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鈴木航伊知の世界
 
第5章 天使

5-1.最初の天使
さて、ここで私は「天使」のことについて話さなければならない。というのも、彼の絵と「天使」という題材はどうしても切り離すことができないからだ。第2章でご紹介したが、彼が現在の画法を確立してからの制作時期を実質的に4期に分けることができる。それは手元にある写真記録(アルバム)と合わせると以下のようになる。なおここに記す点数は、そのアルバムに含まれている絵画の点数である。
1.1983年〜1991年。アルバム1=105点
2.1991年〜1994年。アルバム2=43点。アルバム3=33点。
3.1995年〜2000年。アルバム4=99点
4.2000年以降。アルバム5=55点。アルバム6=44点。
 彼の作品の中に「最初の天使」の姿が出現するのは、上記「1.1983年〜1991年、アルバム1」の中である。ただし、この時期に描かれた天使の絵はわずか2点にとどまっている。これに対して「2.1991年〜1994年」とくに「アルバム2」の時期になると、彼は猛然と天使を描き始める。この時期に彼が制作した43点の作品のうち23点の作品に、背中に翼を持つ天使が登場する。翼のない、普通の人間が描かれている作品はわずか9点に過ぎない。したがって、ノーマル人間と天使との割合は9:23となる。ところがアルバム3(1993〜1994年)の33点に関しては、天使があらわれる作品は1点もない。したがって、ノーマルな人間と天使との比は22:0である。
 「3.1995年〜2000年」、すなわち「アルバム4」において、彼は合計99点を制作しているが、その中に天使が登場する絵は23点ある。ノーマル人間と天使の比は56:23である。続いて「4.2000年以降」の「アルバム5」では55点中11点、天使比は、36:11である。「アルバム6」では、44点中13点に天使が登場し、ノーマル人間との比は26:13となる。上のような制作時期と天使の登場、そしてノーマル人間の比率の動きを順を追って整理すると次のようになる。
1.最初画家は天使を描くことをあまり意識しなかった。天使という存在は、まだ彼にとって主要な題材ではなかった。
2.ある作品を契機として天使の存在が気に入り、集中的にこれを描いた。その比率は描かれる人物の7割にも達した。
3.思うところあって天使の制作を一休みした。
4.しかしまた天使を描きたくなり、描く人物の3分の1程度を天使にした。
5.天使の比率を4分の1程度にした。
6.直近期において、彼の絵の人物の3人に1人が天使である。

 最初のアルバムにあらわれる天使の絵は2点である。それは「一輪車に乗る天使のいる広場」と「教会堂で響くオルガンと天使たち」という二つの作品だ。整理番号でいうと、「一輪車」のほうが79番であり、「教会堂」のほうが94番である。したがって番号の上では一輪車のほうが先に制作されたことになる。
ichirinsha-2 私はじつのところ、実際の制作日時は「教会堂」のほうが先ではないかと思っている。私はこの点を確かめるために、画家本人に聞いてみた。だが本人はもう忘れてしまっていた。彼によると整理番号は、かならずしも制作の日付順をあらわすわけではないという。そこで私は勝手に「教会堂」のほうが先に描かれた作品、すなわち「最初の天使」だという結論を下すことにした。その理由をこれからご説明する。

「教会堂で響くオルガンと天使たち」は、おそらく1986、7年ごろに制作されたものである。私の記憶に間違いがなければ、画家はフォーレの「小ミサ曲」に触発されてこの絵を描いたのである。ご存知のように、フォーレの「小ミサ曲」は、まことに天来のものと思われる美しい合唱の旋律と、オルガンによって作り出される高雅で意外性にとんだ和音の連続によって、私たちの心をとらえて離さない。音楽に対して並々ならぬ感受性を持つこの画家は、この音楽によって受けたイメージを表現するには「どうしても天使が必要だ」と感じたのだと思う。
 ゴシック風の長大な身廊を持つ教会堂が描かれている。この教会堂の左側にオルガンが取りつけてある。よくは見えないのだがここに演奏家がいるらしい。ここは壁ではなく側廊との間の柱のはずなので、オルガンを取り付けるのは難しいと思うのだが、何らかの方法で強引にオルガンが設置されている。画面右手下に有翼の天使が飛んでいる。この教会堂はあまりにも巨大なので正面は向こうにかすんでいる。

kyokaido正面の窓からは神々しい光がさし込んでいる。よく見ると空間のあちこち、とくに天井近くのほうに天使の仲間がおり、まるで羽虫のように飛んでいる。床に並べられた三列の帯は、きっと説教台に向かっての会衆用の椅子だ。また天井部分に見られるアーチは、交差ヴォールトのリブを表現しているものと思われる。どのような材質で作られているのかは分からない。
 いちばん近くの、こちら向きに飛んでいる天使を観察してみよう。この天使は金髪、裸足のごく若い女性に見える。胸のところで手を合わせており、祈っているような、歌っているような感じである。注意していただきたいのはこの天使の翼だ。これは明らかに翼なのではあるが、鳥の翼のようではない。翼の付根に近い部分はいくぶん鳥のもののように見えるが、翼の先端部分は外側にややカーブしており、鳥の翼には似ていない。どちらかといえば昆虫的だ。どうやら、この翼や衣装の材質はガラスのような、やや透明な感じのする材質のようだ。そういえば柱やアーチなども、同じようにガラス的な素材であるように思われる。この絵には聖性と安らぎがあり、とても美しい。

 


5-2.天使とは何か

 ところで、天使とはどのような存在なのだろうか。「聖書辞典」によると、「旧約において、天使はマルアーク(「御使い」と訳される)と呼ばれ、神の使者の働きをする超自然的な存在である。天使は神の意志を告知し、裁きを下し、救いを与える。賛美の詩篇では天使たちは、ヤーウェを賛美する天の軍勢である」とある。ちなみに、旧約聖書の中に天使が出現する最初の場面は「創世記19−1」である。「二人の御使いが夕方ソドムに着いたとき、ロトはソドムの門のところに立っていた。ロトは彼らを見ると、立ち上がって迎え、地にひれ伏して言った」とある。
この御使いはロトに、間近に迫ったソドムの町の滅亡を知らせ、いちはやく逃げるように指示するのであるが、この節の文脈ではいつの間にか「主」と入れ替わるように記述されている。いささか曖昧な存在である。
 たとえば、旧約「サムエル記下24」では、ダビデが「主」の誘惑に引っかかって人口調査をするという話が出てくる。そこで人口調査をすると「主」は一転してダビデを叱り罰を与える。ここでの「主」のやり口は汚い。罰は三つのオプションからなっていて、ダビデは「疫病」というオプションを選ぶ。すると疫病が発生し、7万人の人々が死んだ。このとき、さらに「御使い」というものがエルサレムの上に手を伸ばして、これを滅ぼそうとした。すると「主」が「御使い」に、「もう十分だ、その手を下ろせ」という。そこで御使いは手を下ろしてエルサレムは滅亡を免れた、というのである。
 これで見ると、天使=御使いは、どうやら「主」の代弁者であり、代行者であり、神通力を持ち、主の命令によって動く神のアシスタントである。天使にはいろいろな名前がある。天使のリーダー格に当たるのはミカエルである。幹部クラスの天使として、ガブリエル、セラフィム、ケルビムなどの名がある。このうち旧約聖書で翼を持っていることが明らかなのは、私が知った範囲ではセラフィムとケルビムである。しかし彼らの翼は、いま私たちが抱くような、「背中に一対の翼を持つ人の姿」からはほど遠い。
 イザヤ書には、「上のほうにはセラフィムがいて、それぞれ六つの翼を持ち、二つを持って顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていた」とある。これによると6つの翼のうち4つまでは、コスチュームの役割を果たし、残り2つが飛行に用いられていたことになるらしい。私は、この説明からは、天使の姿をまったく想像できなかったのだが、つい最近、「サン・ドニの典礼書<キリストの尊厳>」と題する図版写真を見る機会があった。

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この図版によると、一対の翼が畳まれた状態で天使の全身を覆っている。足の先がちょっと見えている程度だ。もう一対の翼は両肩からでていて体に平行に両脇に配置されている。もう一対の翼は、背中からでいて頭の上に突合せるように広げられている。顔は隠されていない。なお、顔は男性の顔である。頭の上の一対の翼は、その形からして後光のような格好になっている。これがセラフィムにちがいないのだが、私にはかなり不気味なものに見える。
 これに対してケルビムのイメージはいっそう奇怪である。エゼキエル書には「彼らは人間のようなものであった。それぞれが四つの顔を持ち、四つの翼を持っていた。脚はまっすぐで、足の裏は子牛の足の裏に似ており、磨いた青銅が輝くように光を放っていた。また、翼の下には四つの方向に人間の手があった。・・」という詳しい説明がある。これについては、まだ絵を見たことがないので、イメージを思い描けない。
 「聖書辞典」には、ソロモンの神殿に置かれていた「掟の箱」の図版が示されており、そこには二人のケルビムの像がある。その図版を見る限り、二人の天使は背中にそれぞれ一対の翼を持った人物として描かれている。ここにはエゼキエル書にあるような怪物的なイメージはない。いずれにしても天使は神の代理人として活動し、瞬時に空中を移動する必要があった。そこで翼が必要だと考えられたにちがいない。
人間を含む地上の生き物に翼をつけるという発想はギリシャ神話でもおなじみである。壷絵やレリーフに描かれているセイレンやハルピュアイなどは有翼の人間である。何よりも背中にみごとな翼を持つ、「ニケ」の像がある。そこで「シンボルの遺産」の著者フリッツ・ザクスルは、天使とキリスト教との関係について「天使の新しいイメージ(背中に一対の翼を持つ人の姿)が現れたのが五世紀前半であることがわかる」といっている。彼は、次のようにも書いている。「翼のある天の人というイメージは、西欧文明になってから作られたものである。ギリシャ、ローマはこれを練り上げてきたが、キリスト教以後はじめの四世紀には、それを選び取る理由は何もなかった」。
 天使の翼についてはこの程度でいいことにして、「天使」の性別は本来男なのだろうか、それとも女なのだろうか。イスラエルの学者に尋ねたところ、ヘブライ語では天使の「文法上の性」は男性なのだそうだ。しかし新旧約聖書にあらわれる天使の性別は、どちらとも明らかにされていない。ただミカエル、ガブリエルなどのイメージはどちらかといえば男である。アメリカの説教師ビリー・グラハムは、その著書「天使」の中で、天子は子供を作る必要がないのだから、性はないといっている。

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では古典的絵画に現れる天使はどうか。ちなみに、ラファエロの「聖ミカエル」「ミカエルと竜」などにおける天使は男性とみてほぼ間違いあるまい。ところが、フラ・アンジェリコの「聖母戴冠」で、聖母の周りに集まっているオーケストラメンバーの多く――彼らの背中には天使の羽が見えているが――は、おそらく女性ではないかと思われる。 天使はおそらく人間的な意味での「性」はないものと思われるが、画家がこれを男性よりに描くのか、女性よりに描くのは、古来画家の裁量に任されているらしい。

ということで、鈴木航伊知の「教会堂で響くオルガンと天使たち」の天使は、きわめて女性よりのイメージで描かれているわけだ。フォーレの「小ミサ曲」はたいてい女性コーラスで歌われることが多いから、自然にこうなったのだろう。右は、「教会堂」の絵の部分である。

 
 


5-3.翼の改革
 さて私は「教会堂で響くオルガンと天使たち」という絵が、この画家にとって「最初の天使」であると断定した。その理由はこの天使の翼の形状である。というのも、ほぼ同時期に描かれた「一輪車に乗る天使のいる広場」の天使は、はっきりそれとわかる鳥の翼を持っており、以後彼の作品にあらわれる天使の翼は、みな鳥の翼になっているからである。
ichirinsha-2 それでは「一輪車に乗る天使のいる広場」、この関係代名詞が二つも含まれる題名の絵をごらんいただきたい。この絵は、一人の天使が夜間に町の広場で一輪車に乗って遊んでいる絵である。絵の右手奥のほうにもう一人の、白いシャツ姿の人物が立っているのが見えるが、どんな人物で何をしているのかは分からない。
 この町の広場は、規則的に舗装された石畳で、ところどころにガス灯のような街灯がついている。夜空に出ているのは三日月風であるが、街の広場は明るいらしく、舗石の網目がしっかり見える。立っている二人の人物の影は手前のほうにかなり黒っぽく落ちているが、不思議なことに向こうの家々の影は存在しない。ところで、一輪車乗りの正面奥が通りにつながっているように見える。けれどもこれらの家は、好き勝手な方向を向いているようにも見える。家々はせいぜい2階建て程度の高さに見えるから、広場はずいぶん贅沢ではあるが、町としては質素な田舎町のようである。
 この広場で、男か女かは分からないが、タイツ状のつなぎの服装をした天使が一輪車で遊んでいる。両手を左右に伸ばしているだけではなく、背中の翼をやや持ち上げている。この天使は、両手と翼とでバランスを取っているのである。さて、この翼の材質はその後に描かれる翼にくらべるとやや小型で細身であるが、明らかに鳥の翼だ。この翼をさきほどの「教会堂」の天使のそれと見比べていただきたい。明らかに異質である。つまり、翼の形は鳥型を採用することにより、外側へのわん曲をなくしたのである。
 鈴木航伊知はこのあと沢山の天使の絵を描いているが、外側にカーブする翼は「教会堂」に見られる一点だけである。そこで作品の順番であるが、はじめに鳥の翼を描いて、次に昆虫羽を描き、そのあとでまた鳥の羽を描くようになったと考えるのは不自然だ。はじめに「教会堂」の天使を描き、その発想を生かして、翼を鳥の翼に改め、それ以後統一していったと考えるほうが無理がない。そこで私は「教会堂」の天使を「最初の天使」と断定したのである。

 1991年、私たちの画家は海を渡った。そしてフランスで一気に「天使の時期」が花開く。それを記録したのが「アルバム2」に残された作品群である。このころの作品で、私が好きなのは「赤い国のキャリオン弾きの天使」だ。この作品は、サロン・ドートンヌ展で入選した作品である。サロン・ドートンヌ、それは、セザンヌが、モディリアニが、ルノワールが、ピカソが、ミロが、マティスがその作品を寄せ、羽ばたいたところの、名高い絵画展である。
真っ赤な大地の上に一台のカリオンが設置されている。これに向かってピンク色のドレスを着た天使が演奏をしている。その背中には、しっかり鳥型の翼がついている。「一輪車」の天使の翼にくらべて、形がより発達していることが分かるだろう。
akaikuni この天使は譜面台に楽譜を置き、それを見ながら弾いているのであるが、その譜面を照らしているのは花の明かりである。一方、大地のはるか向こうを5頭の白馬が画面右に向かって走っている。そのさらに向こうには、円形の湖があり、さらに湖の中央には一群の尖塔を持つ建物が建っている。地平は大地と同じ赤い山々が連なり、夜空には月が出ている。すでにこの画家の「衣装学」を学んだ私たちには、この天使が、「女性」であることがわかる。何とみごとな幻想、美しい幻想ではないか。私の友人で2000年に没した詩人半野史は、この絵を見て次のような詩を作った。

 「真紅の荒野を往く白い馬」

フランスから届いたポスターは
真紅の荒野の絵であった
暗黒の空に白い月が浮かんで
真紅の荒野を五頭の白い馬が往く
オルガンを弾く天使がいる。
とおく湖には城が見える
困ったことがある度に
ぼくはこの絵をみつめてきた
遠い異国の心の友よ
ぼくはこの絵の白馬のようだ
真紅の荒野をゆく馬だ
情熱の野をひたすら歩む
ぼくが青春の真っ只中に
流した夥しい赤い血潮も
いまは凍った月の光で熱を失った
けれども ぼくは走りつづける
真紅の荒野をひたすら 走る

 この詩を読むと、読者はまた別種の絵画鑑賞法があることにお気づきだろう。この詩人にとっては赤い大地は血潮の色であり、それは熱を失った情熱の色である。私はこの部分を読むと、いつも「オデッセイア」の、あの冥府の場面を思い浮かべる。つまり、死者たちは生者たちの生き血を飲むことによって生気を取り戻し、記憶を取り戻すという、あの場面である。詩人半野は、この絵の赤い大地によって幾度もよみがえり、天使の姿によって慰められたのである。

 
 

5-4.飛ばない天使たち
鈴木航伊知は「鳥」にかなり強い関心を持っている。「鳥と遊ぶ天使」では、透明感のある翼をつけた一人の女性の天使が、小鳥たちと遊んでいる様子が描かれている。ごつごつした岩山と天使のつけている白い衣装が対照的だ。この衣装は宮廷風の芯材、詰め物入りの釣鐘型スカートであり、彼女は不自然なほど襟元まで肌を隠している。これが鈴木航伊知の世界における女性のファッションであることは、約束通りである。向かって右手遠景には、丸型の塔を持つ建物が見える。この塔は建物本体にくらべて大きすぎ、やや不安定に見える。
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 いまや鳥たちはこの天使に慕いよっている。何羽かの小鳥は、この天使の衣服の上にとまっているようにも見える。中でも幸運な一羽は、あきらかに天使の指の上にとまっている。鳥と天使との間に緊密な交流があることは確かだ。この天使は小鳥たちのクイーンにちがいない。したがって、小鳥たちが持つ翼と天使が持っている翼との間には、何らかの血縁関係があるという推論が成り立つ。
 ここでもう一つ、天使と鳥の関係を示す絵「鳥に吊られて空飛ぶ手回しオルガン」を見ていただこう。これも夜景のようだ。この絵では、一人の天使が手回しオルガンを抱えて空を飛んでいるのだが、自分の翼で飛んでいるのではなく、19羽の鳥に吊られて飛んでいるという摩訶不思議な絵である。19羽の色さまざまの鳥たちは、鳩ぐらいの大きさで、どうやら形態も鳩に似ているように思われる。

torini-turarete いちばん左側を飛んでいる数羽の鳩の脚のへんからオルガンの一方の脚に向かって紐がつながっている。他の紐がどこにどのように結わえられているのかは分からないが、要所、要所に結びつけられているらしい。この状態では、天使としては羽ばたきしたくともできないだろう。紐に絡まってしまうだろうから。天使を運んでいる鳩たちにしてみると、「荷物」はかなりの重量になるものと見え、彼らはせいいっぱい翼をばたつかせて空を飛んでいる。
 この天使の翼がすでに鳥の翼であることは問題ないとして、この天使が着ている服装に注目してみる。彼はなかなかカラフルなズボンをはき、靴も着用しているらしい。私はいま思わず「彼」といってしまったが、この天使の性別はやや分かりにくい。画家がこれまでに男性の髪の毛を比較的短めに描いていることや、足の格好などから、類推して「男性ではないか」という気がするだけである。要するに、天使にも「女性型」「男性型」「男女型」があるのである。
私が面白いと思うのはこの天使の左袖である。右袖のほうはオルガンを抱えているためによく見えないが、左袖はまるで翼のような形をしている。洋服の模様までもが、「翼的」であるように思われるのだ。これでごらんの通り、いまや天使と鳥の関係はきわめて密接である。鈴木航伊知の世界では、天使は鳥たちの味方であり、あたかも首領として鳥たちに慕われるものであり、鳥たちの強い支援を受けるものである。こうして手回しオルガンを抱えた天使は、自分の翼を使うことなく、どこか別の「公演先」へと向かっているのである。今や彼らは月明かりの中、一筋の谷川を直下に見下ろす山岳地帯を飛んでいる。鳥たちは、どこでこの荷をおろすのだろうか。

 「女性型」「男女型」の天使をご紹介したので、次に男性的な天使の例をご紹介する。「森の中の茸狩りの天使」の天使は、私の目には男性に見える。天使が楽器を演奏したり、竜を退治したり、受胎告知をするという場面は、すでに古典的なヨーロッパ名画によっておなじみであるが、「茸狩り」をする天使がいるというのは異聞ではないか。kinokoこの天使は僧院風の衣装に身を包み、左手に茸を入れる籠を下げている。この天使の翼はブルーである。場所は深い森らしく、夜なのか昼なのか分からない。ただ、天使の立っている足元付近が明るくなっている。その足元には秋の木の葉が美しく散り敷かれている。こちらから見て天使の右手には鳥が、左手にはいのししが侍っている。
 この天使が男性に見えることについては、みなさんにも異論がないだろう。体つき、手足、顔かたちが男性的である。翼の色がブルーであることも、彼が男性であることの支援材料となっている。彼が持つ籠の中身を見ると、まずまずの収穫があったらしい。鳥といのししが、この天使の茸狩りの手伝いをしたのでもあろうか。いずれにしても、この画家によると、天使はいろいろな仕事をする人物として出現する。楽器演奏はもちろんのこと、人形売りになったり、楽器を製作したり、刺繍をしたりする。このほか読書をしたり、食事をしたり、眠ったりする天使もいる。

さて天使が翼を持っている以上、空を飛ぶだろうと誰しも考える。ところが鈴木航伊知の世界における天使は原則として飛ばない。「原則として」というのは、例外的に飛んでいる天使もいるからだ。今回の研究の対象となっている378点の作品中、天使が登場する絵は全部で73点ある。そのうち飛んでいる天使が描かれているのはわずか2点に過ぎない。残りの71点の作品にあらわれる天使は、いずれも地上に立ち、あるいは坐り、あるいはまれに横たわっている。要するに彼らの翼と飛ぶことの関連は絵としては示されていない。
例外的に飛んでいる2点の天使のうちの1点はすでにご紹介した「教会堂で響くオルガンと天使たち」であり、もう1点はこれからご紹介する「花を運ぶ天使」である。さきほどご覧に入れた「鳥に吊られて空飛ぶ手回しオルガン」の天使は自分の翼を使って飛んでいない。あれは「他力」で空中を移動しているだけであるから、私は「空を飛んでいる」うちには数えない。

「花を運ぶ天使」は南国的な、極彩色の、しかも小型の翼を持つ天使である。この翼は完全に鳥の翼である。この天使は釣鐘型のスカートを着用している。手にはアネモネのような、あるいは芥子のような形をした大きな花を抱えている。何かを抱えて空中にいるという点では、さきほどのオルガンの天使と軌を一にしている。この天使は白いペガサスと連れ立って飛んでいる。ペガサスのほうは大きな翼を羽ばたいて、いかにも力強く飛んでいるという感じだ。
hanao-hakobuこれに対して天使の翼はあまり羽ばたいているように見えない。彼女を吊り上げている装置が見えないところから、彼女も独力で飛んでいるにはちがいない。けれども彼女の場合、飛翔と翼の動きの関係がやや曖昧である。さきほどのオルガンの絵を見たあとでこの絵を見ると、彼女もまるでペガサスにサポートされながら飛んでいるという感じを受ける。それにまたペガサスは顔を彼女のほうに向けて、いかにもサポートしているという感じを与える。
ここからは私の勝手な空想なのだが、彼女は何らかの神通力、あるいはペガサスの支援を受けて空を飛んでいるのであり、彼女の翼はこの場合、実質的にはあまり機能していないのではないか。要するにこの翼は、ときどきバランスをとるためにぱたぱたとやる程度で、彼女を空中移動させている力はほかにあるのだと私は思う。
この絵を、最初の「教会堂で響くオルガンと天使たち」の天使の飛び方と比較してみていただきたい。わたしの考えでは、あの昆虫羽の天使たちは独力で飛んでいる。ところがその後、翼がもっとしっかりした鳥の翼に変わった時点で、天使たちは独力で飛ぶのをやめてしまったのである。この「花を運ぶ天使」だけが、ごく例外的に飛んでいるわけであるが、私の見るところでは、翼以外の神通力によって移動中なのである。こうしてみると「教会堂」の天使が、いかに例外的な存在であるかがわかるだろう。
それではなぜ鈴木航伊知の天使たちは翼を持ちながら地上におり、飛んでいないのか。私の仮説をまとめると次のようになる。
1.鈴木航伊知の世界においては、通常の人間と天使たちの間に決定的な境界線はない。
2.この世界における住人は、たまたまノーマルな人間であったり、天使であったりする。
3.したがって人間にも男、女、男女が存在するように、天使にも同じような区分が存在する。
4.この世界においては、人間はある意味で天使であり、美しい人間はほとんど天使なのである。
5.たまたま翼があるからといって、それは特権的なしるしや機能を意味するものではない。
 初期の段階、すなわちアルバム1の段階で、彼は天使をほとんど描かなかった。この時期には天使という着想そのものが彼の中でさほどの重みを持っていなかった。しかしながら、彼の絵にあらわれる「人間たち」は若く、美しく、なにがし天使的であった。あれらの人物たちはいうなれば「前天使」であり、天使たちの予備軍なのであった。天使はあの時期に、画家の深いところで準備されていたのである。「教会堂」でひとたび具体的な形を取った天使は、急速にこの世界の住民として定住し始めた。
 人間がついには天使となったように、彼の愛する白馬の何頭かもついに「ペガサス」となる名誉を担った。とはいっても、それはかならずしも特権的な名誉ではない。彼の世界には、すでに第三章「青い馬に乗って空を飛ぶ二人」で見たように、翼がなくても空を飛ぶ馬はいるからである。この世界においては、人間と天使、普通の馬とペガサスはさほど違和感なく共存しているのである。

gin-zaiku ところで、「銀細工師の働く野」をごらんいただきたい。この絵には一人の人間と一人の天使が描かれている。人間のほうは画面中央にすえられた大きな箱のようなものに向かって細工をしている。これは男性で、赤いチュニックをまとっている。これに対して画面右側にピンク色のワンピースを着た女性の天使が、岩棚に腰掛けているのだが、なんと彼女の翼はダリの時計のように、ぐにゃりと折れ曲がっている。あの翼ではとても飛ぶことはかなうまい。翼の長さは彼女の背丈をはるかに越えているから、彼女が立てば、翼を引きずってしまうはずである。だが画家はそんなことは一切顧慮しない。
 もう一度中央の箱に注目すると、これが銀細工品であることはすぐに検討がつく。こちらの面には盾の紋章のような彫刻がほどこされている。横面には把手がついているところか見ると、この箱と下の台は別物らしい。だが、なぜか台と箱とは一体であるかのように見える。細工師は目下左側の蓋部分に細工を加えているらしい。彼の背後には道具類を置いた別の台がある。
 この野原は奇妙である。金色の花が咲いているのだが、どうやら一個一個光っているように見える。それにまた天使が腰掛けているごつごつした岩も気になる。「銀」というキーワードから、この岩が巨大な銀の塊であるかのようにも思える。それにまた背景に見える赤っぽい岩山が奇妙だ。これらの岩山はいくつかの頂から赤い噴煙を垂直に噴き上げ、ある高さまでくると右側になびいている。
 私はここでは絵の謎には立ち入らないことにする。私が注目していただいたいのは、ここには「人間」と「天使」が並存しているということである。この絵の中で人間は働き、天使は見守っている。しかし、彼らの間には優劣関係や主従関係はまったく見られない。それどころか人間のほうがある種の権威をもって働き、天使はこれを尊敬のまなざしで見守っているという感じである。「翼」という要素を取り去ってみれば、少女が恋人である銀細工師の仕事場を見ているということになる。
 これが鈴木航伊知の世界である。天使と人間たちが共存し、人間がいつ天使であってもよく、また天使がいつ人間であってもよい世界。小鳥やペガサスがごく身近にいる世界。各人が各人の思うがままに行動し、また、そうであることこそが美しい世界。これが鈴木航伊知が描き、唱導する世界である。ガダマーは次のように言っている。「さらにまた、(芸術作品の前で)もはや存在しなくなるのは、何よりも世界である。われわれ自身の世界としてその中でわれわれが生きている世界が、もはや存在しなくなるのである」。
 私たちは鈴木航伊知の世界に見入るとき、私たちは現実の世界の代わりに鈴木航伊知の世界のリアリティを受け入れる。そのとき、私たちの世界は存在しなくなり、私たちは新しい世界の中にいる。その世界は、美しい天使たちが往来する世界なのである。

 
   
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