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言葉と神
 
第15回  国語の通訳・翻訳は可能か

加藤:前回は、楽しい議論を有難うございました。きょうは国語の通訳、あるいは翻訳について考えてみたいと思います。といいますのも、国語の翻訳の問題も、つまるところは情報をどう受け止め、理解し、解釈するかという問題になりますから。

鈴木:ほー、「通訳、翻訳」も検討に入るのですか。

加藤:言葉の問題は、つまるところ言葉の理解に関する問題です。だから、通訳、翻訳は当然重要なサブテーマだと思います。ところで、あなたは長らく外国でお暮らしで、フランス語、英語がご堪能ですから、暮らしの中で、あるいはお仕事の面でコミュニケーションの問題でお困りということはなかったでしょうか。それでもやはり「国語の壁」はお感じになったことでしょうね。

鈴木:ぼくは「堪能」ではありませんから、困ったことはたくさんありました。とくにフランスに着いた直後は、あまりにも早口に聞こえて、聞き取れず困りました。東京の日仏学院で教えてくれたフランス語の先生はとてもゆっくり喋ってくれていたんだ、と実感しました。それに「外国人だから手心を加えてくれる」という風習はまったくありませんからね。しかし、慣れて来ると例え分らない単語でも、その単語をはっきり聞き取れるようになるのは面白いです。

加藤:なるほど、そうですか。これまで私たちが確認したところでは、自国語同士でさえ誤解や、取り違えということが起こるのですから、異国語間ではもっと大きなコミュニケーションのずれが生じることは当然ですよね。私は外国語がまったくダメで、いちばんましな英語でも、何しろ「一語期」の状態にありますので、自分のことは語れません。そこできょうはむしろ翻訳者によって訳された文章や、通訳によるコミュニケーションのことを考えて見たいと思います。

鈴木:なるほど。

加藤:私たちは朝から晩まで翻訳家、通訳者のお世話になり、諸外国のことについてはほとんどが翻訳というプロセスをへた情報で間に合わせています。ところで、翻訳にも下手な翻訳とうまい翻訳があることがわかります。あなたは、上手な翻訳と下手な翻訳の違いをどのように見分けておられますか。

鈴木:ぼくはあちらで、役所や芸術団体などから来る滞在許可や税金、各種通知などの通達文が来るとうんざりしました。誰も助けてくれないから、全部自分で辞書をひいて理解しなければなりませんから。しかも、とても重要なことが書かれています。でも、その内、通達文書の定型が分って来て、楽にはなりましたけど。文学作品の翻訳には手を出したことがありませんから、翻訳の上手下手は分りません。何十年か前に、有名な翻訳家たちがいかに「誤訳」をしているかについての暴露本が何冊かでたことがありますね。専門家でもそうなのですから、翻訳家のご苦労は大変だと思いますね。

加藤:まったくですね。ここで具体的な問題を考えて見たいと思います。たとえば、キリスト教圏には「天かマナ(Manna from Heaven)」というイディオムがあるようです。これはふつう日本語では「棚からぼたもち」と訳されます。つまり「天からマナ」では生硬すぎて、聖書の背景が分らない人には意味をなしません。英語には「子供は大人の父(The child is father to the man)」という格言がありますが、これでは何のことかわかりません。これは「三つ子の魂百まで」と訳され、何とか機能します。けれども、「天からマナ」と「棚からぼたもち」は決定的に何かが違いますよね。それに「三つ子の魂」も、よく考えると意味が違うように思えます。

鈴木:なるほど、そうなのですね。うまい例を出されましたね。

加藤:「天からマナ」という場合には、与えられたものが「恩寵」であるというニュアンスを持つと思います。これに対して棚から落ちてきたぼたもちは、少しも恩寵ではありません。それは偶然による利益に過ぎません。また、「子供は大人の父」という格言の場合、そのパラドックに妙味があり、さらに子供時代に人生が決定されるのだ、というニュアンスが汲み取れます。けれど、「三つ子の魂」の場合には、パラドックスの面白みは伝わりません。むしろ幼い時代の「志」のほうに力点がかかっているようにも思われます。

鈴木:深い解釈ですね。

加藤:それにまたたとえば日本語と西欧語とのちがいについて言えば、西欧語には名詞に性別があったり、複数と単数によって言い回しが違うなど、どうしても日本語に訳しきれないニュアンスが残ります。そこで私が言いたいのは、次のようなことです。翻訳とは、Aの国語の文化的な背景を理解して、Bの国語の文化的な背景の中にそれを置き換えるということであり、決して逐語訳にはならないということが一つ。それにもかかわらず、A国語がB国語にうまく置き換えがされたとき、何かが失われ、本当の意味での「翻訳」あるいは「通訳」にはならないのではないか、ということです。この点についてのご意見はいかがですか。

鈴木:たとえばヨーロッパ人同士が映像世界などで「愛しているよ」というのを聴く時、ぼくなどは今だに日本人流の「好きだよ」という言葉との差違をよく分っているとは言えません。

加藤:以前にあなたと「神」という言葉をめぐって話をしましたが、西欧で言う「神」と日本古来の「神」とは、違っています。しかし、ほかの言葉をあてるわけにはいかない。そこでやむなく「GOD=神」ということし、これで間に合わせているわけです。そしてA国の人とB国の人はお互いに同じことを話しているつもりでいるが、じつは、少しずつ違うことを話している、ということもあるわけです。

鈴木:まったくですね。「神」という言葉は観念語だし、文化のひとつの現象だし、従ってその中味が文化の異なる民族や国によって時に大きく、時に小さく変わるのは当然でしょうね。ただ、どんな民族でも国でも、自然や死などの背後に何か超越的な観念を想像して、それに畏敬の念を捧げるという点では共通しているので、直訳表現が不可能に思えるものでも、意志の疎通はできるのかも知れませんね。極端なはなし、仏教というのはシャカ自身が、自分の死後、自分を神格化してはいけないと禁じたにかかわらず、ひとびとはシャカへの思慕を抑え切れず、その禁を破り、シャカを「ホトケ」という、いわば「神」にした観念操作だと思うのです。この時、仮に「仏」を「神」と翻訳したら怒られるでしょうが、本質的には同じものだと思うのです。

加藤:なるほどね。私はさらに飛躍してこんなことも考えて見ます。たとえば、「平和」とか「秩序」「正義」といった概念語、それに「核兵器」とか「テロリズム」というかなり具体的な言葉についても、厳密にはA国語とB国語の間には超えがたいニュアンスのギャップ、あるいは理解や解釈のギャップが内在しているのではないか、ということです。

鈴木:まったくその通りですね。「ひとは平和であるべきだ」、「ひとは秩序を守るべきだ」、「ひとは正義を守るべきだ」、「ひとは核兵器を使うべきではない」、「ひとはテロリズムに走るべきではない」という当為(ゾレン/あるべきこと)はすべて、個人に対してはほぼ100パーセント有効だと言ってもよいと思います。しかし、個人ではなく、「国家」「集団」「組織」などになると、「当為」は、すべて反対の倫理に変化する可能性に満ちていますからね。「これからのイスラエルの平和を打ち立てるためには、今までのパレスチナの平和を壊さねばならぬ」、「わが大国内の秩序を維持するためには、少数民族の秩序を壊さねばならぬ」、「イスラムの正義のためには、他の正義を壊し、テロに走らねばならぬ」、「敵国日本に決定的打撃を加えるためには核兵器を使わねばならぬ」とかはその例でしょうね。

加藤:同じ言葉でも「個人」が用いる場合と、「組織」や「国家」が用いる場合とでは意味が異なるという、あなたのご指摘はとてもいいところを突いていますね。たとえばサラリーマンなどは、会社で用いるオフィシャル用語と、個人間で話し合うパーソナル用語を完全に使い分けているのが普通です。卑近な言葉で言えば、一方はタテマエ言葉であり、他方はホンネ言葉という具合です。この場合、用語や用法も異なるのですが、同じ単語にも異なるニュアンスが盛り込まれる、ということにもなりますね。たとえば、オフィシャル名の「社長」と、社員間のパーソナルな場での「社長」という言葉のようにです。

鈴木:え? 社員間の「社長」というのはどういうニュアンスですか? 飲み屋で「うちの社長ときたら」と言う時の揶揄のニュアンスなどですか?

加藤:そうです。オフィシャルな「社長」は、機能としての、あるいは敬意の対象としての社長ですが、飲み屋での「社長」は多くの場合、人格的不完全さの拡大像として現われます。不思議なことです。ところで、たとえばここに現代物理学の専門家がいるとして、彼が研究している最先端の学問の話をやさしく説明してくれたとします。つまりこの場合、彼は専門の話をできるだけ日常の言葉に置き換えて、いうなれば通訳、ないしは翻訳してくれるわけですが、私はそれを聞いてもたぶん理解できないだろうと思います。この点に関して、たとえば物理学などという学問を持たない未開の民族の人が同じ説明を聞くのと同じでしょうね。要するに、この場合の日常語への翻訳は外国の言葉の翻訳と同じようなもので、通訳、翻訳は基本的には「似て非なるものである」なのであり、そのために理解不可能になるのです。

鈴木:まったくその通りですね。ぼくなど、高度な現代の自然科学の知見、例えば宇宙物理学、量子力学、遺伝子学のことなど、仮に素人にも分かるというタイトルの概説書を読んだとしても、その実体は理解できないと思います。象を一度も見たことのない江戸時代のひとのように、なるほど象とは身体が小山のように大きく、耳はタライぐらい大きい動物なのかなどと、例えばなしの範囲内で了解するようなものでしょうから。

加藤:まったくです。では、今度は専門家の勉強について考えて見ます。たとえば、20歳までフランスで通常の勉強をしてきた一人の学生が一念発起して、「世阿弥」について学びたいと思い、日本にやってきて日本語を勉強し、日常の日本語の操作はもちろん、ついに世阿弥の原典を古文書のレベルですらすら読めるようになったとします。この場合、彼の「能」に関する教養は、おそらく通常の日本人のそれよりもはるかに高いことになりますね。しかし、この場合も彼の理解は、あくまでも根本的にはフランス人の理解でしょう。彼は世阿弥の言葉を結局のところはフランス人のベースで理解し、一フランス人として日本の「能」のすばらしさに感心するに違いありません。それは日本の中で日本人として能を勉強した人とはまた違った理解だと思います。また私は、それはそれでいいことだと思います。

鈴木:その通りですね。生まれ育った国の自分の血肉となっている文化と、成人して、頭で学習して得た文化との間に壁がないといっては確かに嘘となるかもしれませんね。そして、それはそれで良いのですね。ただ、最近の異国間の文化交流はすさまじいですね。最近は欧米人が来日して生活し、古典芸能、尺八、日本画、武術、禅その他を普通の日本人よりも深く理解し、実行している例はとても多いですね。逆に日本人が現地でフラメンコ、アルゼンチンタンゴ、ヨーデル、料理、ジャズその他で、現地人以上の成果をあげている例もたくさんありますね。これらは身体能力やカンの良さで学ぶので追い付くことが容易なのかも知れませんね。そうなると、フランス人を打ち打負かすワインのソムリエも出れば、ヨーロッパ人にひけをとらない歌手、演奏家が陸続と出るわけですね。

加藤:私はあなたのヨーロッパについての教養も、上のケースに似ていると思います。あなたはヨーロッパの中世に関しては、通常のヨーロッパ人よりははるかに高い知識レベルにあると思います。しかし、それでもあなたはそれを日本人であることをベースに理解し、さらにはそれに芸術的なイメージを加えて表現しておられます。その表現は、中世ヨーロッパの翻訳であり、再解釈であり、あなたが日本人であるがゆえの、独自の再解釈となっているのです。逆にいえば、その解釈は根っからのヨーロッパ人にはできないかもしれないものなのです。だから、学者や翻訳者の仕事は、一般の人々のための再解釈提供者として意義を持ちます。あなたはこの仕事を芸術のレベルでおこなっていますので、なお、いっそう尊敬に値するわけです。

鈴木:お褒めにあずかり嬉しいです。今話題に出されたこと、ぼくがヨーロッパ中世を小説化し、刊行した『中世の旅人ヤン』(連合出版)の話ですが、あなたの言われたこと、ぼくの日本人としての再解釈、翻訳であることはまったくその通りですね。さきほどの能研究家のフランス人の業績は、日本では「フランス人とは思えない深い理解に驚く」などと評されるのでしょうね。それは彼の仕事が「しょせんはフランス人だが、そのわりにはよく学んでいる」、「しょせんはフランス人、よくは分ってはいない」などと言われる程度以上に質の高い仕事をしたからなのでしょうね。その意味で、仮にぼくの小説が翻訳された時、どんな毀誉褒貶の評が出るかが楽しみです(笑)。もっとも、ぼくの仕事は、あなたが言ってくださったようにフイクションの面があるので、学者の仕事とはちょっと違う面がありますが。

加藤:いや、私はあなたの小説「中世の旅人ヤン」がヨーロッパの言葉に翻訳されたら、きっと高い評価を受けるにちがいないと思いますね。ヨーロッパには随所にまだ中世の面影が残っていますから、あなたの小説のディテールはかなりリアリティを感じさせるに違いありません。また描かれている主題は普遍的な事柄ですから、彼らもきっと共感をおぼえるのではないかと思います。

鈴木:たいへん嬉しいお言葉です。

加藤:ところで、私を含めてごく普通の人は、一種の「伝聞」ともいえる「翻訳」で間に合わせているのではないでしょうか。この場合、翻訳文に接する人は、「似て非なるもの」を読みます。しかし複数の翻訳情報や、事柄、事物などに接してゆくうちに、どの部分が「似て」いるのか、どの部分がどう「非なるもの」なのか、ある程度は察することができるようになったり、前後を照合してそれなりの理解にたどりつくことができると思います。この場合、最初の翻訳情報はどんぴしゃではないが、まったく嘘ではないということが分ってきます。私たちにしてみれば、翻訳文だからといって拒絶していれば、その「おぼろげな情報」さえも手に入らないのですからね。それは「テレビや新聞の情報には色がついている」からといってマスコミを利用しないで生活ができるか、という問題と同じでだと私は思います。

鈴木:まったくですね。たとえあいまいな情報でも、情報をたくさん受けることは絶対に必要だし、その過程の中で、言われるように情報の中での真実性と嘘が次第に明らかになるのでしょうね。たとえば今、大問題になっている世界規模の金融経済危機だって、入って来る情報は無限にあるけど、そのほんとうのところの仕組みを理論や実体のデータとして分っているひとは一握りのスペシャリストなのでしょうね。第一彼らだって、アメリカ経済は好調だという長年の情報の蔭で、実は進行していたサブプライムローン問題による繁栄の崩壊という真実性を見抜けなかったぐらいですからね。しかし、この崩壊情報と従来の情報の虚偽性が、またおびただしく流されることにより、全世界はどう対処すべきかについて、また新たに叡智を結集することになるのですから、情報はほんとうに大切ですね。かつての世界恐慌の時とは違うのは、全世界的規模で行き交う情報量の多さと報道管制をはねのける情報の民主化の体質ではないかと思います。よく世界の首脳や金融経済の専門家などが開く会議を、あんなものは金ばかり掛かってお祭り騒ぎで意味がないと批判する向きが多いですが、ぼくは反対です。かつての世界恐慌などの時には、こうした地球規模の交流がなかったから、いきなり大火傷を負ったのだと思いますので。

加藤:なるほどね。あなたがあげられた金融経済危機の例は、言葉の問題を考えるいい例かもしれません。というのも、投機や投資の世界は、いつでも言葉に、それも過剰に反応しているからです。そして株価がむやみに暴落するという現象にしても、銀行の取りつけ騒ぎにしても、言葉がひきおこすパニック以外のなにものでもないのですから。私の考えでは、パニックとは何らかのキーワードをカタストロフに短絡させて理解したり、解釈する情念的なやり方なのです。そのやり方が社会的な情念の連鎖を作り出すのでしょう。

鈴木:なるほど、ここにも言葉の持つ本質のひとつが顕われるわけですね。言葉は理念を堂々と表わすが、同時に流言飛語になってひとをおびやかすような姑息なこともすると。 おそらくそうでしょうね。

加藤:そうですね。いずれにしても「翻訳」とはものごとを、自分の枠組みで解釈すること、あるいは解釈しなおすことであり、同時に、相手もその解釈についてある程度同意しているのだと感じたり、信じることですよね。私たちの言葉はたどたどしいものであり、これを伝える人もたどたどしい。テレビの情報もかなりアバウトで、色がついている。翻訳情報も要するに翻訳した人の解釈であり、いってみれば「似て非なるもの」である。しかし、私たちはこれらを利用しつつ生きなければなりません。そして私たちは誤りから出発し、正しいものに進む以外に道がないと思います。誤りもこれをいったん受け入れなければ、それを修正することができないと思うのです。いや、むしろ言語に関しては誤ちからしか、いくらかでも正しいものに進み得ないとさえ私は思います。それは子供が意味も分らずに言葉を口にし、だんだん正しい意味に近づいてゆく、あのプロセスと同じだと思いますが、いかがでしょうか。

鈴木:ひとの人生に似ていますね。ひとは生まれて来る。生まれることは、生物学的には真実以外の何物でもない。もし他の動物と同じように「文化」を持たずに生きてゆき、死ぬのであれば、そこには何の「誤り」もない。しかし、ひとが「人間の文化」の中で生きてゆこうとする時、そこには「確固として正しい」ものなど何ひとつなく、「誤り」に満ちている。あるとすれば「正しいと信じる」決意しかない。ぼくのような気質の者にとっての人生とは、基本的に「わずらわしい」ものです。しかし、その「わずらわしさ」を、「生き生きとして、晴れやかな気分」にどこまで変質させられるか、それが生きることの意味であり、たいへん困難な努力目標です。この変質を希求して「たどたどしく」生きて来ました。「言葉」も、その習得はたどたどしい模倣からはじまり、やがてその上に個人や組織として正しいと信じる理念の「創造」の花を咲かせようとする意味で、ぼくには似ているように感じられます。

加藤:立派なご意見です。子供のときには、大人や先生が間違った言葉遣いを、たいていはその場で訂正してくれました。しかし私たちのように老人になると、もはや間違いを訂正してくれる人なんていなくなってしまいます。そこで、私たちは自分で一歩一歩、言葉を、手探りで、吟味しながら進まなければなりません。それは私たちが、自分で自分の責任で情報を解釈しなおすということでしょう。そこで私は、日々、耳にする言葉、目にする文章どれもが、私たちに突きつけられた認識論上の例題であり、解釈上の課題ではないかと思うのです。つまるところ私たちは「言葉の真実」、いいかえれば「言葉の解釈」を訪ねてさすらう、永遠の旅人なのでしょうね。

   
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