の一つの普遍的形態として登場してきたのは、普遍的な畏怖と隷属との時代であると共に普遍的な教養の時代であったときのことである」。

 「けだし、当時の哲学であったところのストア哲学にしても、エピクロス哲学にしても、懐疑論にしても、中身はそれぞれ違っているにもかかわらず、現実世界の一切に対して精神を無関心なものとするということを目指した点では同じだったのである」。 
  ヘーゲルはストア主義の基本的な課題を「自由」の問題としてとらえました。そして彼らが生きていた時代を考慮しながら、彼らが精神的な自立をめざすために、あえて一般の人々とは異なる賢者像を追究しようとしていたことを認めています。

 しかしヘーゲルはさすがに弁証法の大家です。ストア主義者たちが、既成の価値観を否定しようと思えば思うほど、内心ではそれに反面の価値を与えていたのではないか、と鋭く指摘しているのです。そして彼は、すでにプラトンがディオゲネスに対して指摘したように、ストア主義者たちの虚栄を否定する生き方は、「もう一つの虚栄」という構造を免れなることはできないといったわけです。
  私はヘーゲルのこの指摘を「なるほど!」「さすが!」と思います。しかし人は何らかのかたちで自分の生のスタイルを選ばなければならないものです。私が選ぶスタイルは、結局は何らかのかたちで他の異質なスタイルに対する反論であり、ヘーゲル風にいえば反論としての虚栄を含むことになるでしょう。

 「おれは金持ちだぞ」という生き方が虚栄であるように、「おれは貧乏で満足している」という生き方は、金持ちであることに対する反論であり、貧乏を自慢の材料に使うことになりますから一つの虚栄です。しかし貧乏であることにいじけて、不幸をかこっているよりも、むしろ貧乏を自慢するぐらいの昂然たる生き方のほうがかっこよく、価値があるのではないでしょうか。
  だからヘーゲルがいくら「貧乏自慢も虚栄だ」といってのけたからといって、各人のライフスタイルの価値を決定づけたことにはならないでしょう。むしろ、ライフスタイルの選択は一つの現実の生き方であるのに対して、ヘーゲル的な論証はかしこい学者の思弁に過ぎないのです。ここには、哲学が個々人の生き方そのものだった時代の人々の考え方と、哲学が大学で講じられるようになった時代の、決定的な違いが見られます。
  ちなみにヘーゲルは、キュニコス派の、穴のあいた異様な服装に関連して、次のような面白いことをいっています。
  「私の上衣の裁ち方は流行によってきまり、仕立屋がそのような上衣を結構こしらえてくれるはず。だから何かを工夫などということは私の関したことではなく、ありがたいことにはすでに他人がそれを工夫してくれている。このように習慣とか一般の見解とかに依拠することは自然に依拠するよりやはりましであることは確かだが、しかしそんなことは頭を使うほどのことではない。ただ無頓着ということだけが、その際、主に採られるべき態度でなければならない。事実、ことがらそのものからしてどうでもよいことなのだからである」。

 ヘーゲルにとっては自分の着ている洋服のことなど、「どうでもよいこと」でした。しかしこれもヘーゲル流にいえば、彼は無頓着というスタイルを気取り、ヘーゲル風にこれを虚栄していたのであって、ヘーゲルがいくら洋服に無頓着であったからといって、彼がパジャマのまま教壇に上ったという話は聞きません。
  要するにどんなに無頓着であろうとしても、彼の洋服のスタイルは「権威ある大学教授」風であることから免れることはできませんでした。キュニコス派の服装は、彼らが「服装における世間的な虚栄を拒否する」という思想のもとに選んだキュニコス風の、ごく無頓着なものだったわけで、この意味でヘーゲルはキュニコス派の服装、いうなればライフスタイルを、同じ平面上で批判する資格はなかったのです。

 
 

「哲学者は珍奇な植物」とニーチェ
  ストア主義に対する見解という点でもう一人忘れられない人物がいます。それはニーチェ(一八四四〜一九〇〇)です。ニーチェは近現代に至っての、「哲学と哲学者」の分離を強く意識していました。そして鋭い調子でこういいました。
  「私は誰にも哲学を説きすすめようとは思わない。哲学者が珍奇な植物であるということは必然的であり、おそらくはまた望ましいことでもあるからである」「哲学と徳はほとんどかかわりがない」。産業革命以降、哲学とはもっぱら思弁する学問のことであって、かならずしも本人が「実践すべきこと」ではなくなっていました。
  そして今日、哲学者とはどんな人のことを指すでしょうか。それは大学で哲学を教えている先生のことではないでしょうか。彼らが生徒に教えることは、かならずしも「生き方」「実践の方法」ではありません。彼らが教えるのは哲学の歴史、あるいは理論に関する解説であり、要するに知識に過ぎません。彼らはこういいます。「哲学といっても別に難しいものではない。要するにそれは自分なりに考えるということだ」。哲学教授たちが恐れているのは、生徒たちが「哲学」というタイトルにおびえて、教室によりつかなくなることです。

 このことは「哲学者」が、学校の先生という枠組みから一歩も出ないということを意味しています。かりに「哲学するとは、自分の思想に従ってこれを実践することだ」と定義すれば、哲学者は学校という気持ちのいい楽園から出なければならないかもしれません。現代においては、学校の先生以外で「プロの哲学者」という職業が成立しない以上、もはや「哲学者」に該当する人はいなくなってしまうのです。
  古代のストア的哲学者たちはこの点鮮明でした。「哲学することは、自分の思想に従ってわが身の徳を樹立することだ」という点ではみな一致していたのです。そしてすでにヘーゲルが指摘したように、ソクラテスはみごとな自己完成のお手本としての例を示しました。
  ニーチェは「哲学と徳はほとんどかかわりがない」と大胆にいってのけました。このことは、古典的な意味での「徳」が、もはや今日では通用しないという意味を含んでいると同時に、自分がすでに思弁的な哲学に傾いていて、そこから抜け出せなくなっているということについての、反省と自嘲をも表明しているのです。

 ニーチェはギリシャ古典文献学者として人生のスタートを切りました。私たちが前半に出会ったシノペのディオゲネスやアンティステネスなどの賢者像は、もっぱらディオゲネス・ラエルテスという人の評伝によるものですが、ニーチェはこのディオゲネス・ラエルテスについて、彼が参考にした他の文献などを広範に渉猟してその内容を分析、検証しています。ニーチェはギリシャ古典に対する深い理解を踏まえて、ソクラテスについて、ストア哲学について、そしてエピクロスについて明確に述べました。

 
 

「ソクラテスは道化にしてデカダンなり」
  まずニーチェはソクラテスについて、「彼はデカダンであった」と述べました。彼はソクラテスが、「生は何の役にも立たない」と考え、当時のギリシャの知識人に絶望し、ニヒリズムのかたまりとなっていた、と考えました。だからニーチェはいいます。
  「彼が持っているものは、すべてが誇張であり、道化役であり、カリカチュアであるが、同時にすべてが陰険で、底意をもち、地下的である。――私は、理性=徳=幸福というあのソクラテス的等置が、いかなる特異体質から由来するものかをとらえようとこころみる」。
  なんとも過激な解釈、屈折した意見ですね。ニーチェはソクラテスが貧民の出身者であり、ひどく醜かったということを指摘します。しかしソクラテスは「弁証法」という無敵の武器を携えて広場に現われ、当時の知識人を攻撃した、とニーチェはいいます。しかもいんぎん無礼なやりかたで。彼は理性を暴君にした、とすらいっています。

 ニーチェ以前に、過去二千年以上、ソクラテス対してこのような否定的な解釈を下した人はいませんでした。私はニーチェ独特のこの解釈の中に、古代ギリシャ文化に通暁し、プラトンを読みぬいた人だからこそできる視点の鋭さ、真実の響きを発見して驚きます。また同時にニーチェという哲学者の悲劇的で、救いがたい屈折ぶりに度肝を抜かれます。
  ニーチェは自分があまりにもソクラテスに似ているといっています。彼はソクラテスと自分をほとんど同一視し、ソクラテスの中に自分自身を投影せずにいられませんでした。もちろん彼はソクラテス的な「理性=徳=幸福」という、単純な図式を否定しています。それでも彼はこの図式のまわりを不機嫌に巡り、隙があったら吠え立て、噛みつこうとするほどにこの主題を意識していたのです。

 では、ニーチェはストア哲学についてどういっているでしょうか。「ストア哲学とは自己暴虐のことだ」といい、「彼ら(キュニコス派の人々)ときては、獣性や野卑や<基準>をそのままあっさり承認するどころか、あまつさえ証人の居合わす面前で自分や自分の同類手合いのことを弁じたてるほどの気の利いた才知とからかい心を持ちあわしている」と書きました。
  これでお分かりの通り、彼はストア派に対しては否定的でした。それにもかかわらず、彼は「権力への意志」の中で、ストア主義を形容して次のようにいっています。「ストア的類型。長い意志の不撓不屈さとしての、確固さ、自己支配、不動心、平和――深い平安、防衛状態、城塞、好戦的不信――原則の確固さ、意志と知識との統一、高い自尊心、隠棲者の類型。完全な有角の牡牛」。
  彼はストア派を否定しながらも、彼らが「徳」と信じていたものについて、無関心でいることはできず、一方ではそれらを評価していました。

 
 

エピクロスに倣おうとする
  ところで、ニーチェがエピクロスを手放しで高く評価していた、という点は特筆しなければなりません。しかも時折はなはだしく趣旨を変えるニーチェにあって、エピクロスに対する彼の信奉ぶりは生涯変化しませんでした。彼はエピクロスについて次のように語っています。
  「エピクロスは典型的なデカダンであるが、私によってはじめてデカダンであるとみとめられた」「エピクロスは、地下的な礼拝と、潜在的なキリスト教全部と戦った」「最も巧妙な変装形式の一つはエピクロス主義であり、苦悩を軽々しく受け取って、あらゆる悲哀深刻なものに抵抗するところの、将来に向って誇示する或る種の趣味の勇敢さである」。
  彼はショーペンハウアーに私淑したことで有名ですが、ショーペンハウワーのエピクロスに関する次のようなコメントを引用して、感嘆しています。「これこそは、エピクロスが最高の善かつ神々の状態として讃美した無苦痛の状態である。その瞬間こそは、われわれは卑しい意志の衝動から解放されているのである。われわれは意欲の苦役の安息日を祝い、イクシオン(ギリシャ神話における最初の親族殺し。罰として地獄で火炎の車にくくりつけられて回されている)の車は止まるのである」。
 
  ニーチェは一時期エピクロスに倣って、「簡素で自然な暮らし方を心がけ」「ベッド付きの小部屋と一禁欲主義者の食事」をとり、「一切を諦念のうちに暮らす」というライフスタイルを実行に移したこともあります。
  私は本書をソクラテス以前の賢者から始め、ストア的な賢者の中にエピクロスを含めて数えてきました。ストア派もキニュコスもエピクロスも十把人からげというわけです。もっともこの点ではヘーゲルも同じでした。しかしニーチェにあってはソクラテス、ストア派、エピクロスを画然と区分されているわけですね。
  ニーチェの古代哲学に対する深い理解と、独自の見解、解釈に敬意を表しつつ、私は私なりの考えを先に進めることにしましょう。

 
   
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