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鈴木航伊知の世界
 
第10章 美しい不条理

10-1.画家は何を描かなかったのか
 以上、私たちは「物語」「音楽」「男と女」「衣装」「天使」「町や通り」、そして「建物」など、彼の絵画に特徴的と思われる対象物に着眼しながら作品を鑑賞してきた。もちろん、鈴木航伊知の世界にアプローチする視点は、私が着眼した対象物にとどまりはしないだろう。たとえば、描かれている地方や、暮らしや、植物や動物、それに天体や時間などに着眼しながら彼の絵を鑑賞することもできるはずだ。
なにも描かれている要素だけに着眼する必要はないかもしれない。たとえば、もっと感覚的な印象だけを中心に鑑賞する方法もあろうし、色彩やタッチ、描かれている具体的な場所や状況などを想定しながら鑑賞する方法もあるだろう。それぞれの方法に応じて、鈴木航伊知の作品は、それなりの豊かなメッセージを繰り出すだろう。要するに、彼の絵、彼の作品群は、それについて考えたり、そこから空想をめぐらしたりするに値する作品なのであり、それを求めている作品なのである。どのような見方をしても、何のメッセージも伝わってこないような作品があるとしたら、それは作品として無意味なのだと私は思う。
オルテガは次のような表現で一理あることをいっている。「画家の作品の総体を目前にすることが必要だ」。これは、画家が描いた全作品を見てはじめて、その真の意図を理解できるということである。また彼は画家の意図を真に理解するためには、「画家が描かなかったテーマの目録を作成することが必要だ」ともいっている。これは否定の側面から、画家の意図を知るということである。
私は今回、幸いなことに鈴木航伊知の、この20年間に描かれたほとんどの作品を見知ることができた。それは彼の個展で作品に直接接触することによってであり、どうしても目にすることができなかったものについては、画家から提供された整理済みの写真資料を見ることによってである。そこで現時点の私は鈴木航伊知に関して、「全作品を見るべきだ」というオルテガの要求にいくぶん答えることができる立場にいる。
 そこで、私の有利な立場を利用して、「私たちの画家が描かなかったものは何か」について考えてみたい。ある人が鈴木航伊知の絵を評して「曼荼羅のようだ」といった。たしかに彼の世界には、世界のあらゆる要素、森羅万象が描かれているように見える。しかしだれでもすぐに、彼の絵のなかには現代文明を代表するような道具や機械、たとえばクルマや、テレビや、冷蔵庫や電車などは描かれていないことに気づくだろう。
それどころか、彼の絵に登場する素材や要素はかなり限定されていて、雑多なものが無節操に描かれることはないといっていい。私たちはこれまで彼の絵にコード化され、「約束」のようにしてあらわれる素材を中心に彼の絵を見てきた。それは主として遠景の町を含む風景であり、不思議な装飾を持つ建物であり、天使を含む人物たちであり、個性的な動物や鳥たちである。それらはみな、あい似た姿で異なるタブローのなかに繰り返し、出現する。
彼が日本国籍の画家でありながら、1枚もいわゆる「日本的」風景や事物を描いていないことに気づいている人もあるだろう。同じように、彼が「アメリカ」を描いていないことも事実である。彼が描いているのはあくまでも「電気の発見と応用以前のヨーロッパ」であり、「中世ヨーロッパ」が基点となっていることは明らかなのである。少なくとも彼はそこに彼なりの「美」の源泉を見ているのである。
 次に彼の「人物たち」に絞り込んで、「何が描かれていないか」を見てみよう。これもしごくはっきりしている。たとえば老人や赤ん坊は描かれていない。子供が少しばかり、あとはみな若い男女ばかりである。しかし若い男女とはいっても、マッチョな男、セクシーな女は、この世界において市民権を持っていない。要するに「性」を誇示しようとする人物はこの世界の中に入ることはできない。だが美しく装っていない人物もまた、この世界の住人ではない。
さらに注意すると、この世界における人物たちには――その中には天使を含めて――「権威」や「序列」というものがないことに気づく。たとえば、「塔の街」でカリヨンを演奏している人物はある種のエリートかもしれない。しかし、この人物には比較すべき相手、すなわち非エリートがいない。彼の絵の中では演奏家は、たいていは聴衆さえも持たず、孤独だ。
私の観察する限りでは、画面に複数の人物があらわれる場合、彼らは原則としてみな対等である。男女のカップルが対等なのは当然である。その他の人物も協力してパフォーマンスを行なっているようなときを別とすれば、原則として干渉し合わない。彼らは独自の空間を占有し、そこで即自的に――いる。この対等関係は、人物と動物、人物と花についてもいえる。たとえば画面における事物の、現実にありうべからざる大きさは、この対等関係の証明であるようにも見える。

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たとえば「緑の野のチューリップと二人」という作品では、立派なチューリップが中央にあって、両側に男女の楽師がこの花の立派さをほめたたえるかのように演奏している。この場合の主役はあくまで巨大なチューリップであるが、チューリップは別に二人を支配しているわけではない。むしろチューリップは、その美をサービスしているのであり、人間も音楽をサービスしているのである。
 私はこの小論を「物語」という切り口からスタートした。鈴木航伊知の絵を見ていると、どうしてもその絵の背景にある物語を知りたくなってしまい、そうした「物語」についての好奇心をかきたててくれることが、彼の絵の魅力なのだと説明した。しかし、ここで鈴木航伊知のすべての作品を整理して眺め、「何が描かれていないか」という点をチェックしてみると、私たちは次のような当然の結論にたどり着く。
1.鈴木航伊知の絵画作品群は、ある「一つの世界」を、それぞれ異なる側面から切り取って描いているものである。
2.描かれているのは「一つの世界」であり、当然のこととして整合性を持っている。それはある所定の約束事と秩序で維持されている。
バルザックの「人間喜劇」については、皆さんご存知の通りだ。彼の大部分の、ぼう大な作品群のひとつひとつは、「人間喜劇」と呼ばれる世界の、個々の切り口であり、断片である。だから彼の「作品A」に出てきた人物が、同一の来歴を持って「作品B」にも出てくるということがしばしばある。バルザックの研究家は、これらの人物のリストを作っているし、げんに参照のための「辞典」が出版されているほどだ。
私は「鈴木航伊知の世界」をバルザックの「人間喜劇」にも匹敵する作品群であると考える。なるほど、この絵に出てくる天使と、こちらの絵の天使が同一だ、などということはないし、この風景やこの街並みが同一だなどということも意識されていない。だいいち、彼が描く絵の「時代」はかなりの幅を持っている。けれども彼が描く「世界」は大きな同一性を持っており、大きな枠組みの中で整合している。彼は過去20年間、「この世界」以外のものを描かなかったのである。彼が20年前に、それ以前に書きためた作品をすべて廃棄したという理由が私には分るような気がする。彼は「この世界」と「他の世界」を混同したくなかったのである。
この世界は鈴木航伊知の考える「理想」の世界である。そこには過度に発達した文明は存在せず、男女(おめ)、あるいは男女、天使が、そして等身大の動物や花が対等に、平和に共存する。その世界にはたえずなつかしい音、やさしい音楽が流れている。建物は生命を持ち、人の手を借りずに自らを装い、自己増殖さえする。それはある種のアニミズム的ユートピアである。彼は20年間、この世界をひとり旅し、写し、私たちに提供してくれたのである。
私はいわゆる世の中の「画家」を知らない。しかし、ある画家はときにはテーブルの上の静物を描いたり、ときには肖像を描いたり、また別のときには風景を描いたりするだろう。これはいわば当然のことだ。彼がその時々の気分や思いつきのままに描いたもの、それらのすべてを集めてみれば、たとえば過去20年の集積が、ある特定の「画風」や「主題の傾向」を示しているということも当然あるだろう。いや、むしろないほうがおかしいかもしれない。
私は自分が一人の画家であるとことを空想した場合、まず「自分は何を描くべきか?」という巨大な問題に押しつぶされてしまうだろうと思う。もちろん私は、手近かなところから、あるいはそのときに思いついたものから描き始めるだろう。活動を続けていけば、自分の得意分野を知ったり、そこからある種の特徴や傾向が現れるかもしれない。しかし、それは結果としていえる「画風」であり、結果としての「傾向や特徴」であるに過ぎないだろう。
だが鈴木航伊知の世界を説明するには、単なる「画風」や「傾向」などという言葉は軽すぎる。それは意図せずに偶然出来上がった何物かではない。鈴木航伊知の場合は――画家自身がそのことをどう意識しているかは別として――「自分は何を描くべきか」を熟知しており、迷いなく、それだけを描いたのだ。鈴木航伊知が描いた世界、それはありありとした理想の、すなわち彼の思想の顕現であり、イデアのヴィジョンである。その執拗さと、ヴィジョンの具体性に即して、私はこの世界をバルザックのそれに対比させるのである。

 

10-2.現実と現実でないもの
 いま私は、「自分が画家だったら」と空想をしてみた。けれども私は「絵」というものを描いたことがない。義務教育課程での課題はやむなくやったし、仕事上やむなく何かの形を紙の上になぐり書きしたり、見取り図を描いたことはある。昆虫や植物に熱中したときにはそれらをスケッチしようとしたこともある。けれども私の生涯は絵画制作には縁がなかった。
だから私は、鈴木航伊知の作品を見るときにも、デッサンや、色彩や、タッチなどといった、制作の専門的な側面から作品を見ることはできない。画家は、きっと制作のプロセスで人知れぬ苦労をしているかもしれないし、手抜きをしているかもしれない。けれど私はそれを感じることができない。私は「一見しての印象」や「描かれた事物やことがら」としてしか絵を観賞できない素人だ。
 フランスの思想家アランは、少しばかり絵の勉強をしたが「成功しなかった」といっている。ただ、アランは要諦をつかんだ。ちなみに彼は「画家の仕事は、外観を再び見出し、諸対象について持つ知覚を、輪郭以外の形を持たぬさまざまないろどられた斑点に還元することにある」といっている。また彼は「私は、画家はあらゆる人間のうちで一番自分の観念にこだわらない種属だということを知っている」ともいっている。これはいったいどういうことだろうか。
 私の信じるところでは、「目に見えるもの」、これが画家のすべてだ。ところが目に見えているものが何であるのか、それを本当に知っている人は少ない。というのも、人がものを見るとき「予断」を持ってそれを見ないということはありえないから。人は見ているものを、あらかじめ知りすぎている、といってもいいだろう。
たとえば、私たちは向こうから来る人を「男だ」とか「若い女だ」と勝手に断定する。どうしてそう断定できるのか。それは外見からして、とっさにそう思い込むのだ。私は、見えているものを私の記憶にある「男」あるいは「女」の概念とすばやく照合させるのだ。これだけではない。私はあらゆるものについて、「あれは山だ」とか「陸地だ」とか、「敵だ」とか「政治家だ」というように、とかく早期に分類し、断定してしまう。
私は実物のひまわりの花を見ながら、おそらく観念の中にある「ひまわり」をも見ている。この操作を行なわないと、私は見ているものと知っている植物名を一致させることができないに違いない。だから、私がどうしてもひまわりを描かなければならないときには、実際に見えているひまわりだけではなく、観念の中にあるひまわりをも描く危険がある。おそらく私は、人々が持っているに違いない「ひまわり」の概念に、できるだけ合致するような何かを描こうとするだろう。
アランによれば、画家は自分の観念を排除して、あくまでも見えている外観に従って描く人々だというのである。つまり「何が見えているのか」ではなく、「どう見えているのか」だけに注意をしながらそれを描く、ということである。そしてその操作を経てカンヴァス上に還元された斑点、これを私たちがあらためて「花だ」とか「人物だ」とか認識するのである。だからアランに従えば画家はみな現象学者でなければならない。じじつ彼らは「描く」という操作に関して現象学者なのだと私は思う。
ところで私が知っている鈴木航伊知は、少なくとも彼の言説においては別に現象学者ではない。それどころか、彼は私たちと同じかあるいはそれ以上に、「神」「アメリカ人」「昔の人」などの、彼なりの固定概念を持っているように見える。私たちはこの固定概念をめぐってときおり楽しい議論をする。ところがその画家が、ひとたび「描く」という作業の中ではあくまで「見えているもの」に即して描くことに徹する。私は彼が、この作業を過剰なほどの誠実さと精密さで遂行していることに驚く。
彼は「自分が見たもの以外は描かない」と繰り返しいっている。私はその通りだと思う。ただ、描かれた要素を組み合わせるとき、彼は彼独自の観念の世界を恣意的に、大胆に操作する。そこで見る人によっては、彼の絵が現実離れのした、空想であり、要するに「観念」の産物であるように思うかもしれない。私は彼の絵はそのような誤解を生みやすい作品だとさえ思う。しかしながら、彼のリアリティは細部に始まり、細部において完結している。

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たとえば「丸い城壁塔の多い街」の絵を再度ごらんいただきたい。この絵の両側に水平線が見えている。この水平線の水位は左右が不一致だ。めがね橋の下に見える水面の方が、左に見えている水面よりも水位が低い。「海の水位は一定だ」というのは、主知主義的な「概念」にすぎない。彼はげんに見た通りに、忠実に水平線を描いた。その結果、左右の水位が違ってしまったのである。彼の「建物」や「街並み」の絵によく見られたパースペクティブの「ねじれ」に関しても、私はそれを彼のリアリティの追及の結果ではないかと思っているほどなのだ。
いずれにしても、この画家は「外観を描く」ということについて、異常なまでに細心で誠実であることを私は報告したい。この細心と緻密が、彼の「世界の再構築」という大胆さと、いきなり直結してしまうのである。これが、彼が自分の絵画でなした業績であり、彼が独自の世界を構築したゆえんである。
カンディンスキーは抽象的な形象と色彩で自分の世界を構築した。クレーは線描で彼の世界を構築した。そして鈴木航伊知は、現実の緻密な観察と事物の再現を彼のユートピアに直結させた。これが鈴木航伊知の語法であり、エクリチュールである。彼の作り出した世界は誰の模倣でもない。この独自性がヨーロッパの識者たちをうならせ、日本から唐突に、縁故もなくやってきた無名の、初老の画家の作品に数々の「賞」を与えることとなったのである。

 
 

10-3.美しい不条理
 多くの人々が語っているように、芸術家も時代の子だ。一般の人々がそうであるように、その時代の環境、その時代の課題から免れている芸術家はいない。ベン・シャーンは書いている。「もしもゴヤが現代に生を受け、グッゲンハイム家の恩顧を受け、その注文の作品を完成し、さらにはニューイングランド州のどこか小さな進歩的な大学の教師にでも収まり、あのスペインの暴動の苦しみをなめなかったら、どうなっていたか。われわれは、そうなれば、あの有名な『ロス・カプリチョス』の連作や、『戦争の悲惨』の連作をもちえなかったろうし、・・さらには『どこへいっても同じだ』という悲哀の叫びに全世界が動かされることもなかったであろう」。これはすべての人、すべての芸術家について言えることだと私は思う。
 私は鈴木航伊知という画家もまた、現代社会の中で、現代における諸利便と諸矛盾を呼吸し、あるときには現代を受け入れ、あるときには反発をしながら生きていることを知っている。この点では私たちと彼はなんら変わることはない。ところで私は、すでに彼が、画家としては異様に「筆の立つ」人物であることをレポートしておいた。このことは、彼が独自の批判精神と言語表現力を持っていることを意味する。要するに、彼は日ごろからよく見、よく読み、よく聞き、なお書くべきことがら、伝えるべきメッセージで満たされている論客であり、知識人なのである。その彼がひとたび画家として「描くべき世界」として選んだ世界、それが、私がこれまでレポートしてきた「鈴木航伊知の世界」である。つまりそこには、目覚めつつ時代を生きている一つの精神が描いた世界があると私はいいたい。では、その「世界」とはどのようなものであったか。
 それは現代を遠く離れた過去的な世界、ヨーロッパ中世を基点とする世界、若者や天使や鳥や植物が対等に存在し、建築物があたかも命あるもののように息づく世界であった。私はこれら鈴木航伊知によって描き出された世界は、彼の批判精神と異端性のたまものであり、「反世界」「反措定」「反現代」のメッセージであると受け取る。それは現代人である彼が、現代にわざと背を向けて描いた過去的な世界である。彼はヨーロッパをいくども旅したが、彼の目は「現代」を透かしながら、過去を見ていたのだ。
 鈴木航伊知の描く世界のメルヘン的な美しさや叙情性に着眼し、「これは、現代人にとって癒しの絵画だ」という人がいるかもしれない。げんに私はそう感じることもあるし、そう思う人がいて当然だとさえ思う。けれども、彼の作品は過去的なものへの単純な回帰ではないし、慰めに満ちたメルヘンや抒情の提示でもないと思う。それは「癒し」という程度のものではない。癒されるのは各人の勝手だが、鈴木航伊知は誰も癒そうとしているわけではない。それはある種の告発であり、明らかに反論なのだ。
kajitu この観点から再度彼の作品を見直してみよう。彼の絵がいずれも、理由のない、ある種の緊張感に満ちていることがわかる。現代が不条理に満たされているというならば、彼の世界もまたもっとはげしい不条理に満たされている。なるほど、彼の絵の主題はどれもがやさしく、幻想的で、美しい。だが同時に、彼の絵はどれもがひどくシリアスである。「おとぼけ」や「戯画」や「適当」に堕している作品は1点として見当たらない。もっとも平和的で、牧歌的で、あるいは静謐であるような作品においても、彼の絵はシリアスな不条理と緊張を内蔵していると私は考える。カンディンスキーは「芸術家には、責務を逃れて生きるような権利はない」といった。私は鈴木航伊知もまた彼の世界を描くべく責務を負わされているのであり、そこから逃れられないのだと考える。
anemone20年以上をかけて、彼は結局、描きたいものを好きなように書いたのだが、同時に彼は描くべく呪われてもいたのである。私の主張を裏付けるために、「果実の樹と青衣の少年」「紫のアネモネと鳩」「リンゴ売りのいる野」をお見せしたい。これらの作品に漂う理由のない緊張感を、もう一度確認してみていただきたい。
 アンドレ・マルローは「なんびともゴヤ以上に決然と、あえて不条理の方向に踏み出した人間はいない」「ここから現代絵画の幕が切って落とされた」と書いた。頼りない素人である私も、モダンアートの領域で、かつて行なわれ、今も行なわれている試みについて少しは知っている。人間と社会の不条理を表現するために、あえて破壊的であったり、悲痛であったり、醜悪であるような作品が作られたことは知っている。そうした作品も、芸術家の感受性を通して見られた時代の必然性を背負っているのだと私は思う。
ringo-uri けれども私は、鈴木航伊知の作品を見るときに、「不条理が破壊的で、醜悪でなければならないということはないのだ」と感じる。というのも私は彼が「美しい不条理」を描くことに成功していると思うからだ。それは私たちがすでに失ってしまったもの、失ってはいけなかったもの、本来的には、そこへ私たちが回帰すべきものをあくことなく歌っている。それは明らかに現状の拒否と拒絶である。だが、美しい拒絶である。
鈴木航伊知の作品は神秘と理想の詩篇であり、憧憬の詩篇であり、祈りの詩篇である。画家の友人であり、詩人であった半野史は、早くからこの画家の本質をとらえ、その世界を歎美した。彼は鈴木航伊知に「憧憬詩集」という作品群を献じている。以下はその中の一編である。

いつか夢見た風景の中に

いつか夢見た風景の中に
きみはいま佇んでいる
異国の街の石畳を果物売りが行く
サーカスの白馬がとおる
静かな街並みに手回しオルガンが流れる
時が止まる
死んだ時の中で風景が変わる
とりどりの色彩に咲く野の花
遠くには荒涼とした山々
時が凍る
いつか見た夕映えの中に
少年時代の陽射しを浴びて
きみのシルエットが浮かび上がる

 あるとき鈴木航伊知は、世界的にも名高い天文学者の小尾信彌先生をつかまえて、「宇宙に神はいると思いますか?」と執拗にたずね、先生を辟易させていたことがある。この一事でお分かりのように彼は宗教に異様に関心を持ち、自分以外の誰かが「神が存在すると思っているかどうか」についても強い関心を持っている。
私の知る限り鈴木航伊知はいまのところクリスチャンではないし、その他どの宗教の信者でもない。しかし彼ははなはだ宗教的で、神秘家であり、この意味ではつねにスコラ僧的である。彼と親しく、しかも真剣に議論しようとする人は、不可避的に、真剣に宗教の話題に引き込まれるだろう。彼にとっては神の問題はつねに緊急の課題なのだ。
hinotori ガブリエル・マルセルは「この世が問題にみちておりながら、他方、神秘に少しも場所をゆずるまいとする意志がこの世にみなぎっている」といっている。なるほど、私たちはいまさら「神秘」に市民権を与えることを潔しとしない。ところで、鈴木航伊知の作品はすべて宗教的であり、神秘的である。それはなにも「彼の絵の中に教会が描かれているから」とか「天使が描かれているから」というのではない。彼の絵画作品全体が「祈りの詩篇」であるという意味で宗教的なのだ。彼の表現する「不条理」は、「神秘性」「宗教性」というやわらかい感受性に包まれている。かくして、鈴木航伊知の絵画作品は私たちに「緊張」と「救い」という両義性を提示し続けるのだ。このような傾向が顕著な作品例として、私は「火の鳥とハープ弾き」「詩人」「天体の捧げもの」「祈り」などをあげておく。

 
 

10-4.各自の美術館
sijin 私のレポートも終わりに近づいた。アンドレ・マルローは「各人の空想美術館」の考え方を提唱し、こういった。「この美術館は伝統ではなく、一つの冒険だ。いかなる種類の序列にも依拠しない」。私はこの考えに悪乗りしていいたい。「私たちは誰しもが各自の美術館を持つべきだし、誰もがじつはすでに、各自の美術館を持っているのではないか」と。
 ひとつ楽しい空想をしてみていただきたい。あなたはいま無制限の資金を持つ大金持ちであるとする。仮定するまでもなく、あなたがすでに大金持ちなのだとしたら、なお結構なことだ。あなたはその潤沢な資金で、これから世界のどこからか、あなたにとって価値ある美術品、絵画を収集していただくものとする。そしてその収集品を展示するために、あなたの名、あるいはコレクションにちなんだ名を持つ美術館を創設していただく。むろん、この美術館は一般の人々に公開することが原則だ。
tentai この美術館のための作品蒐集に当たっては条件がある。あなたは美術評論家の力を借りたり、他人の助言を求めてはならない。あなたは自分の趣味、あなたの選球眼だけを頼りにしなければならない。この際、あなたは将来の値上がりのことなど心配しなくてよい。というのも、あなたは無制限の大金持ちなのだから、つまらぬ心配をする必要はないのだ。
 このゲームにおいては、あなたの「蒐集、買付け」に一切の障害はないものとする。だから、あなたの美術館に入ってみると、正面に「モナリザ」が飾られていたり、「ゲルニカ」が飾られているかもしれない。それはそれで結構なのだ。ただあなたとしては、せっかく世界の名画を集めたつもりなのに、「悪趣味だ」といって酷評されるかもしれない。その点だけは覚悟しておいてもらいたい。その代わりあなたは、たとえ無名ではあってもすぐれた芸術家を発掘して、その作品と価値を人々に知らせることになるかもしれない。
 そんなばかげた空想、あるいは仮定をして、何の意味があるのかとあなたはいうだろう。ただ、私は「空想美術館」という考え方からすれば、私たちはすでに一人ひとりが、すでにそうした美術館を所有しているのだといいたいのだ。 いま「空想」の文字を取り去って現実の、自分の身の回りを見てみれば、私たちは、意識的にせよ、無意識にせよ、各自の文化の領域を形成しており、最少限度の、私たちなりの、現実の美術館を所有していることが明らかなのだ。もしかしたら、あなたの部屋には絵画作品が1枚もないかもしれない。だとすれば、あなたは別の方法であなたの文化空間を作っているに違いない。あなたが無意識においた置物、花瓶、写真・・要するに何でもいいが、それがあなたの美術館における収集品なのだ。
 同じことで、あなたの本棚はあなたの専用図書館ではないのか? あなたのCDコレクションは、あなたの音楽文化における趣味を反映した収集品なのではないのか? そして、あなたの図書館の蔵書がいかに知的に貧困であろうと、それは誰か他の人の問題ではない。私たちはいつもいいわけとして「私は大金持ちじゃない」という。だから、本当にいいもの、欲しいものを自分の身辺に置けないのだなどという。
 けれども、無制限の金持ちだからといって、いったい何ができるのか? 金で自分自身の知性や文化を購うことができるのか? 私は「ヘンリ・ライクロフトの私記」の一節を思い出す。彼は「人は、お金では尊いものは買えないという。そういう決まり文句こそ、貧乏を経験したことのない何よりもの証拠なのだ」。ただ極貧のライクロフトも、ホメロスとシェークスピアからなる数冊だけは持っていた。彼は苦労に苦労を重ね、これにギボンの「ローマ帝国興亡史」を付け加えたのだった。私の基準では、こうした図書館こそが真に立派な図書館である。
さて、私はここまで「鈴木航伊知の世界」というタイトルで、画家・鈴木航伊知の「世界」をご紹介してきた。私たちはご一緒に鈴木航伊知の、豊かな精神世界を旅してきた。そしていまは、自分自身の世界について静かに考えてみるときである。もちろん私たちは画家ではないから、自分自身の世界を視覚的に表現することはできない。やむなく私たちは各自「空想美術館」のオーナーになろうとするのである。
 だがこのような考えの道筋をたどってみると、私たちごく普通の、芸術家ではない人間にとっては、私たちの身辺にある美術作品、図書、音楽環境、これらは「私、またはあなたの世界」「私、またはあなたの文化世界」の表象であり、顕現ではないかという思いにたどり着く。もちろん私たちが用いる言葉、持ちまわる価値観、これも「私、またはあなたの世界」の表象であることは間違いない。
 そしてたとえどのような規模、内容のものであろうとも、げんにあなたの直近にある美術館、あるいは図書館は、「あなたの世界」のあかしではないのだろうか? 私たち大金持ちでない人間にとっては、むしろ「金をかけずに」、各人にとって真に価値のある、あるいは趣味のいい、すぐれた収集品を所有していることが、自慢になるのではないのか? そのときこそ、没趣味な、あるいは悪趣味な大金持ちに対して、私たちが優越するときではないのか?
inori さて、私はここに「鈴木航伊知美術館」を持っている。この美術館の収蔵品は幾枚かの原画と、378枚の写真版、すなわち複製である。私にはこの複製でも十分である。私はいまやこの美術館の「館長さん」だ。笑いたければ笑いたまえ。ただ、私は自分のコレクションの文化的価値を確信し、これらを大変自慢に思っているのである。私の世界は、鈴木航伊知の世界を内包する世界だ。もとより、彼の世界は私の秩序には従わない。だがこの世界を渉猟することは、私にとって日々あらたな発見であり、冒険だ。この世界は私の世界をどこまでも拡大する。
 私はこの世界がまだ完結したものではないことを知っている。私はこれが日々作られつつある世界、さらに私の予想を超えて発展する世界であることを知っている。だが彼の今後の作品も、いずれは、すべて「私の美術館」に収まるだろう。大いなる期待をこめて、私は鈴木航伊知の世界の未来を待つ。(了)

 
   
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