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聖書の金銭感覚
 
第4章 偶像禁止

税の成立
聖書の中で、私たちは「神に対する貢物」とその延長線上にある「租税」に出会います。神は人間たちにしきりに供物を要求しますが、これは明らかに租税の原型と考えられます。
神はアベルの供物を喜び、カインの供物を無視しました。要するに供物は神が喜ぶやり方で喜ぶものをさし出さなければなりません。神に捧げるものは、無傷で清浄なものでなければなりません。生産物は「初子」「初穂」に限られます。
「初物」を神にささげるのは、世界各国に共通の習慣で、わが国にも今日でも「初物を食べるときには東を向いて笑うこと」などという、愉快な風習が残っていますが、これは太陽への収穫感謝のあらわれでしょう。神はモーセに対してあからさまに「何も持たずにわたしの前に出てはならない(出エジプト記34-20)」「初めに胎を開くもの(初子)はすべて、私のものである(同34-19)」といいます。

供物にもいろいろあり、牛や羊などの動物は「焼きつくす捧げ物」の区分に入ります。これらの動物は祭壇上で屠殺され、焼かれます。香ばしい煙が天に立ちのぼり、神はこれを堪能したようですが、残りの部分については祭礼関係者がお相伴にあずかりました。この点では、ギリシャの神々に関しても同じで、神々には「煙」の部分を、人間たちがおあまりをいただきます。
供物の中には、未処分の家畜、それに金銀の食器やオリーブ油や小麦粉など、保存できる財産があります。これらに関して神は、同じイスラエル人の中でも「レビ族」を祭祀の担当民族と定め、彼らに管理と使用を命じます。
「これは、アロンとその子らが燃やして主に捧げる物のうちから受けるよう定められた分であり、祭司として主に捧げられた日に定められたのである。これは主が彼らを祭司に任命した日に、これらの分を彼らに与えるようイスラエルの人々に命じられたものであり、代々にわたってまもるべき不変の定めである(レビ記7-35.36)」。祭祀担当としてのレビ族の任務は今日でもユダヤ社会において「レビ」たちに引き継がれているといわれます。

「出エジプト記」では、供物の分量はまだ定められていません。規定は分量のことよりも、祭壇における捧げ方のほうに集中しています。ついで「民数記」の中にわずかに、戦利品の分配の量的規定が出現します。
「分捕ったものを戦いに出た戦士と共同体全体とに折半しなさい。戦いに行った戦士から主にささげさせる分は、人、牛、ろば、羊それぞれ五百について一の割合である(民数記31-26.27.28)」。ここでの供出比率はわずか2%という控え目な数字です。やはり、命がけで戦った戦士の功績が優先ということでしょうか。
しかし「レビ記」の終末部分に至って、供物の量が決められます。それは「生産物の十分の一(レビ記27-30)」という規定です。この規定は、申命記でさらにはっきり確認されます(申命記14-22)。これは聖書では、神がシナイ山でモーセを通して人々に示された規定に含まれていることにはなっていますが、実際にはもっと時代が下がって作られたルールかもしれません。

所得の「十分の一」という規定は、他の仕事をせずにもっぱら祭祀業務を担当とするレビ族の固定費をまかなうために、定量的に規定する必要に迫られてできたものと思われます。ここに私たちは「供物」が「税」に変わる姿をとらえることができます。
この十分の一税について、「日本人とユダヤ人」の著者、イザヤ・ペンダサンは、かなり厳格なユダヤ教徒の掟として今日でも維持されている、という旨を記していますが、最近、ユダヤ教徒である知識人におたずねしてみると、十分の一税は、今日では拠出自由な、ボランティアの一環としておこなわれている、ということでした。また拠出されたお金の流れや使い道もきわめて複雑化しているとのことです。
イスラエル人の間では、供物が定量的に規定される以前から、供物類は祭祀関係者に帰属することが決まっていました。それは民族管理者たちの固定費であり、行政本部の経費であり、政治資金だったのです。今日の私たちの税金も、いうなれば国家としての共通固定費ですから、政治と宗教がひとつであった時代に、供物が税金であったことに何の不思議もありません。

さらによく考えて見ると、戦争は昔から他国の財産を収奪する活動であり、敗戦国から供物を取り立てるシステムを確立するための活動です。敗戦国にとって戦勝国は、いうなれば「神」にも等しいわけす。「賠償金」「戦後補償」「無償供与」「ODA」などと名目は変わっても、誰かが誰かに何かを無償で供出しなければならない原理は同じです。
ムハンマド(マホメット)がイスラム教集団を率いてその体制を確立したとき、彼は人々に「五分の一税」を課しました。この収入は、彼自身の財産であると同時に国家運営の政治資金となり、貧者救済と旅人供応の資金となりました。ムハンマドが総生産の「五分の一」であるのに対して、イスラエル人たちは「十分の一」ですから、負担率は軽いほうです。
ところで、わが国における私たちの税の負担率はどのようになっているのでしょうか。所得額による比率の差はあるでしょうが、平均で四十%程度でしょう。こうしてみると、ムハンマドの「五分の一税」よりも、わが国はもっと過酷であることがわかります。もっともスウェーデンのような国は税負担率が七十%にもなります。これは、人々が国にどこまでのサービスをしてもらうか、という国家レベルでの経営コンセプトに依存しています。

 

偶像崇拝を罰する
神は人々が偶像を崇拝することを極端に嫌いました。神はこれを自分自身に対する裏切とみなし、人々が違反するとたちまち過酷な罰を科します。リーダーが偶像を作った場合には、神は直接そのリーダーに警告したり、罰を与えたり、将来の罰を予告したりします。人々はたびたび罰され、ひどい目にあうのですが、また性懲りもなく偶像崇拝を繰り返します。
人々が偶像崇拝に走った理由の一つとして、抽象的であまりにも精神的な一神教の教義が、この民族の人々にとってすら理解しにくいものであったこと、また同時にこの教義が、エジプトから小アジアにかけての地域でイスラエル人だけに独特のものであり、相当異質なものであったことを上げることができます。
神は可能な限り民族的純潔を保とうとしているのですが、異民族との間で交流や混血が生じていました。民族交流は聖書が伝えている以上に進んでいた可能性があります。中東の歴史全体から見れば、イスラエル人たちはマイナーな存在です。

チグリス、ユーフラテスの流域を含む、いわゆる「肥沃な三日月地帯」は、当時世界でももっとも人口の周密な地域であり、多くの民族が集合していたと考えられます。もともとアブラハムとその一族は、この地方の出身者の一つ、アモリ族であったといわれていますが、モーゼがエジプトの同胞を引き連れてこの地域に戻ってきたときには、すでにこの地域に定着している先住民族がいました。
モーセが率いた一行はカナン地域に暴力的に侵入したわけですが、ここにはカナン人が住んでいました。彼らはまずカナン人と戦い、ついで周辺のペリシテ人やアンモン人と戦いました。やがて隣国にはアッシリアという巨大な国が生まれます。いずれにしてもこの時代、この地方にはさまざまの民族がそれぞれのライフスタイルを維持しながら生活していました。
イスラエル人たちは、カナンを中心に次第に勢力を伸ばし、ダビデ王からソロモン王の時代にもっとも経済的に栄え、版図を拡大します。しかし、それでもイスラエル人はこの地域の「ワン・オブ・ゼム」であることに変わりはありませんでした。そして彼らを除く他の民族はそれぞれの神と、これを象徴する偶像を持っていましたから、彼らはいやおうなしに周辺の影響を受けることになります。

周辺民族の神は多くの宗教がそうであるように、豊穣祈願の対象であったと考えていいでしょう。彼らは神の象徴として偶像を作りましたが、その偶像の多くは金作りの動物でした。偶像で示される動物が豊穣の象徴ならば、金もまた豊かさの象徴でなければなりませんでした。これは今日出土しているこの地域の多くの遺品が証明しているところです。
すでに金や銀は、交換媒体としてどの民族、どの地域においても用いられていました。金銀は人々にとって普遍的な「価値」であったにちがいありません。とりわけ金には美的、装飾的な魅力と価値がありました。
これに対してイスラエルの神は、単なる豊穣の象徴としての神ではなく、「観念」としての神でした。この点は、当時の宗教があれほど土着的なアミニズムやシャマニズムの色彩を残していたことを考えると、突出して近代的であり、精神的に高度であったと評価できます。この神は獣の形や金の塊を見せて説得するのではなく、言葉によって、すなわち概念によって人々を説得しました。

しかしながら先にも確認した通り、人間の精神は自由です。その自由が神の望まない方向で発揮されることもやむを得ません。同じイスラエルの民でも、自分たちの教義の抽象性、精神性についていけない人々がいたこともたしかです。彼らは禁じられていると知りつつ、偶像を作りあるいは崇めました。
ある意味で旧約聖書は、偶像を否定する神とその代弁者である預言者に対して、拝金主義的指向を持つ、愚かな、大多数の大衆、そしてついにはアミニズム的な誘惑に屈してしまうリーダーたちの壮大な歴史物語です。
神の立場からすると、人々が偶像を崇拝することは、人々が民族のアイデンティティを失うことであり、精神を忘れ、物欲のみを追いかけることを意味します。これが進めばイスラエルという民族が崩壊してしまうことが懸念されます。神にしてみれば、そうなったのでは、わざわざ苦労して人々をエジプトから連れ出してきたかいがありません。

 
 

ダビデ、国勢調査の件で罰を受ける
神はモーセを介して、人々のあるべき、正しい生活の枠組みを提示しました。では神の目から見て、イスラエルの人々あるいはリーダーたちが神に忠実で、神を喜ばせる理想の体制を作った時代があったでしょうか? 残念ながらありませんでした。
それでも神がもっとも気に入ったリーダーが二人いました。それはダビデとその息子ソロモンという二人の王でした。神はこの二人に戦力、経済力、政治力を与え、ユダヤ史上最大の繁栄を与えました。そこで私たちは、ダビデとソロモンについて、金銭感覚という点から特筆すべき事跡を見ましょう。
ダビデは幾多の困難な内戦、あるいは異民族との戦いに勝利を収め、国を統一し、大きな富を所有するようになりました。ダビデは天衣無縫な芸術家という側面を持っていました。彼は人情に厚く、ダンスや音楽を好み、たくさんの詩を作りました。

金銭感覚という点ではダビデは、淡白だったといっていいかもしれません。ダビデは、立派な神殿を作る計画を持っていましたが、神様に「わたしのために住むべき家を建てるのはあなたではない(歴代誌上17-4)」といわれ、計画をソロモンに託しました。
生涯にわたって神に愛されたダビデですが、その彼も神の逆鱗に触れる失敗をやったことがあります。その一つをご紹介します。一応国内情勢が一段落したとき、ダビデは国勢調査をしようとしました。それは、「歴代誌上」によれば、サタンの誘惑によるものでした。ただし「サムエル記下」では、神自身がダビデを誘惑したことになっています(サムエル記下24-1)。
「サタンがイスラエルに対して立ち、イスラエルの人口を数えるようにダビデを誘った。ダビデはヨアブと民の将軍たちに命じた。『出かけていって、ベエル・シェバからダンに及ぶイスラエル人の数を数え、その結果をわたしに報告せよ。その数を知りたい』(歴代誌上21-1.2)」

ヨアブというダビデの部下は、この調査活動が神の意志に反すると考え、王にいいました。「主君はなぜ、このようなことをお望みになるのですか。どうしてイスラエルを罪あるものとなさるのですか(歴代誌上21-3)」。しかしダビデはこの忠告を聞き入れず、調査を強行しました。すると神は預言者ガドを通してダビデに「お前を罰することにする」と告げました。
神はダビデにペナルティとして「三年間の飢饉か、三ヵ月の敵の蹂躙か、三日間の疫病か」そのうちのどれかを選びなさい、といいました(歴代誌上21-11.12)。ダビデが国勢調査を実行したことがどうして神の気に入らなかったのか、その罰としてどうして三つのオプションがあったのか、そのオプションのどれもがそれほど過酷なのか、その点は私にはよく分かりません。
何しろモーセだって人口を数えていますからね。「主はシナイの荒れ野でモーセに仰せになった。レビの子らを家系に従って、氏族ごとに登録し、生後一か月以上のすべての男子を登録しなさい(民数記1-1.2.同3-14.15)」。それにダビデの息子ソロモンも同じように国勢調査をおこなっています。「ソロモンは、父ダビデが人口を調べたように、イスラエルの地にいるすべての居留民の人口を調べたところ(歴代誌下2-16)」。もちろんソロモンは無傷でした。このほかにも聖書は幾度も民族ごとの人口を報告しています。

なぜダビデだけが人口調査の件で罰しられたのか? この点についてキリスト教の牧師さんに質問をしてみました。次のような答えをいただきました。「第一には、目に見える数に頼って、目に見えない神の備えに信頼しなくなるということ。たとえば軍馬の数、兵士の数によって民が救われるのではない、ということは旧約聖書の一つのモチーフになっている。第二の理由は、神の民に対する権利を損ねないためである」。
これは私の勝手な解釈ですが、神はダビデに対して勇敢な戦士であることと、才能あるアーチストであることを期待したのであって、「商人のようにふるまうこと」は、期待していなかったのではないでしょうか。たとえば海彦、山彦の民話にも見られる通り、古代社会においては「がらにもないことをする」ことは許されていなかったのでしょう。
さて、不吉な選択肢を提示されたダビデ王は、本当はどれも選びたくなかったのですが、しかたなく一番被害の少なそうな「三日間の疫病」を選択しました。すると神はイスラエル人に疫病をもたらし、その結果七万人が死にました(歴代誌上21-14)。

国勢調査の代償としてはずいぶんひどい罰です。もっともこの七万人という数を、どうやって数えたのか、死者の数なら数えてもいいのか、数えたことがまた処罰の対象になったのかどうか、その辺も私にはよく分かりません。いずれにしても、神様は小ざかしく振舞うこと、意識的に精密な調査を行なうことを嫌ったようです。このことは古代におけるイスラエル人の金銭感覚を知る上で参考になります。
時代はずっと下がりますが、「列王記下」の中にユダの王ヨアシュが、祭司ヨヤダに命じて神殿の破損を修理させたという記述があります。ヨヤダは修理に必要となる資金を集めるために献金箱を設置し、集まった金で工事代金をまかないました。これに関して「その献金は工事担当者に渡され、主の神殿の修理のために用いられた。工事担当者に与えるように献金を渡された人々は忠実に仕事をするものであったので、会計監査を受けることはなかった(列王記下12-15.16)」とあります。
この時代、金銭を精査し、横領などの不正がないように「会計監査」がおこなわれていたことが分かります。ここで記述されているのは神殿修理のための寄付金を調べるということですが、ここでは「会計監査は必要なかった」といっていますので、金銭の精査はやむをえない「必要悪」とみなされていたことになります。

それにしても、人々が間違いを犯していないかどうかを監査しないで、どのように担当者が正直であることを確認したのか、やはり私にとってナゾが残ります。数を数えるということは、金銭を扱うための基本動作であり、何をするにも数を数えないわけには行きません。しかしこれを必要悪とみなそうとした古代の人々の金銭感覚に、何かしら屈折した感情を読み取ることができそうです。
 
 

ソロモンの経済力とその結果
さて旧約聖書中で、もっとも経済的な成功をなし遂げた人物はソロモン王です。聖書の中の「列王記上」は、「ソロモンはユーフラテス川からペリシテ人の地方、更にエジプトとの国境に至るまで、すべての国を支配した。国々はソロモンの在世中、貢物を納めて彼に服従した。ソロモンの得た食料は、日に上等の小麦粉三十コル、小麦粉六十コル、肥えた牛十頭、牧場で飼育した牛二十頭、羊百匹であり、その他、鹿、カモシカ、小鹿、肥えた家禽もあった(列王記上5-1.2)」と記しています。
また「ソロモンの歳入は金六六六キカル、そのほかに隊商や商人の納める税金があり、アラビアのすべての王や地方総督もソロモン王に金銀を納めた(歴代誌下9-13)」という記事もあります。
一キカルは三十四.二キログラムですから、六六六キカルの金は二十三トン弱ということになります。いずれにしてもソロモン王は各地から金銀と物資の両面から税を取り立てていたということでしょう。彼は集めた富を惜しみなく投資にあてました。「王はエルサレムで銀と金を石のように、レバノン杉をシェフェラのいちじく桑のように大量に供給した(歴代誌下1-15)」。

彼は父ダビデの時代からの懸案であった公共工事、すなわち神殿建設に取りかかります。「列王記下」によると、彼はこのとき、友好関係にあったティルスの王ヒラムに建築用の資材提供を申し入れます。彼は使節をやって次のようにいわせます。「わたしたちのためにレバノン杉を切り出すよう、お命じください。私たちの家臣もあなたの家臣と共に働かせます。あなたの家臣たちへは、おおせのとおりの賃金をわたしが支払います(列王記上5-20)」。
ここにでてくるティルスとは、フェニキアの首都で、当時ヒラム一世がここを治めていました。フェニキアは航海術に長けた民族で、地中海を自分の庭のように自在に航海し、交易や殖民で栄えた国でした。ティルスはフェニキアのメインポートでもあった都市です。ソロモンから要請のあったヒラム王は大変喜び、次のように返事します。
「ご用件はたしかに承りました。レバノン杉のみならず、糸杉の木材についても、お望みどおりにいたましょう。わたしの家臣たちにこれをレバノンから海まで運ばせ、私はそれをいかだに組んで、海路あなたの指定する場所に届け、そこでいかだを解きますから、お受け取りください(列王記上5-22.23)」。

ソロモンは建築に必要な労役を国内の男子に課し、交代で仕事に当たらせました。ちなみに石材調達のためだけでも、八万人の男子が現場にかりだされました。工事監督の数は三千三百人(歴代誌では三千六百人)に及んだといいます。結局この神殿建築には十三年の歳月がかかりました。神殿は壮大なスケールで、豪華をきわめた装飾、調度が作られ、設置されました。とくに神殿の中心部分の内装には純金がふんだんに用いられました。
「また彼は至聖所を造った。その奥行きは神殿の間口と同じ二十アンマ(一アンマは約四十五センチ)、その間口も二十アンマであり、上質の金六百キカルで覆った。釘は金で重さは五十シェケル、階上の部屋も金で覆った」「ソロモンは神殿に置くためのあらゆる祭具を作った。――金の祭壇、供えのパンを載せる聖卓、規定に従って内陣に火をともすための純金の燭台とともし火皿、最上の金でできている花、ともし火皿、火ばし、純金の芯切り鋏、鉢、柄杓、火皿、神殿の入り口、至聖所に入るための奥の扉と、外陣に入るための神殿の扉も金であった(歴代誌下4-19.20.21)」
その上で「ソロモン王は、主の神殿でおこなわれてきた仕事がすべて完了すると、父ダビデが聖別した物、銀、金、その他の祭具を運び入れ、主の神殿の宝物庫に納めた(歴代誌下5-1)」とあります。今日でも「ソロモンの秘宝」「ソロモンの富」が話のたとえになるのは、これらの旧約聖書の記述を根拠にしています。

ところが、これほどの財宝に恵まれ、しかも賢明をうたわれたソロモン王も、晩年にいたって神の意志に反する行為を取るようになり、このことが子孫にたたるようになります。ソロモンは七〇〇人の王妃と三〇〇人の側室を持っていました(列王記上11-3)。この場合「七〇〇人の王妃」と「三〇〇人の側室」の間にどのような身分や待遇上の違いがあるのか分かりませんが、いずれにしても王は後宮の美女たちに取り巻かれていました。
この女性たちの中には、当然多くの外国人女性も混じっていました。彼女たちは、ソロモン王にせがんで故国の神のための神殿を作らせ、王にも一緒に参拝するように頼みました。聖書は「ソロモンが老境に入ったとき、彼女たちは王の心を迷わせ、他の神々に向かわせた(列王記上11-4)」と記しています。

 
 

富の使い道と女性
さて、史上最大の資産家の一人となったソロモン王の記述から、どのようなことが分かるでしょうか。その一つはソロモンが保証した平和の下での国際貿易の発展、公共工事による社会経済の活性化ということでしょう。第二には、財産の最高のエッセンスは「金」であったということでしょう。
今日でもデパートに行くと、祭具の売り場に純金製の仏具が売られていますが、これらの仏具には課税されないという特典があるところから、お金持ちが買い求めます。ここでは物質的な豊かさをではなく、精神的な救いをめざすはずの宗教が、財産のエッセンスとしての「金」「富の継承」に強く結びついている事実を見ることができます。この図式は洋の東西を問わず、昔から変わりません。
第三にはソロモン王の晩年における異教崇拝です。この異教崇拝事件を私は次のように解釈します。晩年、彼には心を打ち明けて語る友人がいませんでした。彼はあまりにも恐れられ、敬われました。彼のいるところで彼は「完璧な人間」「神にひとしい人間」を演じなければなりませんでした。しかし彼は金銭を自由に使うことができました。

その彼が人間らしい気持ちを取り戻すのは後宮においてでした。彼はそこでは裸になり、子供になり、女たちに甘えました。彼が男性的機能に衰えを感じてからは、女たちとの接触はますます大切なものになりました。女たちは彼をいいようにあしらいましたが、ソロモンにしても、女たちを自由にしておくほうが快適であり、女たちに喜ばれることが彼にはうれしいのでした。
だから、「王様、私の国の神様を祭る祭壇を作ってくださいな」といわれたとき、ソロモンは少しも抵抗しようと思いませんでした。彼にとって女たちに愛され、喜ばれる以上のことはなかったからです。女たちはいろいろ要求し、ついにソロモンにも自分と一緒に異教の神を参拝するようにねだりました。ソロモンは「いいとも、お前と参拝しよう」といったのです。
だから、ソロモンは他の宗教に回心しなかったと私は思います。そんなことはどうでもよかったのです。無尽蔵の富を持ち、多数の愛すべき美女に取り囲まれ、それでも日々老いを感じざるを得ない一人の男が、持ち金をどのように使うかを考えてみれば、ソロモンの晩年の行動を理解できるのではないでしょうか。

再びデパートの話になりますが、デパートの売上は消費経済のバロメーターです。わが国におけるデパートの前身は「呉服店」です。むかしは男性でも「着物」を着ていましたが、呉服売場の対象は女性です。そしてよく見れば、デパートで売っているものの大半は女性を対象としたものです。消費経済のカギを握っているのは女性たちであり、ある意味では経済の実態を形成しているのは女性です。
たとえば銀行強盗を働く男がいるとしましょう。彼は奪った金を何に使うでしょうか。それはすべて彼が愛する女性たちのもとへと流れてゆくのではないでしょうか。一介のサラリーマンにしてみても、男が働くのは女性たちのためであり、女性たちを喜ばせるためです。高価な宝石や毛皮や、超高級ファッションは女性たちのためのものであり、男性のためではありません。
男たちは事業に投資をしたり、機械設備を買い込んだりします。これは富を得るための手段にすぎません。富が得られれば、その富は女性のために使われます。ばくちで一獲千金を夢見る人もいます。この男も、もし金が入れば、いそいそとして女性のところへ行くでしょう。だからありあまる富を持っていたソロモンも、同じことをしたのです。

ところで時代はずっと下りますが、旧約聖書に「エステル記」という章があります。ここではソロモン以上の富を一身に享受したのはペルシャのクセルクセス王でした。クセルクセス王の父親にあたるダリウス王の所得について、ヘロドトスは「毎年ダレイオスの許に納められる納税額は、エウボイア・タラントンに換算して一四五六〇タラントンであった。なお端数は切り捨てて、ここには挙げていない」と書いています。
ここにあげられている数字は「銀換算」ですので、これを金換算のキロ単位に直しますと、約三十キログラムとなります。ソロモンの歳入は金重量にして二十三キロでしたから、ダリウス王の歳入のほうが上です。それもそのはず、この時代、イスラエルはもちろんのこと、アッシリアの国が滅びていました。そしてアッシリアを滅ぼしたバビロニアも、すでにペルシャに併呑されていたのです。
クセルクセス王は、あるときパーティの席上で自分の正妻が自分に対して無礼であったことに腹を立て、彼女を離縁しました。新しい妃として多くの美女が選考されましたが、その中にエステルという飛びぬけた美人が混じっていました。

クセルクセス王はエステルの容姿と人柄にぞっこんほれ込み、妃にしましたが、エステルはじつはユダヤ人女性でした。彼女は王の寵愛を基礎にして、反ユダヤ主義の大臣を告発し、さらにユダヤ人に対する国内の差別や迫害を撤廃させました。さらに彼女は、王に働きかけて自分の養父を筆頭大臣に引き立ててもらいました。
ご存知のように、ペルシャはこの時代、地中海で並ぶもののない経済力と軍事力を誇る大国でした。その彼すらも愛する女性のいいなりになりました。彼にとってはエステルに愛されることが必要だったのであり、そのために金を使ったり、ユダヤ人を引き立てたりすることなど、なんでもないこと、あるいはどうでもいいことでした。
以上のことから、富の極地にある男性にとって、その使い道は愛する女性に対する奉仕以外になくなってしまい、女性の愛を買うためであれば、神に対する礼儀も問題にならなくなる、ということではないでしょうか。

 
   
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