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言葉と神
 
第16回  ヘッドライトに照らされた世界

加藤:私はきょうは、「単語」は「文」の中でしか意味を持たないし、「文」は「文脈」の中でしか理解されない、ということを取り上げて見たいと思います。また、勝手なきめつけから話を始めることを勘弁してください。

鈴木:どうぞ、お始めください。

加藤:私たちは以前に「鉛筆」とか、「コップ」という単語を取り上げましたね。そしてそれが、使われる文の中で、ときとしてずいぶん大きな偏差を持っていることを確認しましたね。

鈴木:まったく、あんなに偏差があるとは驚きでした。

加藤:私としてはあのときの話に戻って、もっと大胆に「鉛筆」、あるいは「コップ」という言葉は、それ自身では無意味だ、といいたいのです。なるほど、私たちは鉛筆という言葉も知っているし、コップという言葉も知っています。けれど、単語それ自身としては意味を維持することはできません。たとえば、鉛筆がなかった時代の文献の、ある文章の中に前後の脈絡なしに中に私が「鉛筆」という言葉を挟んだとしたら、それを読む人は面食らうでしょう。それはまったく無意味なのです。そうお思いになりませんか。

鈴木:「紫式部は鉛筆を持ち替えた」と書いてある文章を呼んだら「えっ?」と思うでしょうね。

加藤:その通りです。つまり、私たちは「鉛筆」という言葉を理解するにあたって、誰が、いつ、どこで、・・という有名な5W1Hの情報とともに、それを理解し、受け止めるということになるのではないでしょうか。じつは私は一つの単語の意味を理解しようとするときには、5W1Hの情報が補完されていても、まだ足りないと思っています。

鈴木:えっ? それは何でしょうか。

加藤:たとえば、私はある人から、あるときに「あなたは賢い人ですね」とか、「あなたはいい男ですね」とかいわれたとします。しかし、そのとき私はどういう意味でそれがいわれているのかを探ろうとするでしょう。つまり、「賢い人」とか「いい男」という言葉は、その反対の意味である公算が大きいと私は踏むのです。皮肉やあてこすりの目的で使われた言葉は、型どおりの5W1Hを超えた、もっと別の文脈、あるいは状況の中ではじめて理解されると私は思います。

鈴木:ハハハ。ぼくたちは自分の中に劣等感の一つや二つを持っているのは通例ですから、それに引っ掛かって来る言葉には、即座に身構えますよね、確かに。

加藤:単語が一つの文の中で意味を持つように、一つの文も一つの文脈の中で意味を持ち、その文脈も、それをとりまいている複数の文脈群の中ではじめて意味を持つ、と私は考えているのですが、いかがでしょうか。

鈴木:有名な小咄に、京都では、お昼どきによそ様を訪問した時、「どうぞ、お昼でも召し上がって行ってください」と言われて、「そうですか。では遠慮なしに有難く頂きます」と言ったら、あとで大馬鹿者のレッテルを貼られるというのがありますね。これは固有の文化の中では、言葉が固有に染め上げて使われている例でしょうね。また、日本人は一年前にまんじゅう一個でもご馳走になったら、必ず「あの節はご馳走になりました」と言わなければ礼儀知らずになると教育されて育っていますね。しかし、もし、ヨーロッパ人に同じことを言ったら「何て嫌な奴だ。済んだことを持ち出して、また食わせろと要求してやがる」と思われるでしょうね。文化の違いですね。

加藤:まったくですね。そこで次に私にとって気がかりなのは、それらの一連の文脈群が、どのようにして私たちの前に現われるのかということです。それはおそらく私たちが世界を眺めているからであり、その中でも特に興味ある事柄に注意しているからではないかと思います。興味ある事柄は、以前から知っていることであったり、そのときにとくに強く心に惹かれることであったりします。たとえば、私たちは毎日新聞やテレビの報道を通して、いろいろなことを知るわけですが、それらの事柄や出来事は、私たちが過去に学んだ知識群に突き合わされて、意味を持ち、文脈群として増殖します。たとえば、あなたが特に中近東の政治問題に関心をお持ちだとする。そこへ新しいニュースが入ってくる。するとあなたは過去にお持ちの知識との関連でそのニュースを受け止め、了解します。いかがでしょうか。

鈴木:その通りですね。世界にあふれる膨大で無限な情報はまず自分に興味があるかないかで、とっさに選別されますね。そして興味のある情報は時間と人生の流れの中で、どんどん蓄積されてゆきますね。ぼくが中近東の情報に興味があるのは、最初にキリスト教とは何なんだろう、という問題意識ですね。すると当然、旧約、新約の舞台のユダヤ、パレスチナの自然環境が視界に入って来る。その中で営まれる人間の生活、習俗、民俗をさらに知りたくなる。すると、この目で見ないではいられなくなり、現代のイスラエルを旅行する。すると、古代のイエス活躍の場所、ガリラヤ湖地帯をはじめ、今でも黒づくめのキリスト教原理主義集団の住む地区、イスラエルに抵抗するパレスチナの民族抵組織が銃を持つ地域などを目の当たりにする。すると、それはかけがえのない身近な情報の固まりとして脳に刷り込まれる。すると、日本にいて、イスラエルに土地を追われて苦しむパレスチナ人たちの新しい情報がドキュメンタリーテレビなどで見ると強く感情導入してしまう。まさに、あなたの言われるように、「過去の知識との関連でニュースを受け止め、了解する」行為を行なっています。

加藤:その通りですね。たとえば、今日入ってきた中近東の政治関連ニュースは、この問題に何の関心もない人にとっては、単に脈絡のない言葉の群に過ぎないもので、すぐに忘れられてしまいます。忘れられないまでも、文脈としては了解されません。ところが事情をよく承知しているあなたにとっては、それは、あの地方の新しい政治的局面を意味する「重要な契機」と受け止められるかもしれません。

鈴木:まったくその通りです。過去にピロスマニという、素晴らしい素朴派の画家を生んだグルジアという国は、ぼくにとって、その芸術と民俗の魅力で大変ぼくの魂にとって身近であり、その国名が出るとサッと耳をそばだてますが、もし、そうした魂の繋がりがなかったら、現代史の中でありふれている、宗主国に抑圧されている弱小国のひとつとしか映らず、そこから入るニュースも「重要な契機」とはならないでしょう。

加藤:あなたご自身の具体的な体験にもとづくお話で、とてもぴったりした事例ですね。たとえば、昨今、世界的な経済危機のあおりで、突然の解雇を言い渡された労働者のニュースが連日のように報道されています。このニュースも、労働者の立場から労働問題を考えている人と、反対に企業経営者の立場から考えている人とでは、受け止め方が違いますよね。それは、彼らのもっている文脈のちがいだと私には思えます。片方は「例によって資本側の横暴だ。弱者を使い捨てるとはけしからん」というでしょうし、他方では「君たちは非正規雇用という言葉の意味を知らないで働いていたのか」というでしょう。

鈴木:たしかに政治経済問題は、そのひとの現世の中での強者性、優位性、あるいは弱者性、劣性の人生観を露骨に反映する文脈を形成しますものね。バブル時代、職はどこにでもあり、たとえボーナスや健康保険、年金がなくとも、縛られない自由な派遣社員の途を選ぶひとさえ現れましたからね。ひとを雇う側の強者にとって、被雇用者は、一皮剥けば、いつ自分を裏切って転職してゆくかも知れない信用できない者と認識していたでしょう。
被雇用者は、憲法が保証する基本的人権、ひととひととの間の自由平等権が確立されていると信じて、この世もまんざら捨てたものではないと感じていたことでしょう。

加藤:本当にそうですね。

鈴木:しかし、昨今の不況時代となると、首を切られても転職先はなし、社員寮は追い出され、派遣社員はまっさきに首を切られ、ネットカフェ難民から路上生活者に転落を余儀なくされるありさまです。基本的人権、自由平等権など何の裏付けもない幻影の文脈だったと知らされ、ほぞを噛むしかありません。こうした自己中心の文脈のぶつかり合いから、相互がともにエゴと利益部分を削り合い、痛み分けの形で妥協形態が成立できないものでしょうか。それは、政権が変わる程度のレベルではなく、紙幣制度、国債制度、株式会社制度、株式投資制度、法人税率、社内留保の優先確保制度、雇用と非雇用関係制度、人権などなど、これら過去に積み上げられて来た人類の叡智の、地球はじまって以来の大変革、価値転換が必要かも知れません。それは地球上の先進国の失業率が40パーセント位に達し、ジェット機で海外旅行することや暖冷房も不可能になり、一日二食になり、失業した被雇用者とその家族の自殺が年間1千万人となり、失業者からの報復殺人、爆破テロが全世界で横行する時代かもしれません・・。

加藤:まったく同感ですね。ところで、私は各人に見えている世界、すなわち各人に理解されている「世界」、あるいは「状況」、いいかえればその人にとって「意味を形成している文脈」は、その人の知性と関心によって照らされている「光景」であると思えます。私はこのイメージを、炭鉱夫がヘルメットにつけていた「ヘッドライト」と、そのライトが照らし出す光景にたとえてみたいと思います。昔の学者で、私たちにものが見えるのは、目から光が出ているからだ、と主張した人がいたようですが、私の説はその改良版です。

鈴木:ハハハ。目から光が出ているからだ、と考えたのはたいへんメルヘン的でもあり、芸術的インスピレーションさえ感じられ、楽しくなります。ともかく、自分の前に見えている世界は、あくまでも、そのひとの知性によって照らされている光景だというあなたのお考えには賛成ですね。例え辺境の地の農民でも、貧困故に学問を受ける機会を奪われたひとで深い知性を持っているひとはたくさんいますから、そういう意味の知性でもありますが。

加藤:なるほど。お説の通りです。私の考えでは、人は各自の帽子に、その人の知性や関心、興味が及ぶ範囲での「ヘッドライト」をつけているのです。そしてそのライトに照らし出された範囲だけが見えるのです。当然その人の立ち位置、方向、角度によって見える世界が違い、誰一人、同じ世界を見ることはありません。また非常に強い光源の、しかも広角な光源をつけて「世界」を見ている人もいますが、弱々しい光や、或いは狭い射角しか持たずに「世界」を見ている人もいます。どのような「世界」であろうとも、人はそのライトに照らされている範囲だけを見、その範囲だけで意味解釈をおこなうのです。それ以外の、照らされていない世界は、その人にとっては闇であり、意味を形成するにはいたりません。

鈴木:外国を旅行する時、団体で引率、解説者がいる場合と、一人旅の場合とは違いますが、一人旅の場合、何の予備知識も収集することなしに現地に入ると、一般的には目に見える、眼前の光景だけが収穫で、えらい損をすることが多いです。しかし、事前によく調べて行くと、見逃しては損をする重要スポットも分るし、その地の歴史的背景もわかり、たくさんの収穫を得ることができます。ぼくはその意味で、外国の一人旅はそのひとが掛けてゆく眼鏡次第で収穫が変わると思っています。つまり、よい眼鏡はよく情報を仕込んだよい眼鏡で、悪い眼鏡は情報の乏しい素通しの眼鏡です。あなたのいわれるヘッドライトと同じです。もっとも、旅の目的が情報の収集でなく、心を空にして、目に見えないものを心で感じたいという場合はこの眼鏡論は当てはまりませんが。

加藤:まったくその通りですね。もちろんたとえは「ヘッドライト」でなくて「眼鏡」でもいいのですが、一応ヘッドライトでいきましょう。たとえば、自分の頭の角度を振って視野を広げようと努力する人もいますが、自分にいま見えている世界の光景に満足して、それがすべてであると思いこむ人もいます。このような人にとっては、頭を動かすこと、そのものが大儀なのです。このアナロジーを馬鹿馬鹿しいとお思いかもしれませんが、私はこうした「世界の見え方の違い」が、価値観の違い、コミュニケーション・ギャップを生んでいるように思えてならないのですが、いかがでしょうか。

鈴木:視野を広げれば広げるほど、この世の認識は深まりますね。そして、広げるということは、自分よりも考えや知識が深いひとたちの知的富を吸収して成り立つことでもありますね。昨今の地球規模の経済問題の深刻さなども、経済、政治の専門家からの情報を取り入れなければ、歯が立ちませんものね。しかし、一方、本当に大切なことはたんに視野を広くすることではなく、専門家たちの部分的な小さな知恵を総合して、大きな知恵を深くすることだ、という面もあると思います。アメリカインディアンは、すべての物事を皆で決める時に、その決定が、三世代後の子孫を幸せにするかどうかで決めたとも聞いています。その深い知恵一本で地球が運営されて来たならば、今、世界規模で持ち上がっている富みの不均衡問題、環境破壊問題などは起り得なかったと思われます。しかし、ぼくがそのアメリカインディアンの知恵を吸収したのは、「自分の頭の角度を振って視野を広げようと努力」した結果です。

加藤:その通りですね。あなたはご自分で世界を調べ、実地に見聞するだけでなく、多方面にわたって関心の枠を広げ、多くの専門的な知識を吸収されておられますからね。また、前向きに他の人の意見を聞き、それを素直に理解しようとする、前向きの精神をお持ちです。私はこの点でもあなたに感服しています。ところで、あなたのような人にとっては、狭い世界に閉じこもり、そこからの視野しか持たない人々は、じつに困った人々ということになるでしょうね。そのような人々が「三世代も先のこと? 冗談じゃないよ。オレにとってはただ、いま自分にとって都合がいいかどうかだけが問題なんだ」といって、あなたの示す世界改革の方向に頑固に反対するとしたら、どうでしょうか。この場合、両者の間には、現に両者に見えている世界=文脈そのものの違いがあり、そこから帰結される結論の違いがあるのです。そして両者がどう歩み寄っても、認識を共有する方法は見つからないでしょう。というのも、ヘッドライトに照らされて見えている世界は、その人の全生活史、全知性、いいかえれば、その人の人生そのものだからです。

鈴木:お褒め頂き嬉しいです。まったくあなたが言われるように、世界をなるべく広く、深く理解できないものかと発想するクセのひとと、世界を目先にことだけで狭く、浅く理解して十分なのだと発想するクセのひととは、常に対立していますからね。ひとは猿から進化した筈だという進化論者の啓蒙に耳を貸さないひと、あるいは胎児の時に男女の性別が分かれるけど、うまくゆかずその中間の性同一障害者や同性愛者が生じる筈だという自然科学者からの啓蒙に耳を貸さないひとはいますからね。啓蒙されることに素早くヘッドライトを振り向けるひとと、啓蒙に対して決してヘッドライトを向けないひとがいますからね。まさに文脈と結論の違いですね。後者は自分の実人生はじつは、過去の啓蒙が実現した集積から成り立っていることに気付かないだけなのですがね。

加藤:ところで私のヘッドライト理論によると、いわゆる「民主主義」に、ちょっとした問題が生じます。いわゆる民主主義には、「一人の人の尊厳は、他の一人のそれと変わらない」、それにまた「置かれている立場の違いから認識の相違が生まれるのであって、一方の意見の重みは他方の意見の重みと変わらない」「相互に自由に討議し、情報を共有すれば、どこかに妥協点が見つかる」「かりに妥協点が見つからない場合には、多数決の原則を用いれば、ひとまずベターな意思決定できる」という前提があると思います。けれども、私のヘッドライト理論によると、これら民主主義を支えている前提は、すべて根底からくつがえってしまうのです。

鈴木:あなたの今いわれる四つの前提の頭に仮にABCDと識別記号を振ってみましょう。AとBは、あなたはまぁ、一応了解できるかも知れませんね。「立場の違いから認識の相違が生まれる」とは、あなたのいわれる「文脈と結論」とほぼ同じことですからね。しかしCはもしかしたら、あなたは承服できないかも知れませんね。あなたは「どんなにやっても妥協点はみつかるわけはない。なぜなら、そもそもヘッドライトに当たって見える視野という前提が違うのだから」といいたいのかもしれません。そして、「それなのに、多数決で決めるとは全くナンセンスだ」といわれ、「だから、多数決原理の民主主義などというものは信用できない」と考えておられるのかも知れませんがどうでしょうか?

加藤:まさにその通りですね。それに私はいい忘れてしまいましたが、私がここで「民主主義」といっているのは、政治のあり方についての民主主義、すなわち、「議会制民主主」のことを念頭においていると考えていただいてけっこうです。ただ私は「民主主義は信用できない」というのではなく、「多数決原理できめる結論は、かならずしも集団に利益をもたらさない」と思っているということです。というのも、大部分の人々のヘッドライトが固定的で、視野が狭いとすれば、どうしてもそうなってしまいますからね。

鈴木:「視野が狭いひとたち」の方が多くて、多数決でそのひとたちの考えが勝てば、たしかにあなたが言われるように、「多数決原理の議会制民主主義」が「ベターな意志決定ができる」と考えるのはナンセンスですね。

加藤:ですから、会社の運営や学校教育の現場などでは民主主義は採用されません。全社員が会社の運命について平等な投票権を持っているような、民主的運営をする会社があれば、会社はたちまち潰れてしまいますし、学校のクラスでは50人の生徒のほうが無知であり、間違っていて、先生一人だけが正しいということが、いわば当然なのです。つまり、幅広い文脈解釈のできる人、すなわち高い見識の人が指導者でなければならないということは、誰にでもよく知られた、普遍的な原理です。ところが政治の世界では、この原理は度外視されてしまいます。それは、この原理の前に、私が列挙し、貴方が名づけられたABCDの前提がきてしまうからではないでしょうか。

鈴木:たしかに言われる通り、会社の運営や教室運営では多数決の原理は成り立ちませんね。例えば、会社は、経営者が自分のヴィジョンを持ってその実現を目指すものです。そのヴィジョンとは、社務を通じて社会貢献をし、見返りに最大利潤の追求をし、会社の永続を計り、経営者自身は人生の自己実現を目指すことです。経営者はそれらの達成の前に立ちふさがる諸問題に対して、解決して行けばよいという単純な構造です。社員たちの意見は参考に過ぎず、多数決で決めていたら諸問題を解決出来ず、会社は倒れてしまうでしょう。

加藤:もっとも、会社も経営者によっては民主的経営を指向している会社があるかもしれません。また、社長がなにもかも一存で会社経営をするのではなく、取締役会や株主などによって規制されるわけですから、会社経営における意思決定を、かならずしも一律に論じることはできませんけれど・・。

鈴木:それはそうですね。ぼくはいつも、話を短くするために、かいつまんで話していますので、漏れ落としが出るのは承知しています。しかし、こと政治の世界は会社経営の構図とは全く違います。一国には常にAB二人の「国民」がいて、二つの「民意」があります。したがって、ヴィジョンも完全に二極に分離しています。Aのヴィジョンは金力、権力、才能、活力、幸運等に恵まれた階層のものです。どこまでも限りなく夢を拡大したい、必要な規模をどこまでも拡大したい、利潤を無制限に確保したい。経営の温存が第一義で、労働力は第二義、経営状態に合わせて自由自在に雇ったり、やめさせたい。これと真っ向から対立するBのヴィジョンは、金力、権力、才能、活力、幸運等の照明を強くは浴びられない階層のものです。経営者の夢、結構。規模の拡大、結構。利潤の追求、結構。わたしたちはあなたに付いて行きましょう。ともに会社を盛り上げましょう。でも利潤の多くの部分をわれわれにもっともっと与えてください。所得累進課税率をもっと高めてください。法人税をもっと高めてください。それをもっと配分してください。労働力を第二義とした使い捨てをやめ、自由にやめさせないでください。やめた時にすがれる社会保障の原資をもっとプールし、手厚く分配してください、といったわけです。

加藤:あなたの、もちまえの二項対立図式が出てきましたね。

鈴木:ハハハ、考え方のクセって、死ぬ迄直らないのでしょうね。しかし、Aのひとたちは、激しい競争社会で成功するぐらいのひとたちですから、気性は激しく、エゴ意識は強烈です。ましてや誰でも既得権を失うことは大嫌いです。Bの主張、お願いに対して「あぁ、そうですか。お宅らの気持は良くわかります。仲良くやりましょう。利潤のかなりの部分を気前よく、お宅らに提供しましょう」とは言いません。もし、AとBの間をとって、両者が互いにかなり満足できる政治ができるなら、「多数決など必要のない、高い見識に基づくベストの決定、政治」になるのではないでしょうか。しかし、AB二つの対立は人類永遠の業であり、現実です。各階層の代弁者である政治家たちは、常に大きな局面ではベストを得られないので、細かい部分々々の局面で激しく議論しています。しかし、ヴィジョン自体が対立してまとまらない以上、武力闘争を避けるためには「多数決原理」によってその場、その場を妥協して、しのいで行くしかないのでないでしょうか。その意味で、ぼくは「多数決原理」に人類が苦渋の中で創出した深い知恵を認める立場です。すっきりした自己決定から成り立つ会社経営と妥協の産物であるまつりごとでは違う面があるのではないかと考えています。

加藤:なるほどね。今回も、私としてはあなたの、AB二項対立の議論には立ち入らないことにします。また、政治における民主主義が、他に変わるいい方法がないということで、擁護せざるをえないという点に関しても、私は認めることにします。けれど、実際に私たちが集団で意思決定するときに、あるときはリーダーに任せっきりにしていわれるままに従ったり、あるときには「俺に任せろ」などといってみたり、あるときには「多数決にしよう」といってみたり・・など、じつは多様な方法を適宜選択し、あるいは組み合わせて用いているのかもしれませんね。

鈴木:そうですね。ひとの数だけ考え方に違いがあるのですから、そうなるのは現実ですね。

加藤:ところで本題に戻って、私は今回、次のような結論を出して見たいと思います。・・私たち個々人にとっての「世界」とは、各人のヘッドライトに照らされた「世界」であり、その奥行き、広がり、意味は、各人の立ち位置、関心、知性によって異なる。また各人にとっての「世界」は、その人に見える「光景」「状況」、あるいは「事象」についての、各人の文脈読解力に応じて、つまり解釈によって決定されている。だから各人の解釈とは別物の、「客観的な世界」などというものはどこにも存在しない。少なくとも各人にとっての「意味の世界」は、各人ごとにそれぞれ別物である。・・このようなものです。いかがでしょうか。

鈴木:なるほど、なにか「客観的なものがある筈だ」という考え方があなたの厳密な手続きによって、単なる幻想神話にすぎないとして粉砕されたのは意義があり、痛快ですね。ただ、ふと思うのですが、例えばある大変優れた映画があったとして、世界中の雑多なひとびとが見て、皆おしなべて感動したとしますね。この場合の「感動」は、ひとそれぞれの視野の幅の違いを超えた人間の根っ子に「客観的に存在するもの」と言えるものでしょうか?

加藤:最後に大きな問題を提示されましたね。今あなたによって提議された問題は、「人々は、互いの大きな認識の偏差の中で、どのようにして共通の感情や認識を持ちうるのか」ということに関係していると思います。それは私がこの対話シリーズの結びとして検討したい課題に合致しますので、次回からこの問題に入っていくことにしましょう。それでは、今回も有意義なお話を有難うございました。

   
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