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聖書の金銭感覚
 
第10章 金銭感覚の監督

素朴な「第一期」、発展の「第二期
聖書における金銭感覚を、大まかに四つの時期に区分できます。「第一期」は富=価値とされた素朴な時代。「第二期」は交換経済が発達し、貧富の差が拡大した時代。「第三期」は金銭のむなしさが意識され、知恵が説かれた時代。「第四期」は、金銭に関するストイシズムが確立された時代。
「第一期」は植動物型経済システムに対して、人間型経済システムが誕生した時期です。もっとも古い時代、人々はまだ生産と付加価値の関係を意識しません。しかし楽園追放を通して、付加価値生産の意味が意識されるようになります。しかしまだ交換と付加価値の因果関係は意識されていません。「経済」の観念そのものが未熟で、不分明な状況にあります。
この時期、富=豊かな物資であり、同時に価値でした。人びとは豊かな物資を享受し、さらにはこれを求め、作り出すことに疑いを持ちませんでした。ちなみに神は「産めよ増やせよ」といい、物資が豊かであることを良しとしました。

エデンの園が意味するところは無尽蔵、無制限の富であり、労働は不用です。エデンの園がなぜ理想郷だったのか、なぜアダムとイブにとってエデンの園を追われることが不都合なのかを考えたとき、そこには経済的な理由しか見当たりません。
資源と経済についての認識は、「子供から大人」への移行を意味します。経済について意識できる人間は、もはや保護を必要としないのですから、自分でかせがなければなりません。だから神は「(経済の仕組みを知ってしまった以上、お前たちは大人になったのだから)、顔に汗を流してパンを得る。土に返るそのときまで」といいます。
この当時、マネー、あるいはキャッシュという概念は存在しませんでした。しばらくすると交換媒体としての金や銀が登場しましたが、まだコインの形をしていませんでした。これらの金属は重量単位で測定され、他の物資と交換されていました。神に祝福されたアブラハムは今日でいうところの資産家でした。

モーセは人々に「乳と蜜の流れる土地」と「束縛からの開放」を約束しました。この時代、「豊かさ」と「自由」が求める目標であり、神の約束するご利益でした。彼らはこれを求めるために命がけの冒険を試みました。
しかし経済的な繁栄が一本調子で「善」とされた時代に、すでに第二期への因子がいくつか見られるようになりました。私は創世記におけるノアの箱舟事件、それにソドムとゴモラの破壊事件など、いずれも人間たちの経済活動の無秩序さに対する神の苛立ちを表現したものであると考えます。
それにまた「金」に対する人々の異常な執着も、神の気に入りませんでした。聖書の世界では銀が商業に用いられていたのに対し、金はよりシンボリックな性格を持っていました。ちなみに日本語で「お金」というとき、それは「金(ゴールド)」を指していますが、ヘブライ語で「お金」を表す「ケセフ」という言葉は、「銀」をあらわしているのだそうです。

イスラエルの民が禁じられている神の像を作るとき、それはかならず「金」でした。同じ貴金属でも金には、人々の情念を動かす「何か」がありました。異教徒の偶像は金で作られていました。「金」はこの意味で広域にわたる別種の共通言語でした。かくして「金」は、値打ちのあるものでありながら、同時に何かしら罪深いものを象徴することになりました。
「第二期」、人々が交換を通して、経済成長と発展を遂げました。人々の間に貧富の格差が顕在化し、これが社会の当然の仕組みとなりました。所有財産の概念が明確になり、「富」「金銭」の概念が明確になり、税の概念が生まれました。
神も人も望んだ「できるだけ平等に」という原始思想は依然として残っていましたが、現実はそうはいきませんでした。一方に人を使うもの、他方に人に使われるものが生じ、借入れが生じ、担保が生じ、金利が生じました。貧富の差は思った以上の速度で拡大しました。

資本を活用してのビジネスは、単なる個人的な労働の連続からは想像もつかないほど大きな付加価値創造を可能にします。労働が集約された現場では、素朴ながらもアダム・スミスのいう「分業」がおこなわれたにちがいありません。
大農場の経営など資本を活用するビジネスは、資本を持たない労働者=弱者を必要とします。弱者がいなければ、強者の資本蓄積ができません。したがって、この両者を是認する思想が律法の中にも登場します。こうして強者が弱者を扶助し、弱者に恵むことがいいことだとする喜捨、慈善の概念が形成されました。社会福祉思想の原型です。
この社会福祉の思想は、強者が弱者の存在を前提として富むことについての後ろめたさ、罪悪感を拭い去るための方便だったかもしれません。弱者を「生かさず、殺さず」置くための手段だったかもしれません。しかし聖書は弱者におすそ分けを与えることを力強く指定しています。

聖書の平等主義的がもっとも強くあらわれているのは、ほとんど実践されずに終わった「ヨベルの年」の制度でしょう。神は人びとに定期的な豊作まで約束しましたが、人々の貸借関係を清算させ、経済力を平準化させる試みは失敗しました。「富める者はますます富む」という経済原理が、神の理想主義を超えて進みました。
ソロモンは、イスラエル人たちが形成した繁栄の絶頂期に、その富を満喫した王でした。彼は富の極地において人間がどのようにふるまうかを示しました。彼は一方で国民のための神殿を建設し、一方では女性たちを愛しました。そして異教の女性を喜ばせるために、異教の祭壇を作りました。

 

不安定の「第三期」、ストイシズムの「第四期」
ソロモンが死んで国が分裂すると、イスラエル、ユダ双方の国家において社会不安が進み、楽観的なものの考え方が失われました。聖書における金銭感覚の「第三期」が出現しました。多くの人々は近隣諸国からの侵略、そして時には、自国の権力者の専横におびえながら暮らすようになりました。かりに財産を持っていた人がいたとしても、それはいつ失われるかわからない不安定なものになりました。
他方、貨幣経済の仕組みはより発展し、洗練されてきました。この時期の中盤から後半にかけて、ついに標準化されたコインが登場したことを忘れないでおきましょう。この意味では「お金」の意味が、私たちの日常的感覚に近づきました。
「箴言」には、富そのものよりも知恵のほうが重要であるという価値観が示されています。人々は現時点における経済力よりも、それを形成できる知恵、あるいはそれを失わない知恵の重要性に目覚めました。その知恵はときに防衛的なものであり、ときには貧困の中でも幸福であるにはどうすべきかというノウハウを含んでいます。

ついに諦めを説く「コヘレトの言葉」、そして「ヨブ記」が登場します。コヘレトの言葉は無常感にあふれ、仏教的です。ここでは富は持っていても意味のないもの、いずれは他人にむしり取られ、みずからは享受し得ないものとして定義されます。
「ヨブ記」では、人間は神や悪魔など、人知の及ばないものに翻弄されても仕方がないとされます。ここでは、いくら「私は無辜、無実である」とか、「神に忠実である」などと主張しても、何の意味もありません。信仰とご利益は完全に切りはなされます。
かつてイスラエルの民に経済的繁栄を約束した神は、人間に無限の苦痛と試練を与えることを決定し、「メリットなど期待してはならない」といった上で、純粋な信仰を要求します。これは「バビロン捕囚」を皮切りに、ユダヤの民が「国」という社会基盤、活動基盤を失って迫害され、ちりぢりになってゆく運命のプロセスに合致しています。

「ご利益などを期待してはならない」といわれたら、「冗談じゃない、何が神様だ」などといって、宗教に背を向ける人がいそうなものです。しかし聖書を読む限り、多くのユダヤ教徒たちは、つらい状況におかれれば置かれるほど彼らの信仰を強化したかに見えます。彼らの置かれた状況がつらいだけ、彼らは自分たちのアイデンティティを確認する必要があり、経済的メリットが得られないなら、せめて精神的救済を求めた、ということかも知れません。
この点では、彼らの宗教が当初から「豊穣保証」のレベルを超えた、抽象度の高い、精神的なものであったことが、彼らの心のニーズにかなっていました。この宗教の精神性は、民族の運命がより過酷となる中で、より洗練されました。
「第四期」は、金銭に関するストイシズムの時代です。このストイシズムはイエスの時代になって明確な形をとりました。イエスは、もはや国を失い、自由を失い、宗教的な記録と慣習しか持たなくなったユダヤの人々に「地上に富を積んではならない。天に富を積みなさい」と教えました。

彼の思想は、地上における富はむしろ唾棄すべきものであり、これを放棄することが好ましいというものでした。このテキストの原型は「偶像禁止」です。とはいっても、イエスは人びとが金銭に固執していること、実際、金銭なしでは生きていけないこと、金銭が地上において秩序を裏付けていることは十分に知っていたのです。だからこれはイエス流の美学でした。
イエスの経済的知見は専門家的なものではありませんでした。だから、彼は金銭について、あるいは税について、相当誤解をしています。しかしこれが当時の人びとのものの考え方だったのです。彼はコモンセンスのありどころを知っていました。だから彼の言葉には説得力がありました。彼は人々が抱いている金銭感覚にダイヤルを合わせながら、「地上の富、天上の富」、あるいは「皇帝のものは皇帝に」といったのです。
しかしながら、生物全体が経済活動を営んでいる以上、「地上の金銭を捨てなさい」という論理は、実生活に生かせません。そこでイエスの教えに従う人は、経済の仕組みを最少限度活用し、できるだけ正しくあるように心がけて生活する、ということになります。これは「人間は罪を免れないが、罪深さを最小化すべきだ」という論理につながっています。

使途言行録を見ると、初期のキリスト教にも、在家コースの教徒になる方法と出家コースの方法があったことが分かります。出家コースを選択した場合は、自己の財産をいっさい放棄しなければなりませんでした。これまたストイシズムの一形態です。
イエスのストイシズムを受けて、「パウロによるキリスト教」が始まりました。ここでは「キリスト教の普及」という主題が、宗教における教義の一部となりました。これはユダヤ教が、民族の枠組みの中に固定されていることと大きな対照をなしています。パウロの「ユダヤ民族を超えて」というコンセプトは、必然的に「布教事業」と直結しました。
しかし「事業」を継続するには、どうしてもまとまった資金が必要であり、継続的な収入が必要です。そこでパウロが着手したのは、人々に安心立命を与える「キリスト教」を一個の商品として、任意の買い手に販売するという事業でした。この事業がその後も情熱的に、――歴史の局面ではときには過度に情熱的に――継承されて今日にいたっています。そして、これはすべての「布教」を旨とする宗教団体が実践している普遍的な事業形態となりました。

パウロによれば、慈善に積極的に協力することはたいへんいいことであり、貧しいものがそれをするのはなおいいことです。それはイエスがいった「天上に富を積むこと」です。つまり彼はイエスからもっとも重要なコンセプト、「人びとが神のために財産を放棄することはいいことだ」という思想をきちんと受け継ぎ、これを実践的に活用しています。
私はストイックな宗教家を思うとき、ある種の経営者、それにバルザックが描くゴプセックのような人物を思います。ある種の経営者は多大な利益をあげ、個人的資産も増やします。しかし、彼自身はその富をほとんど使わず、プライベートな生活ではむしろ質素な生活を実践しているのを見ることがあります。彼の場合、ビジネスマンとしては有能なやり手ですが、私生活においてはストイックなのです。
ゴプセックは、もっとも好感をもちにくい守銭奴の一人です。しかし彼は自分の富を少しも享受しませんでした。かれは厳格に彼自身を律していたのです。おそらく有徳、有能な宗教家も資金獲得という点では有能でしょうが、彼自身はストイックでしょう。彼個人に欲がないという点が、宗教家としての魅力を高めているでしょう。私はパウロも、こうした実践的ストイシズムを維持していた有能な教祖の一人であると考えます。

 
 

「聖書」からのメタメッセージ
以上の「聖書の金銭感覚」のスケッチが教えてくれることは何でしょうか。第一は、「人類の歴史は経済史であり、したがって金銭感覚発達史であり、宗教の歴史もまたこの枠組みと別物ではない」ということ、第二は「金銭感覚にはライフサイクルがあり、それはもっとも素朴な段階から出発し、発展し、学習と試練を経て、ついにはストイシズムに到達する」ということだと私は考えます。
私たちは他の生物と同じようにエネルギーを摂取し、代謝をおこないます。おそらく代謝することが、「生物」「生命」の証しです。昆虫であろうと、動物であろうと、人間であろうと、固体としての生物は所定のエネルギーを収入として取り込み、これを消費し、生き続けようとする限り、いくらかの余剰を残さなければなりません。これは地上に生物の原型が誕生したといわれる何十億年も前からの約束です。
たとえば、冬眠中の熊は、支出エネルギーを極限まで低下させていますが、最小限度の消費はおこなわれています。この危険な「収入なき支出」の状態を維持するために、彼らは冬に入る前にたくさん食べます。しかし禁断の実を食べた人類は、経済活動を本能的にではなく、意識的に実践しなければなりません。

遺伝子の解析結果によると、現在の人類の祖先「ミトコンドリア・イブ」は、十五万年前にアフリカに誕生したそうです。ミトコンドリア・イブの前に各種の猿人、原人などが誕生しては絶滅していることが分かっています。してみると、すでに絶滅した猿人、原人たちが、どの程度意識的に経済活動をおこなったかは分かりませんが、いずれも経済活動の実践という点で、何世代か経過後に破綻したことになります。
かりに何億年も前から生き続けている昆虫の種があるとしましょう。その昆虫の遺伝子に変化がないのだとすると、無意識のうちに経済活動をおこなっているその昆虫の方が、意識的に経済活動をおこなった人類よりも、ずっと成功していることになります。彼らはいまだにエデンの園を追われていないのです。
いずれにしても人類は意識的に、はじめのうちは幼稚に、やがて次第に狡猾に経済活動を営むようになりましたが、この生命の営みの発達ぶりは、創造主である神の予想を越えました。神は人々を罰したり、モチベートしたりしましたが、経済に関してはいつも後手に回りました。

「ヨベルの年」のルールは人々にあっさり無視されました。こんな軟弱なルールは、人々が自分の財産に固執したいとする経済的なエネルギーの前に粉砕されました。やむなく、聖書はこのルールについて沈黙せざるを得なかったのです。同族間の金利の問題もしかりです。
経済活動を広域化し、国際化したいとする人々のエネルギーもまた、純血主義を望む律法との間で衝突を起こしました。これは「偶像崇拝」を嫌う神と、その禁を犯す人びととの間の執拗な葛藤としてあらわれました。彼らの神はこの点に関しては一歩も譲りませんでした。というのも、この点を譲ってしまっては神の存在そのものが否定されてしまうのですから。
しかし、いくど神に罰せられても人々の活動は広域化し、民族交流が起こりました。この動きはついに彼らに国を失わせるまでになりました。「宗教」と「国家」の分離は、弁証法的な必然でした。ついにはこの弁証法は、民族の枠組みを打破するという発想転換を実現したキリスト−パウロ教の出現によって止揚されるということになります。

こうした事実は、人びとの金銭感覚は時代と経済的な環境によって変化すること、一つの思想を掲げてそれを貫き通すはずの宗教でさえも、弁証的に変化し、発展せざるを得ないということです。宗教は、神が私たちに先行しており、したがって経済活動もまた神の意志によるものだと説明するかもしれません。しかし聖書を注意深く読めば、その考え方は転倒していることが分かります。
宗教もまた文化現象の一つです。経済が先に進み、思想はその後を追うのです。宗教は私たちに「生き方」を教え「安心立命」を教えてくれるかもしれませんが、それとても、まず私たちの下半身があっての話です。
宗教は私たちの上半身にあります。上半身が下半身を照らしますが、下半身を作るわけではありません。この意味で、私たちが得る最初の教訓は、人類の歴史は経済史であり、したがって金銭感覚発達史であり、宗教の歴史もまたこの枠組みの中にあるということです。

私は人間の経済活動に関して、宗教が無力であったとは考えませんし、これからも無力だとは考えません。経済が宗教以前の人間の動因であることが明らかになればなるほど、宗教は、他の文化と同様に、私たちの金銭感覚を照らし、これをあるべき方向に導く役割を担っているのだといわなくてはなりません。
宗教は人々に美しい生活のあり方と、よりヒューマンな正しい金銭感覚を教え、安心立命を提供する一個の「産業」としてその役割を果たすことが明らかになりました。しかし、各人はあくまでも自分で自分の責任をとらなければなりません。
宗教は各人にヒントを提供しますが、利益を保証してくれるわけではなく、不具合の弁護をしてくれるわけでもありません。それは医療産業が健康に対する助言や薬を与えてくれるが、健康を保証するわけではなく、健康に対する一切の責任が各人にあるのと同じことです。聖書が私たちに与えてくれるメタメッセージとはこれです。

人間型経済活動は生物としてのアプリオリな基本特性の上に、人間の観念操作の技術が加わって可能になったエネルギーの集約技術です。しかしながら、人間の経済活動を評価するに当たって、「利益が生じるのは、それは他人のために役立ったときであること、すなわち他人の生命持続と満足に貢献したときであること」を忘れるべきではないでしょう。
動物は自分の生存、あるいは子供の生存のために仕事をしますが、まったく別の固体のために特別のサービスをしたり、そのお礼として報酬を受け取ったりすることはありません。これに対してビジネスにおいて、誰かが利益を得るのは誰かの役に立ったときです。
この意味で「仕事」とは誰かのために役立つことであり、これは人間だけに可能なエネルギーの交換と保存の方法なのです。この方法によって私たちは付加価値を蓄積し、人類の富を形成したのです。私はこの仕組みはすばらしいものであり、「仕事との本質とは誰かのために役立つことだ」、という考えを人間性のあらわれと見ます。

残念なことに、聖書は「仕事」をアダムに対する「罰」とし、これによって「仕事」の生産的な意義を見失いました。やがて「不正な管理人」のたとえにおける、「この世の金」=「不正にまみれた金」に象徴されるように、「仕事=罰」「金=不正」の図式は、聖書全体を貫く金銭思想のペシミズムにつながりました。
そうはいっても私たちは、経済活動が下半身に属していることを聖書から読み取らなければなりません。つまり、自分の仕事の仕方をきびしく律していないと私たちの仕事は、ともすれば「罰」になり、金は「不正」に傾斜する危険があるのです。
私はいかなる宗教の信者でもありません。私自身についていえば、宗教以外の道を通っても健全なヒューマニズムに到達できると考えています。その上で、「まともな宗教は私たちの上半身を律し、ケアし、だからこそ下半身を照らし、そのあるべき姿を指導するのだ」ということを認めます。

 
 

人類の歴史と個人史
「もはやとり返しのつかぬこの過去、すなわちふたたび回帰することなく永遠に人が追われて、ただ愛惜することしかなし得ないようなこの過去以外に、何か出発点があろうとはわたしには思われない」とアランは書きました。彼は人類の出発点であったエデンの園と、各人におけるエデンの園であったところの幼児期について述べています。
アランは個々人の一生は人類の歴史を再現する、という発生史的な概念を展開しました。私たちはこの概念の具体的実例を聖書に見ます。そして「金銭感覚にはライフサイクルがあり、それはもっとも素朴な段階から出発し、発展し、学習と試練を経て、ついにはストイシズムに到達する」と考えます。
アランはいいます。「わたしはミルクの河のなかで育まれていた。だが、それはながくつづくことができなかった。わたしはこの楽園を追われたのだが、それはわたしがこれを欲したからである」。

イスラエルの民誕生からキリスト教発生までの歴史は、波乱にとんだ一人の人物の一生にも似ています。その人物は楽園を出てから苦労して独立し、経済的に成功した時期もありました。たとえばソロモン王の時期は、バブル期における経済的成功にも似ています。しかし彼の資産はまもなく散逸しました。
このことは、人が生涯のある時期に金儲けに成功するが、環境の変化や自分自身の情念によってこれを散逸させることがある、という事実に呼応しているように思えます。実際、バブル期の有能な経営者が今日まだ不良資産で苦しんでいる経営者でもあるのです。
かりに、聖書全体の主人公を一人の「イスラエル」という名の人物にたとえるなら、イスラエルの後半生から晩年にかけては、世俗的な意味で幸福ではありませんでした。

個人の金銭感覚は、その人が持って生まれた性質と環境によって規定されるでしょう。どんな環境に置かれても、生涯「お人よし」の人がいるかもしれませんが、環境によって多少は変わるでしょう。もともとは「お人よし」だった人が、つらい経験をしたために「抜け目なく」「こすからく」なることもあるでしょう。
日本では、持ち主が目を離した隙にハンドバッグが盗まれるなどということはまれでした。ところがこの意識で海外旅行をすると、日本人は手ひどい目にあいます。この体験を通して、私たちは「用心深さ」を学ぶことになります。体験によって学習しないとしたら愚かです。
金銭感覚は学習されるものであり、発展するものであり、各人によって各人の「段階」が選び取られるものとなります。金銭感覚は。個々人のレベルで弁証法的に発展します。そして「人々」「国民」のレベルでも弁証法的に発展します。

かりにある人が経済的に成功したとします。彼は「金で万事解決できる」と考えるようになる可能性があります。下半身が安定したとき、上半身を正しく誘導できないと、ここに「卑しい金持ち」「無慈悲な金持ち」が生まれることになります。
会社が突然潰れたり、リストラが相次いだりする時に必要となる金銭感覚は「知恵」でしょう。金がなくても幸福でありえるには、知恵が必要になります。これまたその局面で獲得される金銭感覚です。
人はそれぞれ老年を迎えます。すなわちストイシズムの時期です。このとき、人は金によって可能なこと、不可能なことを知ります。「老人の欲深さ」もありますが、人生の終わりが見えている人にとっては、金が与えてくれるはずの楽しみも、むなしいものです。私は福音書におけるストイックな金銭感覚は、世の終末を見ていた人々の、このライフステージに対応するものではないかと思います。

 
 

各人の金銭感覚を監督する
最近ボランティア活動が話題になります。けれど、ボランティアのコストが、参加する人の全面的な持ち出であることが十分に知られているかどうか、疑問に感じることもあります。たとえば、地震などが起こったとき被災地に飛んでいって「労働奉仕」をする人は、「自分は労働を善意にもとづいて、ただで提供している」と思うかもしれません。
しかしながら、彼の労働コストはともかくとして、被災地のところへ行く交通費、食事代、それに、どこに泊まるかは別として宿泊代がかかります。ボランティアを決意する人は、原則としてこれらの予備的なコスト、あるいは目に見えないコストを自前で負担することを引き受けているわけです。このことがボランティアでサービスを提供する人にも、それを受ける人にも明確に理解されているかどうか疑問です。
無料の奉仕などというものはこの世に存在しません。それはエネルギーとコストがもともと同じものだからです。ただ、ボランティア活動では、サービスを受ける人がではなく、サービスする人がコスト負担をすることが原則です。

世の中には、長年にわたって有益なボランティア活動を続けている人がいます。これには頭が下がります。情熱的なボランティア活動には、たとえ当人に宗教的な動機がない場合でも、何か宗教的なストイシズムが感じられます。
しかし私は、これらのすぐれたボランティア活動がもたらしている社会的なメリットに敬意を表すると同時に、つぎ込まれているコストにも敬意を払うことを忘れないつもりです。なぜなら、コストが続かない限り、活動も続くわけはないのですから。
だから浮ついたボランティアは、次の四つの理由によって永続きしません。

1.善意の情熱が冷める。
2.善意はあるが資本がなくなる。
3.善意と資本が同時になくなる。
4.資本の減少が善意を萎えさせる。

善意でものを考えようとするときに、私たちは損得勘定を考えないようにします。誰か、ボランティアに携わった人が自分の労働の価値を見積もり、これを金銭換算して記帳をしたとしたら、周囲で見ている人はずいぶん奇妙だと思うでしょう。金銭感覚を忘れること、これが善意の表現と同じように考えられていることはたしかです。
しかし正常な金銭感覚を欠いたボランティア活動とは何でしょうか。それは、上記四つのうちのどれか、すなわち、浮ついたボランティアのことではないでしょうか。それは趣味的な独善ではないでしょうか。
いま子供たちに教えなければならないことは、「奉仕」の重要性、有用性ではなく、「エネルギー=コスト」ということであり、そのコストがいくらで、誰が、どのように負担するのかということではないでしょうか。

子供たちに「善意」を教えるのは大切なことです。しかし「善意=金銭を記帳しないこと」を教えるのは間違いです。子供たちを導く学校の先生たち、そして両親に、いかに正常な金銭感覚が必要かがわかります。
カントは「理性の仕事は、究極目的を取り逃がさないようにすることだ」と述べました。このカントの意見を踏まえてアランは「精神は、いわば健康上の規則として好んで理性の原理に従う」といいました。この二人の賢者は、「偏見や感情の勢いにまかせて考えるのではなく、真の目的に合致させてクールに(悟性にもとづいて)考え、自分の意志を働かせ、人倫に即してふるまうこと、これが理性のあり方である」といったのです。
私たちは「金銭感覚」とはどのようなものなのか、どのような金銭感覚を持てばいいのか、という問いを立てて聖書を読んできました。そしていま、正しい金銭感覚とは、「金銭に関して理性的であること」「上下のバランスをとること」だという結論を得ることができました。

金銭感覚とは、各人が選んでいるそれぞれの「生きざま」であり、各人の「餌のとり方」、あるいは「下半身のありよう」です。下半身がなければ上半身は生きられませんが、上半身が下半身を監督し、規制しなければ、それは逸脱的になり、見苦しいものとなります。かといって、各人の美学があまりにも下半身を規制すれば、生命を維持が困難になります。上半身と下半身のバランスを考察できるのは人間の特権です。
私たちは、「聖書の金銭感覚」を参考にしつつ、各自の金銭感覚を改めて見つめなおし、より適切にこれを監督したいものです。

本書制作に際しては、多くの関係者にお世話になりました。高輪教会の長津栄先生、それに愛知県半田教会の横山良樹先生には、聖書の解釈に関して貴重なご意見をいただきました。またユダヤ教の習慣と今日の状況に関しては、イスラエルのベン・グリオン大学、フランク・レヴィット博士のご教導をいただきました。また金銀に関する情報については、時計と宝石の大井の大井義和専務にお教えをいただきました。

娘の牧菜には、上記の関係者の紹介や問い合わせ、それに原稿の読み合わせ、アドバイスなど、本稿全体にわたって協力をしてもらいました。心から感謝します。
 
   
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