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私の生活術
 
第4章 魔法の時計

4-1.魔法の時計
 前章では「日課主義」について、また「定時、定量」についてお話した。私の日課についての考えを端的にいえば、「長期的にスピーディな仕事をしたいならば、少しずつでも日課として継続的にするのが一番だ」ということであり、「自分の『したいこと』が日課のなかに組み込まれていれば誰もがハッピー」というものだ。この章では、「短期的なスピードの実現」についてお話したい。短期的なスピードとは、所定の仕事量に対する所要時間ということだ。ここでは時間を測るための時計が必要になる。
 ところで、私は腕時計を一個も持っていない。若い頃は腕時計をしていたのだが、腕にベルトのあとが残ったり、そこが汚れたりして気になった。あるとき、時計ベルトの部分だけ白っぽくなった自分の皮膚を見ながらこう思った。「なぜ時計を腕に縛っておく必要があるのだろう?」。そう考えているうちに、この疑問が「なぜ時間に縛られる必要があるのか?」という具合に変化した。ついでこう思った。「何て野蛮なんだ。これじゃまるで時間に縛られ、時間に支配されているようなものじゃないか」。この思いは「私が時間を支配するのでなければならない」に変わった。この理屈には明らかに飛躍があり、まちがっている。だが結論はまずまずだ。Maho_tokei上記の結論にもとづき、私は腕時計をやめて懐中時計を持とうと思った。金鎖の懐中時計を、チョッキのポケットか引き出すなどというのは、かっこいいのではないか。ところが当時、手ごろな値段の懐中時計がなかった。そこでやむなく、腕時計をポケットに入れて使うことにした。この結果、何が起こったか? 私はしきりに時計を忘れたり、失くしたりするようになった。忘れるというのは、上衣のポケットに入れ忘れたり、上衣を替えたときに入れ忘れたり、また打ち合わせのときに時計をデスクの上に置いたりするので、それを置き忘れ、失くしてしまうのだ。「時計をお忘れになりましたね」とあとで届けてもらったことも一度や二度ではない。少々金額の張る懐中時計にすれば、大切にし、注意して失くさないかと思って、無理して懐中時計を買ったこともあったが、まもなく、きちんと紛失した。「時間に縛られない」というコンセプトはなかなかよかったが、時計そのものはいくつ失くしたか見当がつかない。ついに腕時計は一個もなくなった。
  考えてみれば、時計を腕から外したからといって、「時間を支配」できるようになるわけではないのだ。単に、時間の確認に手間がかかるようになり、大いに時計を紛失するようになっただけだった。もっとも、失くしたと思ってあきらめていると、突然、別の上衣のポケットから時計が出てきたりする。それもまもなく失くす、こんなことをどれほど繰り返したことか。とても人様にはいえない。今持っているのは、安い懐中時計一つであるが、これも始終消えたり出てきたりする魔法の時計だ。

 

4-2.先約優先
 20年ほど前になるだろうか。関西地方に出張することがあり、ポケットの時計を見ようと思ったら、ない。その頃にはすでに時計が安くなっていたので、東京駅の地下街でとりあえず安いものを――どうせまもなく失くすのだから――買っていこうと思った。だが、「まてよ。本当に自分に時計が必要なのだろうか?」と自問してみた。結局その日は時計なしで行動した。別段何の支障もなかった。いらい、私は時計を持ち歩かないのである。
 たまたま私が時計を持っているとしたら、それは偶然ポケットに入っていたものだ。その代わり、私は駅の時計や公園の時計、それにお店の時計などを見て時間の見当をつけている。電車に乗ったとき、隣の人や向かい側の人の腕時計を盗み見する。電車の中で、上衣の袖やもう一方の腕で時計が隠れてよく見えないときなど、その人がわざと意地悪しているのではないかと思ったりする。同行者の時計は私の時計だ。何度も同行者に時間を尋ねたあとで、自分のがポケットに入っているのに気づくこともあった。
 以上のようなわけで、私の人生と時計の関係はすれ違いに終わった。だが、この間どういうわけか、私は「時間を支配したい」という思いを強めた。この思いは「時間にルーズであってはならない」という気持ちに重なった。私がクライアントと約束した時間に無断で遅れたことはほとんどないが、遅れたときのことは鮮明に覚えている。一度だけ約束を完全に失念したことがあったが、あのときのことを思い出すと今でも冷や汗が出る。
 私が約束に遅れる大きな原因は予想外の大幅な交通障害と、道に迷うためである。私は自慢じゃないが、ひどい方向音痴だ。そこでいつも道に迷う時間も計算に入れるが、その迷走時間が限度を超えることがたまにある。こういえば笑われるだろうが、方向音痴による遅れは、道義的には多少大目に見られてしかるべきだ。というのも、迷いさえしなければ早々と着いているはずなのだ。だから、はじめての場所に行く場合、しかも私の遅刻が重大な結果を生みそうな場合には、事前にロケーションを下見しておく。それでも当日になると迷ったりするのだから、われながら情けない。Taxi
 ある日私は家族を連れて、六本木のレストランへと洒落込んだ。駐車場に車を止めてレストランに戻ろうとしたのだが、道に迷い、戻れなくなってしまった。店はすぐ側のはずなのだが、どこまでいっても当該のレストランのある通りに出ない。ついに私はタクシーを拾った。そして待ちくたびれ、あきれ果てている妻子のもとに無事帰還した。
 いずれにしても、私は「約束」を大切にし、先約を優先する。妻が亡くなった日にも約束通り仕事をした。というのも先約優先だから。妻はこの件に関して私を許してくれているだろう。私は娘にも、私が死ぬ日にも「約束通り」仕事をして欲しいと思っている。というのも、私が死ぬ日時は約束できないから。それに死ぬ場面に駆けつけてもらっても私が生き返るわけではない。 「時間」と「約束」とは一体のものだ。期限を指定していない仕事でも、いったん約束が成立した以上、「期待される期限」がある。「期限」のない約束は約束とはいえない。それにまた私たちは「時間」という枠組みの中で生きている。誰もこの枠組みを逃れることはできない。だがこの枠組みの中で、なにがしか自分の意思通りに行動することはできる。それが「時間を支配すること」であり、もっと具体的にいえば、自分が主体となって「時間と約束を守る」ことだと私には思える。

 
 

4-3.あわてる乞食
  私の目からすると、時間にだらしない人は時間に追われているように見える。面会時間の約束に遅れてくる人は、その場だけの演技かもしれないが、あたふたと駆け込んでくる。聞きもしないのに遅刻のいい訳をする。それでいて次の約束の時間になってもまだ、腰を落ち着けている。その間、ご当人は時計をちらちら見てはいるのである。そして明らかに次の約束に遅れることがわかっている時間になって、あたふたと出てゆく。
 時間にだらしなく、遅れる人の顔ぶれはきまっている。反対に几帳面な人はいつでも几帳面だ。時間にだらしない人と、几帳面な人はどこが違うのか。私の見るところ、時間に遅れる人は、おおむね所要時間の見積もりが甘い。10分かかる仕事を5分でできると思い、人にもそういう。中には単に相手を喜ばせようとして、根拠もなしに「この仕事は5分でできます」とか、「午前中にやっておきます」などという。 だから時間にルーズな人々は厳格な人にくらべて概して好人物だ。要するに「いい人」である。時間を守ることよりも、その場で相手を喜ばせることの方が好きなのだ。時間に厳格な人は他人にも自分にも厳格だ。私など、厳格である上にせっかちときているから、どこかで誰かと待ち合わせたようなとき、10分以上は待たない。後がどうなろうとさっさと帰ってしまう。この件でも私はどれほど失敗したかわからない。
Supermarket
 私の大きな欠点である「せっかち」について告白したので、もう少しこの件について説明させていただく。私にとって駅の切符売り場や、スーパーのレジ、それに役場、銀行、郵便局などで長い行列の後ろにつくほど大きな精神的苦痛はない。人生を無駄遣いしているような気がする。要するに私には「並んで待つ」という、そのこらえ性がないのである。
 それにどういうわけか、券売所でもスーパーのレジでも、私が並んだ行列が一番遅れるときまっている。一番短い行列の後ろについたつもりなのに、前の人がもたついていて、結局遅くなる。あるいはレジのロールペーバーが切れたりする。この点では私ほど不運な人間はあるまいと思う。だから、どんなに評判の美術展が開かれていても私は行かない。評判であればあるほど行列は長くなり、それだけ待たされるにきまっているからだ。
 ところがこのせっかちの私が、仕事で約束通りどこかの会社を訪問し、そこの客室や応接室で待たされる場合、30分でも1時間でもまったく苦にならず、平気なのだから、われながら不思議だ。おそらくこの場合、私は相手に迷惑をかけているわけではないからだろう。あるとき、私は頼まれ仕事で羽田から宮崎へ飛んだ。ところが相手の会社の社長がいない。相手が私との約束を忘れて、どこかへ出かけてしまったのである。先方の調べで、私の間違いではないことがわかったので、先方では大いに恐縮してくれた。その日はとんぼ帰りで戻ってきたが、このようなとき、私は少しも腹が立たない。
 はっきりそれとわかる相手に、相手の都合だけで待たされているとき、私は相手に貸しを作っている。ところが待ち合わせで相手が現れない場合、相手が約束を覚えているのか忘れているのか、それがわからない。相手がまったく忘れているときには、貸しが貸しにならない。行列で待たされているときも、私は誰に貸しを作っているのかわからない。窓口にいる人から見れば、私は勝手に行列に並び、勝手にじりじりしている人間にすぎない。私は典型的な「あわてる乞食」なのだ。

 
 

4-4.おそるべき大学の時間
 それにしても、時間にルーズな人や、ルーズな会社、それにルーズなソサエティが多いのには恐れ入る。会議に参加してくれというからいってみると、定刻になっても誰も会議に出てこない会社が沢山ある。事務局の人がいちいち担当者のデスクに電話をして、会議が始まるのは定刻の30分後などという具合になる。
 私は1年間だけ大学の――これは六大学の一つだったが――講師をつとめたことがある。このときも度肝を抜かれた。先方では「講義は9時始まりですから、駅前で9時2分のバスに乗ったらいいでしょう」というのだ。ところが、バスに乗ってその大学の教室に入るまでにはゆうに10分かかるのである。 私はこの助言を聞かなかったことにして、9時15分前に講師の控え室に入った。すると、すでに数人の講師がたむろしている。「それ見たことか。講師はちゃんと時間通りに来ているではないか」と思った。ところが9時3分前になっても誰も席を立とうとしない。9時からの授業のために9時前に控え室を出てゆくのは私だけなのだ。ある朝、誰もいないとき事務の女性にこっそり聞いてみた。すると、その時間に部屋にいる講師はみな9時からの受け持ちなのだという。「生徒さんも遅れるので、皆さん時間を見はからってお出になります」ということだった。 University その女性がいう通り、生徒たちの遅刻はさらにひどいものだ。9時に教室にいっても、もちろん誰もいない。1〜2分すると1人、2人と入ってくる。だが、そのあとは約1時間程度の間に、個々ばらばらに、あるいは2、3人連れ立って入ってくる。しかも堂々と、講師側の戸口から入ってくる。まるでこちらが定刻に授業を始めているのが悪いみたいな感じだ。当然、教室に入っても私語はする。居眠りはする、という具合でマナーの悪さはおびただしい。これで、先生も生徒も「大学改革」を口にするのだから笑っちゃうではないか。
 私は企業の幹部やトップを対象とするセミナーを数多くやってきた。この場合、ビジネスマンには「受講料のモトを取ろう」という意識があるから、受講態度は真剣だ。30分も前に来て席につく人もいる。セミナーの最中でも、疑問があればすぐに質問が飛んでくる。私はこの経験をベースに大学の講師を引き受けたのだが、生徒を含め、大学関係者の時間感覚には打ちのめされてしまった。私はわが国の若者の教育には関心があったし、大学で教えることにも関心があったのだが、この1年間の経験ですっかり熱がさめた。今では「日本の大学など、クソ食らえ」と思っている。

 
 

4-5.時間の観念=リードタイム
 時間の観念に対するバラツキは、「リードタイム」に関する概念のバラツキに起因する。リードタイムという言葉には、「プロジェクトがスタートしてから終了するまでの全期間」という意味と、「準備や段取りのための時間」という二つの意味がある。普通は後者の意味で使われる。要は同じことで、所定の仕事の範囲中に、準備や段取りのための時間が含まれており、これが全体の時間を左右するということなのだ。
 「駅から5分」といえば、ふつうは駅舎の入り口から歩いて目的地の玄関先につくまでの時間、といった程度の意味である。この時間も実際にはほとんど実測されていない。ところが、実際に「駅から目的地である会社の会議室」までの移動時間を分解すると、「電車を降りてから、改札口を出るまで」「改札口から通路を通り駅舎の入り口につくまで」「駅舎から目的地の玄関先まで」「玄関先から、指定された会社の受付まで」「会社の受付から最終目的地の会議室まで」というように、それぞれリードタイムがあり、それらの感覚値と実測値との間には大きな差があるものだ。
Leadtime  たとえば、わが家と最寄りの大崎駅の間で実測してみると、「電車を降りてから改札口につくまで=35秒」「改札口を出てから駅舎の入り口につくまで55秒」「駅舎の入り口からマンションの入り口まで4分40秒」「マンションの入り口から自室の中に入るまで=1分15秒」となる。これを合計すると7分25秒となる。いまご報告した実測値は、たまたまある日の、ある時間帯の、そのときの条件下における測定値に過ぎない。別な日の別な時間帯に測定すれば、値は別になる。混雑しているラッシュ時には、ホームから脱出するだけでかなりの時間をとる。
 たとえば、「自室とマンションの入り口」の間には、エレベータが介在するわけだが、エレベータに関わる所要時間は、「ボタンを押してからカゴが到着し、乗り込むまでの時間」「途中で人が乗り降りする時間」「自分がエレベータから降りるまでの時間」というリードタイムで構成されている。私の部屋の場合、カゴがスムーズに到着し、途中乗り降りする人がいなかった場合で1分15秒前後であるが、カゴの到着が遅く、しかも途中で二人の人が乗り降りするケースで見た場合、所要時間は2分30秒以上になる。これはエレベータ所要時間だけで、駅舎までの移動時間の3割にもなる勘定だ。同じ館内の移動にこれほどの時間がかかっているという事実は、かならずしも実感と一致しない。
 時間にルーズな人には次のような特徴が見られる。つまり上記のプロセスの一部、たとえば「駅舎から目的地の玄関先まで」だけを取り出し、それもすべてが順調にいった場合の見積もり時間を、全プロセスの所要時間、つまり「ホームから会議室まで」と勝手に入れ替えてしまうのである。不動産会社が物件を売るためにやるごまかしなら分るが、自分が自分に対してごまかしをやるのは他人のこととはいえ、納得がいかない。
 こうしてみると「どこかに出かける」といった場合、自宅と目的地の所要時間の中に、着替えをしたり、靴を選んだり、カギをかけたり、鏡を見たり、忘れ物を取りに戻ったり、目的地の周辺で道に迷ったり、などという時間が含まれていることを忘れることはできない。時間に遅れる人は立派な、かっこいい時計を持ち、その時計を見ながら遅れている。これは「短期的なスピード」の実現以前の問題だ。スピードのことを話し合うためには、時間を測定する条件のことを考えておく必要があるのだ。

 
 

4-6.日報のすすめ
  どうしたら時間に関してシビアな感覚を持てるか? 私の正直な感想をいえば、「だめな人はどうやってもだめだ」。だが、普通の人には「日報をつける」ということをおすすめする。これは日記ではない。あくまでも時間記録の日誌に過ぎない。会社によっては社員にこのタイプの日報を書かせているところもあるはずだ。定性的な情報を中心とする日誌も結構だが、残念なことに定量的分析ができない。 もっとも会社の中には、この「日誌」や「日報」が大嫌いな人がいる。どうやら、自分の行動を監視されているように思うらしい。ある会社では、トップが私の助言にもとづいて時間型の日報制度を義務づけたところ、もっとも優秀なセールスマンの一人が「それなら会社を辞める」といいだしたためにこの件は沙汰やみになった。もしかしたら、あなたも日報が嫌いかもしれないから、無理におすすめはしない。
 私は自分が独立してビジネスを始めたときから、その日一日をどのように過ごしたか、時間型の日報をつけることにした。「結局のところ、私の商品とは時間だ。時間当たりの価値を高めるには、時間そのものを管理する以外にはない」と思ったからだ。私の日報は一日を24時間に区切っただけの簡単なシートで、時刻の目盛りを左側タテにレイアウトし、その横に短く「いつからいつまでは何の仕事をした」ということがわかるように、文字や記号を記入する。
 あれもこれも記入しようと思うと負担が大きくなり、長続きしないから、仕事の種類も顧客名も略記号にした。ただし、日報には仕事の時間だけを記入するだけでなく、プライベートな時間も記録する。二三日たつと何をしたか忘れてしまうから、その日のうちにつける。私はこの日報記録を30年間継続した。 日報記録を継続していくと、どの仕事がどの程度の時間を要するものか、かなり正確に見積もれるようになる。それに、仕事をしながらでも「どのくらい時間がたったか」という時間の経過がわかるようになる。当然、時間当たりの生産性にきびしくなる。無駄な時間がどのようなものか、一見無駄に見えても、自分にとって大切な休息時間とはどのようなものなのかがわかる。ヒュームは、「人間的自然の弱さに対する一種のお目こぼしとして無為や休息は必要不可欠なのだ」といった。まったく同感だ。わが身の時間を管理することで、改めてまたひとりで過ごす時間、無為に過ごす時間の大切さがよくわかるようになる。Solon
 古代ギリシャの賢者ソロンは、リュディア国のクロイソス王の質問に答えて、「人間の一生をかりに70年としましょう。70年を日に直せば26250日となります。このうち一日とてまったく同じことが起こるということはありません」と答えたという。
 かりにソロンがやったように人の一生を70年と仮定すれば、私の残り人生はあと200日余しかないことになる。かりに残りを200日として、このカウントダウンされる日数、この時間は他のだれのものでもなく、私のものであり、私の支配下にあってしかるべきものである。だから、この残りの貴重な日数を、あたふたと時間にふりまわされ、追われてすごしたくはない。あくまでも自分の思い通りに、それを他人のために役立てるにしても、役立てないとしても、自分の納得がいくように用いたい。
 自分の納得がいくように時間を使えているかどうか、それを客観的に知るには、自分の行動を時間単位で測定するしかない。他人には測定してもらえないのだから、自分で測定すればいい。誰にも日報を見せる必要などないのだから、ありのままを記録すればいい。何も改善をあわてる必要はない。「この種の時間は自分にとって価値のないものだ」ということが分かったらそれをいくぶんでも短縮すればいいのではないか。

 
 

4-7.日報記録で気づいたこと
 時間型日報をつけ始めても、私はその結果を分析する気にもならなかったし、それを参考にしてもっと合理的な行動を組み立てようなどという、殊勝な気持ちを起しもしなかった。ただ単に、習慣として継続していただけである。けれども、長期にわたって記録を重ねているといやおうなしに実感させられることがある。
 たとえば、私は寝ている時間が圧倒的に多いことが分った。これはあまり新しい発見ではないかもしれない。それにしても私は寝るのがへたくそだ。長時間横になっていても、眠りが浅いのだ。短時間で熟睡できる人はうらやましい。だから、私は睡眠時間を短縮して何かをしようなどとは一度も考えたことはない。可能であれば、なるべくゆっくり寝ていたいものだと思う。そのようなわけで、私にとって睡眠時間はいまでもまったくの管理外である。
 次に、気づいたのは「酒」が私の生活の中の大きな時間をとるということだった。40歳から50歳台の中盤にかけて、私は酒を飲んでいた。顧客の接待やコミュニケーションのための「ノミニケーション」は有益であったし、愉快でもあった。それに、コーヒー10回の付き合いよりも、酒1回の付き合いの方が、親密さが深まるということもあった。だが夕食時に誰かと酒を飲めば、その「つきあい」以外の仕事はまったくできなくなる。晩酌に関しても同じだ。少量の酒ならいいというものではない。酒が入れば、ほかのことはできなくなる。ありがたいことに、私は50歳台のなかばで体をこわし、酒を飲みたくなくなり、飲めなくなった。これはまさに天佑だった。おかげで、酒のために費やす時間をほかのことに使えるようになった。
 酒が好きな人は酒を飲むことが人生の目的なのだろうから、大いに飲めばいい。自分の金で飲もうが他人の金で飲もうが遠慮は要らない。先にもお話ししたが、私の叔父は酒を楽しむために生きている。彼にとっては酒を飲むときが自己実現のときである。このような人がつまらぬ動機で禁酒を誓うのはばかげている。自分も愉快になり、他人も愉快になるようないい酒飲みなら、だれにでも歓迎されるだろう。この場合、酒は人生をかけるに値する幸福の機会だ。Graph
 日報記録から私が分析するともなく発見したもうひとつの事実は、テレビを見ている時間が案外多いということだった。日報をつけ始めた当時、私はとても多忙だった。にもかかわらずよくテレビを見ていた。洋画が好きだったので、洋画のある日はなるべく9時までに仕事を終了して家に帰っていた。仕事場から家までは3分ぐらいしかかからなかったので、ぎりぎりまで仕事をして、テレビを見るために走って帰ったのを覚えている。
 あの当時で平均1日1.5時間ぐらいはテレビを見ていたのではなかろうか。その後、次第にテレビを見る時間が減った。今では一日合計30分ほど、それも食事をしながらニュース番組のさわりだけを見ている。この件についても、テレビが好きな人にとってテレビを見る時間が多いのはいいことだ。その人は、テレビを見ることで幸福な時間を増大させているはずだからだ。要するに、その人にとって「価値がある」と思われることに多くの時間を使うのはいいことではないか。

 
 

4-8.通勤時間は人生の目的か?
 日報などつけなくても、一般の職業人にとって「通勤時間」がかなりの比率を占めることが分っているはずだ。通勤している人はかなり正確な通勤時間を把握していると思う。なにしろ私はせっかちだし、早くから通勤時間の不合理に気づいていたので、どんな犠牲を払ってでも職住接近を心がけてきた。この点、早くから独立したので職住接近はやりやすかった。
Tukinjikan  そこでおたずねしたい。「私は通勤時間が楽しくて仕方がない。通勤こそが私の命だ」という人がいるものだろうか? 相当なヘソマガリでもこれには否定的だろう。ということは、職業人はどんなにムリをしてでも職住接近をはかるべきだということではないだろうか?
 もっとも、「私は子供を都会では育てたくない」という人がいるだろう。「地方都市こそ、私の理想の住まいの地だ」という人もいるだろう。そのような人が都心に職場を持っている場合は、通勤時間が長くなるのはやむをえない。そのような人の場合、たとえ「通勤時間」という犠牲を払っても、地方に自宅を置きたいのだろうから、その人に対しては何もいうことはない。
 「都心に住んで職住接近をはかりたいが、金がない」という人がいる。だが、職住接近をはかれば、通勤時間に相当する時間で不足収入をおぎなうことができるのではないかと私は思う。往復で2時間かかっている人は、かりに時給1000円のアルバイトをしたとしても、月に4万円以上の収入アップをはかれる。それでも生活時間はいままでと同じだ。1日2時間というのは大きな経済的資源だ。1日2〜3時間の通勤地獄に悩みながら、月給袋の数千円の変動に一喜一憂するのは、ずいぶんおかしなことではないか? 私はクルマが好きだった。歩いて5分程度のところに移動するのにもクルマで出かけては大いに顰蹙を買っていた。けれどもクルマの時間も無駄であることが日報から分る。都心ではよほど条件がそろっている場合でないかぎり、電車の方がクルマより速い。道路の混雑による時間ロスは当然のこととして、マイカーの場合、駐車場や駐車スペースを探す時間、車にカギをかけてから移動する時間、給油や洗車の時間など、クルマにとられるリードタイムは予想外に大きい。それでも、「マイカーこそが私の趣味だ」「私の幸福の源泉はクルマにある」という人にとっては時間的な犠牲など問題にならないだろう。そのような人は、クルマから多くの楽しみを受け取っているのである。私もクルマ好きだったから、多くのことを犠牲にしてクルマを楽しんだ。クルマ好きの人の気持ちはわかる。
 けれど大崎に越してきてからまもなく私はクルマを売り払ってしまった。その動機は2つある。まず軽い事故にあった友人の話を聞いたこと。――これを他人事でないと実感したのだ。もうひとつは、山手線の駅が近くになったため、クルマの利用頻度が極度にすくなくなったこと。クルマがなくなってみると、今まで「移動」と「散歩」を別々にやってきたことに気づいた。いまさら取り返しはきかないのだが、ずいぶん時間の無駄をしたのだと悔やまれる。
 以上のように、私は時間の使い方のまずさの見本市のようなものだったので、他人にえらそうなことはいえない。それでも日報記録のおかげで、時間に対する感覚はいくぶんましになり、長期にわたってではあるが、少しずつ改善されていると思う。ぼんやり考えているのと、記録してみるのとでは大きな違いがある。時間についても、記録してはじめて分ることが多々ある。いずれにしても不本意な無駄を省き、納得のいく時間支配をおこないたい。

 
 

4-9.単位スピードの向上
  これまで無駄な時間の除去を中心に考えてきたが、ここでは同じ仕事でもスピーディにこなす方法を考えてみる。ぞくに「早メシ、早**芸のうち」という。これまた自分の欠点の告白になるが、私は「早メシ」だ。最近は「スローフード」といわれている。私も「そうだ、スローフード、スローフード・・」などといいながら、あっという間に食事を終わってしまう。
  15年程前、仕事の関係で著名なデザイナーN先生と一緒に1年間、月に1回、同じクライアントのところに通ったことがある。訪問がちょうど昼食時にかかるので、クライアントは立派なお弁当を出してくれる。そのお弁当を、会社の社長や重役さんたち十数人と一緒に食べる。私はいつもN先生の隣に座る。見ていると、N先生の食べ方の早いこと、電光石火だ。日ごろ温和なN先生の人柄とあのスピードはどうしても結びつかない。あのときばかりは私も負けた。
  早メシ、早**は別として、個別の仕事のスピードはなんといっても「準備」と「間」によってきまるような気がする。たとえば、一つの手仕事の中身を細かくばらしてみれば、細かく区切られた仕事になればなるほど、各人の仕事の速さに差はなくなる。たとえば、封筒に裏のり式のラベルを貼るような仕事の場合、「ラベルを貼る」という部分だけを取り出せば、仕事の早いAさんも遅いBさんもさほどの差はない。ところが、たくさんの封筒とラベルをAさんとBさんに手渡しそれぞれ別室で仕事をしてもらうと、一日でおそらく倍以上の仕事量の差がつく。
  その理由ははなはだ簡単だ。Aさんはともかく仕事を早く進めようと思っている。そう思うものだから、材料のおき場所や作業の手順に無駄がない。作業をしながらも、「もっといい方法はないか」と考え続けている。ラベルを数枚いっぺんに貼る方法を考えたり、台紙を逆さにしたり、材料のおき場所を変えてみたりする。そして最適の方法を発見してその方法で精を出す。Bさんは、いわれた通りの方法で何の疑問も感じないままに仕事を継続する。
  私は卒業後に入社した会社がカメラの製造会社だったので、研修の一環として「カメラの分解と組み立て」をやらされた。遅い人は、制限時間が過ぎても組み立てが半分もできていない。そういう人は必要な部品がどれか分らなくなっている。私は制限時間内で2回分解と組み立てをやったが、それでも時間は余った。自分のデスクの上に、大きなマス目の方眼紙があるつもりで、カメラを分解するプロセスに応じて、ネジや部品をそこに置いていっただけのことである。組み立てのときに逆の順をたどればいいことは分っているからだ。File たとえば、パソコンで文書を作り、その文書をどこかのフォルダーに入れるとする。その文書を再び取り出して、作業を続けたり、あるいはコピーをするとか、参照するなどするとき、自分で作成した文書がどこにあるのか見つからなくて長時間探している人を見かける。自分の文書を探すのに、そのつど「検索」をかけたりしている。ところが、文書名もキーワードも忘れてしまって「検索」でも出てこなかったりする。このようなことをやっている御仁は月給泥棒だ。パソコンの前に座って、一日中文書探しをしている月給泥棒がどの会社にもいるのではないのか。このような場合、もはや仕事が「早い」とか「遅い」という問題ではない。その人は単なる「愚者」なのである。パソコンのファイルに関していえば、文書の冒頭に年月日、たとえば「060925」を入れ、文書ファイル名には実際のタイトル以外の言葉を用いないようにすればいい。それにまたフォルダー名にも、年月を入れておくといい。これで、文書探しなどせずにすむ。

 
 

4-10.スキルという名のスピード
  世の中のだれ一人として時間のムダを喜ぶものはいない。これに反してスピーディな仕事はかならず相手を喜ばせる。職場のボスがあなたに、「お、もうできたのか」といってにっこりしてくれたら、あなたもうれしいだろう。作業時間を短縮して相手を喜ばせる人は、その時間分の「命」を相手に与えたのと同じである。反対の人は、相手の人生の貴重な時間を浪費させ、相手の寿命を縮めている。古来、戦上手の将軍でノソノソしていた者はいない。アレクサンドロスも、カエサルも信じられないスピードで軍隊を移動させ、あっという間にやってきて敵の度肝を抜いた。要するに勝負はスピードにある。
  スピーディにやる仕事が雑で、ゆっくり丁寧にやるほうが丹念かというと、そうでない。料理人にしても、歯医者さんにしても、ヘアメイカーにしても、有能な仕事師はみな手際が良くて、早くて、できばえがいい。これに反して仕事の遅い人は丁寧にやっているように見えるが、同じことをコネコネと繰り返し、時間と材料を無駄づかいし、肝心のできばえもいただけない。早めに仕事をやってしまえば、余裕時間で幾度もチェックできるから、いい仕事になる。いまをときめく最先端の科学実験でも、科学者自身のスキルがものをいう。たとえば、遺伝子を取扱うような分野の科学者には高度の、熟達したテクニックが必要だ。それにまた通常の外科手術にしても、再生医療にしても、スキルのお粗末な医師にやってもらう患者の気持ちになってもらいたい。Kutusita
  日々の暮らしの中にもワザが必要となることが多い。ワザが実現するのは、品質とスピードの両方である。私はフライパンで炒め物をするとき、食材をフライパンの上で返すことができなかった。思い切ってやってみてチャーハンを半分以上こぼしたことがある。「これではいかん」と思い、はじめはフライパンの上に丸めた靴下をのせてやってみた。次に火を通す前のきざみ野菜でやってみた。今では、どんな食材でも自由自在だ。コツとワザを磨くには、ちょっとした練習が必要なのだが、そのためには「練習しよう」と思う作業対象を、はっきり規定しさえすればいいのである。
  キッチンにおけるスキルアップの対象、種類は数多いが、同時平行ができる作業も少なくない。かりに3つのコンロがついたガスレンジで、「お湯を沸かす」「煮物をする」「炒め物をする」という三種類の作業をしたいとき、一つのコンロだけで、これを一つずつ順にやる人はいないだろう。たいていは同時平行でやるはずだ。もちろんそれぞれへの目配りは必要になる。それにまた炊飯器のスイッチを入れて、ただ炊き上がりをじっと待っている人はいないだろう。
  このように、生活場面では同時平行できる仕事の数は多い。それにいくら急ぐとはいってもどうしても必要な「熟成時間」とか「乾燥時間」というものがある。名人たちの仕事を見ていると、同時平行作業の妙に感心する。たとえば木材を使って仕事をする職人の場合、すでに彼の周りにある材料も彼の管理下で「待機時間」を無駄なく過ごしている。要するに、仕事が早い人は、次におこなうべき仕事を見越して、準備をしながら目前の仕事をしているのである。
  どんなスポーツでもそうだが、たいていのことは練習でうまくなる。それに、手なれた仕事に関しては、次の作業ステップが分っている。準備や段取りができるはずだ。そのときになってから急にうまくやろうという考えが甘いのだ。スピーディな仕事は周りにも喜ばれるし、自分も気分がいい。そのために必要なのは問題意識であり、改善意欲であり、スピードアップしようという心がけだと思う。
  だがこういうと、「いかにも一昔前の経営コンサルタントのいいそうなことだ。何でも生産性でものを考えるのは、あなた方の悪い癖だ。そういう生産性重視のものの考え方が今日のストレス社会を生み、環境破壊をもたらしてきたのだ。社会的な弱者、高齢者、ニート、それに増加する自殺者などの現状を直視したまえ。それに、所詮あなたの意見は強者の意見であり、弱者の存在を忘れた理論なのだ」。なるほどもっともだ。そこで私はこのような反対論者に答えたい。「それならば、みんなで時間や効率を忘れてのびのびとやろう。どれほど時間がかかっても、どれほどできばえが悪くても我慢しよう」。だが、そのときに弱者のために使うはずのゆとり資金はどこから出てくるのか。私にはわからない。もし今日、こうした効率化の努力がもはや古臭いものとなり、無意味なものとなったのであれば、私たちは単位あたりの作業スピードのことなど、きれいさっぱり忘れてしまうのがよかろう。私はかつて上記の工夫で他人を喜ばせることに時間を割いてきた。そこで、ビジネスの世界を去りつつある現在、今はこれらの工夫を、自分自身を喜ばせることに使っている。これなら、だれにも文句はあるまい。

 
   
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