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私の生活術
 
第1章 ラコニック・ライフのすすめ

1-1.夢を実行する生活術
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私は来年70歳になる独身の男性である。「すでに引退の身である」といいたいところだが、いまでも若干の仕事が残っている。まもなく完全に開放されるものと期待している。したがって私は毎日がほぼ日曜日、という気楽な生活をしている高齢者の一人だ。数年前に家内を病気で亡くした。家族は娘がひとり。同じマンションの一室に住んでいるが、生活は別である。私は毎日自分で買い物をし、食事の準備や始末、掃除や洗濯など一連の家事をしている。

家事は若い頃から自分でやってきたので、あまり苦にならないし、自分なりに工夫もしてもいるので、いくぶん楽しくさえある。クセノフォンの「家政論」を読むと、男でも料理をするのは当たり前だと書いてある。だが、いくら楽しいとはいっても、家事のために一日中を使うのは主義に反するので、家事のための時間は最小限に節約し、好きな読書、音楽、交友のために、惜しみなく時間を使えるよう工夫している。

 私の生活法は、普通の人がしているのと同じもので、ごく平均的なものだ。私は必要以上に目立つのは嫌いだ。それだけ義務が増え、負担や危険が増すからだ。義務とは負債の別名だ。私はいまさら負債を背負いこむのはごめんだ。だから何事にも積極的にかかわらないこと、平凡でつましくあることを心がけているし、そのことに満足もしている。

ただ私の生活習慣は、他人から見るといくらか奇妙なところがあるらしい。ときどき人に妙に感心されることがある。中には「あなたの生活方法を本に書きなさい」などと熱心にいってくれる人もいる。自分のことを語るのは気がひけるが、今回は調子に乗って、自分の日常生活についてメモを作ってみることにした。私自身にとって整理になるかもしれないし、たまたま誰かの参考になれば、それもなお結構という気持ちである。

自分としては「ありのまま」に書くつもりだが、それでも自分をカッコよく見せようとするかもしれない。都合の悪いことは書かないだろうし、老人特有の自慢話やお説教に陥る可能性がある。私が第三者ならこんな記事は読まないが、それでも読むという人は、なにぶん私の誇張やごまかしを割引して読んでいただきたい。

 「自分は結局何をしたいのか」「自分は何をすれば幸福なのか」、要するに「自分の人生をどう過ごすと、自分に納得がいくのか」、これが各人の生活方法、あるいは生活術のありかたを決定づける出発点だと思う。万人にとって正解となるような、共通の生活法、あるいは生活術などあるわけがない。各人の願い、あるいは価値観が生活法を決定づけるのだ。誰しもこの点ははっきりしておいたほうがいいし、答えはできるだけ単純なほうがいい。

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私は若い頃から音楽が好きだった。学生時代にはまじめに作曲家になりたいと思ったこともあった。残念ながら当時の私は、経済的な理由から音楽家の道は断念せざるをえなかったし、自分の資質についても絶望する瞬間があった。それはちょうど私が20歳の誕生日の日だった。ラジオからブラームスの「クラリネット五重奏曲」が流れてきた。あの曲を聴いて、「もう、私の仕事は残されていない」と思った。これがあつかましい判断だったのか、謙虚な判断だったのかはわからない。いずれにしても私は学校を卒業して普通のサラリーマンになり、40歳前に独立して一匹狼の経営コンサルタントになった。

けれど、「音楽をしたい」という気持ちは終始変わらなかった。仕事をしている時でも音楽を忘れたことはなかったし、演奏や作曲を完全にやめてしまったことはなかった。そこで晴れて自由時間が持てるようになったいま、私は、フランスの哲学者アランがいうところの「音楽のような暮らし」をしたいと思い、これを自分なりに実践しているのである。

 

1-2.「やりたいこと」のための空間
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 誰にでも自分なりの夢があり、趣味があり、「やりたいこと」があるはずだ。そのことのために生活を組み立てる、これが当然ではないだろうか。「やりたいことはあるが金がない」というなら、その金をかせげばいいのだし、「時間がない」というなら、その時間を作り出す方法を考えればいい。私の場合は、自分がしたいことをするために60年以上の回り道をしたわけだが、回り道の途中で死ななかったのは幸いだった。

 盛岡に80歳を過ぎた私の叔父がいる。叔父は酒が大好きだ。彼の生活のコンセプトは「酒を楽しむ」ことにある。だから彼は毎日のお酒がおいしくなるように身体を鍛錬している。毎日の散歩の距離は私よりも長く、ハードだ。体にいいという食べ物があれば、すぐに買いに行って試してみる。彼は写経をしたり、ワープロの練習をしたりして、毎日を気分よく過ごす。こうして晩酌の時間を待ちかねる。明日もまた酒を楽しむのだから、無茶な飲み方をしない。「したいことのために生活を組み立てる」という点で、叔父の生活は合理的で首尾一貫している。

 私も叔父にならって、「したいことのために生活を組み立てる」というやり方をとっている。「したいこと」のための時間を確保するには、無駄な時間を切りつめる必要がある。また「したいこと」のための空間を確保するためには、不要なものを身辺に置かないことが必要になる。まず、この「スペースの確保」という点から話を進めよう。私の家、すなわち私が自由にできる空間は、「私がしたいことをするための空間」でなければならない。この点に不都合があれば、私は何をしているのか、何のために毎日を生きているのかわからなくなる。

 私の家をはじめて訪ねてくれる人は、部屋に入って「グランドピアノが2台もある!」といって驚いてくれる。そして壁面の本棚を見て「こんなに楽譜がある」とか「本がずいぶんありますね」ともいってくれる。要するにはじめての来訪者は、げんに彼らの視野に入るものを指摘して感心してくれる。ところが私の考えでは、私の部屋にはピアノと楽譜と本しかない。ほかには何もない。もちろんまったく何もないといってはいいすぎだ。一応食事のためのテーブルはあるし、椅子もある。ごく旧型の小さいものだが、テレビもあるにはある。読み書きするためのデスクもあるし、ベッドもある。

 稀に注意深い訪問者が、けげんな顔をして「この家には何もありませんね」といってくれる。私としては「**がある」といってくれる人よりも「**がない」といわれるほうがうれしい。というのも、そこが私の努力の結果だからだ。私の生活法においては、私の生活目的に寄与しない「モノ」は、私にとっては不要物であり、邪魔者である。それらが貴重な生活空間の中に立ち混じることは許されない。

 わが家のリビングルームには2台のピアノをぶっちがいに置いてあるが、この同じ空間で、室内楽を演奏したり、ジャズのセッションをやったり、勉強会を開いたりしている。勉強会の時には20人ほどの人が集合する。たとえば室内楽、たとえば「ピアノ五重奏を楽しむ」という場合には、ピアニストのほかに、ヴァイオリン2台、ヴィオラ、チェロなどの演奏家がめいめいの楽器を持って座り、さらに演奏家の前には譜面台を置く。ヴァイオリンを演奏するときに隣の人に肘がぶつかっては困るから、ある程度の間隔を確保しなければならない。

たとえば、20人の人が集まって小さなセミナーをしようという場合には、それだけの椅子を並べなければならない。というわけで、あまり広くもないわが家のリビングに、上記のための空間を確保するには、不要なものを置く場所などまったくないわけだ。

 
 

1-3.床面は神聖なものである
 前回お話ししたような実際上の必要もあって、私は原則として床の上に物を置かない。私の考えでは、床面は神聖なもので、冒すべからざるものである。室内を多目的に使うためには、ともかく「自由空間」がなければならない。自分が置いたものをよけて通るなぞは、愚の骨頂である。床の上に長時間にわたって物を置こうとするからには、それなりの必然性と根拠がなくてはならないし、同時に配置の妙と視覚的な満足がなければならない。

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ちなみに床の上に、べたべたと置きたいものを置いて見給え。どんな広い家でもたちまち全体がゴミ集積所となる。そして、床はそのものを置くというただ一つの目的のだめに独占されてしまう。よくテレビで報道される「ゴミ御殿」は、主として床や通路などに物を置くべきでないものを置いている事例のきわめつけだ。そのような「模範的」なゴミ御殿も内部をよく見れば、雑然と置かれた物の上部の空間はガラあきだ。問題は「床面をどう考えるか」という点にあったのである。

 かつて私も人並みに「応接椅子がほしい」と思ったことがあった。そこで応接椅子とテーブルを買ってきた。ところが、家具を置くと部屋が急に狭くなる。ではその応接椅子をどのくらい使うかといえば、1日1時間も使わない。そして応接椅子に座っているときにはテレビを見る以外には何もしていない。応接椅子に座ってテレビを見ることが私の人生の目的だったのだろうか? 私はそう自問した。答えはノーだった。だから私は応接椅子とテーブルは廃棄してしまった。同じことで私は室内にはタンスも茶ダンスも本棚も置かない。

わが国の不動産は床面積いくらで取引される。よく高価な土地を「土一升、金一升」というが、私たち平凡な市民の住居の床面だって、1平方メートルいくら、という高価なものだ。その貴重な床にめったに使わないものを置くのは大きな損失だ。それに高価だからこそ狭くなってしまう床面積を、無意味なものを置いてさらに狭くするという手はない。

 床面が神聖にして犯すべからざるものであるように、テーブル面も神聖なものである。したがって、ここに常時物を乗せておくのはご法度である。テーブルの上作業台であり、ここで食事や仕事をする。そうでないのだとしたら、テーブルは不要な物となるはずだ。だからテーブルを使おうとするときに、いちいちその上にある物を移動しなければならないというのはかげている。テーブルの上に、げんに置かれてある物は、移動されてもまたどこかの平面を占有するだろう。そのときにまた別の平面を汚染するだろう。という次第で、私はテーブルの上には、何も置かない。もちろんピアノの蓋の上にも何も置かない。

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 いつぞや新宿の雑居ビルで火災があって多くの人が焼け死んだが、その原因のひとつは階段周りやドア周りに雑然とおかれた「物」であった。これらの物が逃げようとした人々をさえぎり、防火シャッターの開閉までも不可能にしていたのではなかったか。立派なビルに入っている会社などで、荷物や書類のダンボールが床面や通路などに雑然と置かれているのを目にすると、自分の持ち物でもないのに私は悲しくなる。床面と通路面という、建築上の必要性と美しさが、利用者たちの心ない使い方のために破壊されてしまっているからだ。

 
 

1-4.報道される日本の恥
 これに関連して、私は地震のときのNHKの速報ニュースについてひとこといいたい。どこかの地方で地震が発生すると、第一報が地方の局の事務所の「ゆれ」を伝える映像として入ってくる。なるほど画面の事務所は揺れている。だが、その事務所の何と雑然としていて汚らしいことか。スタッフの机の上には書類がところせましと積み上げられ、棚のものは地震などなくても崩れそうな状態で積まれている。

また滑稽なことに、ときおり事務所の天井から「部署表示」の看板がぶら下がっていたりして、これが地震のためにゆらゆら揺れている。私は「もしかして、これはお笑い番組なのか?」と思ってしまう。あの看板が下がっていないと、どこに何があるのかわからないのだろうか? それともNHKの地方局はふだん出入りしているスタッフにさえ、その位置がわからなくなるほど広すぎるのだろうか? 私は地震よりも、あのひどい事務所の光景にあらためて驚き、悲しくなる。どの地方で地震が発生しても申し合わせたように同じ光景が見られるのだから不思議だ。あれは日本国の恥だ。

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同じような光景は、霞ヶ関のお役所でも、あるいは地方のお役所でも見られる。私が二三年前に訪ねた中央のお役所では、各自のデスクの上に書類が山のように積まれて、書類のトンネルの向こう側にパソコンの画面が怪しく光っていた。壁面の書棚の書類など、お互いにもたれかかっていて、書類の束が大きくわん曲している。たまたまあの中の一冊を取り出しても、もう書類はきれいな二次平面には戻らないだろう。紙の折り癖は、いったんついたらもう元には戻らないのである。

私の考えでは、お役所やNHKの事務所の空間管理は、わが国のオフィス活動のお手本となるべきものである。しかるに、彼らは自分たちのオフィス空間の問題解決を放置したままだ。こんにち、さかんに「ペーパーレス」が叫ばれているが、ペーパーレスになったところで事情は変わるはずがない。あの雑然たる空間管理方式が、そっくり、各自のパソコンやサーバーに移し込まれるだけにちがいないからだ。かりに百歩を譲って、サーバー内のフォルダやファイルの仕組みが整然と作られても、使い手が悪ければ、ファイリング・システムがまともに機能するはずがない。一事が万事である。

 
 

1-5.「ラコニック」とは何か
 自分がしたいことをするための空間をつくるには、まずもって「床面に物を置かない」「テーブルの上に物を置かない」というルールを自分に対して徹底する必要がある。そのためには不要物を「捨てる」ということが絶対条件となる。するとここで問題は、「不要物をどう定義するか」となる。誰しも持ち物を捨てられないからこそ、ついには置くべきでない床面にまで置くようになるのだ。

考えてみれば、床面やテーブル面がギセイとなっているような「問題空間」には、その人にとって「大切なもの」が置かれているに違いない。それにまた最近では誰もが軽薄にも「日本人は『もったいない』という観念を失ってしまった」などという。するとますます物が捨てられなくなり、床面にあふれてしまう。私は「もったいない」を、したり顔で連発する連中にいいたいのだ。「もったいないものの中に、貴重な空間は含まれていないのか」と。

 私は「ラコニック」という価値観を自分に与えている。「ラコニック」とは「ラコニア地方の」「ラコニア風の」ということである。これは古代ギリシャ、質実剛健で知られたスパルタ地方とその風習のことを指す。古代スパルタの立法者リュクルゴスは市民に質素の美徳を教えた。古代スパルタでは、人々は共同で食事をし、個人的な財産や金銭にこだわらない生活態度を守ったという。

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 当時、他の国々ではすでに金貨や銀貨が流通していた。リュクルゴスはスパルタの通貨を「鉄貨」にしたとも「革製の貨幣」にしたとも伝えられる。鉄貨では他国に持ち込んでも通用しない。それに蓄財しようと思っても錆びるし、重いし、どうにもならない。「革貨」だって値打ちのないものだ。それはじき腐ってしまう。こうして古代スパルタでは、華美、虚栄を廃し、あくまでも最少限の必要で満足するという気風が形成された。そこで今日でも質実剛健、華美を排除する簡素な生活態度を「ラコニック」というのである。

 私はやや不徹底ながらも「ラコニック主義」を採用し、これをもとに物の「要、不要」を判断している。この考えかたを適用すると「これも、あれば便利だ」「いつかは使うかもしれない」「捨てるにはもったいない」という家具や道具は、はっきり「不要物」と定義される。反対に「これがないと暮らせない」というものだけが「必要」となる。

 ちなみに、「自分が生涯つきあおうとは思わない本や雑誌」は不要物になる。「着ようと思えば着られる洋服」も不要物だ。使わない道具、食器、寝具などはすべて廃棄の対象となる。個人的な記念の品々も、「その現物」が必要なのか、それとも「そこに盛られている情報」が必要なのか、自分に聞いてみる。「現物」にかけがえのない価値がある場合は保存するが、アルバムやその他の記録などのように、情報の保存が問題であるような場合には、私はそれを写真にとったり、スキャナで記録し、空間を占有する物質の方は廃棄する。Otakara

 たとえば、ここに陶器の大きな花瓶が出てきたとする。見た目にも美しくキズもない。もしかしたら何万円もする「お宝」かもしれない。花を活けてテーブルに飾れば、季節感を表現でき、自分の目もお客さんの目も楽しませることができるかもしれない。要するに「使えるもの」「捨てるには惜しいもの」「これからも十分使う可能性があるもの」をどう扱うかという問題である。このように一瞬判断に迷うとき、私は2つの質問を自分に投げかける。「今すぐ使うか?」「過去3年の間に、これを使ったことがあるか?」。どちらの質問にもノーであれば、私はためらいなくそれを捨てる。それは「必要物」を装ったゴミにすぎないのだ。

 
 

1-6.「引越し貧乏」は本当か?
私は2年前に世田谷の戸建住宅から大崎駅近くのマンションに引っ越してきた。家内が亡くなって、自分と娘だけで住むには時間的にも、空間的にも無駄が多くなってきたからである。世田谷時代から、私はラコニック主義を貫き、身辺の品物を整理していたが、この引越しのときにさらに一段と合理化を進めることができた。よく「引越し貧乏」というが、私にいわせれば引越しは身辺の「物」との関係を見直す絶好の機会だ。

引越しはゴミを捨てるチャンスだ。なるほど50年間も引越しせずに一つ所に住んでいられるということは、幸いかもしれない。私は「君はよく引越しをする」と非難口調でいわれた。考えてみれば私は生涯に30回以上も引越しをしてきた。2年に一度ぐらい引越しをした勘定になる。引越しをしない人から見れば、私は典型的な「引越し貧乏」であり、お悔やみをいってくれるかもしれない。これは負け惜しみでいうのだが、50年も引越ししない人は、単に貰いうけた遺産に依存している人に過ぎない。地べたに貼りついているようでお気の毒だ。

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引越しのたびごとに、心ならずも何かを紛失していくことはたしかだ。移動は面倒だし、金もかかる。そこで「引越し貧乏」ということになる。だが、50年来のゴミと一緒に生活している人が、度重なる引越しで極度に合理化されたライフスタイルをさして「引越し貧乏」とは、「よく言う」と私は思う。いけないのは、せっかくの引越しのときにゴミも一緒に持ち運ぶ人々なのだ。私の考えでは、人は引越しによって、否応なしにラコニックになる。以前よりも狭い家に引っ越すとすれば、なお結構だ。考えて見給え。死ぬときに必要なのは寝具1組とパジャマ1枚だけではないか。

2年前の引越しのとき、私はかなりの食器、寝具、洋服などを捨てることに成功した。その後、愛用していたクルマが不要であることに気づいた。駅に近くなったからである。クルマは期待以上の値段で売れたし、駐車料も含めて維持費もかからなくなった。自分のクルマで人様にご迷惑をかける危険もなくなったので、たいへん満足した。以来クルマがなくて不便だと感じたことはない。

クルマを捨てることによってもうひとつ思わぬメリットが生じた。遠距離用=運転用のメガネが不必要になったのである。過去約20年にわたって、私は遠視と近視の、2種類のメガネをかけ替えるという不自由な生活してきた。クルマに乗らなくなったので、私はもう遠距離の事物にピントを合わせる必要がない。ここで私は「遠距離の鮮明な視界」を捨てたわけだ。むろん、もう免許証を持ち歩かなくてもいい。

物の捨て方にもいろいろある。クルマのようにすぐ売れるものもあるし、欲しい人に引き取ってもらうことができる場合もあるし、単なるゴミにしかならないものもある。こういう次第で、「ラコニック主義」を採用した私の身辺からは次第に物が消えていき、床面もテーブル面もスカスカの状態になったのである。

老年とは有難いものだ。あと幾年も生きないことがはっきりしているのだから、「この洋服はもう着ない」「これはもう使わない」「これはもう要らない」と、自分自身に対してはっきりいえる。80歳にもなって、まるで、自分があと100年も生きるかのように思い込んで、何もかも溜め込んで使わずにおく人は、幸福なほどに楽天的なのだ。

もちろん、この「ラコニック」が気に入らない人は、ご自分の流儀でおやりになればいい。また別種の価値観を採用されるのもいいだろう。なにも私は自分だけがいいことをしているとは思ってもいない。多様な価値観はダイナミックな社会の原動力である。だから、自慢の「お宝」で部屋中をいっぱいにして楽しむ人がいてもいいし、中途半端な人がいてもいいし、私のような「ラコニック」主義者がいてもいいわけだ。

 
 

1-7.カーテンは隠さない
 散歩をするときなど、私は見るともなしによその家の窓を見る。たいていの窓にはカーテンが下がっている。引越しをしたことのある人なら、「何はなくても、まずカーテン」という実感を持ったことがあるはずだ。ところがそれほど大切なカーテンが、かならずしも大切にされているとは限らない。私の考える「大切にされているカーテン」とは、カーテンのすべての襞が垂直に下まで降りているカーテンのことをいう。

 だめなカーテンは、カーテンの襞が途中で折れ曲がっている。窓際に何か置かれるべきでない物が置かれているために、カーテンがそこで引っかかっているからだ。室内にいる自分たちに見えないせいでもあろうか、出窓にいろいろな道具や置物を押し込んで、外部に向けてこれを展示している家もある。このような場合、カーテンはぐしゃぐしゃだ。そこで、次のような一般的公式が導かれる。「外から見て、カーテンの襞が垂直に降りている家の内部は整理整頓されている。カーテンの襞が曲がっている家の内部は整理が行き届いていない」。

 もちろんカーテンの垂線が曲がっていようと、まっすぐであろうと、住人にすれば余計なお世話だ。それに何度もいうが、世の中には多様な暮らしがあっていい。ただ私は「視覚的に遮蔽する」という機能を持っているはずのカーテンが、室内のありようを隠すどころか、暴露しているといいたいだけのことである。

さて、次に空間の有効活用を考えよう。同じものでも置き場所の工夫があるはずだ。たとえば、しょっちゅう使うものを取り出しにくいところに置くのはバカげている。小さくて判別しにくいものを暗い場所に置いたり、反対に使用頻度が低いものを「一等地」に置くというのも不合理だ。非常時用の懐中電灯を棚の奥にしまいこんだり、何度も置き場所を替えたために忘れてしまうのも愚かだ。

最近私はMDプレーヤーとチューナーを取り外し、マンションの地下にある倉庫に移動してしまった。オーディオ装置のうち、使用頻度が高いのはアンプとCDプレーヤーだけだということに気づいたからだ。おそらく、あと一年以内にこのMDプレーヤーとチューナーは、倉庫からも放出されるだろう。じつをいえば、このようにまだ不要物と判定しきれず、捨てるまで一休みさせている物品がいくつかある。コンピュータには、使用頻度の高いファイル、プログラムなどを優先的に表示してくれる機能がある。あの考え方を生活物資にも応用しているのである。

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不要なものはすみやかに捨て、使用頻度の低いものは引っ込め、使用頻度の高いものを手前に持ってくる、これが配置の原則ではないだろうか。たとえば食器棚の食器は、使用頻度の高いものを手前の取り出しやすいところに置き、そうでないものは奥、あるいは高い棚に置く。こんなことは誰でもしているに違いない。引き出しの中の配置も同じだ。使用頻度の高い物品には、引き出しの手前側を占有する権利がある。だから、ゴミを捨てるための小袋、輪ゴムなどは 私の引き出しの中では「一等地」を占めている。

 何でもかんでも使用頻度の高いものを手近かなところに置くかといえば、わざとその反対を心がけているものもある。たとえば、私にとってもっとも使用頻度の高い愛用の皿は、食器棚の上、かなり手を伸ばさないと取れないところに乗せてある。また散歩のときに毎回もって出るマフラーは、ワードローブの引き出しの一番下に入れてある。背伸びをしたり、深くしゃがんだりすることが、ストレッチの機会になる。要するに、私にとっては何の理屈もつかない「無意味な配置」というのが面白くないのだ。

 
 

1-8.同じ本を買う失敗
 2年前に引越しをしたとき、本棚に本をどう並べるか考えてみた。引越しなど、めったにない大幅な改革チャンスだからだ。私は「図書コード」に従って本を配置することを考えつき、図書の内容を再点検してみた。すると、自分の手持ちの蔵書がいかに偏っているかがわかり、大いに反省するところがあった。

結局、部屋の大きさと壁面との関係で、本の置き場は大きく三つに区分せざるをえなかった。楽譜と音楽関係の図書、それにCDなどはリビングルームに、哲学や評論関係の棚は寝室に、文学書を中心とするその他の図書は、別の一室の両壁にまとめることにした。いまのところ文学系の図書は著者の国別でブロック管理し、その他の棚はゆるやかな著作者年代順の配置にしてある。書籍の場合には使用頻度による配置は意味がない。探したい本をすぐに見つけられるようにすることがポイントだ。

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私にとっては本の配置のよしあしは切実な問題だ。というのも、自分がすでに購入して持っているのに、まったく同じ本を買ってしまうことがあるからだ。この失敗はしょっちゅうやっている。「同じ本を買うとは、バカなやつだ。それはただ本を溜め込んで、読んでいないということではないか」といわれるだろう。まったくその通りだ。本を読むスピードや順番と、本が出るタイミングやスピード、それを購入するタイミングとの間にはズレがある。だから飾っているだけで何年も読んでいない本が山ほどある。一方、新刊書は出たときに買わないと、すぐに絶版になる。というわけで、本棚を整理していないと、いや、しているつもりでも、二重買いという馬鹿なことをやってしまうのである。

失敗談を出したところで、本棚の自慢をさせていただく。若いときから本には親しんできたので、本棚に関してはあれこれ試してみた。その結果、パイプとスチール板を組み合わせたドイツ製の組み立て棚に落ち着き、自分としてはかなり満足している。この本棚の場合スチール製だから、棚や仕切りの厚みがほとんどない。そのぶん本を余分に入れられる。これが木製だったら、棚の厚み、仕切りの厚みとも最低2センチは必要になるだろう。その場合には私の蔵書のうち200冊以上は行き場を失うことになってしまう。

この本棚は非常に頑丈だ。棚と壁との間はボルトで接合してあるから、大地震の場合は、本棚は建物と運命をともにし、さしあたり中身の本だけが威勢よく飛び出すにちがいない。本が飛び出すのも危険なしとはしないが、本に埋もれて死ぬならば私としては「本」望だ。

棚は天井までの高さにまで作ってあるので、高い棚には手が届かない。そこで高い部分には年代区分を考慮しながらも読み終えた本、小型の本を置くようにしている。それでも、その本が必要になるときがある。高い棚の本を取るために、部屋の隅に小さな脚立を置いてあるが、面倒なときには本棚にしがみついて登って欲しい本をとる。これも運動のうちだ。

この同じパイプとスチール版の組み合わせで、私は専用のCD用のラックを作ってもらった。引き出し式の棚を作ってもらい、そこにCDが収まるようにアクリルの箱を載せたものである。約2000枚ほどのクラシック音楽CDを、作曲者のアルファベット順で並べてある。おそらくそう遠くない将来に、このCDのデータは、全部をパソコンに入れて管理できるようになるだろう。そうすれば、CDもCDラックはお払い箱になるかもしれない。なお、楽譜は原則として楽曲の形式区分をしたうえ、ゆるやかに年代順に配列している。

 
   
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