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言葉と神
 
第12回  「正当なロジック」は怪しい

加藤:前回の対話では、「理解」と「誤解」について考え、「誤解と理解は対極にあるものではない。それはきわめて近い関係にある。理解はむしろ誤解の一種、あるいはその逆もありうる」ということを確認いたしました。しかし、理解してもらいたいと思っている人が誤解されたら、やはりつらいものがありますよね。そこで、今日は「誤解」と「理解」の差を生む原因についてもう少し立ち入って考え、「言葉」と「事物」との関係を吟味してみたいと思うのですがよろしいでしょうか。

鈴木:ぜひ、お願いします。

加藤:「目は口ほどにものを言い」といいますが、身ぶりや目付きである程度のメッセージを伝えることはできるとしても、それには限界がありますね。それにまた「目でものを言う」という場合にも、背景にはきっと言葉の存在があります。一般的に語り手は複数の「言葉」と「文」を用いて話をするのではないでしょうか。聞き手は話された「言葉」と「文」をたよりに相手の意図を理解しようとします。けれど、私はここでも「情報の受け手は、かならずしも単に与えられた言葉や文だけに頼らずに、語り手のいいぶんを総合的に理解する」のではないかと思います。

鈴木:確かにぼくらは言葉に加えて、いつも相手の目、声、身振りや雰囲気などに注意を払っていますからね。

加藤:この「総合的に」とは、言葉と状況が「ばらばらな要素」として認識され、そのあとで組み立てられたのではなく、「生きた全体として」として総括的にとらえられている、という意味です。

鈴木:ほー、「生きた全体として」と言うと?

加藤:たとえば、AさんがBさんに「今日は暑いね」といったとします。しかしBさんは、そのときのAさんの服装やしぐさ、その場の状況、そしてBさん自身が感じている気温、それに言葉を加えて、総合されたたメッセージを受け取ります。かりに蒸し暑い職場の中でのAさんの発言なら、その発言は、「きみもそう思うだろう。会社もそろそろ冷房に切り替えてよさそうなのに・・」というニュアンスを汲み取ったかもしれません。そうしてBさんが「いや、まったくだね。冷房はまだなのかな」といえば、これでAさんとBさんは完全にコミュニケーションに成功したことになります。ところが、Aさんがエスキモーの氷室のようなところで、毛皮のコートにくるまったまま「今日は暑いね」といったとしたらどうでしょうか? あるいはそれほど極端じゃないとしても、暑さ、寒さの感覚は人によって異なりますから、「今日は暑いね」が、場違いなステートメント、あるいは間違ったステートメントとして受け取られる可能性は多々あるでしょう。

鈴木:確かにそうした行き違いは多々ありますね。お天気といえば、これは余談ですが、かつてのイギリス紳士は、お天気の話題だけで三十分は会話を継続することが出来るのが条件の一つだとか聞いたことがあります。これは会話の目的が中味の交流でなくて、継続自体にあるという特殊な性質から来ているのでしょうね。ハハハ。

加藤:それは面白いお話ですね。要するに、ひとつのステートメントは、所定の「状況」の中で、あるいは具体的な「事物」との関係の中ではじめて有効な意味を持つのであり、状況と切り離された「文」は、誤解の可能性が高くなり、あるいは無意味となることすらあるのだと思います。これに対して、具体的な状況の中では、たとえ文法的におかしな言い方をしても、聞き手がメッセージを正しく聞き取るということがありますよね。

鈴木:あなたが常々、物事はそれ自体だけでは判断しにくく、「状況」の中で判断すべきであると言われていることを思いだします。とても含蓄のある考えですね。

加藤:そう思われますか。ところで、語彙が豊富で、「理路整然」と話す人は、とかく尊敬されますし、説得力もありますよね。この場合、「ロジカル」であるということが、ある種のパワーを裏づけるのです。

鈴木:ほー、一般的には「ロジカル」であることは褒められることですね、でも?

加藤:でも私は、「ロジカルな空理空論」があると思うんです。ここでは、事物と言葉がかならずしも一致しないケースを考えて見ます。たとえば、「HAND」という英語の単語を日本語訳を調べてみます。すると「1.手」「2.手のような形のもの」「3.所有・管理・支配」「4.援助の手」「5.手練」「6.人手、職人」「7.信義の徴しとしての手・誓約」「8.方面、方角」「9.筆署名」とあります。かりに英文を翻訳しようとする場合、上の9つの意味のどれを選択するか、単文だけでも見当がつく場合もあるでしょうが、見当がつかない場合の方が多いのではないでしょうか。この場合、翻訳者は前後の文章の流れ、文脈から判断して「これは、援助の手だな」とか、「これは、方面、方角をさすHAND」にちがいない、と判断することになります。つまり、単語は所定の文脈の中で本来あるべき意味を持ち、会話における言葉も、特定の状況の中での前後関係によって意味を持つのだ、ということがわかります。

鈴木:確かに、ひとつの言葉がたくさんの意味を持つというのは、人間の生の営みが歴史的に重層的に積み重なっていることをまざまざと示していますね。古代の遺跡が幾層にも積み重なっている場合があるように。

加藤:まさにその通りです。ある発言、発話をする人は、自分の考えに沿った単語を選び、それを用いて文を作ります。この場合、単語と表現がどんぴしゃかどうか、それは分りません。あなたが前回指摘されたように、会話は動いていますから、厳密さよりもタイミングが重要なわけで、「とりあえず話される」ことが多いですよね。そこで、ちょっとピンボケな単語があらわれたり、ちょっとずれた表現になることもあるのですね。しかし多くの場合、聞き手の方は前後の事情、相手の癖や口調、相手の価値観をつかんで理解しようとしています。反面、同じ言葉を用いているはずなのに、「言葉のいきちがい」が不可避的に生じることがありますよね。ご経験ありませんか。

鈴木:たとえば「彼女は可愛いね」と誰かが言った時、太めの女性が好きな人とスリムな女性が好きなひとの間では、「いきちがい」が生じ、その後「えぇー? 信じられない!」という科白がどちらかから出るのが通例ですね。

加藤:そうですね。同じ対象について、具体的な表現をするときでさえいきちがいが生じるのですから、「概念語」に関しては、解釈がもっと難しくなることは当然だと思います。「具体語」の場合は、曲がりなりにも、それが指し示そうとする特定の事物との対応関係を求めることができます。「類」や「属」などをあらわす言葉でも、所定の定義を使えば、それなりに事物との関連を持たせることができるように思います。ところが、「善」とか「悪」とか「幸福」などという言葉は、単独で用いられた場合、対応させる具体的な事物がありません。

鈴木:なるほど。ぼくはそうした言葉の意味、定義はある程度みんなの中に一般的な共通概念があるように、漠然と思ってきました。しかし、あなたがこうして言語について精緻な検討を加えている現場に立ち会っているので、なるほど、慎重でなければならないと感じて来ました。

加藤:ほう、そうですか。

鈴木:そして、あなたが言われるように「対応させる具体的な事物」に反応させれば、「悪」や「善」も、固定していなくて、変化して行くのですね。例えば『あぁ、無情』のジャンバルジャンは、勤労意欲があっても職がないという「具体的状況」の中では、極度の飢えからパン一個を盗み、「法律上の悪人」となりました。しかし、あとで「人望のある市長」という「具体的状況」の中では、「善人」となりました。

加藤:適切な事例ですね。かりにいま「善」や「悪」という言葉について考えるとして、この言葉を、上のような具体的な事例とセットで考えれば話に意味が出てきますが、具体的事例なしに単独で用いられると、無意味になってしまうと思うのです。たとえば、「人間は善を行い、悪を懲らしめなければならぬ」という一般論を述べる人がいるとします。するとこの場合、「善」や「悪」といった概念語が、「話の前後関係や状況とは無関係に」、あたかも事物のように扱われていることに気づきます。往々にして理路整然と話す人はこれらの概念語がたくみに、しかし概念語を「事例なしに」用いることによって、得体の知れない「ロジカル・パワー」を生み出しているようです。

鈴木:ほぉー、そうなのですか。ぼくにはそれにふさわしい具体例を思い付くことがありませんが。無理に考えれば、米ソ冷戦時代には、お互いに、「人間は善/資本主義か社会主義を行ない、悪/資本主義か社会主義を懲らしめなければならない」という一般論で非難し合っていたようにも思います。

加藤:その通りです。たとえば誰かが「善と悪は別物だ。だからそれは別物であり、一体になることはありえない」などというとき、私たちは「善」が、ある特定の場所を占有するモノであるかのような錯覚にとらわれています。なるほど「善と悪が一体になることはない」という言明は、言葉のロジックの上では正しいかもしれない。しかし「善」というモノは存在しないのですから、この言明には中身がないことは明らかです。つまりこのとき、私たちは「物化された概念語」というおかしな秩序の中に入り込んでいるのではないでしょうか。

鈴木:なるほど、「善」という「モノ」は存在しない、つまり「物化」されていないのですね。だから「善と悪は別物だ」という言い方は正しくないと。しかし、例えばある男がデパートで高価なものを万引きしたと。しかし、その帰り道、線路に落ちたひとをとっさに身をていして助けたと。こんな時、「この日、この男の内部はしかじかかくの具体的状況の中で、善と悪が併存していた」などと言うことは出来ますか? 

加藤:あなたのお話の場合、「デパートでの万引き」と「人命救助」という具体例が示されていますので、「善、悪」が何を意味しているのか分ります。けれど、事例がない場合には、人はそれぞれ勝手な解釈をします。ですから、具体例をともなわない言葉だけの「善」と「悪」との対比は、つねに空論です。ところで「万引きをする男が人命救助をする」という事例は一人の人の中における「善と悪との並存」という、よい実例だと思いますが、「並存する」が「一体になる」と同じなのでしょうか。・・もっとも、こんなことをいいだすのが空理空論なのですがね。

鈴木:なるほど、そうですね。どうも、ぼくは何かテーゼが出現すると、一々、具体例をあげなければ気が済まないというクセがあるものですから・・。

加藤:それはとてもいいことではないでしょうか。私もできるだけ具体例で考えるようにしたいと思っています。そこで、いまここに、「100キロメートル」という「距離」のことを考えて見ます。この100キロメートルが「遠い」か「近い」かは、前後の状況や話し手のそのときの価値観によってきまることで、「100キロメートルとは近い距離である」などと一方的にきめつけることはできません。これは「遠さ」とか「近さ」などという言葉は、事物や状況から切り離し、一人歩きをさせてはいけない概念語だということを物語っています。同じことで「善い」も「悪い」も、関係によって決まることですから、「善」も「悪」も関係を示す文脈の中に置かれないかぎり意味を持たないと思うのですが、いかがですか。

鈴木:なるほどそうですね。ぼくなど、「駅まで5分だから近いよ」などと平気で言いますが、あなたから言われると、健常者だから言えるのであって、膝に激痛を覚えるひとは5分でも遠いですからね。

加藤:まったくその通りです。

鈴木:今回のあなたのテーゼについて、どうも、ぼくはまだ良く理解出来ていないかも知れません。こうした時、宗教の話題を持ち出すのは、いたずらに議論を空回りさせるだけかも知れないので躊躇しますが、連想したので言ってみます。キリスト教では、教義を受入れるひとは、これはぼくの勝手な推察ですが、「聖書の言葉」を「啓示」によるものとみなし、受入れられるのではないかと思います。ちょっと待ってください。今、手許の百科事典をひいてみます。あ、ありました。「啓示」とは「人間の力では不可知の真理や神秘が、神などの超越者よって開示されること」とあります。キリスト者が例えば「神は全智全能、完全善、完全愛なり」と言う時、その言葉の実体を世間一般の論理で明らかにして行こうしてもなかなか難しいのではないかと勝手に思ってしまいます。「啓示」を受入れるという土俵、具体的状況においては「神の完全善」は実体化するが、「啓示」を受入れないという土俵、具体的状況においては「神の完全善」はいわば「空語」として認識されかねないですからね。このように土俵自体が違うケースについてはどう思われますか? 

加藤:あなたはいま、「啓示」をキリスト教の教義を受け入れること、という意味でお使いですよね。私には「啓示」がもっと別なものだと思えるのですが。・・私は「啓示」という言葉を、使い方にもよりますが、おおむね「突如として触発され、霊感がひらめくこと」という感じで理解しているのですが違いますかね。いずれにしても、誰かが「神は全智全能、完全善、完全愛なり」といったとしても、私には空語の羅列としか思えません。というのも、述べられていることは見ることも触れることもできないのですからねえ。ですから、このような言葉に意味を感じる人を私は理解できず、「この人は言葉に酔っているのだな」と思いますし、先方では私を「理解力のないやつだ」と思うでしょうね。

鈴木:なるほど、やはり、土俵が違えば理解の仕方も違ってゆくのでしょうね。

加藤:いずれにしても「概念語」レベルの話は難しくなりますね。・・話は変わりますが、古代ギリシャの哲学のテキストを読んだり、スコラ哲学をはじめとする西洋哲学のテキストを読むときに強く感じることですが、多くの概念語が、あたかも本当にこの世界に、客観的に「実在」するものであるかのような取り扱いを受けていて、驚くことがあります。たとえば、プラトンは「真の知識を求める技術」と「思いなしの知識(ドクサ)を求める技術」は別物だといっています。私は、これは奇妙だと思います。

鈴木:プラトンのいったというその二つの概念について、簡単で良いから説明して頂けませんか。

加藤:「国家論」の中で、プラトンは「知識」は「あるもの」について知る能力である、これに対して「思わく、思いなし」は、「あるもの」と「あらぬもの」との中間に位置づけられる知識である、といっています。彼の説明によると、これらは別々のものを指向しているので、別々の能力、あるいは技術だということになります。つまり、この場合おかしいのは「知識」とか「思いなし」という語が、あたかもそういう事物が存在するかのように、具体的事例を抜きにして措定され、語られているということなのです。

鈴木:そうなのですか。

加藤:言葉は言葉としては実在します。そしていったん言葉として実在するとそれはロジックの法則に従います。するとたとえば、「『遠さ』と『近さ』は一緒にはならない」とか「『然り』と『否』は並存できない」「『結果』と『原因』は対応する。結果があるからには原因があるはずだ」というようなロジックが正当性を持つことになります。そして、だれもこれには反対できなくなってしまいます。私はこのような言明は、私たちの実生活の中ではかなり空理空論ではないかと思うのですね。

鈴木:あなたが今いわれた「遠さと・・」「然りと・・」「結果と・・」の三つのテーゼは、今のぼくには当たり前と感じてしまうのですが、あなたにとっては「空理空論」「正当性のないロジック」なのですね。ぜひご解説ください。

加藤:いうまでもありません。「遠さ」などというモノを私たちは具体的に見ることもつかむこともできないからです。それは「関係」のことであって、事物ではありません。関係である以上、関係を示す具体的な要素がなければ「遠さ」という言葉は意味を持ちません。意味のない言葉のことを私たちは「空語」というのでしたね。そして私は「空語」がちりばめられた文で組み立てられたロジックを「空論」だと思っているのです。ということで、今日の私の結論は、「状況から切り離された観念語、それを用いて展開された正当なロジックは怪しい」というものです。

鈴木:「然りと否」「原因と結果」についても一言、ご説明願えませんか。

加藤:同じことです。「然り」などいうモノはなく、「原因」などというモノもありません。そもそも実在しないもの同士が一緒になるとかならないとか、並存するとかしないなどという議論はまったく無意味ですよね。それは単に「言葉」をもてあそんでいるに過ぎません。

鈴木:しかし、「結果があるからには原因がある筈だ」という言い方はよく使いませんか? 例えば「今日、風邪をひいた」という「結果がある」のは、「ゆうべ、冷房が強く効いた部屋で、裸で長時間うたたねをした」という「原因があったからだ」という風に?

加藤:これはいい実例をあげていただきました。いま「風邪をひいた」をある原因に対する1つの結果であると考えましょう。しかしその原因を果たして「冷房」だけに特定できるでしょうか? そのときの体調や、周囲の温度、夜具、寝ている人の姿勢・・おそらく100でも200でも関連する事項をあげられます。「原因と結果」というとき、人は無意識のうちに「1つの原因と1つの結果が対応するものだ」という枠組みにとらわれているのです。そして私たちが「原因」とか「結果」と呼んでいるものは、私たちの恣意的な操作によって浮かび上がる要素同士のコジツケかもしれませんからねえ。いまのあなたの実例は因果関係の例として分りやすいものですが、かりに誰かが実例なしで「因果の法則」を振り回すとしたら、それは空理空論だと思いますね。

鈴木:ところで、今回、あなたは「関係を示す要素のない、意味のない言葉を空語という」と言われましたね。ちょっと、連想なのですが、あなたは別のところで、自分は「ひとは自然によって生かされている」という言葉が大嫌いだ。何故なら、自然にはひとを生かす意図も気持もないからだ。という意味のことを言っておられます。仮に「自然はひとを生かす」という言葉を「意味のない言葉」だ、と規定するなら、これは「空語」といえますね。しかし、あるひとが太陽を見て「あぁ、昇る朝日よ、太陽よ。あなたは何と神々しいのだ。わたしはあなたから生かされている自分を明らかに感じる」と詩に書いたとします。こういうふうに「ひとを生かす気持がない自然」を、「ひとを生かしている」と空想するのは、芸術行為ではありふれていますが、あなたはどうお考えですか?

加藤:詩的な表現においては、どんないいまわしでも許されると私は考えます。私の考えでは、詩は他の芸術と同じようにロジックではないと思います。それは論理とは違った道を通って私たちに働きかけるのです。私が嫌っているのは具体性のない言葉の上だけのロジック、それでいて人を何らかの形で強制するような、見せかけのロジックです。ですから、もしも「私たちは自然に生かされている」が、詩の一節なら、何も目くじらを立てる必要はないのです。

鈴木:なるほど、安心しました。

加藤:今日は有難うございました。おかげさまで楽しい対話ができました。では、次回。

   
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