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私の生活術
 
第2章 クセノフォンにならう

2-1.理想の住まいとは
 ある日、アラジンのランプの精がやってきてあなたにこう言うとする。「あなたが一番欲しい物を一つだけ具体的にあげてください。それがいくら高額でも、購入資金をさしあげましょう。そのかわりあなたは持ち主として、それを使用し、管理し続けなければなりません。さて、あなたは何を買いますか?」。
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 あなたはあこがれの高級車を買うかもしれない。あるいは途方もなく立派な宝飾品や美術品を買うかもしれない。あるいは広大な敷地を手に入れて観光牧場を始めるかもしれない。だが、自分で「使用し、管理する」という条件がつくとなると、多くの人は「わが家」あるいは「住まい」を希望するのではないかと私は思う。というのも、誰もが「理想の生活」を求めているからだ。たとえすでに立派な持ち家を持っている人でも、無制限にいいものが手に入ると聞けばきっと心が動くにちがいない。なにしろ、私たちがする現実の買い物のうちで「住まい」は一番高価なものであり、上には上があるからだ。
 第二次大戦終、アメリカやヨーロッパの映画がどっとわが国に入ってきた。私たちはそれらの映画を通して、文明度の高い人々の優雅なくらしぶりを見た。広々とした室内空間、豪奢なシャンデリア、ぴかぴかの家具、家電製品、青い水をたたえたプール、ゆったりとしたガレージ・・・。映画で見た西欧のくらし、あれが私たちの憧れだったのではないだろうか。
 思い返せば、私たちはあの映画の場面に見られたような、理想の生活環境の実現を目指して働いてきたような気がする。住宅の「広さ」と「プール」についてはどうかわからないが、電化製品や家具やクルマについていうなら、日本人は理想を実現したのではないかとさえ私は思う。いずれにしても日本人の「持ち家率」は格段に高くなり、住まいに関する環境は格段に向上した。それでも、「ワンランク上」を求める人はいるだろうし、「資金が許すならプールつきの家を」という人もいるに違いない。
 さて、ランプの精の力で各人が「理想の住まい、あるいは邸宅」を手に入れたとする。では、お尋ねする。その邸宅のたたずまいは雑然としているのだろうか、それとも整然としているのだろうか? もちろん「理想の邸宅」であるからには整然としているに違いない。つまりそれは美しく、清潔に整えられている「美邸」に違いない。私たちはなぜか「理想」という概念と「不潔や雑然」という概念を一緒にすることができないのだ。
 そこで住まいの価値観を「新しさ−古さ」と「清潔−不潔」という2軸で考えてみる。この2軸の交差から次の4つのケースが考えられる。すなわち「新しく、清潔な家」「古いが、清潔な家」「新しいのに、不潔な家」「古くて、不潔な家」。上記の組み合わせで、管理という側面でももっとも価値があるのは「古くて、清潔な家」ではないだろうか。というのも、この場合がもっとも管理上の努力を必要とするからだ。新築の家が清潔で美しいのは当たり前である。だから、かりに「新邸」「豪邸」、あるいは「美邸」であるにもかかわらず、手入れがゆきとどかず、不潔で、雑然としていれば、このケースがもっとも醜悪だ。
 以上のような簡単な思考テストから、私たちの人生の生活拠点に関する理想は、「美しく、清潔に管理された家に住む」ということに帰着するように思える。もちろん世の中にはへそ曲がりもいるから、「私はできるだけ不潔な家に住みたい」と主張する人がいるかもしれない。この人にとって理想の実現はさして難しくない。単に管理努力を放棄し、あるがまま、なるがままにすればいいからである。

 

2-2.どの程度清潔であればいいか
 かりに「美しく清潔な住まい」が人生におけるひとつの目標なのだとしたら、それを日々実現しようとすることは当然であり、その反対に雑然として不潔な住まいは、自分自身の理想に対する裏切りである。してみれば自分の住まいをつねに掃除し、手入れし、清潔に保つのが理想への早道であり、理想の実現そのものだということになる。
 もっとも、清潔、美しさの許容範囲は人によって差がある。私が「自分の家はきれいだ」といっても、他人が見たらひどく不潔だと思うかもしれない。清潔好きにも程度があって、病的なまでに潔癖な人は、消毒しないものには触れることができないという。げんに、消毒液を浸したガーゼを持ち歩いている人もいるくらいだ。
 私の清潔の概念はかなり甘いほうだ。たとえば、1日1回、定時に室内の「お掃除」ができているなら、私の清潔基準では「合格」となる。私のいう「お掃除」とは、前日から屑かごにたまっているごみを捨てること、そして毎日室内に降り積もるチリの除去を主とする。これに加え、あるべきでない汚れを取り去り、白いものは白く、光るべきもの光らせること、ただこれだけである。
 しかしいま述べた程度のメインテナンスで一応の清潔度を維持するには、前章で述べた「床には何も置かない」「テーブルの上には何も置かない」という前提条件が必要だ。床の上にごちゃごちゃと物を置いて、そのものをよけながら床を拭いても気休めにしかならない。床面がきちんと確保されていてこそ「床掃除」に意味がある。私は「清潔」と「床面の確保」、すなわち「ラコニック・ライフ」は密接に関連していると思う。
 床の上に家具や道具が置かれていれば、床面に複雑な凸凹ができる。その凹凸の上に「汚れ=チリ」が毎日、容赦なく降り積もる。だから、「チリ」ということだけを考えても、お掃除をする人は置かれている家具の上部をすべて拭かなければならない。室内における要素が複雑多様であるということは、お掃除が困難であり、それだけ不潔だということだ。
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 「せっかく理想の住まいを考えたのだから、掃除は外部の専門家にやってもらうことにしてはどうか」という意見もあるだろう。もちろん、それができる人はそうすればいい。げんに私も自分では難しい水まわりを中心に3〜4ヵ月に1回、プロのお掃除屋さんにやってもらう。彼らは2人1組でやってきて、2時間程度かけて風呂場をピカピカにしてくれる。あれと同じことを私がやろうとしたら、まる1日かかり、翌日は筋肉痛で動けなくなるだろう。だから、要所、要所でプロの技術を用いるのは賛成だ。けれども、毎日のお掃除は自分でやるほうがいい。
 私の場合、1日1回の掃除をするのに毎朝約30分かかる。丁寧にやろうとすれば、きりがないから私はこれ以上の手間ヒマをかけない。私にとっては、この30分は1日に必要な運動量の一部を形成している。だからこの30分に関しては、誰かが代わってくれるといってもお断りだ。それに、私にしかわからないポイントがある。床の木目パターンやキズの位置も頭に入っている。私は自分の満足度に合わせて、過不足なくお掃除する。
 なおこんなことは誰でもやっていることだろうが、ゴミを屑かごに捨てるとき、私はできるだけ圧縮する。まず紙ごみの方は細かくちぎる。これを私は「手レッダー」と呼んでいる。プラスチックのゴミは力任せに押しつぶし、反発しないように輪ゴムで止める。こうすれば屑かごにたくさん入るし、捨てるときも楽だ。いずれにしても指の運動にはなる。どんなゴミでも、だらしのなく元の形のまま捨てるというのは、私の美学のうちに入らない。それにまたげんにあなたもしているように、私も屑かごは「屑かご」だからこそいつもピカピカに磨いておく。

 
 

2-3.チリの正体
 ところで、住まいの内部の汚れの最大原因は何だろうか? それは室内に降り積もる「チリ」である。「降り積もる」と私が表現するのは、本当にそれが毎分、毎秒、まるで雪のように床の上、テーブルの上、あるいは本棚などに落ちてくるからだ。わが家の床はフローリングなので、私の床掃除は原則として1日1回、長い柄の先に交換可能なシートをつける、あのワイパーを使ってやっている。私はあのシートを「お掃除ペーパー」と呼んでいる。
 「あんなものでは床はきれいにならない」という人がいるかもしれないが、私の「清潔」の概念はその程度だ。もっとも、床にこびりついた汚れはこの「お掃除ペーパー」では取れない。ウエットタイプでもだめだ。これについては後で述べる。それでも私の家に来た人はみな「きれいだ」といってくれるし、あるヨーロッパ人なども「お前の家の清潔さは神経症的だ」といっていたから、まず我慢できる程度と考えてよかろう。
 では、毎日どのくらいのチリが降り積もるのだろうか? それは夏と冬では大きく異なる。また来客の有無によっても大きく異なる。乾燥した冬の平日、誰も来客がなかった日の場合、わが家の床からお掃除ペーパーを使って取れるチリの総量は約0.3〜0.4グラムである。夏になると、0.1グラム〜0.15グラムにまで減少する。なお、掃除の対象となっているわが家の床面積は実質80平方メートルぐらいである。わずか80平方メートル程度の床面でも冬場には「お掃除ペーパー」の片面が真っ黒になる。そのときのチリの量が0.3グラムを超えるのである。
 このようにお掃除ペーパーを毎日真っ黒にしてくれるチリの正体とは何なのだろうか? それは床面では、主として衣服の繊維である。ぞくに「綿ぼこり」といわれているものは衣服の繊維の集合だ。おろしたてのお掃除ペーパーを顕微鏡で見ると、白っぽい透明な、たくさんの繊維がランダムに絡み合って見える。このときレンズごしに見える光景は、ティシュペーパーなどを見たときの光景とほぼ同じである。ただお掃除ペーパーの場合、これらの細い繊維を支えるための芯材が網目状に入っている。もっとも私たちがシートを手にとっただけでは、素材は単にふわふわした紙と綿の中間のようなものに見えるだけで、芯材は見えない。しかしこれがあるために、細い繊維状のものが全体として形を成し、何となくしゃきっとしているのである。
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 さて室内の掃除をし終わって、黒く汚れた状態のお掃除ペーパーを再び顕微鏡で見ると、さきほどの透明な繊維の間に、別種の透明タイプの繊維、それに黒い繊維がたくさん絡みついているのが見える。透明に見えるのは白い繊維、黒く見えるのは、黒い繊維である。中には色つきの繊維も混じっている。これらは主として私たちの衣服から出たものと思われる。
 これら繊維のあちこちに、細かい固形物が付着している。これがいわゆる粉塵である。その中には、砂ぼこりや植物の花粉や、食べ物カスや、私たちの体から剥がれ落ちた皮膚の一部などが混じっているものと思われる。そのほかに――これはむろん肉眼で見えるが――髪の毛が採れる。成人の場合、1日に150本の毛髪が抜け落ちると聞いたことがある。私はもうだいぶ頭髪が薄くなったから150本はないだろうが、それでも毎日抜け毛がきちんと落ちている。この毛が落ちている間は、私の頭にもまだ毛が残っている証拠だ。
 同じチリでも場所によって形状や性質が違う。これは室内の「高度」に関係がある。ちなみに、本棚の上のほうで採れるチリは粉塵が主である。これに対して床で採れるチリには繊維性のものが多い。おそらく繊維ゴミの方が大きくて重いので、比較的早めに床に落ちてくるのだろう。これに対して微細な粉塵は空中での滞在時間が長いにちがいない。

 
 

2-4.誰もが叩けばほこりの出る体
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とかくうさんくさい人物や犯罪歴のある人を評して、「叩けば埃のでる体」という。私たちは全員が「叩けば埃のでる体」の持ち主である。いかに善人が集合しようとも、来客が多かった翌日にはチリが増える。そういう私自身も、――なにせ寒がりでいつも厚着をしているので――方々に出かけては、行き先の環境を汚染し、「チリ」を撒き散らして帰ってきているのだ。
  この1月、東京にはめずらしく雪が降り続いた。マンションの高層階の窓から雪の舞う様子を見ているといつまでも飽きない。窓際付近の雪はたいてい下から吹き上げられて上のほうに飛んでいく。ざっと見たところ半分以上の雪が下から上へ、あるいは真横に移動しているように見える。おそらく室内の「チリ」も、壁際ではこの雪に似た動きをしているのではあるまいか。
  いずれにしても、主として私たちが撒き散らしたチリは長時間空中を漂い、あの雪のように舞いながら室内に落下しているものと私は想像する。だとすれば夜間にチリを床に降り積もらせておいて、翌朝お掃除をするのが妥当ということになる。「朝のお掃除」は、理にかなっているわけだ。もっとも、「お掃除ペーパー」で回収できるのは、実際のチリの何割かに過ぎないだろう。私たちが清掃のために動き回っただけで、チリが再び舞い上がり、再び飛び回っているに違いないのだから。
  かりに年間を通して、一軒の家に一日平均0.3グラムのチリが床の上に降り積もるものとしてみよう。私はお客さんを迎えるのが好きだから、実際にはこんなものではない。しかし、とりあえず1日0.3グラムと仮定する。これは10日で3グラムということであり、100日で30グラム、年間で100グラムを超える量となる。まさに「チリも積もれば山」だ。
  ここに1年に1回しかお掃除をしないのんきな人がいるとする。この人はたった1回の掃除で床の上からチリ100グラムを回収することはできないだろう。おそらくチリの一部は床の一部になってしまっているだろう。綿ぼこりのようなものなら、拭きさえすれば取れると思うのは大間違いだ。詳しい理由は専門家に聞かないとわからないが、チリが積もって長時間経過すると、一部が床に吸着してしまうようだ。げんに手の届かないところの床面やコーナーなどの汚れは、素人の道具や技術ではどうしても落とせなくなる。
  同じことが水道の蛇口など、光沢のある金属についてもいえる。せっかく光っている金属面に手の油や水滴をつけたまま放置しておくと、あとでいくら磨いても光らなくなる。してみれば、少なくとも私たちに手の届くところは、毎日掃除をするのが当たり前ということになる。「ナニ、掃除さえすれば、いつでもきれいにできる」という考えは甘い。こちらは気まぐれでも、室内の汚れは時間を味方につけて自らを蓄積している。

 
 

2-5.洗面所と尻拭きの関係
 床の掃除についていうと、何日かごとに水拭きが必要だ。ところで、床には不思議がたくさんある。たとえば、自分にはまったく思い当たらない汚れ、しみ、キズがついている。まちがいなく自分自身で原因を作っているのだが、私は意識していなかったか、あるいは忘れてしまっているのである。たとえば床に水滴が落ちれば、そこはかならず「しみ」になる。このような場合、濡れた布かペーパータオルで、ごしごしやらなければだめだ。
 7割方の汚れはこれで取れる。中にはそれでも取れないたちの悪い汚れもある。その場合には洗顔用石鹸をつけた布などでこする。先日も除湿機を移動した後の壁面が黒ずんでしまい、気になった。そこで水を含ませたタオルでこすったが、まったく効果なし。その他の洗剤も試したがだめ。結局洗顔用石鹸が一番効果的だった。
 床の汚れを正直に物語っているのはスリッパの底だ。スリッパの底の清潔度を自慢できるようなら、床の清潔度を自慢していい。スリッパについてはたくさんいうべきことがあるが、ここでは、よく家庭で見られる「トイレ用スリッパ」についてだけひとこと。トイレ用スリッパのメッセージとは何か?
 それはさしあたり、「トイレの中に入るとき履き替えてください」という公的なメッセージである。だがそれは、「うちのトイレの床は汚いです。室内用スリッパでトイレの床を踏まないでください」というメタ・メッセージを発している。私はこのような二重のサインを出していない。習慣上とまどう人もいるようだが、私のトイレの床はいつもきれいにしているから、スリッパを履き替えてもらう必要はないのである。
 だがいずれにしても、流し台の下の床、洗面台の下、トイレの床などが日常的な「危険地帯」であることはたしかだ。それ以外にもとんでもない部分が汚れていることがある。ドアが框にあたる部分、つまり縁の部分も汚れやすく、とくに框の床に近い部分が汚れやすい。それにテーブルの足や椅子の足など、それほど汚れるはずのないものが、ひどく汚れていたりする。要するに、八方目配りが必要だ。
 それにつけても、住宅の床に沿って数センチ立ち上がっている「回り縁」ほど癪にさわるものはない。あの回り縁の上端は、ちょっと目を放しているすきに「チリの蓄積所」になる。チリはどんな幅の狭い平面部分にも容赦なく降ってくるからだ。おまけに、あれは老人にはたいへん掃除しにくい位置にある。本来からいえば床面と壁面は90度にピシリと接合し、そこが直線となって横に通っているべきものだ。どうしても施工が困難なら壁面へ浅い目地を作ってもよい。そのほうが回り縁などよりもはるかにデザイン的に美しいし、メインテナンスもしやすい。なぜあの回り縁があるのか、ご存知だろうか? あれは壁と床の不整合や、不陸、凹凸、それに壁紙のへりの始末など、施工技術上のアラを隠すための方便なのだ。回り縁は決して美観のためでもないし、住人の福祉のために取りつけられているものでもない。
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 私は床のキズはあまり気にしない。それは使っているうちに自然につくものだ。それは人間の体でいえば老化でできるしみやしわのようなものだ。床のキズの復元は私の手に余る。だから気にしても仕方がない。だが、床の上のチリと汚れは私の管理の範囲内にある。毎日拭きさえすれば取れる汚れを放置しているのは、風呂に入らないことにも等しい。これは私にとっては気持ちが悪く、恥ずかしいことである。
 先にもいったように、住まいの汚れに関して最大の危険地帯はキッチン、トイレ、などの「水どころ」だ。それにしても一般的にいって、洗面所で手を洗ったあとの始末に関しては問題が多い。それは駅のトイレの洗面台からただちに推察できる。私に言わせれば「手を洗う」という行為は、洗面台をきれいに拭いてはじめて完了する。手を洗ったのち洗面台をびしょびしょにしたまま立ち去る人は、尻を拭かずにトイレから出てくるようなものだ。他人の尻に関しては一切関知するところではないが、自分の行為としては耐えられない。というわけで、ときどきレストランや新幹線で、洗面台やカランを無意識に拭いている自分を発見し、苦笑いしているのだ。

 
 

2-6.大掃除のこと
 お掃除に関して私の現在の悩みは、本棚に降り積もるチリの除去である。本棚のてっぺん、それに各棚のへり、それから本の小口の上に降り積もったチリをどのように取り除くかということだ。「はたきをかければいいじゃないか」といわれるかもしれないし、げんに私も2〜3種類の「はたき」を使ってやっているが、手間がかかって仕方がない。
 いまのところ一番有効なのは、チリをからめとるタイプの化学紙ワイパーだ。これはデスクの上のパソコン周りの複雑な地形のチリ除去などに有効だ。しかしこれは柄が短く、高いところまでは届かない。脚立を使って全体をやろうとすると「はたきかけ」だけで毎日30分以上かかってしまう。先が鳥の羽や布になっている伝統的な「はたき」は、柄が長い点は評価できる。しかし単にチリを空中に飛散させるだけだし、上部の棚の水平面は死角になる。
 私の考えではチリをからめ取るタイプのもので、柄が長く、しかも柄の先を水平にできるものが必要だ。あちこち歩き回って、そのような道具がないか探してみたがいまだに見つからない。世間の皆さんは高い棚の上の水平面をどうしているのか、お尋ねしたい。結局、お掃除の「死角」が死角のまま放置されているのではないか。この件については仕方がないので、私は「脚立−ワイパー」による本棚掃除を土曜日だけ、多少時間をかけてやることにしている。けれど、どうも現状に負け、自分としての工夫がつかないみたいで、すっきりしない。これについて誰か、何かいい方法があったら、ご教授願いたい。
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 年末の「大掃除」が国民的な行事の一つになっている。私の場合、「大掃除」とは何を意味するのかわからない。「さあ、大掃除しよう」といわれても、どこをどうしていいのかわからない。もともと不要物は置いていないし、自分でできる範囲の清掃は毎日やっている。トイレだって、自分なりにピカピカにしているつもりだ。そこで「大掃除」とは、日ごろ掃除をしていない人のための行事なのではないかと私は思う。これを国民的行事としてやらねばならないということは、もしかしたらひどく恥ずかしいことなのではあるまいか。
 だいいち、いくら張り切って大掃除をしてみても、10日たてば、わが家の場合で3グラムのチリが蓄積するのである。敵は間断なしに毎日やってくる。これに対して1年に1回の応戦というのでは、話にならない。敵が毎日なら、こちらも毎日でなければならない。毎日できないとしても、ともかく定期的でなければならない。
 「それにしても、」と私は思う。あの官庁の書棚や、地震でおなじみのNHKの支局の事務所は、どのように、どの程度「大掃除」されるのだろうか。「大掃除」後のオフィスを見てみれば、見違えるほどに整然となり、あの折れ曲がった分厚い書類はまっすぐに、垂直に棚に入れ直されているのだろうか。不要な資材や資料は廃棄されているのだろうか。いやいや、赤の他人のことだ。私が心配するには及ばない。
 私の好きなアランの言葉に「朝ごとの行進」というのがある。これは「朝ごとに自分自身を立て直す」「朝ごとに自らを持す」という意味である。日々自分自身を律し、決して怠惰や、粗暴や、なげやりにならないという意味だ。一人暮らしで、仕事もない老人にとっては、朝何時まで寝ていようとも誰にも迷惑はかけないし、掃除をしようとしまいと、誰も気にかけてくれない。だから、怠惰に過ごそうと思えばどこまででも堕ちてゆく。アランは朝ごとに自分の理性を取り戻し、それを立派に維持しなさい、といっている。私にとっては定時に起き、お掃除をすることが「朝ごとの行進」だ。それは自分自身がまだ何とか正気を保っていることを自らに保証する儀式である。

 
 

2-7.クセノフォンの原理
 空間の質を高品位に保つために、「整理、整頓」が必要なことは誰でも知っている。それにすでに確認したように、「神聖な床面」「神聖なテーブル面」を確保するには、物を好き勝手なところにベタベタ置いてはならない。
私は「整理とは分類し、不要なものを捨てること」「整頓とは使ったものを定位置に戻すこと」と定義している。この定義に従うと雑多に置かれた生活用品について、たとえば「これは衣類」「これは食器」「これはサニタリー用品」というように、目的別にものを集合させ、最適位置に配置するのが整理だ。どこに何を配置するかに関しては、その人の知性とセンスがものをいう。
 もちろん「整理」作業の中には「これは要るもの」「これは要らないもの」という重要な区分がある。どの区分法を用いるにしても、身辺にはかならず「要らないもの」があるはずだから、それは屑篭に入れられ、捨てられる。だから「整理とは捨てることなり」といっても、いい過ぎではない。私に言わせれば、「要らないもの」「捨てるものを」発見できるかどうかも生活センスの問題だ。センスの悪い人は、不要物に埋もれて暮らすしかない。
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  私はここでは「整頓」のことをいいたい。クセノフォンは「家政論」の中で次のように言っている。「鍋や釜だって、きちんと置かれているときには上品に見える。すべてがあるべきところに、整然と置かれているとき美しく見える」「(肝心なのは)ものが所定の場所にあるということだ」。いっておくが、クセノフォンはいまから2400年前に活躍したギリシャの軍人さんである。
 クセノフォンはある船乗りの話を紹介している。この船乗りは数多い船具を限られたスペースにきちんと格納し、それらを目をつぶっていても取りだせるようにしていた。その船乗りはこういう。「いったん海上に出てしまえば、人間の生死を司るのは神々である。しかし、危急の場合に船具を取り出して使えるかどうかは運命の分かれ道になる。神がそのときに自分たちを助けてくれるかどうかわからない。ただし、整理整頓の悪いバカ者は確実に罰せられる」。
 クセノフォンが「家政論」で示している整頓の原理は二つだ。1.ものの定位置を決める。2.使ったものを定位置に戻す。世の中には使ったものをその位置に戻さないという人が多いように見える。オフィスや工場などで、ファイル、工具が見つからないと思って探していたら、前に使った人が定位置に戻していなかった、などということがあるのではないか。生産性の高い工場かどうかを見分けるには、道具や治具がすばやく定位置に戻されているかどうかを観察するだけでいい。
 家庭の中で、家族間でも同じことが起こる。家庭では生産性などどうでもいいが、いつも使う物が定位置に戻っていなければ不便だし、その品物はどこかの空間を不自然に占有していることは間違いないのだ。この同じ現象が、一人暮らしの空間でも起こるのだから恐ろしい。自分が置き忘れたものを探して、時間を無駄使いしたときのことを思い出せばいい。
 私など、年のせいで忘れっぽくなっているから、いったん定位置をはずしてしまったら、悲劇的なことになる。えらそうに言っているが、私もときたま自分の見失ったものを半狂乱になって探していることがある。老人は往々にして自分がしまい忘れたものを「盗られた」などといって騒ぐわけだが、自分しかいない場合には、どこに尻を持っていっていいかわからない。「整頓」は利便性の面でも、精神の健全を維持する上でも、不可欠の技術なのである。
 整頓の術はクセノフォンがいう二つしかない。合理的な定位置を決めること。使ったらその直後に戻すこと。たとえば食器をワードローブの中にしまう人はいないだろう。よく考えれば、それぞれの品物は、みな家の中に最適のポジションを持っている。それを発見し、決定するにはあなたの空間センスに頼らなければならない。それにまた「直後に戻す」という習慣を身につけるためには、たえず「床面に物を置かない」「テーブル面に物を置かない」という原点に戻らなければならない。

 
 

2-8.来客がいい空間を作る
私はよく、有名な女優さんや男優さんの名前を知らないといって笑われる。私にとっての有名人とは地平線上のアレクサンドロスやカエサルやナポレオンであって、こんにちのセレブにまで関心を振り向けるゆとりがない。けれどもときおり、テレビなどで女優さんの年齢が公開され、容姿と見くらべてびっくりすることがある。スターたちは誰もが実際の年齢に対して、驚くほど美しく、若々しいのではないか。それは、彼らがいつも「見られている」からであり、彼らが人々の期待に応えるための努力をしているからだと思う。
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 同じことが室内空間についてもいえると思う。「いい室内空間を保持するにはどうしたらいいか?」と聞かれたら、私は「できるだけ多くのお客さんを招きなさい」と答える。つまり、お客さんがくると思えば、あまり見苦しい状態を見せたくない。だから、「お掃除」にも目的ができ、張り合いができる。自分の目ではなく、他人の目から客観的に自分の空間を見直すことができるのだといいたい。
 お客さんはトイレだって利用するだろう。お客さんが汚れたトイレに入って何を思うかと考えたら、誰でもきまりが悪いはずだ。どうしても清潔にせざるをえない。それはお客さんに対する当然の礼儀だ。それにまた、たとえお世辞にしてもお客さんに「お宅はきれいですね」といわれれば、こちらもうれしい。そして、次回にも期待を裏切るまいという気持ちが働く。
 これを「虚栄心だ」といって、さげすむ人がいるかもしれない。虚栄心、大いに結構ではないか。私はあるがままのあなたの姿など見たくない。私も見せたくない。お互いに残りわずかな人生を気分よく過ごすために、感じよく、礼儀正しく、笑顔でつき合いたい。つまり、私は相手に不愉快な顔を見せないようにしたいし、同じく汚れて雑然とした室内を見せないようにしたい。そのためには、多少ともムリをしなければならない。
 美しい女優さんたちや男優さんたちも、人々の「美しい人を見たい」という要望や期待に応えるためにムリをしているのである。それがいつしか身について、「そのひとそのもの」に近づき、彼らはついに「つねに若く、美しい人」になりきってしまったのだ。空間についても同じことがいえるはずだ。他人の目は批判の目である。だからこそ装わねばならず、多少は努力しなければならない。他人の目を恐れるのはいいことだ。虚栄心があることはいいことだ。それは私たちにたえず緊張を強い、私たちを高めてくれる。こうしてあなた自身の審美眼が高くなり、自分自身に関して、高品位のものしか受け入れなくなるのである。
 皆さんはどうか知らないが、私は容姿に関してはあまりにもハンディがありすぎると自覚している。自分なりに精一杯努力はしているのではあるが、これは素地の悪さと、床についたキズのようなもので、私の努力の範囲外にある。しかし空間に関しては、私の努力次第で何とかなる余地が残されている。だから、空間に関してもっともありがたいのは「お客さん」である。私はクライアントとの打ち合わせにも自宅を使っているし、音楽の集まりやその他の勉強会にも、積極的に自宅を使ってもらっている。「今日はお客さんがある」と思えば、空間を整える励みができる。一人のときとは違ったパースペクティブから空間を見直すことができるのである。

 
   
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