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鈴木航伊知の世界
 
第1章 物語

1-1.謎解きの世界
私はこのコーナーで、一人のすぐれた現代画家=鈴木航伊知の作品と、その作品が描き出す世界についてご報告したいと思う。彼の作品はすでに多くの熱心な愛好者を持っている。私もそうした愛好者の一人だ。愛好者たちは彼が描き出す不思議な、美しいファンタジーの世界に魅せられている。その世界が何を意味するのか、そこに描かれている事物が何を意味するのかはほとんど謎なのではあるが、それでも私たちはその謎に吸い寄せられ、いつのまにか、絵の世界に引きずり込まれてしまっている。
鈴木航伊知が描く世界は、私たちが日常的に知っている世界とは明らかに異なっている。けれども、それはいわゆる抽象画ではない。鈴木航伊知の絵の世界にはそれとはっきり判別できる人物がいるし、建物もある。植物や動物があり、野山もある。絵の中に描かれている馬は明らかに馬であり、ロバはロバである。私たちがこれを見間違えることはほとんどない。要するに、描かれている事物はその一つ一つがたいへんわかりやすいのだ。しかし、それらはどう見ても私たちの世界のものではない。第一に、人物の表情や衣装が私たちのそれとはかなり異なっている。描かれている事物の組み合わせや配列も、どこか異常である。あるいは事物のサイズ関係が異常であることもある。
だが、彼の絵にはそれ以上に大きな特徴がある。独特の美を持つ「物語」だ。これらの絵をよく見ていくと、その絵の一点一点に背景となる「物語」があることがわかる。私たちは、その「物語」を知りたくてうずうずする。しかし、それはわからない。なにしろ絵は絵であり、書物でもなく、言葉でもないからだ。そこで、私たちは自分でその「絵解き」をしなければならない。鈴木航伊知の絵画は、私たちに強烈に「物語の想像」を、つまり「絵解き」を迫る作品であるように思われる。要するに、これが私の愛好する「鈴木航伊知の世界」なのである。

どんな人でも「自分だけの世界」を持っている。具体的には、その人のいる場所であり、その人が持ちまわる生き方である。かりにその人に趣味があれば、趣味の世界が彼自身の「世界」ということになる。そこには、かならずしも他人には理解されなくてもいい、あるいは他人とは共有できなくてもいい各人にとっての自由な領域がある。
「自分だけの世界」は、私の定義によれば一般的に理解される「仕事の世界」、あるいは「現実の生活の世界」とは明らかに異次元にある。たとえば、夜眠りに入るまえにいつも同じ場面を頭に思い描く人がいるとする。その場面は他人にはまったく関係がない。要するに「自分自身だけの世界」に属している。
私が散歩の折に本屋に立ち寄って、本を探すとする。どんな本を買って読むか、私はだれにも規制されていない。そのときの選択は、たまたま店頭にあった本と、そのときの私の気分や価値観にもとづく。こうして、私の本棚はいつしか「私の世界」を形成することになるだろう。たとえそれが他人に、どんなにランダムに見えようとも、である。
だれもが「自分の世界」の価値観や掟に従って生活をする。その世界は各自にとって意味を持ち、その人の生活を規制する。私たちは「仕事の世界」「他人と共有すべき生活世界」のほかに、これらとは位相の異なる「自分独自の世界」をもち、この二種類、あるいは三種類の世界のバランスをとりながら生きているのだと思う。
「鈴木航伊知の世界」はこの意味で、明らかに画家、鈴木航伊知独自の、他人には干渉しようもない奇妙な世界である。そこには性別不明の若者や天使が実在し、巨大な鳥や花が実在し、白馬のペガサスが飛び、不合理な奥行きをもつ建物が建っている。しかしながら、これらの世界にはある一つの共通点がある。それは独自の美を持ち、そこにはいつも音楽が流れており、平和な幸福感に満ちているということだ。ちなみに、彼の世界の登場人物たちはみな美しく、満ち足りた表情をしている。
私はこの画家が、本来は自分だけのものであった「世界」を「作品」の形で公開し、私たち共有の財産としてくれたことに感謝している。おそらく芸術というものの価値は、作家がそれぞれの持つ固有の世界を表現し、それを人々の供してくれることにあるのだと思う。それが独自のメッセージを持ち、独自の美を持っているとき、芸術家の世界は、私たち自身の世界を震撼させる。それは「私の世界」を揺さぶり、彩り、広げ、浄化してくれる。
私は彼の作品を何点か入手することができたので、これを自分の部屋にかけている。これらの作品は私の日々の生活空間を彩り、私を慰め、勇気づけてくれている。一方これらの作品は、日々、私には解けぬ「物語」の謎を突きつけている。私は日々難解な「絵解き」「謎解き」を楽しんでいる。・・という次第で、私は多くの皆さんにぜひとも「鈴木航伊知の世界」をご紹介したいと思うのだ。

 

1-2.女のアリオン
tukiniutauはじめに鈴木航伊知の世界、すなわち彼の絵画の「物語性」を傍証するために、ごくわかりやすい作品例をご紹介する。最初にごらんいただくのは、「月に歌う歌姫」(F2号)と題された作品。彼の絵としてはごく単純な構図の作品である。絵の左側に赤いドレスをつけた女性が立って両の手を差し伸べている。口を大きく開けているところから察するに、歌っているらしい。場所は海か湖かわからないが、水上である。彼女が現在岸にいるのか、船の上にいるのかはわからない。海の上からは、大きな金色の魚が飛び出している。魚が飛び出した水面には穴があいている。穴の回りの水が盛り上がっている。一方、その魚に触れんばかりの位置に、三日月形の月がある。
歌姫の体はいささか左側にかしいでおり、不安定である。それにもまして奇異なのは、彼女の髪の毛が逆立っていて、左側になびいていることだ。右側から風が吹いて彼女を左に傾けているように見える。しかし、水面は穏やかであり、強い風が吹いている様子はない。題名との関係で判断すると、彼女は月に対して歌っていることになる。この歌声を聴いて、海中から金色の魚が躍り出た、と解釈するのが自然である。それにしても、魚のサイズと歌姫のサイズに比較すると、月のサイズが異常に大きい。この月は約三分の一程度が画面に現れているに過ぎないが、全部描かれたとしたら画面の上では歌姫の身長を超えることになるだろう。
さて、ここで問題だ。歌姫は誰で、どこで何を歌い、なぜ月に向かって歌っているのか。またなぜ金色の魚が飛び出しているのか。またどうして魚の飛び出したあとが、大きな水面の「穴」となっているのか。ちなみに、私は魚が水面に躍り出るところを何度も見たことがあるが、そのときに水の表面に穴があく、という現象は見たことがない。それにまたなぜ月はかくも巨大なのか。私にはどうしても理解できない。要するに、絵を見る人はどうしてもこれを考え、自分なりにつじつまを合わせなくてはならないということだ。さもないと、鑑賞者にはどうしても納得がいかないのである。
納得がいかなくてもいいではないか。といわれるかもしれない。それはそうだ。絵を見るたびにいちいち納得しなければならないとしたら、私たちは絵を見ることができなくなる。けれどもこの絵の場合、あまりに仕掛けが単純で、印象が強烈であるために、一見して「これは何だろう」という疑問に強制的にとらえられてしまう。
私は絵画に関してはまったくの素人だ。だから「絵画一般」「名画一般」のことは何も知らない。見当はずれの批評を聞いて憤慨した古代の画家ゼウクシスの一件のように、私は鈴木画伯や、絵をわかる人々を憤慨させたり、失笑させたりするかもしれない。けれども私は自分が気になることをまず言いたいのだ。
たとえば風景画や静物画、あるいは人物画を見る場合、「ああ、風景画だな」「これは果物だな」「きれいな人物が描かれているな」ということで私は納得できる。つまり、画家が画布のこちら側にいることがわかり、画家が何をしようとしているかがわかる。そして、絵には描かれていること以外の問題はない。
もちろん描かれている対象について、鑑賞者としてあれこれ思いをめぐらせることはできるが、たいていの場合はそれで納得がいく。たとえば、ある風景画の前で私は次のように思う。「前の方に花畑があるな。どうやらラベンダー畑らしい。その向こうに赤い屋根の家々が立ち並んでいる。教会の尖塔が見える。これは、おそらくヨーロッパのどこかの村の風景だな。ここに見える道は、村の方角に続いているのだな」。これを私が絵から感じる「物語」といえばいえなくはない。けれどもそれは物語ではない。単に映像を言葉に置きかえただけのことだ。
もちろん、私は例の村の風景から飛躍して、その村の人々の生活や祭りや事件、愛の物語などを想像し、あるいは作ろうと思えばできなくはない。けれどもそのとき、私はもはや提示されている絵を離れている。つまり、そのときには私は絵が示す条件を逸脱しており、もはやその絵は不必要なのだ。
もちろん私があちこちで見かける絵の中には、理解できないものや説明困難なもの、あるいは認識さえ困難なものもある。描かれた対象物がひどく誇張されていたり、変形されているように見える場合もある。この場合も私の感慨は、鈴木航伊知の絵を見る場合ほど複雑でない。つまり私は「なるほど、画家にはそう見えたのか」ということではやばやと納得する。
ところがこの歌姫と魚と月の三題噺の前で、私は途方にくれる。というのも、これは三つのばらばらな要素からなる三題噺ではないからだ。私の見るかぎり、歌姫は月に向かって歌っている。つまり、夜、月に向かって歌姫が歌うことは別にひどく不自然ではない。夜中に風呂に入りながら、1人で歌っている人物よりはずっとロマンチックだし、納得がいく。つまり月と歌姫の間には関連がある。一方海の魚が歌に感激して躍り上がるという図式も、メルヘンの世界ではありえないことではない。つまり、歌姫と魚の間には関連があるといっていい。
つまり、私たちにはこの絵に描かれている三要素(歌姫、魚、月)間に、緊密なメルヘン的関連が成立していることがはっきり分かるのだ。そこで、私たちはどうしても「メルヘン=物語」そのものを知りたくなるのである。このような欲求や感慨を起こさせる要素は、鈴木航伊知の作品すべてに共通していて、しかも独自なものである。私の知るかぎり他の絵画作品は、絵の背景となる物語に関して、これほど強い欲求や感慨を与えることはない。
目下、私がこの作品に与えている自分なりの見解は、この歌姫がある種の「女のアリオン」だということである。彼女はおそらく走る船の船尾のほうに立っているにちがいない。金色の魚は小さくて、アリオンを乗せた海豚ほどの力量はなさそうだが、いずれにしても歌姫の歌に反応し、海水に穴をあけることができるくらいなのだから、彼女を助けることができるかもしれない。できないとしても、彼女に対する慰めにはなるだろう。力強いのは巨大な月であって、この月が女性アリオンの危急を救うかもしれない。
以上は私の当面の勝手な空想であり、仮説だ。もっとも私の仮説では、海水の「穴」や、月のサイズの説明はできない。また、歌姫が船尾に乗っているのだとすれば、彼女の体の傾きが進行方向とは逆だ。これらの点に関しては、私は問題を先送りにすることにする。明日になれば、また別の解釈をするかもしれない。もっとも、どう私が解釈したとしても、それは間違っているだろう。要するに、芸術作品の不思議さを合理的に説明しようとする私の試み自体が芸術鑑賞という観点からして、おそらく間違っているのである。けれども、だれになんといわれようと、この「絵解き」が私には楽しいのである。
私は反論を覚悟の上で主張するのだが、一枚の絵を鑑賞するとは、鑑賞者として何らかの「絵解き」をすることなのではないのか。もし「絵解き」をしようとしないで絵を見ているとしたら、それは絵を見ていることにはならないのではないか。「絵は、その前に立って、ただ感じるだけでいいんだ」と主張する人もいるだろう。だが、その人に私はたずねたい。「絵具の集積としての絵を感じればいいのか、それとも描かれていることがらについて感じればいいのか」と。そして、私はさらに「私たちは、どうやれば描かれていることがらを見ずに、絵具の集積としての絵を見ることができるのか」とたずねたい。
私たちは一枚の絵に向かうとき、たしかに絵具が塗られた画布に向かっている。しかしじっさいにはそうではない。私たちは描かれていることがらの方に注意を向ける。それは私たちが鏡を見るとき、映像を反射するガラス面を見ようとするのではなく、そこに写っている自分の姿を見ようとするのと同じだ。私たちはその絵が指し示すことがらに向かい、それからあらためて画家の筆づかいとか、絵具の盛り上がりの具合に注意を向ける。
絵画の専門家ならば、色の重なり具合や絵具の使われ方から、また別種の情報やメッセージをキャッチするかもしれない。しかし私たち素人は、もっぱら描かれている図柄そのものに注意を向け、その図柄が自分にとってどのような意味を持っているのかを判別しようとする。それが「絵解き」であり、鑑賞者としての私たちが、その絵と関係を取り結ぶそのやり方なのである。かりにこの鑑賞方法が「悪い」といわれても、私としてはほかにどうしようもない。

 
 

1−3.カリヨンと羊
理屈はこのへんにして、次に私のもっとも好きな作品、「カリヨンと羊」を見ていただこう。これは美しい80号の油彩である。なお、彼の作品の大部分は油彩である。ごらんのように、この絵は一匹の羊を描いている。絵のサイズが大きいので、羊本体のサイズは絵の中でさえ左右37センチほどを占めており、圧倒的なボリューム感を持っている。

hituji-600この羊の毛を見ていただきたい。きわめてリアルに、それこそ一本一本が描かれているといっていいほどだ。何本かの毛が先端のところでくっつきあい、小さな塊を形成しているのもわかるし、羊の体に近い部分と、毛先の部分との違いもわかる。私たちはこの羊のテクスチュアを、ありありと感じることができるほどだ。製作にどれほどの日数がかかったのか、私には見当もつかないがきわめて細密に描かれていることだけはわかる。
さて、この羊はやや不自然なほどに首を空のほうに向けている。その首にはみごとな首輪がついており、彩色された紋章と立派なベルがついている。羊が立っている場所は、人跡未踏の原野だ。名も知れぬ草が生い茂っており、地味な、小さな花が咲いている。よく見ると、羊の足元からこちら側手前は水辺になっている。向こう側には湖水が見える。ということは、羊が立っている地面は二つの水域にはさまれた幅の狭い地面だということになる。もしかしたら、この地面は、湖水の内側に右手のほうから張り出した岬のような部分なのかもしれない。
さて、向こう側の湖水に目を転じると、小さな円形の島があり、その上にカリヨン塔が立っているのが分かる。カリヨンはヨーロッパ由来の楽器施設だ。螺旋階段を上ると、そこに明るい、小部屋がある。その中にはオルガンに似た鍵盤楽器が置いてある。この絵の中には演奏者は見えていないが、かりに演奏者がやってきてこの鍵盤を弾くと、その鍵盤に連結しているロープが櫓につるされた鐘を鳴らす仕組みである。私の住んでいる都内の地域では、夕方5時になるとカリヨンが鳴る。メロディは「夕焼け小焼け」である。あれはどういう仕掛けで鳴らされているのか分からないが、いずれにしてもカリヨンを模したものにちがいない。
カリヨンの建物向こう側には、さほど高くない山が連なっている。この山には糸杉らしい樹木が生えている。樹木に覆われた山の向こう岩山の頂の部分が見え、その上に満月とおぼしき月が照っている。この絵の主人公であるわが羊はこの月を、不自然なほど首をねじってみているのである。この絵を見ると、ただちに次のような疑問が心にわくはずだ。
ここはどこだろう?
いつごろの時代なのだろう?
この羊はいったい何なのだろう?
どうしてこんなに人里離れたところにカリヨンの塔があるのだろう。
羊と月、あるいはカリヨンとの間にどんなつながりがあるのだろう?
つまり上記のような疑問が、絵を見る人に解釈を迫っているわけだ。「月に歌う歌姫」がはなはだ「動的」であるのに対して、この絵の諸要素は「静的」である。したがって上記の疑問もいうなれば静かに投げかけられている。しかし見ているうちに、私たちはどうしても「絵解き」の衝動にとらえられてしまう。
私ははじめ、この絵を古代ギリシャ神話の変身物語ではないかと考えた。まず時代を「古代」と考ええてしまったのは、人間がいそうもない原野と植物のたたずまいのせいだ。ここの野の花はいずれも小さく地味なものばかりだ。手前のほうに蕗のような、やや大きな葉が見え、羊歯系の植物なども見える。これらの植物は、私たちが日ごろ見慣れている花々とは異なり、ひじょうに慎ましやかなものばかりである。
次に私は羊が熱心に月を仰いでいる様子から、私は次の女神アルテミスによって変身させられた、どこかの国の王子ではないかと想像した。由緒正しそうな首輪のエンブレムのデザインが「王家」を想像させるのである。満月の夜にアルテミスが地上に降り立って、あのカリヨン塔で音楽を奏でる。すると一時的に魔法が解けて羊は人間の姿に戻る。羊はその瞬間を待っているのだ、と私は想像してみた。
そうであるとすれば、この原野はたとえば「テッサリアの野」という具合にならざるを得ない。私は「テッサリアの野」など見たこともないのだが、私の概念では、こういう原野こそ「テッサリアの野」でなければならないのだ。私はこの仮説にしばらくの間満足していた。ところが、しばらくするとこの仮説ではつじつまが合わないことが気になり始めた。
まずもって古代ギリシャに、描かれているようなカリヨンがあったかということになると、どうもありえないことのように思える。それにまた羊の首輪とカウベルがどうしても気になる。首輪のベルトが革製品であることはいいとして、あの彩色されたエンブレムが七宝焼きのような、技術的に高度な細工物であるように見えるのだ。それにカウベルの形や首輪への止まり具合も、かなり近代的である。だいいち、カリヨン自体が鍵盤とベルをつなぐ部分で歯車装置になっているはずだから、これはずっと新しい時代のものでなければならない。であるとすれば、舞台が古代ギリシャだとする私の仮説はもろくも崩れることになる。
「これはファンタジーの世界のことなのだから、何も細部までつじつまが合わなくてもいいではないか」といわれるかもしれない。それに「画家だって、そんなつじつまを合わせて描いているわけではないよ」といわれるかも知れまい。それはそうだ。謎は最後まで謎のままでいい。それに私は、なにも時代考証を誰かに約束しているわけではない。つまり、私にとって「つじつま合わせ」とは、ああ考えたり、こう考えたりすることの楽しさの、一つのプロセスにすぎないのだ。たとえ私の仮説のつじつまが合っていたにしても、合わなかったにしても、世界が変わるわけではないし、ましてやこの絵の価値が変わるわけではない。
ヴィトゲンシュタインは「われわれには非論理的なことが何一つ考えられない。さもないと、われわれは非論理的に考えねばならなくなる」といっている。私はその通りだと思う。そしてもしも私たちが最初から、はじめから対象が「何の秩序もない、非論的なものだ」ときめつけてしまうならば、絵画作品は一つの誤った数学の公式のように、私たちにとって意味のないものとなってしまうだろう。私には、画家が精魂こめて描いた絵画の世界が、まったく無意味なものだとはどうしても思えない。かならず画家にとっての真実があったのだし、げんにそれはあるのだ。ただ、私の文化的秩序と絵画が提示している文化的秩序の間にズレがあり、私はそこで――楽しい悩みを――大いに悩んでいるのである。
私にとっては絵を見るとは、まずもって対象となる作品を発見することであり、発見したものの中から、自分にとって美しいものを選別することである。この点で私は鈴木航伊知の作品の多くを自分の鑑賞の対象としている。私にとっては彼の作品のどれもが好ましいものである。さらに私は「関係を結びたい作品」をその中から選別する。これを別ないいかたで表現すれば、「心を打たれる作品との出会い」ということになるかもしれない。
次に私にとって絵を鑑賞するとは、対象となる作品を自分の領域内に持ち込み、私の文化的秩序に無理やり従わせてしまうことだ、といっていいかもしれない。もちろんこれは絵を現実に所有するかどうか、ということには関係がない。
関心のある絵の前で立ち止まるということは、その絵をさらによく見、知り、その絵と対話するということである。私は描かれている世界を受け入れ、それを体感する。私は快感をおぼえたり、圧倒されたりする。要するに私は作品をエンジョイする。けれども私は、自分が関心を持った絵について、私のほうからも質問を発し、その答えを聞こうとする。つまりこのとき、私はこの作品を私の尺度に従って理解しようとしている。これが私の「絵解き」作業である。
ところが堅固な素材というものは、容易なことでは私の支配には服しない。「天上桟敷」のモントレー伯爵は美しいギャランスを、自分の屋敷につれてくることはできた。けれども、彼女に自分を愛させることはできなかった。それと同じように、私は「羊とカリヨン」をその美ゆえに愛し、私の文化的秩序に従わせようとした、いまもその試みを続けている。けれども、私はこの試みに成功していないし、この先も見込みはないかもしれない。私は、私の意に服さないこの美をいつまでも愛するだろう。

 
 

1−4.旅の小間物屋
鈴木航伊知の絵画の「物語性」を証明するもう一つの作品をご紹介したい。これは「旅の小間物屋」と題されたF4号の作品である。ごらんの通り、この絵ではひとりの、後ろ向きになった人物が山道を歩いている。その背には小間物を入れた箱を背負っている。彼は左手に杖を持ち、右手にラッパを持っている。このラッパを口に当てて吹いているらしい。

komamono-500彼の行く手、進行方向右側には山があり、その山頂、山腹には家が建っている。その山と家々に向かう細道も示されており、道が山の傾斜に沿って分岐してゆく様子もはっきり見える。一方絵の右手には傾斜のきつい岩山が見えている。この小間物屋のたどってきた道は分岐しており、一方はこの岩山のほうに通じているように見える。
小間物屋の足元をよく見ると、彼は地面を踏んでいない。一見地面の上を歩いているように見えるが、彼の右足は地についていない。だいいち彼の体の大きさと描かれている道幅とをくらべれば分かるように、サイズ関係がまったく合致していない。描かれている道幅や、家々のサイズを基準にして考えるならば、小間物屋は空中を歩く巨人という感じになる。空には、なにやら白っぽい物体が尾を曳きながら飛行している。
ところで、小間物屋の背負っている箱はどれも引き出しが半開きで、傾斜のために滑り落ちそうになっている。そのために箱の中身が見えている。引き出しは四段あって、上のほうから「壜のようなもの」「首飾りのようなもの」「糸巻きのようなもの」「折りたたんだ布のようなもの」が見えている。それぞれカラフルな品物で、小間物屋の鮮やかなオレンジ色の衣装とあいまって、絵を明るく彩っている。
さらによく注意すると、小間物屋より前方にある山々はブルーであるのに対して、彼よりも後方にある岩山の地肌は、茶色であり、その山すそから山腹にかけてグリーンの木が生えていることがわかる。したがって小間物屋の進行に伴って、景色の色彩が変化しているという印象を受ける。
小間物屋の衣装についても一言いわねばならない。この衣装はワンピースのスカートのように見えるが、本人は男性らしい。布地はビロードのようなものらしく、光沢を持っている。ブーツはオレンジ色のツートーンだ。すねにはボタンで留める形式の脚絆をつけている。彼の左足には脚絆の上端が見えるが、その上が素足なのか別種の下着なのかは、判然としない。
そこで、私の場合、この絵に関する疑問の数は「月に歌う歌姫」あるいは「カリヨンと羊」の場合よりもずっと多く、ざっと次のようになる。
1.この小間物屋は何者なのか、
2.ここはどこで、どうして彼は空中を歩行しているのか。
3.なぜ彼は巨大なのか。
4.彼が背負っている小間物の正体は何か。またなぜはこの引き出しが開きかかり、中身が露出しているのか。またどうして中身は落下しないのか。
5.彼は左手に小さな旗飾りのようなリボンのついた杖を持っているが、この杖ならびにリボンは何を意味しているのか。
6.なぜ景色の色が彼の進行につれて変化しているのか。またはなぜそう見えるのか。
7.空中を飛行している物体は何なのか。
8.小間物屋は前方右手に見える山腹の村を訪問するのか、それともしないのか。
9.彼が吹いているラッパは何を告げているのか。彼は何を吹いているのか。

ところで私たちは、日ごろ一日に何枚ぐらいの「絵」を見ているだろうか。それは、その人の行動範囲、そして行動する場所によって異なるだろう。それにまた「絵」の定義にもよることだろう。かりにここでは、リトグラフや複製の名画も含めて、壁掛けの額縁入りの絵を想定することにする。
たとえばビジネスマンであれば、自分の会社の壁にかかっている絵を見ているはずだし、訪問先の会社でもいくらかは見ることになるはずだ。会社の受付部分、それに応接室などにはたいがい額縁入りの絵がかけてある。趣味のいい絵を適切に飾り、ときおり入れ替えたりしている会社もあるし、その反対の例も多数ある。役員応接室に、趣味の悪い、もらい物の美術品や骨董品をところ狭しと並べている会社もある。私の個人的感想を述べるならば、趣味のいい絵のかけてある会社に対しては、無条件に好感を持ってしまう。
ホテル、病院、レストラン、喫茶店、その他の公共施設などでも、私たちはしじゅう「絵」を目にする。百貨店に行けば、かならず何らかの展覧会などをやっている。だから少なくとも普通に行動している人は、毎日見ている絵を含めて、一日に10点以上は目にしているのではないだろうか。
しかし、日常的に目にする絵画のほとんどは、単なる日常的光景の一部であり、要するに私たちに日常的になじみのある絵画は、インテリアの一部としての機能を担っているに過ぎない。私たちはそこに絵があったということにさえ気づかないこともある。これは私たちの絵に無関心な生活態度にも起因するが、「作品」としての主張を持っている「絵」にはめったにお目にかからないことにも原因があるだろう。もしかしたら本当にいい絵は、どこか深窓深く収蔵されて、私たちの目には触れないのかもしれない。
ところで私たちの周囲にある絵を改めてみると、「なるほど、そうか」と思うものもあるし、「何が描いてあるかわからない」というのもある。応接室でいつまでも待たされているような時に絵の前に立って、首をかしげるということもある。だが私の知るかぎりでは、鈴木航伊知の作品ほど美しく、さらに明確に私たちに「絵解き」を迫る絵を私は見たことがない。もっともこれは私の考えだ。ほかの人はもっと違う例をあげることができるかもしれないし、鈴木航伊知の絵についても、私と同じ感慨を持つとは限らない。私は自分が好きな絵だからそう思い込んでしまっているかもしれない。
そこで、先ほどの「旅の小間物屋」の絵に戻ろう。この絵に関して心にわきあがってくる上記のような疑問に、皆さんならどのようにお答えになるだろうか? 要するに説明なしに絵が提示されている以上、空想、想像、仮説構築は私たちの勝手にまかされている。どう考えようと自由なのだ。
私は、この小間物屋は「春の使者」、あるいは「生命の使者」であると考えてみる。有機的な曳航をする物体はおそらく使者に対する先導役だ。彼が通り過ぎるに連れて、野山は緑になる。山村の家々はまだひっそり眠っている。だがおそらく、人々の耳には、小間物屋のラッパの音が遠くに聞こえているはずだ。彼が背負っている小間物は、おそらくは「春のしるし」あるいは「生命のしるし」である。人々はこれを手にすることで、花の彩りを身近なものとし、春の幸福を実感できるようになるにちがいない。それを思えば、使者の足取りも軽くなり、思わず宙を飛んでしまうのである。
しかしながら、上のような勝手な解釈でもまだ解決しない問題が残る。飛行物体の正体や、場所、それに使者=小間物屋のサイズなどが未解決である。だが、私はこれらの問題を先の楽しみにとっておく。それにしても、山道と空との間を進んでゆく小間物屋の色彩の、なんと美しいことか。なんと幸福な期待感に満ちていることか。
 ハイデガーは「芸術作品のはじまり」の中で、「(芸術)作品であるということは、ひとつの世界をたてるということだ」といっている。私たちは鈴木航伊知という画家が、ひとつの世界をたて、私たちにそれを提示していることを知った。私たちはその「世界」がどのようなものであるか、それらが私たちに何を語りかけているかを見ていくことにしたい。

 
   
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