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言葉と神
 
第14回  暗喩を解く複数の解釈

加藤:前回の対話では、私たちは「なぞなぞ」の話からはじまり、「要約」の話に進みました。いずれも隠されていたキーワードをいい当てたり、あるいは話の「要点」や「本質」をいい当てる作業に関係していました。前回の対話の中では、あなたの「要約法」が、期せずして、いわゆるKJ法に似ていたので、私は大変興味深く、また感心しました。

鈴木:それは光栄なことで、嬉しいです。もっとも、ぼくはKJ法の思索的、哲学的な面には踏み込んではいないのですが。

加藤:今回は「暗喩」の問題を取り上げて見たいと思うのですが、いかがでしょうか。というのも、「なぞなぞ」が、「ひとつの正解」を求めているのに対して、「暗喩」は、かならずしも「ひとつの正解」を求めているとは限らないように思えるからです。

鈴木:「暗喩」を解くことは時として、とても難しく、お手上げになることがあります。ぜひ、これについてお話ください。

加藤:たとえば、ホメロスの詩句に「あたかも、空飛ぶ鳥の大群が・・われ先に降り立つと、草原は凄まじく鳴りとよむ。そのさまにも似て、船から陣屋から大軍勢が、スカマンドロスの平原にあふれ出た」というのがありますが、このように「***は、あたかも***のように」という表現は「直喩」と呼ばれています。これに対して、イソップの寓話のように、「狐は烏の美声をほめた。するとくちばしが開き、肉片が落ちてきた」という話は、何がたとえられているのか分りません。これは、解釈者が自分流に解釈してもいい表現で、「暗喩」と呼ばれます。私は今回、この暗喩の問題を取り上げて見たいと思うのですが。

鈴木:なるほど、「直喩」は「何々のようだ」という「比喩」であり、「暗喩」は「ようだ」という言葉を使わずにする「比喩」ですね。

加藤:そうです。あなたはつね日頃、宗教問題に強い関心をお持ちなので、今回は私はキリスト教の福音書の中にある、イエスの「たとえ」を例にあげて見たいと思います。たとえば、マタイ伝に記されている「ぶどう園の労働者」の話を例にとって見ましょう。ここでは朝早くに雇われた労働者と、夕方に雇われた労働者の賃金が同額の1デナリオンでした。かりに夜明けごろに雇われた労働者が10時間働いたのだとすると、最後にやってきた労働者に比べて時給換算で10分の1の低さになります。そこでその労働者が文句をいうと、主人はこう答えました。「友よ、私はあなたに不正なことはしていない。・・私はこの最後のものにも同じように払ってやりたいのだ」。私は長らくビジネスマンでしたので、この話にはどうも不条理を感じてならないのですが、・・もっともこの「不条理」が、暗喩にもちまえの謎ということになるわけですが、あなたの場合には、この「暗喩」をどのように解釈されますか。

鈴木:まったくもって、このマタイ20−1の譬え話ほど、ぼくを苦しめるものはありません。こうした理解に苦しむ話については、教会に通っていれば、聖職者の方が説明してくれるのでしょうし、あるいは、聖書解釈学の書物などをひもとけば、しかるべき解釈がほどこされているのでしょう、しかし、そのいずれもしない者にとっては、まったくお手あげです。しかし、ぼくにとっては、その翻訳文を読んでもさっぱり分らない、暗号文のような思索者アランの難解な文章、その宗教論などがあなたの完全な咀嚼力によって、ぼくにも分るように解説されるあなたのお仕事に長年接して来たお蔭で、ぼくにもキリスト教や宗教に対するアランの優れた感覚が僅かばかりですが、体内に入り込み、涵養されて来ているように思います。心からお礼申しあげたいと思います。

加藤:いやいや、とんでもないことです。私は何も特別のことをしておりませんので、あなたに感謝されるのはうれしいですが、それを受ける資格はないと思います。

鈴木:さて、さきほどのあなたからのご質問のイエスの譬え話の暗喩について、ぼくの自己流の解釈の一端を述べてみたいと思います。この「賃金」を労働の対価と解釈する限り、この話を読むと腹立たしくなります。同一労働をして、労苦多い者と楽をした者が同一賃金というのでは不公平過ぎてアタマに来ますからね。しかし、この「賃金」を、「神の愛」「神の恩寵」と読み換えるならば、合点がゆく筈です。つまり、どんなひとに対しても神の愛は等しい量授けられるというわけになりますから。主人から早々と雇われ、夕方まで働いたぶどう園の労働者を、ぼくは当時のユダヤ教の正式構成員すなわち税金を払える人、義人と解釈します。一方、市場に立って、誰か、雇い主が現れないかと空きっ腹と不安を抱えているひとを、当時のユダヤ教のシナゴーグから閉め出され、祈ることも許されず、神の愛からも見放されたと思い込まされたひと、病者、貧者、収税人、未亡人、売春婦、異国からの寄留民などの弱者と解釈します。義人たちは夕方、主人に不公平さを抗議しますが、マタイはいやいやそうではない、神の愛は平等なのだ、とイエスは言っておられるではないか、と言外にさとしているのがこのくだりだと思います。いかがでしょうか。

加藤:まったくその通りですね。私は今回のような暗喩を例にとった場合、答えはかならずしも一つではないと思うのです。たとえば「友よ、私はあなたに不正なことはしていない。・・私はこの最後のものにも同じように払ってやりたいのだ」という主人の回答に重点を当てて、「契約は、それぞれ個別におこなわれているのだから、AとBとの間に結ばれた契約に対して、Cが文句をいう筋合いはない」と解釈することもできですね。

鈴木:いやぁ、これはビックリしました。なるほど、そういう解釈もあるのですか。たしかに、それなら矛盾はないですね。

加藤:誰だって好き嫌いがありますものね。好きな人に「多く払ってやる」、あるいは好きな人には「おかずの盛り付けを多くする」「特別サービスをする」「特別配慮する」ということは、人間心理からいって当たり前ではないでしょうか。「公平にしてくれ」というのは一方の論理ですが、「好きなものには手厚く」というのも自然の論理ですよね。この点についてのあなたのお考えはどうですか。

鈴木:ウーン、ウーン、なるほど、そう言われてみると、それも可能ですね。ぼくには考えも付かなかった解釈です。なるほど、ひとが違えば、これだけ考え方が違うのですね。勉強になります。しかも、アランは常に、生身の人間の条件を普遍的な要素として、いつも導き入れていますから、こうした、宗教論議の時でも、宗教文化自体を堅苦しく考察する以外に、このように人間的レベルで、しなやかに考察することはとても大切なのですね。

加藤:また別の解釈の例として「早くから働いている人=早くに改心した人」、「いま働き始めた人=たった今改心した人」という解釈をすることもできます。つまり、善に目覚める場合、改心することが大切なのであって、改心するのに時期は選ばないという考え方です。もしも先に改心したものだけが余分に救われ、余分に神に愛されるということが分っているなら、悪人が改心するということはありえませんものね。

鈴木:これ又、実に面白い解釈ですね。これだから、暗喩は面白いのですね。ぼくは、その二者を義人と阻害された弱者と解したわけですから。いかようにも解釈されるわけですね。ところで、この話の締めくくりとして、「あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう」という言葉があります。これについてのぼくの解釈は次の通りです。「先の者」とは義人であり、「あとの者」は阻害された弱者です。義人たちは、生きている間、厳密に戒律を守り、神からもっとも可愛い奴だと思われているに違いないと、自信満々で、天国の門の真ん前に胸を張って立って、開門を待っています。しかし、槍を持った天使の兵は彼らに意外にも「うしろに回れ」と怒鳴りつけます。一方、うしろの方で、弱者たちは、戒律を守ったり、シナゴーグに入って祈ることも許されなかったんだし、神さまはさぞ怒っているんだろうな、天国にはやっぱり入れないんだろうな、とガックリ肩を落として立っていると、意外にも、兵たちは「さぁ、お前たちこそ、天国にまっ先に入る資格があるのだ、入れ」と誘導してくれます。つまり、この言葉にこそ、イエスがユダヤ教のひとをする差別する偽善性に激しく怒り、憎んでいる思想が込められていると思います。しかし、それを直接言えば、即逮捕となるので、大衆向けの辻説教の場では、暗喩という、どう解釈しても自由という逃げ道を作って語り、その中で、精一杯の皮肉を言っているのだと思います。ここにユダヤ教徒のための限定神ヤハウエと、イエスの考える万人のための神とそれを支持するマタイたちとの考えの違いが激しく表わされていると思います。

加藤:まったくその通りですね。あなたの演劇的、絵画的な解釈は、とてもわかりやすく、本質を突いていると思います。この考え方を教育者なら、「勉強を始めるのに、年齢もキャリアも関係ない。感激をもって勉強を始めることが大切なのだ」というように応用するかも知れませんね。「いくら先に勉強を始めても、勉強という習慣や形式の中に埋没してタコツボ発想しかできない人間、それに**学者とか、**先生などの肩書きや定評の上にあぐらをかいている者はダメだ。そのような者は、自分こそ先輩だと思っているかもしれないが、天国での席次は初学者にも劣るのだ」というようにね。

鈴木:なるほど、その通りですね。ぼくが、キリスト教を歴史としての枠組みの中で見勝ちなのに対し、あなたは、柔軟に、現代人にも今直ぐ通用する知恵の書として見られているのはとても参考になります。ところで、付け足しですが、歎異抄には「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」とあるのは有名ですね。先ほどの暗喩と結びつけると、似た所もあるかと思います。「善人」を「この世の秩序にうまく適合できて暮らせる者」と解し、「悪人」を「この世の秩序に適合できず、はみ出した者、阻害された者、犯罪者になってしまった者」と解すれば、イエスのいうユダヤ教徒とユダヤ教から阻害された者との二大区別に適合し、また「善人は自分で救えるが、誰も救ってくれない悪人を救う方に、仏の眼目があるのだ」という点も、イエスが言いたいこと、「ヤハウエはほんとうは万人を救う神なのに、今はユダヤ教の形式主義の枠内に閉じ込められて限定的な救済しかしていない。しかし、ヤハウエ神が真の姿になる時は、神は弱者こそ、力を入れて救うのだ」となるのでしょうから。

加藤:ご指摘のあった歎異抄の「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」は、最初に聞くと文の前のほうの「善人」を悪人に、後ろの「悪人」を善人に変えたほうが分りやすいというように響きます。つまり「悪人でさえ救われるのだから、善人は救われないはずがない」という理解の方が、分りやすく、スムーズなのです。しかし、これでは暗喩としてのインパクトに欠け、いってもいわなくても同じことになってしまいます。だから、この文にも先ほどのマタイの一節と同じような「解釈上の難しさ」があります。つまり、理解をする上での「ひっかかり」、あるいは「常識の逆」、といったらいいでしょうか。要するにパラドックスがあるのだと思います。

鈴木:なるほど、あなたは今「暗喩」にさらに「パラドックス性」を見られるわけですね。

加藤:解釈の一つの例として、ここでいう「善人」は、自分が善人であるという自覚と自負を持っていると考えることが可能です。この自覚と自負だけでも、もう謙虚さという点では何か欠けるところがあるのですね。私が学校の先生なら、「僕は勉強しているんだぞ。優等生だぞ」とヘンに自負を持っている子よりも、「僕なんかダメなんだ」と日ごろ自信をなくしている子に関心を持つかもしれません。そしてその子がいくらかでも進歩すれば「おまえ、よくやったな」などと、声をかけて喜んでやりたくなるでしょうね。この感覚が歎異抄のこの文の理解に必要になると考えることもできますね。そうすると、福音書でいえばイエスが百卒長に対していった言葉(マタイ8−5、ルカ7−1)の理解にも役立つし、また貴兄がいわれたように、「先のものが後になり、後のものが先になる」という「序列の逆転」の理解にも役立つかもしれませんね。

鈴木:あなたは良い先生になれますね、同感です。ところで、あなたが今出されたマタイ8−5の百卒長の話しですが、ぼくの雑感を申しあげてみたいと思います。たしかに、多くの者が、イエスの超人的わざをこの目で見ないとイエスの神性を信じないのですから、見なくとも言葉だけで信じることができる百卒長は、イエスにとってはまことにカワイイ奴でしょう。だから、「これほどの信仰をみたことがない」と言ってほめあげたのでしょう。しかし、ぼくはちょっと意地悪な視点でこの話しを眺めてもみたい。この百人の部下を持たせられた隊長は、もし、眼前に500人の敵兵がいたとして、今、突っ込めば全員殺されると分っていても、もし、上官から「突撃!」と命令されたら突っ込まなければなりません。否定したら軍規違反で処刑されるでしょう。つまり、百卒長にとって、「権威ある者から下がって来る言葉」とは「絶対的命令」です。彼は常日頃のこのような習性で、この時もイエスに相対した可能性もあるのです。そして、何よりも、いちばんイエスが望んでいたことは、自分の考え、言葉が絶対間違っていないのだから、ひとびとが軍隊の命令のように、自分の言葉に無条件で、一切の批判を停止して従ってくれないかなぁ! と望んだその内面の欲求ではないかと思います。

加藤:なるほど。そういう考え方もありますね。要するに、提示されている「謎」に対して、解き方はいくらでもあるということですね。ところで、歎異抄のテキストに戻りますが、私はまた別の解釈の例として、ちょっと品の悪い表現をして見ます。「善人だ、善人だとエバっていても、いずれくたばるのだ。ましてや、悪人など生きているうちから死んでいるようなものなのだから、いっそうみごとにくたばるだろう」と考えることもできると思います。「人間など誰でもくたばるのだ。積み上げた善根などクソ食らえだ。ただ、いま、仏の慈悲の前に安んじて身を投げ出せるかどうかが勝負なのだ」という具合です。いかがでしょうかね。そうすると、これも例の「ぶどう園」の暗喩に似てきますよね。

鈴木:あなたが時として、このように「お品悪く」「罵詈雑言」を表現されるのを聞くと、ぼくはニヤッと笑ってしまいます。人間、誰しも、お互いにお上品ぶって暮らし合っていても、人間の内面には、そのような罵詈雑言がトグロを巻いているのも事実であり、そうした人のヒトクサイ、悪臭を放つ面から決して目を離さないことは、アラン哲学にとって基本でしょうからね

加藤:それではもう一つ福音書の中からの難問を取り上げてみましょうか。マタイの14−22に記されている、イエスの水上歩行の件、すなわち弟子たちが船で湖を渡っているとき、イエスが水の上を歩いてやってきた、そこでペトロがイエスのまねをしたら、沈みそうになってしまったという、あの件について、あなたの解釈をお聞かせください。

鈴木:ぼくは若い時、聖書のこうした「奇跡」を読む度に腹立たしくなって、どうして、こんな馬鹿らしい荒唐無稽な話を大の大人、それも、大変知能指数が高そうな聖職者たちや信仰者たちが何千年も守り続けて来たのか、不思議でたまりませんでした。しかし、今では、それは聖書の暗喩性であり、その暗喩を解読することで、人間の普遍的な知恵を授かるのだ、と納得しています。もっとも、彼らの中には「宇宙と地球を創るという一大奇跡を果たされた神とその御子であるイエスが、空中歩行であれ、水上歩行であれ、望んでやれないことは何一つない」と、心から信じている方もいるようですが、その心情については近寄らないことにいたしましょう。

加藤:なるほどね。要するに、「それこそがイエスの奇跡だ」といって、奇跡をそのまま信じる人がいてもいいといいわけですよね。

鈴木:ほぉ、あなたは「奇跡を信じる人がいてもいではないか」という立場ですね。それもまた見識ある態度ですね。アランもすべての宗教を批判、否定しないで、在ること自体を認めて立論していますものね。さて、一般的には、この話は、イエスの水上歩行を見て、ペテロが本当にイエスを信仰できていれば、ペテロは水上歩行を続けられた筈だ。一瞬の疑いから溺れかけ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」とイエスに怒られたペテロが悪い。ひとの信仰心は何と弱いものか。心して信仰に打ち込もう、信仰が完璧ならば、水の上だって歩けるし、山だって動かせる、という精神主義的な自戒の呼び掛けのように思えます。しかし、ぼくはこの話を多層構造で眺めたいと思います。まず、表層A「信仰心の強固さ」の方から。

加藤:ほほう。どうぞお続けください。

鈴木:イエスは人間ですから、水上歩行は不可能です。したがって、この話しは作り話です。しかし、初期キリスト教団が形成された時代には、始祖を神格化する必要があった。そもそも新約聖書は、キリストの死後、50年から140年頃にかけて書かれた文書群だそうです。最初、キリストが語った言葉だけを集めて作られた文書(「Q資料」)があったらしい。それを数多くのひとたちが引き写し、そこにおびただしく自分の考え、作り話を付け加えていった。その多くの文書群から、教会指導部が現在のものを正典と決め、あとは徹底的に抹殺、消滅させた。したがって、今残っている新約聖書は、イエスをパウロ的視点、つまり、イエスは人でなく神であった、死後復活し、天に戻り、来るべき時に救世主として、この世を直すことために待機している、という像で描かれていますから、こうした水上歩行をしたり、パン五つと魚二匹を五千人に増やして与えたという超人性、神性は大切な舞台装置です。だから、この話しが作り話しであることには目くじらを立てず、「信仰心の大切さ」を隠喩として説いた、価値ある知恵として受け取るのがオーソドックスかと思います。

加藤:なるほど。

鈴木:次の層は「信仰心のゆらぎ」についてです。最近読んだ本に『自死という生き方』須原一秀著(双葉社刊)があります。この中で、作者はキューブラー ロスという女性について興味ある言及をしています。ロスは有名な精神医で、敬虔なクリスチャンであり、また終末医療の先駆者として、四十数年にわたり、数千人のひとびとの最後を励まして来、20人のエイズ患者の子供を養子にしようと奔走し、聖女とも呼ばれていたそうです。しかし、晩年、脳卒中で倒れたが、なかなか死が訪れないことにうんざりし、テレビインタビューであろうことか「こんな生活はうんざり、愛なんてよくいったもんだわ、神様はヒットラーよ、聖人、よしてよ、ヘドが出る」などと言ったという。

加藤:なるほど、これは勇気ある発言ですね。

鈴木:しかし、ぼくはこの「転向」でロスを非難するつもりはまったくありません。ぼくの言いたいことは、長年の信仰生活でも「ゆらぎ」があるのは、むしろ自然で、人間的であろうということです。さきほどのペテロの話に戻ると、彼は少なくとも、水上に立っているイエスに「おいでなさい」といわれたので、「船から降り、水の上を歩いてイエスのところに行った」のです。しかし、一瞬気持がゆるぎ、溺れてしまったのです。数メートルは「水の上を歩けた」のですから、大したことです。さすがは生業を打ち捨て、俗世間を捨て、躊躇なくイエスに附いて来たペテロです。余人に出来るものではありません。ペテロは「居眠り」をしたり、鶏が鳴く前に、イエスを知らないといって「裏切ったり」します。これまた、信仰生活に一生を捧げる真摯なペテロに一瞬訪れた、気持の隙、「信仰のゆらぎ」です。マタイも、読者に「激しく信仰に生きよ!」とハッパかける一方で、「しかしナァ、人間だから揺らぐ時もあるんだよナァ」と言外に伝えるなんて、なかなかイキな方のようですね。

加藤:いや、いや、これは立派な解釈ですね。

鈴木:しかし、信仰心は良い時もありますが、悪い時もあります。十分な検討が必要です。悪い信仰心は毒ガス/サリンさえまき散らします。また、テロに走る信仰心もあります。今、世界中でテロの問題が起きています。これは関係ないひとが死傷されることですから、卑怯きわまりない手段で、ぜひやめてもらいたいことです。しかし、あるテレビ番組を見て複雑な思いにとらわれました。それは四国ほどの大きさのパレスチナ/イスラエルの国土の現状のレポートでした。パレスチナ全土に広がっていたパレスチナ人たちの土地は、新しく入って来たイスラエル人にどんどん武力で追い払われ、何十分の一かの小さな囲い地に追い込まれ、難民状態になっていました。これを日本に当てはめたらどうでしょう。ある日、突然、国連が日本をロシアのものだと決め、ロシア人が乗り込んで来て、日本全土を核兵器を含む強大な武力で占領し、自衛隊の武器を全部乗っ取り、日本人が住めるところは沖縄県だけだと決め、日本人全員は住む家、土地を放棄させられ、鞄一つで、沖縄に渡らせられ、ひしめき合って、冬空でもテント暮らしをする。まるでそんなことと同じです。血気さかんなひとたちは、自分の身体に爆薬を巻き付けてテロをしても、ロシアへの恨みを晴らそうと思わないでしょうか。そこに宗教の原理主義の信仰心が抜き差しならぬクサビとして入っているわけです。

加藤:切迫した現実的な問題、そこから生まれる激しい情念が宗教的感情と結びつくわけですね。

鈴木:しかし、特定の宗教への信仰心という限定的、相対的、文化現象的な心の層の下に、さらにひとというものが抱く普遍的な「信じる心」という下層があります。それが人類の文化文明を発達させ続けて来ているのですね。その「信念」ゆえに、ひとは宗教的善や政治的ユートピア、科学的進歩や芸術的新境地を求め続けて止まないのですね。アランとあなたは、そうした信念の正体とは何かについて、徹底的に見透かしていますね。それは、デカルトのいう「われ思う、ゆえにわれあり」のことなのですね。宗教、政治、科学、芸術などが、人間の外側にあって、それを人間が目指すのではなくて、それらを信じるという、自分の心を信じることが、「信じる心」の正体なのですね。

加藤:いや、あなたがすべてを語ってくれたので、私があまり多くを述べる必要はなくなりました。水上歩行に関していえば、私もあなたと同様、このエピソードをペテロの「一瞬の疑い」に比重をかけて読むやり方が好きです。ただ、水上歩行に関していえば、イソップを読むときには「狐とからすが話をした」といっても誰も文句をいわないのに、「イエスが水の上を歩いた」というと、急にその話の真偽が問題になるというのは奇妙なことだと思います。おそらくこの二つの話は同じようなことなのです。第一、私はその現場に居合わせなかったのですから、「本当だ」とする根拠も「嘘だ」とする根拠を持っていないのです。そこで、この話に関しては、私はペテロの教訓だけを受け取り、水上歩行の真偽に関しては「ムリに結論を出さない」ことがいいのではないかと思います。

鈴木:なるほど。ぼくはあなたを通してアランが、ローマカトリックの正式教義、「イエスは人間の罪をあがなうために、神からこの世につかわされた」を、いともあっさりと否定して立論してることにびっくりし、なるほど、そういう宗教に対する態度もあるのだ、と力付けられました。そして、そのアランの立論はまことに正しいと感じました。そして、それに感化され、この度は聖書解釈にあたり、大真面目で、肩ひじを張って自分なりの意見を述べてみました。しかし、あなたが聖書など、「しょせん自分はその場に居合せなかったんだから、真偽など分るものではない。『狐とからすが話をした』と同じようなものだ」と言われるのを聞いてびっくりしました。なるほど、そういう読み方もあるのですね。『狐とからす』に準じて、「むかしむかし、イエスさまという神様の子供であり、また神さまでもある方がござってな、ある夜、湖の水の上を、なんとまぁ、沈みもしねぇで、軽々と歩かしゃったとさ」てな具合に聖書を読む手もあるのですね。ハハハ。気が楽になりました。

加藤:それでは、今回の「暗喩」に関する対話のまとめをさせてください。要するに私たちは複合的な情報環境の中で、さまざまに解釈しながら生きています。というのも、それらの情報群の多くは、「事実そのもの」あるいは「直喩」のように見えながら、じつは「暗喩」であることが多いからです。そこで、解釈の仕方は一通りではなく、絶対的正解という解釈はないと私は思います。その時代、そのとき、その人にとって、その状況の中でベターな解釈があるのだと思います。そしてそれが多くの人と、平和に、幸福にやれる解釈であれば、なおすばらしい、ということになるのではないでしょうか。それでは、有難うございました。

   
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