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鈴木航伊知との対談
 
対談第3回(2月1日)<音楽、神秘なるものへの捧げ物>

レポーター(加藤邦宏)――前回はあなたの絵画作品の「物語」という点に関して、大変明快なご説明をいただきました。あれを聞いて、あなたの作品をいっそうよく理解された人も多いのではないかと思います。今日はあなたの絵画作品に見られる「音楽」という点についてお尋ねしたいと思います。

鈴木航伊知(画家)――今回は音楽談義ですね。嬉しいことです。でも、あなたのような作曲家と、あなたの専門領域である音楽について喋るのですから、ぼくとしては、ちょっと気が引けますけど。

レポーター――いや、私はただの「下手の横好き」タイプの音楽愛好家ですから。もっとも、自分が多少音楽をやるせいか、あなたの絵画作品の中にある音楽に、強い興味を覚えてしまうのです。あなたは、絵の中にふんだんに音楽を取り込んでおられますね。私の見るところでは、ひとつは楽器と演奏家の関係で、もうひとつは絵の中に流れている音楽として。これほどまでに音楽にこだわった画家も少ないのではないかと思えるのですが、その理由は何なのでしょうか?
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「湖と草原とエピネット」

鈴木航伊知――その答えはとても簡単です。ぼくは思春期以来、西洋の音楽が大好きでたまらなくなってしまったのです。ぼくは好きなものを描く主義なので、楽器や演奏する姿を多く描くのだと思います。そして、残念なことに自分では何も弾けないので、憧れとして、なおさら演奏行為を描きたいのではないかとも思っています。

レポーター――やはり、あなたの場合、前回にも触れられた「ヨーロッパ文化の刷り込み」と、音楽が深くつながっているのですね。

鈴木航伊知――えぇ。ぼくがずっと日本に住んでいたら、音楽を描けなかったでしょうね。普通は、日本では音楽会に行くか、CDを聴くかぐらいでしょう。その場合、純粋に音の抽象芸術性を耳と心で味わうだけになりますので、ぼくにとっては絵のイメージが湧きにくいです。しかしヨーロッパの街を訪ねてみると、あなたがジッテの言葉をひいて、「広場とは一種の劇場である」と言っている通り、街そのものが舞台装置であるという印象を深くします。

レポーター――なるほど。現実のヨーロッパの街には「音楽」の要素が織り込まれている、という体験や印象を持たれたのですね。

鈴木航伊知――その通りです。ここでぼくは、数多くの大道音楽師の姿を見ることによって、行動する人間と抽象的な音楽が組み合わさって、ドラマを現出させている姿を見たのです。ぼくは生来、演劇的、舞台的な光景が好きなので、イメージに火を付けられた訳です。
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「山羊が芸する辻サーカス」

レポーター――あなたの絵の中に、楽師や楽器が描かれていない場合にも、音楽が感じられてしまうのは、どうしてでしょうね?

鈴木航伊知――演奏する姿が描かれてなくとも、音や音楽が流れている感じがするという、あなたのコメントは、私には過分なお褒めに感じられます。これも、音楽を愛すればこそ、音自体にも敏感になるわけで、ご指摘の通り、鳥のさえずり、せせらぎの水音、馬のひずめの音といった自然音も耳の中で意識しながら描画しています。

レポーター――それにしても、現代の日本の街には、音楽的でない音楽が氾濫しすぎていると思いませんか?

鈴木航伊知――まったく同感で、残念です。ぼくはヨーロッパで、はじめて「自然音」を豊かに聴いたという実感を持っています。ヨーロッパの暮らしは、無音、沈黙が基本です。これを伝統的に意志的に強く維持しているので、逆にかすかな自然音が鮮烈に耳に染み込んで来て、無音と有音との対比のドラマを味わうことができるわけです。

レポーター――わが国の街にも、もう少し「音を大切にするという」という基本的な配慮が必要ですよね。ところで、あなたの絵の中に出現する楽器には、比較的古い、めずらしい楽器が多いですね。手回しオルガンやカリヨンがそのいい例ですが。中には、音楽好きの私も知らないような楽器もあります。このような楽器に愛着をもたれた理由や背景があるのでしょうか。

鈴木航伊知――ぼくはヨーロッパで、それまで日本で聴かなかったもので、衝撃的に感動した音や楽器があります。感動のあまり鳥肌が立ったり、涙が出たりしました。鳥肌と涙は、ぼくは「魂の時」と自分で呼んでいて、自分の魂が相手が有機物であれ、無機物であれ、その魂や過去世界と繋がった神秘的瞬間だと思っています。

レポーター――いい音楽を聴いて、涙が出たという体験は私にも幾度かあります。ところで、あなたがヨーロッパでもっとも強い印象を受けた楽音は、どのようなものでしたか?

鈴木航伊知――なんといっても教会や大聖堂の鐘の音でしたね。ぼくは既成の宗教やキリスト教の信者ではありませんが、なぜかひどく感動します。かつては秩序維持のため、個人に干渉して来た音なので、宗教の自由な現代では迷惑がるひともいるでしょう。しかし、ひとが神に祈るという心を表現する手段として、あの音はぼくの魂と生理をひどく揺らします。

レポーター――なるほど。

鈴木航伊知――次にあげなければならないのは、キャリオンです。教会の鐘を大小作って音階順に並べ、綱を付け、離れた場所で鍵盤を手刀で打ち付けて演奏する音階鐘ですね。これはフランスでは「キャリオン」、ドイツでは「グロッケンシュピール」と呼ばれていますが、これも、鐘の持つ不思議な霊性でぼくの魂を完全に魅了します。
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「雪の中で鳴る鐘」

レポーター――それで、あなたの絵にはキャリオンがたくさん描かれているのですね。

鈴木航伊知――そうです。また、手回しオルガンも、私にとって大きな衝撃と感動でした。これは19世紀の機械仕掛けの楽器で、巨大なものは馬車ほども大きく、遊園地の客寄せやダンスの伴奏に使われます。小さいものは旅の楽士が担いだり曳いたりして、道端で小銭を貰うために演奏します。その音色は、明らかにヨーロッパの庶民文化としての哀感、追憶感に満ちていて、これまたぼくの魂と生理を完全に痺れさせます。こうした手引きから、ぼくはヨーロッパならではの音と楽器世界に入ったのですが、ぼくの絵は中世から近世までの世界なので、自然に、この時代の古い楽器を見たり、聴いたりするようになり、結果としてしばしば絵に登場するというわけです。

レポーター――そういうことでしたか。あなたの、あれらの楽器への思い入れの強さが、絵を見ている私たちの心にも響いてくるのですね。やはり、作者自身の感動がなければ、あれほど私たちに「音楽」が伝わってくるはずがありませんからね。

鈴木航伊知――音楽に着眼しながら絵を見てもらえるのは、本当にうれしいことです。

レポーター――ところで、あなたの絵の中に現れる音楽家には、なぜか聴衆がいませんね。また演奏する楽師も、まったく聴衆を意識していません。ですから、彼らは孤独な演奏家なのですが、まったく淋しそうには見えず、むしろ「即自的な完結」を示しています。あなたのお気持ちの、どのような側面がこれら「孤独な音楽家」に結びついているのか、聞かせていただけませんか。
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「青い町と手回しオルガン」

鈴木航伊知――専門家のあなたがご存じの通り、楽器演奏は、古代人の人間的感情の発露、権力や儀式への奉仕、踊りの伴奏、王侯貴族への愉悦や癒しの提供、近世における良家の子女の嗜み、家庭内やサロンでの演奏会などさまざまな多様性を持っているわけですね。

レポーター――その通りです。ダヴィデは竪琴でサウル王を癒していますね。一方、彼自身が自分の喜びを表現するために演奏し、歌っています。

鈴木航伊知――しかるに現代では、自分で演奏して音楽を楽しむという性格が後退して、演奏会やCDで高度な技能者が与えてくれる音楽を、聴衆が受け身の形で味わうという形が一般的になったようです。

レポーター――同感ですね。

鈴木航伊知――しかし、音楽や演奏の基本は、技能の高低に関係なく、楽器演奏や喉を自分で演じて楽しむという能動性にあると思います。あなたが絶えず、あなたご自身や、ご家族、友人と家庭内で室内楽をされているのを見聞きする時、あなたが、まさに能動的な態度で音楽を取り込んでいるのだなぁと感心します。あなたがぼくの絵の中の演奏者を「即自的な完結」を示し、「孤独な演奏家」なのに、「まったく淋しそうには見えない」と言って下さっているのは、このことではないでしょうか。

レポーター――あなたの絵の中の演奏家は、つまらぬ聴衆を意識することなく、自分の音楽の中に浸りきっているわけですからね。

鈴木航伊知――さらに「淋しくない」理由を自分なりにご説明してみましょう。ぼくの絵の中の楽器演奏者は、その音と曲で自分を喜ばせていると同時に、そのような喜ばしい音という恩寵を与えてくれた神秘の力に感謝し、彼の心=音楽を捧げてもいるのです。神秘へのオマージュ(礼讃/捧げもの)としての音楽ですね。

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「白鳥の背のパンフルート吹き天使」

レポーター――なるほど、そういうことだったのですか。彼らはそれぞれに「音楽の捧げ物」をおこない、神秘の力はこれを嘉していたわけですね。それならば少しも孤独な演奏家ではない。

鈴木航伊知――古代ギリシャ文化に詳しいあなたがいつもご教示されるように、音楽の語源である「ムシケー」は、たんなる音楽技術を超え、音楽、詩、舞踊、学芸、教養、倫理を含む全人的な意味を包括している概念でしたね。また宇宙に数学の法則を見出したピタゴラスは、惑星間の距離や宇宙と音階の間に神秘的な相関性を見たといわれています。

レポーター――そのように言われていますね。

鈴木航伊知――中世の大学の教養学部にあたる、「自由七学科(リベラル・アーツ)」でも、音楽は、算術、天文学などと共に必修科目として、高度な学問だったようです。つまり、ことほど左様に、音楽は、限りなく宇宙や神秘概念に近いわけです。中世のグレゴリア聖歌も、修道僧が聴衆をまったく意識せずに、歌うことで神を礼讃したわけですね。それと同じように、神秘の力が強く顕現しているぼくの絵の世界の住人が、神秘/宇宙の運行の第一意志に、自分のできる範囲内で、礼讃の心で楽器演奏をし続けているわけです。このような場合、聴衆の介在は当面は必要ないわけです。

レポーター――ご説明大変よくわかりました。あなたの絵の特性がまたひとつ解明されたような気がします。それではまた、次回。

   
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