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聖書の金銭感覚
 
第1章 「金銭感覚」という私たちの性質

お金の形が変わるとき
いま、お金の形が大きく変わりつつあります。いうまでもなくクレジットカードや、バンクカードは形を変えたお金です。電子マネーが日常的な生活の中に入り、インターネット取引も当たり前になろうとしています。時代がお金の形を変えています。
情報化時代のお金とは「お金に関する情報」です。あなたのお金は、おそらく一部は動産や不動産でしょう。しかし、いわゆる「お金」の大部分はあなたの預金通帳、あるいは証書に記された数字、すなわち「情報」でしょう。
今日では銀行間送金が当然のことになり、現金決済の比率が低下しています。これからはますますこの傾向が強まるでしょう。お金のやり取りは、そのほとんどが銀行の残高の増減操作だけのことになる可能性があります。だから、コンピュータがこわれたら大変なことになります。

人類は長らく「物としての貨幣」を使ってきました。貨幣以前の時代、私たちは物々交換をしました。やがて交換に便利な、比較的標準的な家畜や穀物が貨幣の代わりをするようになり、ついに商人たちの間で通用する金や銀が一般的になりました。
形の整ったコインが使われるようになったのは、紀元前七世紀から六世紀ごろのこととされています。以来、人類は三千年にわたってコインを中心とする貨幣を使い、ごく最近になって紙幣を使い始めました。しかし紙幣も「物」であることに変わりはありませんでした。
しかしいま人類は、新しい時代、「お金を稼いだり、使ったりするのは、銀行の残高を変化させることである」という時代に移行しようとしています。こうした変化は私たちの行動をどのように変えてゆくのでしょうか。私には見当もつきません。
しかしここで、私たちは新しい時代の入り口に少し立ち止まって、自分が金銭とどのようにつき合ってゆくかを考えるべきではないかと思います。よく「幸福はお金で買えない」といいますが、私たちの生活が金銭によって保証されていること、しかも金銭が私たちの幸福や不幸に直接関わっていることは周知の事実なのです。

フランスの思想家アランは、「下部のものが支え、上部のものが照らす」といいました。「下部のもの」とは人間でいえば下半身、すなわち健康であり、日々の生活であり、それを保証する経済のことです。これに対して「上部のもの」とは、情熱、知識、知恵のことです。アランはこの両者のバランスが取れてこそ一個の完成した人間なのだ、と考えました。
この考え方に立つなら、金銭の問題は明らかに「下半身」の問題です。「下部のもの」が私たちをしっかり支えていてくれないと、生活が成り立ちません。しかし「自分にとって金銭とは何か」を知り、「金銭とどのように付き合うか」という自分なりの哲学を持つことは、下半身のあり方を照らすことであり、これは「上半身」の仕事です。とくに金銭が完全な情報となってゆく時代にあって、どのように各人がお金に関する感覚を持つかは、各人にとって大きな課題であると思います。
私たちの上半身にとって重要なことは、たとえ金銭の形式は変わっても「正常で、健全な金銭感覚を持つ」ことではないかと考えます。では、何が正常で、何が健全なのでしょうか、また金銭感覚とはそもそも何なのでしょうか。

 

テキストとしての聖書
私はこの答えを見出すために、古代人の「金銭感覚」、あるいは「金銭思想」をたずねることにし、そのテキストとして、「聖書」を読み直すことにしました。
歴史をふりかえるとは、「どう変わったか」を見ると同時に、「何が変わらないか」を見ることでもあります。とくに私たちから遠い時代に関して「何が変わらないか」を知ることは、歴史を通して「人類にとって不易なもの」を知ることにつながり、それは私たちに「何が正常で、何が健全なのか」を知る手がかりを与えてくれるのではないかと考えます。
旧約聖書はユダヤ教徒のいわば正史ですが、これは新約聖書とともにキリスト教徒の共通のテキストでもあります。聖書はおそらく人類が保有しているもっとも古い、しかももっとも整った文献です。有史以後読まれた書物としては、聖書が最大のベストセラーであることは誰も否定できないでしょう。

キリスト教的西洋文明をベースとするものの考え方は、キリスト教徒ではない私たちの日常生活をも深く規定しています。どの程度人々の精神生活やライフスタイルを規定してきたかは別として、それは私たちの生活や、ものの考え方に影響を与えています。
たとえば私たちは一週間に一日仕事を休みますが、そのライフスタイルのもとは旧約聖書にあります。年号の数え方もそうです。私たちが好むと好まざるとに関わらず、「文明化する」とはキリスト教的西洋文明に同化することを意味してきました。少なくともこれまでは、「国際化する」とは、「キリスト教的文明」とつき合うという意味でした。
これからはどうなるか分かりませんが、今日の私たちの考え方と聖書の間には、何がしの線がつながっています。もっとも、いわゆる西欧の人々がみな熱心なクリスチャンだとか、聖書に書かれていることをそのまま信じているなどというなら、それは大嘘でしょう。多くの国では宗教はライフスタイルに刻み込まれている伝統の違いを意味する程度のことでしょう。

私は少しもクリスチャンではありませんし、これから信者になるつもりもありません。けれど現代日本のビジネスマンの一人として、貴重な歴史的テキストとしての聖書を読み返してみたいと思います。この中に人間にとって共通の何か、私たちに参考となる「不易なもの」を発見する手がかりが見つかるのではないかと期待するからです。

 
 

金銭感覚とは何か
私は本書において「貨幣の歴史」や「世界経済史」に立ち入るつもりはありません。それは私の手にあまる主題です。これらに関しては、立派な研究者が数多くおられ、関連書物もたくさんあります。私は「金銭感覚」、すなわち、人々が金銭に対して持っているフィーリングを知りたいと思うだけです。
私は30年以上経営コンサルタントの仕事をやってきました。経営コンサルタントとは、自分自身の経済活動は棚に上げて、契約先の会社の経済状況が改善できるようにあれこれ助言、進言するという、たいへんあつかましい仕事です。
コンサルタントはその会社の経営内容や活動の現状を観察し、外部環境との関係で、その会社が現在やっていることが利益創出の面で有効であるかどうかを判断します。そして不合理な点があればそれを指摘しますし、強みがあればそれをもっと伸ばすようにアドバイスします。

アドバイスするときには、状況をよく考え、「こうであるべきだ」「このやり方なら成功できる」と確信した上で方針や方法を提案します。提案が関係者を触発し、あるいは喜んで受け入れられ、メンバーの努力によって成果が実現したときには、本当にうれしいものです。
しかし提案が思ったほど効果を上げない場合もあります。こちらのアイデアが悪い場合もありますが、提案の趣旨がどこかで変更されたために、初期のねらいどおりに機能しないということもしばしばで、そんな場合にはもどかしい思いがします。
そのような場合、コンサルタントが直面するのは、その会社の「経営方針」、それに実行段階でのその会社の「力量」や「企業風土や体質」です。そして経営方針の根っこにあるのは、その会社あるいはトップ独自の「金銭感覚」、あるいは「経済感覚」です。それは会社の「経営思想」を深いところで規定しています。お金に関する思想、これはある意味ではその人の思想の全体であり、会社でいえば会社の思想そのものです。

話を会社にかぎっていえば、会社が新しい事業に投資するかどうかは、金銭感覚によって決まります。未来への投資はある意味で「賭け」に似ています。冒険的な会社は、リスクを冒してでも投資をするでしょうが、慎重な会社は「確実」と思われる投資機会でさえ見送ります。新製品開発のために冒険をしない会社からヒット商品が生まれてこないのは当然です。反面、冒険精神がありすぎて活動基盤を危うくする会社もあります。
かりに新製品のアイデアがすぐれているために商品が売れて成功した企業があるとします。しかし得られた利益をどのように使い、どのように蓄積するかは次元の違う問題になります。一時期成功しても、しばらくすると泡沫のように消えてしまう会社は、どこかで金銭の取扱いを間違えていたことになります。
結果は方法に依存し、方法は考えに依存します。会社の浮沈を決定づけているのは、会社トップの方針であり、その方針はトップの金銭感覚によります。トップが交代すれば、会社の運命が変わる、ということが生じるのです。会社の運命は「景気」によって変わるのではなく、トップの金銭感覚によって変わるのです。

私は三年前に、「バブルのときにかせいだので、キャッシュで五億円を持っている」という人物に出会いました。最近その人に出会いましたので、財政状況をたずねてみました。すると彼は気落ちした様子で答えました。「私の財産は一億円に減ってしまった」。こうした例も本人の金銭感覚がもたらしたもので、誰かが彼の四億円を奪ったわけではありません。
世の中には役人に賄賂を贈ったり、接待したりして、便宜をはかってもらおうとする会社があります。こうした行為も金銭哲学の実践です。賄賂をもらう側にも、それを受け取ることをよしとする金銭感覚が働いています。会社は商法にのっとった活動をしているわけですが、その背後には企業のビヘイビアを規定する固有の金銭感覚があると考えていいでしょう。

 
 

金銭感覚はどのように形成されるか
たとえばセールス担当者が月末に販売先に集金に行くとします。このとき約束通り代金を支払ってくれる販売先もありますが、そうでない場合もあります。支払わない相手に金がないわけではありません。単に支払いを渋っているのです。このようなとき、その債務者は「金はすんなり支払うものではない」「一日でも支払いを延ばせば、金利分だけ得をする」などという、奇妙なしかしかなり一般的な金銭感覚にしたがって行動していると見ていいでしょう。
だからセールス担当者が「顧客は約束どおり支払ってくれるものだ」「買ったものの代金はかならず支払ってくれる」などという素朴な金銭感覚を持っていると、彼はいずれひどい目にあうことになります。彼だけでなく、会社がひどい目にあうのです。
セールス担当者に関していえば、「売るのが私の仕事で、回収はおまけだ」などと考えているようでは仕事はつとまりません。「販売先は支払いを渋るのが普通なのだ。悪くすると支払ってくれないかもしれない」と考えているくらいの担当者のほうが有能なのです。ビジネスマンの有能さは、その金銭感覚にかかっているといっていいでしょう。

ある大デパートの会長は、日ごろ業界のドンとして関係者ににらみをきかせていましたが、経営破綻して記者会見に臨みました。そのとき彼は「銀行はあのときに、借りてくれ、借りてくれといってきた。倒産の責任の一端は金の貸し手にもある」などといいって関係者をあっけにとらせました。この発言の背後にあるのは「借りたものは、もらったもの」という、たいへん粗暴な金銭感覚です。
こうした究極の金銭感覚は、日ごろ仕事が順調にいっているときには外からは見えにくいものです。どんどん投資活動をおこなっているとき、「あの人は経営姿勢が積極的だ」「経営意欲が盛んだ」などと評されます。しかし、彼は地獄の入り口にいるのかもしれません。
いずれにしても、経営活動の背後にあって企業の成功、不成功を規定しているもの、そしてビジネスマンとしての有能さを規定しているもの、その大きな要因の一つが金銭感覚であることは間違いありません。

学校を卒業するとき、「自分で商売をして大金持ちになろう」と考える学生がいるとします。彼が卒業後すぐに独立して会社を経営する、これは少しも夢ではありません。学生が独立して経営者になることは禁じられていません。やりたい人はいつでも事業を起こすことができます。
しかし多くの学生はなぜかサラリーマンになります。このときに、「いったんサラリーマンにはなるが、ビジネスを覚えて独立してやろう」とい考える若者もいるでしょう。あるいは「会社は、自分のような何も知らない、未熟な者に給料を払って仕事を教えてくれる、ありがたいことだ」と考える人もいるでしょう。おそらくこのような人は成功するでしょう。
反対に「危険を冒すのはいやだ。生涯サラリーマンでやっていこう」「できるだけ楽で、まずまず待遇のいい会社で、のんびりとやろう」と考える人もいるでしょう。独立を夢見たが、結果的にサラリーマンで終わってしまった、という人もいるかもしれません。この場合、人生を分けるのはすべて「金銭」についてどの程度の冒険をするつもりがあるか、ということ、つまり金銭についての基本的な考え方です。

地元の大学を卒業するとき、長年の貧乏暮らしに疲れていた母が私にいいました。「おまえ、就職するなら銀行がいいよ。銀行にはいっぱいお金があるから」。私が「銀行にあるお金は、みんな他人のものじゃないか」というと、「けれどお金があるところにいれば、少しはお金に恵まれるかもしれない」と彼女はいいました。
私は母の忠告を一蹴しましたが、今から考えると母の意見が当たっていたような気がします。つまりお金に直接関わる仕事をしていれば、金銭に関する感覚が研ぎ澄まされ、それなりの見識をもてるようになったかもしれないということです。
もっともどこにいても、何を見、何を学ぶかは本人次第です。銀行員でありながら、バランスシートを読めない人もいますし、銀行員でありながら、競馬に夢中になって他人から預かった通帳から引き出す人もいますから、何ともいえません。

 
 

人は金銭感覚にしたがって生きる
個人の金銭感覚に関しては、育った環境や原体験、それに性格や気質が大きく関係しているように思えます。たとえば、ある人は金銭に関して徹底して几帳面ですが、他の人はルーズです。同じ人の中に、几帳面な側面とルーズな側面が混在していたりします。おそらくはその人の性格と日常の心がけが絡まりあって、その人独特の金銭ビヘイビアが生まれるのです。
友達とどこかに飲みにいったとき、「おれにまかせろ」といって、なけなしの財布をはたいてでも友達におごる人がいます。その反対に、どうしてもやむをえない事態になるまで自分の財布には一切手をかけず、徹底的に他人にたかろうと考える人もいます。ワリカンにこだわって一円単位まで均等にしないと気がすまない人もいます。
先日も電車の中で、二人の年配の女性が貸借清算のことで、無理にも相手にお札を取らせようとして慇懃に押し問答する風景を見かけました。これはいずれも、個人レベルでの金銭感覚、あるいは金銭に関する美学、あるいは潔癖観によります。

いずれにしても個々人の金銭感覚は、個々人の特性によって規定され、さらに経験を通して学習されるにちがいありません。その感覚はいつしか各人の思想となり、日々の生活を深いところで規定し、その人の職業や経済力を決定づけます。金銭にかかわるふるまい方は、交友関係を規定し、ライフスタイルを規定し、金銭を原因とする幸不幸を規定します。
人は「どんな仕事をして収入を確保するか」と同時に、「金銭とどのようにつきあうか」という課題を解く必要があります。もし何か思い違いをしていると、たとえ収入があってもそれを保持できませんし、うっかり逸脱的な行動をする可能性があります。
ここで一人の泥棒になったつもりで考えてみましょう。「私は金が欲しい」。そのためには他人から盗まなければなりません。このとき私を規制するのは捕まることについての恐怖感です。被害者の苦痛も予想できますが、現在の私の「金が欲しい」という切実感にくらべると、まず無視できるように思えます。

私は捕まる可能性と、そのときに生じる問題と、盗んだ金によって得られる利得をはかりにかけ、「これしかない」「よし、一丁、やったる」と決意します。
次に泥棒のバランスシートを想定してみましょう。私がAさん宅から、首尾よく現金百万円を盗んだとします。すると私のバランスシートは借方に「現金一〇〇万円」、貸方に「負債一〇〇万円」となります。どうして盗んだ現金が負債勘定になるのでしょうか。それは私が捕まったとき、その一〇〇万円を返済しなければならないからです。
かりに私がその金を持って競馬場に行き、五十万円をスッてしまったとします。すると私のバランスシートは、借方に「現金五十万円」、貸方に「負債一〇〇万円」となりますから、左右がバランスしないことになり、私の自己資本はマイナス五十万円となります。すなわち、私の泥棒としての経営はこの時点で破綻したことになります。

かりに私が残りの現金五十万円についても「飲む」「打つ」「買う」を実践し、持ち金ゼロの状態で逮捕されたとします。このとき私の手元には一見何もないように見えますが、バランスシートの貸方には「負債一〇〇万円」が残っています。私は刑事上の責任や、慰謝料は別として、盗まれた人に対して一〇〇万円の負債を負っていることになります。
泥棒行為とはこのように、負債に負債を積み重ね、良心の呵責(これも一種の負債)や機会損失補償や慰謝料問題は別としても、なお、刑法的なお仕置きを受ける可能性があることを意味するわけですから、とても小銭を盗んでいては割に合いません。結局泥棒という人種の金銭感覚とは、こうした貸借関係についても無知蒙昧であり、客観的な損得勘定ができないほど逸脱的だということになります。

 
 

銀行ギャングも「正義」を基準にする
では、けちなこそ泥棒ではなく、もう少しスケールの大きな泥棒を考えてみましょう。これは何といっても映画でおなじみの銀行強盗でしょう。映画で見られるのは、ぎっしり札束の入ったカバンです。その現金入りのカバンを持って犯人が逃亡します。探偵や警官がこれを追いかけます。追い詰められた犯人が何かのはずみでカバンを手放すと、カバンの口が開いて、札束が花吹雪のように舞います。こうした映画の場面にも金銭思想があります。すなわち、金銭にこだわるのは空しいという思想です。
もっとも最近のギャングはハイテク化してきました。犯人は人質をとったり、不正に入手した核ミサイルの使用を予告して、所定の銀行口座――これはたいていスイス銀行ですが――に莫大な金銭の振込みを指定します。犯人はパソコンのキーを叩いて入金の確認をします。彼らはプロの殺し屋や武器、それにハイテク機器を潤沢に手配しています。
こうしたテロリストまがいのギャングたちも、彼らなりの収入を上げるための投資と準備をおこなっているわけです。しかし、厳重な警備の網をかいくぐることができ、不可能を可能にしてしまうほどのギャングたちが、どうして改めて「金銭=通貨」を必要とするのか、これを一考してみる必要があります。

これについてアランは「暴君も買って支払う」といっています。「泥棒は、自分が持っているものの正当な所有権を主張する」ともいっています。つまり、法律を無視する人々も、どこかで法律に従って取引しなければならず、自分の盗んだものを自分の手元に保持したいなら、また法律の力、正義の力を借りなければならないということです。
無法者も、金銭的原則、すなわち他人が法を遵守することを前提として「無法」なのです。彼らは都合のいいときだけ「無法」を実践するけれども、全面的に無法であることはできないということでしょう。ここには首尾一貫性を欠いた、幼児の金銭感覚が見られます。
私たちはある行為が正義にかなっているか、道徳的かどうかを何時間でも議論できます。つまり、多くの物事の善悪は簡単に決められません。しかしながら、金銭や財貨を相手の同意なしに盗んだり、奪うという逸脱的な行為に関して、正義の概念はきわめて明らかです。犯罪者は、自分が盗んだり奪ったりしたものを使うとき、「これは私のものだ、誰も私のものを奪うことはできない」と主張しなければならず、どうしても矛盾を冒すことになってしまうからです。

アランは「泥棒は、自分のものを盗みもするであろう」といっています。これは、ある種の犯罪人は、自分のものと他人のものを区別することができず、金銭的にだらしがない、という意味です。
考えてみれば、収入があるのに金に困る人は、気前のいい人、すなわち金銭感覚にしまりのない人かもしれません。それにまた会社の金を横領する人には、どこかに「他人の金は自分の金」という金銭感覚があるのかも知れません。もっとも、家庭においても共働きの奥さんが「夫の収入は私のもの、私の収入はもちろん私のもの」などと考えたりしますから、自他の区別は案外難しいのかもしれませんが。

 
 

不確定の時代を迎えて
世の中には「私は思想とか、哲学などには縁がない」という人がたくさんいるでしょう。しかしその人たちも自分の行動を準拠させている何らかの根拠を持っています。けれどもその人がどのように金を手に入れ、その金を使い、蓄積しているかを見れば、その人の思想がわかります。
金銭感覚はこの意味で、思想に先立つ思想、なかば習慣化したライフスタイルです。これはおそらく、その人のすべての生理的条件をあげて作られている思想です。
かりにここにクーデタを夢見る「革命の士」がいるとしましょう。その彼も、行動を起こそうとするその日までは、生活するでしょう。彼はきっとコンビニでパンと牛乳を買うでしょう。彼は彼の金銭感覚に従って金を使い、あるいは金を保管するでしょう。彼は持ち前の上級の思想とは別な思想、すなわち金銭感覚を持っており、それによって日々を生きるのです。

ところで今日、お金の形は情報化しつつある一方で、年金行政は破綻しかかっています。国家の財政そのものが破綻しつつあることは明らかなのです。それにまた金融機関は「ペイオフ」の制度を始めようとしています。かつて銀行は「潰れないもの」でした。しかし今日の銀行は「潰れるかもしれない」ものであり、「財産の保全は自己責任で」という時代になりました。このような時代を、私たちはどのように理解し、受け止めるべきなのでしょうか。
さて、私の金銭感覚は、私をよりよい方向に向かうものでしょうか。それとも破滅に向かうものでしょうか? 私は、私の金銭感覚を意識的にコントロールできるでしょうか。私は、新しい金銭時代の入り口に立って、誰でもが持っている自分の「思想」を確認することに意義があると考えます。
それでは、私たちの思考を導く手引きとして、すぐれた古典の一つである「聖書」をひもとくことにしましょう。なお私が主として用いた聖書は、日本聖書協会「新共同訳一九九二」、それにアメリカ聖書協会「GOOD NEWS BIBLE 一九九二」の第二バージョンです。

 
   
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