トップエッセイ音楽作品アラン経営関連リンク
 
聖書の金銭感覚
 
第8章 金銭に関する「たとえ」

「献金率」の問題
神殿に関連するエピソードとして、マルコ伝とルカ伝に次のような話があります。
「イエスは賽銭箱の向かいに座って、群集がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。『はっきり言っておく、この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである』(マルコ12-41〜44)」。
ここで出てくるクァドランスという単位は、先ほどの例に使われたデナリオンの六十四分の一に相当する銅貨です。そしてレプトン銅貨は、その二分の一ということになります。かりに一デナリオンを一万円とすれば、一クァドランスは一五六円になります。

私はこのエピソードにイエスの混乱した金銭思想が示されていると考えます。イエスはこの場合、生活費を含む全財産を献金したやもめに感動しています。彼女が支払った犠牲は、金持ちによる多額の献金より値打ちがある、この考え方は私たちにも理解できます。
「持てるものをすべて捧げる」というのは、すでに「金持ちの青年」のところでイエスが語ったコンセプトに一致しています。いうなれば、金持ちの青年にできないことを、一人のやもめがやってのけたのです。イエスは、「ごらん、こうした立派な実例があるではないか」と、弟子たちにいいました。
ところで献金とは何でしょうか。それは自分の意志で、金銭を供出することです。この場合賽銭箱は「神への献金受付け箱」です。ところでイエスの論理によれば、金銭は天国では無価値な物であり、不浄な物でさえあります。もちろん、神は金など使いません。では地上の穢れた物を集金して、神はいったどうしようというのでしょうか。それとも、神は「賽銭箱」を通して、人々がどれだけ地上の財産を捨てられるか、それを試しているだけでしょうか。もちろんそれもあるでしょう。

神は人々の自己犠牲の程度=すなわち神に対する帰依の程度を、人々がもっとも執着する金銭を用いて測定し、その評価を「献金率=献金額÷全財産」によっておこなっている、ということに違いありません。このエピソードが露骨にも物語るところは、献金率の問題です。
ところで、献金された金はどのように用いられるのでしょうか。もちろん神はお金を使いません。であるとすれば、神はその金は、地上において神に仕える人々、すなわち、祭司たちの経費をまかなうためと考えたのでしょうか。もちろんそれもあるでしょう。なぜなら生産手段をもたない祭司といえども食事をしなければならないのですから。
十分の一税の決まりは、モーゼの昔にまでさかのぼり、神はあきらかに祭司たちの生活を保障しています。そうだとしたら、どうして祭司たちにだけ生活費を確保する権利があって、貧乏なやもめは生活費を確保してはいけないのでしょうか。この場合、やもめの「財産放棄」は称揚されているのですから、その反対は道義的に感心しないことなのです。

それともイエスの「生活費全部」というのはレトリックであって、じつは彼女はいくらかの生活費を手元に残したのでしょうか。もちろんそれもそうでしょう。そうでなければ、彼女は明日から暮らせなくなりますからね。だとしたら、どうしてイエスは「すべて」をあれほど執拗に要求し、まずしい献金者の生活が、さらに貧窮のどん底に落ち込むことを要求しているのでしょうか。これを私なりに考えると次のようになります。
1.神が要求しているものは、本当は神に対する帰依であり、愛であり、信仰である。そのあかしとして神は、かつては「初穂」「初子」を要求した。人々がそれを惜しむかどうかをテストしている。ちなみに、アブラハムに対してはその子イサクの命を要求した。貨幣経済の時代がやってきたので、神はたまたま「初穂」「初子」の代わりに献金でよいとしている。だが、神が要求しているのは金銭そのもの、あるいは額ではなく、献金しようとする人々の精神である。
2.往時の人々の財産に対する執着は、今日の人々の金銭に対する執着ほど強くはなかった。貨幣経済の今日、人々は「金銭」という別の神を崇めているかのようだ。金銭に執着してはならないのだ。金銭に仕えることは、私をないがしろにすることに等しい。
3.たとえ金があろうとなかろうと、人はいずれ死ぬ。そして幸福に死ねるかどうかは、その人が持っている財産額には関係ない。だからかりに全額を寄付して生活できなくなっても、幸福に死ねるなら、それでもいいではないか。

 

烏と草花からの反論
上記の解釈を補強し、裏付けるエピソードとして、私はマタイ伝ならびにルカ伝に記されている次の一節をご紹介したいと思います。
「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。あなたがたは、烏よりもどれほど価値があることか。あなたがたのうちのだれかが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。こんなごく小さな事でさえできないのに、何故ほかの事まで思い悩むのか。野原の花がどのように育つのかを考えてみなさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる(ルカ12-22〜27)」。
「自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ(ルカ33.34)」。

これでお分かりのように、イエスはここで衣食住に関してかなり楽観的で、粗雑な考え方を披露しています。この時代の烏は、今日の東京の烏ほどは狡猾ではなかったかもしれませんが、それでも烏や野の花がイエスの言葉をまともに聞いたら、次のように反論したでしょう。
「おやおや、イエス様、ご冗談をおっしゃいます。いささか観察不足じゃございませんか。イエス様には、私どもが働いていないように見えるかも知れませんが、これで精一杯、衣食住を求める努力と生存競争をしているんでございますよ。烏だって余分の食料は石の下に隠して冬に備えておりますし、野の花だって、いっしんに光合成をおこなってエネルギーを蓄えながら、蜂たちの訪問を待っているんですがねえ」。
「そりゃ、烏や野の草をお作りになったのは神様でしょうとも。だが、神様が怠惰な烏が生きることをお許しにならなかったことをお忘れですか」。

以上を総合すると、イエスが「やもめは生活費全部を献金した」といって感動しているわりには、その貧しいやもめの明日からの生活の保証については、かなり無責任であることがわかるではありませんか。
ところで、上記のルカの一節で注目されるのは「自分の持ち物を売り払って施しなさい」という部分です。この部分は「擦り切れることのない財布を作る」「天に富を積む」に対する等価事項として取り扱われています。「持ち物を売り払って」ということは、「動産または不動産を現金化して」ということです。どうして現金化する必要があるのでしょうか。
それは財産を分配、流通しやすくするためであり、財産と持ち主との関係をニュートラルにするためです。財産は、家具や装身具、家畜、土地などといった個別の具体的な形をとっている限り、持ち主との関係で価値が左右されます。つまりこの場合の財産は、主観性を帯びます。けれど現金=貨幣になると、財産が持っている主観性が取り払われ、ニュートラルになります。

人類の資産は貨幣に換算され、交換に供されたときから、次第にニュートラルになり、次第にその純度を高めているのだと考えることができます。たとえば、やがて来る金貨から紙幣への変化も、そうした貨幣のニュートラル化の一環としてとらえることができます。 いずれにしても、金銭に関して原則として否定的であるイエスさえも、貨幣がカウンタブルであること、そしてニュートラルで客観性を持った、すぐれた交換媒体であることを評価していることになります。 次に注目しなければならないのは「施しなさい」の部分です。「施し」とはこの場合、「貧しい人に施す」という意味です。ところがイエスは「たとえ貧しくても、思い悩む必要はない。野の花を見なさい」といっているのですから、言葉通りに解釈すれば「施し」を必要とする人は世の中にいないことになります。

イエスによれば、信仰の厚い人間なら、烏や野の花と同じように思い煩う必要はなく、当然施しを受ける必要はありません。そこで、私たちはここで施されることになるのは、信仰とは無縁な人々のことだと理解しましょう。
しかしその人々もいつまでも信仰に無縁であってはいけないのですから、イエスのコンテクストに従えば、少しもでもお金があるなら、すみやかにそれを賽銭箱に投げ入れてしまわなければなりません。「施し」によって流通した貨幣は、しばらく人々のところで機能したあと、すべて神殿の賽銭箱に収まるのが順当ということになります。
イエスが主張するような経済社会は、いずれにしてもシステムとして成り立ちませんので、イエスの論理は、あくまでもまともな経済社会――その中には、富と権力を集める王や、強欲な商人や金貸しなどが跋扈している社会――を前提にしていることがわかります。さらにいえば、イエスがその主張を正当化するためにも、反面素材として、通常の金銭を尊重する人々に存在してもらわなければならないことがわかります。

 
 

許しの限度
イエスが一方で地上の富の代表としての「金銭」を否定しながら、金銭の効用や価値を認めていたことは、彼が金銭に関してさまざまの「たとえ話」からも推察することができます。そこで、これらの「たとえ話」をいくつかチェックしてみましょう。
あるとき、短気なペトロがイエスに質問しました。「主よ、兄弟が私に対して罪を犯したなら、何回許すべきでしょうか。七回までですか(マタイ18-21)」。このときペトロは、何か仲間に対して頭に来ていることがあったのでしょう。「先生は人を許しなさいというが、とても許せない。何度許せばいいのか、質問してみよう」という気持ちになっていたのです。これに対するイエスの答えは「七の七十倍までも許しなさい」というものでした。このときにイエスによって語られるのが次のようなたとえ話です。
王様が家来に貸した金の決済を求めましたが、ある家来だけが返済できず、その額は一万タラントンに及びました。そこで王様は家来に対して、持ち物を全部売り払って金を作るように要求しました。しかしこの家来は「どうか待ってください、きっと全部お返しします」といいました。王は気の毒になって彼を許し、負債を帳消しにしてやりました。

許された家来は町で、自分が一〇〇デナリオンを貸している仲間に出会ったので、「金を返せ」と迫りました。仲間は「どうか待ってくれ、返すから」といいましたが、彼は許さず、この仲間をとらえて牢に入れました。この話を聞いた王様は、その家来を呼んでいいました。「不届きな家来だ。おまえが頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。私がおまえを憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」(マタイ18-23〜33)。
イエスは次のように結論を語ります。「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、私の天の父もあなたがたに同じようになさるであろう(マタイ18-35)」。
一タラントンは三六〇〇デナリオンに相当しますから、この場合の家来の王に対する債務と自分の仲間に対する債権との間には三十六万倍の差があります。イエスがいっているのは、天の許しと地上における人間関係の許しの格差が、かくも大きいということでしょう。

この話にはちょっと不自然な部分があります。はじめ例の家来は王様に「返済を待ってください」といっただけであって、「借金をチャラにしてください」といったわけではないのに、王様が一方的に負債を免除しています。その上で、王様は家来が自分と同様に寛容でないといって叱っています。しかしこれを読んでイエスが貸借関係をどう考えたかを探ろうとするのは、まったく的はずれです。このたとえ話はあくまでも人間関係における「許し」の問題であって、金銭のことではありません。
しかしながら、私はイエスがここで金銭問題をたとえの素材にしている点に着眼します。例によって「わかりやすさ」という理由があげられますが、同時にイエスが通常の社会における金銭関係、価値観を承認し、前提しているということでなくてはなりません。もしもイエスがどこまでも自分流の金銭哲学をこの逸話の中で展開しようとすれば、「たとえ話」が成立しなくなるからです。彼は自分の金銭哲学と、人々の金銭に対する常識をたくみに使い分けているのです。

 
 

地上の不平等は天国の平等
マタイ伝は、次のような天の国に関するたとえ話を紹介しています。ある農園主が、ぶどう園で働く日雇い労働者を確保しようとしてリクーティングに出かけました。彼は早朝に最初の労働者を見つけ、日当一デナリオンの約束で農園に行って働くよう指示しました。次の労働者は朝の九時ごろに、また次の労働者は十二時、また次は午後二時にというように、順繰りに人を見つけては送り込み、最後の労働者を見つけたときには夕方の五時ごろになっていました。
それから彼は自分の農園に戻って、労働者たちに日当の清算を始めました。彼は、労働者が現場に入った時間に関係なしに、全員に約束通り一デナリオンを支給しました。すると、早朝に現場に入って働いた労働者が文句をいいました。「最後に来たこの連中は一時間しか働きませんでした。一日中、暑い中を辛抱して働いたわれわれと、この連中が同じ扱いでは不公平ではありませんか」。これに対して主人は次のように答えます。
「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたとわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。私はこの最後の者にも、あなたと同じように払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか(マタイ20-13〜15)」。そしてイエスのコメントが次のように続きます。「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる(マタイ20-16)」。

この逸話も一見金銭の話に見えますが、金銭の話ではありません。これは神の慈悲に関するたとえであり、天国における平等性に関するたとえです。天国における平等主義は、賃金の実力主義、あるいは成果主義と明らかに異なります。
このたとえ話は、ルカ伝における「無くした銀貨のたとえ」「放蕩息子のたとえ」にも共通するものがあります。「無くした銀貨のたとえ」では、十枚のドラクメ銀貨を持っている女がそのうちの一枚をなくしたとして、それをついに探し出したとしたら、発見したこの一枚を喜ぶであろうといいます(ルカ15-8.9)。イエスは「言っておくが、このように一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある(ルカ15-10)」といいます。
「放蕩息子のたとえ」はあまりにも有名です。弟が家出をして放蕩と放浪の末に家に戻ってきたとき、父親は家で勤勉に働いていた兄をさしおいて弟の帰還を祝福し、宴会を開きました。兄がすっかりヘソを曲げて、「長年まじめに働いてきた私はどうなるんです」と父親に食ってかかります。すると父親は、「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。私のものは全部お前のものだ。だがお前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」といいます(ルカ15-11〜32)。

これらのたとえは、「罪人でも悔い改めれば救われる」というイエス独自の哲学を鮮やかに物語るもので、硬直したユダヤ教の教義が見失っていたもの、すなわちイエス流のヒューマニズムといっていいでしょう。「悔い改め」を促進するためには、どうしても悔い改めた人間をまともな人間以上に祝福しなければなりません。これがイエスのいう「先の者が後になり、後の者が先になる」というパラドックスです。
悔い改めても、だれにも喜ばれず、前科のために生涯ハンディを背負うことがはっきりしていれば、だれも悔い改めようと思わないでしょう。「許せないはずのものを許し、愛に値しない者を愛する」、これがイエスの力強いコンセプトではないかと思われます。
しかしながら、金銭感覚という点からみた場合、このエピソードは明らかに価格の混乱、価値の混乱を物語っています。かりに現実の社会で、八時間の労働と一時間の労働に対して同じように支払いが行なわれたとすれば、私たちは不自然に思います。この「不自然だ」という感情はどこから来るのでしょうか。

おそらくそれは、「八=一はおかしい」という観念から来るものであり、自然法則、たとえば重量や長さなど、数の同等性や比例に関して私たちが持つ悟性と衝突を起こすのです。八は一の八倍である、という観念は、正義の観念、ビジネスの観念と直結しています。イエスはこのビジネスにおける正義の概念に挑戦したのです。
かりに人質にとられた息子を取り戻すために、誘拐犯人に法外な身代金を準備する父親がいるとします。この場合、物の値段の妥当性とか、ビジネスの正義を持ち出しても、問題はなにひとつ解決しません。家族の愛情と人道的な判断は数学的悟性に優先します。イエスはここでは人びとの通常の金銭感覚や悟性を逆手にとって、自分のコンセプトを説明しました。
考えてみれば、経営努力が不足していた金融機関を救済するために政府が税金を当てるなどというのも、通常の悟性では容認できることでありません。しかし金融機関の信用が連鎖的に崩れるのを救うために、通常の正義を無視した処置をおこなうことが必要かもしれません。この場合には、通常の悟性を超える別種の悟性の適用がおこなわれているということでしょうか。

 
 

番頭たちの才覚を試す
「タラントンのたとえ」を読んでみましょう。この話はマタイ伝で「タラントン」という金の重量単位を用いて語られていますが、ルカ伝では「ムナ」というギリシャの貨幣単位で語られています。タラントンは、金の重量にして二十七キロ近くあり、六〇〇〇ドラクマに相当します。これに対してムナは一〇〇ドラクマのことですから、六十分の一です。同じ趣旨の話なのにどうしてこれほど違う金額で表現されているのでしょうか。私は以下のように想像をします。

1.イエスが同じ話をするときに、聞き手に応じていろいろな単位を使った。
2.ルカが執筆に際して、読者に対するリアリティを持たせようとして単位を変えた。

ここではマタイ伝に沿ってエピソードをご紹介しましょう。ある商人が旅行に出かけることになり、使っていた三人の番頭に自分の財産を預けました。それぞれの力量に応じて一人には五タラントン、一人には二タラントン、最後の一人には一タラントンです。
しばらくして旅行から帰った商人は、番頭たちに預けた金がどうなったかたずねました。第一番頭は、「ご主人様、五タラントンお預けになりましたが、ごらんください。ほかに五タラントン儲けました」と報告し、主人にほめられました。第二番頭も預かった金を倍にしたと報告して主人を喜ばせました。
これに対して第三番頭は「ご主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけていって、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です」といい、現物を差し出しました。

すると主人は怒っていいました。「怠け者の悪い僕(しもべ)だ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。それなら、私の金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰ってきたとき、利息付きで返してもらえたのに」。
主人はさらにいいました。「さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう」(マタイ25-14〜30)。
このエピソードには多くのヒントが詰まっています。まずここでは主人は銀行と金利について言及しています。ところで、私たちは「申命記」の中で、同胞から金利を取ることが禁じられていることを知りました。しかしながら、このエピソードでは銀行と預金金利のことは、ビジネスマンにとっての当然の常識として語られています。

申命記からイエスの時代にかけて、世の中は大きく変化し、銀行が成立し、同胞の間でも利子を取り合うのが普通のことになったと考えていいでしょう。
「タラントンのたとえ」が意味するところは、主人の「真の意図」を理解せず、叱られることだけを恐れて機械的に、しかも後ろ向きに行動した部下の行動の批判です。このたとえは、信仰のために自己の能力を発揮する必要性を説いています。またこのたとえは、「神」の意図を理解することなく、律法を機械的に、狭義に解釈しようとするパリサイ人たちへの批判ともなっています。
ところで、この新約聖書にあらわれる商人がどのくらいの間留守にしていたのか、そして番頭がどのくらいかせいだのかを想像してみましょう。かりに商人が一年間留守にしていたとします。すると、一番番頭、二番番頭ともに資本に対して年間一〇〇%、すなわちROE=一〇〇%となります。

一番番頭、二番番頭が「ごらんください」といって見せたのは、おそらく帳簿だったでしょう。あるいは現金かもしれません。かりに帳簿としても、示したのは経常利益でしょう。これはとんでもない高収益率です。かりに現金だったとしたら、猛烈にキャッシュフローのいいビジネスをしたことになります。
もちろんこれはたとえ話ですから、誰にでも分かりやすいように数字はオーバーに丸めてあるでしょう。けれど話半分、いや三分の一としても、彼らはひどくかせいだことになります。私は当時の社会状況のもとでは、じっさいに元手を持ち、才覚を働かせてしっかりやればこの程度儲かることがあったと想像します。それだけに三番番頭の機会損失が大きかったのです。
さて、主人はどうして三人の番頭にそれぞれ資金を分割し、別個に活動するように命じたのでしょうか。どうして一番番頭にすべてを任せ、他の二人に「彼のいうことを聞きなさい」と命じなかったのでしょうか。彼が出発するときに、すでに彼らの実力の差を知っていたことは、資本の配分比率にも示されています。

彼が資本を分割した理由として次の点を考えることができます。

1.誰がどの程度の実力を持っているか、個別に実験したほうがよく分かる。
2.経営上のリスク分散。
3.ビジネスの多様性を探索するため。

一番番頭に自分の代わりをさせ、他の番頭をこれに従わせるやり方は、従来彼自身がやってきたのと同じ方法です。これはもっとも無難な方法です。しかしこの方法が行き過ぎると、一番番頭の力が強くなりすぎて、「擬似オーナー」を作り出す危険があります。 
このオーナーがどの程度家を留守にしたのか分かりませんが、もし一番番頭にすべてを委託すれば、彼が帰還したとき、一番番頭の取扱いに苦慮したかも知れません。それに彼が失敗すれば何もかも失うことになります。こうした不愉快を作り出さないためにも、損益ユニットを分割し、それぞれを独立経営体として活動させるほうが合理的であったことは間違いありません。
新約聖書の中で、このオーナーのキャラクターは「蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集める」と表現されていますから、経営者として利益確保に相当きびしい人物であったことが想像されます。しかし彼は単に苛斂誅求型の人物であっただけでなく、自分が不在時の体制作りに際してなかなか知恵ある人物であったことが分かります。

このたとえはマタイとルカの両方で紹介されていますから、イエスが公衆の前で実際に何度も語ったたとえと思われます。このエピソードからはイエスが、「利益」と「キャッシュフロー」の関係について、いくぶんあいまいだったことがわかりますが、ビジネスの原理を一応わきまえており、金銭感覚がまともであったこと、そして彼が「人々が考えそうなこと」をきちんと先取りしていたことがわかります。
またここで示されているようなエピソードが、現実社会においていかにもありそうなことであり、おそらくこれに似たオーナーや番頭たちが、実際の社会の現場で活動していたということを物語っています。
このたとえ話は「天の国はまた次のようにたとえられる(マタイ25-14)」というイエスの言葉で始まっています。ということは、上記のエピソード全体が「天の国においてはこのような価値観が適用される」ということでしょう。

しかしイエスがいいたいことは、「金儲けをしなさい」ということではないのですから、ここでいわれていることは「資源を生かしなさい」「責任を持って主体的に行動しなさい」「やったことの結果を出しなさい」ということでなくてはなりません。このたとえ話はビジネスマンにとってわかりやすい実例かもしれません。ここでのイエスはきわめて健全で、前向きであり、実力主義的です。
 
 

「不正な管理人」のナゾ
ところが、「タラントンのたとえ」であれほどの明快さを示したイエスが、ルカ伝の「不正な管理人のたとえ」では、一転してひどく難解で、混乱した思想を示します。このたとえの中で、イエスが弟子たちに次のようなエピソードを語ります。
ある金持ちが一人の番頭を雇っていました。しかし、その番頭が主人に内緒で無駄づかいをしている、と告げ口をするものがあったので、主人は彼を呼びつけました。
「お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない」。すると番頭は自分がクビになるのだと不安になりました。彼はいまさら農夫の仕事ができるわけでもないし、乞食になるのも恥ずかしいし、と、あれこれ思案し「そうだ、こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ」と考えます(ルカ16.1〜4)。

彼は主人から借財のある者を一人ずつ呼び出して聞きました。彼は借り手に「お前はいくら借りていたのか?」と聞きますと、「私は油を一〇〇パトス借りています」と答えます。そこで彼は次のようにいいます。「ここにあなたの証文がある。さあ、ここに腰掛けて五十パトスと書き直しなさい」。また別の男には「小麦一〇〇コロス? それならこの証文を八十コロスと書き直しなさい」(ルカ16-5〜7)。
おそらく、証文の書き直しを命じられた債務者は、借入れの一部を減免してもらえるので喜んだのではないでしょうか。彼らは「何と慈悲深い管理人さんだ」などと、番頭に恩義を感じたに違いありません。
これは明らかに不正であり、今まで管理人がどうしていたかは別として、ここで主人の金をごまかし、勝手に借り手に与えてしまったことになります。ところが奇妙なことに、これを知った主人はこの番頭をほめるのです。以下次のように記述されています。

「主人はこの不正な管理人の抜け目ないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこでわたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなた方は永遠のすまいに迎え入れてもらえる。ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない(ルカ16-8〜13)」。

いかがでしょうか。ちょっと首をひねりますね。イエスはこれまでのたとえ話では神を人間社会における「主人」にたとえています。たとえば、「タラントンのたとえ」では、苛斂誅求を旨とする主人は神を具象化した存在です。したがって「タラントンのたとえ」では、主人が取り扱っている金が不正であるかどうかは問題にされていません。
はじめ主人は、管理人の自分に対する不正(財産の無駄づかい)をとがめようとしたのに、次の段階では管理人の不正、すなわち借財の無許可の減免を「抜け目がない」といってほめています。無駄づかいも棒引きも、どちらも主人側から見た場合不正なのですから、主人がほめた点は「彼が借り手に恩義を売って彼らの好意を得ようとしたこと」であるに違いありません。
次にイエスは、「不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなた方は永遠のすまいに迎え入れてもらえる」といっています。これは、友人を作るためなら、悪事を働いてもよろしい、といっているように見えます。

さらにイエスは、「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である」といいつつ、「人は富と神の両方に仕えることはできない」といっています。小さなことと、大きなことが別物であるとしたら、イエスは一方で肯定したことを、他方で否定していることになります。
このエピソードはあまりにも難解なので、私は高輪教会の牧師長津先生をたずねてこのエピソードの意味を聞いてきました。長津牧師は以下のように解説してくれました。

1.このエピソードは、次のようなイエスの4つのメッセージを含んでいる。「この世の子らは光の子よりも賢くふるまっている」「不正にまみれた富で友達を作りなさい」「小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である」「神と富の両方に仕えることはできない」。この部分を理解するには、後のメッセージから読み解くほうがよい。
2.「あなたがたは、神と富に仕えることはできない」。これについては、イエスは何度も繰り返し述べている。地上における富ではなく、神に仕えなさいということだ。
3.「小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である」における、「小事」とは、この場合の管理人にとって処世のための努力である。「大事」とは神に仕えることである。小事がきちんとできなくては、大事を達成することはできない。あくまでも大事が最終目的である。
4.「不正にまみれた富で友達を作りなさい」。この点がもっとも不自然に聞こえるが、「不正にまみれた富」と表現したルカは、「地上における富は元来みな不正なものである」という前提を持っていた。
5.「この世の子らは光の子よりも賢くふるまっている」というのは、イエスの光の子(信者)に対する皮肉である。悪い管理人=この世の子でさえ、あれほど救われようと懸命に努力しているが、信者であるお前たちは、「自分たちは信者だ」という状態の中に安住していて、救われるための本当の努力を怠っている。

上記のような説明を受けると、このエピソードの意味することがやっと分かってきます。「不正にまみれた」という言葉を、英語版で調べると、「WORLDLY」となっています。これは「地上の」「この世の」ということです。日本語で「不正にまみれた」と表現すると、とても強く聞こえますが、キリスト教的観点に立てば、世界は罪に満ちたものであり、いかなる富も不正ということになるのかもしれません。
さて、ここからが私たちが当時の人びとの金銭感覚について考える番です。まず注目されるのは「悪い管理人」の存在です。すでにタラントンのたとえのところで理解したように、この当時プロの経営者=番頭が存在し、仕事として、オーナーのための財産管理、金銭管理をやっていたことが分かります。
こうした雇われ経営者の多くはまじめだったかもしれませんが、このエピソードに登場する人物は相当なワルでした。彼は日ごろから主人の財産をごまかしていたのです。主人は「会計の報告を出しなさい」といっていますから、帳簿があったことになります。

このとき主人は、「会計の報告を出しなさい」というのですが、文脈から判断すると、オーナーは恒常的に帳簿を見る習慣を持っていなかったようですね。帳簿も見ずに任せきりにしているという習慣が管理者の不正を誘発したということもありえます。これもまた、おそらく現実の社会で日常茶飯事として見られたことだったにちがいありません。
もっとも今日の経営者の中にも、損益計算書や貸借対照表をまともに見ていない人、データが不正なのに気づかない人、数字を見てもそれが意味することのわからない人はゴマンといるのですから、古代のオーナーのことを笑うことはできません。
さて悪い管理人は、オーナーに「帳簿を見せろ」といわれると、債務者に証文の書き直しをさせています。これはどういうことでしょうか。それは、債務額を低く見積もることによって貸しになっている在庫量を減らすという作業です。この作業は、番頭にどんな経済的メリットを与えるのでしょうか。

どこかの国の官房秘書のように、空請求や水増し請求をするなら、番頭の手元に金銭が残りますが、ここでおこなわれている方法では何も残りません。「帳簿の数字とつじつまを合わせたのだ」という解釈もないではありませんが、たとえそうだとしても、番頭の手元にこの時点でキャッシュが残るわけではありません。番頭が主人のものをごまかして懐に入れていたとしたら、それは、もっと前におこなわれた別の方法によります。
要するに負債を軽減する方法は、番頭には直接の経済的なメリットをもたらす方法ではありません。ということは、この個人的な「徳政令」は、あくまでも債務者のための恩着せ作業であり、「債務を軽くしてやるから、あとでオレの就職をよろしく頼むよ」とか、「軽減した分の一割を、おれに個人的に渡してくれ」ということでなければなりません。
この間の事情が、ルカの記述から省かれており、いきなり「不正にまみれた金で友達を作りなさい」と来るので、話が見えにくくなるのでしょう。

では不正な管理人は、この債務軽減措置によって彼の再就職運動を有利にしたでしょうか?私は怪しいと思います。というのも、債務者は人から物を借りるくらいですから、もともと人を雇う力などありません。かりに雇う力があったとしても、オーナーの金をごまかした男をそれと知って採用するでしょうか。
結論からいえば、ここに登場する番頭は、債務者に対する債務の減免を武器にして、いくらかでも味方を増やす努力をした、中には恩に着て彼の再就職に、間接的にでも手を貸した連中がいたかもしれない、ということではないでしょうか。
おそらくこの当時、ルーズな主人、帳簿をごまかす番頭、証文を書き換える不正などが、現実にたくさん見られたのでしょう。イエスはそうした事例をよく観察し、それら身近なエピソードを自分の説話に応用したのでしょう。長津先生がいうように、イエスが、不正ではあるが、サバイバルに夢中になっている男の例をあげて、身近な信徒に皮肉をいったというのもいかにもありそうなことと思われます。

さて、タラントンのたとえであれほど健全な金銭感覚を示したイエスが、ここでかなり混乱した説明を行なっているのはなぜでしょうか。つまり、長津先生の明快な説明にもかかわらず、このエピソードには依然として問題が残るのです。
たとえば、負債証文の書き直しが直接的には番頭に利益をもたらさないのに、主人は「抜け目ない」などといってほめています。ところがこのやり方は私たちから見て、少しも抜け目ないやり方とは思えません。この程度のことで番頭をほめるようでは、この主人の目は二重三重にフシ穴です。
それにまた手段の当否に関わらず「救われる努力をする」という番頭の行為は、「悪あがき」なのですから、イエスが他のところで述べている倫理観や「思い煩うな」という思想と明らかに抵触します。私は、福音書にこのような矛盾が見られる原因を次のように分析します。

1.イエスはもともと健全な常識を持ち、人々が考えそうなことを知っていたし、社会における取引や経営の実態をよく見ていた。要するにこの点では彼の金銭観はまともだった。彼はその上で自分の宗教倫理を述べた。
2.しかしイエスの金銭常識は、要するに「普通の人=アマチュア」のそれを一歩も出るもので はなかった。だからときには矛盾するようなことやつじつまの合わないことをいった。当時は財務理論も税理論も存在しなかった。
3.弟子たちの中でも金銭感覚のばらつきがあった。たとえば、ペトロのそれはかなり危なっかしいものだった。
4.ルカの記述に問題があった。かれはこの逸話に複数のメッセージを盛り込みすぎた。彼は、いくつかのメッセージを無理に組み合わせ、いうなれば「策におぼれる一節」を書いた。
5.ルカは「地上の富を積むな」というイエスのコンセプトを、「金銭は不正にまみれたものである」と拡大解釈した。
6.これまでに福音書を書写し、あるいは校訂してきた人びとは、経済の視点から福音書をとらえたことはなかった。彼らは「通念的に」「機械的に」、要するに金銭に関するアマチュアとして仕事をしてきた。

もちろん福音書に散見される問題をあげつらったり、批判したりすることは本書の目的ではありません。私たちはあくまでもイエスが「いわんとしたこと」に耳を傾ける必要があると考えます。
イエスは「金の子牛」に代わる「貨幣」主義が一般的となった時代に立ち上がり、彼独自のストイシズムを鼓吹しました。彼は人々の金銭崇拝を逆手にとって自分の思想を語りました。彼は弱者として、きびしい環境を肌身に感じながら、「地上の富は頼むに足りないし、これに依存してはならない」と叫びました。しかしその彼は、弟子の一人ユダの手によって三十枚の銀貨と引き換えに売られたのでした。

 
   
←第7章へ 目次へ 第9章へ→
 
 
Copyright (C) 2006 Kunihiro Kato All Rights Reserved.