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言葉と神
 
第13回  「言外の意味」を読む

加藤:私たちはこれまで「言葉」の問題をめぐって対話を続けてきました。私たちの問題設定とは、「世界のあらゆるトラブルは言葉の問題に帰着する。世界平和を実現するために、私たちは言葉をどのように考え、どのように理解したらいいか」というものでした。はじめに私たちは、わかりきっているはずの具体語としての単語の中にさえ、驚くほどの意味の多様性と偏差があることを確認しました。ましてや概念語となるとなおさらです。

鈴木:全くですね。学習しました。

加藤:その後私たちは、言葉の意味はそれを使う人の世界観と切り離せないこと、だからこそ言葉の語り手とその状況を理解しなければ、コミュニケーションが困難になること、また、私たちも自分の世界観を無意識のうちに相手に押し付けていることに気づくべきだ、ということも確認しました。

鈴木:これもまた、あなたによって意識させられました。

加藤:その後私たちは、言葉を用いて話すとき、かならずどんぴしゃ表現をしていないことにも気づきました。だから、コミュニケーションとは「言葉だけによるもの」ではなく、「言葉を含めた、いろいろな手だてを通して」、何とか通じ合おうとすることなのだという点を確認しました。そして前回は、私たちは「抽象的な概念語を用いて理路整然と話されることがら」には用心をすべきだという結論に達しました。

鈴木:「言葉」にこんなにたくさんの落とし穴があったというのは驚きでした。

加藤:さて、今回私は、「言外の意味」、あるいは「要約」の概念について話し合って見たいと思うのですが。いかがでしょうか。

鈴木:お願いします。

加藤:たとえば「なぞなぞ」のことを考えて見ましょう。オイデプスは「朝は4本足、昼は二本足、夜には三本足」という、スフィンクスの謎を解きました。この場合、なぞなぞは「あるもの」を説明する複数のヒント文、要するに「朝は四本足で歩き・・」というような文でできていますが、その「あるもの=答え=キーワード」は隠されています。その隠されたキーワードをいい当てるのがゲームの特徴です。

鈴木:そうですね。

加藤:むかし学校で「・・・・を一つの短文に要約しなさい」という国語の問題をやらされましたね。この場合、複数の文章があり、その内容が結局どういうことかをできるだけ短い文章で書いたり、いったりしなければならないのです。私は、これは形を変えたなぞなぞではないかと思います。要するに、適切なキーワードまたはキー表現を含む単文作りに成功すれば「正解」なのですが、それは、かならずしももとの文章や、もとの文の機械的圧縮ではないのです。

鈴木:「短文集約」と「なぞなぞ」が同じである、ということですね。

加藤:そうです。私たちが置かれている日ごろの状況は、おおむね、この「なぞなぞ」と同じ構造を持つものではないでしょうか。たとえば、以下のような状況文があるとします。「大きなテーブルの上には、食べ残しの皿が雑然と並んでいる。部屋の片方には、まだ飲んだり、しゃべったりしている数人の客が見られる。ボーイが一人、丸い盆を持ったままあくびをしている」。このような3つの文からなる場面を、あなたはどのような一文で要約されますか?

鈴木:そうですね。「ホテルかレストランの会食会で、もう終わっている」「しかし、まだ居残って飲んだり喋ったりしている客もいる」「ボーイはもう仕事もなく退屈して、そこに立っている」という三つのシチュエーションですね。キーワードは「倦怠感」としますと、一文は「食事会のあと、部屋にはまだ数人の客が居残り、倦怠感が漂っている部屋」とでも言いましょうか。

加藤:その通りですね。あなたの要約の中には「食事会のあと」「倦怠感がただよっている」という言葉や文がありますが、このような言葉や文は、最初の状況文の中には存在しなかった、あなたが要約のさいに新たに作られたものです。それでは、それでは次のような状況文の場合はいかがでしょうか。「黒板を背にした講師が何かをしきりに説明している。受講者が20名ばかり、講師に向き合って座り、せっせと筆記の手を動かしている。ときおり、遠くで自動車のクラクション音が聞こえる」。

鈴木:「講義の会場」「講師も受講生も勤勉」「室内が静かなので、遠くの車のクラクションも聞こえて来る」。キーワードは「緊張感」。となると一文は「緊張感あふれる講師と受講生のいる部屋」とでもなりましょうか。

加藤:その通りですね。この場合、あなたが用いられた「緊張感」というキーワードは、最初の文にはなかったものですね。私は、上のごく簡単なケースから、「個別文の集合」に対して、「要約」が可能になるということ、また要約表現をするということは、一連の文の趣旨をつかむということ、あるいは文脈をつかんで、自分なりのキーワードや別文で言い直すことだと感じますが、この点についてのあなたのお考えはいかがでしょうか?

鈴木:なるほど、複数の「集合」に中に、共通の「主旨」を見つけるならば、「要約」して単数化できる、ということですね。もっともだと思います。

加藤:考えてみれば、人は言葉としては個別の文を作り、話し、あるいは書くのですが、それを受け取るほうは、じつはそれら一連の文の要約である文脈を――さらには話し手の語調や、顔つきや、そのときの雰囲気なども加味しながら――情報として受け入れ、総合し、要約し、意味づけ、解釈し、理解しているのだと私は思います。その際に、人は、自分なりの表現を用いるのではないでしょうか。

鈴木:ひとが生存してゆくためには、小さく入って来た情報でも、脳はそれを最大限にふくらませて、生存のあらゆる可能性を探って、前進してゆくのでしょうか。

加藤:もちろん情報をふくらませることもあるでしょうが、圧縮し、いいかえをし、そのプロセスで解釈する、という方が適当ではないでしょうか。

鈴木:そうですね。

加藤:私は、人間関係のトラブルは、あまりにも個別文にこだわり、文脈の理解が不足しているために起こっているのではないかと考えています。つまり同じように提示されている「文の群」について、ある人はきちんと文脈を読んでいるのに、他の人は個別の文に着眼するだけで、文脈を読みきれていないということがあるように思います。

鈴木:各人の能力の差、方向性の差はいつも付きまとう問題でしょうね。

加藤:メルロ=ポンティは「言語は、語それ自身によってと同じくらい、語のあいだにあるものによって、事物を表現し、それが述べていることによってと同じく、述べていないことによって表現するのであって・・」といっています。これは人がコミュニケーションをするとき、語られていることを媒介として、語られていないことを知り、人はそれと気づかずに、あることを語らないことによって別なことを語っているということでしょう。これは、個別の文に対する「文脈」というものの位置づけを物語っているように私には思えます。

鈴木:なるほど、「眼光紙背に徹し」たり、「言外の意味」をさぐらないといけないわけですね。

加藤:そうですね。よく「行間を読む」などといいますが、それと同じことかもしれませんね。ところであなたは、よく読書のさいに、パラグラフごとのメモをお作りになり、それを積み重ねる形でご自分なりの「解釈」あるいは「判断」を導き出しておられますね。私はあのやり方は大変論理的で、すぐれた読書法であり、理解法であると思われますが、あのやりかたについて、詳しくご説明をいただけませんか。

鈴木:あぁ、以前、あなたが書かれた文章を理解する上で、そんな纏め方をしたことがありましたが、それがお目に止まったのですね。恐縮です。でも、そのやり方は何の変哲もないやり方です。どなたでもやっていることではないかと思いますが。つまり、相手の文章を、一切主観を交えずに、なるべく短く要約して、羅列してゆく。次に、その羅列文をグループ化して、グループ毎に、できるだけ短い要約文を書く。このあたりで、お相手の言わんとすることが、自分の中に染み込む。で、最後に、自分の主観を入れて、短く、まとめた文を書く。と、まぁ、こんなことです。

加藤:すばらしい。とくにおっしゃった中で「一切主観を交えずに、なるべく短く要約して」というところがとくにすばらしいですね。ご説明のやり方は「KJ法」にきわめてよく似ています。KJ法は、東工大名誉教授で民俗学者の川喜多次郎氏が開発された方法で、複数の情報を凝縮して本質をつかみとるという、あの方法です。

鈴木:ぼくは「KJ法」についてはよくわかりませんが、何十年か前に評判になったので、当時、川喜多氏自身が「KJ法」について解説した文庫本を1册だけ読んだことがあります。カードを使うところや、並べ方から深い意味を感じ取る方もいるらしいですが、ぼくはそういうところに関心がゆかなかったので、あまり、感銘は受けませんでした。ぼくは素材から要約という点では、カードを使うのは費用もかかるし、保管も大変なので使いません。裏を白にしたノートや紙に素材をランダムに書いて行って、要約する時は素材の文をハサミでバラバラに切り離し、グループ毎に糊付けします。これで全体像が要約できると自分では考えています。もっとも、どなたでもやっていることかも知れませんが。どうでしょうか。

加藤:いや、すばらしい。あなたはそのときすでにKJ法に近い、要約化と、最総合化という言葉の技法を独自に開発し、実践しておられたわけですね。私はKJ法、あるいはあなたがご自分で開発された要約法の中に、「言外の意味を読む」「独自に文脈をつかむ」というきわめて大切な、しかも高度な言語関連の活動を見ます。

鈴木:いや、あなたに褒められたら不安になってきました。ぼくはKJ法をほんとうには認識しないで、たんなる自己流だけなのかも知れません。それにしても、あなたの言われるように、膨大に降り掛かってくる情報を「要約し、文脈を掴み、言外の意味を読む」ことは、ほんとうに大切ですね。

加藤:考えてみると、私たちの日々の暮らし、常住坐臥、それはめったに文章化されることはありません。けれどもそれは生のままの事実の羅列=個別文の連なりです。たとえば、「朝起きた」「顔を洗った」「飯を食った」などは、それを実際の文にするかしないかは別として、あくまでも生のままの、日常的な事実です。ここにはまだ何の反省的概念も入り込んでいません。「朝」も「起きる」も「顔」も、すべては現実の、疑う余地のない事物として受け入れられ、処理されています。ですから、こうした事実の羅列は、たまたまそれを意識するとしても、認識の対象というようなものではありません。では、こうした事実に対して「要約=文脈の理解」はどのように介入するのでしょうか。私はいまここに「朝の日課」というキーワードを導入してみます。すると一連の文の意味するところを、たとえば「彼は朝の日課をいつものようにこなした」とまとめることができます。ここには事実の羅列に対する若干の抽象があり、観念化があります。

鈴木:キーワードの機能の重要さですね。

加藤:キーワードとしての「日課」という言葉の中には、事実の羅列の中にはない何か他の要素が入り込んでいます。そこでたとえば、「彼は何の疑問も感じることなく、朝の日課をこなした」といえば、私たちはもっと観念的な領域に近づいたことになります。「観念化する」とは、個別文の群れに「何のこと?」という疑問を与え、答えを得ること、つまり「文脈をつかみ、その意味するところを知る」こと以外のことを意味しないのです。私たちは前回、抽象的な「概念語」を徹底して退けましたね。ただし一つだけ条件をつけました。それは具体的な例をともなって示されるなら、概念語には意味があるというものです。私は今回、「概念語」は、単に「意味」があるだけではなく、それは「要約化」あるいは「文脈化」のためのカギになるのだ、といいたいと思います。

鈴木:概念語も正しく用いれば、大切な機能を果たすわけですね。

加藤:そうです。スタンダールの、「パルムの僧院」のファブリスは、戦場で新しい馬を5フランで買おうとします。以下スタンダールの翻訳文です。「(馬を引いてきた男)五フラン! 冗談もいいかげんにしな。もうすぐナポレオン(金貨)五枚で売れようっていう将校馬だぜ」「・・今買い取ったばかりの馬は、背に旅行鞄を感じると、すぐに後脚で立ち上がった。馬術に得意なファブリスも、それをおさえるのに必死にならなければならなかった」「・・彼の馬はいななき、二、三度つづけざまに後脚でたちあがって、ひきつけている手綱をぐいぐい頭で引っ張った」「・・馬は自由になるとまっしぐらに駆けだして将官につづく護衛兵にくわわった」。私はこの例文をスタンダールが「駿馬などという言葉を使うのは偽善だ」といっている、その事例として引っ張り出してきたものです。ですから、私にとっては、この例文はスタンダールが「いい馬」を「駿馬」という月並みな雅語を使わずに、生き生きと表現している具体例です。私にとっては、個別文の集まりは、「生きていて、しかも癇走った名馬を描き出している場面」としての意味を持ちます。しかし、読者によってはそう受け取らない人がいることも考えられます。要するに物語の一挿話、つまり「それまで徒手だったファブリスが、やっとここで馬を入手した」という以上の意味を見出さない読者もいるはずです。

鈴木:「猫に小判」ですね。

加藤:そうです。私からすれば、せっかく「パルムの僧院」を読みながら、「彼は、ここですごい馬を手に入れたな」と思わないようでは、たとえ「個別文」に目を通してはいても、スタンダールの面白さに接しているとはいえないのです。

鈴木:小説の読み巧者なら、そうするわけですね。

加藤:みながそうしているかどうか、私には分りませんが・・。たとえ意識的でないにしても、人は「情報=文」を要約しているのだと私は思います。私たちは日々状況=個別文の群に囲まれています。それらをどのような観点から捉え、どのように要約し、どのように幅広い意味で自分自身の利益に役立てるか・・・私たちは日々、そうしたゲームをやっているのではないでしょうか。それでは、きょうはこの辺で。

   
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