トップエッセイ音楽作品アラン経営関連リンク
 
鈴木航伊知との対談
 
対談第2回(1月15日)<万物が生命を持って平和に共存する世界>

レポーター――あなたは前回の対談で、人生の初期の段階でヨーロッパにひかれ、ヨーロッパの風物の姿をモチーフにしながら、あなたご自身の世界観を表現するに至った、というお話を聞きました。そこでは、宇宙や地球の有機物も無機物も、すべてが繋がっていて、定まった法則のもとに、リズミカルに生々流転しながら存在し続けている、というお話でしたね。そのようにお聞きすると、「なるほど!」あなたの絵の魅力の秘密を知ったような気がします。ところで、今回はまず、あなたの絵のどの作品にも感じられる「物語性」についてお尋ねしたいと思います。

鈴木航伊知――あなたは、第一章でまず「月に歌う歌姫」「カリヨンと羊」「旅の小間物屋」を取り上げて、何か背景に物語があるのではないかといっていますね。さらに、作品が何らかの「物語」を提示し、絵を見るものに「絵解き」を迫る絵が、良い絵だとしてくれています。これは本当に嬉しいことです。

komamono-500 
「旅の小間物屋」

レポーター――絵を見て何も感じられないというのは、絵に謎がないということでしょう。これを言葉を変えていえば、「何の変哲もない」ということになります。もちろんこの場合、見るほうが悪いのかもしれない。けれども、絵の前にひきつけられ、足止めを食い、考え込まされるようでなければ、私たちとその絵の間には対話が始まりません。私は何の物語も感じられないような絵は、壁の一部と同じで、単なる場所ふさぎでしかないように思えます。

鈴木航伊知――これは、過激な意見ですね。確かに、ぼくの絵は受ける印象として、物語性が強いと自分でも思います。ぼくはあなたがブログ本文で紹介してくれましたが、長篇小説「中世の少年ヤン」を書くなど、際限もなく物語を産み出して行く性向を持っています。これは言わば「散文」の物語性ですね。

レポーター――いやあ、あの「中世の少年ヤン」にはびっくりしましたよ。文章を書く画家はたくさんいるでしょうが、あれだけのまとまった小説を書く画家はちょっと見当たらないでしょうね。いますぐ小説家に鞍替えしてもやっていけるほどではありませんか(笑)。ところで、「散文」における物語性と「絵画」における物語性とは別物なのでしょうか。

鈴木航伊知――ぼくは絵を描く時も、ある材料片をインスピレーションで得ると、それからそれへと物語を作ってしまう傾向がありますが、それは「散文の物語」ではなく、あえて言えば「詩の物語」だと思います。

レポーター――「絵の物語」でなく「詩の物語」なのですか。
 
鈴木航伊知――そうです。インスピレーションを刺激する第一材料は「語句」や「現実の事物」を含めて無数にあります。例えば「歌姫」という語句から刺激を受けると、私の場合連想として「月」とか、「飛び上がる魚」とかの語句がずるずると連なって現われます。一方「音階鐘(カリヨン)」や「羊」は、ヨーロッパで見た「現実の事物」の例で、それから刺激を受けると、草原、小川、湖、岩山、月などの連想が浮び、それからぼくなりの「情景世界」を纏める訳です。

tukiniutau 
「月に歌う歌姫」

レポーター――あなたがいわれるのは、散文の物語がどちらかといえば論理性を重んじるのに対して、「詩の物語」のほうは、キーワードそれ自身の発展と視覚的なイメージが中心になるということですか。

鈴木航伊知――まったくその通りです。「散文」の世界は、現実的な首尾一貫性が存在するし、そうでないと意味がつながらないことが普通です。けれどぼくはそれを作画の時はやりません。また、散文の物語を説明するための絵があり、これは文字通り「説明画/イラストレーション」と言われていますが、これもぼくはやりません。

レポーター――なるほど。考えてみれば、「論理性」というと、いかにももっともらしいが、
「論理性」とは、「現実世界での当面のつじつま」、ということですものね。

鈴木航伊知――前回、お話ししたように、ぼくは自分を、ある半幻想世界を放浪している絵描きと規定し、目の前に現われて来る有り様を描いているわけです。しかし、そこは昼は夜であり、夜は昼であるという非現実な時間軸の世界であり、もののサイズも距離の見え方/パースペクティブも非現実的空間で、ぼく流の、この世の第一意志である<神秘>が支配し、神秘感が色濃く流出している位相なわけです。ですから、そこに、散文的、現実的、首尾一貫性を表現することは無理であり、また、ぼくもそれを望まず、詩的、非現実的、飛躍的、分裂的世界であり、その表現を目指している訳です。旅をしているという行為自体が、時間的経過を含んでおり、ぼくの旅する世界自体が神秘のもとに律動し、生々流転しており、つまり、時間的経過をはらんでおり、物語自体がやはり、時間的経過を内包しているという重なりから、ぼくの絵がかなり<物語性>を発散しているのではないかと、そんな風に自分では思っています。

lion 
「詩人と金のライオン」

レポーター――あなたの絵にある「物語性」が、なぜ私たちをひきつけてやまないのか、いまの話を聞くとよくわかります。それは、現実の関連性、論理性という意味での整合性ではなく、あなたの世界における整合性、インスピレーションの世界における関連性の中で形成されているわけですね。私たちは、いわば「論理の世界」の側から、あなたの世界を眺めるわけだ。そして私などは、一生懸命「こちらの世界の論理」を適用して解釈しようとする。ところがそれはどうしてもできない。そこがもどかしくもあり、魅力的でもある。そのとき私たちは半分ほど額縁の中に、つまりあなたの神秘の世界へと引きずり込まれてしまっていることになるわけです。

鈴木航伊知――なるほど、そういうことになりますか。

レポーター――ところで、今年のあなたの年賀状に、すばらしい「詩」が記されていましたね。あのような詩を、年賀状の受け手にプレゼントしてくれるとは、ありがたいことです。あの詩は、あなたの絵の「物語性」の謎を解くカギになるのではないかと思うので、ここに紹介させてください。いっそ、ここでご本人が読んでくれませんか。

鈴木航伊知――照れちゃうな。ま、いいですよ。読みましょう。

詩《大幻想/恩寵の刻》

・恩寵の刻 正001時
・太陽神の灼熱の台車が 双頭の巨犬に曳かれ 天空の頂きに達した
・イカロスが背を見せ 海に向かう
・時空の裂け目から身を乗り出して 辺りを伺っていた鳥は メビウスの回廊に戻った
・霜狼を食べて消化中の食虫花が 滝の裏側に緩やかな歩を進める
・黒き犬たちが矢となって冷気を射抜いた
・木馬たちが 手回しオルガンに合わせ 世界を遁走する
・人形たちの思惟が棘の冠に編み上げられた
・恩寵 正035時
・アコルデオン弾きが階段に花を撒いて 月を迎える

レポーター――いいですねえ。これはまるで、あなたの絵画作品をそのまま言葉にしてもらってそれを眺めているという感じがします。やはり、貴兄は第一級の詩人です。言葉に対する感度が鋭い。そして画家としての強み、視覚的な、鮮やかなイメージが伴っています。昨年の年賀状にもすばらしい詩が描かれていて、感心しましたが、今年の詩もいいですねえ。ところで、この作品はどのようなところから発想されたのですか? 

鈴木航伊知――今年はイヌ年ということで、イヌの概念が第一刺激材料となり、連想からこの<詩>ができたのです。この詩をもとにこれから、絵を描くことが、いずれあると思いますが、その時は、画面に、太陽、双頭の犬、鳥、花、滝、木馬、人形、アコルデオン弾き、月、などの中から適宜選択された材料が現われるでしょう。

レポーター――絵を描くときは、いつでもこのような詩的な言語イメージが先行するということではありませんよね?

鈴木航伊知――先にもお話したように、二つの道があるのです。一つは「語句」からのインスピレーション、もう一つは「現実の事物」からの情景インスピレーションです。

レポーター――すると、この詩は「語句」から刺激を受けて絵画作品が作られていく場合の、一つのプロセスの例と考えていいのですね。私たちはこの詩に接するとき、あなたの絵画作品の祖形というか、母形を見ていることになるわけだ。これがあなたの絵画作品の「物語性」の秘密ということになる。

tuki-michi 
「月への銀の道」

鈴木航伊知――たしかに、このようにしてできた作品を見る場合、見る方が、何か、漠然と<物語>があるな、と感じられるかも知れません。もちろん、ぼくなりには、ちゃんと、<詩的な意味での物語>があり、自分なりには起承転結がある訳です。が、<散文的、論理的な物語>ではないので、論理の方から攻め入ると、分裂的で、訳が分からないということになるかも知れませんね。

レポーター――ありがとうございました。それではまた次回。

   
←第1回へ 目次へ 第3回→
 
 
Copyright (C) 2006 Kunihiro Kato All Rights Reserved.