トップエッセイ音楽作品アラン経営関連リンク
 
鈴木航伊知との対談
 
対談第5回(3月1日)<デザイン開発される独特のファッション>

加藤(レポーター)――前回は、あなたの絵の中に現れる人物についていろいろお話しをお聞きしたのですが、たいへん面白く、また有益でした。とくにどうして、あなたの絵の中に性別不詳の人物、「男女(おめ)」があらわれるのか、ということについて示唆にとんだお話しをいただきました。さて、この件に関連するわけですが、あなたの絵には、明らかに男性と分る人物がスカートをはいているケースが多いですね。男がスカートをはくことは、絵の中でどういう意味を持っているのでしょうか?

鈴木航伊知(画家)――あなたが、本文の4章で、ヨーロッパの男女の服装史の流れを要約してくださったのは、大変有意義でした。ぼくたちはカーライルの言葉を通して、衣裳が人間社会維持の根幹であることを学びました。また中世を中心に、男性が、足を露出するか、タイツをはくかしてリアルにあらわにして来たのに対し、女は足を露出しないようにしてきたという事実を知りました。あの服装史を、女性の足が性のメタファーであることから来る、男の側からの抑圧史と見ることもできるでしょうね。

加藤――そう見ることもできるかもしれませんね。いずれにしても、ヨーロッパ服装史を見るかぎり、男性はあまりスカートをはきませんね。ただ、古代から中世を通して男女に共通に着用されていた、「チュニック」は、多少裾広がりですが。

鈴木――そうですね。中世などの男の衣裳は、肌着の上に上着のようなものを着ていたのですが、現代の背広のようにタイトで、短いのと違い、長めで、タイトでなく、布にゆとりがあり、また、ウエストをベルトなどで締めたので、裾が開き気味になりますね。ですから、スカートをはいているみたいにも見え、これが女性的シルエットになる訳なのです。

加藤――あなたの関心の原点は、なんといっても中世にありますからね。この点はよく理解できます。

鈴木――ぼくは現代的な風物はほとんど描かないので、男を描く時、現代のズボンは描かず、この裾広がりの上着姿やコート姿を描きます。このため、ぼくが少年を描いても、少女みたいに見えるのでしょう。また中世においては、上層階層になればなるほど、男も衣裳に派手な、きれいな色を豊富に使うので、カラリストのぼくにはそれが絵にするのが嬉しいのです。だから、なおさら、ぼくの絵の男は女性的に見えるのでしょう。

usi_to_shonen
「牛と少年」

加藤――分りました。けれども、たとえば、あなたの絵の中には「牛と少年」のように、明らかに男性に女性のものと思われるファッションをさせているケースがありますね。

鈴木――もちろん、裾広がりのラインでも、派手な色を着ても、男のマッチョ性に立って描けば、男は男として描かれ、女に見間違えられることはありません。でもぼくは、マッチョ性とセクシー性が葛藤する世界は描きたくないので、性差は強調せず、むしろ、アニマ(女性的要素)に重心を置いて、比較的に女性寄りの人物の衣裳を描いているわけです。

加藤――なるほど、そういうことですか。一方、あなたの絵の中で、はっきり「女性」とわかる女性は、釣鐘型のスカートをつけています。あなたは男性には決してあの釣鐘型のスカートはまとわせない。私たちは同じスカートでもスカートの形状で、あなたのコード(暗号)を読み解き、それで男女を判別できるのです。けれども今度は、あなたの絵の中の女性たちは不自然なほど飾りをつけていない。

taiyo_to_tuki
「太陽と月の精」

鈴木――たまには、例外もあるのですよ。例えば、この絵の女性(月の精)は、かなり賑やかな首飾りを着けています。(笑)

加藤――なるほど、ここでは女性がかなり装飾的ですね。しかし同時にかなり禁欲的にも見えます。ところで、女性は何をさしおいても首飾り、腕飾り、耳飾り、ブローチなどの飾りをつけます。アランは、女性たちが飾りをつけるのは、彼女たちが急激な情念による運動を自ら抑制するために、わざとつけるのだといっています。けれど、その意味からいえば、あなたの絵の中の女性たちは、みな静謐で、落ち着いており、飾りによって身を守らねばならないような情念に陥るとも見えません。この点についてもあなたご自身のご意見を聞きたいのですが。

鈴木――アランによると、女性は本来感情が激しい。でも、お化粧をし、アクセサリーを着けていれば、急に泣いたり、激しく動くと化粧が剥げたり、装身具が落っこちたりするから、激しい感情を自己抑制できる。それが装身具着用の真意だというわけですね。下世話に言えば、お転婆娘も振り袖姿になれば、お淑やかにならざるを得ないと。さすがに、アランともなれば、人間の心理を深く掘り下げ、平凡でない、独自の解釈をするものですね。とても感心します。

加藤――アランの化粧論が現代女性にも当てはまるかどうか、私にはわかりません。けれどこんにちでも、女性たちは装飾を好むといえるのではないでしょうか。

鈴木――ぼくは女性じゃないし、女性の心理に詳しくないので推測だけど、女性は、たとえ誰が褒めようと、褒めまいと、鏡の中の装った自分の姿、外見、その細部、目や唇などを自分自身で絶えず「可愛い」と感じること、自己再確認の行動をしないではいられないのではないか、と思います。本能と言っても良いぐらいの強い情念。もう一つは、外出して自分の顔を他人の視線にさらす時、スキを見せたくない気持、この二点から、女性はお化粧と装身具の着用にとりわけ熱心ではないかと思います。そして、顔の上方からのヘアースタイル、顔の下方からの首飾り、顔の左右方向からの耳飾りは、中心の顔を引き立たせる上での重要な援軍効果を果たしていると、女性たちはそう感じているのではないかと推測しています。耳飾りなどは、長い時間着けているとつらい場合があるかも知れませんが、それに耐える動機が無意識に存在するではないでしょうか。

加藤――そうかもしれませんね。

鈴木――最近の若い男性は女性化しているといわれます。そこで彼らも手鏡を見る、かつら、首飾り、耳飾りを着けることに熱心らしいのですね。でも、ぼくの理解できる従来の概念では、男性は「可愛い自分」とか、「顔で勝負する自分」というキーワードは、発想することさえできません。

加藤――まったく同感です。そこで、改めてあなたの絵の中の女性たちが、「飾り物」に対して無関心であるという、ナゾが深まるのですが。

鈴木――ぼくの絵の中の女性ですが、おっしゃるようにあまり装身具に熱心には見えないのは、ぼく自身の、男性寄りの感覚が反映しているに違いありませんね。それと、前回にもお話ししたように、ぼくの描く人物が半人間、半人形、半精霊的であり、現世の肉体性にはあまり寄り掛かっていないからだと思います。

加藤――つまり、あなたの描く女性は「女性性依存」あるいは「女性誇示」の女性ではないということですね。あなたの描く男性が「マッチョ指向」「男性誇示」ではないように。あなたの絵の中の男性は女性側に歩み寄り、女性も男性側に、つまりともに中間点を目指して歩み寄っていることになる。私の個人的感想をいわせていただくと、あなたの描く、釣鐘スカートの女性には、とても威厳があり、好感をもてます。

sogen
「草原の読書」

鈴木――嬉しいですね。釣鐘スカートのラインはぼくのロマンチシズムを満足させるものですから。(笑)

加藤――それでは最後にひとつ。あなたは絵の中で、たくさんの服装ファッションを発明しておられますね。あなたは、それらの服装デザインを楽しんでおられるようにも見えます。この点についての、あなたのお考えはいかがですか。

鈴木――ぼくの絵の中の男女が、現世の肉体性から半分身を引いていると言っているのに、いかにも現世と肉体と男女の性の葛藤に深い関わりがある筈の、服装ファッションを楽しんでいるのは理屈の上では矛盾しているように聞こえるかも知れませんね。それについて言えば、ぼくの服装フアッションは、この作品のお人形たちの服飾のようなものだと考えていただければ良いと思います。生身の身体に着けるのではない。

urabeya
「屋根裏部屋の人形」

加藤――なるほど、お人形さんたちの服装ですか。それで、あなたの人物たちが自由で、大胆な服装をしていることがわかりますね。

鈴木――ヨーロッパ中世から近世までの服飾デザイン、それは建築、織物、武具、生活用品全般と互いに強く関連し合って、絶えず「様式化」されています。かりにこれを「生活デザイン」と名づけてみましょう。これらの様式化された生活デザインは、数百年の歴史のふるいにかけられてきています。当時の生々しい人間たちの剥き出しのぎらぎらした欲望、虚飾、コケットリー、葛藤などは、後ろにかすんでしまい、屋根裏部屋の忘れられた人形たちのような、古びたアルバムの中の色褪せた記憶、追憶のようなものに変化しています。それは、いわば詩情の世界です。ぼくは、絵の中で、建築や服飾などの「生活デザイン」を描くのですが、それは、追憶の中の素材を、作者のぼくが大いに楽しみながら、自在に取り替えては、建てたり、着せたりしているものなのです。

加藤――様式化された生活デザインが、もっとも自由に、のびのびと表現されるのは、たしかに「お人形の世界」といえるかもしれませんね。私は、いま、自分の分析の中で「お人形」という、非常に大切な視点を見落としていたことに気づきます。

sitateya
「仕立屋のいる野」

鈴木――ちなみに、この過去の「生活デザイン」の性格を、ぼくは次の2つの点から特徴づけています。第一は、王侯貴族、宮廷生活、宮廷サロンが「生活デザイン」の発案者であり、発信者だったということです。彼ら、彼女らは、民衆からの搾取により巨万の富を獲得した特権者だったのですが、彼らは、その富を自分で私的に溜め込まず、豪奢な「生活デザイン」の建築を建て、身に纏い、生活用品として使い、その財を、使い込み、振るまい、見せびらかしました。それが彼らの使命感であり、社会的強制であり、モラルであったと考えられるのです。

加藤――なるほど。

鈴木――その精神をひとことで言えば、「視界に入る、身の回りのものを豪奢で、派手やかだが、同時に繊細で、あたかも宝石箱のようなに、うっとりするほど美しく工芸的な美で覆い尽し、この世を飾りたてたいというエスプリ、美をこの世で最高の価値と考える耽美精神」だったと思います。

加藤――なるほど。

鈴木――その精神や美は、大金持ち、小金持ち、伊達な町衆たちによって模倣され、伝播され、町や国単位の様式美を生みました。そして、一旦成立した様式美は、さらにヨーロッパという一つの文化圏の中で、競い合い、模倣しあったわけですね。だから、村、町、国という小宇宙で、それぞれ纏まった様式美の世界が現出しているのは魅力ですね。ぼくは、この精神と様式美を意識して描いています。

kazaritansu
「飾りタンスのある部屋」

加藤――そういうことだったのですか。それでは、あなたのいう「生活デザイン」の第二の性格というのはどうなりますか。

鈴木――第二の性格は、王侯貴族でも金持ちでもない、庶民や村の衆の「生活デザイン」です。彼らは、お金のかかる、本物の宝飾品で飾りたてることが出来ないので、代わりに、天が与えた豪奢な美、只で手に入る宝石、すなわち野山の色彩豊かな花々で、「ハレ」の日の衣裳を飾りました。ぼくはこれを、とてもいじらしく思い、強く共感しています。ぼくの絵の中の人物が花飾り帽子などをよくかぶるのは、ここから来ています。また、おなじように、お金をかけられない人びとは、ささやかな刺繍や手作りの工芸品などで、服飾、寝具、室内などを装飾しました。それらは、散漫な、個人的で恣意なものではなく、尊厳を感じさせる、厳粛なものでさえあります。共同体の民俗行事、風習は精神を集中させて成立するものですからね。これらの「生活デザイン」も、ぼくの共感をそそり、また絵として表現せずにはいられないのです。

加藤――そういうことで、あなたの絵を見直してみると、一方には王侯貴族的なデザインがあり、他方に民衆的なデザインの両方があることに気づかされますね。いや、楽しいお話で、大いに勉強になりました。それではまた次回。

   
←第4回へ 目次へ 第6回へ→
 
 
Copyright (C) 2006 Kunihiro Kato All Rights Reserved.