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鈴木航伊知との対談
 
対談最終回第10回(5月15日)<独自の宗教としての絵画>

加藤――昨年私は「鈴木航伊知の世界」と題して、このブログ上で意見をのべさせていただきました。この対談は、拙論をきっかけに始まったのですが、この対談も、今回をもって最終回になります。そこで、鈴木航伊知の1ファンとしてお尋ねしたいのですが、今後、鈴木航伊知という画家はどのような方向に向かって歩みを進められるのでしょうか。まだまだ「少年の遍歴」は続くのでしょうか。ぜひお聞きしたいものですね。

鈴木――いよいよ最終回ですか、名残り惜しい限りです。さて、あまり遠い先のことは分かりませんが、「少年の遍歴」は当分続くと思います。旅は未知なるものの探究と言えますから、好奇心の強いぼくには合っているでしょう。ぼくの絵に、少年が手を差し伸べているその先に、鳥が飛んでいるものがあります。鳥は希望や幸福、自由のシンボルとして解釈されますが、ぼくがまだ自分の中に欠落感を感じる限り、そのイメージを手放すことはないでしょう。もっとも、しあわせの青い鳥は、実はわざわざ旅に出たりしなくても、自分の家の中にいるかもしれませんし、欠落を埋めようと努力している姿そのものに幸福がある、という考えもありますから、単純ではないのですが(笑)。

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「まちの通りで鳩を追う少年」

加藤――なるほど。少年が鳥を追っているあの絵は、あなたご自身の姿をあらわしていたのですね。ところで、ギリシャの詩人シニモデスは「絵はものいわぬ詩、詩はものいう絵画」といったそうですが、私はあなたの絵が「ものいわぬ宗教であり、詩編であり、祈りである」という感を深くします。ここであなたの宗教観、キリスト教観などについて、自由にお話いただけませんか。

鈴木――あなたは聖書を実に深く読んでおられるし、「詩編」についてもよく言及されていますね。そんなあなたから、ぼくの絵の世界と宗教や祈りについての関連性を指摘されるのは、とても嬉しいことです。それにしても「詩編」は素晴らしいものですね。ひとが根源的に持っている宗教的感情を、民族としてしっかりとまとめ上げ、それをあのように後代に伝わる文字の形で伝え来ているユダヤ民族の詩的感受性の豊かさと文字世界への揺るぎない確信は人類の宝ですね。

加藤――私は、聖書をひとつの「古典」としてしか読まない不信心者ですが、おっしゃることにはまったく同感です。しかし私が宗教に対して傍観者的立場にしか立っていないのに対して、あなたは宗教の内部に深く踏み込んでいるという感じを受けるのですが。

鈴木――いやいや、ぼくの宗教認識など大したものではないのですが、せっかくそうおっしゃって頂いたので、この場をお借りして、日頃の考えを、喜んでお伝えしてみましょう。ぼくはクリスチァンでもないし、特定の宗教に属しているわけでもないのですが、何故か、日頃から宗教的感覚を強く意識したり、自分流に祈ったりしているし、絵を描く時に宇宙/天なる意志/神秘を意識しないで描くことはないのです。どうしてなのかなァと考えますと、まず、ひとがこの世に存在する大前提を、ブッダが喝破してくれた知恵から頂きます。つまり、ひとは自分のあずかり知らない親や先祖との関係から偶然生まれています。育つ環境、他人との縁も偶然です。そなわる能力と生きる気力の量も千差万別で、偶然的です。自分の能力を自分で発見する時期も十人十色で、偶然的です。しかし、生きている間、絶えず、他人との競争から逃れることはできません。いつも、相対的関係を生きるという不安定な存在だと思います。(但し、ブッダの死後、百年以上たって部派によって解釈を加えられた、因果が「前世の業から来る」という説はぼくはとりません)

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「四匹の羊と天使」

加藤――そうかもしれませんね。

鈴木――しかし、その一方、ひとは一瞬々々、自分で自分の立場を決めること、絶対的自己確立を要求されます。この絶対の力が相対の力より強い時、ひとは幸せ感を味わえると思います。例えば、健康でいたいという絶対性に固執していて、健康が維持できれば幸せです。しかし、自分の意志や力ではどうすることもできない相対的関係によって病気になれば不幸感に転落します。ブッダは変化に執着しない心を獲得すれば、「ネハン」の境地が得られると言いました。自己覚醒法による救済ですね。しかし、凡人にとっては至難の業です。

加藤――なるほど。私は単に漂って生きているだけで、あまりまじめに突き詰めては考えませんが。そういうことになるのでしょうね。

鈴木――健康でいたいという絶対性への執着を「希望願望」と名付けてみましょう。で、病気に転落した時に、健康に戻りたいと執着することを「救済願望」と名付けてみましょう。この二つを自分の才覚で処理できると思うひとは、宗教とは無縁のひとでしょう。しかし、二つの願望を、人間を超越した存在にすがり、解決して貰いたいと思うひとは宗教的センスの持ち主かと思います。

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「雪降る夜の広場」

加藤――なるほど、明快なお話ですね。

鈴木――あなたのような、宗教についても何もかも御存じの方に、今さらキリスト教の発生由来でもないのですが、話しの順序として言いますと、古代の地中海文明諸国には、救世主が天から降りて来て、この世の生者と死者を裁き、良き者は天国にあげられて、この世の苦しみ、矛盾が一気に解決される、すなわち「希望願望」と「救済願望」の絶対的成就という期待が強くあったようですね。この時代、ユダヤの国にイエスが生まれ、ユダヤ教の説教者として、ユダヤ教の体制批判に激しく生き、懲らしめのため体制側から殺されました。確信犯的な自死ですね。しかし、実はイエスこそこの救世主だった、イエスはやがてこの世に再臨して、二願望の絶対的成就をするのだ、と解釈し宣言したのが、弟子たちとパウロだった。このパウロ神学は分かりやすいのでひとびとの心を強く掴み、救世主教/キリスト教はローマ帝国を経由して、ヨーロッパ文明の精神的支柱になったと。

加藤――そのようにいわれていますね。私は、パウロはイエスの名にもとづいて活動した、別種の宗教家だと思いますけれども。

鈴木――なるほど。イエスの時代のユダヤ教は、ユダヤ教徒、それも社会的弱者、最下層民を排除した、安定階層だけに神の救済があるといったので、イエスは大いに怒ったようです。その怒りの原因には個人的な事情があったのではないかと、ぼくは推察します。もともとイエスの母マリアは、ヨセフに嫁ぐ前に、胎に子を宿していたようです。(ルカはこれを神による身籠りと解釈しましたが)。もし、夫ヨセフがマリアを受入れなければ、マリアはふしだら女として、石打ち刑にあったようです。だから、イエスは、自分がすでに、私生児として被差別階層者であったことを強く意識し、反抗精神が旺盛だったと推測します。イエスは弱者にこそ救済があると主張わけですが、パウロ神学は救済の対象はひとすべてであると言ったので、世界宗教になったわけですね。そして、イエスという人物はどうやら、苦しむ者に言葉を与えたり、触ったりするだけで癒してしまう、圧倒的なカリスマの持ち主であったことは容易に想像できますね。

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「教会堂で響くオルガンと天使たち」

加藤――マリアの結婚時の事情については、私にはわかりませんが、イエスが強いカリスマの持ち主だったということは、福音書によるかぎりはそうだと思われますね。

鈴木――さて、「癒す」ということの心理的メカニズムを考えますと、苦しんでいる者は、病気、貧困、失意など、不運な「相対関係」の網に落ち込んでもがいているわけです。そして、他人との競争関係での敗北感に打ちのめされているわけです。しかし、もし誰か、例えば泣きじゃくる乳幼児に対して、抱き締め、背中をさする母親のように、絶対者が現れて、「お前の苦しみは他人と比べるから起きる、比べるな。今の全ては超越者が承知している。お前は孤独ではない。お前の全ては良いこと、悪いことは何もない」という具合に、「絶対的励まし」「絶対的承認」「強力な託宣」を与え、受けて手が納得すれば心理的救済は果たされると思います。

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「叩き弦弾きと角の長い山羊」

加藤――そうかもしれませんね。

鈴木――神/宗教/イエスキリストの「救済」を、仮に<救世主の天からの再臨劇>
という古代人の脚本に寄り添わなくとも、このように解釈すれば、現代でも、その限りにおいては<神によるひとの救済>はあり得ると言えましょうね。

加藤――そうかもしれませんね。要するに悩むに人にとっては、説得の方法はともかくとして何らかの「安心立命」が必要なのですからね。

鈴木――そうなんです。さて、ぼく自身の「自己流の神学」のご説明をしてみましょう。どうも、ぼくは既に確立している権威を認めにくい人間らしくて、万事、自分なりに解釈し、組み立て直さなければ気が済まないのです。だから、神観念についても、自然科学の知識が殆どないまま、勝手に、直感だけで、論理を作りあげます。まず、地球、その上の生命体も宇宙の星々、宇宙そのものも全て同じ成分からできているのだろうと直感します。で、星自体も生まれ、育ち、死んでいるようですから、同じように、地球上の有機物も生まれ、育ち、死んで行くのだろうと直感します。また、無機物も同じように生まれ、変化し、消滅するのだろうと直感します。全てのもが循環し、生成流転しているのだろうと直感します。そして、例えば、生命体が死んで焼かれたり。骨が地中に入って腐っても、地球全体や宇宙全体の総体としてのエネルギーの量は変わらないのだろうと、ぼくは勝手に直感します。これが、ぼくが考える宇宙観、世界観です。

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「大星雲の野」

加藤――ここで突如として科学の世界が登場し、「エネルギー不変の法則」が登場するわけですね。

鈴木――ハハハ。ぼくは現代人ですからネ、そういう生煮え情報は入っているのです。このように、本人は大真面目でも、はたから見ると、どこか素っ頓狂で、ズッコケていておかしいのが、ぼくのキャラクターの愉快なところです。自分でも認めて、いつも自分で笑っています。

加藤――あなたのお話を聞くと、私はアウグスティヌスを連想します。あなたの問いはつねに真剣です。そして全知識を動員してご自分の問いに対決しようとしておられる。

鈴木――そんなふうに言われるなんて最高に嬉しいです。さて、上記のように世界を直感するぼくは、ひとの人生を次のような認識でくくります。「ひとはどこから来たのか」という有名な問いには「星から来た」と。「ひとは何のために生きるのか」という問いには「循環するエネルギーの流れの一員として、自分の部署をまっとうするために生きる」と。「ひとは死んでどこへ行くのか」という問いには「星に還る/星の構成成分に回帰する」と答えたいと思います。

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「花の館」

加藤――なるほど。

鈴木――この理屈からすると、星も地球も生物も無機物も、発生源は共通ですから、皆、同じ胎から生まれた家族の一員/兄弟姉妹/同胞ではないか、という認識が生まれます。それなら、争わないで、友好的に生きて行くべきではないかと思います。ぼくが絵を描く時に、アニミストとして、万物に命ありと感ずることは、子どもっぽい感覚、未開人的感覚、幼稚な感覚といわれても仕方ないですが、自分の中ではこんなわけで、一応、理屈は通っていると考えています。ただし、この論には弱点があります。それは「天敵」の存在です。動植物にそれぞれ天敵があり、彼らは実はおびえて生きています。人間も「細菌、遺伝病、不運災害」などの、いわば天敵があって、それにおびえながら生きていることに変わりはありません。それはそれとして、絵の幻想世界の中ではせめて友好的に行こうと思うわけです。

加藤――あなたの場合、科学的宇宙観がアニミズムと直結し、それがまた悩める魂に対する「救済」に深く関係していくところがすごいですね。私には、その世界観と救済感情の連結の仕組みがよくわかりませんけれど。

鈴木――あぁ、「救済感情」が、なぜ成就するのかについて、まだ、ご説明していませんでしたね。縁がなくて、よんどころなく一人で暮らしていると、何か根源的なものに話しかけたくなる。そして話しかけていると、ほんとに話し相手になってもらえたような気がする。これがぼく流の「救済」の意味です。形而上的ではあるのですが、何だか生活的、生理的レベルのハナシなんです。

加藤――実感がこもっていますね。

鈴木――さて、宇宙が法則の下で運行していると勝手に直感したぼくは、そこには法則を設定した意志があるのではないかと直感したくなります。これを仮に「天なる意志/神秘」と名付けて、ぼくはそれを勝手に「自分の神」と呼んでいます。そして、その「天なる意志」にまずすることは、それが宇宙と地球の中で、万物を生かし、ぼくを日々生かしてくれていることへの「感謝」です。さらに「希望願望」と「救済願望」の成就を祈ります。このように、「感謝」と「祈り」はぼくの暮らしの中にあるので、あなたがぼくの絵に「祈り」を強く感じると言ってくださったのは、もしかしたら、そのためかも知れませんね。

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「星降る夜の白壁の館」

加藤――いやあ、あなたの壮大な宗教が、あなたの生活を律しているということがわかると、あなたの不思議な「公民性」のなぞも解けるような気がしますよ。

鈴木――とはいえ、いくら中世が好きなぼくでも、生活は現代文明の中だし、科学の発達に伴う現代文明の便利さは素晴らしいものです。病気、旅行、暮らし、あらゆることで大恩恵を蒙っていて、感謝するばかりです。遺伝子でさえ、その構成物質の化学構造が明らかだそうですから、人間の知性の進歩はたいしたものだと思います。でも、「やる気」「創造力」「悲しみしみや感動から生じる涙」「感動から生じる鳥肌」「芸術」「幻想」「宗教心」などなど、まだ、正体が解明されないもの、カメノコ構造式に翻訳されないものもたくさんあり、こうした「精神的」、「神秘」的なことは、ぼくの場合にはとても大切な要素だと感じます。

加藤――あなたは立派な宗教家であり、宗教家が自ら修行するように、(ご自分では楽しんで描いておられるのでしょうが)、じつはミッションとして絵を描いておられるのです。

鈴木――まったく、今どき、祈りだの、感謝だのと言ってる自分は、まるで中世の、崖の上の修道院の修道士であるかのように聞こえ、我ながら苦笑してしまいます。

Inori
「祈り」

加藤――ひとたび作品が世に出た後、作品は見る人の世界で一人歩きを始めると思います。これはやむをえないことだと思います。それでも、画家としては鑑賞者、あるいはコレクターに対して、作品に添える何らかのメッセージや思いがあるのではないかと思いますが、その点はいかがですか。最後になりますが、ひとことどうぞ。

鈴木――あなたは、この対談のはじめに、ぼくが「整合された世界」を描いていると指摘して下さいましたね。今までの10回の対談を通し、ぼくなりの「整合世界」の背景をほとんど、余すところなく、説明させて頂きました。この機会を与えてくださったことに深く感謝します。ぼくは天にある神秘の力と垂直に繋がり、それをうやまい、生かされ、感謝し、心の平安感を授けられ、他方、万物と同胞感覚で水平に繋がり、共感し合い、縦と横の交差軸に生じる垂直三角形の場に起る幻想的な光景の「詩/うた」を、キャンバスに定着して、開陳して行き続けたいと思っています。絵を見る人の心にも、それぞれの幻想やうたが存在すると思いますが、ぼくの幻想やうたが皆様の心に中にひそむ幻想やうたと響き合い、共感し合い、<合唱できる>ことこそ、ぼくの願いです。あなたがぼくに付けて下さった<絵画による音楽家>という嬉しい花冠にふさわしいことではありませんか。

Tentai
「天体への捧げ物」

加藤――私があなたの絵画のファンであったのも、あなたの幻想世界と響きあい、共感しあっていたからなのですね。いや、お話を聞いてたいへんよくわかり、また圧倒され、感動しました。今後もますます画業にご精進ください。ご協力有難うございました。

鈴木――こちらこそ、ほんとうに有難うございました。では、次回の個展でお目にかかれることを心から願っています。
(対談了)

   
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