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鈴木航伊知との対談
 
対談第4回(2月15日)<「イデアとしての人物」と「浄化された人間としての男女(おめ)」>

加藤邦宏(レポーター)――前回は音楽の話を中心にお話いただき、ありがとうございました。それではさっそく今回のテーマに入らせていただきたいと思います。今回のテーマは、あなたの絵の中にあらわれる「人物」です。

鈴木航伊知(画家)――あなたが今回の評論で、ぼくの絵の世界の人物に強い関心を示してくれたのはほんとうに嬉しいことでした。

加藤――あなたの絵はどちらかといえば風景が中心ですよね。その風景の中に、たまたま人物や天使が出てくることがありますが、それはいわゆる人物画ではありません。でも、ごくわずかの例外がありました。それは私が勝手に「兄と妹の肖像画」としてしまったあの二枚の絵です。あれは、いわゆる肖像画のジャンルに入るものではないでしょうか。あの絵がどんな理由で生まれたのか、まず、そこからお話しいただけませんか。

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「レース飾りの襟の少年」 「花で編んだ帽子をかぶる少女」


鈴木――ぼくとしては、あなたがとくに、あの二作品について言及してくれたことを喜んでいます。というのも、あの二作品は自分なりにある程度、手ごたえを感じて描いたものだからです。ぼくは長いこと、人物画を描きたいと望み、挑戦はして来たのですが、なかなか満足出来ず、公表して来ませんでした。点数がまとまれば「人物画シリーズ」として纏めて発表したいと思っています。次回の個展にはぜひ「人物画シリーズ」を入れてみたいと思っています。

加藤――いまあなたは「人物画」といわれましたが、「人物画」と「肖像画」は分けて考えなければならないのですね。

鈴木――常識的に言えば、人物画は人間を描く絵、肖像画は、特定の人物を描く絵ということになりますが、両者の概念が重なり合うので、ぼくは単純化して、ここでは「人物画」と言うことにします。

加藤――そういうことですか。分りました。

鈴木――人物画の描き方を、山に登るという行為にたとえてみましょうか。すると行きかたのひとつとして、人間を「まるで生きているように」表現するとか、「表情を巧みにとらえる」とか、「肌のぬくもりを感じさせる」とかいうような、そういった「現実の相貌の写し取り」ともいうべき行き方が考えられます。

加藤――その通りですね。これまでの画家の努力の多くは、そのことに向けられていたのではないでしょうか。

鈴木――そうですね。よく熟れた果物、咲き誇る花、女性の柔肌、こう言ったうつろい、変化するものが、最高に旬な瞬間を、「まるで匂いさえ感じられるように」画面に写し取りたいというのは、ひとの本能かも知れないし、昔から多くの画家の心を捕えていますよね。

加藤――しかしながら、あなたとしては、人物画に関して別の行き方があるといいたいのですね。

鈴木――そうです。個性ある果物も花も柔肌も、旬をすぎ、やがて朽ちて行く。しかし、表面が朽ちて行っても、その中心には、いわば「果物性」、「花性」、「肉体性」とも言うべき普遍性が存続し続け、表面の感覚的な美しさとは別の美と輝きがある。それを言葉では何というべきか、ぼくにはありふれた言葉で「本質」、「普遍性」、「スピリット」としか言えない。あなたは哲学が専門だから、そういうものを言葉で何と言えばよいか、教えてください。

加藤――プラトンならそれを「イデア」と呼んだことでしょうね。またアリストテレスならば「エイドス(形相)」と。

鈴木――ぼくとしては、人物画を描くなら、こちらの行き方で山に登りたいですね。

加藤――つまり現実の写実ではなく、イデアの表現ということですね。

鈴木――そうはいっても、「言うは易く、行なうは難し」です。というのも、鑑賞者は風景や静物よりも、人間のことをいちばん良く知っているからです。毎日、自分や他人を見ていますからね。だから、絵の中の人物に対して、似ている、似てない、真実がある、嘘がある、好きだ、嫌いだと敏感に反応するのも、人物画に対してなんです。だから、人物画はある意味で、いちばん難しい。これが、ぼくが人物画に長いこと執着しつつも、発表に慎重だった理由です。

加藤――そうでしたか。しかし、あなたのおっしゃることはわかるような気がします。というのも、あなたの絵はたとえ風景画にしても、どれもが現実の模写ではなく、むしろ現実を超えた何ものかを表現しようとしていることは明らかですからね。

鈴木――古代ギリシャ彫刻には、個性も本質も見事に同時表現し得たものがありますね。例えば、有名な「サモトラケのニケ」は、女性の香りたつ肉体のエロスを十分にあらわしつつ、感覚の優美さ、精神の毅然たる姿、すなわち女性の本質を表現していると思います。また、有名な「アルテミシオンのゼウス」は、男性の美しい肉体を表現し切り、同時に、感覚の複雑さ、何としても前進して行くんだという精神の積極性、すなわち男性の本質を表現していると思います。

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アルテミシオンのゼウス

加藤――ニケ像もそうですが、あのゼウス像はとても美しいですね。もっとも、あの像をゼウスではなくポセイドンだとする説もあるようです。私は個人的にはポセイドンではないかと思っているのです。いずれにしても男神は左手を水平に構えて、右手で槍のようなものを握っている感じですね。しかし、あれらの像はいずれも、あなたがいうところの「写実的な」行き方をとった作品ではありませんか。

鈴木――そうですね。普通は「写し取る」道は「素直な写実」で行なわれ、「本質を求める」道は、「プラス何か」です。このケースは「写実」ですが、桁外れの写実力があるので「素直」なレベルではない上に、「本質」を表現するための「様式性」が加わっています。ま、ぼくも、様式性への関心があります。現実はしなやかなものであふれています。肉体もひとの心も社会もしなやかです。でも、ぼくは、まるで、操り人形のように、ぎごちなく生きて来ました。眺める世界も、まるで、ひび割れたガラス越しに見る世界のように見えるのです。

加藤――なるほど。それであの人物画の、幾何学的に見えるほおの線や目の形が出来上がったのですね。

鈴木――ええ。ぼくはぎごちない操り人形や、その他の人形さんたちを見る時、目だけはこちらの心を見透かすように見据えていながら、しなやかに動けない姿に、自分の心を投影します。そうした心情を、半人形的な様式性という不自由な、限定された表現手段の中で表現したいのです。

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「人形と高い橋」

加藤――それが、あのよく似た兄妹が描き出された、あなたの思想的、感情的な背景だったのですね。すると私たちは、あの二人の人物には、実際にはモデルはいなかったと考えていいのでしょうか。

鈴木――モデルはいません。だから、普通の意味での、現実のひとを描く「肖像画」ではなく、「人物画」かも知れませんが、心の中で特定のひとを思いえがいて描いるので、その意味ではやはり「肖像画」と言えるかも知れません。
 
加藤――ところで、あなたの絵には、明らかに男と分かる人物と女と分かる人物のほかに、男女どちらとも判別しにくい人物が登場します。これはあなたの絵の大きな特徴だと思います。男女判別不明の登場人物を、私はプラトンの伝説にならって「おめ(男女)」と名付けましたが、この「おめ」について、画家自身はどうお考えですか。

鈴木――あなたが、本文の4−4で、「おめ」の観念を持ち出して下さったのは、まことに興味深いことです。なぜなら、それは、ぼくの人物に対する考え方の本質に触れているからです。プラトンの「饗宴」をひもといてみましょう。そこには太古には三種の人間がいた。男と男が合体した者、女と女が合体したもの、男と女が合体した者、すなわち「おめ」。彼らが神に反抗したので、ゼウスは彼らをそれぞれ半分に断ち割って、現在の人の姿にした。その結果、男同士を割られた者は男を求め(今のホモ)、女同士を割られた者は女を求め(レズ)、男女合体(おめ)が割られた者は、異性を求めるようになった。――と、非常に面白い説明ですね。

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「広場の手回しオルガン弾き」

加藤――プラトンは「饗宴」の中で、あの寓話を喜劇作家のアリストファネスに語らせています。あの話通りにいけば、「おめ」には手足が二対あり、かなりグロテスクになりますが、私はあくまで概念だけを借りてきたのです。

鈴木――ぼくの絵の中のかなりの人物が、男のようでもあり、女のようでもあり、それは、断ち割られる前の太古の人間、「おめ」に似ているのではないか、という指摘はとても深い意味を持っていると思います。つまり、断ち割られる前の「おめ」は自分の中にすでに異性を半分持っているので、今のわれわれのように、異性を求める、火を吐くような性本能に悩まされることがない。しかし、性欲がなく、性の営みをしないのではなく、しているのだけど、対象を失う心配がない。自己内の両性充足の構造ですね。

加藤――うらやましい状態ですね。

鈴木――こういうと、ナルシシズムみたいだけど、まったくそうじゃない。ナルシシズムには異性との性の営みがない。自愛があるだけ。でも、「おめ」の性の営みは、丁度、心がぴったり合っていて、もう相手以外の異性をまったく必要とせず、その営みが常に最高の心身の喜びを与えあう男女、それと同じだと思う。

加藤――ますますすばらしい。

鈴木――こうしたことに関して心理学者ユンクが言っていることはご存じの通りですね。人間の心の奥底には無意識の領域があり、結論だけ言うと、アニマ(女性像)と、アニムス(男性像)の二つが併存する。つまり、人間には誰しも、男性的要素と女性的要素の二つが併存しているということですね。「おめ」論と似ていると思います。

加藤――私個人はいまだに、精神分析学のいう「無意識」の概念が理解できないで困っているのですが、あなたの話の趣旨は分ります。

鈴木――しかし、現代人は科学の知識があるので、こうした神話的解釈によらなくとも、受胎後、胎児は雌としての原形を持ち、そのまま女として産まれるか、胎内で男に性分化して産まれるか、あるいは性分化がうまく行かず、ホモやレズなどの性的中間者として産まれることを知っています。でも、これはプラトンが現代科学の知見なしに直感した解釈や、ユンクの解釈と同じで、人間は最初は、胎内で、男と女が合体していたということを物語っていますね。

加藤――「合体」というのは、別れ別れのものが一つになることをいうのですから、この場合「合体」というのが適当かどうかは分りません。いずれにしても、人間は両方の要素を持っているということですね。

鈴木――科学的知見では、人間は誕生後、性ホルモンの働きで、男は男性ホルモンの働きで、女は女性ホルモンの働きで性機能を完成させる。そして、遺伝子の命ずる性本能に命ぜられて、つまり、プラトンの解釈のように、異性や同性を求めることにきゅうきゅうとする一生を送らされると聞いています。

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「旗飾りのある広場とヴァイオリン弾き」

加藤――性ホルモンが性機能の原因であるのか、結果であるのか私には分りませんが、人間が性本能の宿命に悩みながら一生を送るというお話の趣旨は分ります。

鈴木――世の中には、気に入った相手を獲得出来てルンルンの物語を紡げる幸せ者もいれば、相手を失ったり、獲得出来ずに不幸な物語しか紡げない者もいる。そして、幸せだった者にも、不幸だった者にも共通に、やがて老いが忍び寄り、最晩年、性本能も弱く鎮まり、死の旅に出る、これが人間の一生ではないでしょうか。

加藤――その通りですね。

鈴木――男と女の仲のことについても二つの道があるのではないでしょうか。一つは精神を一致させ、二人だけの性で満足できるように仕向ける道。別の道は、多様性の薮の中でアップアップする道。肉体のエロスを基盤として向い合うだけだと、男は本質的にマッチョであり、女は本質的にセクシーです。男と女は媚び合い、焦らし合い、獲得し合い、裏切り合い、失い合い、また求め合い、一生、性の葛藤のさなかで暮らすことになります。画家としてのぼくが、もし、現実の、ナマの人生にうまく、しなやかに適合出来、それら複雑きわまる男と女の駆け引きを、葛藤の苦しみというマイナス面で捉えるよりは、面白い、ワクワクするとプラスの面で捉え直すことが出来るならば、ぼくは異性の性的魅力を描き出すことに手を染めたかも知れません。しかし、それはぼくの世界ではありません。

加藤――ということは、あなたは、現実の男女的世界が、「性的葛藤の中で」、あるいは「多様性の中でアップアップしている」ように思え、そのような、いうなれば見苦しい状態を描きたくないと思っているわけですね。

鈴木――え? あなたは男女間をそうは認識していないのですか?

加藤――そういわれれば、そうかと思いますが。男女観は、年齢によっても異なるのではないでしょうか。いずれにしても、いまはあなたのお話を聞くときです。

鈴木――ま、ぼくの場合は、そういう認識なので、性的葛藤の激しいナマの世界を浄化した、半幻想的で、半肉体的で、平和共存的で、アニミズム的で、半天上界的で、半人形的世界を描きたいのです。その意味で、あなたが、ぼくの絵の中の登場人物に、「おめ」のような者がいるのではないかと指摘してくれたことは、まさにぼくの心理の中心を射当てています。

加藤――なるほど、そうでしたか。画家ご自身にそういっていただけると、レポーターとしては何かクイズで正解したような、そんなうれしい気持ちになりますね。それでは、今回の対談はこの辺にしておきましょう。次回も、もう少し「人物」と「性」をめぐって、お話を伺いたいと思います。ありがとうございました。

   
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