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鈴木航伊知の世界
 
第7章 通りと空間

7-1.鳩車の行列
 私は前章で鈴木航伊知の作品を「建物」という観点から以下の8通りに区分した。
1.絵の中にまったく建物が描かれていないもの
2.「遠景としての建物」、あるいは「街」が描かれているもの
3.「建物の部分」のみが描かれているもの
4.「運河を伴った建物」あるいは「街」が描かれているもの
5.「広場」が描かれているもの
6.「通り」が描かれているもの
7.「建物そのもの」を主役として描いているもの
8.室内を建築的な観点から描いているもの
 このうち「1.絵の中にまったく建物が描かれていないもの」は別として、「2」「3」「4」「5」について、実際の作品と、それらについて私が「魅力」と感じる点をご紹介した。とくに「広場」に関しては、この画家がどれほど深く「広場」に惹かれているかについてレポートした。この章では、「6.通り」についてご紹介したい。これも、「広場」に劣らず、彼の関心を引いたテーマであって、「通り」を扱った作品点数は「広場」にほぼ匹敵する。

hatogurumaはじめに「鳩車の行列」という作品をごらんいただきたい。これは夜の街の「通り」を描いた作品である。建物が立ち並ぶ街の大通りを、4羽の巨大な鳩に曳かれた天蓋つきの山車(だし)がしずしずと通っている。私はいま「しずしず」といってしまったが、その理由はお分かりだと思う。この行列はそんなに早くは進めないはずなのだ。
 なぜかといえば、まず鳩の脚がおぼつかない。一見すると芝居の馬のように、一羽の鳩から4本の脚が出ているように見えるが、これはおそらく向こう側の鳩の脚だろう。一羽の鳩が二本足であるして、この脚が鳩の脚らしくない。鳩の脚なら、胴に対してもっと長くなければならないはずだし、脚の先には爪指がなければならない。どうやらこれは「ぬいぐるみ」または「張子」の鳩のようだ。
 鳩に曳かれている山車は二輪車なので、これがどうしてバランスを保っていられるのか私には分からない。それに天蓋を支える四本の柱が高すぎる。次に人物を見ていただきたい。みな頭に丈の高い帽子のようなかぶりものをのせている。山車の後方を歩いている人たちは、帽子があまりに高すぎるので、両手で支えるようなしぐさをしている。いずれにしても、この行列は「バランス」という観点から見て、じつに危なげな条件をそなえている。そこで、この行列の行進はおのずから「しずしず」ということになるはずなのだ。
 画面の右側にクラリネットを吹いている人物がいる。この人は「男女」型の人物で、この画家の描く人物にしては珍しく装飾的である。すなわちベルトを締め、色鮮やかなリボンをつけ、さらに花飾りのついた帽子、あるいは冠を着用している。外套の白い襟も印象的である。この人物の吹くクラリネットと行列のあいだには深い関係があることが察しられるが、この人物は行列に対して逆向きに歩いているように見える。
 「彼または彼女は歩いているのではない、ただ立って楽器を吹いているのだ」という人もいるかもしれない。そういわれればそんな気もする。けれども私は行列がしずしずとこちらに進むのに対して、この人物は向こう側にゆっくり進んでいるように見えてならない。よしんば、この人物が立ち止まって演奏しているのだとしても、そして鳩の行列がどんなにゆっくり進むのだとしても、この二者はいずれすれ違うことになり、しばらくすると行列は音楽なしで進むことになってしまうのではないだろうか。かりに通常のパレードであれば、演奏家は行列と同方向に進むはずだ。けれども、私はいったい何を心配しているのだろう?
 さて、今はこの夜の街を観察すべきときだ。この行列が通る街路はひじょうに幅広い。「これは通りではなく、広場ではないのか」という人がいても反論できないほどだ。ただ、私はこの画家が他の作品で多くの場合「パレードと街路」を組み合わせているところから、また、向こう側の建物が整然と「ツライチ」に並んでいることから、これを「通り」と判断したのである。
 ここに並んでいる建物は、いずれも私が「飾り妻壁」と呼ぶことにした形式のファサードを持っている。形状はそれぞれ個性を持ち多様であるが、ファサード面はいずれもシンプルで階高も統一されている。ちょっと気になるのは、右から二件目の建物だ。この建物の場合、他の建物の側面に当たるところに「飾り妻壁」が立っているように見える。だとすると、この建物だけ棟の方向が違っていることになる。二つの塔が棟に対してどう接合されているのか、暗くてよく見えない。もしかしたら、クラリネット吹きの陰になっているところが曲がり角になっていて、そこに狭い別の「通り」ができているのかもしれない。
 すでにお気づきの通り、この街の背後にはかなり急峻な岩山がそびえている。その岩山までの距離は予想外に近そうである。この立派な通りと建物を持つこの町は、岩山に囲まれた都市か、あるいは岩山の中腹の都市、あるいはごく近くに岩山を控える都市ということになる。暗闇の中にうっそうと浮かび上がったきびしい岩山のかげは、ゆっくりと進む鳩車の鮮やかな色彩とのあいだで、神秘的にも美しいコントラストを形成している。
 私はこの「鳩車」の絵の中に、この画家の「都市」「建物」、そしてそこに形成される「通り」というものに対する強烈な偏愛を認める。色彩的には、行列やクラリネット吹きの存在のほうがこの絵においては鮮烈で優位に見える。もちろん主として「それら」が描かれていることに間違いはない。けれども、画家はあくまでも「建物」と「通り」に固執している。それは私たちがすでに見た「広場」に対する固執と同一のものである。なるほど画題からして、この絵の主役は「鳩車」であり「クラリネット演奏家」である。しかし、彼らはこの絵においては「フロー」にすぎない。それは、「通り」を「通り」たらしめるために通り過ぎる華やかな脇役だ。「ストック」としての主役はあくまでも「通り」なのだ。

gakudan 「通り」に関する画家の固執を示すもうひとつの作品「楽団の行く通り」を見ていただこう。この絵は、先の「鳩車」が「通り」の一面だけを描いているのに対して、「通り」の両側の家並みを描いている。画家は、この通りのほぼ中央に立って、人物たちの一行が通りを向こうのほうへ行進しているのを見ている。
 この絵に登場する人物のうち、画面右側にいる人物はブーツとマントを着ているように見えるが、詳しくは分からない。また、向こう向きに隊列を作って行進する一行は、天使たちかもしれない。背中におそろいの翼のような、ひらひらするものが見えている。絵の題には「楽団」とあるが、この一行が演奏している楽器はこちらからはよく見えない。楽団員の肩のあたりに突き出ているものがあるようにも見えるので、あるいはギターのようなものを抱えているのかもしれない。おりしも建物の上を、通りを横切るような形で鳥の一群が飛び立っている。この鳥は赤茶色で尾羽が長い。
 通りの左側の建物からは赤い色の、右側の建物からはブルーの旗飾りが垂れ下がっており、風にあおられてなびいている。空にはまるで羽毛を思わせるような巻雲がかかっている。お気づきのように、道路はまだらの絨毯模様だ。その上を緑色の丸い光る物体が転がっている。この物体はかすかに赤い光の尾を曳きながら転がっているのだが、あたかも自分の意志で「楽団」のあとを追っているようにも見える。「鳩車」がきわめて「静的」であったのに対して、こちらの通りには動きがある。
 「通り」を形成している建物は、「鳩車」でも見られたような「飾り妻壁」を持つファサードである。例によって、どの入り口にもドアはない。私たちに見えている建物は左側に7軒、右側に5軒である。左側の手前の3軒は私たちの数え方でいって5階ないし、6階建てである。左側4軒目から先の建物の高さが急に低くなっている。しかし、窓と階数とをあわせて考えると、この背の低い建物は4階建てということになり、前方3軒の階高とは規格が合わない。
 右側の通りの、5軒先の建物のその先がどうなっているのか、私たちには分からない。突然そこで建物が切れてその先が空地になっているのか、この家並みとは異なる角度で建物が続いているのかは謎である。同じことが左側の家並みの先についてもいえる。いずれにしても、この道路の地平線上には、建物はもはや見られない。では、この通りはどこに続くのか。そしてこの「楽団」は当面どこを目指して行進して行くのか? 私はこの絵を見ていると、自分が見知らぬ美しい街の一角に置き去りにされているような、強い寂寥感を感じる。

 

7-2.旗の下がる通り
 鈴木航伊知の絵においては「広場」と「通り」の区分はいささか困難である。しかしここで、幸福感にあふれた「通り」の例として、「旗の下がる通り」をごらんいただこう。先にご紹介した「鳩車の行列」と「楽団の行く通り」では、通りに面する建物のファサードが定規を当てたように揃っていた。また、建物の形も「飾り妻壁」型が中心であった。これに対して「旗の下がる通り」では、家並みはもっと緩やかに凸凹を持ち、丸みを帯びている。階高も低く、したがって圧迫感がない。

hata家の形から注目してゆくと、まず、三つのかわいらしい筒型で丸屋根を持つ建屋が目につく。その奥に通常の切妻型と思われる家が控えている。画面右手には、赤屋根を持つ寄棟型の家が見える。この屋根には3つのドーマー・ウインドウがついている。なお画家は、このドーマー・ウインドウがたいへん気に入っており、他の作品にも沢山登場する。何でも、ヨーロッパではこの屋根裏部屋の小窓を指して「犬が坐っている」というのだそうだ。
 この絵の中には4本の塔がある。中央の青屋根の塔は、その後ろの建物に接続しているようにも見えるが、そうでないかもしれない。この塔はポーチ状の入り口を持っている。いまこれらの建物群を見て考えていただきたい。「一体、何軒の家があるのか?」。つまり、これらは独立した別々の居住者のための建物なのか、それとも単一の居住者に帰属する屋敷の、個別の棟なのか、ということである。
 もしも一人のオーナーがこれらの建物を所有しており、その家族や縁者だけが居住しているのだとすると、「通り」にいる人々との関係が分かりにくくなる。というのも、路面に描かれている人々や要素は、前面の道路がパブリックな「通り」であることを示しているように思われるからだ。であるとすれば、どこからどこまでが一軒の家で、どこからどこまでが他の一軒なのだろう? どの建物がどの建物に付属しているのだろう?
 ところで、私たちには家の屋根についている「花」がどうしても気になるではないか。この花は建物や人物の寸法に比べて異様に大きい。それが何の「根」拠もなく、いきなり屋根の上に生えているのだから、どうしても気にならざるを得ない。
私はここで読者に、想像上の画像シミュレーションをやってみることを提案する。試みに、この絵の中にある「花」を取り去った絵を頭の中で想像してみてほしいのである。すると、たしかに美しくはあるのだが、なんとなく物足りない絵ができることにお気づきだろう。この花の正体や目的が何であるにせよ、またこれらが本物の花なのか、造花なのかは不明であるにせよ、私たちはこの花を必要としていることが明確になるのである。
 いま、私は「通り」を歩行する多様な人物や動物たちに関しては、コメントしたい衝動を無理に抑えることにする。ただし読者には、画面右側に見える四羽の鳩の脚の形に注目するようにお願いしておく。この鳩の脚は、私たちが「鳩車」で見た鳩よりもさらに機械的である。私は画家が「鳩車」の鳩と、この通りに出現した鳩の脚についておこなった特別のことがらを説明するために、彼が以前に描いた二つの「鳩」に関する作品をご紹介しておく。

zenmai 一つは「ゼンマイ仕掛けの鳩」。ここでは小さな天使が風琴を携えて、ゼンマイのねじをつけた鳩の上に腰掛けている。この鳩の脚はやや機械的ではあるが、通常の鳩の脚に似ており、四本の爪足を持っている。もう一つは「水色の鳥と大聖堂」である。画題では「水色の鳥」となっているが、私にはこの柱の上にとまった鳥は鳩のように思える。よしんば鳩でないとしても、ここに描かれている鳥の脚はリアルである。この二つの作品の例を加えて考えると、私たちは以下のことをいえるだろう。

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1.画家は鳩に、何らかの機械的な仕掛けをしたいという根源的な欲求をもっていた。
2.彼は鳥の脚、あるいは鳩の脚がどうであるのかを承知の上で、「鳩車」に示されるような、機械的な脚を描いている。したがって、「鳩車」と「旗」に描かれている鳩は鳩ではない。彼によって創造された新たなキャラクターである。
 私たちは、たまたま「鳩車」という奇妙な題材から、たまたま「鳩の脚」だけを取り上げて考えたに過ぎないが、こうしたデフォルメーションと、独自キャラクターの創造は、彼の描く対象のすべてわたって――風景についても、建物についても、人物についても、動物についてもおこなわれているのだ、と理解しておくことが重要だろう。
画家は当然のこととして彼の描く対象について、現実の世界でそれがどのように見えるかを知っている。また、それを「それらしく」見せるために、どのように描くべきかも知っている。その上で、彼はそれに似た「何か」を生み出している。彼は現実のすぐそばにあり、けれども現実にはけっして存在しないものを描いている。この事実は、これから私たちが見て行くことになる、彼独自の「空間」、そして空間の一形式である街や建物についてもいえることである。

さて、私たちはもう一度「旗の下がる通り」に戻ることにする。今回は、建物の階高と各階のスパンに注目してみる。なおスパンは、窓と窓のあいだを水平に仕切っている見切り線で見当をつけることにする。するとどの建物の階高にもゆとりがなく、しかも階高が標準化されていないことに気づく。ちなみに、いちばん左側の四角い建物の三階部分は、人がやっと立てるくらいに天井が低いにちがいない。その隣の丸屋根に関していえば、二階部分に人が立てば頭が天井につかえてしまうだろう。

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 中央の塔がポーチを持っていることは先に指摘したが、他の建物には入り口がない。少なくとも通りに面した部分には入り口がない。これらの建物を利用するすべての人物があの、中央の四角い入り口から出入りするのであろうか? 
 さらにいわねばならぬことがある。それは「建物の向き」だ。いま私たちには、向かって右側の四角い建物の左壁が見えている。そして画面中央の塔の左右の壁面は見えない。これは建物が私たちの正面にあるからだ。そして左から二番目の赤屋根の塔に関していえば、右壁が見えている。少々極端ではあるが、遠近法が採用されていることが分かる。であるとすれば、左側から二軒目の建物の妻壁が私たちに見えているのはどうしてか?
 「この建物は道路に対して水平にではなく、こちら向きに立っているのだ」という人があるかもしれない。私はこの建物が見せている壁面と屋根の比率からしてそれはありえないと思う。つまり、この建物は明らかにパースペテティヴ上の「ゆがみ」を伴っているのである。
目立たない部分ではあるが、同じことが三つの丸屋根筒型の建物の、階高を示していると思われる見切り線についてもいえる。向かって右手の建物の見切り線はほぼ水平に見える。これは、この位置が私たちの目線に近い高さにあることを示している。しかし、真ん中の建物の見切り線はもう少し上にカーブしている。さらに、左の建物はもっと大きくカーブしている。つまり、このカーブの具合は、見切り線の位置が私たちの目線よりははるかに高いところにあることを示しているはずなのである。ところが、この三つの建物の関係で見るとき、この線は同一の高さにあるように見える。そこで私たちの視覚にはちょっとした混乱が起こるのだ。
先のブルーの屋根の建物が左右の空間的ゆがみを伴っているとするなら、この丸屋根の建物には上下に関する空間的ゆがみを伴っているということが分かる。私はこの「空間のゆがみ」「パースペクティヴの不条理」こそ、この画家の絵を解明するための大きな鍵であると考える。

 
 

7-3.ねじれる空間
 ちなみに、このパースペクティヴという観点から、「楽団の行く通り」を見直してみよう。この絵では一見通常の、典型的な遠近法が用いられているように見える。しかし、明らかに違う。いわゆる遠近法によれば、すべての視線は「消点」に収斂しなければならない。しかし、この街区における建物のファサードのG線をどこまでも垂直に伸ばしていってみたまえ。道路両側の建物は7〜8軒先で、激しくぶつかり合うことになるだろう。そこで、この衝突を避けるために右側の建物は5軒目のところで建設が打ち切られ、左側の建物は、4件目のところから急に小型化するとともに、路面からステップバックし、さらに若干内側にカーブしつつ並ぶ、ということになっているのである。
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 私たちはさきほど右手の建物が5軒目の先で空地になっているか、あるいは右に折れ曲がっていると考えた。もちろんそうかもしれないし、そうでないかもしれない。だが、いずれにしてもこの通りは奇妙なゆがみを伴った空間の中にあり、いま私たちはそうした不条理な空間を共有しているのである。この観点でこれまでの鈴木航伊知の絵を見直してみると、この画家が空間に関して独特の感性と表現法を持っていることが分かるだろう。
 スペインの思想家オルテガは、絵の描き方に「遠視法」「近視法」があるといった。彼によれば「近視法」とは、画家が目をいちばん見たいものに近づけて見る方法である。「近視法は、視野を統一し、そこに視覚的ヒエラルキーを強制する」。これに対して遠視法は目をできるだけ対象から遠ざけ、全体を平等に見ようとする。「遠視法においては、われわれは特定の一点に注目しないばかりか、視野全体をその境界を含めてとらえようとするのである。そのために、われわれは、何かに焦点を合わすことをできるだけ避けようとする」。その上で、彼は「ヨーロッパ美術史を通じて、画家の視点は、近視法から遠視法に変化してきた」といっている。
 また、ボードレールは「絵画は一つの視点しか持たない。それは排他的で専制的である」といって絵画が一つの視点に固定されていることに腹を立てている。ボードレールはまだ、鈴木航伊知の絵を見ていなかったのである。
いわゆる遠近法=透視図法が確立されたのはルネッサンス期であるといわれている。レオナルド・ダ・ヴィンチは「手記」の中で、「遠近法は『絵画』の手綱であり、舵である」といっている。いらい、私たちの洋画を見るときの感覚はある意味ではこの遠近法によって慣らされ、呪縛されてきた。しかし何も遠近法がすべてではない。現実に私たちが日常目にする世界は、かならずしも遠近法的に見えているわけではない。
遠近法を支えているのは、要するにユークリッド幾何学である。しかしポワンカレは「一つの幾何学がほかの幾何学以上に真であるということはない。ただある幾何学(ユークリッド幾何学)がほかのものよりももっと便利だということがありうるにすぎない」といった。彼は空間にもいろいろな種類のものがあるといっているのである。
ポワンカレによれば、いわゆる「幾何学的空間」はどの部分をとっても等質である。これが幾何学における約束事だ。けれども「純粋視覚空間」はかならずしも等質でない。それは注目している部分に特別にウエイトがかかっている空間である。目の見えない人にとっての空間は「触覚空間」にちがいない。同じようにして、「表象的空間」を考えることもできる。
 であるとすれば、私たちが何も遠近法だけに縛られる必要はない。鈴木航伊知はあるときには、遠近法に従い、あるときにはまったくこれを無視する。無視するどころか、私たちが見てきた「建物」においては、彼は建物=空間を強引に折り曲げ、ねじっている。私は、呼び名としてあまり穏当でないのだが、これを彼の「空間ねじり法」または「ねじり法」と呼ぶことにしたい。
 これまでにご紹介した鈴木航伊知のすべての絵を再度ごらんいただきたい。彼の絵はどこかに「空間ねじり法」が取り入れられていることにお気づきだろう。その「ねじり」の程度は作品によって異なる。たとえば、彼の初期の作品では「ねじり」の程度がほとんど見られないか、あってもごく穏やかである。それに作品が人物や事物を中心に絵が描かれている場合、空間の「ねじれ」はほとんどあらわれてこない。このねじれが明確になるのは、まさに奥行きと間口が直角に交わる「建物」が描かれるようになるときであり、とくに、いま私たちが見ている「通り」のように、画面の中に何らかの標準線が想定されるときなのである。

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 たとえば、彼の初期の作品に「雪の道と犬を連れた二人」がある。これは私の分類によれば、「通り」を描いた作品である。ただし、この作品では空間の「ねじれ」はまだ強く表現されていない。いま、二人が歩いている道と、右手下に見える道路とが接合する部分に一軒の切妻型の家が見える。この家はおそらく下の道路面に入り口を持っているにちがいない。この建物は、――地形の関係でそうなるのだろうが――私たちからみて両側の壁面が見える。
こちら向きの面は、この家にとっては一番幅の狭い妻壁で、そこに井戸または水道のコーナーが設置されている。画家には、このように家の両壁面が同時に見えているということ、この事実が感動的であったにちがいない。これは「空間的ねじれ」のような現象が、期せずして、現実に見られたケースであろう。果たせるかなこの時期、彼は、道が立体的に交差するとか、階段に通じる細い道とか、彎曲してゆく大通りなど、空間の「曲がり」に強い関心を抱き、こうした作品をいくつも描いている。
 もうしばらく「雪の道」を鑑賞しよう。この正面の家の背後にあるもう一軒の、ブルーの家を見ていただきたい。この家は、前の家に対して屋根の高さと棟の中心をずらしている。そして、ここが肝心のところだが、この家の右壁面と屋根のあいだには明らかに「ねじれ」が見られるのではないか。ここに見られるのは、道路付けの関係からくる空間のねじれ、家のプラン上のねじれの混合体である。

 
 

7-4.異次元への道
 アルバム5に収められている作品、すなわち2000年以降に描かれた作品の中から「三日月とフィドル弾き」を見てみよう。これも「通り」を描いた作品で、私の分類によると「両側の建物が描かれている通り」に属する作品である。この作品の色調は「雪の道と犬を連れた二人」に共通するものがある。

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この「三日月とフィドル弾き」の場合でも、雪が降った後らしく、道路面も家の屋根も白く見える。またこれらの「白」が雪に見えるせいか、演奏家が着ているのは冬コートであるように見える。また雪との関連を示すものかどうかはわからないが、演奏家の右下に見える四足の動物はトナカイのようである。この絵の最大の不思議は、演奏家の立っている通りが三日月の下に直結しているという点で、画家にはこのほかに「月に続く道」といった作品もあるから、地上の道路がそのまま月につながっていることと思われる。
 ここに描かれている家屋は、これまで私たちが見てきた建物と異なり華やかな美しさはない。むしろ、くすんで質素な感じを受ける。装飾的な要素は極端にまで削られている。しかしながら、この家の道路に面した壁面に幾本かの筋が入っている点にご注目いただきたい。これは建築上の見切り線ではない。これは音符を記す五線なのである。
その証拠に左手の家の壁面上部に休止符のマーク、右手の家にはヘ音記号、それにヴァイオリンの胴に見られる「f」字型のホールマークが入っていることがわかる。よく見ると家々の小窓も音符である。古い時代の音符は、今日見られるようなオタマジャクシの記号ではなかった。五線の上に配置された四角いドットだった。グレゴリウス聖歌など、ごく初期の音楽はこの建物の小窓のような形で記されていたのである。
 さて、ここからは私の解釈だが、このフィドル弾きの巨人は、家々の立ち並ぶ通りを演奏しながら悠然と通っていく。彼が演奏する音楽のテーマは両側の家の壁面に描かれ、示されている。この街全体がさながら一つの譜面台であるかのように、彼に音楽の素材を提供する。彼は即興に身をゆだねつつも、町が提示する旋律を尊重する。こうして巨人の奏でるきびしい音楽は三日月へと至る、凍てついた道を作り出すのである・・。
 ところで、私がこの絵に注目していただいたのは音楽のためではなく、この「通り」に面している家々の並び方に注目してもらうためである。これらの家はあたかもフィドル弾きの行く手を遮るかのように、前方の道路に向かってせり出している。これは、演奏家に「楽譜」を見やすくするためでもあろうが、要するにこの街の空間は明らかにねじれている。また、家々の並び方も整然とはしていない。かのフィドル弾きは、このねじれた町、ねじれた空間、そのはてに天空の三日月が待つ空間を闊歩しているのである。

 「通り」を描いた鈴木航伊知の作品例は枚挙にいとまないほどであるが、私はこの章の最後に、「通り」と「空間のねじれ」を典型的に、しかも楽しく表現した絵、「茶色い町」をご紹介したい。

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 なるほど、この町は全体的に茶色い印象を持っている。けれどもこの町は決定的に、極端なまでに「ねじれ」ている。まず、画面右手の煉瓦壁の建物は、大きく傾いている。おそらくどこかの店先の飾りであるはずの絵入りの巨大なランタンが、手前の人物の行く手を遮っている。しかしこのランタンと人物がぶつかる心配はない。空間の位相が異なっているにちがいないからだ。この人物のおかしな格好にも注目していただきたい。いったい、人間がこんな格好で歩けるものだろうか? 明らかにこの人物は自己自身の空間の中で「ねじれ」ているのである。
 この街の基本的なプランは、「雪の道と犬を連れた二人」に共通するものがある。すなわち、「ひとくせ」ある街の眺めなのだ。おわかりのように、この道はこの先右の方向に向かってカーブを描き、その途中に道をまたぐ陸橋がついている。この陸橋の床面はアーチ構造である。この街のさらに先には岩山があり、その頂上には尖塔を持つ三種類の建物が見える。つまり、この街のこの地点からの眺めは、かりに画家による「ねじり」操作が一切おこなわれないとしても、当初より、ある種のねじれ構造を持っている。
そこへ、画家が独自の「ねじり」を加えているので、どうにも止まらなくなってしまっているのだ。この町では、建物がねじれ、人物がねじれ、花がねじれ、馬がねじれ、空までがねじれているように見える。私たちはいまや、画家によってねじられた空間、まった異次元の街にさまよいこんでいることが分かる。もちろん、鈴木航伊知の世界は、幻想的であり、超現実的であり、この意味で異次元的であることはわかっていた。しかし、いま私たちが踏み込んでいる空間は、かなり異質の度合いが大きいようだ。
私はこの世界が好きだ。暖かいものを感じ、笑いたくなる。私は自分がこの町を散歩するもう一人の人物となっていることを想像してみる。すると私はかなりおかしな格好で、おかしな歩調で歩いていることだろう。私はそこで、自分のサイズを忘れた鳥や花に出会うことになるだろう。おかしな尻尾を持つ馬と話をするかもしれない。私はあの岩山の頂上を目指すのだが、階段は見つからないかもしれない。私は驚きはしない。この世界では、ひょっとすると「月への道」さえ見つかるかもしれないのだ。

 
   
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