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言葉と神
 
第1回 言葉の食い違いが争いのもと

加藤:2005年から6年にかけてのことですが、私はあなたの絵画作品をご紹介する「画家・鈴木航伊知の世界」をブログに連載させていただいたことがあります。またそのすぐ後に、「鈴木航伊知の世界」をもとにした対談「鈴木航伊知との対話」(絵画論)をさせていただきました。あのときの対談は楽しかったですね。

鈴木:いやあ、ほんとうに楽しかったですね。実に良い思い出です。

加藤:あの楽しさが忘れられないので、私は再度、あなたと新しいテーマで対談をさせていただきたいと思っているのですよ。今回は、私の方が先に自分の考えを持ち出しますので、あなたには、これに対する反論や同意などの感想を述べてもらいたいのです。私にとってあなたはかけがえのない友、知性・感性に豊かな友であり、それこそお互いに高校生だったときから、あなたにはどれほど強い刺激を受けてきたか分らないのですからね。

鈴木:いや、過ぎたお言葉です。ぼくこそ、あなたからたくさんのことを学んで来ました。あなたはぼくが心から尊敬している友人です。そのようなあなたとこうした機会に、考えの交流が出来ることはぼくにとって最高に嬉しいことであり、また、大いに僕自身の勉強にもなることです。ところで、今回のテーマは何ですか。

加藤:今回のテーマをかりに「言葉と文脈」としてみたのですが。私はかねてから「正しい認識」に関心があり、この「正しい認識」と「言葉」の問題がどうしても切り離せないと思っているのです。

鈴木:ほぉー、「言葉」ですか。生涯、ご職業と著述で、言葉と付合って来られたあなたらしいテーマですね。でもぼくは、言葉について特に考えたことないし、また、あなたは哲学につい豊富な知識とセンスをお持ちの方であり、そうではないぼくが、対話にふさわしいかどうか、まず、あなたに念を押しておきたいですね。

加藤:いや、一介のディレッタントに過ぎない私には、専門的な哲学的論議などできませんよ。私はあくまで、親しい友人としてあなたに同意、反論、批判、それに自説の開陳を期待しているのです。それを通じて、私は自分の考えを確認したり、鍛えたり、形にしていきたいと考えているのです。

鈴木:そうですか。友人として、ありのままに感想を述べればよいということであれば安心しました。でも、ぼくは自分の直観を大切にしますが、それを客観的に鍛える傍証作りに熱心ではありませんし、自分の推論が他人から見ると、ドンドン横にそれてしまうような変なクセも持っています。時としてピントはずれもあるかも知れませんが、その時は遠慮なく指摘してください。では、喜んで対話の相手をつとめさせて頂きます。

加藤:ご快諾をいただきうれしいです。それにしても私たちはいまでは、この世の中でいちばん古い友人同士になりましたね。私はいつもあなたの画家としての活動や、執筆活動に注目していますし、とくに、あなたの宗教論に注目しています。私としては自分勝手に、あなたの理解者の一人のつもりでいます。けれども、これだけ古いつきあいで、何もかもわかっているつもりでも、お互いに異質で、どうしても相容れない部分もあります。

鈴木:こんなに親しくともね。

加藤:もともと人間は別々に生まれ、別に育ち、別の体質や気質を持っているのだから、お互いに違っているのは当然ですし、違っているからこそ、付き合いが面白くなるし、またお互いに勉強にもなる、私はそう思います。それにまた、ちょっと踏み込んだ議論をしてみれば、たちまち明らかになることですが、知り合い、話をし合っている仲でも、お互いに一つの言葉をめぐって違う解釈や理解をしていることがしばしばです。私たちの場合は、その「違い」から刺激を受けたり、楽しんでいるということになるわけですね。

鈴木:ぼくは、あなたと違いが生じたとき、その部分をとるべきと判断したら摂取しますよ。

加藤:ところが、世の中では、他人同士の「言葉の食い違い」「理解の食い違い」が大きな争いに結びつくことがあります。いや、争いとは、たいていは認識の食い違いから生じているのであって、当人同士が「自分は正しい」と思っていることをめぐって、相手の相違を許せない、ということから、生じるものではないでしょうか。考え方の違いが、互いの相反する利害に結びついている場合にはなおさらです。

鈴木:みんな自分が正しいと思っていますからねぇ。

加藤:まったくです。けれども私は何も意見が食い違っているからといって、「相手を許せない」と思う必要はないと思います。両者が同じ考えになる必要はないにしても、相互に理解しあい、なんとか折りあう努力をする必要があると思います。しかるに、考えの食い違いは感情的なトラブルに発展し、大きなものでは国交断絶、国際紛争、テロ、戦争という形を取ります。個人間でも、不和、暴力、係争になりますが、たいていの場合、関係者は双方とも「自分は正しい」と思い、相手が自分とは違う考えを持っていることを「許せない」と思っているのです。

鈴木:柔和で妥協出来るひとと、激情のひと、争いを恐れないひとがいますからね。

加藤:ここで私たちに課せられた課題は、「どうして人々は違う考えを持つに至るのだろう=どうして一つのことをめぐって異なる見解や理解が生じるのだろう?」であり、「どうして食い違いを許せないと思うようになるのだろう?」ということではないかと思います。この問題に対してある程度納得のいく解答が出れば、お互いが体質や、気質の違いを許容しあうように、食い違いを許容しあい、理解しあい、妥協し、仲良くやる道が見つかるのではないかと思うのです。もっとも「納得のいく解答」と私が考えるものをめぐって、異論が生じ、それを私が「許せない」と思うかもしれませんが。(笑)

鈴木:なるほど、哲学は「どうして?」と問うところからはじまるわけですね。ぼくの場合、20代の頃は、ひとが自分と違う意見を持っていることに、いちいち、強く腹を立て、反発していました。しかし、やがて、そんな態度では生きてゆけない、食べてゆけないと追い詰められ、考えの違いを腹に飲み込んで生きるようになりました。しかし、それは納得したからというより生きるためです。

加藤:いや、まったく私も同じ体験をしてきましたよ。私はこの「認識」の問題について、以前に小著「エピステーメーへの道」で考えてみました。あの中で私はアランの言葉を導きにしながら、次のようなアラン的結論を是としておきました。
1.人々と協調し、人間としての同胞関係を見失わないこと。
2.自己の情念を抑制し、情念に引きずられないこと。
3.可能なかぎり、先入観を排除する認識態度を維持すること。
私の考えはこのときのままです。しかし、これだけでは、いくつかの問題が未解決で、すっきりしません。私はエピステーメー(真の認識、正しい認識)の問題を考える上で不可欠な、「言葉」の問題をなおざりにしてきたように思います。

鈴木:あなたの、あのご本を読んで、そうか、あの3つの態度をとれば良いのか、と納得しました。それだけではないのですか。

加藤:私としては、「言葉」とは何であったのか。私たちの「言葉」はどのように獲得されたのか。「言葉」と認識はどのように関わっているのか。これらの問題を考えて見たいと思うのです。たいへん漠然としていますが、これが私のいまの出発点での問題意識です。以上のように私は「認識の食い違いが人間同士の不幸な争いのもとだ。可能なら、なんとか争いを防ぎ、あるいは少なくしたいものだ」、「認識の問題は言葉の問題にちがいない」と考えているのですが、この点について貴兄はどのようにお考えになるか、ご意見をお聞きしたいのです。

鈴木:うーん、ぼくは「言葉」についてあまり深く考えて来なかったので、ラフにしか言えませんが、ぼくは認識の点では、言葉の論理性もさることながら、「気持」も大切だと思います。例えば、外国人同士で結婚した場合、言葉が不完全だと、認識も不完全になると思います。それを救うのは、相手のことを分ろうという「気持」のような気がします。どうでしょうか。

加藤:要するに、まさにその気持ちの問題ですよ。究極的に人の気持を形成するのは言葉だと私は思うのです。論理用の言葉と気持用の言葉があるというわけではありません。ですから、気持の問題を語ろうとするためにも言葉の問題を考えないわけにはいかない、と私は思っているのです。

鈴木: むかし政界の黒幕の大立者が、競艇ギャンブルのテレビCMで、「世界はひとつ、人類はみな兄弟」とやっていました。これは、論理を超えて、「気持」で繋がろう、というスタンスの世界認識だったと思います。一方、民族主義や宗教に立て籠り、紛争が収まらない世界の現実に重きを置くひとたちは、彼の楽観主義を冷笑しました。これは「気持」よりも、「論理」に重きを置くスタンスの世界認識だと思います。ぼく自身は「論理」と「気持」への二つの、同時の目配りを忘れたくないと思います。

加藤:「論理」と「気持」の両方の目配りが必要という、あなたの意見には同感ですね。ただ、私には「言葉=論理、すなわち、言葉≠気持ち」ではなく、言葉は「論理」と「気持ち」――かりにそう区分するのが適当だとしたの話ですが、その両方に関係しているものと思えます。

鈴木: ぼくは生きて来て、それなりの数のひとたちと出会って来ましたが、成人の男性との会話の場合、互いの認識の相違に気付いた場合、ディスカッションが出来る相手とはそれなりに、温和に辛抱強く、意見交換をしますが、「そうですか、わたしの認識が違っていたようです。改めてみます」と言うような方と会ったことがありません。討議が終わると、皆、スルスルと自分の穴に戻ってしまうような気がします。やはり、皆、互いに頑固だなぁ、と思うばかりです。

加藤:なるほど、そういうことはありますね。

鈴木: ぼくなりの考えだと、正しい認識でひととひとが繋がることを妨げている要素が、もうひとつあるのです。それは、人の心にひそむ犯罪性です。普通は、善意で繋がろうと思って生き、行動するわけですが、最初から、自分の利益を得るために、相手の人格を無視したところから生き、行動するわけです。これは、人間の心が二重構造だからだと思います。ぼくはどの人間でも、その心は善と悪、神性と悪魔性、光と闇、倫理性と犯罪性の二面を持っていると思います。善に生きるということを、あなたの定義をお借りしていえば、「他人を同胞として認識する」ということになります。イエスの黄金律、「自分を愛するように、隣人を愛せよ」と同じことですね。大方のひとは善を価値判断や行動の物差しとしており、たとえ悪を犯すことがあっても、すぐ良心が痛み、後悔し、心の揺れは善の方向に復元すると思います。また、病者、弱者、社会の不正、不平等に敏感に反応すると思います。しかし、犯罪者タイプの者は常に、普通のひとは時として、悪に走ることがあります。こうなると、お手上げです。すでに心の土俵が離れていますから。これが、ひとびとの相互理解を妨げている原因のひとつかと思います。

加藤:いやあ、これはのっけから本論に入ってきましたね。それではあなたのご意見に対する感想を含めて、次回から私なりの考えを述べていきたいと思います。

   
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