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鈴木航伊知との対談
 
対談第9回(5月1日)<命ある建物は「天」を目指す>

加藤――前回の対談で、私は「あなたの街や建物が『里恋しさのあらわれ』であるにもかかわらず、どうして建物の中に人の姿が見えないのか」という点をお聞きしていって、ついに、あなたにとってあなたの絵画作品全体が「一人の少年の遍歴物語」である、という重大な秘密を知ることができました。

鈴木――いやぁ、重大な秘密だなんて言われると、照れてしまいますが、それは確かです。

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「羊の群と丘の上の城」

加藤――私としては、この少年が遍歴のプロセスで、次第に「幻想世界へ」と入り込んで行ったことを知ったわけですが、そうお聞きしてみると、あなたの建物がはじめは単なる「建築物」であったものが、「建物の形をとった精霊」である、という点を理解しやすくなったように思うのですが、この解釈でよろしいのでしょうか。

鈴木――えぇ。現実の建物は無機的な物質ですから、化学のカメノコ構造式で解明されると思います。でも、自分にとって魅力のある建物がある場合、その魅力は化学の構造式に置き換えられないもので、人によっていろいろの呼び方があるでしょうが、ぼくは仮にそれを「精霊性」と呼ぶのです。その建物を作った依頼主、設計者、施工人、環境、時代といったものの魂たちが合わさって「精霊性」をかもし出すと思っています。

加藤――なるほど、「精霊性」ですか。それではあなたの建物が、一個の意志を持った生命体であるという考えは当っていると考えていいわけですね。

鈴木――そう考えていただいていいでしょう。

加藤――ところで、私が見るところ、あなたの建物画の中でそうした特色がもっともよく現れているのは、「上へ上へ」と指向する「折り重なった建物」ではないかと思います。その代表作がいくつかの「塔の町」ですが。

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「塔の町」

鈴木――そうですね。動き得ない筈の「無機物」「物質」も、幻想世界の中で「魂」「精霊性」を獲得すると「動き得るもの」「生命体」に変質します。この「生命体」に植物、とりわけ蔦性の植物というメージをかぶせると、建物の集合体としての「都市」が、天に向かって伸びてゆく、「天空都市」の相貌を帯びることになると思います。

加藤――やはり、あの上方指向し、増殖する建物の背景には植物のイメージがあるわけですね。

鈴木――また、イタリアなどに多く見られる「山岳都市」をいくつか訪れた体験から言うと、これらは、低湿地に棲むマラリアを媒介する蚊を避けるためと、軍事防衛のためから、暮らしの上で、登り降りを強いられる不便さを我慢しても、選択した高地の斜面に建った都市です。この中世の街々を望遠する時、やはり「天空都市」のイメージを感じます。しかしぼくの「天空都市」は、蔦植物の上方指向性のイメージがもとになっています。その根底には、宇宙の根源を「天」と認識し、「天」を尊敬するぼくの感覚があります。

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「月への銀の道」

加藤――なるほど、そういうことでしたか。あの「折り重なる建物」には、現実のいくつかのモデルがあり、さらにあなたの宗教的感覚が加わっているのですね。ところで、私たちは前回、あなたの絵のなぞを解くカギとして、「一人の少年の遍歴」というカギをもらったのですが、このことは、あなたの小説「中世の少年ヤン」の中で具現化されていますね。しかもあの小説の中で、あなたは登場人物「棟梁」の口を借りて、天に向かって伸びるゴシック建築について説明をしておられますね。

鈴木――えぇ。太古から人々の「天空都市」のイメージは強かったようです。たとえば、「バベルの塔」はメソポタミア由来の美しい幻想観念ですね。しかし、これは神に近づくためではなく、人間の実力を誇るためのものだとして、神から破壊の罰を受けました。一方、ゴシック建築様式のカテドラル(大聖堂)建築は、人間が天(神)の高みに近づきたいという心理をはっきり表わしているのが特徴だと思います。神は天に座し、キリストすなわち救世主はいつか天から降りて来るという教義を持つキリスト教が、「天」に対して特別の思い入れを持っているのは当然だと思います。

加藤――バベルの塔の場合には、人間の思い上がりが悪かったわけですね。しかしゴシック建築の場合は別であると。

鈴木――えぇ。「天」への思い入れを、石造建築の超高度な技術でしっかり形にしたのがカテドラルだと思います。もともと石の建築は方形の石の上面に漆喰を薄く塗り、上に上に、どんどん積み重ねて行くものです。しかし、ぼくなどは日本に育ち、石の建築を知らなかったものですから、若い時、ヨーロッパではじめてカテドラルのてっぺんまで、回り階段で登った時、足のすくむ恐怖感と石造建築の技術力への畏敬感で、打ち震えました。その感動を、小説の中で棟梁と少年の会話に盛り込んでのです。

加藤――たしかに石を積み上げていって、あの穹窿をつくる技術には独特のものがありますね。

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「大満月」

鈴木――余談ですが、高い建築を指向する文化は古代から世界中にありますが、ぼくは何故かカテドラルを産んだ中世ヨーロッパ人の高さ感覚は独特だと思います。例えば、真四角なサイコロの上に、三つも四つもサイコロを重ねる高さ感覚ですね。底辺1対高さ4のような対比感覚。「鋭い高さ感覚」ですね。それ以外のローマ帝国、ギリシャ、小アジア(今のトルコあたり)などの古代建築の高さ感覚は、サイコロを横に三つ、四つ並べて、その上に二つ、三つ重ねる感覚です。底辺3対高さ2のような対比感覚。いわば「緩やかな高さ感覚」。

加藤――底辺が大きいことによる視覚的な、しかも自然な安定感ですね。これに対して中世ヨーロッパの石積みは、もっと垂直感がはっきりしているということですね。

鈴木――こじつけと言われればそれまでですが、鋭い高さ感覚は、「鋭い神」「人格の決定的な変革と帰依を激しく迫る神」「大地の営みから訣別した天上の神」に対応しているような気がします。つまりキリスト教ですね。一方、緩やかな高さ感覚は、「緩やかな神」「人間の聖性と人間の度し難い混乱(例えば好色性)を反映し、合わせ持つ人間臭い神」「大地と母胎の豊穰でもって人間を優しく包む神」に対応しているように思います。これはギリシャ神話の神々や地母神の系列神ではないでしょうか。

加藤――なるほど、これは面白いご指摘です。キリスト教の「絶対性」「論理的な鋭角性」が、もっと古い宗教に見られる土着的な自然感覚、そこから生まれる視覚的安定感に、石積みの面でも対立しているという考え方ですね。面白い。――ところで、あなたの小説「中世の少年ヤン」が、このたびめでたく出版されることになったそうですが、よろしければ、その件についてお話しいただけませんか。

鈴木――画家のぼくが小説を書くということに、怪訝な感を抱かれる方がいるかも知れませんね。では、ご説明しましょう。ぼくは昔から、生涯に一度、長篇小説を書くんだと心に決めていました。今回の小説は原稿用紙四百字詰めで970枚ですから、一応その念願は果たしました。(本当は、この二倍欲しいのですが)。で、何を書くかというテーマですが、それはヨーロッパ中世、13世紀頃の時代の有り様を描き出すことがひとつと、もう一つは人格形成物語、文学史上で「教養小説」と言われているものを書くことです。

加藤――すごい目標をお持ちだったのですね。またそれを具体的に実現されているところがすごい。しかも長編小説に盛り込みたいテーマが2つあったのですね。

鈴木――はい。まず、ひとつ目のテーマですが、直接的な動機は、ヨーロッパでの美術研鑽の6年間の生活で、近世以降の美術よりも、中世の美術の方が気に入ったことです。神を礼讃するために描くことを放棄した近世以降の美術よりも、神をたたえるために描く中世の美術の方に、親近感を持ったからです。といっても、ぼくはクリスチャンではありません。ぼくは、若い時から生きるのが辛くて、キリスト教にすがれるかなと思って、教会の日曜礼拝に何度か顔を出してみたこともありました。が、人間(イエス)が神に、神が人間(イエス)に変化する、つまり「ひとの顔形をした神/人格神」がこの世の創造神であり、救済神であるという教義を消化できなくて、教会から足が遠のきました。

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「白い街」

加藤――いずれにしても、キリスト教には深い関心をお持ちだったのですね。

鈴木――えぇ。そして、憧れのヨーロッパに渡りました。行くまでのぼくは、神と訣別して、人間が理性によって主体性を確立したヨーロッパの近世以降の先進文化に、最大の尊敬を持っていました。しかし、行って生活している間に、現代ヨーロッパ人の理性と合理の新しい衣服の下に、キリスト教という中世由来の神観念の下着がしっかり着込まれていること、それを理解することなしに、ヨーロッパ文化、芸術の本質は到底理解できないことを悟りました。それで、ぼくは、自分の感覚ではなじめないキリスト教の教義に対して、批判せずに、まるごと飲み込んで、ともかく理解しようと考えました。

加藤――でも、それこそが宗教的態度としては、一番いい姿なのではないですか?

鈴木――それなら良いのですが。で、そうなると、キリスト教がゲルマン的異教を追い払い、あるいは併呑して、社会秩序を形成し、高度な芸術を花咲かせた、今のヨーロパ社会の原型となった「中世」という概念を深く理解することが必要になります。そこで、滞欧中、旅の中でも、中世に焦点を合わせて、街、村、土地のかずかずを遍歴することもしました。そこで見聞したものは、ぼくの感覚の好みに合っていました。

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「肉屋のある通り」

加藤――そうですか。これでまたひとつ、あなたの作品を理解する手がかりが広がりました。

鈴木―― 一方、中世思想、キリスト教、修道院、中世農業経済学、中世風俗・民俗学、中世都市学、宮廷文化史、中世建築学、異端思想、ユダヤ教、宗教学、中世美術史などの日本語の文献140册位を読み、およそのヨーロッパ中世とキリスト教の概念を得ることができました。

加藤――すごい読書量ですね。

鈴木――でも、これぐらい読まなければ全体像が掴めないのです。というのも、それぞれが専門的に狭い領域を書いているからです。で、ぼくの好きな中世世界をひと様に伝えたい、たくさんの本の知識をまとめた一冊の本が出れば便利で、ひとの役に立つかも知れない、こう思って執筆したわけです。まぁ、中世入門のガイドブックですね。それも堅苦しくなく、映画でも見るように、気軽に読めるトーンの文章で。

加藤――あの本はその目的にぴったりはまっていますよ。

鈴木――ありがとうございます。あと、もう一つのテーマは、さっきも触れたように、人格形成をテーマにした小説を書くことですね。以前、「みんな悩んで大きくなった!」なんて秀逸なコマーシャルがありましたね。ひとによっては、「成長期の悩みなんてハシカみたいなものサ、みんな自力で解決して行くのサ」、なんて、若者の悩みに冷淡なひともいますが、ぼくは違うのです。ぼく自身の自己形成が問題山積みで七転八倒したし、本来、ぼくは教育者タイプの人間で、「啓蒙主義者」なので(笑)。

加藤――(笑)驚くべきことに、あなたは、とかく自己中心主義的になりがちな芸術家ではありませんね。反対に、ひどくまじめで、公民的なのですね。この公民性が、あなたの独自の世界観に直結しているところが奇妙というか、おかしいというか、要するにすごいところです。

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「オルガン弾きの塔と運河の街」

鈴木――ハハハ、そう言われると、ぼくも何だかおかしくて笑ってしまいます。「公民的」という表現は、ユニークで、とても適確な言葉ですね。確かに、そう言われてみると、「自己中心的でなく」、「公民的」ですね。例えば、生活は中産階層の一員として共同的に進みたいです。ヨーロッパの広大で良く考えられた共同団地エリアなどを見ると、良いなと思い、住みたくなります。広大なお屋敷で、大金持ちで、自己中心的で、孤独で住むよりも、みんなと社交したり、討議したりする、良い意味での「お節介人生」が送れたらどんなに素敵でしょう。心の中の独自性は、作品を発表して、社会貢献をして、繋がれば良いのですから。・・なんてネ。夢のまた夢かな。ぼくの絵の世界の中は、あなたにそう言われて見ると、まさに「公民世界」ですヨ。万物、兄弟姉妹ですからね。同じです。

加藤――やはりそうだったのですね。私はどちらかといえば人間嫌いの傾向がありますが、あなたは本質的に「人間好き」ですものね。そのことで、友人である私などどれほど救われているかわかりません。

鈴木――フランスでは、誰かの紹介があったりして、心を一旦許すと、トコトン深く付合ってくれますが、それがない限り、孤独社会です。エルサレムのホテルで朝食を取った時、ぼくが卵に塩を振り掛けようとして、塩を探してキョロキョロした途端、離れた席のドイツ人のおばさんたちが一斉に、おおきな声で「そこ。そこ!」と指さしてくれた。他人を観察していたんですね。フランスじゃ、こういう干渉は絶対ありえない。こういう他人への、ぼくに言わせれば「親切な干渉」、ひとによっては大嫌いで、煩わしいと感ずるでしょうね。でも、ぼくは、いつも淋しくて仕方がなくて生きているから、もの凄く嬉しかった。こういう「ドイツ式の関心社会」で生きたかった、なんてネ。

加藤――いやあ、それはいい話ですね。それにげんに、あなたは公民的関心を生かしつつ生きておられるではないですか。

鈴木――NHKテレビ、「しゃべり場」なんていう番組がありますね。あれで、男女の若者が真剣に悩んでいるのを見ると思わず、助言したくなります。今のぼくなら、人生の構造が少しは分かるから、何か示唆できる。ぼくもあの時代、誰か良い意見を言ってくれる人に出会いたかった。でも縁がなかった。ぼくが尊敬できるような人がいて、人生の構造をガイダンスしてくれ、人生への取っ掛かりのやり方を教えてくれ、人生はどこまで行っても、生真面目に努力して、前進しなければならないと、キッパリ言ってくれる人に出会いたかった。戦後のデカダンスの風潮が残っていた時だから、尚更でした。でも、大人たちは素知らぬ顔をして、黙っているだけだった。ドロップアウトする若者を冷たく見据える社会、それは資本主義の爛熟期には仕方ないことかも知れないけど、ぼくは嫌だナ。ま、そんな自己体験から、今どきの軽い文学が多いご時勢でも、あえて暗くて、重くて、野暮で、今時流行らないよと言われてもいい、人格形成というテーマに正面から取り組んでみたのです。

加藤――そういうことで、あの長編小説が生まれたのですね。ところで、あの小説が出版され、一般の書店で売られることになったそうですね。おめでとうございます。私としては、あの原稿量からして、出版社の英断に敬意を表したいですね。小説を書いている人はたくさんいると思いますが、実際に出版にまでこぎつけている人は少ないでしょう。かりに私が小説を書いても、誰も見向きもしてくれませんよ。ところが、あなたの小説は処女作品がいきなり出版されることになった。すごいことです。やはり作品の面白さ、魅力がものをいったのでしょう。

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「赤い国のリュート弾きの天使」

鈴木――そう言っていただけると嬉しいです。今年の六月頃に、連合出版(東京・神田)から出版されることになりました。書名は「中世の旅人ヤン」です。(私家版「中世の少年ヤン」を改題)。書店にない場合は、書名、出版社名を言って取り寄せてくだされば幸いです。ぼくの油彩画をカバーとカラー口絵四枚に収載してありますので、絵も楽しんでいただける筈です。二段組、360頁、2600円位です。書店経由だと送料はかかりません。

加藤――小説家本人による挿絵とは珍しい。贅沢です。あなたの絵画作品を理解する上でも、人間鈴木航伊知を知る上でも、この小説の出版は、画期的なこととなりましたね。

   
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