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言葉と神
 
第10回  暗号と謎解きの関係

加藤:さて今回、私は「言葉による理解」について考えるための、一つの回り道として、どんな言葉、どんな文にせよ、私たちが言語を用いるとき、それは伝えたいことの核心をではなく、周辺を表現しているのだ、という仮説を提示したいと思います。またこれについてあなたのご意見を聞かせてもらいたいと思っています。

鈴木:あなたが、言語のいわば「効用」の「限界」について、次々に新しい思索の開陳をされるのは驚くべきことです。

加藤:そうでしょうかね。私はいつも、自分のいいたいことを的確にいえていないのではないかという、率直な疑問を感じて仕方がないのですよ。たとえば、私たちは仕事の最中に「腹が減った」などといいます。これは一見、ストレートに、具体的に、何の遠慮もなく、自分の空腹感、食欲を表現しているように見えます。実際、そうかもしれません。しかし、その人がもっと切実に望んでいることは、継続していた仕事を中断して、一休みしたいという気持ちの表現かもしれませんし、ビールを一杯やりたいということかもしれません。つまり、この場合の「腹減った」は、話者の真意の周辺にある表現であって、ちょうど手ごろな表現なのです。

鈴木:矢場で打った矢が的の真中心でなく、その周辺でも当りになりますからね。

加藤:そういうことです。「ビールを飲みたいなら、彼はビールを飲みたい、といったはずだ」というのは、あまりも直線的な判断だと思います。というのも、彼自身も仕事の手を休めてテーブルに向かうまでは、食事が先なのか、ビールが先なのか、自分でもよくわからない、ということがあるからです。「まずは一息つく」ということが、もっとも重要であることもあるでしょう。「ビール」といっては憚りがあるので、「空腹」といったのかもしれません。それにまた同じビールを飲むにしても、喉の渇きをいやすことが先なのか、くつろぎ感を得ることが先なのか、酔い心地を達成することが先なのか、その全部なのか、誰がはっきりいえるでしょうか。つまり、こうです。私たちの感情や考えはとても複雑なのに、言葉はそのすべてをいいあらわすことができない、ということです。

鈴木:漁師が網を放って、引き上げた場合、たくさんの種類の魚が入っていれば、これは「サバ網」だとは言いきれませんものね。

加藤:まったくです。警官は犯人を捕まえて、「何故こんなことをやったんだ?」と尋問します。しかし犯人の供述は警官をかならずしも納得させません。というのも、かりに犯人が正直に犯罪の経過や動機を白状しているのだとしても、彼はもっとも核心となる事柄について、もっとも適切な表現を用いてくれないからです。犯人の供述は、回りくどく、余計な説明、脱線、ヘンテコリンな表現、自分や仲間だけにわかる主観的な言葉づかいに充ちていますので、警官は、自分が知りたいことを言わせようとして、「金に困っていたのか?」「借金があったのか?」「恨みがあったのか?」などと、警察官としての理解の枠組みで問い直しをしなければなりません。犯人が何も隠し立てをしない場合でさえ、こんな調子ですから、あとはおして知るべしです。

鈴木:幼児に絵具と紙を与え、掌を使って自由に描けと言うと、いろいろの絵具がどんどん塗り重なり、しまいには紙はドブの色のようになるケースがあります。

加藤:なるほどね。同じことが学校の先生と生徒の場合にも生じます。「どうしてあの子供をいじめたの?」と質問された生徒が、先生の望んでいるような的確な表現で、しかも真実を表現してくれる可能性がどの程度あるでしょうか? 話者となっている子供たちにはまだ十分なボキャプラリーがありませんし、「表現力」が身についていません。彼には、「事件」を要約したり、意味づけたりすることができないかもしれません。したがって、かりにその時点で生徒が本心を吐露しているとしても、彼の表現、彼の言葉、彼の言葉、文は、核心となる事柄に対しておのずから迂遠であり、周辺的となってしまいます。生徒には生徒の理解の枠組みがあり、先生には先生の枠組みがあるのですが、その上に表現が未熟であいまいときているのです。

鈴木:さきほどのドブの色になった幼児の絵を、幼児の心理と幼児の絵について熟知した専門家が見ると、それを描いた幼児の心理、発育状態や、大人から受けている抑圧状態が手に取るように分るのですが、素養のない者が見れば、<きたないドブ色の塗ったくり>としか見えないのです。幼児自身の抑圧度が低まると、ドロドロした感じからスッキリした感じに変化して来ます。そのことが、内面の無意識の心理と絵との相関性の証拠です。

加藤:私は、ドブ色から児童の心理を判定する心理学者にむしろ「?」マークをつけますね。というのも、私たちだってぼんやりしているときに「何を考えていたの?」といわれて、とっさにうまく説明できないことがあるじゃないですか。私など、わざわざ説明役を買って出たのに、うまく説明できないで、もどかしく思った経験が何度もあります。自分の口から出てくる言葉が、場違いな、見当はずれのように思えて、「一体、オレは今なにをしゃべっているんだ?」などと思います。あなたはそういうご経験ありませんか? もっともあなたはすぐれた論客だから、そうしたご経験はないかもしれませんが。

鈴木:自分という馬を乗りこなせない自分を発見することは、あり得ることですからね。

加藤:そうです。そこで私は一般論として「はたして、自分の考え、自分の感情を表現するに際して、人は本当に核心をついたもの言い方をできるものだろうか?」「どんぴしゃの言い方、どんぴしゃ語、文、過不足のない表現、・・そんなものはそもそも存在しないのではないか?」という考えが出てくるのです。

鈴木:「どんぴしゃ」を、いわばカメラのピントと考えれば、以前はカメラの焦点は自分で合わせなければならなかったので、時々、ピンボケ写真が出来たものです。今は自動焦点カメラ時代になったので、皆、焦点だけは「どんぴしゃ」になりました。しかし、ひとの言語表現には自動焦点装置がないので難しいわけですね。

加藤:そのとおりです。私たちの日常表現は、大抵ピンボケです。つまり私たちはもっとも適切な「どんぴしゃ語」「どんぴしゃ文」ではなく、おおむね「代用語」「代用文」、あるいは「周辺語」「周辺文」で間に合わせているといっていいでしょう。

鈴木:どんなに最近のカメラが自動焦点装置を具えても、超高速で走る乗り物の一点にピタリとピントがあった写真を撮るには、知識やセンス、慣れが必要ですからね。それがなければ「間に合わせ」でゆくしかないのでしょう。

加藤:そうだと思います。では、私たちが日ごろ「代用語や文」や「周辺語や文」で間に合わせているとして、私たちの真意は話し相手、コミュニケーション相手に、まったく伝わっていないでしょうか? そんなことはありませんね。全部の場合とはいいませんが、多くの場合、私たちは話者の主張、感情、要求などをつかみ、それに的確に答えているのではないかと思います。この点についてのあなたのお考えはいかがですか? 会話でも記述文の場合でも、私たちはそこに提示されている「一連の言葉」だけで相手の意図を判断しているのではなく、その言葉を媒介にして伝わってくること、要するに言外のメッセージにも、耳を傾け、あるいは耳を傾けようとしているのではないかと思います。

鈴木:ご招待を受けた席で、手作りのまずい料理を食べさせられ、塩が足りないとか、ダシ味が不足していると分っても、相手への好感情と想像力でおぎなって食べますからね。

加藤:それはすごいたとえですね。ですから、私たちは「語られている言葉」「書かれていることば」と同時に、「語られない言葉」を聴き、「書かれていない言葉」を読んでいるのだ、ということができるではないでしょうか。私たちは相手の「言いたいこと」を聞き取ろうと努め、相手が表現できずにもがいているその真意を、(こちらも彼に代わってそれを表現できるかどうか分らないにしても)汲み取るべく努力しているのではないでしょうか。この場合、たまたま語られている言葉は単なるヒントであり、媒介物にすぎないのです。

鈴木:言語に関して必要な身体機能は、目や耳に留まらず、心と想像力もそうなのですね。

加藤:そう思うのですよ。機械が文字を読み取る装置は、昔にくらべてずいぶん性能が良くなりましたが、それでも、機械ではどうしても判読できない文字があります。ところがそれらの文字の多くは、人が読めば十分に読める文字なのです。ですから、人間は機械に比べて、はるかに多くの部分を補い、推測をしながら読んでいるに違いないのですが、私が思うには、機械が「図」の分析だけに気を取られているのに対して、人間は「地」のほうも考慮に入れながら読んでいるのだと思います。この場合私が「地」というのは、紙の余白の部分だけを指すのではなく、前の文字とのつながり、よくある人の字の癖、その文書の目的や状況、それに「書き手の立場に立って考える」という作業、つまり書かれていないメッセージです。

鈴木:今、あなたが言われたことを、ぼくなりに解釈すると、混乱/カオスを分析、整理し、言わんとすることを読み取るには、機械では、単純な、連結した論理しか出来ず、限界があり、一方、人間はそれに加え、飛躍した、想像力を駆使した論理を用いることが出来、限界がないと言うことかな、と思います。よく神話などでは、宇宙やこの世は渾沌とした状態/カオスではじまったと説明され、現代科学でもそれが追認されているようですから、人間のふるさとはカオス/混乱であり、人間はもともとカオスには適応力があるのではないかと考えます。

加藤:ほほう。それは面白いご意見ですね。もう少し詳しくご説明ねがえませんか。

鈴木:混乱/カオスは、従来までは無秩序という負のイメージでしたが、最近はカオス理論などの目覚ましい進展によって、カオスが、たんに無秩序ではなく、そこに別の次元での秩序がちゃんと隠れていたということが解明されているようですね。例えば、昔は台風や津波は偶然/無秩序のせいだと考えられて来たようですが、今の地球物理学、気象学などの知見を入れれば、細かい必然の連続の結果であることは明白ですものね。だから、コンピューターが進めば、機械も人間の脳に近くなり、あなたの言はれた<書かれていないメッセージ>も読めるようになるかも知れませんね。

加藤:なるほどね。ところで、表現の中に、どんなにすばらしい雅語や詩句の断片が添えられていても、それを読む人に理解力が欠けていては、コミュニケーションが成立しません。しかるに、私たちは多くの場合、完全な文で表現することができず、代用文、周辺文で間に合わせるのですから、言語コミュニケーションの多くの部分を、読み手側の推測能力、忖度能力に負っていることは明らかですね。げんにこれを書いている私が、貴兄の明察を待って始めて、自分のいいたいことを伝えているというわけなのです。

鈴木:クラシックの音楽会で感動するのは、作曲家が、自分の音楽的感性をキチンと決めた様式に収め、それを演奏者が最高に緊張した精神状態で表現し、その抽象的な発信を、静謐な室内で最高に緊張した聴衆が受け取るという、張り詰めた、高度な相互交流関係です。なるほど、言語世界においても、高度な相互交流があるのですね。

加藤:それは、高度な交流関係が成立するためにはある条件づけられた「場」が必要だということでしょうか。

鈴木:いや、「場」ではなく、言語の発信側と受信側との間に、相互に均質な理解力が必要なのだな、という認識です。

加藤:そうですか。なるほど。日常の会話が、クラシック音楽の演奏と聞き手にたとえられるかどうか、その点は私には分りませんが、いずれにしても「表現と理解」「伝達と了解」「メッセージと解釈」という一連の作業は、一方側からの暗号発信に対して、受け手がおこなう「謎解き」、あるいは「解読」という関係の中に存在するのではないかと思います。もちろん、表現する人、伝達する人、メッセージを発信する人は「どんぴしゃ語」「どんぴしゃ文」など、できるだけ不可解要素の少ない情報を提示する必要がありますが、これを受け取るほうには、推察能力、相手の身になって考える配慮の能力、何が言いたいのかを言い当てる解釈能力が要求されていることになります。親しい間では省略や間違いがあっても真意が通じることが多いですが、それは、お互いに共通の解読表を持っているからです。

鈴木:旧日本海軍の真珠湾奇襲の際の仲間への暗号は、米軍によって解読されていたというのは有名ですが、そこまでの戦争における高度な暗号解読学でなくとも、ぼくたちは生活のレベルで、言語における暗号解読の大切さを認識しなければなりませんね。

加藤:コミュニケーションに関するトラブルのうち、救いようがないのは、相手のメッセージの中に含まれている「言葉」を、字義通りに、あるいは機械的に字義通りに解釈し、相手が本当に言わんとすることを、理解しようとしない、あるいは、結論的に曲解してしまうような言葉の応酬だと思います。この場合、双方が相手のいった言葉にこだわり、その部分だけの正しさを主張しあって、本来の真意を捉える努力は見失われてしまいます。そのうちに、議論のための議論がはじまってしまうのです。これは、「どんぴしゃ語」や「どんぴしゃ文」が存在しないことの必然的な結果かもしれませんが、そのことを悪用するような議論も成立してしまうということですね。

鈴木:なるほど。絵や彫刻といった造形芸術でも、作り手のイメージは、ある人にとっては「謎」でしかなく、「謎解き」あるいは「鍵開け」が要求されますね。童話の「不思議の国のアリス」では、すべての現象が「謎」でしかないわけですが、その謎自体がこの世を象徴しているという鍵を差し込んだ時、パッと見えて来ますね。新、旧約聖書の中味も、非合理と矛盾のカオス状態ですが、人間が有限から無限を、極限的に希求する時、どんなイメージを生み出すかという鍵を差し込むと、見えて来ると思います。今回も、あなたから、言語の限界と可能性についての、逆説を含んだたくさんの鍵を頂いたので、それを差し込んでお蔭で、たくさんの常識を踏み越えた世界をかいま見ることが出来ました。

加藤:貴兄がお描きになるすばらしい絵の世界についても、それがいえるかもしれませんね。もっともあなたの絵の世界の場合には、複数の合鍵が必要であるという気がしますが。・・いや、私が勝手にしゃべってしまいました。辛抱強くお相手していただいて、感謝しています。それではまた、次回。

   
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