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鈴木航伊知の世界
 
第3章 人物たち

3−1.性別不詳の人物たち
ここで私は鈴木航伊知の絵に登場する人物たちについて語らなくてはならない。その理由は二つある。一つは彼の絵には沢山の人物が登場しており、人物ないしは、人物と思われる者――私はここで背中に翼を持つ「天使」のことをいっているのだが、天使については後の章でもう少し詳しく述べることにする――がまったく見られない絵はきわめて少ないからだ。
なお彼はときおり人形を描く。中には明らかに人形と分かるものもあるが、中には生きている人物なのか人形なのか判断がつきにくい作品もあるので、私は人形も「人物」として数えることにする。ただし、馬、羊、小鳥などの動物は別にする。すると彼の全作品378点のうち何らかの形で「人物または人物らしきものが描かれている作品」は、合計314点に達する。これは全作品の83%強に相当する。これに対して「人物なしで、何らかの動物が描かれている作品」は28点(7.4%)、「人物も動物も登場しない作品」は36点(9.5%)となる。
「人物もしくは人物に近いキャラクターが描かれている作品」とはいっても、その取り扱いは絵によって大きく異なる。ほとんど背景なしに、画面いっぱいに人物の肖像が描かれたものもあれば、画面のどこに人物がいるのか、ちょっと見ただけではわからないような作品もある。注意深く観察すると人物がいることが分かるのである。私は画面のどこかにほんのちょっとでも人物が描かれている作品を「人物あり」とカウントした。
 もう一つ、私が彼の描く人物について語らなければならない理由、それは彼らの存在が気になって仕方がないからだ。すでにお気づきのように、彼の絵に登場する人物は少年、少女、それに若者が多い。年配の人物が登場するケースもないわけではないが、数点は少ない。それも通行人のような、いうなれば端役である。彼が描く人物は原則としてみな年齢的に若く、美しい。


hatakazariまず「旗飾りのある広場とヴァイオリン弾き」という作品を見ていただこう。ここにも音楽があることが明らかだが、音楽についてはすでに触れたので、ここでは主として人物そのものに着眼する。この絵は、どこかの街の広場を描いている。路面は一色で平面的に塗りつぶされているが、家々が画面の両脇に並んでいることから、町の広場であることが分かる。奇妙なのは、その広場の向こう側に中州のようになった建物の一角が見えていることだ。この一角には塔が立っている。何らかの公共的な建築物だろうと想像する。もしかしたら、常設の市場かも知れない。
左手に小さな回転木馬が設置されていて、これに一人の人物が飛び乗ろうとしているところだ。あるいは木馬から降りるところなのかもしれない。なるほど、題名にもあるように、両側の家並みに沿って旗飾りが見える。特別な催しや祭りでもあるのだろうか。海外の事情に詳しい人の話によると、可動式の回転木馬があるそうだ。これもそうした設備で、祭りのために一時的に設置されているのかもしれない。
 このような画面を背景に、一人のごく若い人物が小首をかしげながらヴァイオリンを弾いている。手つきからすると、かなり高いポジションをおさえているらしい。服装はモーツアルトの時代を思わせるような、体にぴったりした胴衣をつけており、襟と袖からはわずかにフリルがのぞいている。とても愛らしい。では、この人物は「少年」なのだろうか「少女」なのだろうか。結論として、私は「少年」だと思う。だがこの絵を見て、男女どちらか迷ってしまうのはどうしてだろうか。
 おそらくそれはこの人物の髪の形、大きな目、口、頬からあごにかけての柔らかな線によるものだろう。このような特長によって男女が判然としない人物はほかにも沢山描かれている。

たとえば、「辻音楽師の家族」という絵では子供を含めて四人の人物が描かれている。題名に「家族」とあるくらいだから、このうちの誰かは男性のはずであるが、どれがその男性なのか判然としない。この絵の場合には、彼らの職業衣装が判別をいっそう困難にしている。tujionngakusi

次に「刺繍のチョッキの羊飼い)」をごらんいただきたい。ここでは一人の羊飼いが羊を連れて歩いている。彼が持つ杖の先端には小鳥が乗っている。この小鳥がリアルに作られた飾り物なのか、生きている小鳥なのか、それは分からない。この羊飼いもおそらくは男性なのだろうが、女性だといわれてもおかしくない。彼または彼女は、羊を追っているには違いないのだが、どこか遠くを見つめているようであり、「心ここにあらず」といった様子である。いずれにしても、彼または彼女の関心がいま、自分の「羊」の上にないことはたしかなようだ。このように、鈴木航伊知の絵には、一見しただけでは性別が判然としない若者が描かれていることが多く、これが彼の作品の謎をいっそう深めている。sishu


「手回しオルガンの流れる街の眺め」と題する作品では、一人の人物がテラスのようなところに立って、町を眺めている。このテラスは谷をはさんでこちら側の高台にあるらしく、この人物と私たちが見る町は、崖の斜面に競り合うように建てられた建物、という形で示されている。この絵には謎が多い。まず向こう側の斜面に建てられている建物がどれも異様な形態をしており、とくに屋根部分が奇妙である。テラスの手すり部分には三羽の小鳥がいるが、これも不思議といえば不思議だtemawasi


題名に「手回しオルガン」とあるので、どこにそのオルガンがあるのか探してみるが見つからない。どうやら、この場面にオルガンの音だけが流れているらしい。半ば後ろ向きになったこの人物は強い色彩コントラストを持つワンピースを着て、肩ベルトのついたかばんをかけている。はじめこれが手回しオルガンなのかな、と思うが、よく見るとこのかばんには草花が入っているし、この人物が楽器を演奏している様子もない。
では、皆さんにおたずねする。この人物は男性だろうか、それとも女性だろうか。男性ではないかと思うが、「いや女性ですよ」といわれても、「そうか」と思ってしまう。ここには推察を助けるようなヒントが何も与えられていないのである。
「男だって女だっていいではないか」という声も聞こえるような気がする。私はそうは思わない。というのも、私たちは男性ないしは女性として生まれてくるからだ。こういうとまた声が聞こえるような気がする。「ボーヴォワールは『人間は女に生まれない。女になるのだ』といっているではないか」。もちろん私も、いまさら大ボーヴォワールに反対する気はない。ただ、私は人間が「誕生」し、「人が人となる」にも長い年月を必要すると考えているだけである。
先日もテレビで心理学者たちの実験を見た。彼らは幼児に「口紅」と「ひげ剃り」という二種類のおもちゃを与え、さらに男性型の人形と女性型の人形を準備した。すると1歳6ヵ月の幼児が、口紅を女性の人形に、ひげ剃りを男性の人形にあてがうのが観察された。幼児たちはもうこの段階で人間の性別をはっきり判別しているのだという。もし彼らのいい分が正しいのだとすれば、人間は「世界の認識」と「男女の認識」をほぼ同時期に開始していることになる。
私の考えでは、私たちが人間であるということは、自覚的に男あるいは女のいずれかであることと切り離すことができない。中間というものはありえないし、まず「人間」というものがあって、それがたまたま便宜上「男」と「女」に区分されるのではない。だからこそ、私たちはわずかなしるしで自分以外の人間が「男」であるか「女」であるかを判別できる。またその判別がつかないと、どうも落ち着かないのである。
さて、鈴木航伊知の絵の中の「性別不詳」の人物に戻ろう。私は、画家がわざと性別のわかりにくい人物を登場させているのだと思う。この性的中間点に、画家が考える人物の、ある種の人間の「範形」が存在するにちがいないのだ。これらの性別不詳の人物は、画家から私たちに対して投げかけられた謎であると同時に、画家の主張する「美」の要素の一因をなしていると考えるのが順当ではあるまいか。

 

3−2.男と女
では画家は彼の絵の登場人物のすべてを、故意に性別不祥の人間として描こうとしているのであろうか。そうではないことは明らかだ。彼の「性別不祥の人物」を理解するためには、他方で、画家が男女をたくみに、しかも最小限の筆づかいで描き分けているという事実を前提にしなければならないと私は思う。


shokutaku「食卓の少年」という絵をごらんいただきたい。この絵の場合、作品名に「少年」と入っているし、見るからに男性的な顔立ちをした少年が、こちら向きに坐ってナイフとフォークを執っている。この少年の手は長い袖口からわずかにのぞいているだけだが、骨太でがっしりしている。髪の毛や顔つきは別としても、この手を見ただけで、これが男性であることははっきり分かる。
鈴木航伊知は、どういうわけか食卓に向かう人物の絵を何点か描いている。これもそうした絵の一つだ。私はこの絵を見るとアランの次の言葉を思い出す。「行儀よく食べることは大きな試練の一つである」。アランによれば、食事をすることはものを噛み砕き破壊する行為であり、他の生物を破壊し、咀嚼することである。だからこそ威儀を正し、自分自身を制御しつつ食べなければならないというのである。
この食卓の少年はたった一人で食事をしている。テーブルの大きさからして、彼にとってはこれが「日常」であることがわかる。しかし彼はいずまいを正し、自分自身の力を統御して食卓に向かっている。画家にとってもそれが「美しい」と思われるからこそこの絵が生まれたのだ。食卓の上のものも質素ではあるかもしれないが、けっして不十分ではない。この絵はなにぶん静物的な感じを与えるが、止まり木の九官鳥(あるいは烏)は、片足を上げており、ここに微妙な動きがある。この九官鳥は、いま何かを少年に語りかけているようである。この作品でおわかりのように、画家は明らかに男性を描いている。

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これに対して「紅葉の湖とフルート吹き)」をごらんいただく。この絵では、赤い洋服を着た人物がこちらを向いてフルートを吹いている。この人物は、湖のこちらの岸に立っているらしく、対岸の木々が美しく紅葉しているのが見える。木の間に白塗りのベンチらしいものも見える。この絵は鈴木航伊知の作品としては珍しく謎の少ない絵である。要するに、「きれいな景色の前で、きれいな音楽を演奏しているきれいな人」ということで理解できる。
私はこの「フルート吹き」を女性だと思う。人によっては「絵のタイトルに『少女』とあるわけではないから、この人物もたまたま髪の長い少年なのではないか」というかもしれない。しかしながら、この演奏家の手を見ていただきたい。この手は男性の手ではなく明らかに女性の手だ。ごらんのように画家は、いま示した二つの作品では「手」によってきちんと「性」の違いを描き分けているのである。


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次に、対照的に描かれた男女の絵を見てみよう。「白い服の少年と少女」という絵では、男女二人の人物が同一画面上に登場する。この二人がどこにいるのか分からないが、急峻な崖のふもと、あるいはその山の中間点にいるらしいことが分かる。その崖の頂上には、白っぽい館が建っている。さて、描かれている二人であるが、二人ともよく似ているから、血続きであるにちがいない。一見して右手の人物が「少女」であり、左手が「少年」であることがわかる。どうしてそう分かるのだろうか。
最初に目につくのは、右手の人物の首飾りである。これに対して左手の人物は詰襟の服を着ている。右手の人物はやや面長で、ほほからあごにかけての線がほっそりしている。これに対して左手の人物はもっと丸みを帯びており、その丸みのぶんだけ頤がしっかりしている。右手の人物の髪の毛は左手の人物のそれよりも大きくカールしている。右手の人物の目じりは左手の人物よりもわずかに下がっており、やさしい感じがする。唇の形もわずかに違う。
よく見ていると、この二人のどちらが年上かも分かってくるから不思議だ。つまり右手の人物にはすでに「大人」らしい雰囲気があるのに対して、左手の人物には未熟さが残っている。この絵においては、姉のほうが主体性を持っており、弟は姉の動きに追随しようとしている。
この二人の簡素ながら上品なたたずまいから、この二人が苦労を知らない、いやしからざる家系の姉弟にちがいないという見当がつく。画家は、崖の下に配した二人の上半身を描くだけで、これだけの情報を私たちに提供しているのである。私はなにをいいたいのか。それは、この画家が人物に関してごく小さな「しるし」だけを描くことによって、はっきりと男女の違いを描き分けているだけではなく、その人物の性格や、背景となる文化までも伝えているということである。

 
 

3−3.兄と妹のゆくえ
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次に二点でセットになっているはずの男女の肖像画をごらんいただく。一つは「レース飾りの襟の少年」、もう一つは「花で編んだ帽子をかぶる少女」である。この二つの作品はそれぞれ独立したタブローであるが、コンセプトはきわめて共通している。おそらく同時期に、連続的に制作したものと思われる。鈴木航伊知はこの20年間、いわゆる「肖像画」をこの二枚をのぞいてほかにまったく描いていない。したがってこの二枚の肖像画は、彼の作品としてはきわめて珍しいものである。
二つの絵はともに人物の顔と上半身の一部だけを描いている。「少年」のほうは、やや左を向いており、少女のほうはやや「右」を向いている。どうやらこの二人も兄弟のようで、顔立ちがよく似ている。眼が異様に大きく、口が異様に小さい。そして眉から鼻梁にかけて、幾何学的な円弧を描いている。鼻筋も共通して細い。二人は襟元まである、黒っぽい衣装を着けている。奇妙なことにこの二人の背中には何か白っぽいものが見えている。これは「翼」である。この二人は、題名の上では「少年」「少女」となっているが、じつは翼を持つ天使なのである。

「天使」についてはのちの章で触れるので、ここではあくまで男性、女性という観点から二人を見ることにする。この二人の性別を暗示する要素は髪型、唇の色、首飾りの有無、髪飾りの有無だけである。それもごく控えめに描き分けられているだけである。にもかかわらず私たちはこの二人の性別を見間違えることはありえない。
ナンシーは「肖像の眼差し」という著書の中で、「肖像は『礼儀正しい市民である』状態のことである。つまり、絵画は、肖像の礼儀もしくは社会性を巻き込んでいる」といっている。また彼は、「肖像が芸術上の尊厳を得るのは、その肖像が伝統的な表現で言うところの『魂』の肖像や内面の肖像となる場合に限られる」ともいっている。hana-shojo鈴木航伊知としてはごく珍しい例であるこの二枚の肖像画は、ナンシーが指摘する意味での「礼儀正しい市民」としての伝統的な特徴を備えている。二人はいうなれば「正装し」「威儀を正して」画筆の前にいる。ただ私たちには、この翼を持つ二人の兄弟がどこの国の市民なのか、それを知ることはできない。にもかかわらず、私たちは彼らの性別をきちんと認識できるし、なおかつ彼らの精神的特長までも知ることができるような気がする。
すなわち「少年」のほうは誠実であり、真実を見通す容赦のない眼を持っている。これに対して「少女」は優雅である。しかし彼女も兄と同じく、物事をゆるがせにしない確固たる魂の持ち主であることが分かる。
この二人の「少年」と「少女」を、前にご紹介した「白い服の少年と少女」と比較すると、二人の表情の違いにお気づきだろうし、画家の筆致が変化していることにお気づきだろう。あとの「少年」と「少女」は、「白い服の少年と少女」のおよそ10年後に描かれている。「白い服の少年と少女」では二人の人物の幼さと甘さが、――そこからくる美しさが表現されているが、あとの二人の場合には、明確な性格、――そこからくるまた別種の美しさが、表現されていると私は思う。私はこれらの絵がとても好きだ。
これはまったく余計なお世話なのだが、「レース飾りの襟の少年」と「花で編んだ帽子をかぶる少女」の二作品を所有している人は誰だろうと想像する。もしも同一の人がこの二点を所有しているなら、兄妹、あるいは姉弟はいまでも同じ屋根の下にいることになる。もし別な人がそれぞれに所有しているなら、この二人は別々の生をたどっていることになる。画家によって産み落とされた二人の人物はそれぞれの運命を担って、生命を保ち続けていることになるのである。
こう考えてくると、「絵画」あるいは「美術」という芸術作品は、じつに不思議な性格を持っているのではあるまいか。すぐれた絵画は、人類の公共の資産かもしれない。しかし、それは書物や音楽の場合と違って、特定の誰かに帰属し、特定の場所にあり、原則として共有化されない。それは描かれたことがらとは別個の、「物」「媒体」としての運命をたどる。所有者は描かれたことがらを所有し、同時にタブローを所有する。かくしてあの兄妹は、どこかに、見えない糸に結ばれながら、格納され、あるいは飾られているのである。

 
 

3−4.カップル
 鈴木航伊知が、男女の違いをきわめてわずかな特徴の描き分けによって表現していることについては、とくに「姉弟」あるいは「兄妹」の絵の例によって示されたと思う。ここで今度は夫婦、恋人など、いわゆる「性的カップル」を描いた絵について観察してみよう。彼にはカップルを描いた作品が数多い。

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 まずごらんいただくのは「青い馬に乗って空を飛ぶ二人」という作品だ。この作品では青い一頭の馬が背に男女のペアを乗せて空を飛んでいる。私は「男女」といったが、この場合二人の性を確認させる要素は髪と衣服、それに二人の位置関係である。前のほうの人物は、馬の首につかまり、後ろのほうの人物は前の人の腰ベルトにすがっている。よく見ると前の方に乗っている人物は帽子をかぶり、頬のまわりにひげのようなものがある。ひげだとすれば、性別はいっそうはっきりする。
 それにしてもこの馬はずいぶん胴長な、奇妙な馬ではないか。この馬の前脚は空気を掻いて進んでいるように見えるが、後脚は後方に投げ出されている。これはどう見ても推進に役立っている脚の格好ではない。それともバタ足でもやっているのだろうか。いや、そうは見えない。脚といえば、馬の足もこの二人の足も、ぬいぐるみの人形のような脚をしている。
馬はいましもアラビア風の城の上をすぎて、湖の上空にかかっているところである。二人の頭上には太陽が照りつけている。この二人はどこから来て、どこに行くのだろうか。誰しも想像するにちがいないのだが、この二人は馬に乗って逃避行をおこなっているらしい。アラビア風の城の傾きが二人の「逃走」の感じを助長している。二人はあの城の王子と、禁じられた恋の相手でもあろうか。
この二人が恋人であるとすれば、男女の性差、あるいは性徴は人物の上に明確に反映しているはずだと私は考える。ところが、この絵で性差を作り出しているのは帽子、衣服、人物の位置関係だけであって、せっかくの王子のひげも、彼が男性であることを強調するのに役立っているとはいえない。例の「人形脚」が、二人の性差をことさら隠すための材料になっていることにご注意いただきたい。男女の違いは、露出している脚部分の比率だけに依拠している。

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カップルの性差に関して、この画家の意図がもっと明確にわかる例をあげてみよう。「白いヴェールの娘への求愛」と題する絵では、ヴェールをまとった裸の女性ともう一人の人物が描かれている。この裸の女性が、女性であることははっきりしている。だが、左側に立っている人物は男性であろうか、それとも女性であろうか。もちろん、女性が女性に求愛しても私としては一向に差し支えない。しかし私の「物語」の中では、この人物は男性であるほうが理解しやすい。しかし「これは女性ですよ」といわれると「そうかな」と思うほどだ。
本来男性であるほうが理解しやすいこの「求愛者」が、どうして女性に見えるのだろうか。それはこの人物の女性的な顔立ちと服装のせいだ。帽子もひどく装飾的だし、左肩のところから垂れ下がったリボンも女性的な印象を与える。腕や手などもほっそりしている。しかし、胸の線は強調されていない。要するにこのカップルの絵において、一方は明らかに女性なのに、他方はいつの間にか「性別不詳」の人物に立ち戻っているということになる。

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「アダムとイヴの果実」という絵をごらんいただきたい。これはまぎれようもない男女のカップルである。なにしろ二人とも裸で立っているのだから。二人の目の前に赤いテーブルクロスをかけた台があり、その上に果物が一個乗っている。もっともこの果物はりんごというよりはオレンジ色をした西洋梨という感じがする。
エデンの園は満月の夜らしい。いま、ルシフェルの蛇はイヴのほうからアダムのほうへ静かに移動中である。この蛇の動きに平行して水色の帯が蛇行して画面を横切っている。これがなにを意味するのか分からないが、とりあえず「小川」ということにしておく。この流れはアダムの背後にある岩山の中腹から湧出し、流れ出ているように見えなくもない。
イヴの後ろ側に一本のひょろひょろした、情けない木が見えている。この木の先端部分には葉っぱと木の実らしきものがついている。デーブルの上の果実は、おそらくこの木から取られたのではないだろうか。イヴはテーブルの上の木の実を指して、アダムに「あなた、召し上がったら」といっているように見える。これに対してアダムは「いや、きみこそ先に食べるべきだ」といっているように見える。あるいはイヴが「わたし、先に食べていいかしら」といい、アダムが「どうぞ、どうぞ」といっているのかも知れない。いずれにしても、アダムのほうがイヴに順番を譲っていることは間違いない。「創世記」の物語にテーブルと赤いテーブルかけが出現しているのは大きな謎だが、いまはこの謎に立ち入らないことにする。
さて、わたしが読者に注意していただきたいのは、この二人の性差である。私の見る限り、二人の生理的、肉体的な特徴は極限まで手控えられている。そうかといって、いまやまったく衣服を着けていない彼らから性徴を取り去ってしまったら、二人が男女のカップルであることは分からなくなってしまうだろう。そこで結果的に、この二人は奇妙にも細長い体型で、どことなく機械的に描かれているのである。
要するに鈴木航伊知という画家は、男と女を、その身体的生理的特長によっては描きたくないのである。この画家は男女の違いを、わずかなほほの線や、髪型や生理的特長以外の付帯的要素によって自由自在に描き出すことができる。その彼は、わざとこれらの要素をコントロールし、あるいは混乱させることによって「性別不詳」の人物を作り出しているのである。
もちろんあるときには、彼は男女の差を二人並べて明確に表現する。しかし明確に表現する場合、男女の差は密接に、極限まで近づけられる。それはすでに私たちが「姉弟」あるいは「兄妹」の絵によって確認した通りである。視覚的条件が極限まで近づけられることによって、逆説的に差異が浮かび上がるように工夫されているのである。
この「アダムとイヴの果実」の実例によって、この画家の、男女を生理的性徴によって描くことに対する抵抗感、忌避傾向ははっきりしたと思う。では、そのことが何を意味するのか、いまのところ私には分からない。いずれにしても彼の「男女をあからさまに描くことに対する抵抗感」が、人物の「美の範形」に関係していることはたしかなのだ。彼の人物たちの美によりよく近づくために、私たちはここでもう少し、回り道をしなければならない。

 
   
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