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言葉と神
 
第17回  言葉のないところに感動はない

加藤:前回あなたは、対話の終りのところで、世界中の人々が感動するような大変すぐれた映画があるとする。このような「共通の感動」のようなものがあるとすれば、ひとそれぞれの視野の幅の違いを超えた人間の根っ子に「客観的に存在するもの」があると言えるのではないか、ということを言われました。私は今回、あなたに投げかけられたこのテーマを掘り下げて見たいと思います。

鈴木:いやぁ、それは嬉しいですね。

加藤:あなたが人類共通に「客観的に存在するものがある」のではないか、といわれたのは、私が言葉の偏差、意味の偏差、またその偏差を作り出している個々人の状況の違いから、各人は各人の「別世界」を持っているのであり、それが完全に一致することなどありはしないのだという意見を述べたからですね。

鈴木:まぁ、そうですね。

加藤:でも、私はこの世の中に「客観的に存在するものはない」と言ったのではありません。私の考えでは、この世界の事物はおそらくは実在するにちがいないものだと思います。だから私は、かつて観念論者が述べたように、世界が各人の主観の産物にすぎないなどというつもりはありません。私が言いたいのは、事物を表現しようとするときに用いる言葉の意味には偏差があり、そこから各人に異なる世界が形成されるのであり、同じことを同じように述べたつもりでも、その食い違いを完全に取り除くことはできないということなのです。

鈴木:なるほど、その二つは違うのですね。

加藤:おそらくあなたがいいたかったのは、「感動が共有できた」ということは、「認識を共有できた」と考えてもいいのではないか、ということですよね。

鈴木:そうです、そうです。

加藤:しかし「感動」という概念が曲者です。「感動は言葉なしで、あるいは言葉を超えて体感できるものだ」、という人がいるかも知れませんが、私は、人は言葉なしにどんな感動をも味わうことはできないと思います。言葉なしのショックは単なる生理的な衝撃であり、そのことが言葉によって意味づけられない限り、私たちには何の意味もないのです。

鈴木:では、それについて検討を始める際に、「言葉による感動」と「言葉なしの感動」の二つについて、何か実例をあげては頂けないでしょうか?

加藤:あなたのご質問の中に、私は悪意のない罠を感じます。というのも、私は「言葉のない感動は存在しない」と考えているのですから、私がご質問の「言葉なしの感動」の例をあげると、あなたの二元論的罠にはまってしまうのです。まあ、あなたの「言葉なしの感動」を、私の「生理的ショック」に置き換えて例をあげれば、人が物に「ゴツン」とぶつかったような場合です。しかしこの事象についてさえ「モノ」に「ぶつかる」、「ゴツン」「痛い」などの言葉を排除して説明したり、考えたりすることはできないわけですから、言葉がなければ、単なる「物的ショック」でさえ、その意味がその人の意識に到来することはないといえますね。

鈴木:ちょっと戻りますが、ぼくはあなたがひとは言葉によって物事を認識すると言われる時、もっともだと思います。「わたし」「・・と」「認識する」という言葉を知らなければ、そういう認識が出来ませんからね。そして、ひとのヘッドライトは千差万別だから、認識も千差万別だ、というご意見にも賛成します。ただ、それにもかかわらず、差違のない同じ認識を持つことが、ひとにはあるという例外というか、不思議があるのではないか、と言いたいのです。

加藤:全くですね。人々が、それぞれ違った自己認識、世界認識を持っているのに、互いに共通の感情を持ったり、共通の認識を持つということはじつに不思議ですね。お互いに意味の違う可能性のある言葉を用いあっているのに、きちんと意図が通じ、コミュニケートでき、あるいは感情を共有しあうことができる、これは本当にいいことであり、私たち人間が求める最高の状態といっていいでしょうね。しかも、それは言語や認識の偏差にもかかわらず可能なのです。

鈴木:例えば、過去のイタリア映画「鉄道員」を見て、字幕に翻訳されて、映画館があるくらいの多くの国のひとびとは、感動する、というか、ホロリとするかと思います。中味は頑固すぎる父とその家族の人情ばなしに過ぎないと言っては、身も蓋もないですが。ホロリとする時、ひとは「わたし」は「今」「ほろりとした」という言葉を脳裏に浮かべなくとも、ホロリとしてしまうと思います。感情が言葉の先に来る現象ですね。そのあと、自分は何故ホロリとしたかを言葉で、自分に説明出来ると思います。

加藤:同じ映画を見て、違う国の人が同じ感情を抱く、A国の人がほろりとするところではB国の人もほろりとする、これは十分ありえることで、そういう映画や文学が普遍的価値を持っていることは間違いありませんね。ただ、なぜ「ほろり」とするのか、その感情が言葉以前に感じられるという、あなたのお説は受け入れにくいですね。どの国の人々もそれぞれの国の言葉を学ぶことによって「家族」あるいは「父と子」「仕事」という共通の言葉=概念を持つようになるのであり、その概念を所有した上で映画を見ているのです。人々が映画を見て抱く感情は、ちょうど、コンピュータのいろいろなプログラムがOS(オペレーティング・システム=基本ソフト)の上で動くように、人々の言葉=言語の上で発動されているのです。

鈴木:なるほど、うまい説明を持ち出されましたね。「どの国の人々も」「共通の言葉=概念を持っている」ということになれば、それは、まるで「お話の中の、孫悟空が暴れてもその外には出て行けないお釈迦様の手の平」みたいに大きなものですから、人類が皆、同じ感情を持って、その上で暮らしていても不思議ではなくなりますね。そして、それは事実だと思います。ぼくは、テレビで南北朝鮮のひと達の再開の場所で、皆、感極まって抱き合ってわんわん泣いているのを見た時、あぁ、これは、「わたしは今、悲しくなった。だから、泣くことにしよう!」などと、頭の中で、ことばを組み立てる前に、その何十分の一秒前に、言葉以前の感情が来た結果だと思いまいましたが、「お釈迦さまの手の平」の上で、誰でもがすでに、「肉親との再会は激情を伴う」という基本の公式を体内に具え付けられていたのですね。

加藤:あなたのいわれる「お釈迦様の手の平」という表現は、おそらく、私が都合のいい「ア・プリオリ説」を持ち出したと言う意味での皮肉だと思いますが、それは違います。人は動物状態からスタートして、言葉を学び、概念を習得するのです。ですからどんなにいい映画でも、子供や知恵おくれの人が見たのでは理解できません。大人たちが映画を見て泣いていても、子供にはどうして泣いているのかわかりません。映画のいいシーンで泣けるようになるには、あらかじめ「言葉」の習得が必要なのです。

鈴木:赤ん坊は母親の体内から押し出されてこの世に出現し、肺呼吸に切り替わった瞬間、ぼくには悲しそうとしか思えない泣声を発します。まるで、「ああぁ、とんでもない所に来てしまった!これからは苦労の連続かぁ!」とね。ニコニコ笑って産声を上げる赤ん坊はいませんからね。ハハハ。そして、赤ん坊たちはあまりにも悲しそうに泣くので、親たちは保護本能を刺激され、乳を与え、保護しないではいられません。ぼくの詩的イメージによれば、この世を生きることの核心は悲しみなのです。産声はその象徴です。人間の身体の中には大きな涙の大海があって、ほんの一寸したきっかけで、ひとは瞬時に、その海から涙を噴き出させるのです。愛する者と死に別れをする時、ひとは号泣したり、涙を流さずにはいられません。ぼくはこの涙の現象を、個人的に言葉を瞬時に組み立ててから、泣くのではなく、激情の奔流が先で、言葉は後かな、と思っていましたが、「お釈迦様の手の平」の概念を用いれば、その前に、悲しみの公式をみんなすでに獲得していたわけですね。

加藤:家族の再会のときの感情、家族との死別のときの感情については、上の私の説明でご納得いただけると思います。赤ちゃんの産声を悲しみの表現だとするあなたのお説は、非常に古くから言われているものですが、それは動物の鳴き声の解釈と同じで、憶断の域を出ないでしょう。私はむしろこれを最初の呼吸と肺と声帯との関係で説明するほうが理に合っていると思います。ただし、「赤ん坊の泣き声は悲しみの表現だ。・・これは自分の詩的イメージだ」といわれるのであれば、それに対して私は何も文句をいうつもりはありません。

鈴木:では、これは如何でしょう?本能的行為、すなわち快く眠りにつく瞬間、旨いものにかぶりついた瞬間、男女が合体した瞬間、これらの時に全身を包む歓喜感も、言葉より先に感覚がまず来るような気がします。これについてはどうお考えですか?その感覚は個人差を超えて普遍的です。かつて、インドでいたという狼に育てられ、文明社会に引き取られたた幼女の頭には「わたし」も「嬉しい」も、一切人間の言葉はなかったと思いますが、もし、そのあと育ての母狼に再会させたら、むしゃぶりついて歓喜の感情、あるいは認識が全身を包んだと思います。これは、言葉がなくとも人間として、本能的な感情を表わすことの出来る極端な例です。以上、ぼくは個人のヘッドライトの中味の差違を超えて、人類に共通して存在する悲しみや喜びの感覚、認識もあるのではないか、という考えを持ってきましたが、あなたと、こうして付き合わせてみると、あまり違いはなかったようですね。ぼくも、それらの普遍性を「お釈迦様の手の平」と考えれば同じですから。もっとも、正確にいうと、ぼくは言葉の自覚の何十分の一秒前に激情が到着したと考えていたのですが、あなたは、いや、そう見えても、実は、その前にすでに感情の土台の構造は万人の中に具えられているのだといわれるのですから、そこは違いかも知れませんね。ふと、思い出しました。誰だったかのことば、「ひとは悲しくて泣くのではない。泣くから悲しいのだ」と。

加藤:それは、それはおそらくアランの言葉ですね。アランは「動物はすべてに屈し、そこで何も知らぬ。事物も自身も何も知らぬ」、なぜなら彼らが言語を持たないからだ、といっています。たとえば、忠犬を扱ったような映画が映画館で大勢の人を泣かせます。けれども、あれはトリックであって、フイルム編集のプロセスで主人思いの犬が作られ、生まれるのです。犬が小首を傾げるシーンでは、見ている人は「あ、彼は主人の危機を察知したな」と思います。犬が線路伝いに走っているシーンでは、「彼はひたむきに主人のあとを追っているのだ、ああ、何てけなげなのだろう」と思います。私たちは動物たちの感情を自分の言語体系の上に勝手に作り上げ、それで同情したり、泣いたりするのですね。私たちはこの点では忖度の名人なのです。

鈴木:そのアランの言葉を、ぼく自身が理解できるように勝手に言い直してみると、「動物というものには、およそ主体性の意識というものがないのだ。彼らは、自分を取り巻く動物やひととの関係や構造については何も知らないし、自覚もない。自分が今、そう置かれている状況に唯唯諾諾と従っているだけなのだ」となります。この言い直しへのご批判には甘んじるとして、そうなったのは、犬どもが言語を持たないからだ、と言われますね。確かに映画になった忠犬ハチ公を演じている役者の犬は、映画がつくり出す真実を生み出すための道具、トリックでしかありませんね。しかし、実際に日本に存在していた、7年間、ご主人を駅で待っていた忠犬ハチ公はどうでしょう?「おかしいな?いつも帰って来る主人が来ないのはどうしてだろう?ぼくはあのご主人様が大好きなんだ。あの人がいないと困るんだ。悲しくなって来る。よし、いつまでも待つぞ!」という言語構造ではないにしても、それに良く似た感情構造が体内に存在しなかったでしょうか?そこで、ぼくはハチ公は「自分という主体意識があり、人間のご主人との間の親密な関係を認識し、いつまでも帰宅しないで、自分を悲しませている今の状況に唯唯諾諾とはせず、関係を改善するために、自分として唯一出来ること、駅で待つ、という行為をするのだ」と考えたいと思うのですが?

加藤:あなたが忠犬ハチ公に人間並みの言語的理解を想定されるのはご自由です。私にしても、ハチ公を実際に見たわけでも、ハチ公になったわけでもないので、彼の意図は分りません。アランにしても、彼は「動物は何も知らない」といっているのですが、アランが人間以外の動物になったわけではありませんから、本当に彼のいう通りなのかどうか分りません。ただ、私たちは動物が示すしぐさや習性をつい人間語の枠組みでとらえたくなってしまう・・これはたしかですね。私がアランをすばらしいと思うのは、「人間的な言語の枠組みで動物を見るのはよそう」といっている点なのです。なぜなら、それは、私たちが人類初期の思想(臆断と事実を同一視する)に安易に立ち戻ってしまうことを意味し、厳密にものを考える態度を捨ててしまうことを意味するからです。

鈴木:そのアランの厳密な思考の態度は尊敬に値するものですが、ぼくなどは、動植物からバクテリアにいたるまで、その進化や天敵から身を守るための擬態の神秘的な有様に触れると、つい子供っぽく、まるで、彼らが人間のように考えて、考えて、考え抜き、進化や擬態を押し進めて来たのだろうか、などと詩的なイメージでとらえてしまいます。進化については中村博士の中立説が有力で、意志、意欲より偶然の問題とされているようで、アニミズムと童話的人格視で世界を見勝ちなぼくなどは、こうした科学的な議論では幼稚な立場に立つのかも知れません。

加藤:私たちのすべての感情と思想は言語=概念体系という、基本ソフトの上で意味を獲得すると私は思います。もしこの基本ソフトがなければ、知覚や感情はその人のものにならないし、表出されることもないと私は思います。問題は、この対話のもう一つのねらいである「言葉=基本ソフトにあれほど大きな偏差があるにもかかわらず、どうして人々が共通の感情や認識を共有できるようになるか」ということだ、と私には思えます。しかも、この点を考える上で、あなたの提示された「感じとりかたの共通性」の問題が、とても大切なポイントだと思うのですね。

鈴木:ここで、大体、あなたの今回の提出されたテーゼは論じつくされたようですね。ところで、蒸し返して失礼なのですが、ぼくが先刻言い出した、食欲、睡眠欲、性欲などの本能的な欲望は、「あぁ、自分は○○をしたくなった」と、思考し、頭の中で論理の構成をしてから、身体がそうなるのか、それとも、そう身体がなる/感じることが先なのでしょうかね? すくなくとも、本能に関するかぎりは、感情が先のような気がするのですが? これと関連して、もし、アランが「ひとは悲しくて泣くのではない。泣くから悲しくなるのだ」と言ったとすると、ぼくはアランの真意が分らないので、勝手に、「ひとは悲しいという感情を言語的に理論構成してから泣くという生理現象に入るのではない。泣くという生理現象がまず先で、そのあと、泣いて、涙を流している内に、自分の悲しみの原因が論理的に頭の中で構成されて、悲しいという意味を自覚するのだ」と言ったのだろうか、と推論してしまいます。もし、そうだとすると、成人した、知恵遅れではないひとが「泣く」に関するかぎり、それもまた、本能のように、言語よりも感情が先になりますね。それらの感情はひとの基礎なので、あなたのいう偏差の強いヘッドライト認識の下部構造に居座るOS/基礎ソフトなのでしょうか?

加藤:動物も人間も基本的には本能に従って行動をします。その行動の中には、いま私たちが外から観察したとき、「感情表現をしているんだ」と思える行動も含まれています。これらの行動は言語以前から行われているのであり、あえていえば、「言語なしで」でおこなわれています。しかし自分のしていることや他人がしていること、あるいは他の動物がしていることの意味を理解するのは言語によってです。言語を持たぬ当事者には、言語を持った観察者にはそれがいかに激情的な、感動的な場面であるように見えても、自分がしていることの「意味」を感じることも、説明することもできません。彼は泣いたり、笑ったり、激情的であったりします。しかし「彼にとって」それは「意味」ではありません。なぜなら意味は言語によってのみ招来するからです。

鈴木:そうかもしれませんね。

加藤:いまかりに私とあなたが、一緒にあなたの言う狼少女を直接観察しているとしましょう。ここで大切なのは、彼女の行動やしぐさ、つまり表現を見て、私たちが感じた「一連の意味」を、彼女の内面に、勝手に移し込んではならないということです。それをやると犬の映画を見るときと同じになってしまいます。私たちは、自分が言語体系の中で理解したことを、それが犬であれ、狼少女であれ、言語を持たぬもののうちに想定し、あたかも彼らが意味を承知しつつそうしているのだと思い込んでしまうのですね。そして彼らのうちに「言語なしに意味が、すなわち感動や感情が存在する」ように思って驚くのです。これはすでに言語を持ち、知性をもってしまった人間の欠陥ではないでしょうか。あなたは先ほどアニミズムといわれましたが、この意味でアミニズムは主知主義の産物なのかもしれません。

鈴木:なるほど、アランが「人間的な言語の枠組みで動物を見るのはよそう」といい、それでは、臆断と事実を同一視する古代人に立ち戻ってしまうからだ、とあなたがいわれることが、今回の大きな結論の一つなのですね。しかし、あまりにヒトと動物を峻別するのはどうでしょうか。学門の世界で、ヒトの言語の枠組みにとらわれずに命名するのは難しいでしょう。例えば、ニワシドリという鳥はメスを呼び寄せ、交接に成功するために、地面にあずまやのようなものを作り、周りにメスの好む青い色のものを一杯散らすのは有名ですね。このニワシドリの命名にあたっては庭師のように器用に、あずまやを作るという意味で、ヒトの言語の枠組みで彼らを見ていますね。この種の例はキリがありません。また、類人猿のボノボは、類人猿では珍しく対面式で交接したり、絶えず射精なしの交接をしたり、メス同士で性器接触を絶えず行なうというのも最近の知見ですね。この時、学者はそれは、コミュニケーションの円滑化のためだと憶測しています。これも、いわばヒトの枠組みで見ている評価ですね。最近特にクジラやイルカなどの研究が進み、彼らにはヒトと類似の高度の感情やコミュニケーションがあるとよく言われますね。昨今、遺伝子のヒモの形や機能が生き物全体に共通していることが分って来たので特にそうですが、ヒトがヒトの言語の枠組みで動物を見ようと見まいと、生命体全体が逆に、共通した要素で結ばれている、という認識が強くなって来たという面もあるかと思います。生物学における生物の行動に関する知見などに触れると、ヒトと生物の類似性の研究も大きなテーマになっているようにも思えます。ヒトと動物の峻別はやはり必要でしょうか?

加藤:全くその通りですね。あなたのご指摘は、期せずして私が得たいこの対話全体の結論に近づいておられます。私たちは基本的には動物です。だから、動物が私たちに似ているのではなく、私たちが動物に似ているのです。言語の枠組みを駆使して、動物のうちに人間との類似を発見して驚く人々が犯す過ちは、「動物が人間に似ている」と思うことです。私は「私たちが動物に似ている=私たちが動物なのだ」と思います。動物に人間性を見る人々の考え方は、事物の順序を逆転させているのです。アランの「峻別」は、「この点を間違えまい」という戒めだと私には思えます。

鈴木:最後に、蒸し返しで恐縮ですが、アランがいう「泣く」と「悲しみ」についての言葉の真意を教えて頂けませんか?

加藤:私が思うに「泣く」とは生理的現象です。それは目から涙が出ることです。その原因はさまざまで、たとえばテレビで人が泣いているのを見て、理由ははっきりしないのにもらい泣きする、などというのは「泣く」が刺激と反応の関係であることの証左です。これに対して「悲しみ」は情念です。それは言語によって翻訳され、各人の中で意味を獲得した感情です。ですから「悲しみ」の感情が刺激となって「泣く」を招来することは当然のことです。しかし「泣く」という行為が、逆に「悲しみ」の情念を作り出してしまうということ、これもありますよね。いずれにしても、生理現象は情念の母胎です。このことを誰よりも熟知していたアランは、少々誇張した表現で「ひとは悲しくて泣くのではない。泣くから悲しいのだ」といったのです。

鈴木:なるほど、誇張の表現なのですね。でも、<泣くから悲しい>というのは、悲しみという言語構造の成立の前に、たまたま非言語構造の情念が先行する可能性もあるのだという貴重な証言として受け取りたいと思います。

加藤:いや、今回も楽しい対話をさせていただきました。それではまた次回。

   
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