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言葉と神
 
第11回  「理解」は「誤解」の一種

加藤:前回私たちは、何かを伝える言葉と文に関して、「どんぴしゃ」表現は困難だということと、「それでも私たちは謎を解くようにして相手を理解する」ということについて話し合いました。今回私は、さらに「情報の受け手の側」の視点からも言葉と文について考え、どのように「推測」「了解」「理解」が成立しているのかを考えてみたいと思います。私はここでも、独断にみちた一つの仮説から出発したいと思いますがいかがでしょうか。その仮説とは、「理解とはつねに誤解の一種だ」というものです。

鈴木:内容をまだよく伺っていませんが、「理解」と「誤解」が常にとは限らないでしょうが、非常に近い位置にあることは、まったくもって実感して生活していますね。自分と直接関係ないことで、その食違いを傍観する時は、ぼくは、言葉なんて、しょせん不正確なものさ、問題は言葉ではなくて、通じさせようとする気持が大切さ、なんて達観したように思っています。しかし実際、たとえば、まだ付合いの浅い誰かと待ち合わせなどして、決められた時間と場所でピタッと会えないとなると、改めて、自分と相手の時間や空間に対する基本的な認識が違っていたことが分り、相手を「理解」していたという認識が間違っていて、「誤解」していたんだと気づかされます。

加藤:そうですよね。私の考えでは、理解と誤解は非常に近くにあって、明確な境界線がないのではないかと思うのです。話を聞くということは、話を了解し、理解するためですが、そのためには聞き手は「推測」しなければなりません。人が推測せずに話を聞くのでないとしたら、その人は相手の「声」を聞いているだけであって、言葉の意味やつながりを聞いているとはいえないと思うのです。

鈴木:今ぼくが挙げた、「約束の場所と出会い」の例でいうと、Aは「約束の場所まで行く前に、ゴミ捨てやら、トイレ行きやらの習慣を済ませてから行きたいのだ。20分ぐらい待たせて何が悪い。そんな細かいことを気にする方が悪い。自分なら、寒風の中だろうと平気で立つ。寒さなんて気にならないし、立つのも平気だから」という認識です。しかし、Bは「たとえ5分でもひとを待たせては悪い。ましてや寒風の中で待たせてはよくない。トイレは前もって行っておき、ゴミ捨てなどは後でやれば良い。時間を守るのが一番大切」という認識です。これは二人がまだ相手の考え方のクセを知らないので、「推測」できないわけです。しかし、このいさかいの後は、Aは、Bの律儀な性格が分り、一方BはAの融通が利かない性格が分り、互いにそれに歩み寄って出会うようにするので、「推測」の度合いが強まり、「理解」が多くなり、「誤解」が少なくなります。

加藤:まったくその通りですよね。たとえば誰かが私をほめてくれているようなとき、――いや、そのような機会は現実にはめったにないのですが――そのようなとき、私は相手がかなり見当はずれのことをいっていても、「ああ、あの人はわたしを理解してくれている」などと思ってしまいます。この場合、相手が本当に理解してほめてくれているのではないのですが、私が持ち上げられているというところから、「理解されている」という感情を持ってしまうのです。あなたは、すぐれた画家として賞賛される機会が多いでしょうが、私がいま言ったような感慨をお持ちになることはありませんか。

鈴木:あなたが、自分がほめられたと感じると、たとえ誤解されていたも、理解されていると感じが変わるとは、冷静なあなたにしては、ずいぶん人間らしい、ほほえましい反応ですね。お尋ねのことですが、クラシック音楽の批評はとても難しいと思います。音は抽象的なものですからね。でも、ぼくのやっている絵のような具象画は、パッと見れば、「好き、嫌い」をすぐ感じることができますから、好きでないと感じたら黙って立ち去れば良いし、好ましいと感じたひとは「素敵、綺麗、好き」などと言ってくれるので、「見当はずれ」はほとんどありません。芸術ジャンルの違いはあると思います。

加藤:そうでしょうかね。私はどんなことについても同じではないかと思いますが。いずれにしても、好意的反応は、「理解された」になり、反対に、相手がかなり適切に批評していても、それでも全体として言葉に毒や棘があったり、結論として私を批判しているようなとき、私は「誤解されている」などと思います。おかしなことに、相手の指摘が当たっていればいるほど、そう思ったりするのです。

鈴木:そこはあなたと違いますね。ぼくは相手の言葉を一度、客観的に眺めますから、仮に「毒や棘」があれば、「ぼくや、作品のことは嫌いなんだな」と思います。でも、そう感じる相手の心をぼくは変えられないのですから、「そうか」と思うだけです。「批判」された時は、その「批判」に自分が吸収して賢くなるものがあれば、その部分を摂取するし、たんに低劣な批判であれば、「そうか、そういう考えもあるのだ」と思うだけです。「誤解」という言葉は思い付きません。仮に本当に「誤解」して「批判」された場合には、怒るよりも、その誤解を論理的に相手に説明するでしょう。いずれにしても、「自分は自分、ひとはひと」というのがぼくの基本的感覚です。

加藤:あなたの判断や態度はずいぶん立派ですね。私にはとてもあなたの真似はできません。ま、どちらにしても、いまあげたような例は、「理解」と「誤解」との関係が、単純な両極ではなく、一筋縄ではいかないことの証拠ではないでしょうか。

鈴木:まったくその通りですね。

加藤:かりに、いまここに一冊の本があり、そこにいるAさんが「ここに一冊の本がある」といったとき、Bさんはその言葉をどのように受け取るでしょうか。いろいろな受け取り方があるでしょうが、現に「そこ」に「本」なるものがあれば、Aさんがいっていること自体は、まず肯定的に受け取られるのではないでしょうか。

鈴木:日常的レベルではそうですね。ぼくたちは日々、哲学問答、禅問答をして暮らしているわけではないですからね。

加藤:そうです。もっともBさんは、意地悪く「彼が本だといっているこれが、本なのか? これが本といえるのか?」と思うかもしれませんし、「いまさら何をいっているんだ? 彼は気が確かなのか?」などと思うかもしれません。要するにBさんの受け取り方のすべてが、Aさんが期待するような受け取り方ということはありえないと思うのですがいかがですか。

鈴木:なるほど、お互いの意識が急にズレるとそうなりますね。Bさんが急に「きみはこれを本というが、こんなものは本という名に値しない。これを本と認めるなら、きみの頭のレベルが分るな」などと、突然、皮肉な態度で反応したら、Aさんはびっくりするでしょうね。

加藤:そうですよ。どんな言明や伝達に関しても、受け手の反応や受け取り方は自由であり、さまざまなのであって、制限することはできません。たとえば、一人の中でも複数の解釈が準備されている場合もあるでしょうし、たった一つの、思いがけない解釈や思い込みがなされる場合もあるでしょう。私は見かけ=第一印象の解釈も多義的であり、同時に確認のあり方も多義的である、と考えています。

鈴木:なるほど、どこまで行っても、多義的なわけですね。

加藤:かりに今度はAさんが「この本は面白い本だった」とか、「この本に書いてあることはまったく本当だ」というように、本の記述に関する感想を述べ、Bさんの反応を待つようなケースを考えて見ましょう。この場合、たとえBさんも同じ本をAさんと同じように熟読しているとしても、ケース1とは比較にならないほど多くの解釈が生じえます。というのも、Aさんがいう「面白さ」「本当」というものは、目に見えないからであり、どの部分を指しているかも明らかでないからです。

鈴木:そういう例をぼくも数多く体験して来ました。とくに映画、音楽、書物などについて、「これは、もの凄く面白いよ、ぜひ味わってごらんなさい」と勧められたもので、「なるほど良いなぁ、よいものを勧めてくれた」と感じる場合と、「あぁ、自分の好みには合ってない、無理」と感じる場合がありますからねぇ。

加藤:そうですよねえ。ではもう少し込み入った会話のケースを考えて見ましょう。今度はAさんが「私たちは、自然によって生かされている。君もそう思うだろう?」とBさんに話しかけたとします。おそらくこういう会話をするには、AさんとBさんの間には、なにか前提的な情報が交換されているはずで、いまこのような話題が出されることに、さほど違和感がないと考えることにしましょう。しかしこの場合には、話はたいへん抽象的で、先ほどの例にはあった具体的な「事物」も「対象となる部分」も欠けていますね。このような場合、あなたならどのような返答をされますか。

鈴木:「ひとは自然によって生かされている」という言い方は、今では、とてもポピュラーだし、ぼくはその通りと考えているので、「えぇ、そう思いますよ」と答えますよ。

加藤:たとえば、BさんがAさんの言明を唐突だと考えるような場合、たとえば、「いまさら、何を言っているんだ。急にどうしちゃったんだ?」とか、「自然によって生かされる? 冗談じゃないよ、自分自身でけんめいに、生きているんだよ」とか、「自然には意図などはない。自然を擬人化するのは自由だが、自分はそうは思わない」、あるいは「何て陳腐な言い草だ。そういうお説は百万遍聞かされたよ」という回答もありますよね。

鈴木:ほー、ぼくなら素直に認めるこの言い方でも、そのように反発するひともいるわけですね。それは考え付かなかった。では、屋上屋を重ねることを承知で、ぼくがなぜ、反発せず、そのフレーズを素直に認めるか、原点の定義を繰返しておきましょう。終戦までの日本人も、現在までのアジア民族の多くも、工業化社会の要素が少なく、食料を農、漁業に直接頼っていれば、「自然に生かされている」と感じてしまうのは当然と思います。地球の軌道や四季循環も、無秩序でなく、法則的に決まっているので、ますます自然の中に、「ひとを生かす」意志があるかのように、擬人化して感じてしまうのも、自然で素朴な感覚だと思います。百科事典の説明文なら仮定や推測を実態のように断定することは許されないでしょうが、このフレーズも論理というより、「修辞/レトリック/言葉をうまく使って、美しく、巧みに表現すること」や「詩的な表現」なのですから、このフレーズを使うことに問題があるとは思われないのです。童話を読む時、「神さまがイワンにパンを与えました」と書いてあったといって、「嘘もいい加減にしろ」とはいわない筈ですから。

加藤:お話を伺うと、あなたはこの言明の真実度を高いと見ているのですが、私の考えでは、好意的に考えても「そうとも考えられる」「そういっても間違いではない」という程度のものであり、目の前の一冊の本にくらべて「真実値」が低いものです。言表の真実値が低くなれば、当然異論が出やすくなるわけで、相手の反応はAさんが期待する「理解」とは異なったものとなる可能性が高くなるのではないでしょうか。

鈴木:ほぉ、では、あなたがこのフレーズに反発する理由はどんなところにあるのでしょうか?

加藤:私は別に反発しているわけではなく、このメッセージは、そのままでは真実度が低いと思っているのです。かりに「自然は私たちを生かしもし、殺しもする」、これを受身表現にして「私たちは自然によって生かされてもいるし、殺されてもいる」といいかえるなら、真実度は高くなると思いますけれど。それに、私はこのメッセージの中に「自然の恩恵を考えずに、自分だけで生きているつもりでいる人」に対する、批判が含まれていると思います。ですから、このメッセージの背後に「私にはそれを批判する資格がある」というもう一つのメッセージが隠れていると思います。(しかも当人はそのことを感じていないらしいのです)。それでいっそう真実度の低さが気になるのでしょうね。

鈴木:ははぁ、今やっと、このフレーズに、あなたがこだわっている理由が分りました。ぼくは「自然はひとを生かしもするし殺しもする」という実態は分りつつも、物事を一言で要約するメッセージ、スローガン、キャッチフレーズのような時は、都合の悪い部分は切り捨ててもかまわない、という世間一般で通用する寛容な使用原則で考えていたので、「殺す」方を無視し、あなたとズレたわけですね。しかし、あなたは、今、言語の性格についてギリギリまで考察するお立場ですから、そのような不正確さを糾弾されたわけですね。了解しました。確かに、自然は竜巻きでひとを巻き上げて殺しもしますからね。また、あなたは、ひとつのメッセージの裏側に、別の意図的な、批判的、説教的、強制的なメッセージが隠されているケースにも着目されたわけですね。東京都の公園施設にはよく「上野恩賜公園」のように「恩賜」の二文字が付いています。「恩賜」を辞書でひくと、「天子からたまわる、有難い頂きもの」とあります。これはそう考えない者を批判し、説教し、そう考えるように強制するメッセージが隠されていますね。

加藤:いや、まったく。この「自然に生かされている」のような例は、人を感心させたり、説得させるような美しい表現の中には、往々にしてものごとの反面しか見ていない真実度の低い表現があり得ることの、いい例ではないかと私は思うのですよ。 

鈴木:ぼくたち日本の国籍を持つ者が外国で、例えば、泥棒や殺人犯に間違えられた場合、日本の在外公館に通報して人権を守ってもらう以外、その国は守ってくれません。この時、ぼくらは「日本国民は日本国によって守られている」と、レトリックとしては言えます。しかし、同時に、日本国は戦時になれば、国民を徴兵して戦場で殺しもしますから、あなたの言うように、レトリックというものの真実度はいつも疑ってみなければなりませんね。昔、日本の普通のひとたちは「鬼畜米英」という舌触りのよいレトリックを信じこまされて、散々苦労したという例もありますからね。

加藤:国と自然を同列に置いて論じられるかどうか、私には分りませんが、自然に関していえば、自然は私たちの「味方」でもなければ「敵」でもない、というのが本当ではないでしょうか。ところで、この「生かされている」に関してですが、次のような「過剰理解」のケースも考えられませんか。Aさんが「私たちは自然によって生かされている」といったとき、たとえばBさんが、「いや、まったくだ。君の言っている『自然』というのは、神のことだよね。神は、万物を作り、われわれを常に見守ってくれているのだ」とか、「だから、私は環境を守れといっているんだ。石油資源を垂れ流すわれわれの生活が間違っている。したがって、自動車会社というのは、君、悪の権化だよね」。・・・このような場合、BさんはAさんがいわなかったことにまで話の解釈を拡大し、それに頼まれもしない次元に話を誘導しています。それでも、Aさんはこのような反応を「理解された」と思うかもしれませんし、思わないかもしれません。

鈴木:慎重であろうとする書き言葉と違い、会話は猛スピードで進行しますから「話しの解釈の拡大」「頼まれもしない次元への誘導」などは当然出るでしょうね。ぼくはそれを「会話ではあり得る論理のすり替え」と、例によって寛容則の立場に立ち、あまり目くじらをたてませんが、あなたから指摘されると、確かに、言語の厳密な整合さを乱す性質であることが、今了解できます。

加藤:おっしゃるように、会話ではブレーキがきかない場合もありますよね。私はある会議の席上で、とても大切な議案が、大部分の役員が賛成しているのに、しかも社長がじっさいに反対をしていないのに「否決」されてしまったケースを知っています。その社長はワンマンなのに、自分の真意をなかなか明かさない人だったのです。そこで、会議の席ではみな、社長の顔色をうかがいながら自分の立場をきめるのが習慣になっていました。その席でも、社長はその議案が始まろうとするときに大きな咳をしました。次に、社長はレジュメを読むとき、うっかりその議案の行を飛ばして次に進んでしまいました。そこで役員たちは、それらの徴候を「社長はこの議案に反対なのだ」と解釈しました。そしてその会議の終わりに担当役員が気をきかせていったのです。「では、**号の議題はとりあえず見送りということで・・」。そのときには社長はすでに席を立ちかけていました。こうして、その議案は審議されることなく葬られました。私はこういうことが世の中にはたくさんあると思います。つまり、「忖度しすぎ」という解釈のあり方です。

鈴木:なるほど、話しの交通整理をしょうにも、相手の社会的地位が高すぎれば出来ませんものね。

加藤:いずれにしても、「理解」から「誤解」までの間には無限の解釈の段階があり、またそれを受け取る側にも無限の解釈の段階があるわけですから、「理解」と「誤解」を対立する両極のように区分するよりも、「理解」は「誤解」の一種である、と考えたほうがいいのかもしれません。

鈴木:なるほど。あなたがさっき言われたこと、ひとは往々にして、ある観念について、「味方」と言ってみたり、「敵」と言ってみたりしがちですね。つまり、ひとは、ぼくを含めて二元論が好きですからね。本日のテーマ、「理解」と「誤解」についても、普通は対立的な二元論で考えて来ましたが、あざなえる縄のようにからみ合っている実態が分りました。

加藤:おかげさまで、きょうの対話もたいへん有意義に進めることができました。有難うございました。それでは、また次回。

   
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