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鈴木航伊知の世界
 
第8章 建物それ自身

8-1湖の建物
ここまで私たちは鈴木航伊知が「建物」を描いた作品をいわば横目で見てきた。すなわちそれは「遠景の街」としての建物であり、「部分としての建物」であり、「運河を伴った建物」であり、「広場」にある建物であり、あるいは「通り」に面した建物であった。これから私たちは彼の作品の本丸、すなわち「建物それ自体」を正面から鑑賞することにしたい。このグループに属する作品は、私の分類ではもっとも多く、83点にものぼる。83点すべてが、何らかの形で「建物それ自体」を描いているのである。
 もちろんこれらの作品の中には、建物だけではなく、人物や動物、それに山や湖など他の要素も描きこまれている。しかしそれらの要素はみな「建物それ自身」のための背景、あるいは脇役であり、画家の意図の中心はあくまでも「建物そのもの」を描くことにあてられている。私はこれを、ずいぶん奇妙なことだと思う。
 たとえば人物画を得意とする画家がいる、これは分かる。静物画を得意とする画家がいる、これも分かる。風景画だけを描く画家がいる、これも分かる。たとえば、建築写真だけを撮っているカメラマンがいる。これも分かる。ちなみにカメラマンの場合、専門分野によって持っている機材が違っている。たとえば、建築写真を撮る機材を使って人物のスナップ撮影することだって、やればやれるだろうが、普通はしない。
カメラマンの場合は対象の特性や目的と機材との関係が明確だ。私は画家の場合にも、カメラマンほど顕著ではないと思うが、それでも画家が描こうとする対象によって、画家としての心の準備や、画材や技術的準備が異なるだろうと思う。ところで、私の乏しい絵画鑑賞経験の範囲では、油彩で、これほど建物を描くことにこだわった画家がいたかどうか、私は知らない。要するに鈴木航伊知の場合、「建物を描く」ことに対する情熱がすさまじいのである。そしてまたその「建物」が、ひと癖も、ふた癖もあるものなのだ。
 さて、例によって、私は83点の「建物それ自体」が描かれた作品群を、その類似性によっていくつかに区分してみた。私の区分法によると、その区分と点数は以下のようになる。
1.水辺に建つ建物  16点
2.平野に建つ建物  30点
3.市街地に建つ建物  11点
4.高いところに立っている建物  14点
5.折り重なって立っている建物  12点
 じつはこの区分に関しては問題がある。というのも、「水辺に立って」いて、なお「折り重なっている建物」があり、「高いところに立って」いて、なお「折り重なっている建物」があるからだ。つまり、この分類で問題となるのは最後の「折り重なっている建物」という区分である。けれども私は独断と偏見にしたがって、あえてこの区分を設けた。というのも、この区分に属する絵は、「一つの塊としての街」「街であり、建物である一つの集団」という、どうしても譲れない特性を持っているように思えるからだ。これについては、のちほど実際の作品を見ていただいて納得していただくことにしようと思う。
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 最初にごらんいただくのは「二羽の白鳥と湖の館」と題する美しい絵である。湖の水の中、しかしおそらくやや右よりの岸近くに一軒の館が建っている。空と湖の青さがじつにみごとだ。コロリストとしての画家の面目が遺憾なく発揮されている。その前を今しも二羽の白鳥が横切ろうとしているところだ。白鳥の移動した後の水跡を妨げるものは何もない。この湖水の右手には樹木の列からなる岸がのびている。さらに岸の内側には岩山の連なりが見える。
この岸の先端はどうなっているのだろうか。私には、この部分だけが湖水の上に突き出している岬に思えて仕方がない。というのも、この岸は館を緩やかに囲むように内側にカーブし、わずかに湖の水平線を残して切れているからだ。では、この湖水はどのくらいの大きさなのだろうか。もちろん分からない。しかし、湖水が画面左側に向かってゆとりを持って広がっていることは容易に想像がつく。
さて、この建物をよく見てみよう。全体の形は正六角柱であるように見える。もっとも、この点は保障できない。この画家は思いがけないところで空間を「ねじる」癖があるからだし、げんに私たちには背後の壁面は見えていないからだ。そして背面には塔が立っているので、その塔と壁面の関係がどうなっているかも、予断を許さない。ただ、私はこの絵全体が持っている落ち着きのよさと、遠近法的な整合性から考えて、基本的には六角柱と考えることにする。
この建物は色分けされたところを基準に見ると三階建てのようだ。一階部分の入り口の具合からして、一階には水が入っているはずだ。よく見ると入り口は右側に一つ、左側に三つ見えている。おそらく、右手の入り口がメインではないかと思われる。この建物は色彩的にも美しいが、その美しさをさらに際立たせているのは、それぞれに異なった窓の形である。この格子模様はヨーロッパの家屋の窓、フェンスなどに典型的に見られるものだ。各階を仕切っている水平の飾りも、コーナーごとに設けられた玉つきの屋根飾りも優雅である。屋根には煙突があり、三本の「煙出し」が見えている。そのうちの一本からかすかに煙が出て、中に住む人がいることが暗示している。おそらくこの三本の煙出しは各階ごとの暖房装置に対応しているのだろう。
では、この館の主は誰で、何者がどのような目的で所有しているのだろうか。それにまた、このような館のモデルが実際にどこかにあるのだろうか? あの館の主は、どうやって外界と行き来しているのだろうか。嵐や雨の日に、あの閉じられることのない開口部から吹き込む水はどうなるのだろう? ・・私たちはどうしてもこのような卑俗な疑問にとらえられてしまう。だがこの館は装いを凝らした、優雅で物静かな一人の女性のように、「私は存じません。そうしたことは、みなさんがご自由にお考えください」といっているかのようだ。
そうなのだ。この画家にとって、建物とは、それ自身が独自の個性と意志をもつ「生きたキャラクター」なのである。それらは「人物たち」や「天使たち」と同じように、スピリットを持っている。画家は肖像画を描くように建物を描いている。コルビュジエは「住宅は住むための機械である」といって現代人を納得させた。だが鈴木航伊知にあっては、建物は住むための機械などではない。それどころか、人がそこで生活をすることが許されるかどうか分からない、異種の施設なのだ。それは人が住まうこと、あるいは利用することが最初から考慮されていない。それはまず「建物自体としてある」。人が住むか住まないかは、彼の建物の関知するところではないのだ。
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「水辺の建物」に属する作品のもう一つの例として、「水掘りの中の城」を見てみよう。これは完全に管理された環境の中に作られた「掘」としての水辺と、その中に立てられた城塞という構図である。建築物の大きさを実感するよすがとしては、堀のまわりに生えている樹木しか見当たらないので、一見したとき、この城はまるで模型のように見える。
この絵においては「直線」が重要なポイントになっている。よく見るとこれらの直線は遠近法的には互いに矛盾する直線であって、この絵にも空間の「ねじり」が設けられていることがわかる。たとえば、全体的に見ると、私たちはこの城を俯瞰するような視点にいる。そこで、城の低層部分の屋根が見え、とくに銃眼に囲まれた屋上の四辺が見える。しかしながら、この城の四隅に立っている塔は、私たちの視線よりも上にあるという傾きを持っている。この四つの塔の上部は、本当に私たちの視線よりも高いところにあるのだろうか。どうもそうは思えない。
要するに、画家は、私たちに城の低層部分の屋根を見ることは許可しているのだが、塔の上部を見ることを許していないのである。この城は全体が赤茶けた煉瓦、あるいは赤い石で構築されているのであるが、四隅の塔の上部は白いまわり縁がある。これがどのようになっているのか、私たちにはどうしても分からないのである。
ところでこの城はおよそ社交的な、あるいは外交的な城ではない。水をたたえた堀、四隅の監視塔、そして屋上の銃眼、狭い城門、そこに続く細く長い橋。これらはいずれも外部からの侵入者に対して防備を固めた城の姿である。堀の外側の整備された環境さえ、外敵を発見しやすくするための工夫であるかに思ええる。
この絵の前面に横に走っている白っぽい線にご注目いただきたい。私の考えでは、この白い線は道路である。では、この道路はなぜ城への橋につながっていないのだろうか? いうまでもないことだ。この城への訪問者などいないからであり、生活物資を運び入れることも考えられていないからであり、城の住人さえ――住人が中にいるとして――この堀の外には出ることはないからである。
以上の観察は、私たちを「二羽の白鳥と湖の中の館」で得たのとまったく同じ結論に導く。すなわち、この建物においては人が実際に使うことは考慮されていない。この城は「建物それ自体としての建物」であり、なお、それでいて外部からの侵入を極度に恐れ、警戒している建物である。「白鳥」の建物が美しく装い、なお、わずかな煙突の煙で人の気配を感じさせたのに対して、こちらはひっそりと静まり、緊張している。

 

8-2.飾り模様の壁の建物
「水辺の建物」は、視覚的には理想の建物だと私は思う。しかし、現実に湖の真ん中に建っている建物があるとすれば、それは現実には住めない建物である。人は水の上を歩くことはできないからだ。そこで、鈴木航伊知が描く「水辺の建物」は、ある意味で人間から孤立し、「それ自体として」存在していた。では、市街地にある建物はどうだろうか。私は作品例として「飾り模様の壁の館」をご紹介する。
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 これは何がしバロック的なイメージを持つ巨大な建物で、明らかに市街地に立っている。というのも、右手奥に他の建物が見えているからであり、建物前の道路あるいは広場が、整備されているように見えるからであり、げんに四足の動物を伴った人物も見えているからだ。題の中で「館」とあるので、個人の「私邸」を指すもののようにも思われるが、どうも、この建物は「私邸」という雰囲気ではなく、何らかの公共建築物であるように思える。
 この建物は正面に先端のとがった入り口を一つ持っているだけで、少なくとも私たちに見えている左の側面には入り口らしいものはない。ファサード一階の開口部はいずれも飾り格子の窓であって、あの窓からは人は出入りできない。この建物の左背後に塔が見えている。この塔がこの建物に付属している施設かどうか、なんとも断言はしかねる。
この塔ほど高くはないが、似たような塔が右手奥に見えているので、この塔と建物本体は関連しているのかもしれない。いずれにしてもこの建物は、私たちに見えているファサードの装飾だけで、いわば「勝負している」。というのも、この建物の左側面は、むき出しの煉瓦になっており、正面の装飾性とは大きな違いを見せているからだ。少なくともこの側面は「見せる」側面ではなく、装飾は正面に絞られている。
そこで改めて正面の装飾を見ると、これは薄い黄色っぽい幾何学模様としかいいようのない地味な線が描かれている。さらによく見ると、もう一色の線があって、窓まわりなどを取り囲んでいる。ここからは私の勝手な想像だが、おそらく黄色い線のほうは、あまり凹凸を伴わないペイントか、あるいはたとえば彩色タイルのような素材が壁面に埋め込まれているなど、ごく平面的なものにちがいない。これに対して、もう一種類の線のほうは、壁面の凹凸を示す線ではないだろうか。
私はいま、正面入り口上の破風状の二等辺三角形の模様に注目している。この破風状部分は多少とも前の方に突き出ているのだろうか。それとも平面なのだろうか。この部分の屋根に相当するところで、黄色い長方形のパターンが切れている。一見単純に見えるが、この「飾り模様」の壁面はなかなか手ごわいものらしい。
 さて、ここで想像してみていただきたい。この建物の内部はどのような構造になっているだろうか。たとえばこの建物は一階部分が左右に張り出して、おそらく扶壁の役割をなし、上部に向かって先すぼまりに、シンメトリーに立ち上がっている。画家は、このような形状の建物をいくつも描いている。ではこの場合、二段目の屋根を支える柱はどのように立ち、さらに三段目の屋根を支える柱はどのように立っているのだろうか。かりに柱が立っているとして、その柱の存在がファサードのデザインにまったく影響を与えていないのはなぜだろうか? また、かりに建物内部が複数の床面で仕切られていると考えた場合、床はどのように設置されているのだろうか?
 私の率直な印象をいえば、この建物の内部には床仕切りも、柱もなく、巨大な空洞が広がっているだけのように思える。つまり柱や床があるとすれば、なぜかそのことによって、この建物の値打ちがなくなってしまうように感じられるのだ。もしかしたら、この建物は柱や床を拒否しているのではあるまいか? もちろん柱がなければ、これだけの建造物が自立するわけはないし、床がなければ人間にとって用途がないことになる。つまり誰かが、この建物を手に入れたとしても、これだけの巨大な閉ざされた空間の中で、その人には用途を思いつかないだろう。
 だが、これが鈴木航伊知の建物の特性ではないのか。この建物、「館」自体が一つの生き物であり、おのれの意志をもって自立し、装い、広場に向かって立っているのではないか。この館は人に利用してもらおうとか、人に中に入ってもらおうとか、何かに役立とうなどというけちな根性を持っていない。それは、建物が湖の上にあろうと、市街地にあろうと関係ない。彼の建物にとって、市街地とは単なる偶然のロケーションに過ぎない。「館」は自分が立ちたいところに立つまでだ。この「館」が口をきくとしたら、「ふん、柱や床の詮索など、余計なお世話だ」というのではないのか。

 
 

8-3.人が到着する建物

 ここで私は市街地の建物から、もう少し地方にあり、もう少し人間に対してやさしい感じのする建物、すなわち「平野に建つ建物」へと皆さんをご案内したい。最初にご紹介するのは、少し小高い丘の上にある建物、「丘の上の建物を目指す少年と馬」である。ごらんのように、この建物は「飾り模様の壁の館」と同じような意匠の建物だ。こちらの建物にも、背後に塔があるが、本体との取り合いがどうなっているかは分からない。
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 これは「平野の建物」全般についていえることであるが、平野の建物の画面の中にはかならず何らかの「人物」がいる。これまでに見た「水辺の建物」「市街地の建物」がどこか人を寄せつけない雰囲気を持っていたのに対して、「平野の建物」には、何がしかのホスピタリティがある。いま私が「平野に立つ建物」として分類した30点の作品を、その類似性によって、さらに分類してみる。すると次のようになる。
1.人物が建物に到着しつつある作品、または人物が建物を目指して進んでいる作品 9点
2.人物が建物の前で楽器演奏などパフォーマンスをしている作品 15点
3.上記二つに該当しない作品 6点
 お分かりのように「丘の上の建物を目指す少年と馬」は、上記の分類のうち最初のカテゴリーに含まれるものである。画家は、平野にある建物を人間との関連で描く。その関連の一つは「旅の終点」を意味する目標としての建物である。いま、この作品では白い馬と白いワンピースを着た少年が一本の小道をたどっている。その道は草原がきれいに刈り込まれたものであり、幾何学的な円弧を描いて左手に延び、丘の頂き付近で消えている。しかし私たちにはこの道が建物の正面入り口に続いていることがはっきり分かっている。この建物は、市街地にあった「飾り模様の壁の館」にくらべ、スリムで簡素である。入り口奥は階段状になっているのが見える。しかしこの建物もファサードで勝負している。正面の縁取り線が白く鮮やかだ。
 この絵は、馬と人物の組み合わせという点でも、「飾り模様の壁の館」に似ている。しかし「飾り模様」では、人物と建物との関係が消極的で分かりにくいのに対して、この絵では、少年と馬がはっきり、この建物に行くことが示されている。馬がどこにつながれるのか、あるいは放されるのかは分からないが、少年がやがて、入り口の階段を上っていくであろうことが、積極的に予定されている。この意味で、建物と人物とは親密な関係にあるといえる。
 では、少年はこの建物のオーナーであろうか、それとも訪問客であろうか? 私にはまったく分からない。そのどちらでもないような気がする。なるほど、少年はあの建物に着き、あの入り口の階段を登るだろう。けれどもその先、どのように生活するのか、まったく見当がつかない。建物はそれ自身で完結し、充足してしまっており、住み手を必要としているように思えない。ただ、当面訪問者に対して入り口が開かれているというだけである。
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このような、建物と訪問者との関係をさらに明確に示すのが、「四つの小塔を持つ館へのレモン売りの到着」である。この絵では、奇妙な飾りを持つ館と、手押し車を押す一人の天使が描かれている。この建物もバロック的な雰囲気を持っており、入り口の襞と一階部分の窓のアルコーブが壁の厚みを伝えている。ファサード上部にも櫓と塔が見えるほかに、赤く細い塔が立っている。題には「四つの小塔」とあるが、小塔のほうは、私たちの位置からは三本しか見えない。この小塔がどんな機能をするものか、私たちには分からない。
この絵では私は「レモン売り」である天使の体の向きに注目する。というのも、私にはこの天使が建物の前を通過しようとしているように見えるからだ。題には「到着」とあるが、本当に彼が到着しつつあるなら、この人物の向きはもっと館よりでなければならない。あるいは、彼はこれから方向転換をして館の中に入るのかもしれない。けれども、この館はどういう理由で「レモン売り」を受け入れるのだろうか? また館は「レモン売り」のためにどのような内部空間を準備しているのだろうか? それともこの館は「レモン売り」のものなのだろうか。だとすれば、どうして「帰還」ではなくて「到着」なのだろうか?
以上の考察は、これらの建物がよしんば人物を受け入れるのにやぶさかではないとしても、建物が別に住み手や訪問者を少しも必要としていない、という結論に導くように思われる。建物はあくまでも建物である。人間たちは人間たちである。それは独立した存在であり、少なくとも建物は人間には従属していない。それどころか建物は独自の人格を持ち、独自の存在を維持し、なにものにも依存していない。

 
 

8-4.花の館
次に私は、「平地に建つ建物」の代表的作品として「花の館」に皆さんをご招待する。この建物は、青い空を背景に広がる草原の中の一群の建築塊である。ごらんのように、この建物の本体外壁は白っぽい石あるいはモルタルを思わせるものであるが、この外壁ならびに外構に「花」をつけた植物が有機的に取り込まれている。これらの植物はむろん地面から生えているが、一部は外壁の一部と癒着しているようにも見える。いちばん目を引くのは中央に屹立する花のポールだ。これ似た意匠の花のポールは館の左右にも立っている。このほかにも美しいが、巨大な花々が城壁を取り囲み、自らも城壁の一部となってこの館を飾り立てている。なんと奇妙で美しいイメージだろう。
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この館の入り口はどうやら画面左手前に見えるドーム屋根の小屋らしい。この入り口には鈴木航伊知の絵としては珍しくドアがあり、半開きになったドアにはリースがかけられている。またドアの両脇に、一対の、あたかも人体をかたどったかのような、門飾りが立っている。この小屋から左上がりに銃眼つきの壁が見えているところからすると、あの内側が登り階段になっているにちがいない。
建物上部右手には複数のパラペットが折り重なって見え、その背後に、アラビア風の円筒型の塔が寄り添って立っている。なお、城壁の右角には金属製と思われる細いポールが見える。その先端には星型があり、さらには4本色のリボンが吹き流れている。一群の円筒形の塔左脇に四角い塔があるが、この塔にはつる性の植物が絡みついている。中央の花ポールを越えてさらに左側を見ると、ここにも円筒形の塔が束ねられて立っている。
さらにその左には視覚的にはいちばん手前に見える円筒型の塔が独立して立っている。この塔は明らかに「望楼」であり、げんに、開口部には人の姿が見える。なお、この絵の人物については後ほどゆっくり考えることにしよう。いずれにしても、この館においては「葱坊主」と呼ばれる円屋根が特徴的で、アラビア風の印象を与えている。
すでにお気づきのように、この絵には複雑な「空間のねじれ」が詰め込まれている。それだけではない。この絵においては「サイズのねじれ」が顕著である。というのも、本来は小さいはずの花々が右下に見える人間や馬にくらべてあまりにも巨大だからだ。おそらくはこの「サイズのねじれ」は、「空間のねじれ」とつながっているにちがいない。
この館の空間的な「ねじれ方」の複雑さは、画面左側に見える望楼、城壁の位置関係をご覧になればお分かりだろう。城壁がどのように立体的につながっているのかは、まったく謎である。むりに整合性を追及しようとすると私たちの頭が混乱する。この望楼は、明らかに城壁の前に立っているのだが、その裾部分は花の茂みの中に消えてしまっている。
さて、ここで人物とその他の生き物の観察に取りかかろう。この絵には二人の人物がいる。左下の白い馬に乗った人物と、さきほど見た望楼の上で見かけた人物である。まず白馬の人物であるが、彼は一見したところ、男性で、冠をつけた騎士のように見える。けれどもさらによく見ると、彼は「鼓手」であることが分かる。なぜなら彼は現在、美しく彩色された太鼓を叩いているからだ。
この人物は背中に何かを背負っている。この荷物はどうやら、私たちが「第一章」で見た、「旅の小間物屋」の、あの引き出しつきの箱に似ている。この人物は頭に冠のようなものをかぶっている。衣装は一見「騎士」を思わせるのであるが、よく見ると、チュニック風のワンピースあるいはガウンを着ている。彼は馬に跨っているのではなく、どうやら横坐りしているのではないかと思われる。
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この鼓手の前方には狐がいるが、この狐はその長い尾で一束の花を捧持している。この花を持つ狐がどういう役割を持っているのかは不明だ。地面の中央部分に一匹の孔雀が見えることにはお気づきだろう。このほかにも、この絵の中には複数の鳥がいる。飛んでいるのもあれば、花をよそおって茂みに隠れている鳥もいる。
さて、いよいよ望楼に立つ人物だ。この人物が何者かはわからないが、女性のように見える。女性であるとして、彼女は頭に冠をつけている。この冠は、鼓手がつけているのと同じものだ。彼女はこの館の主であろうか、それとも、「見張り」であろうか? いずれにしても彼女がこの館内部の人間であることは間違いない。であるとすれば、私たちはここでようやく「建物の住人」に遭遇したことになる。
私はここまで、「彼の建物は住み手を考慮しない」「むしろ人間を拒否している」とさえ考えてきた。ところが、この絵においては、二人の人物が描かれている。そして「望楼に立つ人」も「入り口付近の鼓手」も、ともにこの館に対して「何らかの親しい関係」を持っているように見える。であるとすれば、鈴木航伊知の建物はかならずしも「人間を拒否している」とはいえないはずではないのか。
 しかし私はここでも、彼の絵においては、「人間」と「建物」はまったく別個の存在だとする考えをどうしても捨てきれない。というのも、私はこの「花の館」における主体をあくまでも「花」だと考えるからだ。この絵に登場する人物がつけている冠は「花冠」であり、「花ポール」を形成しているのと同じ趣旨でデザインされたものである。「冠」の象徴性からして、私はこれらの人物は「花」の化身であると考える。彼らは人間ではない。人間の形をした花なのだ。
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 あの門飾りは、もう少しで人間の形をした「衛兵」になるかもしれなかった花たちである。鳥たちはある意味では飛べる花である。この幻想の館は、文字通り「花の館」だったのだ。こうして、花の館はその本質によって美しく装いながら、なお、人間たちとは無関係に、あるいは人間から「独立して」ここに建っている。いま花の館の前で小太鼓のトレモロが鳴っている。だが望楼の「人」は、まったく別の方角を眺めて、ほとんど何にも関心を示していない。

 
   
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