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鈴木航伊知との対談
 
対談第8回(4月15日)<内面の声に動かされ、展開される異質空間>

加藤――前回はヨーロッパの建物が、あなたの琴線に触れ、あなたはどうしても画面の中に建物を描き入れたくなるということや、ヨーロッパの都市における「広場」の意味などについてお話しをお聞きしました。今回は、あなたの建築画について、もうすこし突っ込んだお話しをお聞きしたいと思います。

鈴木――怖いですね、お手柔らかにお願いします(笑)

加藤――まずはじめに、あなたの描く建物がどうも「人間を住まわせる」という機能を果しているようには思われない点についてお聞きしたいのです。たとえば、あなたの絵では、建物にアプローチするための手段や通路がないとか、入り口がどこだかわからないとか、建物内部のプランを想像しにくいとか、建物自体が、それ自身のために存在している、という印象を受けるのですが、どうしてそういうことになるのか、お聞かせ願えませんか。・・・あなたは前回、「人の住む町の懐かしさ」という意味のことをいっておられるけれども、いざ、建物を至近距離で見ると、内部には人の姿が見えないのです。

Aoimachi
「青い街と山羊車」

鈴木――やっぱり、今日の対談は怖いことになって来た!(笑)。まず「遠景の、人の住む町がなつかしいならば、近寄って見る家や町は、ますます、人間が住むのにふさわしく、具体性が出て来なければ、おかしいんじゃないのかな?」という質問ですね。実は、ぼくのその心理は、ぼくが意識している心理よりも、あなたの指摘によって明らかにされた、ぼくの無意識の心理の現れなんです。しかも、この心理には「あぁ、ぼくは、長く生きて来た。どうせ生きるなら、共同体の内側にしっかり入りこんで、ひとと密接に生きて来たかった。でも、それはなぜか、なかなかかなわなかった。このまま死んでゆくのかなぁ」という詠嘆が隠されていたのです。だから、作画上積極的なキーとなる心理ではないので、今は検討からはずしましょう。

加藤――つまり、あなたの「遠景の街」で示されている「人恋しさ」あるいは、「里恋しさ」は、「これまで人との真の接触がなかった」というあなたの思いの、裏返しだということなのですね。結構です、この点については検討からはずしましょう。

鈴木――で、話題を肝心なポイントに移しますと、ぼくは前回、「なぜ建物や街をかくのか?」というあなたからの問いを受けた時に、「好きなヨーロッパの概念を具体的に代表するものだから描く」と答えましたね。で、あなたは、「ではあなたの絵は、どうして、人間を住まわせるという機能を果たしているようには見えないのかな?」と、理屈の流れからいうと、きわめて当然な疑問を、今回呈されたわけです。

加藤――いや、私は別に理屈を追っているつもりはないのです。ただ、単に建物の内部に人の姿が見えないということは、あなたの絵の「秘密」に深く関係しているに違いないと思っているだけなのです。

鈴木――いや、それでもあなたが抱かれた疑問は、まったく当然です。で、ぼくには、今、その疑問に正確に答える義務がありますから、お答えします。実は、「ヨーロッパ的なものだから、建物や街を描く」というというのは、初期のぼくの強い「動機」だったのであり、その動機自体は今でも同じなのですが、「目的」がぼくの中でどんどん変化してしまったのです。

加藤――なるほど。それではその変化した「目的」とはどのようなものなのでしょうか。

鈴木――ぼくにとっての当初の目的は、「現実のヨーロッパの建物や街を描き、主人公の少年が現実のヨーロッパを旅することを描く」ということにありました。それが次第に「夢の中のような、半現実の幻のような世界の建物や街を描き、主人公の半人間の少年がそこをさまよって旅することを描く」と、変わって来てしまったのです。この点では、前回のご説明が舌足らずでしたね。

Okaninarabuie
「丘に並ぶ家」

加藤――そういうことですか。いずれにしても、あなたのヨーロッパにおける作品作りは、「1人の旅する少年」の物語だったのですね。これは大きな発見、大きな示唆です。その少年が遭遇した町々の建物は、はじめの段階では、現実のあなたがそうであったように、ごくリアルなものであり、そのリアリティのままで幻想的で、美しかった。しかし、あなたのヨーロッパへの浸潤が深まるにつれて、少年はあなた自身によって再構築された、半幻想の町々を見るようになった、ということですね。

鈴木――その通りです。その半幻想世界の、建物や街には、ひとが住んでいることもあるけど、多くは、ひとがまったく住んでいないのです。どこもかしこも、がらんどうなんです。たしかに家は建ち、街は形成されているけど、映画を撮影するために、広い野ッぱらにベニヤやボール紙で建てられた、書割りの家や街に似ているかも知れません。かすかな乱気流のような風が吹き抜ける、そんな感じの世界です。

加藤――いや、そうでしたか。あなたは、現実との接触を深めるにつれて、むしろ幻想の世界を形成する方向に進まれたのですね。これで、どうして天使がたくさん現れてきたのか、あるいは不思議な天体が現われたり、あるいは空中に浮かぶ都市が出現するようになったのか、次第にわかってきました。

鈴木――そういう村や街に、時に羽をつけたり、時につけなかったりする少年が一人きりでは淋しいので、山羊、羊、子馬とかの友だちと共に旅をして、到着する、とまぁ、そんな心境です。なぜ、なんのために、少年は旅をするのか、で、次、どこへ行くのか、それはまったく、作者のぼくにもわからないのです。ただ、そうしろ! という内面の声に突き動かされて、描き続けているわけです。まぁ、ぼくの心象風景なのでしょうね。

Shuironohiroba
「朱色の広場と輝く木」

加藤――なるほど、そういうことでしたか。これであなたの絵の見方が、いっそうよくわかった気がします。

鈴木――ぼく自身、そこにある建物の中がどんな構造になっているのか、何のために、誰が住んでいるのかなどは、まったく、考えてもみないのです。第一、考えようと思っても考えつかないのです。で、たんに、その形象をぼくの好みで描くだけです。それで、ぼく自身はなんの痛痒も感じません。何だ、無責任じゃないか、なんて言われるかも知れないが、それでも仕方ないんです。あえて例えれば、寝ていて、夢を見て、そこに出現した街の中、通り、広場を、目的もなく、さまよっているようなものなのですから。でもぼくの絵は「睡眠夢」ではありません。

Simamoyo
「縞模様の家への少年の到着」

加藤――いやいや、作家は、見ている人を言葉で説得する必要など何もないのです。私はあなたが、自分ではそれと意識せずに作り出す美、作り出す形と色、それによってもう充分説得され、納得しているのです。ですから、作家であるあなたから「何のために、誰が住んでいるのかなどは、まったく考えない」といわれると、「これが天才というものなんだ」と感服していまします。あなたは俗人の理屈合わせに付き合う必要は毫もないのですからね。

鈴木――ぼくの作品作りの目的が、「現実のヨーロッパの家や街を描き、その中を旅している少年を描く」という段階のときには、一応、写実的な表現でやって来たし、それはそれでよかったのですが、だんだん、ぼくの内側が半現実、非現実と変化して来てしまった。それでも描く手法が、写実的なので、あなたのように熱心に見てくれる人には、「納得がいかない」という気持ちを与えたのかもしれませんね。

加藤――いや、私は自分がやたらと理屈あわせを好む俗人であることを痛感し、恥じています。こうしてあなたのお話を聞くと、芸術のデーモンに触れるような気持ちがしますよ。

鈴木――いやいや、あなたのご質問はいつも、ぼくにとても素晴らしい刺激を与えてくれます。創作意図と表現手段はきちんと相関していなければなりません。

加藤――ところで、これも俗人的な、野暮な質問に違いないのだけれど、建物や街ということに関して、もうひとつあなたにお聞きしたいことがあるのです。それはあなたの絵にあるパースペクティブの不条理についてです。わたしはこれを、あなたが空間を「故意にねじっている」と考えたのですが、この点についてはいかがでしょうか。そう感じるのは、私たちがいわゆる「透視図法」とか、幾何学的に均質な空間感覚というのに、なじみすぎているからだと思います。けれども、私にはあなたがどうしてそういう感覚を超越しているのか、不思議でならないのです。

鈴木――このご質問についても、今、お話しした、ぼくの作画上の感覚を嵌め込んで頂ければ、すぐに分ってくださると思います。ぼくたちの目の感覚は、あの、設計事務所の方が見せてくれるような、遠くのものは小さく、近くのものは大きく、科学的作図法の法則に準じて、1点とか2点とかの消失法で描かれたパースの図面と近似していますから、そういう科学的、幾何学的、数学的な透視図法で描かれた絵は、極めて、安心して、自然な感じで見ることができます。

Hakutyonokobune
「白鳥の曳く小舟」

加藤――そうです。

鈴木――でも、ぼくの作画上の世界の傾向は、さっきも言いましたが、一寸、夢見ていて、うなされた時にすこし似ています。だから、きちんと、お行儀のよい遠近法が適応できない場合があります。科学的、幾何学的、数学的には説明され難い、心理的な空間です。空一杯に広がるほどの大きな小鳥が飛んでいても、家の窓ぐらいある巨大な花が屋根の上から顔を出していても、夢の中ならおかしくありませんね。また、道がぐにゃぐにゃして、空に伸び、天体と繋がっていてもかまいませんよね。家の窓が音符のかたちでも。

Akaitori
「赤い小鳥と少年のいる街」

加藤――まったくその通りです。

鈴木――また科学的遠近法の視点では、見る者の目は一箇所に固定されています。眼前の光景を眺めまわす視点ですね。しかし、心理的遠近法の空間では、見る者の身体はこちら側にあっても、その目はまるで、かたつむりの触覚のように、興味があるものが視界に入って来ると、自由にニューッと伸びて行きます。そして、面白いと感じたものを、科学的遠近感覚を無視して取り込みます。

加藤――いいですねえ。そこがあなたの絵の天衣無縫な感覚の基点なんだ。

鈴木――ぼくが今、制作中の詩集の中にこんな一節があります。《聖鳩がアレキサンドル橋の欄干で大きく羽ばたいたので ガス灯のガラスが割れ 世界は粉々に飛び散った》。ぼくは、なぜか、この世界をイメージする時、世界は透視図法で描かれて、整然と見える、秩序ある、クールな光景ではないのです。まるで、質の悪い安物ガラス、あるいは、ガラスが発明されて間もなく、まだ、均質なきれいなガラスができる前の、粗悪で、ゆがんで見えるガラスから見たような、あるいは、砕け散ったガラスの破片をへたくそに繋ぎあわせた面から見るような、ゆらゆら揺れて見える不均質な世界。ぼくはそう感じてしまうのです。

加藤――数学者ポワンカレも、なにも幾何学的空間だけが特権的な地位を持つわけではないといっています。

鈴木――この世界と自分の実体感が、ふわふわしていて、重心で下によく繋ぎ止められていないような感覚を持つ旅人の少年が、この世に入り込もうとして、旅をして見るのだが、あんまりひとがいなくて、ほんとうはひとが大好きで、ひとと繋がりたいのに、それができなくて、建物や街、時空の割れ目からひょっこり姿を現わす天体や鳥、動物や植物などの方に近くて親しい感じを持ってしまう。そして、いつもさまよっている。死ぬ時に感じる、あぁ、人生は一場の夢だったな、そんなとりとめのない感覚・・。

加藤――ほとんど病的なまでに鋭敏な感覚に捉えられる反世界像を、着実にとらえ、映像として固定できる画家は本当にすばらしいですね。たとえ、感覚的に鋭敏であっても、それを画布の上に表現できなければ何もならないのですからね。

Taiyo
「太陽のころがる道」

鈴木――ぼくは、そんな、ぼくの基本的な感覚に引きずられて作画の旅を続けているんですが、いわゆる「睡眠中の夢」を描く主義ではないし、夢という場を設定して、いわゆる「シュールレアリズム」、つまり、ものの奇態な組み合わせを描いて、鬼面ひとを驚かせるとか、そういう主義でもまったくありません。自分の感覚を静かに表現して、ただし、一人よがりに陥らず、見る人々との間に静かな心の橋がかけられればいいなと願っているわけです。

加藤――あなたは充分にそれに成功していると思いますよ。私もあなたの半幻想、反世界の美に心を捉えられ、あなたの画布の前に釘付けになっているファンの1人なのですからね。

   
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