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アランの「神々」を読む
 
第4章

4-1.死者が支配する家
41  「神々」の第2部「自然宗教」の中には、私たちがまだアランから学ぶべきことが多く残っているが、ここから「神々」の第3部「ジュピター」に進むことにしよう。ここではアランが分類した第2の宗教のタイプ、すなわち「政治宗教」の概念が明らかにされる。第3部「ジュピター」の第1章「炉辺」を読んでみる。ここでは、農業を営み、家族を形成する人間たちの姿、そして彼らの住む家のありようが描き出される。こんにち、わが国の農業はどんどん技術革新を進めている。最新の機械が導入され、ハウス内では温度がコントロールされる。ある種の野菜については工業化がおこなわれているという。こうした技術革新を率先して実行するのは老人ではなく、若者だろう。オフィスでも、パソコンをたくみに使いこなすのは若者たちだ。この波に乗り遅れた老人たちには出番がなくなりつつある。

しかし昔は、とくに農村ではつまらぬ工夫などご法度だった。確立された伝統とこれを代弁する老人の、すなわち家長の意見が大きな権威を持っていた。「けだし田園の生活にあっては、多くを知るためには、すでに長く生きているということだけで十分だからである。そして大地の労働とは、そこでは即興よりも昔の証言の方がいっそう価値ありとされる、そうした仕事である」。おそらく農業に限らずすべての技術や習慣が、かつては長い時間にわたるゆっくりした試行錯誤の積み重ねだった。だから、一度定着した習慣や技術は急には変えられない。変えてはいけないのだ。こうした時代にあっては、伝統を無視して勝手に新しい試みを導入することは、共同社会に対する罪悪だったにちがいない。

されば、家族のうちでもっとも年長のものが、精神によって王として君臨する。彼は死んでも相談を受ける。のみならず、いっそうみごとに、かつて実際に生きていた以上にすぐれたものとして彼は相談を受ける」とアランはいう。私たちは「自然宗教」における、宗教的な契機をたくさん見た。そしてここに、私たちは先祖崇拝というもうひとつの契機を見るのである。先祖崇拝をもっとも端的に証明しているものは墓だろう。墓参りとは、亡くなった祖父母や父母に挨拶をすることである。墓石の前で、人は自分たちの幸福が先祖のおかげであることを感謝し、あるいは一家に関係のある最近の事件を報告したりする。場合によっては悩みの解決や、子供の受験合格を祈願したりする。

この場合、死者たちは俗界を離れた超越的な場所におり、墓所、墓石はそれら先祖たちの「拠りしろ」であるとされる。もちろん「仏壇」も「拠りしろ」である。私たち日本人からすれば、「死んだ人はみなホトケ」である。つまり死ねば、誰もが無条件で超越的存在となれる。だから、生き残っているものが死者にあれこれ報告したり、相談したり、祈願をすることに何の不思議もない。伝統が重んじられる社会では、死者となるまえの生者が、つまり一家、一族を取り仕切ったもっとも年長者であるものが、生前にその権威を確立し、死んでなおいっそう権威を高めたと考えるのが自然ではなかろうか。

それにしても「死んでしまえばみなホトケ」という考え方も、人間性にかなった自然で、重要な考え方ではあるまいか。アランは次のようにいっている。「人が伺いを立てるのは、強く勇敢で思慮深い彼であって、その晩年に見られた、老いぼれて頼みにならぬ彼では少しもない」と。そして「生者の痛切な想念が死者から死を拭き消してしまう」ともいっている。人間は長生きするに越したことはないが、たとえ長生きしたとしても、いずれ耄碌する。だが親しい家族に保存される思い出とは、死の直前の姿の彼ではなく、もっとも立派な時代、立派な姿の彼である。死者を悼む、あるいは葬る、祀るという一連の作業は、アランの言葉を借りれば、「死者から死を拭き消す」ということである。

だからきちんとした手順と様式にのっとって葬儀を行うことは、葬られる本人にとってはどうか分らないとしても、残された人々にとって重要なこととなる。「かくて荼毘と墓石とが生まれる。またかくして、充分葬られなかった死者たちは、このときかたわの姿のまま無用のものとして、無用の、しかも禍さえあるものとして、恨みをいいに迷い出るという、あのきわめて一般的な信仰が生まれる」。おそらく、人間と他の生き物を区分する最大のポイントの一つは墓を作るか、作らないかだろう。人類学者は「墓」の痕跡をもって、人間的慣習を持つ人類の起源と認めるだろう。こうして「死」についての人類の最初の観念が、先祖崇拝に結びついていったと考えることができるわけだ。ここにも不可解なもの、幽暗なものはなにもない。(イラスト:相談を受ける農夫の死者たち)

 

4-2.英雄の特性
42  代々続く各家において先祖が祭られ、思い出が尊重され、しきたりが守られる。これは分りやすい原理である。そして死者の中には他の人々にとっても共通の思い出になるような、特別に傑出した人物もいたにちがいない。たとえば敵と戦って勝利したリーダーとか、ものすごい力で暴れ牛を取り押さえた人物とか、あるいは水利、開墾に際してすばらしい工夫をした知恵者など。そうした人物がいわゆる「英雄」であり、その思い出は英雄伝説となる、これも分りやすい理屈だ。こうしたヒーローたちは、数ある死者の中でもとくに手厚く遇されたに違いない。そしてその中のさらに顕著な人物、多くの人々に知られた英雄が、次第に神格化されていったのではないだろうか。だが、ここでアランのいう「英雄」の実体が何であるか、もう少し念入りに観察する必要がある。

というのも、アランのいう「英雄」は、人間の三部位説「頭−胸−腹」のなかの「胸」に関係しており、前章における「自然宗教」が主として「腹」に関係していたという事実と大きな対照をなすからだ。また、英雄が出現するのは田園においてではなく、主として人々の集まる都市においてだからだ。このことは都市を舞台とする「政治宗教」と深いつながりを持つ。ちなみに第2章「英雄」の冒頭で、アランは「田園的英雄などというものはおそらくいない。ヘラクレスも結局のところ野人である」といっている。これはどういうことだろうか。たとえ家々が祀る死者の中に、記憶に残るような傑出した人物がいたとしても、それはその家の英雄でしかなく、人々共通の英雄にはならないという意味である。社会共通の英雄が生まれるためには、「人々」あるいは「民衆」あるいは「社会」というものがいなければならない。そしてこれらの人々がいる場所は、広場や辻々を持つ都市ということになる。

ヘラクレスはギリシャ神話中最強の英雄であるが、ヘラクレス伝説はいたるところにあり、そのモデルも長い時代にわたって分布していたとみられる。要するにローカルな語り草となるような、勇敢な力持ちはどこにでもいたのであり、それがヘラクレスという一人の英雄像として集約され、確立され、定着していったと考えられる。だからヘラクレスの元祖=実相をたずねれば、毛脛におおわれた「野人」に過ぎなかったはずだとアランはいうのである。なぜ英雄像の成立に都市化が必要なのか。それは「多くの人々」が共通して認めなければ、万人にとっての英雄像が成立しないからだ。都市が成立し、民衆、群集が成立してこそ「英雄」が誕生するための外的条件が整えられるわけだ。

では、英雄の内的条件とは何だろうか?これについてアランは次のようにいっている。「おそらく英雄は立法者でもなく、また王でさえもないだろう。というのも、こうした職掌は慎重さを、さらには貪欲への傾向といったものをさえ必要とするからだ」。アランの考えでは英雄はかならずしもリーダーの素質を持っているわけではない。リーダーには慎重さが必要だし、利益やたくわえにも敏感でなければならない。これに対して英雄は慎重でもないし、貪欲でもないというのだ。たしかにヘラクレスはあの12の難行=難問を、その怪力と行動力で次々と解決してゆく。しかし彼の報酬とは、次の苦行、次の難行にすぎない。ワグナーの「指輪」に出てくるジークフリートはたいへんな英雄だ。だが、粗忽な英雄である。彼は敵に味方するという愚かな誓いまで立ててしまう。「勧進帳」の弁慶もすばらしい知力と胆力を示すが、彼自身がリーダーになることなど思いもよらない。要するに、あれらの英雄たちは地位と利益に対してはひどく淡白なのである。

英雄の内的条件、それは「情念」だとアランは考える。ただし、いくつかの条件に恵まれた情念である。すなわち、強い腕力、反発力、自負心、強い意志など。私たちは「情念」について前章で詳しく見ておいた。すなわち情念とは過剰なエネルギーの発露であり、自負心と怒りとに関係する。彼はここでは情念の原点をさらに生理的に説明する。「すなわち、これが心臓、筋肉の王であり、筋肉組織の象徴たる、まったく爆発的な心臓である。ひとつの筋肉は馬のように牽縮する。このものは抵抗にあって刺激され、障碍にあって苛立つ。このものは全力をあげてうち勝とうとする。この運動はすこしも理性を持たない」。英雄の内的条件とは、この情念の、すなわち筋肉の反発力のことである。だから、英雄は突然変異した人間のことではない。誰もがこのドキドキしている胸の部分に英雄的条件を隠し持っているのである。私たちだって時と場合によっては英雄的な行動を取るかもしれない。この瞬発的な勇気には打算もないし、欲望もない。これが、かずかずの英雄たちが原則として利害に淡白である理由だ。

アランはさらに英雄を次のように説明する。「英雄にふさわしく、また英雄をつくる障害とは、敵である。・・いってしまえば、要するにライヴァル、自己自身にふさわしいとみずから判断するライヴァルである。されば、何らかの崇高な闘いなくして、何らかの挑戦なくして、いま一人の名だたる英雄を待ちうける長い待望なくして、十全の英雄というものはない」。ごらんのように、英雄にはライバルがある。英雄とは、自分にふさわしいと考えるライバル、自分にこそふさわしいと思われる障害、あるいは困難な課題の前でファイトを燃やす人物である。この意味で「桃太郎」は英雄の一タイプである。はたして「鬼が島」の鬼が桃太郎を挑発したのかどうか、それはわからない。しかし桃太郎は例の鬼を征服すべきライバルに見立てた。この場合鬼は邪悪で、強くて、常人には歯の立たない敵でなければならない。戦うに値しない弱い鬼であれば、桃太郎伝説には意味がなくなってしまう。

意志を人間構造から、さらには障碍からさえ切り離してしまうならば、ひとは人間全体を失ってしまうのだから」。アランは、英雄の最後のもっとも重要な内的条件として「意志」をあげている。つまり、「障碍に立ち向かうのだ」という強い意志である。そしてこの意志こそ、人間を人間たらしめているもっとも重要な要因だ。それは最近の言葉でいえば「ファイト」、もう少し古くさく言えば「気概」である。英雄は腕力、体力、そして気概において模範となる人物であり、その事跡が人々の語り草となるような人物である。彼の事跡は、彼自身の利害追及を目的としていなかっただけ人々の賞讃の的となり、長く語り継がれ、記憶にとどまる。「意志を人間構造から・・切り離してしまうならば、人は人間全体を見失う」というアランの言葉は、英雄が決して異形の何か、あるいは突然変異ではなく、一つの人間のモデル、人間としての理想形であることを示している。さなきだに祖先を崇めてきた人々が、傑出した英雄を崇めることになるのは、あまりにも当然のことではないだろうか。(イラスト:英雄・桃太郎)

 
 

4-3.英雄が神になるとき
43_2  さて、自分たちのごく身近なところに立派な事績をなし遂げた、ある種のヒーローがいるとしよう。私はこの人物と近づきであることをたいへん誇りに思うだろう。さいわいなことに、私も身近なところにこうしたヒーローを何人か持っている。そこで私はあちこちで、自分がこれらのヒーローを直接知っていることを自慢する。もっともこのヒーローにしても、つまらぬことで馬脚をあらわし、せっかくの評判を傷つけることがないわけではない。けれどその人が人々の尊敬を受けつつ生涯を終えることが多いだろう。そうすれば、先祖崇拝のときの生じたあの力学が働いて、ここに英雄崇拝が生まれるだろう。思い出が強烈であれば、エピソードが語り継がれ、英雄伝説が生まれ、やがては半神、あるいは神が出現する可能性がある。ちなみに菅原道真は立派な人、もちろん生身のヒーローだったにちがいない。彼は左遷先で亡くなるのだが、その怨霊を恐れる当局の手によって復権し、ついには「天神様」になった。

ここでアランはふたたび「伝説」の問題を取り上げる。それは英雄の事績がどのようにして伝説化するか、という問題をめぐってである。というのも、アランはすでに序文の中で「宗教の、・・あれらの不可思議は、すべて物語られたものである」といっていた。ここではさらに積極的にこう表現している。「この眼に見えぬものの神秘のなかの、しっかりとした手応えたしかなものこそ、われわれの思想の現実の神秘、すべての宗教なるものの究極の対象であるというのも、われわれの感覚に現前せぬものも、われわれがこれについて考えるとき、ある意味ではやはり現前するということは真実なのだから」。「この眼に見えぬものの神秘」とは、伝説、あるいは物語の説得力ということである。つまり伝説の中にあって、私たちの心を揺り動かし、「なるほど、そうだ!」と思わせるものこそが宗教の秘密に与っているのだ。物語は「モノ自体」のように、私たちの目の前に出現するものではない。しかし私たちが物語に注意を向け、その語るイメージを思い描くとき、それが私たちにはありありと感じられるということは事実だからである。であれば、宗教について真剣に考えようとするものは、伝説と物語の神秘を解き明かさなければならないはずだ。いま私たちは「英雄」が「神」となるその瞬間をしっかり取り押さえなければならない。

「伝説化の中でおこなわれること、それは誇張だろう」とだれしも思う。実際にはある英雄が3人の敵を倒したとする。それがしばらくすると10人を倒したという話になり、さらに300人をやっつけたという話になる。これは伝説成立のプロセスでいかにもありそうなことだし、実際あったと私は思う。しかしながらアランが取り上げているのはこの種の「誇張」ではない。「誇張」ではなく、彼はむしろ「簡略化」と「省略」を取り上げる。「ありようは、行進したり、掘ったり、貫いたり、航海したり、修理したり、設営したり、またこれを撤収したりといった仕事は、それ自身何の変哲もない、造作のないことだということである。そうした仕事はひとたびなされてしまうと、もう人はそれについては考えない。こうしたながい準備期間はどんな物語においても簡略化されてしまう」。ごらんのようにアランは、伝説成立のプロセスにおいては、事績の中に含まれているもっとも日常的な部分、あるいは散文的な部分が「省略」されてしまうのだといっている。

ボナパルト、あるいはハンニバルは、せっせとアルプスの嶮を越え、しかるのちに敵の頭上にうちかかる」。ハンニバルにしてもナポレオンにしても、実際にアルプス越えをするについては、たいへんな苦労があったはずだ。一足ごとに坂道を踏みしめ、あるいは雪にすべり、食料や水やの補給部隊の遅延に悩みながら、いつ果てるとも知れぬ行軍を続けたはずだ。途中には休憩があり、飲食があり、排泄もあったはずだ。この移動は戦闘そのものよりも長く、苦しかったにちがいない。ところが伝説では、このような記述はすっとばされ、「ナポレオンとその軍はアルプスを越えた」という、ただの一行で済まされてしまう。

ホメロスの「イリアス」は戦闘シーンの多い叙事詩だ。ここでは槍がどのように兵士の体に突き刺さったか、兵士がどのようにうめき、倒れ、どのように血が流れたかが、これでもかというほど繰り返し記述されている。けれど、彼らがどのように移動したか、移動中にどのように休憩し、どこでトイレをしたかなどについては一言も書かれていない。同じように、福音書の中にも、トイレがどうこうしたという記述はどこを探してもない。トイレの話にこだわって申し訳ないが、私たちが外国旅行をするとき、いちばん心配するのがトイレの問題だ。これほど日常生活の中で抜き差しならない問題はない。しかるに、あらゆる物語はトイレ抜きで語られる。これが「物語」の本質であり、これに反してトイレこそは「現実」の本質なのだ。同じようにして移動、準備、荷づくり、支払い・・これらこまごましたことの累積こそが現実なのであり、英雄が英雄であった事績もこうした現実の中の一段面、一挿話に過ぎない。

だが伝説、あるいは物語がみな現実離れしているとか、嘘だということではない。私たちにとっては宗教が物語に深く関係しているということと、その伝説、あるいは物語がどのように作られているのかを、おさえておくことが重要なのだ。「重大事は勇気の試練にこそある。ここまでは物語は駈足でとばす。そして物質的手段はいつになっても貶められていることだろう。これは当然のことである。というのも、かずかずの準備も敢行の力なくしては決して充分ではないのだから。なにものに対しての敢行か。恐怖そのものに対してである」。「伝説」が私たちに告げている英雄物語の最大のポイントは何か? それは英雄が不屈、不撓の意思をもって、ことに当たったということである。これこそが語られるに値することなのだ。不屈、不撓の意思を持っているからこそ、準備や移動などの、こまごましたことが結局は克服され、語るに値するものとならなくなってしまったのだ。英雄はついに勝った。何に対してか? 彼は恐怖そのものに打ち勝ったのである。(イラスト:アルプスを越えるハンニバル軍)

 
 

4-4.都市と法律
44  英雄を神格化する場所はつねに都市であるとアランは考える。私たちはここで、改めて「都市とは何か」について考えるように要請される。「墳墓は石の堆積によって人を驚かす」とアランはいう。エジプトのピラミッドを見れば、みな仰天する。しかし、都市にはさらにたくさんの石が集まり、人々のすみかや宮殿や神殿が作られる。人間たちが集団を作り、都市をつくる時代が始まったのである。「これら石の蜜房のなかにあって、まず注意すべきはなにか。外的自然はここに来て、庭園として死ぬということである。嵐もここではほとんど聞こえてこない」「いたるところあるのは人間の槌である。救いも人間たちのもの、危険も人間たちのもの、嵐も人間たちのものである」。自然が庭園として死ぬ、とはどういうことだろうか。もちろんそれは、自然の荒々しさが都会では飼いならされ、装飾品化され、無力化されるということである。「庭園」とは都会特有の装飾である。それは切り取られ、額縁に入れられ、飼いならされ、管理された自然である。

こんにちの都会では歴史ある巨木もあっという間に掘り返され、そのあとをブルドーザーが地ならしをする。都会では人間が何もかも取り仕切る。ここでは幸福も不幸も、人間相互の関係次第だ。田園が主役だった時代から都市が主役となる時代にかけて、宗教のあり方、つまり人間たちの精神生活のあり方も変わらざるを得なかった。「いまやジュピターが父であり、また王である」「ジュピターはつねに天に君臨していた。この意味は、人間の力はつねに崇められ、またつねに超人間的であったということである。しかし、これには、夥しい石の堆積と犇く人間たちの集団があるのでなければならない。これなくしては雷や雲や嵐を人間の支配下に置こうという考えを、人はけっして持つにはいたらなかったであろう」。

おそらくゼウス=ジュピターは一人の英雄だった。それが都市化のプロセスの中で「父なる神」「mighty Zeus 」となった。オリュンポス閣僚を主催するゼウスはじつは新しい神である。しかし、人々にとってそれは想像しうる以前からの既成事実でなければならない。権威とはそうしたものである。ゼウスとは何か、それはある種の原始的モンスターであった巨人族を平らげた英雄=人間であった。この英雄は人間のモデルとして、つまり理想形として崇められた。この理想の人間的モデルの条件として、いまや「政治力」を付与されている。ちなみに、ゼウスは兄たちと協議し、それぞれのなわばりを定めた。自分は天空を取り、ポセイドンは海と陸を取り、ハデスは冥界をとった。ゼウスの武器は雷電、ポセイドンの武器は地震と津波、ハデスの武器は死の世界における全権である。私の考えではポセイドンの武器の方がゼウスのそれより破壊力があるように思える。しかしゼウスの雷電の権威は象徴的なもの、心理的なもの、政治的なものであって、結局ゼウスはこの武器をほとんど使わずに全世界を治めてしまうのである。「かくのごとくにして、英雄は大雲に乗って飛翔することを止める。すべては宮殿の姿にかたどって固定する」。このような事情から、ヘラスを治める地上の王たちは、何らかの形でゼウスを祖先に持つものでなければならなかった。ここにいたって、いまやゼウスがやたらと女の尻を追いかける浮気者だったという話は、原因と結果が逆転していることがわかるのである。

さて、ゼウスが極力暴力的な手段を使わなかったとすれば、彼はどのようにして世界を治めたのだろうか。それはきめごと、すなわち「法律」によってである。ゼウスは律法を象徴する小さな金の秤を持っている。ゼウスがいったん約束したことは、ゼウス自身によってさえ取り消すことができない。つまり「法」が「力」に優先するということである。これは都市を運営して行くために不可欠の、非情のツールである。「街路は残忍の小径である。家と境界標を自分が尊重しているかどうか、人はすこしもわが身に問うたりしない。曲がらねばならぬところで、ただ曲がる。この角ばった権力、・・この権力こそ、げんにわれわれが見るごとくいたるところに示現する、あの都会の神というものを定義する」。

かつて暴力的な英雄として崇められた一人の、あるいは幾人かの英雄たちは、都会にやってきて伝説化され、集約化され、ついには王たちの王、オリュンポスの神々となった。それは現在の王侯たちをさえ律する神々である。当然人々は神々の像を刻んで飾った。「英雄のこの緩慢な変装、また石の衣服は、彫像と、彫像と同じほど雄弁な台石の上に固定する」。私たちは古代の王たちが、どの地方でも同時に祭祀をかねていたことにいささかびっくりする。しかしこれは当然のことだった。何らかのルールがなければ社会をスムーズに運営することができず、そのルールには何らかの絶対的権威の裏づけが必要である以上、過去の英雄たちが王たちの王となる必要があり、それらの彫像の前で、生きている王たちが香をたき、あらためて神と王との絆の深さを人々に示す必要があったのだ。

私たちはいま都市が興り、都市という人間構造の中に定着しつつある神の姿をかいま見た。だが、「なるほど、田園の時代が終わり都市の時代がやってきたのだ」などと、図式的に早合点してはならない。ここで私たちは身体における「腹」と「胸」が切り離せないように、都市と田園との切り離せない関係について考えておかなければならない。都市は田園からの収穫を待って日々の暮らしを立てる。「まったく純粋な都会人などというものはありえぬこと、これ朝の荷車や、青物の入った籠や、牛乳壷や、市場が意味するところである」。というわけで、都市には農村から受け継ぎ、これを発展させた新しいものの考え方が根づくことになる。一方、農村は都市があってこそ経済的に成り立ち、都市があってこそ安全が保証され、文明の余沢を受けることができる。「かの眼に見えぬパンの神のなにものかが、さまざまな形をとって、政治的なオリュンポスにつねに繰り返しやってくる。とおなじく、都会の建築家の方はでも、庭園の奥の方にその三角笛を吹く石のサテュロスを建てつける。こうした混淆は、いかなる宗教にもこれがある。なぜというに、これは人間自身が持っている混淆だからである」。アランの弁証法はAが否定されてBに移るのではない。つねにAを残しながらBが形成されるのである。(イラスト:田園と切り離せない都市)

 
 

4-5.自己の支配
45  ごらんのように、いまアランは主として都市の時代の宗教、すなわち「政治宗教」の段階について語っている。彼は「政治宗教」の事例として、西洋文化圏形成の根拠ともなっている古代ギリシャの宗教を説明している。すなわち、「オリュンポスの神々」によって示される宗教である。彼は第五章を「オリュンポスの宗教は、またこれオリンピックともいえよう。ここでは神とは完全な人間のことである」と書き出している。これはどういうことだろうか。「オリュンポス」とは、神々が住んでいたとされるギリシャ北部の山の名である。もっとも有名な古代オリンピック競技が開催されたのは、ギリシャのペロポネソス半島の一角においてである。しかしオリュンポスの神々にちなんだオリンピック競技はギリシャ世界の各地で開催され、当然競技場も各地にあった。つまり体育、学芸の競技は神々に奉納する儀式の一部であったのだ。

私たちは「都市」が形成される過程で、英雄たちが半神となり、神々となり、諸王たちの祖先となるプロセスを見た。一方ここでは、オリンピックを通して生身の人間が神となるプロセスを見ることになる。「ソクラテスは、われわれがわれわれ自身によって征服されうるものであること、われわれがわれわれ自身を制服しうるということに、大いなる注意の目を向けた」。ご存知のように古代ギリシャの賢人ソクラテスは「克己」の徳を説いた。オリンピックの競技者にとって大切なのは、人並み以上の体力、資質、技術だ。体力や資質は生まれつきのものかもしれない。しかし日ごろの練習、鍛錬がものをいう。当然、懶惰にうち勝つ克己心が必要となる。それにまた「本番」で鍛錬の成果を出し切るためには、いわゆる平常心が必要となる。いずれも「克己」の徳が必要となる。

ソクラテスは、欲望や怠惰に負けてしまう人は、欲望や怠惰の奴隷だといっている。欲望や怠惰の奴隷となっているようでは、たとえ人並み以上の資質を持っていても、競技に勝つどころか、競技者の列に加わることさえできまい。ソクラテスが注目したのは、人は自分の心がけ次第で、欲望や怠惰とうち勝って、自己統御が可能になるという、まさにそのことだった。ソクラテスはこの「自分自身に勝つ」ということを哲学的に考え、自分の生活態度にも応用していたのだが、競技者たちはまさにそれを、スポーツを通して実践していた。そして、彫刻家たちは競技者たちの美しい裸体を石に刻むことによって、じつはスポーツマンたちの「克己の精神」を写し取っていた。また詩人たちは彼らを讃美することで、「克己の徳」を謳いあげていた。「いかなる答えをも知ることなくして、競技者はオリンピアの地で答えていた。彫刻家は答えていた。詩人は答えていた。不死の競技者たる神々を走らせながら」。

これは新しいタイプの英雄の出現である。かつての英雄は、その瞬発力、過剰なエネルギーの噴出、情念によって英雄だった。ところがオリンピアンたちにとっては、あまりにもはやりすぎる情念や焦りはむしろ障碍である。彼は自分自身の諸情念を征服し、支配しなければ、いい競技者とはなれないのだ。「とまれ、競技者と彫刻家とが消えることのない文字でもって、まず自己を支配せねばならぬと書いたことは、依然として事実である」。たとえば、美術館に行って古代ギリシャの彫刻、たとえば男性の立像を見るような場合、どれが神の像かどれが人間の像か見分けがつかない。説明書きを見ればわかるのだが、その区分はどうでもいいものに思える。要するに自分自身を統御し、美しさと平静さを示しているあれらの石像は、どれもが神の像なのである。ここでは人間が、それも内面、外面ともに均整の取れた人間が神なのであり、石像として刻まれ、永遠に保存されるに値する人間なのである。

アランはさらに石像のある種の無表情に注意する。あれらの若い男性像の表情は、たとえ像がアルカイック・スマイルを見せている場合でさえ一種の謎である。そこでアランはこういう。「目下われわれがいる宗教の段階はすべて、不動で謎にみちたこの面貌の中にある。神々はこんなふうにしてあるわけだ。そしてこの面貌の秘密とは、それがすべて身体の均勢にまで送りかえされ、注意がこれに沿って流れてよく安堵する、ということにある」。あの石彫の不動の表情、ある種の無表情が意味するのは何か。私たちがそれをさぐろうとするとき、私たちはこの時代の神々の秘密に迫っている。各人がその問いにふさわしい答えを得ることになろう。アランの考えによれば、顔の表情は顔面だけで作られるのではなく、全身の筋肉と関連をもっている。あの美しく安定した無表情は、脱力、弛緩している身体のものではないし、そうかといって固くこわばっている身体のものでもない。それは全身を、いつでも自分の思いのままにできる状態においている人の表情だ。かくて古代ギリシャ人は、自分たちではそれと意識することなく新しい時代の「神」を刻んでいた、とアランは考える。

古代ギリシャの文化は「人間讃美の文化」であるといわれる。私はそれでは定義が不十分だと思う。というのも、当時の人々が神々を「不死のもの」として崇め、人間を「死すべきもの」として考えていたことはたしかなのだし、彼らが人間のすべての側面を肯定していたわけでもないからだ。それにまたプラトンの「国家編」において、弱者、劣等者がどんどん間引きされることになっていることからもわかるように、彼らの社会は弱者にきびしかった。古代ギリシャにおいて讃美されたのは、あくまでも鍛えられた人間の力であり、統御された心身の美である。もはや一昔前の怪物的な力は崇拝の対象ではない。怪物の超自然力など誰も求めはしない。腕は二本でたくさんだし、足も二本でたくさんだ。だからアランはいうのだ。「わが身に欠けるところを、彼は求めたりしない。こうしたものからはすでに訣別した。樹木や急流や火の加担を拒むように、また彼は百本もの腕を拒む」。(イラスト:アルテミシオンのゼウス)

 
 

4-6.死すべき人々の不死の瞬間
46  どんな英雄でも盛りを過ぎればただの人になり、さらには老いて無力化し、死ぬ。どんなに鍛錬した技術も肉体も、鍛錬を続けていないかぎりはなまくらになってしまう。これが死すべき人間の運命だ。このように、ベストの状態を長く維持できないのが人間の特徴である。そこでアランは次のように記した。「ここで神とは死ぬことのない人間をいう。ところで、かの不死の長は、記念する人々の思想のうちにあってなにをなすのであるか。それが自分自身に打ち克ち、げんにあるところに満足し、絶対に自己を和解したものとして、その全盛の姿で立ちあらわれるということでないとすれば。かくのごときが不死の人たちである」。つまり、あの石に彫られた人間像こそは、その人物の最良の瞬間を恒久化するための試みだったのだということである。

「かの不死の長」とは、もちろんジュピター(ゼウス)のことである。ゼウス像、あるいはアポロンの像でも、ポセイドンの像でもいい。あれらの像が意味しているのは、もっとも美しく、完全である人物の、その瞬間の姿だということだ。その人物は「自分自身に打ち克ち」「自分自身と和解し」「全盛の姿で」立ちあらわれている。

そのような人物は現実にいはしないのだが、かりに「自分自身に打ち克ち」「自分自身と和解し」「全盛の姿で」立っている人がいるとする。その人がもし、その状態を長く維持できるのだとすれば、その人を「神」と呼んでいいのではないだろうか。女神像の彫刻は、もっとも美しい生身の女性の、全盛期の姿が永遠化されたもの、なのではなかろうか。だから、――考古学者たちが何といおうと――あれらのおびただしい数の石彫群のすべてが神の像であり、同時に人間の像であったということは真実なのではあるまいか。

さらにアランは議論を一歩先に進める。「神々とは人間の諸瞬間である。この思想は抽象的なものではない」と。むかしから、人々は神々の諸属性を考えた。曰く不死、曰く全能、曰く無限、曰く絶対・・等々。それらは死すべき、あるいは有限な人間との違いを際立たせる属性であるかに見える。しかし神々の不死、全能にもっと近寄ってみよう。不死が羨ましがられ、称えられるのは病気や苦痛、そして死との比較においてである。それは人間生活における問題の解決を意味しているに過ぎない。全能も、無限も同じことだ。それは人間の諸問題にとって羨ましいものの総称に過ぎない。では、人間がすこしも羨まないもの、すこしも価値を置かないものとは何か。たとえば3倍の背丈とか、三つ目であるとか、昆虫の触覚であるとか、動物の尻尾など・・、私たちはこれらをすこしも欲しいと思わない。尻尾における全能、触覚における全能があったとしても、私たちはこれらを不要とする。だからこれらの能力が神の属性であるとは考えてみもしない。全能も無限も、みな人間の能力の延長として考えられているに過ぎない。「であるとすれば」、とアランはいうのだ。私たちはそれをすでに見て知っているのだ。私たちの周囲にある人々の諸瞬間を通して。私たちはつかの間の神である。そのつかの間の、完成された人間像を見ることなしに、私たちは神をイメージすることはできないのだと。

ひとりの神が自分の後押しをしてくれると、アイアスはいう。これは彼が自分の手足のひとりでに進んで行くのを感じるということである。・・こうした比喩はすべて真実である」。 以前にもご紹介したが、アイアスは「イリアス」に登場するギリシャ軍最強の戦士である。彼はトロイでの白兵戦のただ中にあって、一歩もしりぞくことなく、ばったばったと敵をなぎ倒してゆく。そこで彼は「自分には神が味方してくれているのだ」という実感を持つ。この実感はある種の比喩なのだが、それは本当なのだとアランはいう。たとえば、打席に立ったバッターがヒットを打つ。私はこれを奇跡だと思う。もっとも優秀な選手でさえ、所定の方角に、しかも野手に取られない位置に打球を落とせる確率は3割になるやならずだ。一方野手は、球の落下地点をめがけて走り、グラブを突き出す。すると打球が取れる。これまた奇跡ではないだろうか。なぜその地点をめがけて走ったのか。どうして捕球できたのか、当の選手に聞いても答えは返ってこないだろう。同じことがピアノやヴァイオリンの演奏家の妙技についてもいえるはずだ。

要するに修練を積んだ肉体は、不可能を可能にする。こんなとき、人はやすやすと神秘主義者になる。つまり「神が手伝ってくれたのだ」と思ってしまうのだ。だが、この言葉には真実があるとアランはいう。どうしてこの比喩は正しいのだろうか。それは、不可能を可能にしているものが、自分の生理に関係しているからだ。まさにここに「神的」なものの根源があるのだ。さらに、あの野球選手もヴァイオリニストも、意志をただ一つの支えとしてひたすら修練を積んだのではなかったか。そのことが「神的」なことだったのではないか。要するに人間の意志にこそ「神的」なものの根源があるのだ。してみれば、私たちが用いる「神技」という言葉は決してむなしい比喩ではない。精進する人がおこなう努力の継続、その結果到達する境位、そのものが「神的」なのである。それが死すべき人間の、不死の瞬間である。(イラスト:修練を積んだバッター)

 
 

4-7.人間であるからこそ神
47  「戦塵がすべてふたたび静まり、死者たちがみな燃えてしまうと、英雄は神だという観念がいまや奇態な道行を始める。人間のかたちは、いわばこの偉大な秘密をつつんでまた閉ざされる。神々はいたるところにいる」。アランはいま、イリアスの戦闘が終わった状況を叙述している。戦士たちは全力を尽くして戦った。そのときには世界には人間しかなかった。自然の神秘に思いをいたす人は、少なくともその瞬間はじっとしている人、瞑想的状況にある人である。これに対して走っている人、活動している人にとって自然には何の神秘もない。ただ地面の盛り上がり、砂埃、舞い落ちる木の葉があるだけだ。しかし、戦争の混乱が収まって静けさが戻ってくると生きのびた人々は改めて自然を見直し、あるいは自分自身の記憶を見直す。すると、ここにたくさんの神々があらわれるとアランはいう。

道を示してくれる未知の若者は、おそらくはメルクリウスである。賢明の友はメントールであり、またミネルヴァである」。たとえば、はげしい戦闘の最中に進む方向を間違えて危険な道を進んでいた兵士がいるとする。そのときに一人の見知らぬ若者が「こっちだぞ」と叫んでくれた。そこで、かの兵士は無事仲間と合流し、タイミングよく敵を撃破することもできた。しかしあの道を教えてくれた若者が誰だかわからなかった。こんなとき、この幸運な兵士は「あれはきっとメルクリウス(ヘルメス)神だったのだ」と思う。ギリシャ神話におけるヘルメス神は道案内の神なのである。実際は「こっちだぞ」と叫んだ若者は、別の隊に所属するただの兵士だったのかもしれない。いやたぶんそうだったのだ。けれども、あのひとことで助けられ、その後手柄を上げた兵士はそうは思わない。彼はつぶやく。「メルクリウス神が助けてくれたのだ。あの若者はいかにも高貴な顔つきをしていたもの。そうだ、家に帰ったら、祭壇にたくさんの供物を供えて感謝しよう」。おなじくオデッセウスの息子テレマコスに助言を与え、激励するのは一人の老人なのだが、この老人メントールはアテネ神(ミネルヴァ)の変装なのである。

ひとりの神が背負袋を背負って、戸口から戸口へと物乞いに歩くということはある」とアランはいう。ここでアランがいっているのはギリシャ神話の中の小さな物語「バウキスとピレモン」のことである。あるとき、ゼウスが貧しく、汚い身なりで人間世界を旅したが、親切にもてなしてくれる家はなかった。そのときバウキスとピレモンという貧しい老夫妻が、この旅人を歓待した。彼らの全財産ともいうべきたった一羽の家鴨を料理してもてなしたのである。ゼウスはこの老夫婦の親切に感激し、死後もこの夫婦が離れることがないようにしてやろうと約束した。バウキスとピレモンは死んだあと、互いに枝のからみ合った二本の樹、樫の樹となしの樹に変わった。「されば、およそ人間の姿を取るものには、栄誉ある特恵の信用貸しを与えるのでなければならない」。アランはここで何をいいたいのか? それは、人間の中に神の姿を見るものは、じつは本当に神を見ているのだ、ということである。

貧しい老夫婦であるバウキスとピレモンの立場で考えてみよう。彼らはあまりに貧しいので、里人もほとんど相手にしていないほどである。そこへ貧しい身なりの浮浪者が「泊めてください」といって立ち寄った。人恋しい夫婦にしてみれば、何年ぶりに、ゆっくり話しのできる相手が来てくれたので大喜びだ。姥のバウキスは言う。「お客さんに何も食べさせるものがないから、今夜はあの家鴨を料理しましょうか」。翁のピレモンが答える。「それがいい。こんないい機会はないぞ。私たちだってもう先が長くないんだから、せっかくのお客さんに食べてもらおうではないか」。バウキスとピレモンにとっては、自分たちのような、しがない者の所へ立ち寄ってくれた旅人が神のように思えたのだし、実際には神だったわけだ。だが、この光景を脇から見ている人がいれば、身なりに関係なく行き暮れている旅人を歓待する夫婦の慈愛は、神の慈愛にも見えたであろう。事実ゼウスはそのように彼らを評価したのだ。老夫婦は単に人間でしかなかったのだが、血の通った人間であること、これ以上に「神的」であることはないのだ。老夫婦はこの浮浪者に「人間」を見いだし、アランふうにいえば「栄誉ある特恵の信用貸し」を与えた。アランはさらにこう要約する。「たんに人間であること、ここに神がある」と。

私たちは先ほど三つ目や尻尾や触覚を拒否した。たとえそれらに超能力があろうとも私たちはそれらを拒否した。私たちが設定している神の全知全能、絶対性は、私たち人間の枠組みの中での全知全能である。そしてここに神の慈愛を設定するのだとしたら、それもまた、人間的慈愛の延長であり、それが永遠化されるということでなければならない。人間の、ベストな瞬間に神を見るというギリシャの神々の思想は、ついに「たんに人間であること、ここに神がある」という宗教観念を導き出したとアランは見るのである。アランはホメロスの「イリアス」を念頭の置きながらいう。「さればこそ、ときとして、たとえば休戦が破れるような場合、神々は人間よりも邪悪に見えたりする。けだし英雄はまた、人間よりも邪悪だからである。そしてまさしくこのゆえに、オリュンポスの神は、こうした点において誤ることがないまでに人間なのである」。イリアスの物語で、ギリシャ側とトロイ側が休戦し、一気に問題が解決しそうになる場面がある。そこで、ひとりの兵士が休戦協定を破ったためにふたたび混乱が生じるのだが、その兵士を唆して協定を破らせるのは神である。この戦いでは、神々はしばしば不当な介入をおこなって人間たちに無用の血を流させる。ごらんのように、オリュンポスの神々は、しばしば情念的な過ちを犯すという点で人間的である。だからアランは英雄たちの化身であるギリシャの神々について、「そしてまさしくこのゆえに、オリュンポスの神は、こうした点において誤ることがないまでに人間なのである」といっているのである。(イラスト:ゼウス神をもてなす老夫婦)

 
 

4-8.神々は慈愛を求める
48  さて、話が少々込み入ってきた。古代ギリシャの精神、古代ギリシャの神々とその神話にこめられている精神、これらについてアランがいっていることをいったん整理してみよう。

1.神々は神格化された英雄像ではないのか。すなわち、スーパーパワーによって偉業をなしとげた英雄は、人間ばなれしている人間であるがゆえに「神的」だ。

2.都市は英雄神を祖先に持つ王たちによって秩序づけられ、支配されるところの人間的集団の場となった。

3.都市的環境の中で培われたオリンピック競技を通して、人々は人間的能力の限界を争った。そして人間が完全に自己を支配し、人間として最高の能力を発揮している瞬間を美しく「神的」なものと見、彫刻家たちはこれを石に刻んだ。

4.すぐれた人間的能力を発揮した当の人々は、その能力発揮の瞬間に「神助」があると考えた。彼らは謙虚な神秘主義者となった。

5.バウキスとピレモンの物語は、人間のやさしさと慈愛を伝えている。この物語においては競技者の徳とは別種の、人間的な徳が称揚されている。それはあたたかく人間的であるがゆえに「神的」である。

6.この点から見ると、オリュンポスの神々が人間的といわれるのは、その人間的不完全さによってである。

ごらんのように、「人間的」であるということが、一方では「神的」なものとして、一方では「不完全であること」として同時にあらわれてきているのだ。これは前章で見た「自然宗教」の段階には見られなかった大きな特徴である。人々が価値を置いた「神的」なものとは、もはや怪異のものではない。それは人間的な枠組みの中における力であり、善であり、美である。それも、およそ人間としては限界的な力であり、善であり、美である。だからそれは「徳」と呼ばれなければならない。古代ギリシャの人々はついに怪異の神を放棄して、徳を「神的」なものとするまでに精神的に成長した、とアランはいっているのである。アランはオリュンポスの神々が不完全であるがゆえに人間的である、という点に関連して次のようにいう。「神々とて愛され、許されることを求めるのであってみれば、慈愛はつらぬく。物乞いする神々というこの偉大な観念は、いまひとつの時代を、また負誇することより少なき思想を告げ知らせる。競技者のかたちはすでに放棄された」。

「神々とて愛され、許されることを求める」とはどういうことだろうか。神々は自足しているはずではなかったのか? しかるにギリシャの神々は信徒が自分に関心を持し、愛し、尊敬することを要求する。高潔な青年、ヒュッポリトスは性愛の神アプロディテを避けて身を清く保ち、もっぱら狩の神アルテミス女神だけを信奉した。アプロディテはこれが気に入らなかった。この女神は策略を用いてヒュッポリトスを惨殺してしまった。英雄オデッセウスもポセイドン神に憎まれた。このためアテナイ女神の熱心な加護があったにもかかわらず、10年間も地中海を放浪しなければならなかった。女神ヘラは脇腹から生まれた息子ヘラクレスを憎み、生涯にわたって難行に従事させ、苦悶に満ちた最期を遂げさせた。

これらの神話は何を意味しているか。それは人が――たとえどんなに権力の座にあろうと――いかに愛に飢えているか、ということでなくて何だろうか? だからこそ神々、すなわち人々は物乞いに身をやつし、隣人の愛を試さずにはいられないのである。「慈愛は貫く」とは、単に人々のこころを打つ、ということだけではないだろう。それは時代をつらぬいて真実であるような普遍的な価値だ、ということにちがいない。「いまひとつの時代を、また負誇することより少なき思想」とはいうまでもなく、やがて来るキリスト教のことである。ギリシャの神々の物語の中に、すでにキリスト教的精神が予知されている、とアランはいいたいのだ。

では「競技者のかたちはすでに放棄された」とは何を意味するのか。自己コントロールの徳を、人間性にとってもっとも価値あるもの、すなわち「神的」なものとして認める思想は、古代ギリシャにいたってはじめて生まれたものではないかと思われる。この思想は「自由な個人」の存在を前提とする。他人ではなく、自分だけが自分を統御しうるものであり、そのことにこそ、もっとも大きな価値があるのだという考え方を徹底しておしすすめたのは、おそらくストア賢者たちであろう。ストア的なものの考え方はいかにも「競技者的なもの」である。だが、アランはここで「競技者の形はすでに放棄された」といっている。これは、ひたすら「自己」へ向かおうとする精神が、「他」をいたわり、「他」を愛する精神の前に、その光を失ったということである。これは歴史的に見て、競技者的精神が慈愛の精神に、かならずしも取って代わられたということではない。それどころではない。慈愛の思想はまだ歴史の中では秘められた存在でしかない。それはアランのいうように「負誇することより少なき思想」、すなわち自己主張しない精神である。だが、この考え方が生まれたということ、この思想がひたすら自己だけに向かう思想よりもはるかに高いところに位置している、アランはこの点をいいたいのである。(イラスト:他を愛する心を持った人の肖像)

 
 

4-9.シーザーとは何か
49  都市型の政治宗教については、まだ語りつくされていない。ここではどのようにして一人の英雄が神となり、至上の権威を持つにいたるかについて――、そのからくりをもう少し詳しく見なければならない。このからくりは宗教の不愉快な側面を示す。彼はひとつの典型としてシーザーの名を上げる。「彼(シーザー)は相手を信じさせる。すべての神々の持つこの術策は、またすべての神々の弱点でもある。相手を信じさせるとは、こちらでは決して信じないようにすることである」。シーザー(カエサル)とは何か。それは紀元前のローマに生きた武将=英雄の名であり、皇帝の代名詞であり、同時に神の代名詞である。というのも、成功したリーダーは元老院の決定によって神格化されるのが古代ローマの慣わしであったから。では、この人にして王にして神であるところの人物の特性とは何か。それは自分を信じさせ、人を信じないという点である。人を信じないとは適当な言葉ではない。というのも、カエサルは少なくともブルータスを信じていたのだから。そうではなくて彼は友人や信奉者たちを自分の道具にしてしまうという点で、相手を信じないのである。

この場合、彼の面貌や行動はつねに謎になるだろう。始皇帝が姿を見せることを拒むのはこの術策によってである。だが、謎の相貌とはこれすなわち「神」ということなのだ。「かくして、かのメドゥサの、自ら石と化し、また人を石と化すあの頭が生まれる」。ここにある力学は何か。それはリーダーがポーカーフェースを維持し、人間的弱みを見せないようにすることである。これは崇拝者たちの利害にも一致する。その顔を見たら石になると思う人間が、すでに石になっているのだ。見るということは、観察するということである。支配者と被支配者の関係とは、被支配者が支配者を観察してはならぬということである。要するに「憚り」が生まれるのである。「・・また、王を注視することになりはしないかという怖れが生まれるが、これはすなわち、疑ってしまうことになりはせぬかという怖れである」。

私はあるとき電車の中で、見知らぬ人から強烈な、突然の叱責を受けた。私は自分がしていることに気づかなかったのだが、向い側に座っている人の鼻の脇にみごとないぼがあって、私はぶしつけにもそれに見とれていたのである。当人にしてみればこれは不愉快なまなざしだった。そこで私は一喝を食らってしまったのである。だから、気短な支配者が部下のまなざしに苛立って、「何の文句があるんだ?」と怒声を発したら、部下はあのときの私以上に身の置き所がなくなってしまうだろう。

かくして、王たちの隔絶が、神秘が、見通しがたさが生まれる。そして、これが神々のなかへと移り入ってゆく」。この力学は何も僭主に特有のものではない。民主主義の社会でも生きている。たとえば、選挙によって「長」が選出されるとする。さっきまでメンバーの一人に過ぎなかった人が、中央の、高い席につく。この瞬間に、関係者の間に「憚り」が生じ始める。祭り上げられた人と、祭り上げる人の利害が一致する。つかの間の王といえども、王の役割を演じなければならない。彼は望まずして自分の周りに荒野を作るだろう。「このまなざしをジュピター自身が望むのではない。人間がこれを欲したのである」。そしてこれは宗教につきものの一側面を指し示す。すなわちいかなる宗教も、この「憚り」の構造なくしては成立し得ないのである。

「福翁自伝」の中に子供時代の冒険談がある。諭吉は神様のお札を踏むとバチが当たるといわれ、じっさい踏んでみたがなんともない。今度は村のお稲荷さんの社をあけてご本尊を見たら、ただの石だったので、それを投げ棄てて別の石を入れておいたが、別に何ということもなかった。人々はそのお稲荷さんの前でお祭りをしている。そこで少年諭吉は「馬鹿め、おれの入れて置いた石にお神酒を挙げて拝んでいるのは面白い」などという。要するに「憚り」の構造とは、こちらからの一方的な入れ込みである。ジュピターが拝跪を要求しているのではなくて、人間が勝手にジュピターを怖れ、敬い、かしこまっているのである。生身の権威者にとっては、むしろつまらぬ口をきいて馬脚をあらわすことを恐れなければならない。「沈黙」こそ権威の保証だ。「精神は他に対する自己の、また自己に対する自己のおそるべき沈黙なくしては、決してよく権勢と婚を結ぶことはできない」とアランがいう通りなのだ。

ところで、全能の神ジュピターの仕事と自由について考えてみよう。彼はいったん自分が下した命令を撤回することはできない。彼は人間に化けることはできるが、「死すべき人間」そのものにはなることができない。彼は天界を司るという固有の職務を持っているが、これを放棄することはできない。韓非は「癩、王を憐れむ」といっている。これは本来憐れまれるべき癩病患者が「王とは、不自由で憐れなものだ」といって、至高権をもつ王を憐れんでいるということである。これをアランは次のように表現している。「運命は彼の袖を引いて、彼が王位にあるのは何も楽しむためではないことを、彼に思い出させる。というよりも、彼は彼自身の権能の奴隷なのである」。つまり全能の神の背後にこの神を支配する別の神がいることになり、これは一種の無限循環をなすということだ。この循環の先っぽに、人間の王シーザーがいる。「この恐ろしいという以上のものである(至高の神の背後にいまひとつの神がいるという)観念は、しかしながら人間がシーザーによって可能であり、シーザーが人間によって可能であるだけ、人間に親近のものであり、また、いつになってもそうであろう」。

都市の大衆は、つまり人間どもはリーダー、すなわちシーザーを必要とする。だが、リーダーは被支配層がいてこそリーダーだ。これは持ちつ持たれつの、きわめて人間的関係だ。一方、リーダーは彼自身を動かす運命と権能の奴隷だ。この関係は人間と神との関係のローカル版に過ぎない。神も人間あっての神だ。そして神自身は運命と権能の奴隷なのである。このように、都市の宗教=政治宗教にはすこしも神秘的なところがない。かつてスターの座にあった「腕力の英雄」たちは、このような政治的なしくみのことなどすこしも考えて見なかった。今では物語によって語り継がれ、祭壇に立っている。しかしこの神々は運命に服従している。一方、人々はリーダーを必要とし、リーダーは神を必要とする。この構造は人間的である。だから「この屈従する精神のうえに究極には一弁証法が支配するというのは、決して偶然によるものではなくして、人間の構造によってである。かの英雄というものはついにかくのごときを欲しなかったのである」とアランはいうのである。(イラスト:神をあやつる神々の無限循環)

 
 

4-10.正義とビジネス
410  都市は消費の拠点であり、それゆえビジネスの拠点である。ここでアランは都市の経済とそこに働く権力との構造を考える。およそ宗教とは無関係に見えるこれらの問題は、どのように宗教とかかわりを持つのだろうか。市場ではさまざまなものが売られている。商品には価格がついている。価格とは単価×数量だ。そして貨幣も単価×数量でカウントする。流通している古代の貨幣を見てみよう。そこには王の横顔が刻印されている。「貨幣の上のシーザーの顔は多くの意味を持っている。シーザーはそこにその誠実を保証する。彼は王位をおりてきて、人手から人手へとわたるこの金属の中に宿る。王の署名は目方を保証する」。ご存知のように昔の貨幣の数量は重量だった。つまるところ、どんな商品の単価も単位重量あたりの単価なのである。であるとすれば、商人たちの共通の武器とは「秤」ではないだろうか。

ところで、秤というこの審判者の象徴は、シーザーが欲するであろう以上に多くを語る。・・かくして、決して天上をしろしめすのでない天の一正義がひろがってゆく」。「天上をしろしめすのでない天の正義」とは何のことだろうか? いうまでもない、それは秤の持つ客観性である。秤の目盛りが示すところは、ジュピターの権威とは無関係だ。それどころか神話によれば、ジュピターは一個の小さな金の秤を持っている。判断に迷うようなとき、彼はその秤にかけてことを決済する。ということは秤にはジュピターの恣意以上に強く、明確な判断基準があるということだ。これは神学的な矛盾ではないか。全能のジュピターが秤をあてにするとは! そもそも絶対的な権力は規則を好まない。というのも、規則が優先するならば、絶対的権力が意味をなさなくなるだろう。そこでどこの国の法律も「王だけは例外」という法律をもっている。わが国にも「天皇は例外」「国会議員は例外」という規則がある。そこでアランはいうのである。「こうした矛盾は、もしそれがまずもってわれわれのごく些少な思想のうちにも宿っているのでなければ、神々のうちにあることも決してないであろう」。けだしアランは、神々が私たちの似姿なのであって、私たちが神の似姿ではない、といっているのである。

こうしてみると世の王なるものは、一方で市場の活動を奨励し、公正な取引と貨幣の品質を保証しておきながら、自分については気まぐれを許容するという、たいへん矛盾したことをせざるを得ない。「王の正義のなかに、一つの不正義があらわれ出る」とアランはいう。これは別に王でなくても、日々現代人々がやっていることだ。市場では駆引きをやる。商人は値引きされることを想定して高めに価格を設定する。それを知っている買い手は、値引きしてくれなければ買わないという。これは「秤」の正義を認めつつも、自分にだけは有利に取りはからいたいとする王の矛盾した力学の延長だ。こうして人は、いわゆる「汚職」や「官製談合」のニュースを見て、かの王たちの力学がいまでも健在であることを知る。

商売上のトラブル解決のために、ゼウスのもとから派遣される神の名をご存知だろうか? それはメルクリウス(ギリシャ神話ではヘルメス)である。この神はビジネスの神であり、泥棒の神様でさえある。「ところで、ジュピターはこうしたことは何ひとつ考えず、ただメルクリウスをつかわす。いつも天上から飛び込んでくるこの神は、支配する精神と法の精神とのあいだに繋がりをつける。これは運行するままの人間的事物の神である」。「ジュピターはこうしたことは何ひとつ考えず」とは、ジュピター自身が、「自分自身の矛盾には気づかずに」ということだ。「支配する精神と法の精神との間の繋がり」とは、要するにきまぐれな権力と法律とのあいだの妥協である。メルクリウスは妥協を推奨する神なのだ。そして「運行するままの人間的事物」とは、「ありのままの人間の生活」である。

メルクリウスのすばらしいところは暴力を用いないことだ。彼は関係者を説得し、関係者相互から妥協を引き出す。もちろん全員がハッピーというわけには行かない。けれど最悪の事態は回避される。この神の名が「商人=マーチャント」に結びついているのはもっともなことだ。有名な彼の持ち物のひとつに、蛇の絡み付いている杖があるが、この絵柄は多くの銀行や会社のシンボルマークになったし、また多くの経済大学の校章にもなった。だが、この神は人々の間で何をしたのだろうか? 私の考えでは何もしていない。妥協のために努力をしたのは「最悪の事態だけは避けよう」と考えた当事者=人間である。だが、こうした努力の背後にメルクリウスの存在を設定した古代人たちはすばらしい知恵者だった。というのも、妥協さえも特定の誰かの「恣意」と考えたのでは、何もかもぶち壊しになるわけだから。

されば、こうした美しい映像のかずかずは、・・われわれのすべての思想を整頓し、規制してくれる。・・権力というものはみな同じものであり、市場もみな同じものである。そして神々はまさしく人間の姿にかたどってつくられている。というのも、オリュンポスの神々のいろんな属性も分担も、あのどうしようもない諸関係、人間がこれを観念し、甘受せねばならぬ諸関係を、表現しているのだから」。アランが「政治宗教」、あるいは「都市の宗教」と名づけたこの段階の宗教思想は、権力とビジネスが渦巻く人間集団の実相を、まことにみごとに映し出している。オリュンポス一家の構図は、今日でも政治集団の構図の引き写しであり、あるいは政商一家の、やくざ一族の、・・要するにそれぞれの権力集団の構図の引き写しである。人はここにいつでも権力と秤の正義の、葛藤と妥協を見るであろう。(イラスト:やくざの親分と正義の秤)

 
 

4-11.イソップ物語が意味するもの
411  いま私たちはアランの「神々」の第3部を読んでいる。その第9章は「イソップ」というタイトルである。イソップは紀元前6世紀頃生きていたとされているから、古代のギリシャ、ローマの「神々」について語っているアランは、ここにこのタイトルを設けたのだ。このタイトルは私たちが避けて通ることのできない「奴隷」の問題、しかも家畜同然とされていた「奴隷でも思考する」という問題を含んでいる。そして「寓話」の本質が語られている。これらはいずれもアランの宗教論にとって不可欠のサブテーマであり、しかもこの後に続く「精神の宗教」にも結びついていく重要なサブテーマである。

ところでヴァレリーは、あるとき女性たちを前にした講演会で次のように述べた。「お嬢様方――皆さんは、西暦835年までは、はっきりした魂をお持ちでなかったのであります」。このとき聴衆たちがどう反応したかはわからない。要するにヨーロッパのキリスト教では、アガテの聖教会議で公式な決定がおこなわれるまで、女性にも魂があることは認められていなかったのである。だが、何を驚くことがあろう。わが国で女性たちに参政権が認められたのは、1945年のことではないか。そして、アメリカ合衆国で奴隷廃止宣言がおこなわれたのは1862年のことであり、そのときからまだ幾年も経過していないのではないのか。

もっとも偉大な人間的事実とは、奴隷は思考するということである。寓話というものがこれを実証する」。ご存知の通り、イソップは奴隷だった。その当時も奴隷は家畜同然、あるいは家畜以下だった。というのもアランが鋭く指摘する通り、たとえば牛や蛇が神として崇められることはあるから。「これに反し、奴隷を神に仕立てるというようなことができないのは、良識が告げる通りである」。どうして奴隷は神として崇められることはないのか? それは奴隷がなまじ人間だからだ。誰もが奴隷が人間であることを知っているのに、人々はこれを「家畜」として扱おうとしたのである。イソップという天才的知性を持った奴隷がいたのか、それとも多くの奴隷的知性が「イソップ物語」の名のもとに結集したのか、私たちにはわからない。けれども私たちの手元には「新約」よりもなお古い「寓話」が残されている。それは奴隷の視点から見た世界像である。

イソップ物語の大きな特徴は動物が口をきくということである。これは今日でも子供たちが動物を指差して、友達呼ばわりすることを見てみわかるとおり、ごく自然なことだ。だがイソップの話法には巧妙な仕掛けがある。たとえばライオン=権力者、主人、ロバ=間抜けな弱者という構図を隠しているのだが、話者はいつでも逃げ出せるようになっている。奴隷のほうでは「何も私はご主人のことを批判しているわけではありません」といえるわけだ。かりに主人がムキになって、「いや、そのライオンというのはオレのことだろう」などというとしたら、それこそ語るに落ちるというものではないか。「寓話作者はきわめてたくみに禽獣たちの劇をあやつって、教訓しないように注意する」というわけだ。

それではこの禽獣の劇で取り扱われている事柄とは一体何だろうか。アランは「口をきく動物という、ただそれだけの虚構が、力の戯れをよく表現する。何の偽善もないときあるであろうままの、力の戯れを」。イソップ物語のどの一話でもいいから取り出して改めて読んでみるといい。そこに示されているのは「強者は弱者を食う」「利口者は愚者をだます」「万物は力に従う」という冷厳な事実ばかりだ。たとえば、一匹の狐がニワトリを食おうとする。と、ニワトリは自分たちが卵を産んだり、時を知らせたり、どんなに有益な鳥であるかを弁明し、命乞いをする。狐は「いい分はもっともだ」というのだが、すぐにニワトリを食ってしまう。要するにここには偽善のかけらもない、あからさまな力関係だけが示されている。つまり、奴隷から見た場合、世の中とはそのようなものだったのであり、彼らの主人は奴隷に対していささかも偽善的である必要がなかったということだ。

この苛酷な、いわば不毛の地のような見解は、権力が神でないことをよく示す。のみならずいっそうみごとにそれは、権力がかつて決して神でなかったことを良く示す」。「この苛酷な、不毛の地のような見解」とは何か。それは奴隷の眼に映った世界である。友愛も、相互扶助も所定の限度までしか信じられない世界、いってみれば、生き物たちが「物的法則」にしたがう世界である。なるほどイソップはゼウスの名を口にしはする。しかし彼は断乎たる唯物論者である。この生き物における「物的法則」の前で、なにものも神ではありえない。ちなみにイソップ物語に登場するゼウスはコガネムシの糞を払おうとして、粗忽にも膝の上にあった鷲の卵を割ってしまう。これがイソップのゼウスである。しかるに、古代のブルジョワどもは英雄を神に仕立て、神々の眷属をつくり、それでもって都市の秩序を構成してきた。だが虐げられ、弱者にすぎないことを自覚しているこのクールな精神は、権力がすこしも神ではないことを「寓話」の中ですでに暴露し、証明している。

ごらんのように、イソップが示しているもの、それはあからさまな生き物の、つまりは人間の力学である。では「寓話」はそれしか示していないのだろうか? もちろんだ。それ以外のものは示していない。「だが待てよ。だがそれはもしかすると、示されていないものを暗示しているのではないか?」とアランは考える。そうしてこういうのだ。「かくして、不在は現存よりもいっそう真実である。そして精神は人間の背後にあり、つねに背後にあって、かずかずの影を投じ、影の影を投じて、それ以上のなにものをも決して投じない」。つまり、「寓話」は小さなエピソードにことよせてかずかずのことがらを語り、なお「あるもの」を語っていない。その語られないことによって陰画のようにあぶりだされてくる「あるもの」とは何か?

アランは答えている。「ソクラテスがいったように、・・精神が精神に対して果たすべきものがあり、ある種の手段を用いることにおける内的恥辱ということがある。ここの真の宗教が姿を見せる」と。イソップが示さぬことによって示しているもの、それは「恥」の概念だとアランはいう。病気を装って、見舞いに来た客を食ってしまうライオン、これは恥ずべきものではないか。猫が人間に化け、きれいな花嫁姿をまとったのはいいが、ねずみを見てすぐに追いかける・・これは恥ずべきものではないか。蛙が自分たちを恐れて池に飛び込んだのを見て安堵する兎たち、これは恥ずべきものではないか。要するに、力と術策を用い、ただそれだけを用い生きていくこと、あるいはお里丸出しの成金、また自分よりも低位のものを見てみずから心を慰めている連中、これらは恥ずべきものではないのか。ここにヘーゲルの奴隷が姿を見せる。奴隷はげんにその被害者だ。だがそのまなざしは人間のものである。私たちは「都市の宗教」の時代が奴隷の時代であったこと、その奴隷が人間のまなざしを持っていたことを忘れることはできない。これは次の段階の宗教の礎石なのである。

まさしくヘーゲルのいうように、奴隷は必要にせまられてもっとも稀有の美徳ともっとも正確な観念とを形成し、これに反して、主人はそのおかれた状況そのものによって徳を失い、精神を失う」とアランは書いている。奴隷の徳とは何か。それは理不尽に対する忍従である。また彼らはその知性に応じて冷静な判断、観察、批判という徳を持つ。さらに批判を口にせぬこと、主人の秘密を守ることも彼らの大いなる美徳だ。これらの美徳はなるほど強いられて得たものだ。だが、この美徳があるところでは同時に主人の横暴と傲慢がセットになる。平家物語では「驕れるものは久しからず」といい、方丈記では「禍福はあざなえる縄の如し」といっている。これは単なる立場の交替を意味しているに過ぎない。ヘーゲルはもっと深くまで進んだ。すなわち「奴隷と主人」の、あの弁証法である。

主人は奴隷の主人だ。だが、上のような美徳の関係が成立するとき、しかも主人が奴隷のサービスに依存しているようなとき、奴隷が主人の主人となり、主人は奴隷の奴隷となる。アランはこの弁証法の適用に関して、いささかも手を弛めなかった。「人間論」の中で彼はいう。「人を支配する身になれば、彼は愚かになり、一番愚かなものよりもなお愚かになる」。(イラスト:イソップの動物たち)

 
 

4-12.笑い、この不敬なるもの
412_2  「神々」の第3部「ジュピター」の最終章「機智」は「精神は茶化し好きである」という文章ではじまっている。これはあきらかに前章の「イソップ」を受けての文だ。というのも、寓話に託されている大切な要因の一つが「笑い」であるからだ。イソップ寓話が「面白い小咄集」であることは誰もが認めるだろう。五代目志ん生の落語の枕の中に、「頼朝公の頭蓋骨」の話がある。見世物小屋で頼朝のされこうべを見せて木戸銭を取っていた。見物人の一人が「頼朝公は頭の鉢が大きかったというけれど、これはずいぶん小さいね」というと、インストラクターは「これは幼少のときの・・」と答える。また、升落としで捕らえたねずみの大きさをめぐるいい争いがある。ねずみを捕った者が「大きいねずみだ」と自慢すると、他方が「小さい」とけちをつけ、いい合いとなる。すると升の中のねずみが「ちゅう」という。

人は笑うことによって、身体をリラックスさせる。それゆえ笑いはマッサージの効果を持っている。笑い話の中では何かがひっくり返され、はぐらかされている。そのときに精神は喜び、笑う。これはどういうことだろうか。それは人間が一つの固定した観念、一方的な見方を嫌うということではないだろうか。硬直したもの、クソ真面目なものを嫌うということではないだろうか。笑いの中には意外性の発見があり、別なものの見方がある。それゆえ笑いは権威に対する挑戦であり、不敬のものである。葬儀の場でのくすくす笑いは不敬なものである。だからこそその笑いはこらえがたいものとなり、不敬ではあるが列席者のすさんだ心を慰める。

かかるがゆえに、機智の威力たるやなかなかのものである。いかなる威力か。要するに、観念をこわす力が、またこれを作る力を鞏固にするということである」。笑いの功徳をもたらす冗談、そこには機智、すなわちエスプリがある。このものは生真面目な観念、オーソライズされた観念をこわしている。この不敬こそは次の観念への呼び水である。「頼朝の幼少期の頭蓋骨」という観念は、すでにして見世物小屋の自己破滅を意味し、これを笑っている。だがそれは同時に、「もの珍しければ、あるいは有名でさえあれば何でもいい」という野次馬根性をも笑っている。ここで笑われているのは、やれモナリザだ、ミロのビーナスだ・・などといって美術館の前に行列を作る見物人なのだ。それにまた枡の中のねずみの声は、争う当事者のほかに別のパースペクティブ=「ねずみの立場」がありうることを指摘している。これらは別種の観念の到来を期待し、予告する。これは人間社会における弁証法だ。一国のリーダーは選ばれ、おおいに歓迎されるが、直ちに揶揄さる。新しいリーダーもまた歓迎され、揶揄される。この弁証法が機能しない国家があるとすれば、その国民の精神は病んでいることになろう。

じつはこれは、つねに人間を窺っている、陶酔というものに対する用心、自己に対する自己の用心なのである。おのれ自身を信じてしまってはならない。精神がつねに主人としてあらねばならぬこと、それがまさに身を投じてしまおうとする瞬間に、よく身を引き留めるのでなければならぬことを・・これ以上によく感じさせたことはない」。この文の冒頭の「これ」とは、プラトンの「国家論」の中のソクラテスの態度である。つねにユーモアを保ちながら、ときには議論をまぜっかえす、あの稚気のことを指している。「笑い」のターゲットは「生真面目くさったもの」「自己陶酔の瞬間」である。人が得意の絶頂にあるときは危険なときだ。人が何の疑問も抱かずに力を行使しているとき、それは危険なときだ。そのようなとき、ユーモアの精神が発動されねばならない。それが「精神がつねに主人としてあらねばならぬ」ということだ。というのも、人が慎みを忘れ、得意のポーズで力をふるっているとき、彼は「陶酔」に支配されているのであって、自分で自分を支配しているとはいえないからだ。

精神(エスプリ)はなにものでもないと機智(エスプリ)がいう。機智の一発動ごとにひとつの体系が死ぬ。一体系がおなじひとつの運動によって仕上げられ、また毀たれる」。宗教には権威があり、権威の陶酔がある。この点に関してはこれからも同じだろう。私は古代の宗教に対するエスプリ発動の一例として、アリストファネスの喜劇作品を上げる。あれらの作品は、大衆が一方ではゼウスやヘルメス神を崇めつつも、その権威を引き下げてよろこんでいることを証明している。では、人々によって茶化されるような宗教はもはや人々にとって、シリアスな精神的な指導力がなくなっているのではないか? その通りだ。そこで「弁明」を再度読んでいただきたい。ソクラテスの「刑死事件」に見られるのは「おちゃらかし」の名人であるソクラテスと、これに腹を立てた宗教的・政治的権威との対決、そして権威側による報復ではなかったか。

新しいものの考え方は体制をぐらつかせる可能性がある。人民がおとなしく体制に従っているなら安心だが、人民が他の考え方を探し始めると、その理由がたとえ政治的なものでなくても、権力者にとっては心穏やかではない。しかるに人間の精神は、宗教の矛盾、とくに政治宗教の矛盾に鋭い矢を放ってきた。アランはこれらの批判が「笑い」という形で表現されたと考える。要するに、宗教関係者の真面目くさった様子、形骸化した「しきたり」、さっぱり当てにならぬお告げやご利益、・・権力者や当局が、その権威を保持しようとすればするほど滑稽となる何物か・・。ウンベルト・エーコの「薔薇の名前」を映画で見たり、本で読んだりした人は多いだろう。あそこに表現されているのは、ただひとつ、当時の聖職者たちが人々の健全な「笑い」をいかに恐れていたか、ということだ。

人間精神は宗教体系を形成した。だが、その体系にメスを加え、解体してしまうのも同じ精神である。私たちが「エスプリ」と呼んでいるのは、この解体する精神である。これは硬直した自己を解きほぐす精神であり、新しいパースペクティブを導入する精神である。この精神は真面目くさったものを笑いものにし、自分自身をさえ笑い飛ばす。これが「精神」なのだ。かくして古代の政治的宗教には引導がわたされた。アランはこの部の終りにこう書いている。「おお、詩よ。神々は立ち去る。神々とともに、かの復讐の女神たちもまた立ち去る」と。(イラスト:イタリアのコメディア・デラルテ)

 
   
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