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アランの「神々」を読む
 
第5章 クリストフォロス

5-1.複数の源泉
51 私たちはここから、アランの書「神々」の最後の部=第4部、「クリストフォロス」に入ってゆく。ここまでのところをざっとおさらいしておこう。第1部「アラディン」で、アランは人間の幼児期のありようについて説明している。ここで彼が述べているのは、人間の幼児期にすでに宗教の原点が、各自のうちに構造的にセットされているということである。人間は生まれてからしばらくは親や大人の庇護の下に置かれる。この体験が、すでに宗教的な感情を作り出す基盤になっているとアランは説明する。だからといって、すべての人が特定の宗教を信じるとか、特定の宗教なしでは生きられなくなるというのではない。それにまた私たちは宗教を「キリスト教」とか「仏教」とか「イスラム教」といった、既成の宗教と結びつけて考える傾向があるが、そうではなくて、誰しもが「何ものかに頼らずには生きられなかったところの、なかば夢うつつの世界の生き物であった幼児」の体験を持っており、この体験を考慮せずに宗教を論じることはできない、とアランはいっているのである。
 第2部「パン」では、私たちは原始的な宗教に触れた。ここでは私たちは古代人の感情を追体験した。これはある意味では人類の幼児期でもあった。人々は自然の恵みなしには生きられなかった。自然のコントロール方法も幼稚だった。彼らは自然をコントロールするために自然に祈った。この祈りの手法は、幼児の「合図」に通じるものがあった。森は恐ろしい場所だった。そこには精霊たちが住んでいた。少なくとも彼らの、「精霊たちがいる」という想像を打ち消してくれるようなものは何もなかった。というのも、人々にとっては、事物を直視し解明することよりも、自分なりにイメージを作り上げて、それを信じるほうが容易で手っ取り早かったのだ。自然との交流、とくに動物たちとの交流はごく自然にトーテミズムを形成した。これが自然と親しくなり、自然をコントロールするための最善の道だった。要するに、この時代は「口腹」を満たすことが何よりも重要だった時代だ。私たちはこの時代の記憶と痕跡をどこまでも引きずっていくだろう。

第3部「ジュピター」では、私たちは政治宗教、人間と人間関係をかたどった宗教を見た。その基礎は、人々が都市生活を営むことに結びついていた。これはむろん田園における先祖崇拝の観念を継承していた。年長者を敬い、死者を記念する感情は次第に「神を祖先とする人間」という考え方を一般化した。古代ギリシャの、ゼウスを頂点するオリュンポスの神々の体系はその典型だった。各地の王家は、それぞれ「私の祖先はゼウスだ」とか「私の先祖はヘラクレスだ」などと自慢しあった。アレクサンドロス大王は「自分はアキレウスの末裔だ」とか「ヘラクレスの末裔だ」などと主張したといわれている。いずれにしても、宗教は政治的権力と離れがたく結びつき、これに反抗することは困難になった。宗教の形式化は進んだが、形骸化も進んだ。同時に、私たちはすでにこの段階に、自立した自由な精神、慈愛の精神、批判する精神のしるしをも見出していた。

こうして「神々」を読んできた私たちは、宗教が迎える新しいステップ、新しい考え方の枠組みを知ることになる。ただしここで確認しておきたいことがある。それは、アランが「自然宗教」「政治宗教」「精神の宗教」というごくおおざっぱな区分をするとき、それが年代順に現れ、たとえば、自然宗教は政治宗教にとって代わられた、というように理解してはならないということだ。この三種類はたしかに発展段階ではあるが、宗教のすべてにこの三つの側面が混在しているということだ。これは、いいとか悪いとかの問題ではない。それは人間の身体の三つの部分「腹」「胸」「頭」に対応している。すなわち自然宗教は「腹」の宗教である。それは豊穣祈願に直結している。政治宗教は「胸」の宗教である。それは権威とプライドに関係している。そして精神の宗教は「頭」の宗教、すなわち知性と理性に関係する・・と、アランはいいたいのだ。そしてこの三つの部分はどうしても切り離せない。

第4部、「クリストフォロス」の第1章をアランはこう書き出している。「精神の宗教は数多くの源泉から流れ出てきた。すこしも自己による自己構成などといったものによってではない。これならば哲学である。そしてこれに危険がないわけでないことは、すでに充分見られたとおりである」。ここでアランは、キリスト教が複数の過去の宗教の集大成であるといっている。これは「キリスト教はすこしもオリジナルな考え方ではない」ということだ。これに対して、もし誰かが「いや、キリスト教はオリジナルな宗教なのだ」と主張するなら、それは、「キリスト教は新しい哲学だ」といっていることになる、というのである。そしてこの場合、キリスト教はどの哲学もが持つ「危うさ」を持つことになってしまうだろう、といっているのである。

アランがここでいいたいのは、キリスト教が「精神の宗教」であると言うこと、それは「自然宗教」と「政治宗教」、つまり「腹」と「胸」の宗教を継承しつつ、そしてその要素を内包しつつ形成されているということである。彼は「精神の宗教はかずかずの暗喩によって生まれた。これらの暗喩は新鮮で、感動的で、征服的で、そのうえ淵源をたずねるならば、これは精神とともに古い。すべての神々はいたるところで一体をなす」といっている。「自然宗教」の時代といえども、人間が精神をまったく持たなかったわけではない。たとえば森の中に精霊を認め、それを畏怖したときのあの感情、あれも「精神」のなせるわざであった。同じく「政治宗教」の時代にも、人間は立派に精神活動を行ってきた。自己を恃み、節制と克己とを称揚したとき、人々はみずからの精神の存在を確信していた。これらの要素はみな「キリスト教」の中に流れ込み、一体となっている。

しかしながら「精神の宗教」においては、過去の宗教が持っていた要素は、もはやそのままの言葉では語られない。精神の宗教、それは考える宗教である。それが何を意味するのかを解釈する宗教である。アランは「異教の全体がすでに精神(エスプリ)を荷っていたが、そのようにまた閃光によってのように解放される神霊(エスプリ)は樹木をおそってこれにからまりつく」と表現している。げんに「新約聖書」が「旧約」を基礎としていることからもわかるように、そして「新約」が旧約の解釈にみちていることからもわかるように、さらには、福音の言葉が「たとえ」で満たされていることからもわかるように、精神の宗教における一大特徴とは、「謎を解くこと」「考え、解釈すること」「それがわが身にとって何を意味するのかを発見すること」という点にある。そこでアランは、「精神の宗教はかずかずの暗喩によって生まれた」といっているのである。いまや精神は「解釈者」としての機能を持つにいたっているのである。(イラスト:諸々の宗教が合流したキリスト教の大河)

 

5-2.精神とは何か
52 アランはここで「精神とは何か」という大きな問題を真正面から取り上げる。考えてみれば、彼はこれから「精神の宗教」について語ろうとするのだから、「精神とは何か」について考えておこうというのは当然だ。では、あなたは「精神とは何か?」と問われて、何と答えるだろうか。それは人の心だ、魂だなどといっても何もはじまらない。一方、どの宗教も人間の「心」「魂」、要するに「精神」を問題にし、それらのいくつかははっきりと「あなたの魂を救済する」と明言している。だから宗教が人間精神に関係があることは確実だ。だが救済されるべきその魂とは何か? 私はこれまで既存の宗教が、本当に突き詰めて「精神とは何か」と問うたことがあったかどうか、改めて質問してみたい。いささか怪しいのではないかとさえ思う。

では、アランは精神をどのように定義するのか。彼はいう。「まず第一の、そして至高の逆説は、精神とは少しも存在するものではないということである」。ちょっと待ってくれ。精神とは何かという問いに対して、「それは少しも存在しない」とは一体どういうことか。アランは続ける。「ひとびとはどこにも精神を見出すということはなかった。人間の外部にも、人間の内部にも、生者のうちにも、死者の門出にも、神託を振り出す口にも、病を癒す聖殿にも。人の眼に見えるのは、ただ創痍(そうい)と傷痕とだけである」。なるほどイエスの傷口、それがもし目の前にあれば、それは私たち眼に見えるだろう。それを実際に見た人もいたはずだ。だが、傷口そのものは精神ではない。精神ではないが、この光景によって何ものかが揺り動かされる。この人は何のために死んだのか。何のためにこの傷を受けたのかを考えるときに、それを考える人のうちに何かが発動する。

生物学者モノーはその著書「偶然と必然」の中でこう書いている。「誰が精神の存在を疑うことができるだろうか。魂のうちに非物質的な実体を認めるという幻想を断念することは、魂の実在を否定することではなくて、むしろ反対に、遺伝的・文化的遺産と、・・個人経験の持っている複雑さ、豊かさ、測りようのない深さとを認め始めることなのである」。つまりモノーは、ここで精神は身体の一部であるといい、だからそれは非物質的な実在ではないといっている。これに反してアランは、精神は実在しないと力説している。つまり、この二人は逆のことをいっているのだが、実は同じことをいっている。それは、精神は物体そのものではなく、各人の身体という物体によって基礎づけられている「機能」だということだ。だれしも分るように「関係そのもの」と同様、「機能そのもの」も誰の目にも見えない。

精神の別名は知性であり、考えることであり、知ることであり、この意味で力である。しかしこの力はどんな風景をも変えるわけではない。何も持ち上げないし、何もしない。「しかし、あるがままのこの力は無限のものである」。それは「ただ着想するということによって、それはわれわれのすべての観念に共通な、あの非在というあり方をもつ」からだ。そうだ。精神のもっとも大きな機能とは、観念という、非在のものを作り上げ、それを自らに現前させる力なのだ。アランは精神を次のように表現する。「しかしながら精神は飛翔する。もろもろの存在の全延長を跋渉することを止めない」「精神は内部にも外部にもない。それは全体の全体である。・・そして可能なるものの全体、精神はここにある。精神が自らを否定せんとするそこになお、精神はある」「精神の限界という観念そのものが、そもそも不条理である」。

アランは一体何を言いたいのだろうか。それは私たちが精神を持った生き物であるということ、この精神が私たちの各自のうちにありながら、それは決して「モノ」ではなく、どこかに局在しているのでもなく、世界を観察し、世界の全体像をとらえるまでに大きな能力と領域を持っているということだ。精神は事物のように存在するわけではない。だが、事物をあらわれさせ、それがそれであることを理解させる。だから、それは事物以上の存在なのだ。精神は分割されることはないし、したがって部分もない。「精神はすこしも存在するものでないというとき、その意味は、精神は存在以上のものだというにある。この簡潔な叙述は、かくて神学のあらゆる誇張的表現にまさる」。アランも、過去の神学が精神をめぐって多大のむなしい論議を重ねてきたことに気づいていた。そして彼は自信をもって「この簡潔な叙述は、神学のあらゆる誇張的表現にまさる」といいきったのである。

ここで私たちとしては、「精神」と「想像力」との関係について考えておくことはムダではないだろう。いうまでもなく想像は精神の働きのひとつである。しかし、想像は精神の働きの中でも比較的低位の部分を受け持っていると私は考える。というのも、想像は直観し、推察するのだが、それはまだ計算していない。秩序正しく推論を重ねていくことは知性にとって負荷がかかる作業だ。してみれば想像とは、精神への負荷を拒んでいる精神の働きといっていいかも知れない。では、負荷のかかる段階を私にムリをしてでも昇らせるところの、この力は何だろうか。知的確認への意志、思考への意志、身体を統御することに向かう意志、デカルトが注目したところの、知性そのものを統御するこの機能、これもまた精神の機能ではないか。だからこそ、アランはこの反対の場合をも想定して、「精神が自らを否定せんとするそこになお、精神はある」といっているのである。

もっとも精神を知性といい、想像力といい、あるときは認識といい、意志などというとき、私たちは一人の中にいろいろな種類の精神が、あるいは複数の精神を考えたくなってしまうかもしれない。それにまた私たちは「自分自身と戦う」「自問自答する」「自戒する」「自分をほめる」などという。このような時、自分の中に矛盾した精神が複数あるのだという錯覚に陥る。この点に関してアランはどこまでも、「多は一なり」としたパルメニデスの徒であり、「延長は分割できない」としたスピノザの弟子である。「二つの精神とは、じつはただひとつのものでしかない。全体の全体は自己自身と一体をなす。というのも、全体が多数数えられるにしても、これを多数とかぞえるのは、ほかならぬ全体なのだから」。「二つの」ということがいえるのはその二つを包含する一つのものを前提にしているのだとアランはいう。つまり、精神とは一なる全体なのである。「されば、あらゆる神秘がここに集まっている。人はわが身に可能なように、この事態で間に合わせなければならない」。精神は決して二つあるのではないし、分裂しているのでもない。私たちは各自この機能を担っているのだが、結局各自は、自分のこの持ち物で各自の仕事をしていかねばならないのだ。(イラスト:非在の観念を現前させる機能としての精神)

 
 

5-3.旧約の神
53 第4部第2章には「神霊の民」という題がつけられている。この「神霊」=「エスプリ」であるから、前章の「精神(エスプリ)」の考察を受けていることはあきらかだ。アランはいう「聖書は恐ろしい書である、しかし、それは『書』である」。「しかし、それは書である」とはBibleという言葉の起源が「書物」であることを意味しているのと同時に、アランの基本的スタンス、「神秘はつねに語られたもの」という、この二つを意味している。はじめて旧約聖書を読む人は、神のあまりの横暴と嫉妬深さにびっくりする。他の人々はもっと温和な神を想定することもできたのであろうが、彼らはそうしなかった。温和な神では、苛酷な環境、沙漠に生きるユダヤの民の絶望的な現実を説明できなかったのだ。「虚偽の神はほふられる。暗喩はほふられてしまう。ただ沙漠の空虚と、いたるところに現前するおそるべき不在とだけが残る。これを前にしては、ただ服従という徳しかない」。

ユダヤ民族に特有の鋭い知性は、唯一絶対の、しかもたえず「罰する神」を想定することによって、世界の整合性を理解し、確立し、自分たちの歴史、そして自分たちの置かれている立場を感得し、受け入れた。ここでは精神はそのすぐれた機能によって無条件の服従と、ある種の絶望を知ることになる。「この人間侮蔑、そしてこの自己侮蔑、しかし何ものでもないというこの自負、そしてわが身が値しなかったと知り、しかもそれが当然だと知る、あのヨブの本質的反語」。だからこそ「ひとは自己について知る自らの大きさによって、わが身をへりくだるのでなければならない」。これが、アランが読み解く旧約の主題である。

ここで、ギリシャの神々とイスラエルの神の違いについて考えてみよう。すでに確認してきたように、ギリシャの神々は王家の祖先につながっている。そのことが王家の誇りであり、また正統のあかしでもある。王侯はこのことを自慢し、その民もまたこれを自慢とする。イスラエルの民も直接に神につながっている。「創世記」はこれを明言している。しかるに彼らの祖先は、罪ある者として呪われ、追放された者である。また多くの民は兄弟殺しカインの末裔である。要するに、冒頭にはげしい自己断罪があるわけだ。むろん彼らの先祖の中には、アブラハムやノアのように、神に祝福された有徳な人物がいることはいる。しかし彼らの徳もむなしい。しょせん彼らの出発点は罪ある者であり、そして彼らの歴史はつねに罪を重ねる方向に、不幸に向かって動くのである。

では、デルフィの巫女とイスラエルの預言者の違いはどこにあるか。デルフィの巫女はつねに謎に満ちた託宣を吐く。にもかかわらず、その託宣はいつも関係者に対して問題解決の方向を指示している。愚か者だけが託宣の解釈に失敗するのである。これに対して、イスラエルの預言者ははげしく自民族を弾劾し、はばかることなく不幸を予告する。しかるに人々は預言者の忠告に耳をかさない。イスラエルのこうした自己理解、世界理解は、ギリシャ民族の素朴な自己肯定とはあまりにも対照的である。このイスラエルのペシミズムが、きわめて発達した精神の産物であることは疑いを入れない。またこの精神が、自分自身の罪や不幸を直視する「強靭さ」を持っていることも。「かくして、聖書的な自然感情というものを、純粋に田園的な感情と混同してはならない。またイスラエルの預言者をデルポイの巫女と」「イスラエルの想像力は、永遠者の前で自ら呪われて、不純なことを知る。かくのごときが、純粋なる神霊の支配下における、自然の、神への譲渡である」

私たちはこれまで、宗教の始まりについて考え、ついで「自然宗教」「政治宗教」について考えてきた。何度もいうように、これは宗教の発生順序を示してはいるが、それらが段階的に交代してきたという意味ではない。人間に「腹」「胸」「頭」があるように、宗教にも三つのタイプがあり、それがつねに並存している。いま私たちは第三段階の「精神の宗教」の初期の状態について考えている。アランの考えによれば、旧約聖書に見られるユダヤ教は初期の「精神の宗教」の典型である。つまり、私たちの宗教の歴史はようやく「精神の時代」を迎えたのである。アランは次のようにいう。「第二段階の宗教たる政治宗教は、暗喩に変わるということがすこしもなかった。そしてわたしは一種の激昂のなかで純粋な精神に授けられた力の属性を、精神の宗教の恥ずべき部分と見なさるべきであるように思う」。

上の文章はわかりにくい。問題は「一種の激昂のなかで純粋な精神に授けられた力の属性」をどう理解するかだと思うが、私はユダヤの民のあまりにも徹底したペシミズム、悟性が「必然」の力に与えたところのこの「神概念」の直線的な鋭さを意味すると私は思う。ギリシャ神話における運命の神モイラは、決して人間とは交渉しない。「人間と対話する運命」などという概念がそもそも矛盾なのだ。これに対して、ユダヤの神は苛酷ではあるが人間と対話する。もちろん人間の訴えを聞いたりはしないのだが、自分を意志ははっきりと伝える。それは「十戒」のエピソードに見られる通りである。だから、ユダヤの神は少なくとも運命の神ではない。神の命令にそむくのはつねに人間であり、そこで「必然」としての罰が下る。こうして「苛立ち、罰する神」としてのヤアウェ像が彼らの「悟性」とぴったり合う。この点で、ユダヤ教は「精神の宗教」の源であり、その政治宗教に対する卓越性は明白である。政治宗教はついに「暗喩を通じて語る」ということがなかった。それは伝説の域を出なかったし巫女の託宣も抽象的な真理ではなく、具体的な「困りごと」に対する解答に過ぎなかった。

アランはまた上の文で、「激昂」にもとづく「力の属性」は「精神の宗教の恥ずべき部分」ではないかといっている。これは明らかにヤアウェに対する非難である。この点はやがて次第に解き明かされていくであろうが、アランは「精神の宗教の美点は力を否定することにある」と考えているのである。つまりユダヤ教は、明らかにギリシャの宗教とは異質であり、ひじょうにユニークであるにもかかわらず、まだ政治宗教の要素、「力による強制」の要素を色濃く残しているわけだ。また「悟性はユダヤ的なものである」とアランはいう。ここでいう「悟性」とは、単に頭で考えただけの理論的整合性というほどの意味である。精神のすべてが関与している理解の仕方ではない、とアランは考えるのだ。つまりアランは、このような悟性的な理解の仕方は、やがて発展され、完成されるべき真の「精神の宗教」という基準から見た場合、「恥ずべきもの」として評価されるのではないか、というのである。ここにはアランの倫理観、アランの宗教観のポイントが輝き出ている。「わたしはこの主要な誤謬を、これを自ら解放すべく、もっと高級な宗教がなすことをやめなかったかずかずの努力そのもののなかに、追求したいと思う」。

ここで個人的な感想をひとこと。私は、宗教関係者は不自由な立場にあると思う。なぜなら彼らは、経典、聖典、福音書を「正しい」という前提で読まねばならないからだ。それらのメッセージを「偽」としたのでは、彼らの活動の基盤が崩れてしまう。旧約、新約はキリスト教徒の聖典である。そこで不都合な部分については目をつぶり、ときには多少の「強弁」が生まれてくるのもやむをえない。この事情は、会社の社員が自分の会社の商品を弁護しなければならないのと同じだ。しかるにアランは旧約の基礎的な神概念のある点を、「恥ずべきもの」「主要な誤謬」とはっきりいっている。自由人としての立場とはこのようなものである。自由人にとっては立場上守らなければならないものはない。ただ、もっとも美しいもの、もっとも高貴なものを目指していけばいいのである。(イラスト:旧約の民、この罪人たちの系譜)

 
 

5-4.暗喩が意味するもの
54暗喩は精神の宗教には本質的なものである。けだし、宗教の諸段階は一体をなしてあるゆえに精神の品位は、精神がもろもろの映像を外見の地位に保持する場合にのみ、はじめてよく救われるからである」。暗喩とは何か。それは必要なメッセージを、そのままの形では伝えないということである。たとえ話をするということである。けれども暗喩は決して「たとえば・・のようだ」とはいわない。そういってしまうのは直喩だ。直喩は理解しやすくするための補助手段に過ぎない。アランは「暗喩」を宗教に本質的なものであるとする。それはなぜだろうか? 暗喩が結局のところメッセージとしてはあいまいであり、謎であることによって、理解できる人をスクリーニングできるからでなくて何であろうか。この話法の特長について私たちはすでに「イソップ」のところでおさらいをしておいた。しかし理解しようとする人は謎解きに集中する。解釈には当然幅があり、メッセージは豊かにもなれば誤解も生じる。それは暗喩の運命である。アランはここでは「精神の品位は外見を保持する場合にのみ救われる」といっている。つまり品位ある精神は触発されるのみであって、命令されない。外見を変えず、むしろ外見をそのままにして、それを用いつつ緊要なメッセージを託し、それを受け取る。精神の品位は「強制しない」という点においてこそ救われるとアランは見るのだ。

精神の宗教は怪異を恐れる宗教でもなければ、権力に盲従してこと足れりとする宗教ではない。それは自ら考え、啓発される宗教である。だから聖書にはたとえ話がたくさん出てくる。イエスも、もっぱらたとえを用いて話す。アランはここで旧約聖書の中から、「樹木の王」の話を取り上げている。これは、イスラエル人がはじめて王制に移行したときに、王制に反対するヨタムによって語られた話だ。――森の樹木たちが自分たちの王を選出しようということになって、有力な樹木、たとえばオリーブの木や無花果の木をたずねて、「王になってください」と依頼する。ところが、これらの木はみなにべもなく断る。とうとう最後に、茨の木が王になることを承知したが、この王はたいへんな暴君で他の樹木をさんざんに悩ませた――という話である。ついでながら、この話は「イソップ物語」にも収録されている。要するにこれは他のイソップ物語と同じように、完全な寓話なのだ。

この話を紹介したアランは次のようにいう。「これは寓話以外のものではない。だからここから、雲の中からのように、霹靂のような聖書の精神が出てくる」。これはどういうことか。王を選出するとは、よき指導者の選定ということだ。その王に従っていれば、経済の安定も、安全保障も得られるような、そんな政治的リーダーが欲しいということだ。そういう王がいれば、私たちはその人を尊敬もしようし、従いもしようというわけだ。だが、これはある意味では「その他大勢」のご都合主義だ。だからものの分った人々はみな王になることを辞退したが、虚栄心が強く、暴君の素質を持った茨だけが王になることを引き受けた。

これに対して王の職を固辞した連中は、やるべき仕事を持った賢者である。アランはいう「一体なぜ賢者が支配することを望んだりしようか。ただ賢者はそうしたことを必要とせぬばかりではなく、さらにまたそもそも賢者はそうしたことをなすすべを知らぬであろう」。安易な気持ちから、自分たちにメリットだけを与えてくれるようなリーダーを望んでいる民衆、そのような民衆が手にするのは、ただ支配欲に取りつかれた暴君だけだ。それにまた、自分の身の安全を確保したいからといって、強力なリーダーと軍備増強を望むという考え方は、かならずしも安全ではない「安全」と引きかえに、何かを失うだろう。

アランは、この寓話の真意を理解する精神、真のメッセージを汲み取る力を「精神」とし、こういったのである。「これは区々たる悟性のあえてよくなしえることではない。・・悟性は精神ほどきびしいものではない」。お分かりのように、アランはここでは「悟性」と「精神」を区別して使っている。これまでに私たちは「精神」という言葉を幅広く使ってきた。つまりそれは悟性を含む知性であり、理解であり、要するに身体の「頭」の部分としての総合的な判断力すべてであった。しかしアランはここでは「精神」を「悟性」に対立させている。この「精神」は、人間の心の機能のうち、ごく絞り込まれた、重要な判断の部分である。「樹木たちの王」の話は、単なる小さな寓話である。この話の真意は「賢者は決して王になろうとせず、王と名のつくものは必然的に暴君になる」という、考え方によっては目もくらむほどの、絶望的な真理である。当時の人々にはこの寓話の真意が理解できなかった。そしていまでも私たちはこの真意を充分に理解しているとはいえない。つまりこの真理を感得することは、悟性にとっては手に余ることなのだ。要するに、安全を確保するためには強力なリーダーを選び、充分に武装しさえすればいいという考えは「悟性の真理」に過ぎなかったのである。

アランは同じ章の中でもうひとつ「イソップ−ラ・フォンテーヌ」による「烏と狐」の寓話を紹介している。そして「私が意図して選んだ単純なこれらの例は、われわれを啓示という大問題の傍につれてゆき、さらにはわれわれをこの場に投げ入れる」といっている。「真の真はその無縫のあとを残し、耐え難いまでの一思想をたどり行くことを可能ならしめる」「かくのごときが美しい精神の出発である」。手の込んだ、この回り道、現実離れした設定の下で展開される小さなエピソード、その隠されたメッセージが私たちの心の高い部分に、するりと到達する。アランは「これが無防備な敏感な一点からわれわれに進入する」という。これが宗教における、いわゆる「啓示」である。「この思想、そのかずかずの棘にいたるまでもすべて救わねばならぬこの思想は、まさしく宗教的なものである」「さればこそ、いかなる宗教も啓示されるのである」。このプロセスは考え方によってはきわめて神秘的なものだ。だがそのじつ、どこにも神秘はない。(イラスト:茨の王)

 
 

5-5.パリサイ人
55イエスはパリサイ人といった。私はそこに私自身の姿を見る。私はそこに私自身を審判する。この表現は一本の矢のように、私に突き刺さってはなれない」。話はいつの間にか「新約」に移っている。ここでもアランは暗喩の意味を、さらに深く掘り下げる。それは福音書全体を「暗喩」としてとらえるやり方である。ご存知のように今日でも、「パリサイ人」という言葉は形式主義者、偽善者などという好ましくない意味で用いられる。福音書中のパリサイ人は、新機軸を嫌う保守的な律法主義者たちである。イエスの一生はこのパリサイ人との闘いだった。パリサイ人らはイエスを執念深く追いかけ、追いつめ、とうとう十字架にかけることに成功した。上の文の中で、アランは「パリサイ人」という非難の言葉が、まるで自分に向けられているように感じる、といっているのである。なぜアランが、いまさら自分を「パリサイ人」になぞらえているのだろうか。

ちなみに、福音書の無責任な読者である私は、パリサイ人らに執拗に追い回されるイエスを気の毒に思い、彼らがイエスに論争をしかけて逆にへこまされる場面では、あの連中のことを「いい気味だ」と思う。だから自分が当のパリサイ人であるなどとは夢にも思わない。ところがアランは自分がパリサイ人だといわれているような気になる。「わたしはまず、イエスが実際にこんなことをいったどうかを調べ、もし実在しなかったなら、彼のいったところも真実ではあるまいと自分にいい聞かせながら、どうにかこの場を逃れたいと思う」とまでいう。だが、これはじつは現代にも存在するたくさんのパリサイ人に対する当てこすりだ。たとえば、今日でも文献学、言語学、歴史学の立場から、福音書が本物なのかどうか、イエスという人物が福音書に描かれている通りに実在したのかどうか、弟子たちの証言にいかに矛盾が多いか、等々を研究している学者がたくさんいる。かりに、福音書がいい加減なものであるとすれば、そのメッセージの価値は下がってしまうというわけだ。

役所にも、会社にもパリサイ人はたくさんいる。要するに本質の検討よりも、どうでもいい書式や、用語や、先例の吟味に時間を使い、それで自分は仕事をしているのだと思っている連中がゴマンといる。たとえば、本人であることが分っていても、本人であることの「証明」がなければ、役所の窓口では何度でも書類を突き返すだろう。担当者がへたに「融通」をきかせてしまえば、あとで責任問題になるかもしれない。ルール通りにやっていれば、たとえどんなに利用者に犠牲を強いようとも担当者が咎められることはない。

そこでアランはいうのだ。「イエスが、人は軍隊や金力によって王の権勢を得、同時にわが身の魂を救うことはできぬと教えたとき、吟味すべきは、イエスが某日実際にこれをいったかどうかではなくして、イエスが真をいったかどうかである」。私の見るところ、福音書に登場する律法学者たちは、イエスの教えが「本質にかなっている」「これはヤバイぞ」と感じたのだと思う。彼らはイエスが形式にこだわらずに直線的に真理を語っていると知り、いわば虚を突かれたのだ。彼らはそのことが癪でならなかった。彼らは自分たちの本丸が揺らぐように感じ、大いに危機感を深めたのだと思う。彼らにもそのくらいの判断力はあったし、この点では抜け目なかった。だからこそ彼らはイエスを「試し」、ついには「消す」決心を固めたのである。

ここでアランは福音書に出てくるもうひとつのエピソード「無花果の樹」を紹介している。そのときイエスは喉が渇いていた。そこでいちじくの木に目をとめ、そばに行って実を食べようとした。しかし実はなっていなかった。季節はずれだったからだ。イエスは腹を立て、この木を呪った。するといちじくの木はたちまち枯れてしまった。このメッセージを、キリスト教関係者がどう説明しているのか、私は知らない。ただアランのコメントは次のようになる。「ところで、これは解しがたいことである。わが聖書解釈家は、無花果の季節ではなかったというこの文句が、いかなる不条理な写字生の手により、またいかなる不都合な文書から出てきたかを探ろうとする」。つまり、イエスともあろうものが、自分の欲望を満たせないからといって、季節はずれに実をつけない木を呪い、これを枯らせてしまうというのはいかにもおかしい。そこで、これは聖書が伝えられるプロセスで、誰かがどこかで原典を写し間違えたのではないか、という意見も出てくるということだ。

ここでアランが説くのは、牧師とは違った意味での「信じる」ことの大切さである。それは「テキストが正しいことを伝えているのだと信じなさい」ということである。すなわちテキストに対する尊敬である。すると謎が解けてくる。ここで寓意されている無花果の樹はパリサイ人なのである。彼らは「その件については法律にないので」とか「前例がないので」といって、げんに目の前に困窮している人を助けることを平然と拒む、あの形式主義者なのである。あるいは、一見不可能に見えることの前にあっても、困っている人のためになお全力をあげ、努力することを拒む精神である。イエスが憎んだのはこの律法至上主義、形式至上主義だった。そして寓話が伝えていたのは、この貴重なメッセージだったのだ。だから「これは不合理だ、きっと写字生の間違いだろう」といっていたのでは、何も見えてこない。「信じる」とはこのことなのであって、単なる盲信のことではない。

ごらんのように、この寓話は難問だ。だからこそ謎解きのしがいがある。それがまさに、私たちが啓発されるチャンスなのだ。「この困難が私を刺激するからであり、・・これなくしてはわたしの柔弱かつ抽象的な思考が等閑にしてしまったであろうような、ある偉大な重要な観念を、しばしば引き出すことになるのだから」。かりにこの無花果が口をきいて「私は太陽のめぐりにしたがって実をつけるのです。季節外れでは、実のつけようがありません」といったとすれば、その主張はまともである。それは「規則により、受け付けられません」という役所の担当者と同じようにまともである。だが、アランはこう追い討ちをかけるのだ。「しかし、と主なる神はいう。では君たちは、すべてを外部から受け、ただそのなしうるところにしたがって状況を返すだけの、無花果の樹であるのか」。これは「君たちは、自分の外にあるルールで動くだけの機械なのか」ということだ。かくしてテキストの読み方という点についてアランは私たちに貴重な助言を与える。「問題はそれが真かどうかを知ることではなくて、むしろいかにしてそれが真であるかを知ることである」。(イラスト:現代のパリサイ人)

 
 

5-6.ジュピターの退場
56 私たちは「無花果の樹」とはパリサイ人のことであるといった。ではあの時、空腹と渇きに悩まされていたイエスは、無花果の樹に何を期待し、樹がどうのように行動することを求めていたのか? アランは次のように解釈する。君たちは本当に、ただの無花果の樹なのか。「あるいはそうではなくて、君たちはわが身の貯えをただ自分にしたがってのみ分配する自由を自らもつと知り、さらに自ら持たんと欲するところの、人間なのか」。もし君たちが、ただの樹、ただの機械でないのだとしたら、君たちはどうしてみずからの判断、みずからの良心に従って行動しないのか? 自分の中に持っている資源を、どうして自分自身の自由意志にしたがって用いないのか? アランはイエスが無花果の樹=人間に期待し、問いかけていたのはこのことだ。

ちなみにイエスが捕縛され、裁判にかけられたとき、ローマから派遣されていたユダヤの総督はピラトだった。彼にはどう考えてもイエスが死刑に相当するような罪を犯しているとは思えなかった。彼はそのことを二三度口に出しさえした。しかるに群集の声に押されるままにイエスに死刑の判決を下した。こうしてピラトもまた一個の「無花果の樹」となった。アランは、ピラトが「自ら判断する」という自由を手放したことについて、「それにしても、誰がこの特権を放棄するだろうか。偉大な長官ピラトはこれを放棄する。彼の精神は手を引いてしまう」と書き、次のように続ける。「だがわたしは、主要な、そしておそらく唯一の誤謬とは、人間の条件から身を引くことだとはげしく喚起した人を、主なる神と呼ぶ」。そうだ。神と呼べるものがあるとしたら、そのものは「人間たちよ、人間の条件から手を引いてはならぬ。無花果の樹になってはならぬ。けっして機械になってはならぬ。外部から押されるままに判断するのではなく、自らの良心に従って判断するのだ・・」というにちがいない。アランはイエスのメッセージをこのようにとらえるのである。

アランの解釈はさらに先に進む。彼はいう。「私はいまやジュピターが、いまひとつの力によってとって代えられているのに気づく」。これはどういうことか、それはジュピターによって保証されている国家の権威、シーザーの権威が、この新しい精神世界の前にその絶対の力を失いつつあるということだ。というのは、例の、季節になれば実をつけ、それ以外の季節には実をつけない無花果の樹とは、時刻になると自動的に閉まるお役所の扉であり、法律に従って人を縛る警察であり、要するに外的必然の力にしたがって動く行政的権威の象徴でもあるからだ。アランはその力が、単に力にすぎないものであることをイエスの死が示した、とするのである。

福音書には「シーザーへの税金」という、たいへん面白いエピソードがある。パリサイ人たちがやってきてイエスに問答を仕掛ける。彼らはイエスにたずねる。「シーザーに税金を支払うのは律法にかなっているでしょうか?」。ここでイエスが「律法にかなっている」といえば、イエスはシーザー登場以前に作られた律法の中からその根拠を示さなければならないし、「律法にかなっていない」といえば、宗主国ローマへの反逆を意味することになってしまう。この質問は巧妙に仕掛けられた罠だったのだ。イエスは、「またもそのようにして、私を試そうとするのか」といいながらも銀貨に刻印されている図柄がシーザーの顔であることを指摘し、「シーザーのものはシーザーに返し、神のものは神に返しなさい」と回答した。質問者たちは予想外の答えに驚いてむなしく引き上げていった。

この逸話を踏まえてアランは「しかもこの力はただ力をもたぬだけでなく、また単に力を拒否するだけでなく、いかなる力もこれを審判し、さらにはこれを保持してシーザーにわずかなものを返し、しかもこれを審判して、これに至高の価値を与えることを拒む」といっている。すなわち、国家権力、確立された宗教的権威、これらは単に物理的な力であるに過ぎない。これらは「物的に強制する力」である。これに対して、各人の心の中にある「良心」には、物的強制力はない。「良心は彼に、彼を強制することなしに、命じる」。強制する力と、強制せず本人だけに命じる良心との対決。この構図があらわれてきたのだ。「かくしてキリスト教革命のただなかに自由思想のまったく純粋な観念が姿をあらわす」。良心の問題、それは各自の精神における自由の問題だ。これはもはやシーザーの神、ジュピターの守備範囲にはない。かくして「政治宗教」の段階はついに乗り越えられたのである。

もっともアランは次のように釘をさすことを忘れない。「すべての宗教は一体をなすがゆえに、キリスト教とて権勢からすっかり身を洗ったというわけではない」。というのも、ひとたびこうした崇高な精神に到達したキリスト教自体が、権威を求めて画策し、自ら権威となり、あるいは宗派間闘争にうつつを抜かし、かずかずの「精神」を火あぶりにし、血で血を洗う抗争を繰り広げてきたわけなのだから。ここでアランが「すべての宗教は一体をなすがゆえに」といっている点に注意してほしい。「腹部の宗教(自然宗教)」「胸の宗教(政治宗教)」「頭の宗教(精神の宗教)」はつねに一体になっている。そして精神の自己統御がゆるむと、たちまち腹部や胸部が勝手に指揮をとる。

今日見られるどの宗教も――もちろん新興宗教も含めて――みな上の三つの要素を持っている。社会的に指弾されているような、いかがわしい宗教でさえ、何がしか崇高な部分に訴える「精神」の要素を持っているにちがいない。しかし、かりに資金集めのために手段を選ばないというような宗教、あるいはテロをも辞さないという宗教があるのだとすれば、それは「腹部」や「胸部」が異常に幅をきかせすぎている宗教ということになるだろう。要するに宗教はどの部分をとっても「人間」の似姿なのである。(イラスト:強制や権威を乗り越える人)

 
 

5-7.「悪魔」の登場
57 古代の宗教において人間離れした怪物はいくらも想定されていたし、ある意味では怪物は古代の宗教の重要な要素だった。それは気まぐれで強力な自然、人間が太刀打ちできない超自然的パワーの象徴だった。人々はこれらの怪物を怖れ、崇めたり、なだめたりすることに懸命に意を用いたのであった。しかし、いま私たちの前に現われた「悪魔」は怪物ではない。悪魔は人をとって食ったりしない。悪魔の任務とは、もっぱら人間を道徳的に堕落させることである。悪魔は「良心」を問題にするようになった「精神の宗教」に固有の、しかもきわめて重要な存在なのである。アランはここで悪魔について触れていう。「ああ、悪魔よ。わたしはあるがままの、動いてゆくがままの、事物を忘れていた」と。

アランの定義によれば、悪魔とは、ありふれた、なんでもない事物であり、事物の中に組み込まれている人間であり、人間関係である。これを私たちの使う言葉でわかりやすくいえば、悪魔とは「理想と現実」というときの、「現実」のことである。現実の世界では、私たちはともかく食べなければならない。「してみれば、実在するところを念々顧慮する人に対して、いかなる非難をなしえようか。まず生きなければならない」。先ほど私たちは精神の宗教のもっとも高い部分、「良心」の問題にふれた。かの義人、イエスが命を棄ててまで教えてくれたところによれば、私たちはいかなることがあっても「人間の条件」から手を引いてはならないのである。するとここで解きがたいジレンマがあらわれる。

アランは、ある王様のお気に入りとなった軽蔑すべき愚か者を例に上げている。この愚か者は一種の「道化」なのであるが、王は彼を気に入っており、この道化の言うことなら何でも受け入れる。かりに私が王のもとで働かねばならぬとする。私は王に認められ評価されたいと望む。すると、私はまずこの道化に取り入らねばならない。ああ、思い返してみれば、私も何と多くの道化たちの前にひざまずき、心にもないないお世辞を述べてきたことか。そして、ともかくも生きるために道化と交わす契約、それを「悪魔に魂を売る」というのではなかったか。どうしてもしなければならぬ現実との屈辱的な妥協、これが、私たちの「良心」の前で大きく立ちはだかり、ときとして、いや、つねに私たちの良心を疎外してきたのではなかったか。そして、たとえば刑務所の囚人たちに聞いてみれば、彼らはみな「現実とのやむを得ざる妥協」こそが、犯罪の動機であったと答えるのではないか。彼らが捕まったところを見ると、彼らの方が私たちよりもお人よしだったのではなかったのか。

アランは悪魔の実体をさらに説明する。「それは横切って飛び出してくる兎であり、さらにうまくいえば、横切ってあらわれ出てくる君主である。悪魔とは待ち伏せするものの謂である。それは精神に立ちかえってくる必然性である」。たとえば私たちが、よりよき者になろうとして、崇高な決心をしたとする。しかし現実の電話、知人の誘い、それにまた空腹やちょっとした頭痛、その日の雨や風が私たちの決心をぐらつかせる。それらは何も君の崇高な心を邪魔しようと意図しているのではない。だからこそアランは「横切ってあらわれる」といったのだ。仕事上の状況の変化、サラリーの上下、同僚の噂話、これらが君の心をかき乱す。かくして私たちの崇高な決心はどこかへいってしまう。悪魔とは、精神が高いところを望むからこそあらわれてくるところの、反対概念である。つまり人が高みを狙おうすればするほど、足元をすくわれる危険が増すのだ。

千の姿を持つこの悪魔は、もっとも高級な宗教から生まれた。影のように、悪魔はこの宗教につきしがたがう。なぜといって、われわれの腹部につながる植物や動物の神々を、どう扱えばいいのか。また、われわれの胸腔につながるあの冠をかむった神々をどう扱えばいいのか」。ごらんのように、この悪魔は私たちの身体が「腹」「胸」「頭」という三つの部位から成立していることからやってくる。かつて私は「キリスト教の神は、なぜ悪魔を許容するのか?」と思ったことがある。しかしそれは悪魔の実体を知らないときの、素朴な疑問だった。キリスト教は悪魔を必要とする。それは第一に人間が現実世界に生きており、要するに騙し、殺生せずには生きられないからであり、私たちが現実と折れ合うことは、つまるところ悪魔と取引すること以外を意味しないからである。第二には、精神の高みは、こうした現実との戦いによってしか得られないからである。徳がやすやす手に入るなら、それは徳の名に値しない。何にでも妥協してしまう「安易な精神」はすべて悪魔の形状をなしているのである。「そこには、すべての低級な神々、自然の神々や政治の神々が集まっている。彼らが実在すること、これは明かである。彼らは実在以外のものではなく、むしろ実在そのものである。そしてまさしくこのものによってわれわれは捉えられ、また繰り返し捉えられる」。(イラスト:騙し殺生する反面としての悪魔)

 
 

5-8.再び「私たちは生かされている」のか?
58 私はこのエッセイを、「私たちは生かされているのか」という疑問からスタートした。というのも、最近何かというと「私たちは大自然によって生かされているのだかね」とすまし顔でいう人がいて、私としてはこの言葉に反発を感じてならないからである。(この人たちの用語法によると、なぜか「自然」ではなく「大自然」なのだ)。ところで私としては、いま「大自然によって生かされている」論に対して、アランの回答を得たような気がするので、立ち止まって考えて見たい。アランは「実在はすこしも神ではない」という。それどころかアランの中では「実在」は「悪魔」なのだ。この「実在」の中には私たちにとって抜き差しならぬ人間関係、法律や国家権力が含まれている。だが、私たちの外周である「実在」の大部分は宇宙であり、彼らの大好きな「大自然」である。要するに私たちが折れ合わざるを得ないすべての力を意味している。すると「われわれは自然に生かされている」という件についてはどうなるのか。われわれは「悪魔に生かされている」ということなのか。これはとんだお笑い草ではないか。

アランはいう。「悪魔が未来永劫にわたって堕獄されているということ、このことはまことに意味にみちている。というのも、宇宙はつねにあり、しかもつねに価値というものなくしてあるのだから」。私たちにまったく無関係に広がっているこの宇宙の実在、要するに「大自然」はそもそも私たちの敵でも味方でもない。それにまた、この私たちをとりまく社会、これも一種の自然であり、実在であり、これまた敵でも味方でもない。アランがいっている通り、それは永遠に即自的なものであり、それ自体としては「無価値」なのだ。ちなみに地上数メートルのところで、しかも温帯地方までは私たちにやさしく見える自然も、地上3000メートル、あるいは極地ではすこしもやさしくない。ましてや宇宙空間などもってのほかである。だから、彼らの「生かされている論」は、地上数メートルを出ない、しかも日々ぬくぬくと恵まれた環境に暮らす人々の発想である。それは一種の「腹の宗教」、原因と結果を取り違えた、視野のせまいアニミズムの一種にすぎないことが明かとなるのだ。

私は先に「悪魔の主な仕事は人間を道徳的に堕落させることだ」と説明した。このこととアランがいうところの、「実在が永遠に堕獄されている」「それは価値なくしてある」とはどのように関連するか。それは、「実在」が人間の道徳にどこまでも無関心だという点に関連する。たとえば、人間の性的本能や衝動は他の動物のそれと同じように、単に「ある」。それは道徳にまったく無関心である。人間社会では、一定の条件を満たしているときには男女の結合は祝福されるが、性的本能や衝動がまったく場違いに、ぶしつけに露呈され、関係者に不快感を与えたり、迷惑が生じるようなとき「悪い」とされる。つまりそれが「悪魔の誘惑」となるのは、人がそれを状況の中でコントロールしそこなったときなのである。「実在」を価値あるものとするか、「悪」とするかは、「実在」がきめることではない。この「実在」の、私たちに対する徹底的な無関心、これをアランは「実在は永遠に堕獄されている」と表現したのである。

ところで、「実在」にはもうひとつ「悪魔」的な要素がある。それは「実在」がつねに惑わしに満ちた外観を示すということである。たとえば、かつて地球は宇宙の中心にあると考えられていた。また「地球が動く」などとはとんでもないことだった。ラヴォアジェが真相を突くまで、燃焼とは「燃素」が逃げ出すことだと思われていた。そして今日でも、私たちは多くのことについて「外観」を「真実」と取り違えている。だから、ちょっと見の外観、あるいは第一印象に騙されないためには、私たちは外観そのものを手がかりにしながら実体を探求しなければならない。アランはいう。「すべては誘惑であり、いかなる外見も悪魔によっては虚偽、精神によっては真実だというのは、きわめて正確な表現である。誤謬はなにものでもない。だが、それにもかかわらず誤謬は姿をあらわす。かくのごときが、一個の断罪者にほかならぬ、悪魔にもちまえのあり方である」。外観を取り違えることは道徳的誤謬にも直結する。たとえば「人身御供」や「魔女裁判」のことを思い出していただきたい。もし人々が世界の外観について正しい認識を持っておれば、あれらの犠牲者を出さずにすんだことだろう。かくして悪魔はエピステーメに対抗する勢力として、虚偽への誘惑者として、げんに私たちの目の前にある。

虚偽の外観に対して、自分の精神力を恃みとしてどこまでも戦った一人の男の例として、アランはデカルトの名をあげる。デカルトは外観が自分を欺く可能性を認め、これをかりに「悪しき神」「騙す神」と呼んだ。「そしてここから、かの常軌を超えた懐疑の瞬間が出てきた。・・というのもここを誤ってはならぬが、デカルトは不確実なものを懐疑することから、確実なものを懐疑することへと上昇したのだから」。ご承知のように、デカルトはすべてを疑い、疑いえないものに到達するまで疑った。すべての外観が怪しいものである以上、悪魔から身を守るためには「思考する自分がある。これだけは疑いえない」という、この原点を堅持することが必要であり、事実これしか人間にできることはない。「精神はまず自己自身を信じ、ただ自己自身のみを信じるのでなくしては、欺かれてしまう」。

この、自らの精神に対する信頼、これは精神に対する信仰であり崇拝である。要するに精神そのものを「神」と見る考え方、「精神の宗教」の本質である。「精神に対する礼拝こそ価値をもたらすものであり、また低級のものをその本来の位置につきもどす」「精神の宗教の本義とは奇跡を斥けることなのだ」。古代のすべての宗教はある意味で超自然的パワー、要するにあやかしの外観たる奇跡によって人々を驚かせ、説得した。だがこれらをひとまとめにして「邪教、悪魔のわざ」と断罪したのはキリスト教である。ではキリスト教は何を根拠にあれらを断罪したのか? アランは明言する。「そしてこれをいい忘れてはならぬのだが、精神こそ奇跡の審判者だということである」。

オカルト映画では、悪魔は十字架の前で退散することになっている。これについてアランはいう。「かくのごとくにして、永遠のデカルトは悪しき霊とたたかう」「悪魔の、また幻影を消散させる十字架の、こうした偉大な映像は、世界の擾乱の中にあって、ここまでわれわれを連れてゆく。というのも、かの十字架上の義人は、私の考えるところ、こうしたことを充分に語っているし、また必然性ともろもろの権力については、充分以上に語っているのだから」。ごらんのようにアランにあっては、あの十字架の護符とは疑う精神そのもの、幻影や、権力やと戦う自らの健全な精神の象徴なのである。ここにきて、彼のいう「精神の宗教」の意味の一端がしだいに鮮明になってきたのではあるまいか。 (イラスト:お化けの正体を見破る人)

 
 

5-9.禁欲の美術
59 「自己自身を信じる」、あるいは「精神に対する礼拝」というと、多くの人が首をかしげるにちがいない。とくにキリスト教徒やキリスト教をよく知っている人からは、「アランの考えているキリスト教は、どうもキリスト教とはちがうようだ」とか、「自己を信じる・・それを傲慢という」などという反論が出そうだ。しかし私たちはいまアランの「神々」を読んでいるのだし、アランは何度も「いきなり結論を出してはいけない」といっているのだから、もうしばらくはアランの流儀に従っていこうではないか。私としては、読者がどうしても一般的なキリスト教を知りたいなら、お近くの教会を訪ねて教えを乞うことをおすすめする。

私たちは目下アランの神々の第4部、第6章の「聖者」に入っている。この章の冒頭でアランはいう。「ギリシャ美には別れを告げねばならなかった」。私は美術史の上で、なぜあれほど栄えたギリシャ、ローマにおけるリアリズムが姿を消し、平面的で、無表情な「中世」が美術の世界を覆ってしまったのだろうと、かねてから疑問だった。これについて私の手元にある美術史の本を見ると、まず「暗黒の中世」とあり、ローマの東西への分裂とゲルマン民族の侵入、不安定な政治状況・・これらの環境変化がギリシャ・ローマ芸術の美意識を変えてしまったのだと書いてある。しかし、「暗黒の中世」=リアリズムの退潮、あるいは美意識の変化というのは、どうも合点がいかない。そこで私はこの問題について、中世史の研究家であり、彼自身すぐれた画家でもある鈴木航伊知氏に質問した。すると氏は以下のように答えてくれた。(なお、彼はこのシリーズのために挿絵を書いてくれている。)

「ギリシャ彫刻の制作動機の中心は、神々の神殿への、現世の利益を願っての捧げものであった。これに対して中世の美術の制作動機は、新興宗教としてのキリスト教が、呪術や自然宗教が跋扈していた土地と民衆への切り込み隊としての、美術を通しての宣伝教化の任務である。キリスト教美術の実現手段は、現世と肉体はおぞましく、精神、倫理と天国こそ望ましいという、徹底した死の讃美と観念論の世界を示すことにある。もしイエスや聖人の身体が、ギリシャの神々の像のように、筋肉隆々で、豊満な身体では、肉体の否定、精神と倫理の最重要視、生よりも、死後の世界に価値を置くキリスト教にはまったくふさわしくなくなる。しかしながら、中世美術はかずかずの長所を持っている。人体の独特のひねりの表現は、高い水準で様式化されていて、それが美しい。また、色にも透明感があり、つねにたくさんの色数を使うが、うるさくなく、美しい。形の追求ではなく、色の追求に真骨頂があり、他の時代、文化圏でこれを凌駕しているものはない。ヨーロッパでは古代と中世のあいだに美術的な断絶の時期がある。ギリシャ彫刻と中世美術を縦糸で系統的に結び付ける必然性はまったくない」。

鈴木氏の答えは期せずしてアランの回答に重なっている。アランは次のようにいっている。「このとき人間のかたちの彫刻は、自身を拒み自身を否定して、外部に対する蔑視を告げ、またそれによって間接的に内部の美を告げることしかできない」と。アランの解釈によれば、ギリシャの美とは力の賛嘆である。それは筋肉、要するに「肉の美」を表現するものである。また古代ローマの彫刻は、あの元老院議員がまとっているトガの、精緻な襞によって特徴づけられる。これはある種の物神崇拝にほかならない。これでは神に対する恭順、精神性の深みを表現することはできない。するとどうなるか。表現における禁欲主義、すなわちアンチ・リアリズムが採用されなければならない。もちろん、描かれた人物は、たしかに人物とわからなければ絵としての意味がなくなってしまう。人物は人物、衣裳は衣裳でなければならぬ。こうして、あの固定的で、平面的で、抑制された表現が採用されることになった。ヘーゲルとアランは、あれら一見稚拙な絵画の中の人物の顔と目に注目する。「一個の魂の値と、無限の主観性の価値を読みとることができる」と。つまり、あれらの絵画が描こうとしていたのは「肉の美」ではなく、「精神の美」であったとアランは考えるのである。

ここを手がかりにして、アランの思索はストイシズムへと向かう。「人間はその快楽においてであれ、その怒りにおいてであれ、動物であること決して誇りとはしない。かつてつねに賢者というものがあって、これら二つの過度の相互のつながりを察知し、・・これからよく身を守った」。アランがここでいっている「快楽」と「怒り」は、それぞれ「腹」と「胸」に結びついており、ある種の動物性――実際には動物たちはこの二つにおいても、けっして過度に陥ることはないのだが――をイメージさせる。というのも、この二つの過度においては「節制」「克己」という大切な要素が不在だからである。ハメをはずし、ただ気分に任せれば実現してしまうもの、それが「快楽」と「怒り」の特徴である。アランがいうところの「賢者」とはこうした過度の兆しを自らに許さなかった人々のことである。

中世の美術家が果たしてヘレニズム風の作品や作風を知っていたかどうか、私は知らない。けれどもアランはどうやら中世のあの美術を、ヘレニズム風の美の「過度」に対する用心、要するに「美術におけるストイシズム」と捉えているらしい。そして、彼は「聖者」のイメージを「ストア賢者」に重ね合わせ、さらにきびしいものにしてゆく。アランの考える聖者は、自らの力を否定し、さらには「力そのもの」を否定する。この力強い禁欲の思想は半端なところではとどまらない。「力から身を引くというだけでは、まだ充分ではなかった。というのは、これはなお至高の力を崇拝することであったのだから」。ここでいう「至高の力」をアランは先のところで「永遠のシーザー」ともいいかえていたのである。(イラスト:肉と力を讃美した視点からの磔刑図)

 
 

5-10.高邁と自由
510問題はつねに、永遠のシーザーと自由な良心とのあいだで選択することである」。私たち人間にとって最大の問題とは何だろうか。むろん、それはいつの時代でも「生きること」だ。だが次に問題になるのは、どう生きるかであり、これを考えた場合、それはいまや「永遠のシーザーと自由な良心」とのあいだで選択することである。というのも、動物と同じように生きることなら、すでに私たちは何万年ものあいだすでに実践してきているからだ。「永遠のシーザー」とは世界の「実在」であり、抵抗しがたい自然と人間の力である。それを私たちは「悪魔」と名づけることもできた。そこで私たちの問題は、「当面トクになること」と「本来すべきこと」との中間に置かれる。この二つが一致して見えるときには何にも問題はないのだが、この二つが相反して見えるときが案外多いのだ。

たとえば、「人を助けようとすればカネがかかる」、とか、「犯罪的な仕事を命じられたが、これを拒否すれば会社をクビになる」といったような場合、私たちはどちらを選べばいいのか。このような、私たちの「良心」に逆らうような問題の発生源、これをアランは「永遠のシーザー」といっているのである。「ここでは悟性などというものは何の役にも立つものではない」。悟性の役割はもっぱら損得の計算である。一方にあるのは私たちの「自由」である。それをするかしないかが私たちの精神だけにまかされている事柄である。もっとも、健全な悟性、つまり損得のバランス感覚がない人は見ていても危うい。理想に走って大損をする可能性がある。そうかといって、すべてを損得勘定だけで判断しようとすれば、良心の問題はなおざりとなる。たとえば、私たちは食品表示の偽装や官僚の汚職について、当事者を「良心」の名の下に指弾する。だが、かりに悟性レベルだけで考えるなら、絶対に発覚しない犯罪なら「やってもよい」ということになってしまう。してみれば「良心」は架空の、あるいは他人の問題ではないのだ。

デカルトが語るように、高邁さによって、また使徒がいうように慈愛によって、選択するのでなければならない。だが、これら両者のあいだには何の相違もないと知るためには、熟考が必要である。聖者は自己自身についての正しい感情によって、喜びをもって、この道を歩む」。ここで「デカルトが語るように」とは、デカルトの著書「情念論」に示されている価値観のことである。この中でデカルトが「高邁」という感情について述べていることを聞いてみよう。デカルトはいう。「もし人が、自由意志とは何であるか、自由意志を活用する確乎たる決意から生ずる利益がいかに大きいか、また一方、野心家を苦しめるすべての心労がいかに空しくまた無益であるかにしばしば思いをいたすならば、心裡に高邁の情を刺激し、やがては高邁の徳をかちえることができる。高邁の徳は他のあらゆる美徳の鍵であり、あらゆる情念の乱れに対する一般的療法である」。また「高邁さは、他に奪われるような物をすべて軽蔑させ、他に傷つけられた場合に失う自由や絶対的自制力を大いに尊重させる」ともいっている。

ここで私自身のことをいうなら、私は「悟性」のほうにいささか力点を置いて生活している人間だ。つまり私は「永遠のシーザー」に命じられるままに保身をはかり、しばしば良心に目をつぶって生きていると告白せざるを得ない。私の良心は「何とか困っている人を助けたい」と思う。しかし私の悟性は「人を助けていると、自分が先に参ってしまうぞ」と警告する。すなわち永遠のシーザーは私を拘束し、隷属状態に置く。高邁な精神はこのようなとき、損得にこだわらず、自分がすべきだと思うことをする。要するに高邁とは、この「自由な精神」「自由な選択」のことであるとデカルトはいい、アランはこれを是認する。さらにアランは、「高邁」と「慈愛」はひっきょう同じものだといっている。彼の考えによれば、聖者とはこの自由な選択による道を、高邁=慈愛にもとづいて「喜びをもって歩む」人のことなのである。

宗教は人間的なものであって、非人間的なものではないとわたしがいうとき、これによってわたしは宗教というもののすべてを説明しようとしているわけではない。私がいうのはただ次のことである。すなわち、注意してこれを凝視せねばならぬということ。また、これを凝視すればするほど、はじめは人を驚かすものであるが、そのすべてが人間というものを人間自身に照らし出してくれるあの精緻な議論に、思考する人間が行き着くことになった事情を、人はますますよく理解することができるということ」。思わず引用が長くなってしまったが、アランが宗教についていいたいことは上の文章に凝縮されている。「腹」「胸」の経過をたどって「頭=精神」の高みにたどり着いた宗教は、いまなお「腹−胸−頭」のワンセットである。しかし「精神」の段階にいたった宗教はますます「人間的」なものになっているとアランは考える。だから、宗教を軽々に判断してはならない。それは凝視すればするほど「人間を照らし出す精緻な議論」をみごとに形成していることがわかる、というのである。(イラスト:自ら隷属される人と自由と喜びの人)

 
 

5-11.自由という名の神、そして恩寵
511_2デカルトはたしかに、自己自身が自由なるがゆえに。自分は自由なる神をあがめるのだと考えた」「もし精神が自由であり、また神が精神であるならば、自由そのもの以外のものではない、ひとつの恩寵と救いとが差し出される」。デカルトは「省察」の中で、疑い得るものをすべて疑い、その結果、疑い得ないものとは、自分がこうして考えていることだと書いた。そして彼は、同じ考え方の道筋をたどって、自分には神が存在することがわかると書いた。では、デカルトがしたことは一体何だったのだろうか。もしも世界の実在性と神の存在を保証する最初のものが「自分の精神」である、ということを発見し、明確にしたのでなかったとしたら。・・これが、アランがいわんとすることである。このときデカルトの思考を支えているのは、どんな偏見にも束縛されない「自由」である。だから、ここに「何ものにも束縛されない自由な思考」「矛盾を排除して思考する精神」こそが、至高のものであるという結論が出てくる。

ところで「崇める」とはどういうことだろうか。それは尊重し、尊敬し、そのものに至高の価値を置くということではないだろうか。であるとすれば、デカルトが崇めたのは「自由な精神」ということになる。それ以上に価値を置くべきもものが見当たらないとき、私たちが名づける「それ」を「神」とすれば、ここでも私たちはふたたび「自由な精神=神」という図式を確認することになる。もちろん、この理屈には反対したい人もいるにちがいない。「神とはそういうものではない」とか、「自分自身を崇めるとは何ごとか」という意見の持ち主もいるだろう。だが、デカルトは「昔からこういわれているから」とか、「・・・と考えなければならぬ」という規制を取り払ってしまったのである。上の考え方に反対の人は、自分がどこかで既成概念にとらわれていないかどうか、もういちどチェックしてみていただきたい。

アランは「もし精神が自由であり、また神が精神であるならば、自由そのもの以外のものではない、ひとつの恩寵と救いとが差し出される」といっている。これはどういうことだろうか? それは精神の自由は、それ自体が恩寵であり、救いだということである。「そして恩寵にふさわねばならぬといい、また恩寵なくしては恩寵にふさうことができぬというは、もっともゆたかないい方で、またおそらくはもっとも美しい言葉で、こういっていることである」。「自由な精神=神」という図式が確認されるとき、恩寵とは「自由であること」そのものである。そして恩寵にふさわしい人とは、自分が自由であると感じることができる人のことである。

しかしながら、この自由は他から与えられるものではない。自分でつかみ取り、デカルトがしたように、自分自身で確認しなければならぬものである。これが自由というものの与件であり、その自由を確認し、信じることが自由に対する信仰なのだ。だから、この恩寵は無垢でありさえすれば自動的に保証される、というような甘いものではない。とんでもない。それは一瞬ごとに自分自身に対して、自分が保証しなければならぬものである。「すなわち、われわれは自分が自由であると確認すると。しかも問題の与件そのものによって、この確認はなにものをも保証するものではないのだと。この確認は人がこれを確認する場合にのみ、よく汲めども尽きぬものとなる。そしてこの信仰自体、至高の信仰であり、唯一の信仰である」。自由であることのすばらしさを知っている人は、自分が自由であることを確認できる人である。これが自由人であることの資格であると同時に、何にも代えがたい利益(りやく)なのだ。

しかし自分が自分に対して保証しなければならぬもの、自分の考え方ひとつに依存するような「自由」とは、ずいぶん危うげなものではないか。そこでアランはこういう。「この信仰自体は、自由である。自然は何ひとつ供してくれるものではない。自然はひとたび設定された自由というようなものによって進行するものではない。これ、前日の勇気が翌日のためになんの役に立つものでもないと同じである」。一度手に入った自由が、永遠に自分のものになり、決して消えないものであったらどんなにいいだろう。だが、そううまくはいかない。私たちは今日は「鳥のように自由だ」と感じても、明日になれば「まるで奴隷だ」と思うかもしれない。そうだ。このようにいつも揺らいでいるのが私たちのありのままの姿なのだ。私たちがこのように「自由であるという確信」について何の保証も与えられないということ、これは私たちが放置され、見捨てられているようなものではないか。

そこでアランは力強くいう。「この状況、ある意味では、見すてられて救いのないこの状況は、これこそ救いのすべてであり、唯一の救いなのだ」。つまり、「誰かによって保証されているということ」は、自分の力を使わなくても、安泰安全だということだ。それは一見結構なことだ。だがそれは「誰か」なしには救われないということであり、自分で自分を救う力がないと認めることであり、要するに自分が「誰か」の奴隷だということだ。だから自分が「放置されている」「見すてられている」ということは、いいことなのだ。それは自分で自分を救う以外にないということ、またその道が残されていることを意味しているのである。

ところで、上の論調もある種の人々には気に入らないだろう。「私たちは神なしには生きられない、神こそが唯一の救いなのだ」という熱烈な信仰者は、上のアランの表現を「傲慢だ」とみなすにちがいない。しかし「神なしに生きられない」と考える人も、その考えをほかならぬ本人が、みずからに対して強く支えているのでなければ意味を持たないだろう。どんな宗教の信仰者も、その信仰を自らの自由意志にもとづいて保証し、堅持しているのである。(イラスト:自由に祈る人と神に祈る人)

 
 

5-12.競技者から聖者へ
512外的な掟は内的な掟に席をゆずらねばならない。かくのごときが、最愛の子の未来である。・・聖者は人間をその辱められた完全性において観想する。彼は神と人間を、ただ一つの像の中で結び合わす。人間と神とは自由人の中で緊密に一体なのだと、彼は考える」。ここでアランは、イエスの受難の物語を精神の自由の問題として考え直している。福音書の中のイエスは逃亡することもできたし、生きるための弁明をすることもできた。この点はプラトンの中のソクラテスのケースと同じである。しかし彼らはそうしなかった。なるほど外的な掟は彼らをあっけなく殺した。しかしついにその志を変えることはできなかった。すなわち、「外的な掟は内的な掟に席をゆずった」のである。上の文中の「聖者」は、イエスのことを指している。「辱められた完全性」とは、重い十字架も、荊の冠も、刑吏の鞭も、イエスを肉体的に傷めつけ、辱めることはできたが、ますます彼の精神の自由を立証したにすぎないということである。神と人間を結ぶキーワード、それは「各人の志」であり、「精神の自由」、これをおいてほかにないとアランはいいたいのである。

キリスト教関係者からこんな話をよく聞く。「神は人間の罪を贖うために、最愛のひとり子イエスをこの世にお遣わしになった」。こうした説明にアランは大いに腹を立てる。彼はこの種の説明に、珍しくはげしい言葉で噛みつく。「(こうした説明は)代訴人流の策謀と奸智以外のものではなく、われわれの問題のうえにいかなる現実的な光明を投げかけてはくれない。こうしたかぎりでは、われわれはただの材料にすぎず、算盤玉にはじかれる群集に過ぎない」と。例のキリスト教徒ふうの説明では、私たち大多数の人間は「罪ある者」として十把ひとからげに処理されることになってしまう。「人間の罪」とか「人類」などというのは抽象的だ。大切なのは、日々、個々に問題を抱えて悩んでいる私たち一人ひとりだ。アランの考えでは、イエスの受難のケースが私たちにとって参考となり価値あるモデルとなるのは、私たちが外的な掟に対して、内的な掟をどう優先させるかを考えるときである。イエス一人が私たちの罪をかぶってくれて、それで万事問題解決とはならない。それはまったくばかげた話だ。

ここでアランは神人同形論という観点を借りて、旧約聖書の神とジュピターを再考する。旧約の神エホヴァについて彼はいう。「(エホヴァは)すこしも人間ではない。エホヴァのあの理解しがたさは、人間のそれではなくて、むしろ森や雲の中に身を隠すあの描きえないものの、それである」。これに対して「ジュピターは一個の人間ではあるが、蛇や牝牛や狼や猿や像との関係によってでなければ、いまだ神となるには至らない」という。お分かりのように、この説明の中には二つの宗教「自然宗教(エホヴァ)」と「政治宗教(ジュピター)」とのちがいが示されている。これに対してキリスト教については、「荊棘の冠をかむった人間の、精神的なモデルをみとめ、これを記念しえたことは、些細なことではない」とコメントされている。これでお分かりのように、アランは「自然宗教」と「政治宗教」という二つの宗教が克服され、この二つが弁証的に止揚されることによって、キリスト教において宗教が真に「人間」の姿を取り、それゆえ「人間精神」の域に達した、といおうとしているのである。

かくのごときが精神の第二の契機であり、その二重の運動は、よくわれわれを競技者から聖者へと高めるとともに、また純粋の神霊(エスプリ)から友愛の精神へとわれわれを連れ戻す」。第一の契機とは、「自然宗教」から「政治宗教」への脱却である。そして第二の契機とは「政治宗教」から「精神の宗教」への脱却である。上の文で「競技者」とあるのは、古代ギリシャにおいて讃美された人間の姿である。それは鍛錬と克己による人間の力と美である。この価値観は、精神の宗教においては「聖者」のそれへと高められることになる。すなわち外的掟がどんなに強力で打ち勝ちがたいものであろうとも、自己の内的掟を優先するという価値観であり、内的自由を決して手放さないという価値観である。また上の文で「純粋の神霊(エスプリ)」とあるのは、旧約の、エホヴァの神意のことである。エホヴァの神意は「十戒」に顕著に見られるように原則的であり、純粋で容赦を知らぬものである。これに対してイエスの説くところは「弱者に対する愛」であり、これは旧約には見られない思想だった。上のような思考の経路をたどってアランはいうのだ。「まず詩(ポエジー)と人間的身ぶりとであるこの弁証法が、さらには反省の糧として、第三の項、精神をわれわれに投げ与えてくれたことに、讃嘆しなければならぬ」。これがアラン流の「三位一体」論である。

さて、アランの「精神の宗教」の精髄は、きびしい「聖者」のイメージを通して語られる。「かずある昔の宗教に比べていえば、聖者とは、人の信じるところのいかなるものによっても捉えられるままにならず、富と望みを斥け、パンの神とシーザーをののしり、家庭や名誉や権力から離れ、さらには、すでに傲慢を裁いてわが身の救いさえ懐疑するのであってみれば、自らの内なる富からさえ離れたところの、偉大な精神なのだから」。ここでアランは一日、幼児イエスを担って川を渡り、その後悟るところあって、きびしい修行僧としての生涯を送ったクリストフォロス――これは「神々」第4部のタイトルにもなっているのだが――をイメージしているものと思われる。またアランは「聖者」のイメージを次のようにも表現している。「貧しく屋根裏部屋に住み、わが身のふさわざることを思いつつ、なにものもつくらず、なにものも約束せぬ精神の一火花に身をささげる。しかしこの火花を救うという義務に関しては、いかなる期待もそこにあることなく、しかもこれらの懐疑家たちはそれにいかなる懐疑も決して持たない」。

ここに描かれている人物像をひとことでいえば、何者にも束縛されず、自分の既成概念にさえ束縛されぬ「自由人」だと私は思う。彼はすでに世俗の欲望と絶縁している。既存の価値観を疑い、否定している。彼にあるのはただ自分の意思、すなわち内的掟だけだ。これは少しも強制されたものではない。外から与えられた戒律など問題ではない。彼が恐れているのは、自分が一信仰者としてふさわしくないのではないか、ということだけだ。彼には自分がどうしても神に近づいているとは思えない。もちろん自分が救われるということについても、いささかの望みや期待をも持っていない。・・このような人物が果たして歴史上いたのかどうか、あるいはいるのかどうか、私は知らない。だが、このイメージは人が「精神の自由」を極限まで追求した場合、どのような人物像が出来上がるのかという、ひとつの典型を示している。これが「競技者から聖者へ」、その宗教思想の発展経過である。(イラスト:外からのものを捨て、内なる自由を得た聖クリストフォロス)

 
 

5-13.自由な法廷
513 「聖者なんて、物語の中にしか出てこない」とか、「これほど自己にきびしい人物などありえない」という人もいるだろう。それにまた「これは一つのモデルであり、アランの設定する聖者の存在そのものが一つの寓話に過ぎないのだ」という人もいるだろう。みな当たっていると私は思う。だが、自分の信じるもの以外をしりぞけ、誰の意のままにもなるまいとする傾向、これは私たちの誰もが持っている共通の性質ではあるまいか。それに自分のやったこと、自分の仕事の安易な結果に満足せず、「もっといい仕事ができるはずだ」と思ったことのない人がいるだろうか。あるいは自分自身を省みて、自分が期待されている大切な役柄にふさわしくないのではないかと、不安になったことのない人もいないはずだ。要するに自分自身のあり方に、四六時中満足しているような人、何もかもあるがままの状態で自分自身のあり方にいささかの疑問も持たない人、そんな人は一人もいないのではないか?

ということは、私たちにはみな「精神」があり、その精神はつねに独立不羈の精神であり、人に押されたり、縛られたり、強制されたりすることを嫌っている。しかもその精神がたえず自分自身を見張り、自分のあり方をみつめ、自分のありようを点検し採点しているということだ。その精神は自分が誰かの役に立ち、誰かに褒められたり、喜ばれたということで多少は満足する。だが、その満足感に長くひたっていることはできない。というのも精神は自分自身に向かって「おまえは、そればかりのことで、満足しているのか?」とか、「おまえは、人におだてられて、ちょっとばかりいい気になっているのではないか」などといいもするからだ。だから、万人が持っているこの「精神」は、いささか厄介なお荷物なのだ。そしてアランによれば、この精神の動きを、宗教的な活動に関して徹底しておしすすめているのが「聖人」だということになる。

さて、いま私たちは神々の第4部第8章「告解」を読んでいる。アランはここで「自白、裁判、刑罰」について考察しようとしている。「自然宗教」の時代、人々の行動を規制していたものはいわゆるタブーを含む「伝統と習慣」、そして仲間内の「掟」であったろうと私は想像する。たとえば、ある男が誰にも気づかれずにある木の下で眠った。彼が起きて目を覚まし、「この木の下で寝ることはタブーだ」ということに気づいたとする。さあ、大変だ。彼は自分の犯した過ちを仲間に告白することもできるし、しなくてもいい。私が彼だったら、仲間には何も言わないだろう。では、このとき彼を罰するのは一体誰だろう。

アランはこのような自然宗教の段階におけるケースについていう。「わたしはわが身が受ける罰課によって、わたしの過誤を知るというあんばいである。こんなふうにしていいうべくんば、わたしは啓発されてゆくことになる」。私がこの件を忘れてしまい、何事もなかったとすれば、私はたいした罪を犯さなかったことになる。けれど、その後、私や私の家族が病気になったとき、私はそれを犯したタブーのせいだと思うかもしれない。あるいはその件でくよくよ悩んでいるうちに、自分が病気になったり、トラブルに巻き込まれてしまい、「やっぱり、あの祟りだ」と思うかもしれない。いずれにしても、「罪と罰」の関係は、かならずしも公の問題ではないのだ。

これに対して、「政治宗教」の段階における罪と罰の関係はつねに公のものである。「証拠と自白」、これがそろえば、司法が法律にのっとってけりをつけてくれる。ここでは政治と宗教が同体だからである。もっとも「自白」が問題だ。そこでこの段階では、「自白の強制」、ひどい場合には「拷問による自白の強制」ということすら起こる。

ではさらに進んで「精神の宗教」の段階はどうか。アランはいう。「他の概念、すなわち自由な裁判の、自己による自己の裁判の観念は、救われるに値するものであった。それは精神の宗教の中で救われた」。ここでは「自白」という概念に代わって「告解」あるいは「懺悔」という概念がやってくる。アランのいう「自由な裁判」、自由な法廷においては、自白は強要されることはなく、ただ自分が自分の良心に照らして判断しさえすればいいのである。ここでは私たち自身が被告人であり、裁判官である。そしてお分かりのように、この自分という裁判官はかならずしも寛容とはいえない。私たちはときおり、「内心忸怩たるものがある」などという。つまり対外的にはどうであれ、内面の裁判官は「有罪」を告げているのである。

話は変わるが、弁護人が犯罪者の刑を軽くしようとして、ありとあらゆる手段を用いるということがある。最近でも「屍姦」を犯した少年の刑を軽くしようとして、「それは、復活の儀式だった」という説明を行った例があった。実際そうなのかも知れないから、きめつけるのはよそう。けれども私には牽強付会と聞こえた。そこで私はこの少年のためにではなく、彼の弁護士のために自由な裁判の法廷を開きたいと思う。なるほど「復活の儀式」とはいいアイデアかもしれない。しかし、そうまでして弁護の実績を上げようとすることははたして弁護士自身の良心に照らして恥じるところがないのかどうか。彼が「恥じるところはない」と言おうが「恥じる」と言おうが、誰にも咎められることはない。むろん刑罰など問題にならない。だからこの法廷では、何も我を張る必要がないのである。他人の前で懺悔することは、他人の救いのためにのみ必要なことであって、大切なことは、まず各人全員があらゆる瞬間に各人のうちで、この「自由の法廷」の被告人であり、同時に裁判官であるということなのだ。( イラスト:けっして立ち去ってくれない裁判官)

 
 

5-14.「救われる」ということ
514 もうひとつ自由の法廷の例を考えてみよう。ここに、すこしもその気はないのに、職場の女性に「セクハラだ」と咎められた男性がいるとする。本人にはその意図がなかったし、うっかりした言葉づかいの問題だったので、大事には至らなかった。けれど本人は内心の自由な法廷で自分に有罪の判決を下すとする。つまり「自分は軽率だった」「誤解を与えた自分が悪い」。このようなとき、人は往々にして自分自身に必要以上に苛酷となってしまう可能性がある。私も、誰に何もいわれないのに昔の過失を思い出して、今でも大いに恥じ入り、自分を責めることがある。これについてアランは「傲慢な、というのはまったく裸形の力たる禍をなす力は、怒りという実質によって養われ、しかもこの怒りたるや偉大な自然力にも似るものなのだから」といっている。つまり、この法廷の裁判官は、怒りを含んで自分を断罪し続けるのであり、自分自身の罪を過敏に、過度に、執拗にあばき立てるのである。

まことになまなかのものでない人間嫌いのこうした状況は、それがつねに下降してゆくものであるという点において著しい。というのも、力への礼拝は、苛酷な判決を身に受けることによって、いよいよ闘いによって力を試練するというふうにつねに動くものなのだから」。かりに、こうした内的葛藤の結果として、上のように、たまたま小さなセクハラを咎められた男性が「女性不信」「仲間不信」「自分不信」に陥ってしまったらどうだろうか? その場合、彼の「良心の法廷」は、彼にとってどれほど有益であったのだろうか? アランは上のような内的裁判官の「力」そして、自分の内なる怒りと決意、人間嫌いへと下降して行くこの動きを、これまた「傲慢」であり、要するに「力への礼拝」であると警告しているのである。なるほど、私たちは用心深くある必要がある。けれども他人に対して過度に過敏であったり、自分自身を過度に断罪することは、たとえそれが良心から発したものであっても自分自身の救いとはならない。

そこでアランはいう。「自らの転落を感じる良心は、自らを解放し、信仰と希望とによって自らをふたたび飛躍せしめてくれるような、ひとりの審判者を必要とする」。「良心」とは何だろう。それは自らを考える精神だ。自分自身を他との関係において公平に判断、自分自身の欠点をチェックする精神だ。これこそ、私たちがひとたび「神」とも定義したあの精神だ。ところがこの善玉であるはずの「良心」が、自分をノイローゼに追い込み、絶望させ、ついには破滅させる「悪玉」に変わるということを知らなければならない。つまり自責の念はそれが過度である場合には、人を高めるのではなく、下落させ、自信を失わせてしまうのである。ここに救いとしての「告解」、告解の対象としての神、何でも聞いてくれ、慰め、自信を持たせてくれる友人としての神の存在が大きくクローズアップされる。というのも、救いがなければ宗教の意味はなく、神の意味もまたないからだ。良心を持つ魂は、良心という名のもとで自分自身に対して暴力をふるってはならないのだ。かくして精神の次の段階の弁証法としての、「慰め、救う神」が現われる。「赦免こそ告解の目的なのである。これなくしては、人間はそのもつところの美点によって、破滅してしまうであろう」。

最近は「カウンセリング」が大流行だ。そしてこの「カウンセリング」の本質をよくつきつめてみれば、かつての「聴聞僧」がやっていたこと、あれなのである。彼らは「神」に代わって話を聞く。論議し、断罪するのは彼らのつとめではない。人は、胸のもやもやをただ話すだけでもある程度は救われる。「今昔物語」のあの天竺の僧たちも、救いえぬほどの大罪を犯した人に向かってただ、「懺悔しなされ、懺悔しなされ」という。その意味するところは「カタルシス効果を得なさい」、あるいは「カウンセリング効果を得なさい」ということなのだ。

いくぶん軽度の罪人である私たちにとって、当面の、安直なカウンセラーは家族であり友人だ。だが、家族や友人は同時に苛酷な裁き手でもあり、同時に当事者に早代わりもする。また当人としては、あまりにも親しいがゆえに話せることと話せないことがある。「それゆえ、未知の、秘密の、さらにはやがてもの忘れしてくれるような審判者が、ときとしていっそういいことがある」ということになる。だが、最良のカウンセラーとは「神」だ。だが、この神を設定するには、ある種の「想像力」を必要とする。そこでアランは「それがいかなる過誤であれ、この過誤を一種の神にまで仕立てあげてしまうようなある精神錯乱を、よく判別しないような聴聞僧は、あまりいない」といっているのである。要するに慰められ、励まされ、救われること・・これを得させてくれるような何ものかが、ありさえすればいいのだ。

ところで悩める子羊が、自分で直接「神」に相談し、そこから慰めと救いを得ているようなケースなら何の問題もない。というのもこの場合、その人には自力で問題を解決する力があったわけだから。相談相手が生身の人間となると、今度はカウンセラー側に問題が移動する。というのも課題によってはカウンセラーには、相手に対する大きな「責任」と「力」が発生してしまうからだ。アランはジャンセニストの聴聞僧の言葉を借りながら、「相手の説教がうますぎることになにか傲慢な罪というものがあれば、これを知るのは諸君であり・・」といっている。また「濫用があることは、誰の目にも見やすいことである」ともいっている。アランがいいたいことは何か。それは、彼のいう真の精神の宗教的見地からすれば、どんな場合にも、だれでも、他人にも、たとえ自分に対しても「力」をふるってはならない、ということである。

たとえば「正義」を守ることはいいことだ。では「正義のためなら人を殺してもいい」ということになるだろうか? 「仲良くすること」はいいことだ。だがケンカを仲裁しようとしてコブシをふるって割って入ることはどうか? 「良心」が働いているということはいいことだ。だがノイローゼになるほど自分を責めるのはいいことなのか? あるいは「良心」の名において人に対して苛酷・冷淡であることはどうだろうか? そこでアランはいうのだ。「精神の宗教を誤解して、これを不純から救うどころか、反対にこれを凡俗の泥沼の中に投げかえすことは、人間たちに対する不正義であり、さらにいっそう不都合にも、自己に対する不正義である」。この点から考えれば、どの宗教も過去に大きな過ちを繰り返してきたし、現在も過ちを繰り返している。これは事実だ。だからといって、アランがいう意味での宗教のエッセンスを取り逃がすとしたら、私たちは「人間性」そのものを取り逃がしてしまう可能性がある。

宗教についての謬見は、宗教自身にとってよりも、その原理を凝視せずしてこれを批判する人たちにとって、いっそう危険なものである」。これはどういうことだろうか。それは宗教を否定する人々が、単に「教団」や「宗教家」と自称する人々のふるまいを見て、宗教のすべてを批判・否定し、宗教の中に隠されている大切な点を見なくなってしまうことだ。たしかに世間を騒がせるカルト集団や危険な原理主義集団、それにもっぱら利益追求をこととする教団、互いに勢力争いをしている教団などを見ていると、だれしも「これが宗教なのか」と思ってしまう。すでにお分かりのように、こうした現象には、あの「力の否定」という大切な点が脱落している。だからそれはもはや宗教の名に値しない。しかしながら、アランはそのような似非宗教家たちのふるまいに惑わされることなく、宗教の本質をもっとよく凝視し、その奥底にある「人間性重視」、すなわち「自由を自覚する精神」「批判せずに受け入れる精神」「自らの力をも否定する精神」を見るべきだという。さもないと今度は批判者が「否定し、批判する力」をやみくもに行使することになってしまう、というのである。(イラスト:正しい神は告解する人を救う)

 
 

5-15.「聖母像」が意味するもの
515 私たちはここまでアランに従って、精神の宗教における「力の否定」という概念にたどりついた。これははなはだ実践困難な概念だ。というのも、人は安心立命を求めるときどうしても「力」をも求めるのだし、自分の意見の正しさを主張するとき、ついつい声を張り上げることになるからだ。それに私が食べるとき、私は誰かから食を奪っているかもしれない。私たちにとって「生きること」が、つねに大なり小なり「力の行使」に直結しているのだ。かくして、私たちが到達した「力の否定」という貴重な概念は一瞬ごとに私たちの手をすり抜けていく。この問題は理屈を重ねてもどうにもならない。そこでアランは別の角度から宗教に光をあてようとする。

つねに自己自身から逃れてゆくこのもっとも高級な宗教を、ただ理論だけによってこれ以上解明しようという意図は、わたしにはすこしもない。むしろ反対に、詩は先立って進み、かつてつねにそうであったように、こんにちでもなおわれわれの思想を導くものであることを、他のいくつかの例によって示したいと思う」。アランはいま「理論」ではなく、「詩」を手引きとして宗教の問題を考えようとしている。ここで「詩」が意味するのは、芸術であり、美であり、要するに理論とは別の世界にある価値観のことだ。アランは「芸術論」の中で、「美は真に先立って進む」と書いている。だから上の文の「詩は先立って進み」とは、「美は理論に先行する価値」だ、という意味である。

アランがここで想定している「美」のモデルは、西洋美術史における、いわゆる「聖母」「聖母子」「聖家族」像である。幼子イエスを抱いた母マリアを描いた美しい絵はたくさん残されている。17世紀までの間に西洋の画家たちがもっとも多く描いたテーマは、おそらく「聖母子」像ではないだろうか。アランはここで彼独自の女性論、ならびに家族論を展開する。「女性はすこしも男性の奴隷ではなく、またここでは他のところでよりもいっそう明らかに、力づくで物事が決まるというわけにはいかない」。美の基準からすれば、家庭における女性が奴隷であるということはありえない。幼子を抱いたマリアが示しているもの、つまり、聖母のやさしさと美しさと平和は、そのあるがままのの姿で「力」の否定である。

しかしアランの考えによれば、この原理は「聖母マリア」だけに限定されていることではない。それは人間の母親すべてに与えられている特質である。「母の礼拝を発明したのは神学であったわけではない」とアランはいう。ご承知のように、福音書は「受胎告知」を語っているが、「聖母マリア」の概念を展開しているわけではない。福音書の中だけに「聖母マリア」の概念を見つけるには、相当なコジツケが必要だ。つまり、「聖母マリア」は、オリジナルなキリスト教にとってはどうしても必要概念ではなかったし、たとえそうであったとしても、別にキリスト教に特有の概念ではないということだ。むしろアランは「聖母の概念」「母の礼賛」は、人類の歴史とともに古く、自然なものだと考えているのである。それは世界のどこにでも見られる「地母神」信仰を想起すれば、すぐにわかることだ。

アランによれば、家庭における男性は「いつも人の望む以上にすこしく謹厳であり、心ここにあらざるごとき」相貌を示す。というのも、男性のまなざしは「つねに外部にむかい、遠方に向かう」からだ。男性はいつも食料調達に――つまり会社と仕事に――向かい、自然や社会と戦ったり折れ合ったりしなければならない。「一方、母の思想はまったく屈曲に富む。それが、自らがつくり、つねに自らの抱くこの汚れ知らぬ存在の上に止まるとき、なお屈曲に富む」。つまり、女性の関心はもっぱら家庭内部の調整、育児に向かう。このため彼女たちは外部のことに、ほとんど無関心になることもある。

アランはこの点を「女性の面貌に、一種世界への不参のようなものによって、産出し保存するしあわせな機能を理解する」と表現している。そして「幼児はこの二つの言語を聞き、あるがままの事物とあるべきままの人間とへの、二重の礼拝の中で成長する」。ここで「あるがままの事実」とは、男性が引き受け対処している外的事実のことであり、「あるべきままの人間」とは、女性がもっぱら配慮している人間的、生理的世界のことである。この人間的世界においては、外的力も法律も契約も一切関係ない。わが子を愛し、守ることだけが優先される。この意味で、すべての母は聖母マリアなのだ。

こういうと、「それではあまりにも女性を美化しすぎているのではないか」とか、「女性のほうにこそ複雑で悪魔的な、要するに危険な『力』の要素があるのではないか」などと反論する人がいるに違いない。それにまた「男女の愛欲への執着という普遍的な力を考えれば、理想の女性像はむしろ偽善的なのではないか」という反論も聞かれよう。これに対してアランは何といっているか。「ただの田野や森の神々だけによって、牛や猿やサチュロスによって、愛が思考されるなどと、私は思わないわたしのいうのは、他者のうちなる愛のことではない。わが身が感じる愛、愛された愛のことである。」。アランの女性論は「愛」という概念、「母としての愛」をベースにしている。彼においては、これが女性において最上位のものであり、愛欲の愛は母性に従属するものに過ぎない。

ちかごろ、母親による育児放棄とか、母親による子供の虐待の話題を聞くことが多い。また最近のテレビでは、母親が夫と遊びに出かけ、その留守中に火事が起こって子供が焼死したという事件が報じられていた。こんな事例をたくさん示して、「アランさん、あなたの女性についての考えは変わりませんか?」「これでも、女性はみな聖母マリアですか?」と聞いてみたらどうだろうか。アランはおそらく首をふって次のように答えるだろう。「困ったことだが、たとえば自分の子どもを見捨てて男と出かける女性は、たしかに、愛の対象、母性の方向を取り違えているのだ」。つまり、どんな場合にも女性は「愛」によって行動しているのだと彼は考えるのである。男と出かけた「ふしだらな」女性も、愛したかったのであり、彼女は優先順序を間違えてしまったのである。

このゆえにこそファウストは、自然の奥深く埋められた、『母たち』の名を耳にするだけで、戦慄する。というのも、『母たち』をそうしたところに見出すのは、冒涜のようなものだから」。「ファウスト」の中で、いまやメフィストと同志になったファウストはメフィストに「魔法を使え」と要求するのだが、メフィストは「そのためには母たちの国に行かなければならない」と答える。するとファウストは答える。「(戦慄しつつ)母の国。その言葉をきくたびに、何かはっとさせられる。何としても耳にしたくない言葉だ」。要するに、「母」という言葉の聖性がいまや堕落したファウストの良心を根源的に揺さぶるのである。

ギリシャ悲劇のオイデプスはそれと知らずに母親と結婚する。オイデプスには何ら落ち度はない。しかし彼はその罪を咎められる。いちばん彼を責めるのは彼自身であり、彼は自分をはげしく罰せずにはおれない。つまり、「たとえそのことに責任がなかろうが、母と交わることは許されない」という倫理観がすでに古代ギリシャにおいてあったのであり、この倫理観は今日でもすこしも変わっていない。そしてこの観念は各人にとっての「母の聖性」という理念を立証せずにはおかないのである。

ともかくも生活たるにふさう生活というものは、ひとびとが何がしかの程度の不正や権力や快楽を拒否するそのたびごとに、はや些少の一瞬からなる、かずかずの僧院を前提とするものだと思う」。アランは本書の中で、翻訳で見るかぎり「道徳」とか「倫理」という言葉を一切使っていない。なぜだろうかと考えてみて、それがあまりにも月並みな、別種の概念に導くことを恐れているからだという気がする。たとえば、わが国で道徳といえば、それは「儒教的な教え」というニュアンスをもち、あちらでは「キリスト教の教え」ということになってしまうだろう。だがアランが考える道徳は、形のある宗教以前の、人間性そのものに根ざしている。それはキリスト教を借りなくても十分に語りうるものである。ただし、その倫理観を導く思想が誰にでも安易に手に入るというものではない。「そうかといって人は安価に思考しうるというものではない」とアランがいう通りだ。

だが、アランの倫理にはすこしもムリがない。彼は人に「罪を避け、禁欲と節制を目指して僧院に入りなさい」といっているのではない。反対だ。「私はなにも僧院おくりをしようというつもりはない。それは人生からの逃避である」。要するに「一個の人間として、人を愛し、自らに恥じることのない生活」をしようと思うなら、人はときに自分だけの僧院に入り、そこで誘惑に抵抗して、自分だけの「格律」あるいは「戒律」を守ることが必要になるということだ。もちろん「万全で首尾一貫」というわけに行かないことはわかっている。だが「母の愛」「母の聖性」は、おそらくすべての倫理の基礎なのだ。すべての母は聖母なのであり、聖母でなければならない。だから、私の考えでは「母の聖性」の前で、自分の倫理観に従って自分を裁いたオイデプスは立派だったのである。(イラスト:聖母子像)

 
 

5-16.クリスマスとは何か
516 まだクリスマスまでには間があるが、私たちはいま「神々」の最終章、「降誕祭」にたどりついたところだ。「すべては繰り返しはじまる。そして正義は昨日とおなじく今日も弱い。おなじほど弱く、またおなじほど強い」。アランはこの章を上のように書き出している。これはほとんど詩であるが、ここまで辛抱強く読み続けていただいた読者には、じっさいアランにあっては思想が「詩」であることをご納得いただけたと思う。私たちにとって必要なのは、心の耳で彼の「詩」を聴くことである。

ところで、上の文が意味するものは何か? それは、たとえ父親が清廉潔白の人であったからといって子供が清廉潔白であるとは限らないということだ。また、きのう私が清廉潔白であったからといって、今日もまた清廉潔白でいられるかどうかわからないということだ。日々試練がやってくるのであり、そこで各人の僧院がどのように機能するか、それは各人のそのときどきの問題になる。もちろん、きのう失敗したからといって今日も失敗するとは限らない。それは私の今日のあり方次第だ。だから「おなじほど弱く、おなじほど強い」ということになる。

「歴史は野蛮から文明へ、劣ったものからすぐれたものに向かって進んでいる。未来には、万人にとって理想に近い世界が実現するだろう」と考える人は、「世界は確実に破滅に向かっている」という人と同じように間違っていると私は思う。というのも、進歩は自動的におこなわれるものではないし、かりにいっとき理想に近い社会が実現されたとしても、次の世代にどうなるかはわからないからだ。その逆もまた同じ。すべては繰り返しなのだ。ただこれだけはいえる。いつの世でも「力」が威をふるい、正義が片隅に追いやられる可能性があるということ。反面、その「力の論理」を裁く倫理観がどこかに生きつづけるであろうこと、人間精神が生き続けるかぎり過度な力が告発され、僭主がうとまれるであろうこと、そして各人における日々の努力が何がし有効であること、これも信じていいことなのだ。

降誕祭は何よりもまず春の祭りである」とアランはいい、さらに「クリスマス頌歌は人間という小さな小鳥のさえずりの歌である」ともいっている。これはどういうことだろうか。いうまでもなく、北半球ではクリスマスは「冬」おこなわれる祭りである。だがアランは、これは「春の祭り」であるという。その理由を彼はこう説明する。「復活祭は自然の祭りである。正月元日は、はや寒さに挑む政治的な祭りである。降誕祭はいっそう注意深く、さらにはいっそう大胆で、12月21日界隈に太陽のためらいを置いてこれを冬至とする、あの天文学にいっそう近い」。アランの考えによれば、春におこなわれる「復活祭」の祭りはキリスト教に固有の祭りではなく、「自然宗教」時代の伝統を継承したもの、言ってみればなにぶん異教的な祭りである。それは、ご存知のように誰の眼にも「春がやってきた」とわかる時期、つまり春分の直後におこなわれる。

これに対して私たちが使っているグレゴリウス暦の原型であるユリウス暦は、その名が示すように、ジュリアス・シーザーによって政治的に定められた暦である。シーザーに進言したエジプトの天文学者たちはすでに正確な「冬至」を知っていた。一年を冬至の日、またはその翌日からスタートするのが合理的だったのだ。しかしシーザーは当時用いられていた陰暦との調整をはかり、数日後にやってくる新月の日を待った。今から考えれば、つまらぬことをしたものだ。けれども、この決定は月の盈虧を重要な目安にしていた当時の人々の心理を斟酌したやり方だったのだ。いかにも「政治宗教」らしい決定ではないか。だからアランは「正月元日は・・政治的な祭りである」といっているのである。ところで、わが国の「新年度」は4月1日から始まる。咲き誇るさくらの花は、小学一年生の新しいランドセルによく似合う。これまたわが国の「自然宗教」時代の正月元旦の、つまり春の祭りの名残でなくて何であろう。

ところで、クリスマスの日づけは「冬至」にほぼ合致している。これは偶然ではないとアランは考える。これは、クリスマスが天文学的な一年の始まり、すなわち厳密な「春の始まり」に一致しているということであり、クリスマスが知性=精神が到達した1月1日、すなわち「新春」を意味する、ということだ。「花たちは陽あたりで花ひらく。だが人間たちは、かずかずの日と夜をかぞえきた精細な記憶によって、花たちのように花ひらく」「いちばん長い自然の夜のなかでの、精神の夜明けである」。ここで象徴されているのは、イエスの誕生=精神の誕生という図式である。アランは、人々があの義人の誕生を祝っているとき、人々は、じつはもっとも合理的に計算された1月1日、まだ目には見えないが、ただ精神だけが認めうる「新春」を祝っている、といっているのである。この日は新しい一年についての人間と自然との契約更改の日である。「自然のおとずれを待たずして、人間は自然との盟約をあらたにする」。

クリスマスに近いこの時期、日曜学校では子供たちが「ページェント(聖劇)」を演じる。場所はベツレヘム、幼子を抱いたマリア、ヨセフ、そして背景には牛と驢馬、飼葉桶。そこに東方から三人の博士たちが、星をたよりに、進物をたずさえてやってくる。この有名な画面についてアランは「自然宗教」と「政治宗教」がともに止揚されて、「精神の宗教」が誕生する瞬間を描き出していると解釈する。背景の牛と驢馬、これは明らかに「自然宗教」を示している。「牛と驢馬とは、ともにものいわぬ従属的な力である」。しかしこれは人々の生活を根底で支える下部構造を担っている。そこへ「博士たる王たち、軍隊と富との王たちがやって来る。彼らはやってきて、この大工の幼児を礼拝する」。これは「政治宗教」が、「人間精神」の前にぬかずくということである。「されば、いまひとつの宗教がこの祭壇、馬槽から立ち上がる」。かくしてキリスト誕生の夜を描くあのページェントは、3つの宗教の位置関係、弁証法的関係をみごとに描き出している、とアランは考えるのである。(イラスト:自然の神と政治の神が精神の神の誕生にぬかずく)

 
 

5-17.幼児である「精神」
517 ここでアランは、私たちにいまいちど幼児イエスを抱く聖母、すなわち幼児を抱く母一般、に注目するよう促す。「母のクリスマス頌歌はいっそう確信して、幼児が語り知り認識するにはるかに先立って、幼児の夜の中で歌い、またいつになっても歌うことであろう」。生まれたばかりのわが子を抱く母親は、その子が果たしてどのように成長するかを知らない。知らないけれども、その子の能力と将来に全幅の信頼を置き、心の中で歌っているという。では、母は何と歌っているのか。アランによれば、その歌の内容は次のようなものである。「この子は精神である。この子は語り、知り、そして認識する」。どの母親もが持つにちがいないわが子への普遍的な感情は――それはかならずしも自覚的に感じられるとは限らないだろうが――、アランにあっては上のように解釈される。私は母親になったことがないからわからないが、アランに従って、私は、すべて母親にとって、子供を生んだその日がその子のクリスマスであるということを理解できる。そして、たとえ彼女たちがそれと意識しなくても、わが子が当然「すこやかな精神」として育つことを信じていることも。

関係者みんなに祝福されるべき子供の誕生。しかしおとぎ話には、子供の誕生時に魔法使いの妖婆がやってきて、魔法や呪いをかけるという構図がある。これについてアランは一言する。「というのも、お伽噺が語るように、まえもって精神の花々をしなびさせてしまうためには、揺籃のかたわらに年老いた妖婆がいるだけでこと足りるのだから。『おまえは愚か者になるだろう。おまえは嫉妬家になるだろう。おまえは盗人になるだろう』。こうした予言は、幼児の精神がそれに服して自らを断罪してしまう確信によって、実証されてしまう」。私はこの言葉に「教育者アラン」の姿を見る。つまり、悪い予断を持って教育すれば子供は健全に育たないということだ。この意味で、わが子を虐待をする親は人類に対して大きな罪を犯している。というのも、子供を必要以上に苛酷に扱う親は、子供をはやくも犯罪者、あるいは奴隷として取り扱っているからだ。反対に子供に節度なく甘い親は、子供を手に負えぬ怪物または暴君として扱っていることになる。子供を立派に育てるのは、何よりも愛情に裏づけられた期待、しかも「精神」に対する期待であることを、アランは教育現場を通して実感してきているのである。

慈愛はその対象の完全さを待たぬのであってみれば、これは愛以上のものである」。母が子に抱く愛情、それは外見上の「かわいらしさ」によるのかもしれない。それにまた「私のもの」という一体感にもとづくものかもしれない。しかしよく観察すれば「かわいいから愛する」「私のものだから愛する」など、要するに「***だから愛する」という、条件や理由つきの愛情ではないことがわかるはずだとアランは考える。ある条件を満たしているから愛するというなら、その条件がなくなると同時に愛情も消えることになる。「いかに優れた人たちも、彼らが愛し合う理由を見出すことによって、愛し合うことを怠ってしまう」とアランがいう通りだ。ここではアランは「愛」と「慈愛」を区別している。「慈愛」は理由や条件なしに愛することを決意するのである。よく見れば、生まれたての子は垂れ流すだけの、小さな肉の塊にすぎない。この小さな肉塊が一個の人格として完成するのは、はるかに先のことだ。慈愛は対象の完成を待たずにこれを愛する。「幼児を前にしては、懐疑の余地はない。精神からなにひとつ期待することなしに精神を愛するのでなければならない」。

こうして私たちは、アランの明確な結論を読み取ることになる。「さらに幼児を凝視したまえ。このか弱きものこそ神である。・・かくのごときが精神であり、これに比べては、真理もなお、一個の偶像にほかならない」。これまでの常識によれば、神は全知全能であり、人間たちの上に君臨し、人間にさまざまな利益を与え、人間を裁くものであった。ところがアランの「神」は一個の幼児のすがたをしている。このものはまったく弱々しく、放っておけばすぐに死んでしまうようなものである。この神は各人の中にあって、各人による無限のケアを必要とする。生理的にケアしなければならないだけでなく、教育しなければならず、監督しなければならず、さらには勇気づけてやらねばならぬ。この頼りない神は何よりも「空腹」に弱く、さらには「情念」という名の悪魔に対して手も足も出ないことが多いのだ。

だが、この神がひとたび正しく働くとき、外見上の過ちは修正され、偽善は見破られ、力は否定され、弱者には同情が寄せられる。「正解」「真理」が可能となるのも、この神が健全に働いてこそだ。「ヌース(知性)は最後にやってきた」とアナクサゴラスはいった。その通りだ。「自然宗教」「政治宗教」という大きな回り道を、しかし必然的な回り道をした上で、私たちはようやく「精神」を認め、崇める境位に達した。だが気づいてみれば、私たちの神=精神は、もっとも弱々しく無防備な姿をしたものなのであった。

精神たる神にはまだ条件がついている。「幼児は報いるということをしない。幼児は求め、なお求める。精神が報いぬということ、何人もよく二人の主人に仕えることはできぬということ、これは精神の厳しい規則である」。かりにここに二つのきびしく対立する意見があるとする。一つは多少いかがわしいが、それを採用すれば自分が有利になる意見、もうひとつは自分が不利になるが、明らかにまっとうな意見。私はなんとかして中間を取ろうと努力する。けれども、両立をはかることは困難だ。この場合、精神はなぜか後者を、自分に不利益である結論を選ぶのである。これが「精神は報いぬ」ということの、じつに興ざめた意味である。人は良心的であるからといって、金持ちになるわけでもないし、孤独から救われるわけでもない。愛されるわけでもない。だとすれば、私たちは自分にトクになることだけを考え、たとえ恩師を裏切ってでも銀貨30枚を手にしたほうがいいのではないだろうか。じじつ、私たちはけっこうこれに近いことをやっている。とはいっても、私たちが自分の精神と絶縁できているわけではないのだ。私たちはじつに厄介な「良心」というお荷物を背負って生きているのである。(イラスト:ケアを必要とする神)

 
 

5-18.真の真
518それにしても、経験も決して否認し得ない真の真があるということを、いかにして充分にいうべきか。この母は、証をもつこといよいよ少なくして、いよいよ彼女は愛し、助け、仕えることに専念するだろう」。カール・ポパーは「経験的に証明されているから、明日もまた太陽が昇るとは言えない」といった。要するに、経験にもとづいて「これこれの法則が成り立つ」という帰納法的証明の正当性を否定した。つまり過去の経験にもとづいて真理としての法則を導くことはできないということだ。「その通り、母の愛がその例だ」とアランならいうだろう。つまり彼女がわが子を愛するのは、なんらかの証拠が、つまり経験による裏づけ、「母性愛という一般法則」があるからではない。子供は何ら愛のための証ではない。それどころか、私の見るところ、ほとんどの子は「忘恩の徒」となるのだ。にもかかわらず彼女は愛することをやめない。そして「母が子を愛する」という命題は、これを反証するようなたくさんの実例――棄児や、ネグレクトや、虐待や、子殺しなど――をどんなに持ち出してきても、真であり続けるとアランはいう。「経験も決して否認し得ない」とは、ここで「どんなに具体的な反証を持ちだしてきてもくつがえすことのできない真の命題」という意味である。

彼女が胸に抱くところのこの人間の真実、これあるいは、世界のなかに存在しうるようななにものでもないかもしれない。しかしながら、彼女は依然として正しく、幼児のすべてが彼女を非とするようなときでも、彼女はなお正しいであろう」。トロイの将軍ヘクトールが討たれたあと、その妻アンドロマケはひしと抱いたわが子をむしりとられ、子供は城壁の上から投げ落とされた。ギリシャ軍にしてみれば、その子は殺さねばならなかった。敵の将軍の息子を生かしておいてはまずいからだ。ところで、私はいまでもこの世に多くのアンドロマケとその子がいると考える。その子たちは復讐を計画したりはしないだろう。だから、子供たちが一人二人減ろうが増えようが、世界の大勢に関係がない。その大勢に関係のない子を守ろうとする母親、「その母親はすべて正しい」とアランはいう。そしてこれこそ世界における「真」であると彼は宣言する。というのも、「幼児を守ろうとする母親」という真実、この真実を守れないようなすべての事柄はしょせん「偽」だからである。

「幼児のすべてが彼女を非とするようなときでも」とは、子供に対する母親の処置がつねに子供とって適切、最適であるとは限らないということだ。たとえば、無知な母親は、病気の子供を暖めなければならないとき、冷やしてしまうかもしれない。「それでも母の愛は正しい」とアランはいうのだ。つまり方向性の誤りは修正できるが、愛の駆動力がなければ、何も先に進まないからだ。結局は「人が生きる」ということがすべてであり、真なのだ。人間がいない世界に神がいたとして、それが何だというのか。げんに人間がこの世に生きなくて、神に何の意味があるのか。であるとすれば、人間の真実は、幼児とこれを守る母の姿に還元されるのではないのか。アランはこの点をいいたいのである。

いまや発育不全の幼児たちを看護して、予言者のようにかばかりの注意の閃きをも待ち受ける医師たちの、友愛のひとことをつけ加えよう。彼らは決して倦まない。彼らは正しい。されば、宿命に対して立ち向かう真の真がある」。病気の子供を救おうとして努力を続ける医師、看護師は正しいとアランはいう。それは彼らが「宿命との戦い」という人間の実相の体現者たちだからだ。ここでアランは、単に愛情そのものから進んで、さらに運命に立ち向かう人間の意志と行動を称揚している。その献身の意図が「精神」の別名であることは明かだ。「運命との戦い」「生きるための戦い」「生かすための戦い」、これらをすべて「不条理に対する不屈の抵抗」といいかえてもいい。たとえば、医師たちは「**の患者は絶対に助からない」「**の症状が出た患者はもはや助からない」という真実を知っている。だからといって彼らが看護と治療を投げ出すことはないだろう。彼らの努力は「事実」に対する抵抗である。医学的に幾度も証拠立てられ、証明されている「真」に対する抵抗である。であるとすれば、その抵抗そのものが「真」なのだ。医師たち、看護師たちの実践の場、それはむろん宗教の場ではない。しかし私たちはいま宗教の中心にいる。

アランは次のようにいう。「そして私はデカルトに従って示しうると思う。およそ真理にして、実証もされ有用である真理にして、実証されぬ真理、無用の真理、いかなる力ももたぬ真理の、娘でないようなものはないと」。これはいったいどういうことだろうか? それは私たちが日常用いている「真」、あるいは「法則」はみな、何の裏づけも、証拠もないような私たちの「信仰」から出発しているということだ。どんな信仰か。それは「私が考えている」という信仰だ。だが、デカルトは「私は考えている」という命題を、ぎりぎりの、不可疑の命題としたのではなかったか。そうではない。彼は「私は考えている」という命題を、私は「健全に思考しうる精神を持っている」という自分に対する確信、それ以上は証明できぬ一つの自己信頼、自恃の念の上に置いたのだ。これ、自らの精神に対する「信仰」でなくて何だろうか。そして、どんなに自らを卑しいものとして神の前にへりくだり、神を崇めている人でも、その神を認めている自分の精神の存在と健全性を無言のうちに優先しているのである。

自らの精神に対する信頼、これには何の裏づけもないのだから、それは「実証されぬ真理、無用の真理、いかなる力ももたぬ真理」ということになる。それはまさに「信仰」なのだ。だがこの信仰、すなわち=自恃の精神があればこそ、各人の前に世界と秩序が出現し、人間社会のあるべき姿が示され、道徳や、科学や、その他もろもろの「真」が開示されていく。たとえば「親子は愛しあい、家族は仲良く暮らす」「世界は平和に向かって進む」「人間は真理の探究を続ける」、これらは月並みなフレーズだが、いずれも有用にして重要な「真」だと私は思う。例外も反証もいくらでもあろうが、例外や反証はいずれも、上の命題の大切さを再確認するだけだろう。だが、これらの命題もみな各人の中にある「私は、知性でもあり良心でもあるような精神を持つ」という裏づけのない確信を出発点としているのである。(イラスト:われ思う。ゆえにわれ突き進む)

 
 

5-19.十字架の意味
519 私は若い頃から宗教に対してはつねに冷淡であったが、なぜか宗教家や信心深い人々と接点を持つ機会が多かった。海外旅行をしたとき、半月ばかり移動説教師と行動を共にしたこともある。私を教団に加盟させようとして、熱心に折伏してくれた人もある。ある真面目なクリスチャンには、私に「理屈をいっていないで、飛び込んでしまいなさい」といった。つまり、その人の考えでは「神を信じる」というということは、「理屈の世界」から「信仰の世界」あるいは「神のふところ」へ飛び込むことなのである。ところで、アランの「神々」を読み進んできてみると、私は彼らに勧められるまでもなく、すでに飛び込んでしまっていることが分る。つまり私は、「私には、知性でもあり良心でもあるような精神がある」という、まったく裏づけのない、しかし、ゆるぎない信仰をもっているのだ。この点では、私はあの信心深い人もどこも違わない。

こうした観念はやがて現われて来ることだろう。そして精神は力を、あらゆる種類の力を、わが身に禁じるすべを知ることであろう」。アランがいう「こうした観念」とは、「人間にとっては精神こそが崇めるべき神である」という観念のことだ。アランが「あらゆる力を、わが身に禁じる」といっている点に注意してほしい。それは「経済力、政治力、立場の力などを使って、人に圧力をかけようとしてはならない」ということであるが、私は上の「力」に「知識、精神力、人間関係力」などといった、「力」も加えなければならないと思う。というのも、人はいつでも知識や態度や人間関係を利用して他人をいじめたり、脅したりできるからだ。私たちが崇めようとする精神は、この点をきちんと監督していないと、それ自体がいつでも「悪しき武器」になってしまうのだ。「精神が神である」とは、かならずしも自分の精神をケアし、尊重する意味ではない。むしろ虐げられたもの、弱いもの、あるいはたとえ犯罪人の中にも、「崇めるべき精神がある」ということを認めることである。

さて、私たちはいまやアランの「神々」の最後のラインにたどりついた。この本の結びの言葉は次のようなものである。「ところで、磔の像はまさしくこのことをかくも雄弁に、かくも烈しく告げ知らす。してみれば、私がなんの注釈をつけ加えなくていい」。ここで、イエスの「磔の像」が意味するところは何だろうか。アランに従って考えれば答えは明快である。あの像が象徴しているのは「力と精神」の関係である。つまりむごたらしくも磔にされているのは「精神」であり、それを磔にしたもの、それは「力」である。精神がつねに無力であり、力の前で負け、折れなければならず、犠牲にならなければならないことの象徴である。すでに「幼児イエス」の像は、もっとも弱いもの、万人がケアしなければならない何ものかを意味していた。そしてそれは、幾度も幾度も「力」の前に屠られたのである。

つい最近、私は定年を待たずに退職したばかりのビジネスマンのグチを聞いた。彼は、自分ではたいへん正しいことをしたつもりだったのだが、おそらくやり方が機械的で、直線的だったために、周囲との人間関係をこじらせ、職場に居づらくなってしまったのである。つまりここにも、さえない中年の、屠られたイエスがいたわけだ。こうした例なら、それこそゴマンと列挙できるはずだ。学校でいじめられて自殺した生徒も、いじめた側として指弾され、放校にされた生徒も、ともに屠られたイエスである。思い返せば、私たち自身が幾度この「犠牲者」の立場に立ってきたことか、だが、その私たち自身が幾度、自分ではそれと意識することなく「力」をふるい、「加害者」となってきたことか。それにまた弱者とても、弱者としての立場を逆手にとって権利を声高に叫ぶならば、たちまち「力」を行使することになるのである。

宗教とはそもそも何だろうか? もしそれが「力」に負けて消えて行くこの弱い精神を確認することでないとしたら。そしてこの弱者に同情し、これをいたわろうとする心でないのだとしたら。また、自分の精神が力を得て凶暴になり、加害者となることをみずからに戒めるものでないとしたら。というのも、私たちがいまだに「腹の宗教」「胸の宗教」を持っている以上、がつがつと食いちらし、おのが情念に振り回される危険を避けることはできないのだから。であればこそ、「精神」という何ものでもないこの弱いものが、みずからを適切に監督し、いつも私の全身の指揮を取らねばならないのである。そして、かりに十字架像がひとりイエスという特定の義人の思い出に限定されるのでなく、アランがいうように、広く「精神と力の関係」を、激烈に象徴するものであるなら、アランの「神々」の話はかならずしもヨーロッパやキリスト教だけに限定されたものではないことになる。

さて、私はこのエッセイの冒頭で「『私たちは生かされている』という言葉は嫌いだ」と述べた。私は文中でも、この言い回しの問題点を幾度か指摘した。けれども「神々」を読み終えたいま、私はアランにならって、自分にこう言い聞かせるべきだと思う。「私たちは生かされている」、至極もっともだ。何も目くじらを立てて反対する必要はない。この言葉は「詩」なのだ。この感慨は「腹の宗教」の、アニミズム的満足感を表明している。それにまた誰に対してであれ、たとえ無人称のものに対してであれ、感謝の念を持つことはいいことだ。自分を超える力の前でへりくだる精神は、好ましい謙虚さのあらわれだ。そして何よりも私たちは「惻隠の情」こそが、宗教の本質であることを見てきたのだ。「私たちは生かされている」という表現は、これらのニュアンスを伝える「詩」なのだ、と。

ただ、私たちはすべての認識の出発点は「自分」にあり、世界をどう認識するか、その責任がすべて「自分」にあることを知らねばならないだけなのだ。だから「生かされている」という認識が「私の周りに、私にとって好意的な世界がある」と同じ意味なら、まだ何かが不足していることになる。「私の周りに世界がある」という認識は、ごく幼い精神にとっては重大な発見かもしれないが、それはデカルト的な意味での精神の発見に結びついてはいない。精神の精神は、「愛」と「力の抑制」という観点からまず自分自身を監督すべきことを告げ知らせる。これが十字架の意味であり、「宗教」のすべてだ。宗教は人間の問題であり、人間にとって宗教は不可欠なのだ。こうして私たちは、アランの宗教論を通じて、「神々」が「神」の補助線であり、いわゆる「神」が人間精神のための、重要な補助線であることを知るのである。

いま、世界は「テロ」と「テロとの戦い」に明け暮れている。また、私たちの身の回りにも人倫に反した事件や現象が多発している。私たちにはいまや、これらの現象のほとんどが、じつは宗教の問題であることが分っている。また事件のそれぞれが、宗教のどのレベルの問題であるか、おおよそわかっている。そしてこれら憂慮すべきことがらは、私たちに生ける歴史としての「戒め」を与え続けている。それは、私たちが自分の内なるテロリズムや反テロリズム、あるいは私たちの内なる暴力や非人間性を克服できない限り、問題解決は遠いということだ。

であればこそ、私たちはまずもって、アランのあの勇気にみちた予言を、自己の内部に鳴り響かせなければならない。「こうした観念はやがて現われて来ることだろう。そして精神は力を、あらゆる種類の力を、わが身に禁じるすべを知ることであろう」と。これは証拠や証明によって裏づけられている予言ではない。そうあらねばならぬ真実なのである。(イラスト:力は肉を滅ぼせるが、精神は滅ぼせない)−了−

 
   
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