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アランの「神々」を読む
 
第2章

2-1.幼児の祈り
21_2  これより、私は「第2章 宗教の出発点」に進み、アランの「神々」の第1部「アラディン」を読んでいってみようと思う。第1章「むかし」のページを開いてみよう。何度もいうが、本文をはじから全部読み、説明するわけには行かないから、私が勝手に「ここぞ」と思った文章を取り出し、その文について考えながら話を進める。私が取り上げなかった文章の中にも、重要な概念がぎっしりつまっているのだから、本当はこうした読み方は邪道だ。しかしほかに方法がないので、この方法で続ける。

第1章「むかし」の冒頭、いきなりソクラテスの亡霊が出てきて、アランにこう告げる。「人間どもは、あたかも失った力強い召使いたちを探しでもするように、神々を追い求めてやむことがない。しかも人間どもは、そのほしいものを自分で手に入れるためによりも、もっと多くの骨折りを、この目に見えぬものたちに祈ることに費やしている」。ここでなぜ突然ソクラテスが、それも亡霊のソクラテスが出てくるのかについては、問わないことにする。これはあくまでもアラン特有の寓話的表現だ。さて、この寓話の中のソクラテスが言っていることは何だろうか。

ここではアランが、私たちの幼児期のことを問題にしようとしているのだ、とわかれば問題はない。幼児にとって「力強い召使」とは誰のことだろうか。いうまでもない、母親のことであり父親のことだ。あるいは自分の面倒を見てくれる大人たちのことだ。私たちは幼児のとき、母親をはじめとする大人たちの庇護の下に生きていた。いいかえれば、自分が願いさえすれば、どんなことでもかなえてくれる力強い召使いたちにかしずかれていた。自分では何一つできなかったし、また何もする必要はなかった。人間にとってこれほど甘美な状態、これほど理想的な状態があるだろうか。私は幼児がうらやましい。

残念なことに私たちは大人になってしまった。かつての王様、女王様は、いまでは小さな子供の召使いとなって、次世代の、あるいはその次の世代の幼い者をあやし、その面倒を見なければならない。一体何が起こったのだろうか。それははっきりしている。私たちの体力が増し、知力が増し、行動力が増すにつれて、私たちはあの「ミルクと蜜」の楽園を追われてしまったのだ。いまでは私たちは自分の手足で稼ぎ、日々、苦労に苦労を重ねなければならない。けれども私たちはあの幼かった、甘美な日々のことを決して忘れていない。できるならばもう一度あのときに戻りたいとさえ思う。そこでソクラテスの亡霊は「人間どもは、あたかも失った力強い召使いたちを探しでもするように、神々を追い求めてやむことがない」といっているのである。

お正月になると、わが国では何百万という善男善女が神社仏閣に出かけて、お賽銭を上げ、五穀豊穣、家内安全、事業の成功や、受験合格、健康などを祈る。わずかのお賽銭で、まかないきれないほどの欲張りな要求だ。その「祈り」と「実際の効果」との関係を誰が保証し、証明するのか? 誰も保証しないし、証明もしない。そのことは誰もが承知している。ちなみに、あの何百万という人々の一体何人が、「お賽銭をあげたのにご利益がなかった」といって神社や仏閣を訴えるだろうか? 誰もそんなことをしやしない。要するにお正月の祈願は明らかに不合理な行動なのである。その不合理な行動の原因を説明するものは何か? 私には分らない。アランは、それはわれわれ万人に共通する「幼児体験」だという。

幼児がむずかって泣く、それは幼児の祈りである。それは幼児の何らかの要求の表明である。幼児はどうすれば自分の希望が実現するかということはまったく知らないし、そんなことは考えもしない。ただ一方的に自分の願望を泣き声によって主張する。これが祈りというものの本質であるとアランは考える。その一方的な要求と主張のパターンは、どうすればそれが実現するかなど少しも考えずに五穀豊穣、家内安全を一方的に祈る、あのパターンと同じではないか?

しかも人間は、祈りに行くためにわざわざ苦労して神社を立て、祭壇を作り、そこには専門の神職や僧侶を配備する。そんな手間ヒマをかけるくらいなら、自分で自分の畑を耕したほうが手っ取り早いはずなのだが、それはそれとして、祭祀のためにテマヒマをかける。そこで本書の冒頭に現れるソクラテスは「人間どもは、そのほしいものを自分で手に入れるためによりも、もっと多くの骨折りを、この目に見えぬものたちに祈ることに費やしている」といっているのである。

 

2-2.祈りにもやり方がある
22  幼児は少しずつ育つ。ここで少しは大人たちの反応を分るようになった2〜3歳の子供のことを考えてみよう。この年の子供にとっては、大人の世界は気まぐれな「巨人族」の世界である。大人たちは自分には及びもつかぬほどの腕力、神通力を持っている。いつ彼らが恩恵を与えてくれるのか、いつ怒り出すのか、それはわからない。ある巨人はたまにしか姿を見せないが、しかし莫大な権威を持っている。他の巨人はいつも傍にいて、たいていは優しいのだが、突然雲行きが変わったりする。微笑みかけたり、話しかけたりしてくれたかと思うと、まったく関心を示さなくなったりする。

こうした経験の中で、幼児は「いい子」にしていれば、願いがかなえられやすいことや、ある種の要求の方法は巨人たちに気に入られないということが分ってくる。「ごあいさつ」などというわけの分らない呪文があって、これを唱えると「いい子」とみなされる。「こういうわけで、人間たちの叡智はすべて、話しかけるすべをわきまえ、説得するすべをわきまえるということに、つねに立ちかえるのである」。ここでアランがいっている「人間」、これは人類史上の初期の人類のことだ。そうだ、アランは人類史の初期の状態を、ひとりの人間の幼児期にたとえているのである。

もっともある種の子供たちは、「ごあいさつ」「いい子」などという迂遠な方法をとらずに、一方的に無茶苦茶に駄々をこね、これによって自分の要求を通す方法を知っている。この場合、彼は「巨人族」を完全に奴隷化しているわけだが、巨人のほうも自らが奴隷となることによって幼児たちをモンスター化することに協力している。そうかと思えば、幼児虐待などという、かなり荒っぽいことをする巨人族もいるらしい。この場合、幼児の「むずかり」「駄々をこねる」という要求に対して、巨人族のほうも負けずに感情的に、かつ暴力的に応酬するわけで、根本的原理は幼児と幼児の対立であり応酬なのだが、片方はまるで力がないし、なにしろ巨人族は腕力が強いから、若い幼児の方は結局ぼろぼろになるというわけである。してみれば、アランが述べている、できるだけ「いい子」であろうとする幼児と原則的にはやさしい巨人族の関係は、ノーマルかつ理想的な親子関係なのである。いずれにしても、子供は「いい子」でなければならない。そして「いい子」とは、親のいう通り、あるいはしきたり通りに話し、合図するということである。これが幼児の挨拶であり、祈りである。

誰もタイムマシンに乗って石器時代の様子を見てきたわけではない。だから大昔の本当のことは誰にもわからない。しかし初期の人類とひとりの人間の幼児期を対比させるやり方は、あながち不都合とはいえない。これはある種の個体の発達のプロセスが、その生物の種の発達、進化のプロセスに照合しているかもしれないという考え方だ。たとえば人間は母親の胎内で、全生物の発達プロセスを、凝縮してたどるといわれている。だから、人間の幼児の姿は、かつての人類のあり方を暗示しているかもしれない。

大昔の人々にとっては、自然の気まぐれの原因がさっぱり分らなかったにちがいない。たとえば、自然が「機嫌がいいとき」には、たっぷり食料を与えてくれる。反対に旱魃や洪水などは、人間のちっぽけな努力や営みを根こそぎにする。このときの人々の感情はどうだったか? 幼児たちが身近な巨人たちのしていることに対する感想に似ていたのではないか。機嫌のいい巨人たちは食事を与え、おやつもたっぷり支給してくれる。ところがその巨人が、せっかく作った積み木の城を壊し、跡形もなくしてしまう。こうなっては、ただ巨人たちのいうままになるしかない。「わが身が主人であるのか奴隷であるのか、自分ながら分らぬこうした生活が、人間たちにたいそうながいあいだつづいたので、懇願したり、期待したり、自分よりもずっと強いものを当てにしたりする習慣が、人間本性のうちに消えがたい跡をとどめた」。

文字もなかった昔の人々の暮らしの中に、きまって見られる祭祀の痕跡、トーテミズムの痕跡は何を物語るのだろうか? それは昔の人々が何か自分たちの力を超えたものに向かって祈ったということを示すものではないだろうか。それは、彼らが知っていた、あるいは信じていた「自然に対する話しかけのすべ、説得のすべ」の痕跡を物語るものではないだろうか。だとすれば、宗教の出発点をここに求めるのが当然ではないだろうか。だからアランは語るのだ。「もはや取り返しのつかぬこの過去、すなわちふたたび回帰することなく永遠にひとが追われて、ただ愛惜することしかなしえないようなこの過去以外に、何か出発点があろうと思われない」。

私はアラン以外に、宗教の出発点を人間の幼児に求めた例を知らない。古代の哲学者やスコラ神学者たちは措くとしても、宗教に関心を持った近代の思想家はみな――カントもヘーゲルも、フォイエルバッハも、キルケゴールもニーチェも、ディルタイもベルクソンも――みな宗教を最初から「大人の問題」として取り扱っている。たしかに宗教は大人の問題にはちがいない。しかしすべての大人がかつて子供であったことを考えるなら、そしてすべての人にとって加齢が抜きさしならぬ問題であるなら、それにまた出発点から考えなければ真実は分らぬということが本当だとしたら、アランがいう「この過去(=幼児時代)以外に、何か出発点があろうとは思われない」という言葉には驚くほど重い意味があることになる。

 
 

2-3.お伽噺からのヒント
23  さて、ほしい物を願うときの精神、あるいは困ったときの神頼みの精神を伝える、もっとも典型的な事例は、言葉の発展形である「お伽噺」に書き込まれているのではないかとアランは考える。アランは「お伽噺とは聴きかなえられた願いごとの物語である」といっている。子供にとっては親にねだり、願うことしかできない。そして願うこと、ねだることの効果はいちじるしい。ただし子供が理解するのは、単にねだればいい、単に願えばいいというものではないということだ。つまり一定の言葉、一定のやり方があるらしいということなのだ。ここから私たちは「呪文」の力に近づくことになる。これは言葉に魔力を与えるということなのだが、これは言葉をある意味では事物に近づけること、言葉に即物的な力を与えようとすることである。

人類学者マリノフスキーは、東ニューギニア、トロブリアンド諸島の現地の人々の中に入っていって、生活を観察し、たくさんの祭祀の資料を収集した。彼らは何かをするとき、かならずその行為に対応する型の呪文を唱えるのだが、たとえば、異部族との交易のために出かけるときには次のように言う。「いかなるビンロウジも、キンマの壷も、ドガの贈物も、私のムワシラの力や、私の好きなように相手の心を変える力の強さには叶わない!」。要するにこれは、自分自身の説得力を高め、確認するための祈りの呪文であって、彼らはこう祈ることで、自分がビジネスの現場で、相手の心を自由に操れるようになると願い、信じるのである。

アラビアンナイトは、いってみればお伽噺の宝庫であるが、中でもアリババの物語の「開けゴマ!」「閉じよゴマ!」ほどよく知られた呪文はないだろう。この呪文によって宝物が一杯詰まった洞窟の戸口は開閉自在となる。これは「キーワード認証」によるロック解除である。呪文の力とは、物理的な因果関係を超越して何かを実現させる力であるようにみえるが、じつは言葉に物理的エネルギーを付託するということにほかならない。私たちも子供の頃、この呪文をさかんに用いたのである。たとえば、「ねえ、お願いだから。今度からいい子にするからさ・・」「お願い、今度だけ・・」。これらは別種の「開けゴマ」だったのであり、それらの呪文には実際に効き目があったのではなかったか。

同じアラビアンナイトのなかの話「アラジンと不思議なランプ」においては、「ランプをこする」という動作が呪文の代わりをする。ここでは単なる言葉から一歩進んで、「ものへの働きかけ」の要素をもっと明瞭に観察することができる。いうまでもなく当該のランプをこすると、万能の巨人がやってきてアラジンの「ご用」をうかがい、その命令をきくのだが、これについてアランは、「そして、これ(巨人)をやってこさせる方法そのものはといえば、まったく素朴に、召使たちがげんによくやっている、たとえばランプをこするといったふうの動作を、その意味などは頓着せずに見まねて、そのひとつを模倣することである」といっている。

つまりかつての子供たちは、日ごろ召使がランプをこする動作を見ていた。召使たちにしてみれば、主人の言いつけどおり日用品の手入れをしているに過ぎなかった。しかし子供にはその動作そのものに、別の意味があるように思い、その動作だけを真似してみる。子供たちのままごと遊びには、こうした因果関係を離れた、動作形式だけの模倣がつきものだ。けれどもアラン人の場合には、この動作形式が呪文となる。「ほしいもの」「手に入れたいもの」と、それに相関するにちがいない何らかの動作や合図、これはもっとも自然で、原始的な宗教の形式ではないだろうか。

「ほしいものがあるなら、自分でそれを作ればいい、あるいはそれを手に入れるための財を稼げばいい・・」というのは、適切な教育を受け、きびしい現実を知った大人の考えである。生まれてからまだ数年もたっていない子供がどうして、大人と同じ考え方を理解できるだろうか。そうだ。初期の人類もこの子供たちと同じように考え、行動した時代があったのだ。人類のたどった精神構造の道筋を、ひとりひとりの人間が、その発達史を通してたどっているのだ。お伽噺はこうした精神史の痕跡をとどめており、だからこそ子供たちに適しているのだ。「人間論」の中でもアランはいう。「アラジンのランプをこすらなかった人が果たしてあるだろうか」。

 
 

2-4.せっかちな理解
24  さて、幼児の前に次第に物理的な世界があらわれる。つまり、幼児は物的な世界を多少とも意識するようになる。たとえば幼児が食卓に向かう。手にスプーンを持って、テーブルやお皿や茶碗を叩く。すると音が出る。おや、これは面白い。そこで彼はスプーンでいろんなものを盲滅法に叩いてみる。お母さんは、子供のあまりのしつこさとうるささに耐えかねて注意をする。このときいうことをきいて、すぐにやめる子もいるし、いつまでも続ける子もいる。するとついにお母さんが大きな声を出す。さてこの場合、お母さんのいうことをすぐによく聞くおとなしい子と、いつまでもうるさくしている子、どちらが大人なのだろうか?

驚くべきことにアランは、「人の信じたいこととはまさしくうらはらに、お行儀良く食事するのは子供であり、フォークを手にガチャガチャやらかすのは、ちいちゃな大人のである」といっている。なぜか? それは従順で素直な子供が大人のルールにおもね、無批判に大人にしたがっているだけで、物理的世界にさっぱり関心を示していないからだ。あるいは、物理的世界に関心はあるのだろうが、それを捨てて、むしろ大人に盲従しているだけなのだ。これに対して、いつまでもガチャガチャやっている子供にしてみれば、自然的世界の中での実験の方がはるかに面白い。アランはこの子供を「この若い物理学者」と表現している。この聞き分けのない子供の行為には自然科学への萌芽がある。物理学的自然への積極的な関与がある。だとすれば、この時点の彼は、単にタブーをおそれ、しきたりに盲従するだけの原始人ではないのだ。

とはいっても、いかにせん子供は子供である。子供には大人が日々の暮らしにお金を必要としていること、そのお金を稼ぐためには働かなければならないことを知らない。かりに「働く」という言葉を覚えたとしても、それが何を意味するのかは知らない。私は子供の頃、食卓の前で「こうしてご飯が食べられるのも、お百姓さんが働いてくれたおかげだ」と聞かされた。しかし、お百姓さんと目の前のご飯との間にどのようなつながりがあるのかはわからない。どのような商流、物流があり、だれがどこでどんな苦労をし、そこにどのように利害関係がからんでいるか・・。もっとも大人になってもそのことを理解できない人だっている。どうして子供にそんな仕組みが分るだろうか?

かりに子供がお菓子やおもちゃをねだるとする。親がそれを与えられるときには、与えるだろう。しかしそれが手元にないとき、あるいは金がなくて買えないとき、要するに子供の要求に応えられないとき、子供は「もらえない」という事実をどう思うだろうか? アランはこういっている。「先方が与えることができぬから呉れないなどと、考えを及ぼすような子供なんてひとりもいない。子供はつねに、それは先方で呉れてやろうと思わぬからだと考える」。この段階の子供は自分の「要求と結果」、つまり「ほしい物」と「それがげんにあるかかいか」、この二つしか見ない。親がお菓子やおもちゃを与えるために、どのような前提条件を満たさなければならないか、子供にはそれがわからない。

子供にはまだ、きびしい労働の法則、経済の法則がわからない。私の母親はよく私にこういった。「うちは貧乏だから、買えないの」「うちにはお金がないの」。だが、貧乏とはどういうことか、裕福とはどういうことか。なるほどわが家は貧乏だった。わが家では学校に通う私に白米の弁当を持たせることができなかった。ところが学校に行ってみると、銀シャリに、肉や卵焼きなどというわが家では見たこともないような立派な弁当を持ってきている友達がいる。そこで私は「世の中には貧乏人と金持ちがいる」ということを学んだのだが、それは「そういうものだ」ということを学んだのであって、社会的な原因と結果を結びつけて学んだのではなかった。これは性急な、結論だけの学習だった。

アランはいう。「ひとがまず貧困と裕福とを理解してかかろうとするのも、こうした性急さによってである」。ここから一足飛びに、「社会ははなはだ不公平だ」という意見も出てくる。そして「不公平」「不平等」という考え方は、大人になっても簡単には消えない。大人たちの中にも、「金持ちになるか貧乏になるかは運の問題だ」「社会における問題は要するに配分の問題だ」と考えたがる一群の人々がいる。この人々はその思想の中に「子供」を温存してしまったのである。なぜならば、社会の中には金持ちになりたいと思い、実際になれる人もいるからだ。大人の理解とは、「実力に応じて稼ぐ」「自分の意志にもとづいて職業を選択し、金持ちになりたければそのために努力する」「結果がまずいのは、やり方がまずいからだ」というものだ。

裸一貫から出発して金持ちになった人に聞いてれば、「いやあ、私は運がよかったのです」というだろう。またその言葉を真に受ける人もいるだろう。だが、その人が努力しなかったということはありえないし、怠け者だったということもありえない。また、彼がすべてのチャンスに能力を発揮できなかったということもありえない。子供っぽい人は成功者の語る「運が良かった」というコメントに力点を置いて話を聞くが、大人は話の裏に隠されている本人の努力分を評価する。問題を「運」のせいにするということは、結局「生産」の部分に目を向けずに「配分」のことしか考えていないということだ。「配分の公平、不公平」「配分における運、不運」という具合である。そこで、アランは「そして一人前のおとなになっても、ひとはいつも、分配の問題こそが第一の、主要のものだと、あまりにも思い込みすぎることだろう」というのである。

「政治が悪い」「国が何とかすべきだ」「行政が弱者の面倒を見るべきだ」・・いつも聞かされるこうした意見の中に、すべてを親頼み、人頼みにしていた子供の思想が混じっていないだろうか。このような「・・してもらう」という発想、「・・してくれないのは意地悪だ」という発想・・。考えてみれば、こうしたものの考え方の中には、因果関係に関わりなく、おねだりと、いい子であることの演出と、駄々をこねるという方法論、すなわち「幼児の祈り」の手法が隠されている。

イソップ物語の中に、牛追いが車を溝の中に落っことしてしまう話が出てくる。途方にくれた牛追いはヘラクレス神に助けを求めた。彼は日ごろヘラクレス神を祀っていたのである。するとヘラクレス神があらわれていった。「車輪に取り付き、棒で牛を突け。自分でも何かしてから神頼みするがいい」。苦しいときの神頼み、というのは誰しものことだ。だが、この寓話の神様は親切にも姿をあらわし、「おまえ自身の努力が不足している」という。この場合、牛追いがすべき努力とは、まずは現場の状況の判断であり、傾いた車輪の角度、ぬかるみの具合、車軸にかかる力の計算、そして牛に引かせる綱の角度の確定、その上で、自分が渾身の力をこめて踏ん張ることである。だが私たちは、なにぶん、この怠惰な牛追いに似ているところがあるのだ。

 
 

2-5.ブルジョワとプロレタリア
25_2 おねだり、いい子であることの演出、・・これらを効果的にするためにはもちろん行動や表情の裏づけが必要だ。しかしもっとも重要なのは「言葉」である。さいわいなことに、子供たちは次第に言葉を獲得し、言葉の効果を試すようになる。「正確な意味での言語というものが、いちばん早くあらわれる行動の方法である。これは叫びからはじまる。じつに叫びこそ、まず子供にとっては唯一の力、遠くから接触することなしに動かす力である」。もちろん、母親は幼児が泣き叫べば、すぐに駆けつけてくれる。これはまだ言葉ではないが、それでも一種の言葉だ。そして子供はすみやかに、「うまく表現すること」と「結果」との密接な関係を認めるようになるだろう。これは、物理的な力を使わずに物を動かす、一種の魔法の方法論である。
 「言葉」・・これは何と不思議なものだろう。それは明らかに事物ではない。かりに私が「石よ、動け」といったとしても、石は一向に動かない。壊れた機械に向かって「機械よ、直れ」と命じたところで、機械は直らない。では、本当に事物は言葉によって動かないのだろうか。ここで私はあなたに、ひとつの実験をおすすめする。あなたが手に入れたいもの、欲しいものを1日に100回ずつ声に出して唱えるとする。――あなたの祈りはできるだけ多くの人に聞かれたほうがいい。これを何日も繰り返す。あなたの要求がさほど無理なものでなければ、たとえば、「酒を呑みたい」とか「お菓子が食べたい」などというお手軽なものであれば、かなり早くに、しかも見かけ上は無料でそれが手に入るだろう。もちろん周囲の人が何らかの形であなたの希望をかなえてくれるわけだが、結果としては言葉が事物を招来したということになる。私たちはこの方法を幼児のころにいったん会得したのだが、しばらくこの魔法を使わずにいたのである。とはいってもこの方法がまったく忘れられてしまったのではない。それどころではない。この方法はある種の職業の中にしっかり温存され、大いに活用されているのだ。「一人の大臣がせっせと礎石を据えるさまに私は眼を見はる。この石工はほとんど私をうっとりさせてしまう。実際にただの言葉だけによって、彼は石を動かしてみせる」。政治家の仕事は、事物には少しも触れることなく事物をもっとも大きく動かす仕事である。彼らの言葉によって、都市ができ、鉄道が敷かれ、空港ができる。では、その大臣はどのようにして選出されたのか。もちろん言葉によってだ。彼は言葉によって金を集め、人を集め、票を集めたのだ。だからこそ彼らにとって「失言」は致命的なものとなる。

このように、言葉の力によって身を立てる職業をアランは「ブルジョワ」と名づけている。「ブルジョワとは説得によって生活しているもののことである。店舗をはっている商人、教師、僧侶、弁護士、大臣といったものは、これと違ったものではない」。「ブルジョワ」の反対概念は「プロレタリア」である。彼らの仕事は「石」や「機械」など、口頭による説得が何の役に立たない「事物」に直接働きかけることである。すなわちその職業は農夫、漁夫、工場労働者である。彼らは鋤や鍬やハンマーやトラクターなどの道具を駆使して、物理的に事物を動かす。彼らは口先のうまい連中を馬鹿にしている。事物が口先ではどうにもならないことを知っているからだ。とはいっても、純粋なプロレタリアは存在しない。というのも彼らも言葉を用いて自分が作った物を売らねばならず、賃金交渉をしなければならないからだ。

こうしてみると、社会には「言葉」の使い方を機軸として二種類の職業が存在するわけだ。では、このことがどのように宗教に関係するのか? いうまでもない。アランは「宗教は主として言葉の世界に属している」「宗教は言葉の産物だ」といいたいのだ。先の引用文の中で、彼がブルジョワ的職業の代表として「僧侶」をあげていたことにお気づきになったことだろう。僧侶にとっては「言葉」が命だ。「神」も「霊」も「精神」も言葉だ。もしもこれらの言葉がなかったら、僧侶の仕事はあがったりだ。もしも言葉がなくなってしまったら、世界はただの無名の事物の広がりに過ぎなくなる。してみれば、人間が言葉を獲得したとき、学問や文学と一緒に、宗教の基礎もまた与えられたのだ。そして一人の幼児にしても、彼が言葉を用いて何かができるようになったとき、彼はブルジョワ世界の仲間入りをしたのであり、いいかえれば、宗教的な世界へと一歩足を踏み入れたのである。

ブルジョワとプロレタリア、この二種類のうち「子供っぽさ」を温存しているのは、どちらだろうか? いうまでもない、それはブルジョワだ。「彼らが地面を変化させたり、物を運搬したりするのを諸君は見はしない。彼らにとって抵抗あるものとは、物ではなくして人間である。そしてここから、おどろくべき偏見のかずかずが生まれ、生まれることを止めない。じつはこれ、幼年時代のつづき以外のものではない。ブルジョワたちは乳母たちを説得する術によって成熟する」。大人になるとは、物との接触を通じ、手足を使って物を操作し、自分の望みを実現することである。これに対して言葉によって、つまり呪文によって願いごとを実現するやり方は、いかに高級そうに見えてもじつは子供の術である。だからアランはいうのだ。「われわれもみなかつてはブルジョワであった」と。

 
 

2-6.なぜプロレタリアは宗教を誤解するか
26   アランは、ブルジョワが間違っておりプロレタリアが正しいといっているのではない。むしろ反対だ。どちらかというとプロレタリア型人物の方が、宗教について考え違いをする可能性が高いと彼はいう。ご推察のように、ブルジョワはプロレタリアにくらべて「礼儀作法」という形式にこだわる。というのも、礼儀作法なくして人を動かすことなど考えられないから。私たちだって応対の悪いお店では買い物をしないだろう。礼儀作法、愛想のいい態度は、重要な人間操作法なのであり、要するに呪文を唱える技術の一部なのだ。「ブルジョワ的生活においては、すべてが宗教的である。けだし、懇願とか説得といった行為は、自ずから準拠すべき一定の規則というものを持たないのだから。・・そして、よしその効用が分らぬにしても、形式的工夫というものを等閑にするのは明らかに危険である」。

ここでアランがいっている「自ら準拠すべき一定の規則」とは、物理的法則のことだ。この角度で、この分量で、この力を加えればこういう結果が出る、と分っていることに関しては、礼儀も習慣も関係ない。その通りにやれば誰がやっても同じ結果になる。しかし人を動かすときにはそういうやり方では通用しない。昔からのしきたり通りに、慇懃に、相手の気持ちを察しながら、必要ならこちらが下手に出て相手の心を動かさなければならない。考えてみれば、社会はこの「慣行」と「礼儀」で動いている。そしていったん相手の気持ちをこじらせてしまうと、円滑に行くべきものがストップしてしまう。これは、異物が挟まって機械がストップするというのとはわけがちがう。「ブルジョワの方法は幼時の方法だ」などといって、これを軽視するとしたら、とんでもないことになる。

礼儀作法、社会習慣と宗教はある意味では同一の線上にある。お正月、各種の節句、夏休み・・、これらの国民的習慣はいまでは形骸化しているが、いずれも宗教的源泉を持っている。もちろん、これらの社会習慣は個人的な信仰活動とは別物ではあるが、なにぶん宗教的だ。ブルジョワ的精神は、こうした「慣行」「儀礼的習慣」に抵抗しないだけでなく、むしろこれらを尊重するという方向で動く。

ここに、かりに「宗教的な習慣なんてまったくばかげている」という人がいるとする。その人はかなり純粋なプロレタリアだろう。この人は物理的法則しか信用しないというタイプだ。この人がひどく潔癖性であれば、意味のない伝統習慣には批判的だろう。たとえば「お盆に死者が帰ってくる? よしてくれ。盆休みは単なる夏季休暇ということでいいんだ」などというかもしれない。アランはこういう。「純粋のプロレタリアの危険は、礼節や表徴や信用や説得について、ひとことでいえば宗教そのものについて、誤解をするということである」。現実には過激で純粋なプロレタリアは、なかなか見当たらないが、かりにそのような人がいたとしたら、宗教を無益な習慣、あるいは迷信とみなしてこれをバカにすることだろう。げんにフランス革命のときも、ロシアの社会主義革命のときも、宗教はかなり手荒な取り扱いを受けた。

ではなぜ純粋なプロレタリアが宗教について「誤解」するのだろうか。それは彼らなりの合理的な根拠からして、宗教を「迷信」だと一蹴してしまうからだ。けれど、アランの考えでは宗教は迷信ではない。この件に関しては、アランがこの本の冒頭でいっていたように、宗教を「真ならざるもの」としてきめつけてはいけない。むしろ「げんにあるものはすべて真実と考える」という態度で望まなければならない。かりにプロレタリアが、いくら熱心に見かけ上の宗教を追放しても、人間の生活から宗教的なものを全部追放することはできない。というのも、たとえどんなに筋金入りのプロレタリアであっても、彼自身がどこかで人に訴えたり、懇願したり、信じたり、説得したりしなければならない瞬間を持つからだ。

宗教性、それは人間の本性の一部にインプリントされた特性なのだ。それはまず幼児の説得、幼児の祈りの形で否応なしに現れる。私たちは無意識のうちに、どこかで、何らかの形でアラジンのランプをこする。社会には、どちらかというと「人を説得することで生計を立てる人」と、どちらかというと「人間よりもモノや機械を相手にすることが多い人」の二種類に分かれる。科学技術の世界は主としてプロレタリア系の人々の判断と力で動く。けれど、幼児期を経験しない人はいない。そして人に依存し、人を説得しなくていい人もいない。つまり私たちは決して純粋なプロレタリアでありつづけることはできないのだ。こうして、好む、好まないにかかわらず、私たちはどこかに宗教性の根っこを保持することになるのである。

動物は祭壇を持たず、彫像を持たず、また虚偽の神々をもたない。このゆえに、動物は眠り、またいつになっても眠り続けているであろう」。哺乳類動物の多くが母親に育てられるが、それでも人間以外の動物は早くから自立し、すみやかに一人前になる。大部分の昆虫のことを考えてみよう。彼らが卵からかえるとき、すでに母親はいない。けれども彼らは卵からかえったその瞬間から、どのように生きるべきかを知っており、誰にも教えられなくとも間違えずに自分の好みの餌をとり、変態し、成虫になる。だから彼らは仲間や母親にほとんど依存しない。彼らはいささかも他を説得したり、他に懇願する必要がない。

これに対して、人間は人間による庇護、社会による庇護を必要とする。それも非常に長期間にわたってである。だから多くの人々は、大人になっても子供式の懇願と説得術から抜け出せないのである。この章の始めにソクラテスの亡霊はこういった。「人間どもは、あたかも失った力強い召使いたちを探しでもするように、神々を追い求めてやむことがない。しかも人間どもは、そのほしいものを自分で手に入れるためによりも、もっと多くの骨折りを、この目に見えぬものたちに祈ることに費やしている」。いま私たちには、その理由の一端が見えてきたのではあるまいか。

 
 

2-7.迷信と想像力
27_2  さて「迷信」というキーワードが出てきた。ここで迷信の本質を考えてみよう。一般的に迷信とは、物理的因果関係の裏づけがないままに、AとBはつながっていると信じることである。たとえばある呪文を唱えれば必ずうまくいくとか、どの方角に家を建てれば、必ず不幸になるとか、あるいは金持ちになれるなどといった類の言説、または信念である。そしてプロレタリアが主張するように、たしかに迷信と宗教との間にある種の近縁関係がある。たとえば誰かが、「これこれのことが生じるのは神のたたりだ」とか、「祈れば神が助けてくれる」などといったとすれば、それは迷信にきびすを接した宗教よりの発言といっていいだろう。だから私たちは、「宗教は迷信だ」というプロレタリアの態度をたしなめたのだけれども、もう一度「迷信」の周辺を探って見る必要がある。

このように迷信的な感情が生まれる背景の一つは、漠然とした、未知なものに接したときの、私たちの恐怖、要するに私たちの身体の防御体制からやってくるとアランは考える。子供は暗がりが恐く、人気のないところが恐い。「自分がたしかに見るように思い、あるいは見るのではないかと思うためには、うたがいもなく、ただ知覚が充分漠然としているということだけでことたりる」。「幽霊を恐がるなんて」と、一笑にふす人がいるだろう。しかしこうした「怖がり屋」の精神を、まったく完全に克服してしまったような人が、果たしているだろうか。ホラー映画や怪談話で、ぞっとした経験を持たない大人が果たしているだろうか。なるほど私たちは子供時代を卒業した。だが、あいまいな知覚はいつでも私たちについてまわる。そして私たちは依然として子供っぽい恐怖心を持ち歩いているのだが、それが不健全なもの、間違ったものだなどと誰がいえるだろう?

アランは「人間は最初から十分に自分の精神を信じてかかるといったものではない」という。これはどういうことだろうか。それは、私たちが見たものを「自分は本当に見た」といわないことがあるということだ。つまり、自分が見ているものが信じられなくなったり、見間違いをしたのではないかと思う。自分の推論に自信が持てなくなったり、せっかく正しく判断しておきながら迷ったりすることがあるということだ。そうなると、はっきりしたものでも漠然としてくる。根拠のない意見を述べられても、「そうかもしれない」と思ってしまったりする。自分の認識に自信が持てなくなるそのとき、私たちは迷信家に一歩近づく。

アランは古代の狩人に思いをはせる。この狩人は腕がいい。冷静でいられるときには、彼の弓矢は狙った的をほとんど外さない。しかし彼もいつも冷静であるとは限らない。そこでアランはいうのだ。「そして本物の武器そのものはといえば、この大人の武器は、ただ良く迷信を倍加することしかなし得ない」。つまり、彼の武器に魔法がかかってしまったとか、悪霊の乗り移った獣がいる、と彼が思い込めば、彼は冷静に弓をひくことはできなくなる。弓矢は人の身体に即して作られている。そこで、「身体がふるえるならば、ねらいも定まらぬのだから」。かりに射損じることがあれば、彼はこう思うだろう。「とうとう、この弓は魔法にかかってしまった」「やっぱりあの狼には、悪霊が乗り移っているのだ」。

これでお分かりのように、あいまいな認識の中に――自分の判断に対する迷い――悪霊や、たたりなどの要素を導入することで見かけ上のつじつまが合い、迷信は成立する。恐怖感による失敗・・これらの要素がこの腕のいい狩人を、すっかり迷信深くする。しかし彼はいつも悪霊にやられっぱなしでではない。悪霊を退散させる守護神を設定する。その守護神を呼び出す呪文を発見、あるいは発明する。この狩人は呪文を唱え、自信と冷静さを取り戻す。すると腕前も戻ってくる。この場合、あるときには失敗し、あるときには成功することが彼の迷信を倍加する。つまり悪霊と守護神との、あるいは呪文を唱えるときの条件や体制のバラツキが、射撃成績を変えてしまうと彼は考える。

もっともおそるべき射手とは人間のうちもっとも非迷信的なもののことではなく、反対に彼は誰よりも迷信的なのだと、私は考えたい」。ひどく迷信的で、しかも自分の考えに凝り固まっている射手が、一番腕がいいとアランはいうのだ。というのも、彼は自分の手続きの呪文に絶対に効き目があると信じ、それによって自信を持ち、クールに的に向かえるからだ。こうなるともう手がつけられない。反対にいつ狙ってもはずしてばかりいる下手くそがいるとすれば、この狩人は、迷信的になりようがない。何しろ彼の祈りは一向に効き目がないのだから。「いつも射はずしてばかりおれば、ひとはだんだん迷信的でなくなることであろう」。してみれば、人は「あいまいな認識」と「つじつま合わせ」と「祈りと効果」の関係によって迷信家へと進むのである。

「迷信」に関係するもうひとつ重要なカギが、私たち自身の中に残されている。それは「想像力」である。これは子供たちの遊戯の中にきわめてよく観察されるとアランはいう。たしかに、子供たちの遊戯、「**ごっこ」には「想像力」が大きな役割を占めている。たとえば、「自動車ごっこ」や「乗馬ごっこ」をする子供を観察しよう。「円いものがあって、これが手をちょうどハンドルの上にあるような具合に按配すると、これがまるまる自動車のかわりになる。だが、これが自動車の姿を喚起するわけではすこしもない。また同様に、ある仕方で配列された椅子が、車や馬の外観をとるということはすこしもない」。

アランがここで注目しているのは、子供の身の回りにあるものがすこしも車や馬に似ていないのに、車や馬に見立てられ、それで充分に役割を果たしているということである。この場合子供は幻覚を見ているのだろうか? そんなことはありえない。この場合重要なのは子供が、自分の体を動かすことによって、不在の事物を想像の世界に出現させているということだ。想像力を働かせる上で実物は不必要であり、実物に似たものさえ不必要だということなのだ。「想像的なものが人間身体の運動の知覚と感覚以外のなにものでもないことに、注意すべき好機である。そしてこのことがわれわれの主題にとって持つ意味は大きい。というのも、いまやお分かりのように、神々は姿を現すことを必要とせぬのだから」。

いま私たちは「宗教の実体」をとらえかかっている。つまり子供の遊戯の中に見られる生き生きとした想像力、これが現に目の前にある事物を越えて、あるいは事物の事実に反して、理想の自動車、理想の馬を現前させているという事実である。こうして遊んでいる子供の生理状態を測定してみれば、適度な興奮、高揚を観察できるだろう。子供にとって自動車はげんにそこにあり、馬は存在するのだ。そして、あまりにも具体的なイメージの自動車や馬のおもちゃがそこに存在すれば、彼のイメージは目の前にある事物に規制されてしまうだろう。つまり、神をイメージしようとする人にとって、神の偶像は邪魔だということになる。姿を見せぬ神こそ、もっとも純粋に、もっとも自由な想像力を羽ばたかせてくれる対象である。お伽噺の世界では、一本の剣に、あるいは泉に妖精が宿っている。しかし誰も剣には剣以外のものを見るわけではなく、泉に泉以外のものを見るわけではない。そこに宿っている妖精のイメージは、こちらからの持ち込み品である。そこでアランはいう。「もろもろの宗教の精髄たるかの隠密のものは、決して姿を見せない。これは恐ろしいものの極点である」。

このような考えの経路をたどって「迷信」というものを再評価してみよう。プロレタリアがおおいに軽蔑するとろの「迷信」、私たちもとかく鼻の先で笑ってしまうような「迷信」、それは私たちの想像力の産物であることが明瞭であり、とくに認識があいまいなときには万人に対して共通にあらわれやすくなる。なるほど、お化けや妖精を想像しておびえるのは滑稽であり、不合理なことである。しかし想像力は「お化け」「妖精」に関してだけ活躍するのではない。子供たちは手もとに何も持たなくても、この想像力を駆使して大いに遊ぶのであり、私たちだってこの想像力を用いて他人のことを忖度し、あるいは想像力を使って遊び、ときには仕事をし、あるいは諸芸術を楽しむのである。迷信を生む想像力は、私たち人類に共通の基本的能力の一部である。そして宗教は想像力に無縁であるどころか、むしろ想像力としての精神の生産的な産物であるというべきである。

 
 

2-8.戦争は宗教的である
28  ここでアランは「想像力」に関連しながら「恐怖」と「情念」について語る。お化けのことを想像して本当に恐くなってしまうということがある。子供たちの遊びには「恐がらせごっこ」があるし、大人になっても「肝試し」の遊びをやる。ここで主として働いているのは「想像力」、あるいは「言葉」に過ぎないものであるが、恐怖の体験はリアルなものであり、恐がっている人の胸はどきどきしている。つまり物的原因は存在しないのに、身体的動揺という結果は、明らかに物的なものである。これが情念という、厄介なものの構造である。「そして荊棘は逃亡するものをしか引っ掻かない。子供は戯れにわが身をぶっては、思った以上の打撃を受ける。彼は戯れに砂の上にころげ落ちる。しかし重力は戯れではない」。

「言葉の世界」「事物の世界」これは、ある意味では「虚構」と「実在」の違いである。私たちの身体的な暮らしはあきらかに「実在」の側にある。しかし、「実在」は言葉という「虚構」のものによって動かされ、支配されている。そこでアランはいう。「虚構と実在とのこうした混和は、じつはあの二重の生活状態の帰結なのであるが、いずれにしてもこのものが、われわれのすべての争いの秘密を蔵している」。アランは宗教、言葉、戦争という3つのキーワードに関して、「戦争はすべて宗教的なものである」といい、同時に「戦争はそのほとんどが、言葉によって生じる」といっている。たとえば、私が誰かに面と向かって侮辱されたとする。あるいは何か恐ろしい口調で威嚇されたとする。しかしその段階では言葉に過ぎない。けれども、それを聞いた私の鼓動は早まり、アドレナリンが多量に分泌されるだろう。私も負けずにいいかえすかもしれないし、そうした言葉の応酬が、暴力に発展する可能性は充分にある。してみれば、言葉という虚構のものは、不幸な実在を招いたのだ。あるいは言葉はすでに実在の先駆であったのだ。

アランは別の本の中で、橋の上で行き会った二人の剣士の例をあげている。武者修行中のこの両者は橋の上でにらみ合う。無言でそのまますれ違うかもしれないし、緊張感が高まって斬り合いがはじまるかもしれない。一方が刀の柄に手をかけそうになっただけで、あるいは一方が「気配」「殺気」を感じただけでおっぱじまるだろう。だが「殺気」とは何か? この場合、二人の心の中に生じている想像力が敵なのだ。そして、一見無言劇に見える、この二人の心の中では言葉が彼らの想像力をいっそう刺激しているだろう。これが人間の争いだ。人間の争いは動物の争いとは別だ。人間の戦争は言葉によって触発され、言葉によって展開される。動物の争いはもっと即物的だ。それは縄張り、食物、メスの固体という実在を離れることはない。

人間たちの戦争がもしも「実在」だけに限定されていたら、過去の戦争の規模はごく限定的であったろう。取り返しのつかないほどの人命、財産の喪失、破壊、・・これらをコスト換算して、人類は果たして戦争で得をしたことがあったろうか? では過去の、人々のあれほどの戦争への熱狂をほかの何で説明することができるだろう? アランはそれを「想像力−言葉」すなわち「宗教」という根本的な関係から説明するのである。

こんにち世界の各地でおこなわれている紛争の中から、宗教に関係するものを取り除いて見たまえ。すると、世界は思いのほか平和な場所になることが分るだろう。これに対して「戦争は利害の衝突から起こるのだ」という人がいるかもしれない。「武器商人など、要するに死の商人たちが戦争を煽っているのだ」という人がいるかもしれない。もちろんそうかもしれない。だが、戦争はいずれにしても人類の利益にはまったく合致しない。死の商人たちも、自分の富を保全するには平和が必要であることを認めざるをえない。単純に利益だけを追求するような、勘定高い人間なら、戦争など絶対に望まないだろう。要するに戦争の中には、計算を度外視したなにものか、つまりアランのいう宗教的な情熱が含まれているのだ。

 
 

2-9.唯物論的認識を支える精神
29  第1部、第9章に入ると、アランは突如としてルクレチウスを持ち出し、彼を讃美しはじめる。「ルクレチウスは正当にも有名である。またつねに読まれている。神々を放逐する動きそのものによって詩を崇高にまで高める」と。ルクレチウス(紀元前97年ごろ〜55年ごろ)は古代ローマの詩人だ。彼は「事物の本性について」という本を書いているが、これを読むと彼が古代における一個の唯物論者であったことが分る。要するにルクレチウスは、自然の事象はすべて自然界に存在する事物の因果関係によって成り立っているのであって、そこにはいかなる神秘もないと言い切っているのである。その一節をご紹介しよう。


それゆえ無からはなにものも生じえないことをしるなら、その時は、

私たちが探求しているものをすでにより正しく、これからは

見きわめることになるだろう。すなわち物はそれぞれ何かからつくられ、

どんなふうにして、万事は神々の働きなしに生じうるかを。

・・・

物体のうちで、そのあるものはものの元素(アトム)であり、

他のものは元素の結合によって構成されたものである。

ところでものの元素たるものは、どんな力もこれを消滅させることが

できない。その緊密な固さによって最後まで勝ち抜くからである。・・・

                        (藤沢令夫・岩田義一訳)


この考え方は原子論で有名な古代ギリシャのデモクリトス、そして無神論的な思想を確立したエピクロスなどの流れをくんでいる。アランはこの古代の無神論者の口を借りて何を言いたいのか。「ルクレチウスはつねにわれわれを驚かすが、ここでも狙いをあやまたず、はるか先んじてこういう。すなわち星辰の出没や月の満ち欠けや蝕などを説明すべくなされうるかぎりの規定は、もし人がそこにいかなる神も許容せぬならば、すべて結構なものであると」。要するにルクレチウスは、世界の説明に「神々の名を持ち出してはならない」といっているのだが、アランはその点を高く評価しているのである。

世界の説明に関して神々を持ち出さないということは、説明に窮した場合に勝手な想像をさしはさまないということである。「それは神の摂理で・・」とか「神様がそうきめたので・・」ということは、不明の部分を「神」の名で安易に補ったということであり、合理的説明において、イージーなルール違反をやったということ、つまり幼児的な方法をとったということだ。だから、アランは「物理学本来の、そして正義そのものにとってもおろそかならぬ目的とは、こんにちなお、世界の認識から想像を払拭することであり、いわば幼年時代から抜け出ることである」というのだ。私は、今から2000年以上前にルクレチウスのような人がいて、最後まで「神の摂理」を排除しつつ「自然」を説明しようとしたことに驚嘆する。彼の「事物の本性について」を読むと、私はいつも「科学は一個の詩だ」という印象を強くする。

以上のように書いてくると、「ははあ、アランは唯物論者であり、無神論者だったのか」と合点してしまう読者がいるにちがいない。先だって私はある友人に「君は無神論者だね」といわれた。だが私は宗教に対する個々人の考えや立場を、「無神論」と「有神論」の二つに単純に区分できるとは思っていない。ここでアランがルクレチウスの言葉を借りていわんとしていること、それは「説明困難な部分に安直に『神』という言葉を代入してはならない。それは子供っぽいやり方だ」ということだ。だからといって、アランをいきなり「無神論」ときめつけてはいけない。同じように、アランの認識論的立場についても性急に「唯物論」だときめつけてはならない。ちなみにアランは先の文章のあとに、「というのも、人間は事物だからであり、精神は断乎として唯物論的なこの見解によって、ただいよいよ強固になるばかりである」といっているのである。

「精神は断乎として唯物論的なこの見解によって、ただいよいよ強固になる」、読んでお分かりのように、この言葉は基本的には唯物論的認識を肯定している。しかし彼はその唯物論的認識を支えている精神活動をはるか上位においている。つまり、精神の健全性と矜持が事物的世界の認識を支え、一方では唯物論的な認識が精神の健全性と矜持を強化する、といっているのである。アランの考えでは、まだ私たちの努力によって合理的に理解できる部分があるはずなのに、その検討をいい加減なところで放棄し、はやばやと「神」の名を持ち出してくるようでは、精神はみずから対して不誠実ではないか、というのだ。(イラスト:天体を観察するルクレチウス)

 
 

2-10.誰もがいまだに幼児である
210  「精霊たちは自然のものであり、さらには幼児たちの生活において検証される経験的なものでさえある。そして幼年時代はつねに立ちかえってくる。まことにわれわれは、奉仕し、禁止し、脅威する神、いみじくも父なる神と呼ばれる神の、思い出をもっている。しかしまた、いまや充分に説明されたいろんな他の原因によって、われわれは事物の背後や事物のうちらに、決して姿見られず、その事物がわれわれに与えるところのものの実際の提供者であるような、召使のようなものを想像する」。私たちはお互いに大人だ。だが、それは身体的に大人だという意味だ。心の中に、あるいは行動パターンの中に、私たちの幼児、あるいは少年少女が残っている。子供の頃は、見聞きするものの多くが奇跡だった。奇跡を待望する精神、つまり、もの珍しいものに対するワクワク感、あるいは野次馬根性は、私たちの考え方の中に消えがたく残っている。そこでアランは「あれほど褒めそやされる好奇心とは、じつは奇跡への期待でしかない」というのだ。

一方私たちは誰かに頼り、安心して暮らしたいと思っている。たとえば観光旅行に出かけるようなとき、団体ツアーに参加するほうがはるかに楽だ。ツアー・コンダクターのいう通りに行動していればいいからだ。こんな気持ちもある意味では幼児性の名残かもしれない。きのうも私は近所の会社の前で、いまどき労働組合の一群が頭に鉢巻をし、道行く人にビラを配ったり、スピーカーで演説したり、「座り込み」をやったりしているのを見た。付近には、要求と主張を記した横断幕が掲げられている。彼らに質問してみれば、「自分たちはプロレタリアだ」というかもしれない。しかし私の考えでは、彼らの戦術はきわめてブルジョワ的なものである。つまり幼児的な要求の方法、「祈り」のパターンである。つまり、しつこく求め、泣き叫ぶということ、これである。してみれば、私たちは生理的に大人になったからといって、すっかり大人になったわけではない。

私たちは現代人だ。少なくともそういう自負と自覚を持っている。しかしながら、私たちの中には古代人の記憶と行動パターンが残っている。生物学者なら、私たちの海馬の部分には、われわれの祖先が爬虫類だった時代の記憶が残っているというだろう。メスをめぐっての闘争やナワバリ争いといった動物時代の行動パターンはいうに及ばずだ。小・中学校で教えている教科の内容は、たとえば、算数や幾何の例で典型的にわかるように数世紀前の、あるいは紀元前の知識である。たとえば私自身でいえば、デカルトやパスカルの数学さえ難しすぎて頭に入らないのだから、私の数学的能力は紀元前の状態、つまり無知蒙昧にとどまっているといっていい。

ここで大切なことは、私たちは「もう幼年時代を卒業した」「私たちは過去を克服した現代人だ」という自負を持ちすぎないことではあるまいか。誰しも自分の中に、何がしの古代人、何がしの幼児性を残しており、それが私たちの考え方や行動を深いところで規定しているにちがいないのである。私たちは「大人だ」「現代人だ」などとうそぶいているが、じつは誰もが誤謬を抱え、幼児的甘えを温存している。これがかけ値なしの人間の、ありのままの姿なのだ。であるとすれば、私たちはこの事実を率直に認め、なお、いくらかでも前進することではあるまいか。つまり幼児的な認識の誤謬、しかも他人に迷惑をかける恐れのある誤謬は、意識的に克服する必要があるのではあるまいか。

では、その幼児的誤謬から脱出するにはどうしたらいいのか。その道は、すでにアランによってはっきり示されている。つまりルクレチウスに学び、ルクレチウス流に考えるということである。しかしアランはいう。「私はさらにルクレチウスをも浄化する、つまり彼を彼自身の中に置きなおす。そこをデカルトがいかなる恐れもなしに学んだ二重の道の中に」。つまりここでアランがいいたいのは、誤謬を脱出するためには「ルクレチウスが狙ったことをデカルトは、もっと明快に、合理的にいいなおしている。ルクレチウス流といってもいいが、より正しくはデカルト流に、といったほうがいい」ということである。デカルトには「コギト」の再出発がある。彼は自分の判断力をとことんまで疑い、その上で出直したのだ。デカルトには、おのれの精神の健全性に対する矜持がある。アランはここでは上の文中の「二重の道」を具体的に説明していないが、文脈からして当然、「自らの判断を恃みつつ(コギト)」「先入観にとらわれず(自然科学的に)」ということであろう。(イラスト:デカルトの顔を持つ現代人)

 
 

2-11.誤謬からの出発
32  ここで私はアランのもっとも衝撃的な一句に出くわす。「もし誤謬が自然のものでないとすれば、われわれは人間精神に絶望しなければならないだろう。虚偽の神々の支配とはこうしたものであって、この支配のままにわれわれは欺かれてしまうわけだ」。私ははじめ、この文の意味が分らなかった。だが、次第に分かってきた。つまり、「誤謬が自然のもの」とは、人間は誰もが幼児だという意味であり、人間がその出発時点ではほとんど無知で、初期の知識はほとんど間違いだらけだということである。そして、誰もがこの粗雑な認識から出発せざるをえないということであり、それが人間にとってごく自然な、当たり前の状態だ、ということである。ちなみに今日、テレビで幼児が窓から転落したという報道があった。窓際に置かれたベッドの上で遊んでいた幼児がたまたま開いていたマンションの窓から転落したのである。もちろん、親の管理不足が問題だ。だが幼児は、他の幼児と同じように「窓際の危険」を知らなかったのである。そして彼の無知と誤謬は致命的であったわけだ。

私たちは年齢を重ねるにつれて、つまり経験と知性の訓練を経て「窓際の危険」を知るようになる。つまり精神は学習によって経験を一般化したり、未経験な事についても予測を立ててこれにそなえることができるようになる。もし精神に、この学習と進歩が不可能なのだとしたら、私たちはいくつになっても「窓際の危険」を知らずにいるわけだ。誤りから出発して、次第に学習できるようになり、賢明になることができる、このことこそ「精神」の特色である。だから、「もし誤謬が自然のものでないとすれば」とは、「もし精神が誰もが当然持っている当初の誤謬から出発して正しい認識へと進むのでないとしたら」という意味である。その場合には、私たちの精神には進歩がないわけだから、「われわれは人間精神に絶望しなければならないだろう」ということになる。その場合には、私たちはいつまでも神秘の神々に欺かれ続けていることだろう。それは私たちの精神の進歩がそこで止まっている証拠だということになる。

いま私たちは「誤謬」といい「正しい認識」といった。だが、何が正しく、何が誤謬なのだろうか? 私たちはここで「ブルジョワ的正しさ」と「プロレタリア的正しさ」、いいかえれば社会的な正しさと、物理的な正しさを区分しておかなければならない。アランの定義によれば、純粋なプロレタリアは「宗教なんて迷信だ」という人々の代表選手である。しかし私たちはさきほど彼を間違っているとした。彼らのどこが間違っているのか。それは人間の社会そのものがブルジョワ的機構によって形成されているという事実を見誤っているという点である。

ガリレオはかつて地動説を唱えて異端者としての罰を受けた。彼が復権を遂げたのはつい先ごろ(1971年)のことである。いま私たちはガリレオの異端裁判のエピソードを聞けば、「ローマ教会とは何と愚かだったのだろう」などと思う。しかし、ローマ教会が維持しようとしていたのは社会的な秩序であり、おそらくローマ教会も、ガリレオの言っていることが物理学的には正しいと思ったかもしれないのだ。しかし物理学的正しさのステートメントはかならずしも社会的正しさとは一致しない。たとえば混雑する地下街など、群集がパニックに陥り、そのために死傷者が出るかもしれない状況下で、前後のことを考えずに「時限爆弾がある」と、アナウンスしたとする。このアナウンスの内容が正しいとしても、知らせ方に問題があるだろう。この場合には人々を騙してでも、安全に誘導するほうが正しいことになる。

大多数の人々と一致すること、大多数の人々の感情を尊重すること、これは多くの場合政治的、宗教的な正解と一致する。しかし数学の公式の正しさや、実験や観察によってえられた学問的正しさを、大衆の投票によって判定するなどということは考えられないだろう。では、幼児が転落するかもしれない「窓際の危険」の認識はどうなのか? もちろんそれはプロレタリア的正しさの認識、物理的正しさの認識に属する。では、私たちにこの物理的認識をもたらしてくれるものは何か? それは「私たちの精神」ではないのか? 

私たちは自分の精神を頼りに一歩一歩誤謬を克服し、より正しい認識へと進まなければならない。そして虚偽の神々に騙されないように自らの精神を鍛えていかなければならない。これはたしかだ。・・とこう書くとあたかも、私たちは人間社会から宗教的なものを一切排除しなければならないように聞こえるかもしれない。だがそう受け取るのは早計である。なるほど宗教の根源と人間の幼児性、あるいはブルジョワ性との間には深いつながりがある。それは宗教が「人間的なもの」に深くつながっているという意味であって、宗教そのものが誤謬だという意味ではない。それどころか私たちが頼りにする「精神」が宗教とどのようにつながっているのか、この点を見なければ、お互いに「神々」を読んでいる意味がないのだ。ここでも私たちは「結論を急ぎ過ぎないようにしよう」というアランの忠告を守らなければならない。(イラスト:転落する幼児)

 
   
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